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質問の内容は要約です。
2020.11.24 -念想観について詳しく書かれた本をご紹介頂けないでしょうか?‐
H.S様からの質問(2020.11/7)
私は、何事にも気に病む性格を何とかしたいと3年前から坐禅を始めました。
坐禅会に参加しておりますが、お師家さんがいるわけではありませんので、禅や(原始仏典による)仏教の自主学習をしています。
●念想観について詳しく書かれた本をご紹介頂けないでしょうか?
●米国でマインドフルネスの一種としてでしょうか?自己への慈悲心が大切だと言われています。
仏教において、自己への慈悲心が書かれている経典などはあるのでしょうか?
また、釈尊は「自己より愛しいものは存在しない」と認めているのに、なぜ自分は自分自身を痛めつけているのかが分かりません。
回答(2020.11/12)−11/12に回答したものに加筆して11/24に公開しました。
●念想観について詳しく書かれた本ですが、私は私のHPに書かれた以上に詳しく書かれたものを知りません。私のHPを読まれれば充分に事足りると考えます。
但し、私のHPの内容は深く考える為のものではなく、実践の為のものです。
非思量の実践を通して理解できるものであって、実践なくして読み込んだところで理解できないでしょう。
●「自己への慈悲心」
私の勉強不足ですが、このような言葉を私は初めて目にしました。
「自己への慈悲心」という考え方や言葉は禅門に於いてはありません。
禅門の修行に於いては、自己とは捨てるべきもの、忘れるべきものであり、その自己への慈悲等は自己への執着を離れなくさせるものですから害あって益なしです。
「釈尊は自己より愛しいものは存在しないと認めている」
と書かれていますが、私なそのようなことは知りません。
釈尊の現在残されている言葉は、釈尊自ら或いは側近の者が、その場でその通りに文字に起こして記したものではありません。
全ては釈尊の死後、多くの弟子達が暗誦し、口で伝えてきた言葉を散逸し忘れ去られないようにする為に、文字に起こしてお経という形で残したものです。
現在残されている釈尊の言葉は、正しく釈尊の言葉であるかどうかの確証は誰にもないのです。そして、これからもないことと思います。釈尊在世に書かれた「釈尊は自己より愛しいものは存在しないと認めている」という文献(お経)が一つも存在していないからです。
そのような言葉は、自己が真に苦悩から解放される為には何の意味もないことです。
あらゆる名言や癒し系の言葉は捨てて、非思量の状態を相続するしか自らの心の問題の解決の道はないのです。
自分自身を痛めつけている理由も、その因果関係も、それから解放される方法も非思量の中にあります。
実際に非思量の相続をやってみて下さい。
「何事にも気に病む」ということですが、気に病んだ状態の時に、その思考を止めてしまうことです。それ以外に解決方法はありません。
自己を正当化することも反省もいりません。即、考えを止めてしまうことです。
何事も気に病むのは自分の考えを止めないからです。
何事に対しても自分の考えを理屈なく即、止めることです。
これが一念不生(第四章 No7参照)の状態です。これを繰り返していけば、日常が一念不生で全て調っていくことがはっきりと分かってきます。
日常生活が一念不生で全て調っていくことが明らかになってきますと、何事にも気を病むことが少なくなります。
この一念不生は非思量のことでもあります。
私の「坐禅の実践と自意識の解放」は曹洞禅の立場から書いたものです。
私の書いたものを読む姿勢としては理解出来ても出来なくても、何度も読み返すことです。
何度も読む返えしていると、分からない処が明らかになってきます。
そこは考えても理解しようとしても無駄ですので、飛ばして読んでいくことです。
分からない処は自分の修行の力量が浅いから分からないのですから、そこを理解したければ、非思量の修行をすることです。
非思量の相続を暫らく熱心にやっていますと力がついてきて、ある時、今まで分からなかった処が急に分かってきます。
この繰り返しで非思量の修行を進めていくのです。
私の「坐禅の実践と自意識の解放」は佛法といわれるものではなく、身心脱落(解脱・悟り)に至る為の修行について、非思量の相続を実践していく中で、私が疑問に思っていたことや明らかになったことについて書いたものです。
明らかになったことについて因果関係を示し、分かり易く事細かに説明してあります。
禅籍(法語・語録等)を読む人は、自分で理解できるように解釈を変えてしまうことが多いのですが、解釈を自己流に変えられないように丁寧に多面的に書きました。
独りで禅の修行が出来るように書いてありますから、考え悩むことはないはずです。もし、私の書いたものを読んで考え悩むようなことがあるようでしたら、それは読んだ人が実際に非思量の修行をしなかったことに原因があるのです。
禅の独修(師につかずに一人で禅の修行をすること)は道を誤るから宜しくないと指導したり説く禅僧(師家)がよく見受けられますが、近代・現代の禅門に於いて、私の知る限りでは、正師と言われる禅僧(師家)は一人として存在しないのです。ないものねだりなのです。
正師のいない時代では独修しか方法はないのです。
江戸時代の原の白隠禅師も20代に正受老人という師について公案禅をやり大悟したことになっていたのですが、25才頃、駿河の自坊(自分のお寺、僧籍を置いてある寺)に戻ってから、その大悟は間違いであったと分かり一人で修行をやり直しているのです。
そして、本当に大悟(身心脱落)したのは42才です。その時の大悟を証明した師はいないのです。無師独悟です。
無師独悟というのは、師につかず、且つ、師の指導を受けずに一人で祖師の法語や語録をもとに修行し悟ることを指します。
白隠禅師は飯山の道鏡慧端(正受老人)という師について修行して間違い、独修して正しく身心脱落をしたのです。
修行のやり直しをして独修して18年かかって大悟(身心脱落)したのです。
独修して大悟(身心脱落)した祖師・禅師方は白隠禅師以外にも、歴史上何人も居りますので、独修はいけないとする考えは間違いです。
但し、正師がいるのであれば、敢えて独修するのは素直に修行することが大切であるということからすると良いことではありません。苦労も多いものですから、正師について適切な指導を受けた方がベターです。
私のHP「坐禅の実践と自意識の解放」は正師のいない現代に、独修できるように事細かに記しております。
独修して機が熟して身心脱落したならば、それを証明するのは曹洞宗開祖道元禅師の著わされた正法眼蔵95巻です。
正法眼蔵95巻が無師独悟を証明してくれるのです。それで充分のはずです。
宗祖道元禅師が正法眼蔵95巻を書き残したのは、正師のいない時代に無師独悟の道人の身心脱落を証明する為です。
身心脱落する以前に修行者が正法眼蔵95巻を読むことは宗祖道元禅師の意に反しているのです。無師独悟における自己の身心脱落が正しいかどうかの確認の為に読むべき物です。証明の為にのみ目にすべき書物なのです。
修行者が正法眼蔵から学んで得ることは一つもありません。証明の為の書物だからです。
宗教学者が学問的に研究することは、それはそれで意味のあることですから、深く研究したら良いと思います。
私の書いたものを何回か読んで、ある程度理解できましたなら、自分の狭い知識の中の平凡な考えを捨てて、実際に非思量の相続の努力を始めることです。
一般の人の考え・思想・信条・哲学・宗教は禅の修行に於いては全く意味がありません。
一般の人の真実・真理・正義も禅の修行に資することはないのです。
自己を根本的に変えることが出来るのは非思量です。
自分の問題を根本的に解決するには非思量の相続しかないのです。
考え・思想・信条・哲学・宗教で人間の根本を変えることはできません。これらは全て言葉によって構成されています。言葉で人の根本を変えることはできないのです。
禅の修行に於いて説かれていることの一つ一つは、皆、多くの禅僧の修行上の経験則から導き出されたものです。
ある時に何らかの拍子に閃いたものでもなく、単なる思いつきでもありません。
修行に於いて工夫に工夫を重ね、忍耐に忍耐を重ねて、30年、50年と努力し精進して至った境地です。
悟りに至る道程と、その境界について二千年以上にわたる多くの修行僧侶の実修・実証の検証がなされて今日に至っているのです。
佛陀の修行の方法と悟りの内容が正しいか否か、真理であるか否かの追試験的検証が、祖師方によって禅の修行という形でなされて今日に至っているのです。
各祖師方は佛陀の説かれたことだからということで無条件に「正しい」「真理である」としたわけではないのです。
正しいか真理であるかを祖師方一人一人が、自ら佛陀と同じ条件のもと、同じ方法で修行して、確かに間違いないと検証しているのです。
確かにそうであった、確かにそのようになったと実証して、実証を重ねて現代に至っているのです。
各祖師方が非思量の相続を実修して、佛陀の説かれたことの正しさを実証したのです。
