『 はじめに 』 『 第ニ章 』 『 第三章 』 『 第四章 』 『 第五章 』 『 第六章 』 『 動物の意識 』 『意識の機能』 『 用語の説明 』 『 質疑応答 』 『 問い合わせ先 』
著者 永平道元大和尚
夫れ参禅は静室宜しく飲食節あり。
諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ。
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作佛を図ること莫れ。
豈に坐臥に拘らんや。
尋常、坐処には、厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。
或いは結跏趺坐、或いは半跏趺坐。
謂く、結跏趺坐は、先ず右の足を以って、左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。
半跏趺坐は、但だ左の足を以って右の腿を圧すなり。
寛く衣帯を繋けて、斉整ならしむべし。
次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じて、両の大拇指面いて相挂う。
乃ち、正身端坐して左に側ち、右に傾き、前に躬まり、後に仰ぐことを得ざれ。
耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す。
舌、上の顎に掛けて、唇歯相著け、目は須らく常に開くべし。
鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し、左右揺振して、兀兀と坐定して、
箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。
非思量。此れ乃ち、坐禅の要術なり。
解説
2016.2.4
「夫れ参禅は静室宜しく飲食節あり」
参禅とは坐禅をすることです。
坐禅はある程度、静かな室内で行うのがよいものです。気にならなければ多少の雑音や近隣の音は問題ありません。防音室が必要なほどの静けさは求めていません。程々ならば問題はありません。
満腹状態だと腹も苦しく、眠くもなるので、坐禅をする時は、飲食は腹八分目にしておくのがよいのです。節度をもった飲食をすることです。それは何にでも共通したことで坐禅に限りません。坐禅を特別視してはいけません。勉強をする時も仕事をする時もそうです。
「諸縁を放捨し、万事を休息して」
坐禅を始めるには日常の関わりのある事柄(仕事・勉強・人間関係・雑事等)を放って置き、日常生活のすべてことを思い、考え、わずらい、行うことをあえて止めなくてはなりません。手許にメモ帳を置いて急に思い出した事等はメモしておくとよいでしょう。
「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」
そして坐禅中に心に浮かんでくることに対して、一切の善いや悪いの判断をせず、また、これは是、これは非とあれこれと思いめぐらし、分別をしてはいけないのです。どんなことであろうと、日常のすべてのことを坐禅中は取り合わずに放って置きなさいということです。
「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて作佛を図ること莫れ」
「心意識」の動き、つまり分別という心の動きを止めるのです。分別というのはあれこれ探り思案することです。そして念い想像を止め、それらを思考し想像している自分を観るような心の動きを止め、、そのようにしている自己を眺め見るようなことをしないのです。
心意識とは言わずに意識(分別)だけでも良いのですが、次に「念想観」と続くので、その対句の詩的語調・リズムを揃える為に敢えて「心」を付け加えただけのことで難しく一語一語を分析する必要はありません。一語一語を分析してしまうと、意志をもって運転を止めることのできないものとなってしまうのです。そして、佛になることや佛のように悟ることを、あれこれ思い巡らすことを止めなさいということです。それらは坐禅の要術を行うに当たって障害となるからです。
「豈に坐臥に拘らんや」
禅を目指し修行する以上は、これらのことは坐っていようと臥していようと何をしていようと、そのようなことに拘らず、以上のことを注意して行っていかなくてはなりません。坐禅の要術である非思量は、坐禅している時だけに限らず坐禅の姿勢をとっていない時でも動いている時でも同様に行わなければなりません。禅の修行は坐臥に拘らず工夫していかなくては身心脱落に至ることはありません。
「尋常、坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う」