私達は非思量を実修し実証する願いをもって禅門に籍を置いているのです。
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2020.5.4 ‐聴覚を用いる坐禅でラジオを聞いていても問題ない?‐
ころんじゃった様からの質問(2020.4/12)
私は視覚だけでは思量が出てきますので、見ながら聞くという視覚と聴覚を用いて非思量の実践をしています。
人の話を聞いている時に、自分自身が非思量の状態にあることに気付き、見ながら聞くの「聞く」はラジオを聞いています。
家の中の音(外からの車の音や冷蔵庫の音など)だけでは思量が出やすく、ラジオを聞いてみたところ、非思量の相続がそれ以前より楽に少し長くできるようになりました。
ただ、ラジオを聞いたり、或いは音楽を聞いたりすることは問題でないのか気になり質問させていただきました。
始めた頃に比べると、非思量の相続もだいぶできるようになってきました。
できるようになってくるにつれ、HPの内容も実感として理解できるようになってきました。ということは非思量がきちんとできているのかなと感じているのですが…。
回答(2020.5/4)
ラジオを聞きながら物事を目にしていると念・想が動き難くく、非思量の状態を保ち易いというのであれば、それを通して非思量の状態の相続のコツを身につけていくようにすればよいでしょう。問題はありません。
曹洞禅の修行は思量をする癖を取ることが主なのです。私達は日常的に必要もない思量を過剰にする癖がついてしまっているからなのです。思量から離れることができない分だけ、事実から離れた日常となってしまうのです。
私達の心が安らぐのは、思量からではなく事実からであることに気付かなくてはなりません。
思量の無い処、それは森羅万象という事実ですが、そこを目指して曹洞禅は非思量の修行をするのです。
人の非思量の状態には二通りの非思量の状態があります。
一つは曹洞禅に於ける「念想観の測量を止める」という非思量の状態と、もう一つは、例えば人前で上がってしまって頭の中が真白になってしまい、何も考えられなくなってしまったような状態、或いは茫然自失の非思量の状態があります。
このように人が何も思わない、何も考えないという状態には二通りのものがありますので注意が必要です。
人前で上がってしまった場合の非思量の状態は、念想観の「観」の働き・存在感が強化された状態であり、「観」の働き・存在感が強化されると、念想の働きが抑圧されるのです。
「観」、つまり意識の存在感が強化・増大されますと「観(意識)」によって「観」以外の眼耳鼻舌身意の働きが阻害され抑圧されるために念想が生じなくなるのです。そして、他の五感の機能も抑圧されるのです。
この「観」というのは意識であり、自意識であり、我であり、自我のことです。「佛道を習うというは自己を習うなり」の自己のことです。
意識を強めていって、或いは凝集して、或いは前頭葉に自己を集中して思量を抑えて非思量の状態を作り出すやり方でしたら、それは曹洞禅の非思量とは異なります。
曹洞禅の非思量は念と想と観の三つの測量を止めることが必要なのです。
観を生み出す意識を強化して念想を止めるやり方は血で血を洗うようなものです。観が止まらないのです。念想は収まっても観の存在・働きが強化されてしまいますので、念想の停止は意味のないものとなってしまいます。
発心寺の堂長老師が「THE 禅」という書の中で、自己を忘じる為に「意識をもって意識を擂り潰すようにする」ということを書いておりますが、まさにこのことなのです。意識をもって意識を擂り潰すようにいくらやっても、意識である「観」が残ってしまいますので、念想が止まっても全く意味がないのです。自己である観がどこまでいっても残ってしまいますので身心脱落することはないのです。
身心脱落の身心は自己の心の中の自己のことであり、観もその主体は自己の中の自己であり意識なのです。脱落すべきものを修行の工夫に用いては曹洞禅の身心脱落はないのです。曹洞禅に於いては意識(自己)は無視して放っておくのが一番よいのです。
臨済禅は曹洞禅と真逆な意識の用い方をして修行とするのです。
意識の働きを普段の何倍にも強化・増大せしめて、それこそ前頭葉(額)に自己を集中・強化して思量(念想)を抑圧し続けて見性に導くという手法を用いているのです。
無の拈提ならば、無ー! と意識だけで思量を抑圧しきってしまうのです。何と問われても 無ー! と意識で思量を抑圧しきるのです。
意識の働き・存在を意識によって、非日常的に強化し続けていくと確かに念想の働きは抑制されていくのです。
念想が完全に抑圧された処から、公案の答が自己(意識)のあるまま、何処からか出てくるのです。念想が完全に抑圧されているにもかかわらず、それを自分は知っているのです。それを知っている自分がある内は、返答が合っていても曹洞禅に於いてはその答えは大したことではないのです。
臨済禅の見性は意識による過度の念想の抑制から生まれてくるのです。
この見性というのは心理学で研究されている意識変容状態とほぼ重なります。違いは、それを評価し是認してくれる人が居ることです。認めてくれる権威ある師家が居ることです。この肯定者である師家の存在は狂気(神経症・神経障害)への進展の歯止めとなるのです。一人でこのような状況を歯止めなく、肯定者なく進めていくと狂気(神経症・神経障害)へと入り込んでいくのです。
意識変容状態の体験を臨済禅に於いては見性といったり、場合によっては大悟と認めるのです。この見性や大悟をいくら重ねたところで、常に意識(観)がその中心に存在し自覚しているので「念想観の測量を止める」状態に至ることはないのです。
見性という心境は十牛図の三に位置しているので、正しい見性ならば、念想の停止している状況がしっかりと分かったはずです。
その状態を相続しながら「観」を手放していく工夫をしていくのです。ここの処が臨済禅の正念相続の工夫なのです。正念相続の工夫に入ってからは公案は邪魔な存在でしかなくなるのです。臨済禅の正念相続は曹洞禅の非思量の相続に相当するのです。
臨済禅の正しい見性ならば、公案の拈提をやめて正念相続の工夫に入るのですが、公案の拈提に慣れた臨済系の修行者は公案の工夫に染まってしまって正念相続の正修行に進むことは稀なのです。
禅の正修行は曹洞・臨済を問わず正念相続であり、非思量です。どちらも名称の違いで、その行うことの違いは全くないのです。
非思量の相続は身体的には難行苦行ではありませんが、精神的には難行であり苦行なのです。
五感を開放し、縁に任せて、何も修行らしいことはしなくても良い、ただそのままで良いと説く師家がおります。本来の自己がないことに気づけばよいのだと説き指導している師家方がおります。
非思量の相続は非思量の相続だけで修行らしきことをする必要はありませんが、日常生活そのままでは非思量の状態になることは決してありません。
非思量の修行は精神的には常人にとっては難行であり苦行です。それ故に一箇半箇を祖師方は説くのです。
「やれば誰れでも出来る」と説いてる超有名な老師がおりましたが、その老師の傘下に一人も大悟徹底した道人は結局は出ずじまいです。一箇半箇の後がなく、大言壮語の老師でした。その老師は臨済系出身の老師でしたが、その傘下の修行者はすべて見性程度だったということです。正念、つまり非思量がしっかりと手に入っていなかったということです。
ラジオの音声を耳にしながら事物を目にするというのは、思量が動かないのであれば意識を手放しにしていることになるので、念想観の測量を止めていることに該当するのです。
曹洞禅の非思量の工夫は意識で思量を抑圧することなく非思量の状態を維持することが大切です。その方法は人様々ですから、一つしか方法がないということはありません。取り敢えず、自分に合った思量の動かない工夫を見付けることがことが大切です。
何かを見ながらラジオを聞いていると念想が動かないのであれば、そのやり方を進めていって非思量の状態をより容易にできるように精進していくことです。
ラジオを聞くだけでは想像力が働くのが一般の人です。想像力が働く時に人は視覚の脳神経回路を用います。
視覚の脳神経回路を、視覚による外部からの情報入力が専有すると、内から生まれる想像は視覚の脳神経回路を用いることができずに抑圧されて想像することができなくなるのです。
何かを見ながらラジオを聞く場合は、視覚による外部からの情報入力で視覚の脳神経回路が専有されていますので想像することができなくなるのです。
念(言葉を用いる思量)を抑えるには外部からの音・声による情報入力で聴覚の脳神経回路を専有することが必要です。聴覚の脳神経回路を内から生じる念(言葉を用いる思量)に用いない工夫が必要です。それは外部からの音・声による情報入力に注意を傾けることです。外部からの音や声による情報入力に専ら注意を傾けると、聴覚の脳神経回路が外部からの音・声による入力情報に専有されるために心の内から生ずる音や声である念(言葉を用いる思量)が生ずる余地がなくなってしまうのです。
心の内から生ずる情報である念や想は、外部からの視覚や聴覚を通して入力される情報よりも基本的には、その専有力は弱いのです。心の内部から生ずる入力情報の専有度は、外界から入ってくる入力情報の専有力よりも弱く、外部入力情報の専有力に駆逐されるのが普通です。
これは自然界を生き抜いていく為に、自然界からの情報入力が重要であり最優先されるべきだからです。この原理・原則を非思量の状態を維持する為に応用するのです。
禅の修行は念想観の測量を止めることであり、それは必然的に自己を忘却(消滅)することに至るのです。
禅の修行は念想の思量の機能を消滅させたり変化させたりするのではなく、自己(意識)を忘却(消滅)する為に一時的に念想の機能を完全に停止せしむるのです。その結果、自己の心の中の自己(意識・自意識等々)が完全に消滅(脱落)してしまうのです。一度消滅(脱落)した自己(意識・自意識等々)は復活することはないのです。無我そのものの人となるのです。
無我の人になれば、認識が動いて凡夫(普通の人)に戻るということは決してありません。
ここで間違えてはいけないことがあります。
身心脱落というのは、本来自己が無いことを実体験することです。
ところが、身心脱落というのは自己というものの実体が無いこと、或いは、真実の自己を実際に見ることだと説く老師がおられるのです。
身心脱落するというのは真実の自己・本来の自己を見ることでも知ることでもなく、無我そのものの人となることであり、無我そのものを知る人が消滅してしまうことです。
身心脱落すると再び認識が頭をもたげてくるようなことはないのです。この認識というのは自己を主体として五感を知覚し思慮分別する心の働きを指します。無分別の分別心とは異なるので注意が必要です。
非思量の相続の結果、自己(意識・自意識等々)が完全に脱落(消滅))し、そして、自己(意識・自意識等々)の機能もそれに伴って消滅(停止)してしまうのです。
これは佛陀(ゴータマ・シッダールタ)が発見された意識についての脳の機能の原理なのです。
この原理は佛陀(ゴータマ・シッダールタ)が発見されましたが、その発見した原理を直弟子や歴代の祖師方が同じ条件のもとで、同じように実践して、確かに同じ結果に至ったと、佛陀(ゴータマ・シッダールタ)の正しさを証明したのです。
日本曹洞宗開祖道元禅師も佛陀の発見された自己(意識・自意識等々)についての脳の原理を自らも体験して正しいと証明せられた一人であります。
自己の心の中の自己(意識・自意識等々)を忘却(消滅)する為に、念想だけを停止するだけでは駄目なのです。念想観の観からできるだけ離れることが必要なのです。
念想を息めるのは無念無想といいますが、無念無想だけでは身心脱落に至ることはありません。観から離れることが大切です。
「念想観の測量を止め」という場合の「観の測量を止め」ということは、これは言葉通りに受け取っては駄目なのです。
念想のように観を止めることは、人の意志をもって修行として行うことはできないのです。それは試みにやってみると分かります。
観の働き・動き・作用を止めるのではなく離れていくのです。この離れていくというのは、これをもって観の停止を意味するのです。
それは、具体的には、観の感覚・作用を気にしないで放っておくことを意味するのです。
観の感覚というのは自己の心の中の自己が、冷静に自己のその時の状況を観察する様子を指します。
そのようなことをしないで放っておくのです。これは癖ですから、止めることができます。自意識を注視しないのです。自意識過剰にならないということです。自己の心の中の自己を観察しないということです。他人の視線を気にしないということです。自己の視線も気にしないということです。視線というのは意識の作用そのものだからです。
「恥ずかしい」という自分の心の顔を捨てることです。
人に見られて恥ずかしいという「自分の心の中の顔」のない人になることです。この心の中の顔も意識の作用によって生ずるものなのです。
他者の視線があろうとも、何事も誰も居ないものとして自然にやれることが大切なのです。千利休の茶の所作の極意です。
このように申し上げても今日までの習性がありますから、そのまま即できるわけはありません。そのような方向性で非思量の修行の中で努力(精進)するということです。そのような方向性で努力していけば、次第にできるようになってきますから心配はいりません。
人は、例えば、聴覚と視覚の二つの知覚の働きを同時に並列的に微妙なバランスを取りつつ自覚していると、観の作用を放っておく状態になるのです。この状態で観の測量を停止したことになるのです。
修行として行える意識の測量の停止はこの状態が限度で、これ以上はできません。この状態が意識の機能が正常に働き、意識の一番問題のないおとなしい状態なのです。この意識の存在を消滅(忘却)するのは、身心脱落しない限り無理なのです。
この観(意識)を私達が、それほど意識(自覚)を意識することなく、おとなしくさせておく為には、五感の内の二つの感覚が同時に並列的な微妙なバランスの覚知が必要なのです。
一つの知覚を最大限自覚しているだけでは、観の作用する隙間が生じるので駄目なのです。
例えば、視覚に最大限集中した処で、視覚一つだけでは駄目です。聴覚だけに極力集中した処で、聴覚一つだけでは駄目なのです。
一つの知覚の働きだけをしっかりと集中し自覚しているだけでは「観」の作用する隙間が生じるのです。「観」の存在が減ずることがないのです。
観の作用・存在感を放っておき無視する為には、五感の内の二つの感覚の働きを同時に微妙なバランスを取りながら覚知していくことが必要なのです。
このことは「観」の作用を鎮めると同時に念想の思量を停止せしめることになるのです。
具体的には、例えば、二つの感覚機能、見ながら聞く、或いは聞きながら見るのです。自分の思量の動かない方をやるのです。
これによって心の内から生じてくる念と想を抑えることができ、「観」の作用を止めることができるのです。
「聞きながら見る」「見ながら聞く」、或いは「聞きながら味わう」「味わいながら聞く」、或いは「見ながら味わう」「味わいながら見る」、或いは「聞きながら触る」「触りながら聞く」、或いは「触りながら見る」「見ながら触る」等は実際の工夫に於いては二つの感覚の内、どちらかが主となり、どちらかが従となる微妙な関係で、同時・並列的に覚知するのです。
想像力の働きの強い人は視覚を主とし聴覚を同時・並列的に微妙に従とするのです。
念(言葉を用いる思量)の強い人は聴覚を主として視覚、或いは他の感覚の覚知を微妙に従とするとよいのです。
そのようにすると念想観の測量を止め易いのです。自分のやり易い工夫をするのです。
ラジオを聞きながら物事を目にしている、或いは物事を目にしていながらラジオを聞いていると思量は動きませんから、非思量の工夫に問題はありません。
ラジオの音声は人の話し言葉が主ですから一音一音意味があります。
ラジオの一言一言は、私が聞いているのですが、何を思うことなく、何を考えることなく、理解しようとすることなく、私の心の中の誰かが、その話しを聞き、その話しを理解しているのです。
ラジオに限らず、他者と直接対面して話しをしている時、思量は一切動かさずに理解し、思量を動かさずに対応して話をしているのです。いつ、どこから言葉が出てくるか分からないまま会話を交わしているのです。このように他者と対面して会話を交わしている時、自己は何もせずに存在しているだけなのです。
他者との会話は、自分の意志に関係なくなされ、関係なく理解されてしまうのです。よく自分を観察してみると、とても不思議なことが生じているのです。それは私ではなく私の心の中の誰かがやっているのです。
この私の中の誰かを禅門に於いては「無位の真人」と名付けているのです。
無位の真人というのは中国の臨済禅師の臨済録という語録の中に出てくる言葉です。
それは以下の一文です。
「赤肉団(肉体)上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門(顔のこと)より出入す。」
この無位の真人というのは無分別の分別心のことなのです。この無分別の分別心の作用(働き)は非思量の相続がある程度できるようになるとよく分かります。
私達の日常は、私が話しているわけではなく、私が理解しているわけではなく、私が行っているわけではないのです。私はそのことを知っているだけなのです。観察しているだけなのです。私はそのことを追認しているだけなのです。
それなのに、自分が話しているように感じ、自分が理解しているように思い、自分がやっているように認識しているのです。
本当はそれら全部、無位の真人がやっていることなのです。
何故、自分が全てを行っているかのように感じるのか、その理由は分かりません。近年ベンジャミン・リベットという脳の神経生理学者が人の脳の研究実験結果から「人に自由意志決定はない。」「人の言動は自分が意思決定を自由に行なっているわけではない。何かが人の自由意志を決めている。」と結論づけております。結論づけてはおりますが、人の意志を決めているものが何かが分からないのです。本人の自覚している意志でないことは確かなのです。
その何かを禅門に於いては「無位の真人」と呼んでいるのです。