一般的に坐禅は(昔は坐する処が板の間でしたから厚く坐物を敷いたのです。畳があれば厚い坐物は必要ありません。)坐る処に脚が痛くならないように、坐蒲の下に厚い座蒲団を用います。そうすることで脚の痛さが緩和され坐禅に専念できます。
禅は身体的に苦痛を伴えば伴う程、修行になると思うのは間違いです。身体的苦痛に耐えれば耐える程、禅の心境が進むと考えるのも間違いです。禅の修行と苦痛に対する身体的忍耐には何ら因果関係はありません。禅の修行に肉体的苦痛は意味がありません。意味があるとすれば、非思量を保つための精神的苦痛だけです。
・坐蒲ー坐禅専用のクッション。中綿はパンヤ。中に詰め込む量は自分の身体に合わせて、いちばん楽に坐れるように加減をしてよいのです。厚みをとる脇の部分にマチを付けます。坐蒲の皮布はすべすべしていると滑りやすく安定して坐れないので、滑りにくい布がベターです。直径は30~40cm。自分のお尻に合わせて適宜にして下さい。小さいよりは大きめの方が坐りやすいです。高さは9~12cm位か、それも適宜にして下さい。
「或いは結跏趺坐、或いは半跏趺坐。謂く、結跏趺坐は先ず右の足を以って左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず」
これは脚の組み方です。坐禅を始める前に柔軟体操をして脚の関節や股関節を柔らかくする努力をする方が苦痛が少なくなりますので柔軟体操をお勧めします。
結跏趺坐は右の足を左の腿の上に載せ、左の足を、先に左の腿の上に載せている右脚の上に交差するようにして右の腿の上に載せます。
「半跏趺坐は但だ左の足を以って右の腿を圧すなり」
半跏趺坐は右の足を股間にたたみ入れて左の足を右の腿の上に載せるのです。
坐禅の修行に於いては結跏趺坐も半跏趺坐も、内容的には全く違いはありません。一番正しい坐し方が結跏趺坐で、半跏趺坐は便宜的、略式の坐し方であるという区別もないのですから自分のやり易い方をすれば宜しいです。内容的にはどちらもしっかりとした坐禅であって優劣はありません。
また、足の交差もどちらを上にしても、また途中で組み替えても坐禅には何の障害にもなりません。人によって脚関節の具合や硬さは様々で右脚よりも左脚が柔らかい人もあり、その逆の人もあります。臨機応変にどちらも可です。痛い組み方、困難な組み方の方が正しい、より優れていると思うのは、修行には難行苦行が伴うものであるという常識的な既成概念に過ぎません。難行苦行こそ修行であるという既成概念の強い人は、是く考える傾向があります。
坐形や肉体的苦痛に、坐禅修行への絶対なる寄与貢献の因果関係はないのです。
威儀・作法に上下、優劣はないと心得て禅の修行を行うのがよいのです。
ただ、集団に於ける修行生活には、様々な生活習慣の人々が入り混じりますので、全体が円滑に修行生活ができるように、それに見合った共通の威儀・作法・規則が必要なことは言うまでもありません。威儀というのは日常の起居動作のことです。
「寛く衣帯を繋けて斉整ならしむべし」
衣服はかっては和服でしたから衣帯と表現しています。ゆったりとし帯をきつく締めずにほどよくしていながらも、、だらしなく着ないで清楚に整えなさいということです。
現代の洋服にしても、和服や僧衣に準じて礼を失しないようなものを整えて、ゆったりとした衣服を身に着けてベルトもゆるくして、ゴムもしまり過ぎないように、ほどよくして坐します。
「次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両の大母指面いて相挂う」
これは手の組み方です。
手の平を上に向けて右手を下にして、その上に左手の平を上に向けて重ねて置き、親指の先を触れ合う程度につけて、人差し指、親指で楕円形(卵形)になるように組みます。
組んだ手の位置は臍の下から足の間なら何処でもよく、自分の腕の長さに応じた高さに置けばよいのです。
「及び生身端坐して、左に側ち右に傾き、前に躬り後に仰ぐこと得ざれ」
姿勢を正しく端正に坐して、左に傾いたり右に傾いたり前屈みになったり後ろに反らないようにしなさいという注意です。
姿勢を正しく端正に坐するには、坐蒲の三分の一にから半分くらいに尻をのせて坐り、背骨をきちんと立てると自然にそのようになります。
その時、初心者は胸を張ったり腰を入れて反ったり腹を前に出したりする傾向がありますが、そのところは要注意。呼吸が自然にできるように程々にすることです。あまり力まないようにして、しっかりとゆったりと姿勢を保つこと、アゴを少し引いて頭・首筋をスーと伸ばし背骨は真直ぐ立てるが、胸も腹も腰もゆったりとして坐ります。
「耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す」