脳神経科学の世界では、まだこの問題に対する結論は出ていないのです。
ラジオを聞いている時に、蛙や蝉やコオロギの声を耳にする時のようにうるさいと思うことなく邪魔と思うことなく聞き流すことができるのであれば、ラジオを聞きながら何かを目にするという非思量の工夫は問題ありません。その工夫を増々進めていくようにすると良いのです。非思量の状態を日常的に作ることの資けになるのです。
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2020.3.16 -頭の中を繰り返し流れる音楽について-
Y.M様からの質問(2020.3/4)
私は坐禅の最中、過去に聞いたことのある音楽が頭の中に流れ続けることが多いです。同じ旋律を何度も繰り返す。念(言葉)も想(映像イメージ)も現れないけれども、音楽だけは流れ続けるというような状態です。
念想観にはあたらなさそうですが、所詮は意識の作用で「想」のようなものとみなし、消すようにしています。念想を抑えるのと同じ要領で、なんとなく周囲の音をまんべんなく聞こうと、聴覚に集中すると途切れ始め、次第に消えるので、これで抑えられてはいます。
「頭の中の音楽」は、念想観に該当せず、思量・非思量とも関係のないものなのか、自分の念想観の認識の正しさも含めて気になっております。
回答(2020.3/16)
私には頭の中を音楽が繰り返し流れ、それがこびりついて困ったような経験は一度もありません。私は日常、音楽を口ずさむことはありませんので、頭の中に音楽がこびりついて、それを息めることに苦労した経験がないのです。
その故に非思量の修行に於いて、頭の中を流れる音楽に関することに言及をする必要がなかったのです。
私が自分のHPの中で言及していることは長年の修行に於いて、自らの実体験から疑問に思ったことばかりです。そして、その答えは自らの非思量の修行を通して得られたのです。いわゆる学得底(他から知識として学んだこと)のことはないのです。
私には修行の中で困ったことがいくつもありますが、その中の一つに、数息観の数を数えることが邪魔となり煩わしくなったことがあります。数を数えることを息めようとしても自然に数を数えてしまって息められなかったのです。数を数えることを息めるのに数年かかりました。
その他にも、お経を読んでいる時に経文の文字の何処を見て読むべきかが分からなかったのです。常に困惑していました。お経を口で読む速さと、お経の文字を目で追う速さが一致しなかった為です。目を移す速さの方が圧倒的に速く自由だった為です。当然のことです。これは非思量の修行がある程度進んでいくにつれ、納得のいく心境となりました。何処を見てもよいのです。何処を見なくてもよいのです。それが分かったということです。
このように修行中の疑問の答えは非思量の中にありますので、疑問が生じたら、益々非思量の相続に精進することが大切です。疑問に対する答えが自然に分かってくるからです。
取り敢えず、師となるべき人から解答を得たとしても、それが正しいかどうかを自ら確かめなくてはなりません。鵜呑みにして楽をしてはいけないのです。
禅の師家はプライド優先の人が多いので、絶対に「分かりません。」とは言わないのです。「私は身心脱落していないから、そこの処は分からない。」とは決して言いません。したり顔で自信を持った態度で答えるので、余程非思量の修行をしていない限り騙されます。
師家の答えが正しいか否かは、自らが非思量の相続を精進するっことによってのみ明らかになります。他に方法はありません。
ところで、頭の中を音楽が流れ続けることですが、頭の中を音楽が繰り返し、こびりついたように流れることは非思量の修行にとっては負の行為となります。
音楽や念仏で忘我の境地になったところで身心脱落することはありません。
それらは思量の脳神経回路を用いているからです。音楽や念仏や数を数えることやリズムをとりながら何かの動作・行為を行うことは、それらが自然で気にならないことであったとしても、それだけの理由で非思量の妨げにならないとは言えないのです。禅の歴史的にも、私の経験上も、そのようなことで身心脱落をした人は一人も居ませんし、することもないと思います。
私には音楽が頭の中を流れるという経験はありませんので、頭の中を音楽が繰り返し流れる場合に、その工夫はどうすればよいかと疑問に思ったり困ったりするということがなかったのです。
今回初めて、そのような人がある程度居ることが分かりましたので、そのことについて詳述いたしますので参考にして下さい。
曹洞禅の非思量の修行というのは、思量(一念)の生ずる前の脳の状態を維持(相続)することに主眼があるのです。修行に於いて、最初は自分が行える如何なる方法でもよいですから、工夫につぐ工夫でがむしゃらにやってみるしかないのです。ある程度やっていきますと、段々と自分に向いた非思量の工夫の方法が分かってまいります。がむしゃらというのは死に物狂いでやるということです。非思量の修行は最初が一番苦しいのです。曹洞禅の修行は胸突き八丁が最初に来るものですから難しいのです。(『質疑応答』2019.8.3 非思量修行の実際に注意すべきこと を参照)
一般的にどの分野でも修行(修練)というものは易から難へと段階を追って進んでいくものです。易しい修行から厳しい難しい修行(修練)へと進んでいくのです。易しい修行から始めて段々と力がついて、厳しい難しい修行へと移っていくのが常識的な修行(修練)のあり方なのですが、曹洞禅の修行では、それが通用しないのです。このことを知らない修行者がほとんどですので、若い多くの修行者は挫折してしまうのです。結局、身心脱落する人は極めて稀なのです。
曹洞禅の修行の胸突き八丁は一番最初のところと心得て臨むことが必要となります。坐禅に慣れてきたら、段々と厳しく真剣にやろうという常識的考えは持たないことです。
非思量の修行は思量の生まれる前の状態に常に在ることを目指すのです。思量の生まれる前の状態を非思量というのです。
この非思量の修行は視点を変えてみると分かり易いかもしれませんので、今回は視点を全く変えて話を進めてみます。
非思量というは工夫として、外からの縁によって思量の生まれる前の状態を維持するのです。これは外界の縁(外界から五感に入ってくる情報、外界から五感に入ってくる諸刺激)に100%感応するようになる為の修行ということもできます。
修行として外からの縁に対して100%感応する必要があるのですから、心の内(脳内)からの縁に対しては1%も感応してはいけないのです。心の内から生じる縁というものは念想観(音楽も含む)しかないのです。内から生ずる縁に感応してはいけないと言っても、内からの縁が動けば(生ずれば)必然的に感応してしまうのが人の心(脳)の性質です。人は内からの縁でも自然に感応してしまうのです。結局、内からの縁が生じないように工夫するしかないのです。
思考・想像というのは、場合によっては幻聴・幻覚も、内からの縁なのです。内からの縁は真如実相とは直接的関係はないのです。直接的関係はないのですが、その縁は念想の脳神経回路を用いるのです。真如実相に関係のない縁に感応していると永久に身心脱落に至ることはないのです。
本人が気にしていようが、気にしていまいが、自覚していようが、自覚していまいが、念想の脳神経回路を用いてはいけないのです。念想の脳神経回路を一切用いないということが曹洞禅の修行の要点なのです。
念想の脳神経回路を一切用いないでいると自然に必然的に自己が消滅するという原理原則があるのです。
この原理原則を発見した方が佛教の創始者であります釈迦族王家出身のゴータマ(シッダールタ)なのです。外縁に対して100%感応して、ぬかりなければ自然に身心脱落するのです。
内から生じる諸々の縁は非思量の修行に於いては、いきなり初念であり、二念、三念なのです。当然、脳の念想の神経回路を用いるのです。
内からの縁は非思量を妨げる要素でしかないのです。心の内から生まれてくる何か、心の中から湧いてくる何かはすべて内から生じる縁ですから、それを気にならない、邪魔にならないからといって、放っておいてはいけないのです。
習慣的な念・想はすべて内から生じる縁ですが、それらは非思量の妨げですので息めなくてはなりません。そのようなものが無い状態を相続することが非思量の修行なのです。外からの縁に100%感応する状態が非思量の状態なのです。
自然に頭の中に流れ続ける言葉や音や場景(象形)はすべて曹洞禅にとっては雑念・雑音・雑映像でしかないのです。それらすべてを息めることが正しい非思量の修行です。
例えば数息観です。数息観は内観法的で禅宗の修行に適ったものと思われている方が多いと思います。
修行の初心者が数息観をやらせられることが多いのですが、その内に数を数えることが習い性となってしまうのです。非思量が進んでくると数息観の数が頭の中にこびりついて邪魔になってくることは確かです。自然に習慣的に数を数えることは、思量と何らかわることがないので止めなくてはならないのです。数息観も長年やっていると、それが習慣となって何をするにもテンポ宜しく自然に数を数えてしまうのです。20年、30年も続けてきて習い性となった数息観を止めるのはひと苦労します。
また、念仏も同じことです。唱名観という内観修行法があるとすれば、それは庶民信仰の念仏ですが、それは唱名を唱えるだけですから、本質的に数息観と何ら違いはないのです。
信仰の篤い念仏宗(融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗等があります。)行者は朝から晩まで何があってもなくても念仏を唱えているのです。よくても悪くても縁に応じて念仏を唱えているのです。彼ら行者は四六時中、頭の中を念仏が流れているのです。しかし、このことによって身心脱落に至ることはありません。非思量の修行と重なることはないのです。曹洞禅に於いては念仏は息めなくてはならないものなのです。
念仏宗の念仏が非思量と本質に於いて同一のものであるならば、念仏を息めて非思量をすることは難しいことではないはずです。しかし、念仏宗の行者が非思量の修行をすることは難しいと思います。その逆に、非思量の道人が念仏を唱えることは難しいことではありません。実際にやってみると分かります。
念仏宗から身心脱落した道人が出たということを耳にしたことがありません。
禅宗で修行の中に念仏を唱えることを取り入れている宗派があります。
それは黄檗宗ですが、実際どのような効果があるのか、私は知りません。
数息観や念仏は、それを行じている時は意味は全く考えずに、ただ音として数を数え、ただ音として念仏を唱えているだけです。
只管数息観、只管唱名観ですが、それで身心脱落することはありません。数字と佛名の違いとしての音があるだけです。馬の耳にはどちらも同じことです。雑音なのです。内から生じる縁ですから、思量の脳神経回路を用いることとなるのです。
外からくる誰かの「数え」や「念仏」は聞こえてくるだけで、思量の脳神経回路を用いないので非思量の相続に問題はないのです。
次に「観」のことについてですが、念想観の「観」は私のHPの中に出てきますので、そちらを参照して見て下さい。意味していることがきっと分かると思います。
もし、それでも分からないようでしたら、どのように分からないかを記して再度質問して下さい。お答えいたします。
以上です。
禅の疑問についての答えはすべて「非思量」の相続の中にあります。
自らの「非思量の相続」に精進することが大切です。
他者(師家)に尋ねると瞞せられます。用心することです。
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2019.8.3 -非思量修行の実際に注意すべきこと-
M.A様からの質問(2019.7/22)
先日は私の質問に回答をいただき有難うございました。2回目の質問をさせてください。
私は第一章25「思考と想像(念と想)の原理」(2015.10.13)などを参考にさせていただき、視覚や聴覚を用いる坐禅を始めました。聞きつつ見る、もしくは、見つつ聞くという修行が非思量を体験するには最良の指針と思い、始めたのですが、第二章41「無眼耳鼻舌身意の実際」(2019.10.2.17)には、非思量である為には、耳にする音と、目にする物事と、自己に対峙している自己(心の中にいる自己)の三つの感覚の均衡を上手にとる必要があります。とあります。
これによれば視覚と聴覚の2つだけでは非思量に至りにくいということになるのでしょうか?
三つの感覚を均衡に維持する修行をする場合、「自己の中の自己」(意識)にどのように目付をすればよいのでしょうか?
回答(2019.8/3)
私の曹洞禅の修行についてのHPは独りで禅の修行が実践できるようにと願って書いたものです。
禅の修行をやってみたいと望む人は同じようなタイプの人ばかりではなく、様々な動機、因縁、性格、能力、経験等々を持っている人達です。それぞれの立場の人達が理解し易いように一つのことについて、その都度、多面的に、くどいくらいに詳しく説明しています。禅の修行を個人的に修めたい人の為に、疑問の余地がないくらいに、修行に於ける様々なことについて詳細に何度も繰り返して説明しているのです。
また、様々な因縁の修行者の個人的見解や解釈の入る余地のないくらいに正確に懇切に説明しております。この「正確に」という意味は、出てくる言葉や用語の定義をして用いているということです。どのような意味で、その言葉を用いているかを説明しておりますので、禅の修行を理解し実践する時に困ることはないはずです。疑問が出るような文の展開にならないように気を付けておりますので、熟読して下さい。
曹洞禅の非思量の修行は理解することはそれ程難しいことではないのですが、実践することが難しいのです。
禅の修行に易しい修行は一つもありませんから、私のHPを繰り返し読んで、今までの禅についての既成概念を取り払うことから始める必要があります。
既成概念やイメージを取り払って熟読して下さい。熟読しただけでは理解は深まりませんから、それを追って実際に行なうことが大切なのです。
一ヶ月なら一ヶ月、二ヶ月なら二ヶ月、とことんやって見て下さい。納得するところがあるはずです。
分からない処があったなら、そこでいくら考えても分からないのです。それを理解する力量がないから分からないのですから、力量を深めればよろしいのです。分かるようになるまで非思量の相続に専念するのです。非思量の相続をしっかりとやっていけば分かる時がきますので心配はいりません。
一ヶ月なら一ヶ月、二ヶ月なら二ヶ月、時を切って、とことんやってみることです。うまくできても、できなくてもやり切って下さい。うまくできても、うまくできなくても、工夫しながら非思量の相続を実践することが大切なことなのです。それが修行というものです。
うまくできないことがあってもそれでも修行は進むのです。うまくいくことばかりで修行が進んでいくわけではありませんから考え違いをしてはなりません。
修行の途中で、修行が進むに従って疑問が出てきますが、その時には再度、私の修行についてのHPをしっかり読み直して下さい。そのどこかに、疑問についての解答が必ず出ているはずです。
しっかり読まないで、とことん修行をしてみない内に瑣末な質問はしないで下さい。瑣末な質問を始めると、人の煩悩の数だけ延々と続くことになってしまうものです。非思量の修行に役に立たないばかりか、かえって害となってしまうのです。非思量の修行の本筋から外れた疑問や瑣末な疑問は放っておいても大丈夫です。
非思量の修行の本筋から外れた疑問や瑣末な疑問というのは、そのような疑問を明らかにしなくても、非思量の修行に何ら影響がない疑問を指します。その疑問の解答を得なくても修行は充分にできる内容の疑問ということです。
私のHPは禅の知識、教養を身につける為のものではなく実践する為のものですから、そのような観点から熟読して実践して下さい。
取り敢えず、一週間、或いは十日間、或いは一ヶ月と期限を切ってとことんやってみることです。とことんやってみて、それでも非思量の相続について疑問があるならば、質問をして下さって結構です。
但し、とことんやってみたけれどもできなかったのですが、どうすれば宜しいですか、という質問はやめて下さい。
また、修行の仕方や工夫が自分に合わないとか、難しいからどうすれば宜しいですか、という質問もしないほうが宜しいです。その質問は無意味です。
非思量の修行は、修行の入口すぐの処に最大の山があります。修行の始めのところは死に物狂いでやらないと山を越えられません。
道元禅師はこのところを「頭燃を救うが如くすべし」と言い表しております。ほとんどの修行者は最初の山がこれほどとは思っていませんので、皆、つまづくのです。禅の修行は心を落ち着かせて静かに行なうものとイメージしているためでもあります。このようなイメージを説いている師家が多いのです。このイメージを持っている限り曹洞禅の修行はできないのです。
曹洞禅の修行は燃えている頭の髪の毛の火を振り払うが如く渾身の力を振り絞ってやるのです。無我夢中で燃えている頭の火を振るう勢いで猛烈に非思量の状態を相続するのです。これを「頭燃を救うが如くすべし」と言い表しているのです。
只管打坐を説く曹洞宗の師家方の坐禅とはおおよそ異なるのです。お公家さんのような坐禅ではだめなのです。野武士のような坐禅を旨としてやらなければ非思量の相続は不可能です。江戸時代初期の三河武士出身の鈴木正三禅師の仁王禅、或いは憤怒の禅です。これでものになるのです。
非思量の経験のない曹洞宗の師家は言うのです。
「非思量というのは、考えない、思わないということを言っているわけではない。考える葦である人間が考えなかったり、思わなかったりすることはできるものではない。考えや思いは出てきても問題はない。出てきたら出てきたで放っておいて取り合わなければよい。思量は実体のない泡のようなもので出てきたら消え、生じたら滅する、それだけのことです。これが非思量であり、只管打坐です。」
これは非思量をやらずに済まそうとする苦し紛れの理屈です。これではご隠居の坐禅です。ものになりません。