背筋を真直ぐ、肩は左右どちらかが前に出ないように、或いは後ろに引かないように、腰をひねらないようにという注意です。あまり「正身端坐」といって、姿・形にこだわらなくてよいのです。こだわるならば坐禅の要術である非思量にこだわるべきです。
姿・形はほとんど長時間坐っても疲れないように、身体の節々が痛まないように、肩や首、背中が凝らないようにする為に注意べきこととして記してあります。
指導者や他者の目を気にする必要はないのです。自らが正身端坐であると感じられる程度で充分です。坐相(坐禅の姿)だけではその人の心の中は皆目分からないものです。人の心を読むことができる禅僧など存在したためしはありません。他心通は六神通力の一つですがそれが坐禅によって得られるということはありません。非思量という心の内容は坐相に現れることはありませんのでご心配なく。
「舌、上の顎に掛けて唇歯相著けて、目は須らく常に開くべし」
舌は上顎、或いは舌先を上歯の内側の歯茎辺りに軽くつけておくのがよく、唾液が過剰に口中に溜まるのを防止してくれます。唇や歯は自然に閉じていればよいのです。意図的に「しっかり」とか「強くくいしばる」ようにしてはいけません。あくまでも自然でよいのです。自然に力が入ってしまっているならば、それでも可ですが、意図的に力を入れることは不可です。やってはいけません。唇に意図的に力を入れると、その意図的な感覚や意識がいつまでも唇や口全体に残って、無眼耳鼻舌身意に至ることへのブレーキとなってしまいます。
目も半眼(半分開けておくこと)ではなく、しっかりと或いは普通に常に開けておいた方がよく、半眼の場合、眼に意識が残ってしまい自己を忘ずることの障害となります。眼を閉じては、必ず知らぬ間に眠ってしまうこととなるので、気を緩めて眼を閉じてはいけません。眠っては修行になりません。いつも覚醒状態を保っていなくてはなりません。眠気と戦うのは大変なことなのです。坐禅に慣れてくると必ず睡魔との戦いに誰でもが苦労するのです。眠る癖をつけないことです。
「鼻息微かに通じ、身相既に調えて欠気一息し」
呼吸は鼻で自然な気にならないような静かさでしているのがよく、意図的な呼吸は静かであろうが、ゆったりであろうが、極めて長かろうがすべてよろしくありません。意図的な呼吸をすると意識が呼吸に残ってしまって、それを取り除くのに苦労することとなります。意図的な呼吸をしてはいけません。自然にそのようになっていく分には構わないのです。自然にそのようになっていく場合は、本人が気付くことはないのです。どのような呼吸であろうと、坐禅そのものの邪魔にならなければそれでよいのです。それ以上の役割はないのです。
身相は姿勢のことです。
身相は坐禅の姿のことで姿勢を調えたら、大きく深呼吸をして呼吸を調えると気持ちもそれに従って落ち着いてまいります。深呼吸は気持ちを落ち着ける為に行うものですので1〜2回か2〜3回で充分呼吸は調います。その程度のことでそれ以上の意味はありません。呼吸や姿勢に意味を持たせると坐禅の要術である非思量の工夫に至らなくなってしまい本末転倒になってしまいます。用心して下さい。
「左右に揺振して」
坐蒲の上に姿勢を調え呼吸を調えて坐ったら、ゆっくりと上体を大きく左右に揺り動かし徐々に小さくしていき中心で止めるのです。そして一度その姿勢で顎を少し引いて正面を見て、そして視線だけを前方1〜2メートルの下方に適宜に落とします。非思量の工夫に専念する為です。
「兀兀と坐定して」
兀兀というのは不動の様子、山の如くになって坐るということです。兀兀というのは一心不乱に頑張る様。兀は山が高くそびえる様。
これは外部からの見た目の坐禅の姿・様子です。自分の心の中にこのような様子を構えてはいけないのです。余計なことなのです。余念なのです。
「箇の不思量底を思量せよ、不思量底、如何が思量せよ。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり」
この文章は中国の薬山惟儼禅師という祖師の言葉です。道元禅師は薬山惟儼禅師の言葉を引用して坐禅の心の功夫の仕方を示されたのです。思量は思考のこと。思考のない心のあり方は思量することはできないのです。
不思量の時、人の心には思量という内的刺激情報は存在しません。内部からもたらされる思量という刺激情報がなければ思量は動きません。これは五感への外部からの刺激情報(視覚情報・聴覚情報・味覚情報・触覚情報・臭覚情報)がなければ、それぞれの感覚(視覚・聴覚・味覚・触覚・臭覚)が働かないのと同じです。