曹洞禅の非思量の修行に於いて、思量の停むことのない日常的な状態から非思量の状態の相続に入る時が最も苦しいのです。人為的に非思量の状態を作り出す最初の時が最も苦しいのです。この最初の苦しさを乗り越えなければ、身心脱落に至ることはありません。
臨済禅では、この非思量の最初の山を越える為に公案を用いるのです。公案を用いて正念相続を体得させるのです。
曹洞禅の修行として最初の頃の非思量を相続する時間は十秒か二十秒か三十秒かの僅かの時間です。これが苦しいのです。この苦しさを克服しなければ日常的な非思量は夢のまた夢です。意図的に非思量の状態の時間を十秒から二十秒へ、二十秒から三十秒へと延ばしていくには、その為の工夫と忍耐がどうしても必要なのです。工夫のない曹洞禅の修行はないのです。
どの世界の専門職も技量を向上させる為、或いは熟練していく為には若い時から工夫に工夫を重ねていくのです。どうしても言葉で教えられない、伝えられない部分が多々あるのです。熟練すればする程、そのような処が重要となるのです。日本の職人が昔から言う「技を盗む」というのは、その工夫のことなのです。言葉で伝えられない技の工夫は盗むしかないのです。
禅の修行も目に見えるわけでもなく、耳にすることもできず、触ってわかるわけでもない精神内の内面的な工夫ですから伝えることが難しいのです。自分で工夫に工夫を重ねて修行は進んでいくのです。これ一つの工夫で修行のすべてに対応できるというものはないのです。万能の工夫はありませんから、その都度工夫していくのです。
基本的には非思量の状態でありさえすればよいということで工夫し続けるのです。気を緩めることはできないのです。気を緩めると工夫はどこかに行ってしまって惰性的にやっているだけになってしまうからです。
禅の修行は工夫に気が抜けないのです。常に「これでよい」と安心して修行をやれる状況はないのです。このことを肝に命じて工夫を続けることが大切です。修行に於ける非思量の相続をすることの中には安らぎはなく忍耐ばかりです。このことを覚悟して曹洞禅の修行をして下さい。
曹洞禅は非思量ができるようになったということに意味があるのではなく、非思量の状態の相続をしていることに修行として意味があるのです。
四六時中、非思量の状態であるところまで修行を進めていくのです。そこまでになると肩の荷が一応下ろせ、身心脱落を求める気さえ動かなくなるのです。身心脱落のことさえ忘れてしまうのです。
あとは、身心自然に脱落するのです。私の意志ではないのです。
曹洞禅の本格的な修行は、非思量の状態が分かってから始まります。それまでは禅の修行になっていないのです。
非思量の相続の修行は、坐禅を始めて、非思量の状態が分かって、一歩踏み入れてすぐに大きな山があります。この最初の山が最も厳しいのです。この最初の山を超える時に修行に於いて最大のエネルギーが必要となるのです。
この最初の山を越えると、それからは忍耐力と道心堅固の心が修行にとって重要となります。
修行の最初のところで多くの若き雲水や参禅者は非思量の状態を知ることに苦労します。ここでかなりの人が脱落する(落ちこぼれる)のです。
次に、非思量の状態を知っても、その非思量の状態はコントロールできないほんの数秒のもので、非思量の状態を修行とするには十秒、二十秒、三十秒と相続する必要があるのです。この時が最も苦しくて最大の山となるのです。
この山を越えることができれば、あとは忍耐力と道心が堅固でありさえすれば、必ず身心脱落に至る道理なのです。
明治以降、この山を越えた禅僧は、多分一人いるかいないかだと思います。
明治以降の禅門に於ける宗教的才能のある優れた名僧や高僧の方々が非思量の最初の山を越えることができていれば、必ず身心脱落に至っていたと思います。明治以降の名だたる名僧や高僧の方々が雲水(若き修行僧)の頃に正師の指導の許、非思量の最初の山を越えることができていればと思うと残念でなりません。
当時、非思量を確かに相続できる正師がいなかったのですから、それは無理もないことです。
まア、それはいいとして、非思量の修行に於いて一歩踏み出してのすぐの山を越えることが大事なのです。ここが一番苦しいところだからです。
曹洞宗の近年の師家方が若き雲水に最初から、ただ坐れ、ひたすら坐れ、と指導するのは間違いです。ただ坐るだけでは最初の山は越えられません。只管打坐を最初からやっていては非思量の相続はできないのです。非思量の相続は最初に最大のエネルギーが要るからです。
非思量の相続がある程度できるようになったら、それこそ只管打坐で充分非思量の相続はできるのです。そのタイミングは自分で探るのです。
言い換えますと、只管打坐は、ある程度非思量の相続ができている熟達した道人への言葉です。最初からは無理ですから、只管打坐の坐禅は機が熟するまで忘れていて宜しいです。まず最初の山を越えることにエネルギーを最大限にして精進して下さい。神仏の加護を願うことです。
最後にくれぐれも言っておきますが、曹洞禅の修行を極めたいのであれば、最初から只管打坐をやっては駄目です。只管打坐は老成の坐禅なのです。
この回答と併せて私のHPを繰り返し読みつつ実践して下さい。
「盤珪禅師の三十日間不生でいてみてごらんなさい」ということに尽きるのです。
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2019.7.10 -坐禅の工夫の仕方について-
M.A様からの質問(2019.7/5)
数息観、随息観を中心に坐禅をしてきましたが、なかなか修行が深まらず、只管打坐を試みるも要領を得ず、坐相(正身端坐の持続)が最も肝要のような…。
また、只管打坐の要訣について「地球を坐蒲団にして云々。」「天地一杯になった云々。」とある師家が説かれていますが、実際にはどうやって坐るのかつかめません。
第一章の「思考と想像(念と想)の原理」にある「視覚を用いて坐禅をする」「聴覚を用いて坐禅をする」場合、具体的にはどのように坐るのでしょうか?
回答(2019.7/10)
曹洞禅の修行、工夫は思量の有無だけに焦点を当てて行うものです。修行の最初から身心脱落に至るまで、常に自らの心(頭脳)の中に思量が生じているか、生じていないかを自覚していなくてはなりません。修行として、ああする時も、こうする時も、思量(一念)が動いているか、途切れているかを自覚して工夫をするのです。どのような工夫であろうと曹洞禅は非思量の状態を維持することを最優先にして工夫をするのです。工夫そのものを優先してはならないのです。工夫は非思量の維持の為の工夫だからです。工夫が上手に出来ても非思量の状態を相続できなければ、修行にとっては意味のないことです。
工夫がうまく出来ているか、いないかに注意を払うよりも非思量の状態を相続できているか、いないかに注意を払わなければ曹洞禅の修行にならないのです。
以上が修行の基本的姿勢ですから忘れてはいけません。このことを踏まえて以下を読んで下さい。
M.A様は様々な疑問点があるようです。真剣に坐禅をしようと決意し、いつか底を抜きたいと願っているならば当然のことです。
明治以降、曹洞・臨済共に曹洞宗開祖、或いは臨済宗各宗派開祖と同等かそれ以上の身心脱落、或いは大悟徹底をした方は一人もおられないので、正師を求め正師の指導を仰ぎたいと願っている者にとってはこの百五十年間は難儀の時代です。
禅の修行は心の問題を解決する為の修行ですから、その解決は心に求めるのが筋です。身体から生まれる問題を解決するならば、身体に求めるのが道理です。
私達の心の問題(例えば生死の問題)は呼吸を調えても解決しませんから、呼吸に求めても駄目です。心の問題と呼吸の在り方とは関連していませんから、呼吸はいつも通りに気にならない呼吸をしていれば、それでよいのです。
数息観や随息観をいつ、誰が、どのような理由で禅の修行に取り入れたか私は知りません。日本の曹洞・臨済の各御開山の法語や中国の祖師方の法語にも禅の修行として数息観や随息観は取り上げられてはいませんから、その工夫が身心脱落や大悟徹底に直結しているとは考えられません。取り敢えず、心を落ち着かせる目的で初心者にやらせるのではないでしょうか。私はそのように受け取っております。
只管打坐は曹洞宗で象徴的に説かれている言葉ですが、これには重要な言葉が抜け落ちています。その言葉というのは「非思量」です。正確に申し上げますと、非思量の状態でもってひたすら坐りなさいという意味です。曹洞禅の坐禅から非思量を除いてしまったら、決して身心脱落することはありません。中味のない形ばかりの坐禅となってしまうからです。
曹洞禅の坐禅の姿は「正身端坐」と言います。しかし、曹洞禅の修行の根幹である非思量は「豈に坐臥に拘らんや(坐禅とか行住坐臥とかに関係ないのです)。」なのです。日常生活すべてで非思量の状態を相続するのです。正身端坐の坐禅を組んでいる時ばかりが大切ということはないのです。
非思量を伴わない中味のない坐禅をただひたすら行じて身心脱落した祖師方・各御開山方は一人もおられませんから、正身端坐の姿に価値を置いてはいけません。まして、自分自身では自らの正身端坐の姿は見えないのですから、見えないものに何の意味があるというのでしょうか?
正身端坐が重要であるというならば、何らかの理由で脚を片方なくされた方や、脊椎カリエスで背骨が曲がってしまった方や、椎間板ヘルニアで腰が曲がったりしている方達は、正身端坐の坐禅はできませんが、どうするのですか?
彼らはどうなるのですか。身体の健全な人よりも禅修行に於いてずーっと劣るというのでしょうか。そのような人達に対して禅は門戸を閉じるのでしょうか?
そんなことはありません。非思量の状態の相続ができれば、それで充分なのです。
正身端坐は初心者の為の心得としてあるだけです。坐臥に関係なく、曹洞禅の非思量の修行はできるのです。見掛けに騙されてはいけません。
次に「地球を坐蒲団にして云々」「天地一杯になった云々」については、多くの師家や参禅者が陥り易い気分や気持ちを高める為の表現でしょう。修行にとっては無意味な表現です。
問題は心の中(頭脳の中)が非思量であるか、どうかなのです。それだけが問題なのです。そして最終的には自己が自己の中に存在しているかどうかが問題なのです。修行中に精神的に(心の中に)特別な景色を見たり聞いたりした処で、そのようなことは自己の真の忘却(消滅)には何の益もありませんので、取り合わずに放っておくことです。
非思量の工夫については、視覚を主に用いることがよい人と聴覚を用いて念想観の測量を停止することがよい人と二つに分かれますので、それは私のHPの該当する処をしっかりと読んで決めて下さい。
音や象形に集中する場合に大切なことは、そのことによって思量が停止するかどうかなのです。集中することに意味があるわけではなく思量が停止することに意味があり目的があるのです。思量がそのことによって停止しているか、していないかに注意を払って集中の仕方を工夫するのです。集中の度合いを調整して、思量の停止する処を探るのです。曹洞禅の非思量の状態の維持は公案を拈提するよりも、はるかに難しいものがあります。なにもせずに、そのまま、ひたすら坐るだけでは済まないのです。
私のHPにあなたの疑問に対する解答のほとんどが書かれていますので取り敢えず読み進めていって下さい。
曹洞禅の修行は臨済禅の修行とは本質的に異なるのです。
臨済禅の修行は疑問のない処にあえて大疑団(大疑問、問題意識)を抱かせることが重要なのです。その為に意味不明、解読不能、理解し難い道理、常識を超越するような表現を多用するのです。それに反して曹洞禅はいきなり非思量の状態を指し示し、直接、非思量の状態の相続に専念させるのです。曹洞・臨済は入門時から見性までは真逆の修行ですから注意が必要です。
臨済禅は見性してからは公案は不要となり、正念相続に修行の中心が移るのです。この正念は曹洞禅の非思量のことであり一念不生のことです。
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2019.7.2 -無分別の分別心について-
A.K様からの質問(2019.6/19)
無分別の分別心の働きはどのようにすれば知ることができるのですか?
また、無分別の分別心は人間のみにあるのですか、動物にはないのですか?
動物には人間のような言語はありませんから、それこそ無分別の分別心で基本的に生きているのではないでしょうか?
無分別の分別する能力は高めることはできるのですか、それとも佛性のように生まれた時のままなのですか?
回答(2019.6/27)
人間も動物も基本的には意識とか思考で覚知し識別し分析判断して生きているわけではなく、禅宗で説きます無分別の分別心(佛法の定まれる正思惟、佛智、不生の佛心)で覚知し識別し、分析判断して生きているのです。ここの処は人間も動物も違いはないはずです。言葉や文字や想像力の必要のない世界だからです。過去も将来の世界も関与できない「今」の世界だからです。
無分別の分別心について前にも書きましたが動物の生活の基本にも関係がありますので少し述べたいと思います。
無分別の分別心は常に自律して機能しているものです。私の存在とは無関係に機能しているのです。人がそれを自覚していようと自覚していまいと、自律神経で機能する心臓のように自分の意志や思量から独立(自律)して作用(機能)しているのです。ここの処は人間も動物も同じはずです。人間も動物の一員であり、特別ではないのです。
この無分別の分別心の働きに日常的に気付いている人もいますが、無分別の分別心で識別しているのか、思量分別によって識別しているのかがはっきり理解できていない場合が多いと思います。無分別の分別心というものがあることを知らないことと、このことに気付いているのは大人ではなく青少年の年頃の人だからです。
無分別の分別心の様子に何となく気付いている青少年や若い人は、一度、無分別の分別心についてよく知っている禅僧の指導を受けると無分別の分別心を知っていることの価値に気付くものと思います。
無分別の分別心の機能に何となく気付いている人は非思量の状態を日常的に体験している人に多く、このことは確かなことです。
私達でも、無分別の分別心の働きは非思量の状態に於いてよく知ることができます。自らの禅修行が身心脱落にまで至っていなくても観察することはできます。
非思量の状態の相続をコントロールできるようになる為の修行方法は『第一章』に事細かに書いてありますので、そこを参照して下さい。
私達は日常生活に於いて基本的には無分別の分別心によって五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)から入力した刺激を判別して行動をしているのです。ここに言葉による判別、判断、分析はほとんど用いる必要はないのです。
言葉を添えなくても、諸々の縁(五感から入ってくる森羅万象の情報、刺激)を無分別の分別心が間髪を入れぬ速さで覚知し分析し判断し、次に即、快不快等の感情が動き、そして行動が必然的になされるのです。私達はすべて私が自分の意志でやっているように思い込んでいるのですが、実際はその前に無分別の分別心が適切に対応してしまっているのです。私達はそれを追認しているのが実状なのです。
このことが分かると何の役に立つのかという疑問が生じると思います。
無分別の分別心に従っていると迷うことが少なくなり、苦悩を生じることがなくなっていくのです。これは経験則です。
言葉(自分の思い、他者の発言)に引きずられることがなく、物事がありのままに見ることができるようになるのです。
無分別の分別心に徹しますと、それは曹洞禅の修行そのものであり、盤珪禅師の不生の佛心の修行のことでもあります。とても大切なことなのです。
無分別の分別する能力は努力次第でいくらでも高めることができるのです。天才的であるとか神技という領域まで高めることができるのです。この能力は思考力や想像力や知識力や学力では高めることができないのです。この能力を高めるには意識や思考力を相手にせず、頼らずに五感の総力を挙げて身をもってやってみることです。
言葉や思考力や想像力や意識を捨てて(放っておいて、忘れて)全身心を挙げてやっていくことによって高められていくのです。
たとえば、コーヒーを例にとりますと、コーヒーもその産地によって微妙に味、香りが異なるのです。コーヒーの味と香りの違いは知識力や思考力ではなく舌と臭覚によって分かっていくのです。
世界的に名器といわれる楽器の音色の違いは私には全く分かりません。違いが分かるというのは、その事について無分別の分別する能力が高まったからなのです。無分別の分別する能力の主なものは五感です。この五感の能力はそれぞれ際限なく高めていくことができるのです。五感の能力に応ずる身体の能力も神技的に鍛え上げていくことができるのです。
微妙な違いに気付くのも、無分別の分別する能力の熟練の賜なのです。
子供の幼稚さ、未熟な大人は物事それぞれの微妙な違いが分からないところにあるのです。
違いの分かる大人になる為には、無分別の分別心に生きることです。自意識も自尊心も捨てて恥も捨てて無分別の分別心に生きる工夫をすることが大切です。
確かな禅僧の指導を受けるのが一番だと思います。
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2019.2.8 -非思量と無念無想について-
ころんじゃった様からの質問(2019.1/19)
第一章では非思量と無念無想は同じであると説明されていますが、第二章では非思量と無念無想は異なるとあります。
なぜ 説明が異なるのですか?