例えば、音の刺激情報を縁に応じて受け入れる聴覚機能は、外から音の刺激情報が耳に入らなければ動かない。このことと同じ作用です。「不思量」「非思量」の精神状態を功夫によって把握し、それを維持し続けることが坐禅なのです。この「不思量」「非思量」を状態を相続していけば、自然に自己を忘ずる時節が訪れます。身心の感覚が脱落する時が必ず来るということです。この「自己」も「身心」も共に自我、或いは意識、自意識、心の中に居るもう一人の自分、自分を観ている自分のことです。
しかし、ここで身心脱落の時が必ず訪れるというと、人はそのことを「待つ気持」を必ず起こすものです。この「待つ気持」を持っていては坐禅にはなりません。「待つ気持」というのは余念なのです。意識がそこに集まってしまいます。非思量の坐禅の中に「待つ気持(意識)」が混ざっていることになるからです。非思量の坐禅(この坐禅を曹洞宗では只管打坐といいます)には「待つという気持ち」「予期」「予感」「何らかの坐禅に対するイメージ」「自己のイメージ(例えば眼でも口でも頬でも表情でも身体でも姿勢でも)」一切を介在させてはいけないのです。これらは皆、雑念であり余念であり意識であり混じりものなのです。坐禅、只管打坐にとってこれらは皆マイナス要因となります。用心しなくてはなりません。
・坐禅は面壁(壁に面って坐る)。
「壁」とは人に対面していないという意味で障子でも襖でも曇りガラスでも衝立でも可です。
明るさは眠くならない明るさが一番よく、それは人によって様々です。坐禅には薄暗いのが最善であるという固定概念は何の意味もないのです。
明るいと心が散乱し、薄暗すぎると気が沈むというのは一般論であって必ずしもそうではありません。
人、それぞれの適する明るさというものがありますので一人で坐禅する時は自分の好みの明るさでよいのです。
・時間
1回の時間に決まりはありませんが、一般的には30分~60分です。
1日何回でもよろしいです。人の出入りがなく静かであればいつでも構いません。
目覚まし時計(針の音がしないもの)でタイマーをかけておけばよく、線香で時を計ると線香の減り方が気になるのでやめた方がよいでしょう。
坐禅を完結したければ、良き指導者を捜して直接に指導を受けることが必要です。坐禅には正しく行っているか否かの確証がなく、またその目安もないので、指導者がいない状態で坐禅をしていると、常に正しいかどうかの不安がつきまとうのです。坐禅の独習は不可能ではありませんが、正しい在り方をそれでも自分で気付かないので困難を伴います。
また坐禅会に参加して、多勢で坐禅をする時の大衆の威信力も坐禅の継続には大きな力を発揮するので、独習よりも坐禅会に参加する方がよいでしょう。
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2015.9.27
禅の修行は「自己」を対象とします。この自己は「自己の中の自己」「自己の内面を観察し知っている自己」「自己の中にイメージとして持っている自己」を指します。
この自己の中の「自己」は、我々が一般的に感じている「意識」のことです。
非思量の坐禅をして修行を重ねていくと、心の中の一切の思考は消滅します。正確にいいますと、心の中に一切の思考が生じなくなります。そうすると、いまだに心の中に残っているものがあることが分かります。一切の思考の存在しない心の中にあるものは、自己の中の自己、即ち意識です。
一切の思考の生じない心の状態を曹洞宗では「非思量」といいます。
禅の修行によって禅僧は心の中の一切の思考を排除することができます。これは坐禅中の心の工夫によって行うことができるようになるのです。誰でも意欲があれば可能なことです。特別な資質や能力は必要ありません。そうなりたいという願望と忍耐力があれば誰にでもできることだと思います。
心の中の一切の思考が存在しなくなりますと、心の中に存在しているものは意識(自己の中の自己)のみです。他のものは一切存在していません。
禅の修行は自己の中の自己を対象とし、その自己を忘却することが目的です。自己の忘却を解脱(悟り、大悟、身心脱落等々)といいます。何の為に忘却するかというその理由は禅僧によってまちまちです。禅僧の修行における共通の理由というものはありません。禅の修行の動機は問うべき問題ではありません。それよりも修行に対する持続的な「忍耐力(五年、十年でまずまず、二十年、三十年にわたることも充分あります)」と持続的な「志」があるかどうかが問題です。
自己の中の自己、即ち意識を忘却する方法が坐禅なのです。
一般に、自分の思考と自分の中の自己は、一体で別々のものではないと考えられております。この二つを分離することなど常識では考えられないことですが、禅宗はそれを修行として行うのです。
その方法が坐禅であり、坐禅の心の工夫である非思量です。