回答(2019.2/5)
それは修行の実践に於ける道程に着眼しての説明だからです。
非思量の修行のおよそ1/3の道程までは無念無想と全く同じように修行していてもよいのです。その後の1/3以降は無念無想だけでなく観の測量の停止も加えなくてはならないのです。
非思量の修行の「非思量」は無念無想と同じ状態です。
しかし、道元禅師は普勧坐禅儀の中で非思量の状態に「観」を加えております。非思量という言葉そのものには観という意味は含まれておりません。
この観は道元禅師が普勧坐禅儀の中で「念想観の測量を停めて」と説明して、念想の測量を停めることの中に観の測量を停めることも加えて、非思量の修行として示しているのです。このことによって無念無想の状態を相続することと非思量の状態を相続する修行とは全く同じというわけではないのです。
非思量の文字通りの修行に観を加えることは初心者には無理ですから、初心者は取り敢えず文字通り、非思量の状態の相続に専念した方が良いのです。無念無想の状態の到達に専念した方がやり易いはずです。
念と想の生じる前の精神(頭脳の活動)状態の相続に工夫、努力すべきです。念・想・観の3点を最初から工夫するのは力量不足で無理なのですから、挫折が目に見えています。
普勧坐禅儀の念想観の観を除いたところまでは、無念無想と同じ状態なのですから同じと言っても問題はありません。しかし、無念無想の相続が出来るようになったからといって、それだけで曹洞禅の修行としてほとんど意味をなさないのです。無念無想に観を加えて念・想・観の測量を停めて始めて正しく曹洞禅の非思量の修行となるのです。この観の働きを停めることが身心脱落に到ることができる重要な条件です。無念無想だけでは身心脱落に到ることはないのですから曹洞禅の修行として注意が必要です。
非思量(無念無想)がある程度までできるようになったら観の働きを停めることの工夫を追加する必要があります。観の働きを停めるというのは実際は観の働きを放っておくことをもって停めると言うのです。
観(心の働き、動き、変化を心眼をもって観測すること。見ること。この心眼というのは意識のことです。)の測量(推し量る。他人の心を推し量る)を気にせずに無視しておくのです。一々取り合ったり注目したりしてはいけないのです。
曹洞禅の修行は非思量の状態の相続(維持し続けること)が中心ですが、その中で自らの非思量の状態や思量の状態を心眼で観たり、眺めたり、観察したり、比較したり、分析したりすることはやめなくてはなりません。普勧坐禅儀の中の「念想観の測量を停め」というのはこのことを指しているのです。ここのところが一般的に言われている無念無想の修行とは異なるところなのです。無念無想を極めたところで身心脱落に至ることはないのです。公案を拈提するだけでは大悟徹底に到ることがないのと同じです。
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2018.9.23 -清源禅師の言説の読み解き、意識について知りたい-
凡愚様からの質問(2018.7/29)
@清源禅師の悟りの回顧の言説の読み解きについて
一、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき
二、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず
三、山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり
(修行が進むにつれての境地の変遷 一→二→三)
A意識について是非知りたいとの申し入れについて
回答(2018.8/23)
@「一」と「二」は修行が未熟で、まだ自己の心の中に自己があるということです。心境の表現は、その人の性格・知識によって様々で、どのように表現するようになるのかの決まりはありません。自己が有るか無いかが問題なのであって、それをどう表現しようと大したことではありません。
「三」は自己が心の中から消滅してしまった状態で山や水を見た時の様子を清源禅師は斯く文字をもって表現したのです。この表現に決まりや型があるわけではないので身心脱落した禅師がその心境をどのように、どのような手段をもって表現しようと自由です。いずれにしても思量(言葉)は眼前の事実と自己の存在に何の影響も及ぼさずに生滅するものなのです。言葉に実体はないのです。
それは身心脱落していなくても、非思量の状態になってみるとよく分かることです。
A意識について知りたければ、自らが自ら努力して非思量の状態になってみることです。その方法は私のHPの中に詳しく書いてありますので読んでみて下さい。私の書いたものは禅の修行を理論的に理解する為のものではなく、修行の実践に資する為に、禅を専門に修する者の為だけでなく万人の為に書いたものです。
私の願いは私の書き上げたものを読んで知識としてとどめることなく間違いなく実践して下さることです。
私の書いたものは非思量の実践をしていく中で理解できるようになります。非思量の実践なくして理解はできないのです。
私の書いたものを読み、非思量の実践をし、それでも疑問点があるようでしたらご連絡下さい。非思量を実践することで意識が見えてまいります。
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2017.8.27 -青野敬宗老師や原田雪渓老師への印象・感想、「心を左掌に置く」について-
I.K様からの質問(2017.7/6〜7/11)
@青野敬宗老師や原田雪渓老師へ参じた際のお二人対する印象やその教えに対する感想はいかがなものでしたか?
Aまた、坐禅用心記にはあって普勧坐禅儀には述べられていない内容の一つに「心を左掌に置く」という表現がありますが、何故道元禅師はこれについて述べられていないのかという事についてのご意見は?
回答
@青野敬宗老師や原田雪渓老師への印象や教えに対する感想は、私が申し上げるよりもご自身で自ら知る方が良いと思います。それはあなた自身が非思量にある程度熟達すればよいのです。見性や身心脱落せずともかなりのところまで見えるようになりますので、まず非思量をやってみて下さい。
やってみてから老師方の語録や法語を読んでみると老師方の力量を知ることができます。非思量の修行には「零か百」ということはないのです。
A「心を左掌に置く」ということは心を散乱させない工夫なのです。心を散乱させやすい性格の人に対する工夫です。これは禅の修行に限ったことではありません。一般的な心を散乱させない工夫を示したにすぎません。心の散乱が修まれば、ここからが本格的な曹洞禅の修行なのです。つまり非思量の工夫に専念できるのです。
道元禅師の普勧坐禅儀は四六駢儷体の詩の形式で格調高く書き上げたものです。よって普遍的なことしか書き込まなかったのです。道元禅師は文体の美しさを主として言葉を選んで書かれたものですから、個々の具体的な実際に即したことは書き込まなかったのです。あくまでも普遍的に詩的に言葉を丁寧に選んで書いたのです。これは道元禅師の性格によるものです。
坐禅用心記は坐禅の手引き書として具体的により分かり易く書き上げたものです。文章の美しさは二の次にしてあります。衆生済度の願望の強い瑩山禅師の性格を表しております。
いづれにしても非思量の工夫とその相続が主眼です。非思量の相続が自然に必然的にできるようになると当然、身心脱落に至るのです。ここには人の意の介在する余地はありません。
非思量の工夫の仕方に決まりはなく、どのように工夫すべきだとかということもないのです。非思量でありさえすればよいのです。そして非思量をなるべく長く相続(継続、維持)すればよいのです。
人の性格や能力がそれぞれ異なるように、非思量の工夫の仕方も人それぞれで決まりはありません。工夫の仕方に決まりがないので祖師方、禅師方がそれぞれ独自の工夫の仕方に基づく「派」を立てるのです。派を立てたところで、どの派も行き着く処は身心脱落です。ここはどの祖師方も禅師方も内容的に違いはないのです。
思量とは脳の中のどのような状態かを認識していなくてはいけません。そして非思量はどういう状態かも師家等に教えてもらって自覚しなくてはなりません。
この二つの状態の明確な区別がつけば、後は徹底的に非思量を維持しなくてはなりません。ここからが忍耐です。非思量の説明は簡単ですが、その実行は極めて困難です。真に身心脱落した禅者が歴史的にも少ない理由です。禅が日本にもたらされた鎌倉時代以降、正しく真に身心脱落した禅者は数える程しかおりません。鎌倉時代の禅者が最上の力量で最多おられました。それ以降は少なくなる一方です。
それは語録や法語を読めば分かることです。その法語は内容的には、表現は異なりますがすべて非思量を説いております。曹洞、臨済の区別はないのです。
白隠禅師は公案禅ですが、白隠禅師独自の公案禅です。中国で確立された伝統的な公案禅の祖である大慧宗杲の公案禅とは異なるようです。大慧宗杲の公案禅も公案の工夫をさせながら非思量にもっていくのが主眼なのです。
それにしても伝聞によるのですが、現代は漆桶を打破(身心脱落)した方が少々多いように感じます。その真偽は自分で確かめてみるのが良いと思っています。
如浄禅師が道元禅師の帰朝の際に以下のことを忠告しました。「多くの解脱者を求めてはいけない。一箇、半箇を求めよ・・・。」と。この言葉の重みを感じています。
私は見性を身心脱落とは考えておりません。見性をしただけでは自己の存在はなくなっていません。それを勘違いしている方々が多いと感じております。私は坐禅修行の過程の特別な心境に何も心惹かれることはありません。特別な体験よりも自己の存在の有無だけが問題なのです。
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