非思量の修行を続けていきますと、非思量の状態を容易に維持できるようになってまいります。更に非思量を維持し続けていきますと、冷静に一切の思考、想像の存在しない心の中を観察できるようなります。自己の中の自己、即ち意識のみがそのままで、思考が存在していない状態を知ることができます。
ここで思量と意識(自己の中の自己)は、全く別々の機能(役割)を持った別々の存在であることが分かります。思量と意識(自己の中の自己)は相互に影響し合うことも、一方的に干渉することもないことが分かります。思量が日常的に心の中に存在しなくなることが多くなっても、意識(自己の中の自己)はそれに応じて消滅していくようには感じられません。感覚的に厳然として心の中に存在していることが分かります。変化する様子はありません。
自己の中の自己とは、自己の様子を観察している心の中の自己のことです。禅ではこの自己を「我」といいます。この自己が心の中にある状態が一般的なのですが、これを有我(有心)といいます。
一般の人の有我は悟らない限り消滅することも途切れることもありません。常に変わらず存在し続けているのが我、即ち意識なのです。この自己が心の中に存在しない状態を無我とか無心とかいいます。禅の悟った人の心境です。
仏陀も達磨も道元禅師も白隠禅師も一休禅師も良寛禅師も皆、無我(無心)の人です。
無心の「心」というのは、この場合、自己(我、意識、自己の中の自己等々)のことです。
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2015.10.15
「非思量」というのは禅の専門用語ではありません。この漢語を和文に訳しますと「思量に非ず」ということです。
「思量」というのは人の思い、念い、思考、考え、想像、思慮ということです。
「思量に非ず」ですから、思量を否定した状態です。
人の脳は日常、思量の状態か思量のない状態のどちらかしかありません。思量をしている状態と思量をしていない状態と、どちらが多いかというと、そのほとんどの人は思量をしている時の方が圧倒的に多いものです。
人は習い性で思量をする癖が身に付いてしまっているのです。
これは本質的なものではなく習癖ですので、この習癖は変えることができるのです。この思量の習癖を変えることができるという原理を応用して「非思量」という修行をしているのです。
この「思量」というのは、しっかりと意図して思う考えることのみならず、何とはなしに自然に「思ってしまっている」ことも含まれます。
自らが意志や目的を持って思考することと、意志や目的を持たずに、気になっていること、気になったこと、過去のこと、これからのことを何となく思い起こし、何となく知らぬ間に忘れてしまうことも含まれます。
また、この「思量」は一般的な思い、考、想像のことなのですが、更に詳しく厳密に分析して申し上げると、言葉を用いる思量と像形色を用いる思量とがあります。
言葉(言語)を用いる思量は一般的に、思いとか考えとか思考とか申します。
像・形・色を用いる思量を一般的に想像と申します。
この二つの思考、想像以外に思量はありません。心(頭)の中で言語と像形色を用いない状態を「非思量」といいます。
この状態は自分の心の様子を注意深く見ますと、どなたでも理解できるはずです。決して禅の世界のみの特別な状態ではありません。
人の心(脳)の活動は多くあります。
例えば、言葉を用いる思考と像形色を用いる想像以外に「喜怒哀楽好悪の感情」「物事や体験を記憶したり記憶を起こしたり(記録のインプットとアウトプット)する活動」「様々な欲望の生滅」「自己の存在」「意識の活動」「自己保存本能の活動」「自己遺伝子保存本能の活動」等々です。
禅の修行では脳の様々な活動の中で「思量の有無」を問題にします。
他の心(脳)の活動は問題にはしません。思量以外の心の活動に手をつけたり、抑制、制御したりすることは一切ありません。皆、放っておきます。禅の修行はあくまでも思量の有無だけを常に問題にするのです。他の脳の活動に心を向けたりしていては修行にならないのです。放っておいたり無視したりするしかありません。
非思量の状態を維持していきますと、段々思量のない状態が増えてきます。思量のない状態を無念無想と一般に言いますが、無念の念は言葉(言語)による思考のことです。無想の想は像形色の思い、考えです。
無念無想は禅の本格的修行の様子で特別な心境ではないのです。
非思量と無念無想は同じことの表現の違いです。特別視してはいけません。
完全に非思量に至りますと心の中に残っているものがあることが分かります。
それが道元禅師の「仏道を習うというは自己を忘るるなり」の「自己」です。それ以外のものは心の中に何も残ってはいません。
「自己を忘るるなり」の自己は現代の言葉でいう「意識」です。
一切の思考がなくなると心に残っているのは自己であり意識です。
禅の修行で非思量の状態を保っていると、この意識の存在が問題であり、この意識が邪魔なる存在であることがはっきりしてきます。
そうすると修行の目的は、この意識を消滅せしむれば心が自由になり安楽になり、このままですべての存在を納得することができることがよく分かってまいります。
そしてこの意識を消滅せしむることが仏道修行の目的であることが分かります。
この意識は何も変化はしません。増えたり減ったり生じたり滅したりもしません。ただ存在しているだけです。私達が放っておけばいつまでもそのままです。
この意識が自己の眼、鼻、耳、舌、身、意の存在の感覚を作ります。
実体のない半透明の常にゆらいでいる自己の顔や身体や手足をつくり出します。自己の身体の輪郭もつくります。それらは固定的なものではなく、常に陽炎のようにゆらぎを持っています。
非思量の状態で意識を観察すると、以上のことが分かってまいります。
更に、非思量を続けていきますと、自己の眼、鼻、耳、舌、身、意のうすい半透明の存在感覚が次第に薄くなっていきます。また、実体のない薄い半透明のゆらぎのある自己の顔や身体や手足が消滅していきます。身体の輪郭もなくなってきます。
この身体の輪郭というのは、峨山禅師が述べている皮膚脱落の皮膚のことです。
このような変化の過程で意識の機能が見えてまいります。
なぜ意識があるのかということが、宗祖の言葉から理解できるようになります。道理だけ理解するのではなく、実際に非思量をだまされたと思ってやってみると文献に書かれていないことが見えてまいります。
祖師方の法語は実際に行ってみると分かってくることばかりですので、学問的に研究している先生方も艱難辛苦して実際に行ってみることをお勧めします。よい研究論文が書けるようになります。
宗祖道元禅師は著書である正法眼蔵、現成公案の中で「仏道(禅)を習うというは自己を習うなり 自己を習うというは自己を忘るるなり 自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」と述べております。
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2015.10.13
曹洞宗開祖 道元禅師著ー正法眼蔵 現成公案ー
『仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。』
この文は禅の修行の基本でありすべてです。
「自己を忘却する」のが禅の修行の目指すところです。自己を忘却する為に坐禅をし非思量の実現を様々に工夫するのです。
自己を忘却して無我になると、有我の時には分からなかった人間の様々な本質が明らかになります。自己を忘却しなければ決して分からない人間の本質が明らかになるのですから、何はともあれ、まず自己を忘却しなさい、自己を忘却する為に坐禅をしなさいと説くのです。
ここに「自己」という言葉がでてきますが、この自己は心の様々な働きの中のどれを指すのかを正しく把握しないと曹洞宗の修行はできません。「自己を忘るるなり」の自己が見当違いのものであったら、終生、仏道の成就はあり得ないこととなります。すべての努力、すべての忍耐が徒労に帰してしまいます。
最初に「自己」をしっかりと確認しておきさえすれば・・と後悔するばかりとなりますので、禅の修行を始めるにあたって道元禅師は何を自己と称し、我々は心の中の何を自己と思っているのか、自己の心の中を一度、整理してみることが必要です。
(1)喜怒哀楽の感情そのものが自己か?
それともその感情を感じて知っている私が自己か?
(2)食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、財欲、知欲等の欲望そのものが自己か?
それともその欲望を感じ、その欲望に動かされているのを知っている見ている私が自己なのか?
(3)視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の知覚そのものが自己か?
それともそれらの知覚を認識している私が自己なのか?
(4)思考、想像、記憶の機能そのものが自己か?
それともそれらの動き働きを知っている私が自己なのか?
(5)話したり聞いたり議論したりする活動そのものが自己なのか?
それともそのことを知っている私が自己なのか?
(6)身体の存在とそれを自由に動かし使っている機能が自己なのか?
それとも存在と活動を見て知っている私が自己なのか?
(7)悩み苦しみ迷っているそのものが自己なのか?
悩み苦しみ迷っているのを見て知っている私が自己なのか?
(8)自分の言動、自分の心の動き、変化のすべてを冷静に見ている知っている心の中の私が自己なのか?
(9)自分にすべてを見られている私が自己なのか?
すべてを見ている私が自己なのか?
(10)他人の視線を感じている私が自己なのか?
他人の視線が自己なのか?
(11)自他を区別している私が自己なのか?
(12)意識そのものが自己なのか?
意識の存在を感じている私が自己なのか?
(13)自意識そのものが自己なのか?
等々。以上が私達が自己と思っている精神的な事柄です。
これだけ多くのことがありますので、自己流で「仏道を習うというは自己を習うなり」の「自己とはこれだ」と先入観で決めつけると間違いを生じ易いので、自らの心の中をよく観察し、そして正師にしっかりと尋ね尽くさなければなりません。「自己」が明らかに把握できれば、以降の修行は間違うことはありませんので、とても大切なことです。
ここで私が「仏道を習うというは自己を習うなり」の「自己」とはどれを指すのか明らかにしますので、自分の心の中をよく見て下さい。
上に列挙したような様々な身体や精神、脳の機能そのものを「私(自己)」と思っている方も少なくないと思います。一方、それぞれの機能を司っている(統御している)ものが私という「自己」であると考えている方も多いと思います。
それぞれの機能を司る(統御する)ものは縁に応じて間髪を入れずに働くものですが、そこには自己が介在する余地はないとするのが禅の道なのです。
「自己を習うなり」の自己は、それぞれの機能が縁に応じて自在に働いているのを「知っている私」のことです。例えば私が話をします。その話をしているのを知っている「私」が「自己を忘るるなり」の自己のことなのです。一般的に意識と呼んでいるもののことです。
このことをしっかりと理解して非思量の坐禅を工夫して下さい。
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2015.10.15
禅の修行は静かに坐して行う坐禅ばかりではありません。禅宗は起きている時はすべてが修行なのです。修行道場(僧堂)における規矩で定められた宗教的日常生活ばかりではなく、一般的な日常生活も禅の修行になるような心の用い方(在り方)を工夫します。私達禅僧はありふれた日常生活でも疎かにしたり、徒に過ごしているわけではありません。生活上、為すことすべてが禅の修行になるような心構えで日々を送っているわけです。
禅の修行は静中(静かに坐している時)の修行と動中(何らかの日常の動作をしている時)の修行の二つがあります。
静中の修行というのは、坐禅という坐る姿勢の時における修行のことです。一般的に誰でもがイメージしている禅の修行です。
動中の修行というのは、坐禅の合間に行われる歩行禅、つまり経行における修行と、「威儀即仏法 作法是宗旨」といわれるように戒律や規矩で定められた宗教行事や宗教的日常生活の威儀、作法を執り行う時における修行と、ごくありふれた日常生活をしている時における修行とがあります。
静かに坐している時の修行というのは正身端坐といって、正しい坐禅の姿勢を保って行う修行です。禅の修行の基本は坐禅ですので、静かな環境で静かに坐禅を行うことによって禅の修行の基本を身につけるのがよいと思います。
いきなり動く禅の修行を行うことは難しいので、静の修行の基本をしっかりと身につけ調心がある程度できるようになってから動く禅の修行を行うのがよいのです。
「動静の修行に難易の差はないので、どちらから始めてもよいし、どちらを行ってもよい」という師家がありますが、実際に行ってみると動く禅の修行(動中の工夫)の方がかなり難しいことがわかります。
まず、静中(坐禅)の工夫がしっかりと行えるようにすべきです。しっかりと静中の工夫ができるようになってから動中に工夫を広げていく方が行い易いものです。
動いている時の禅の修行と静かに坐っている時の禅の修行は、それぞれの状態の中で非思量が正しく持続して行えるように心の中で、ああでもない、こうでもないと様々に工夫を重ね続けるのです。これを動中(動いている最中)の工夫、静中(静かに坐している最中)の工夫と申します。
坐禅はまず、身の作法(坐禅の身体上の姿勢、作法、手順)を習います。これを調身といいます。次に、呼吸の整え方を習います。
これを調息といいます。
調身と調息をまず何回か実際にやってみて、おおよそ一人でできるようになったら、心の調え方を指導僧から本格的に教わります。心の調え方は難しく、教えられてもなかなかできるものではありません。
心の調え方を調心といいます。そこで調心がしっかりできるように、ああでもないこうでもない、ああやってみようこうやってみようと様々に心の中に工夫を重ねます。ここのところが修行者、参禅者として一番苦しいところです。どう工夫しても調心ができないのです。調心の端緒をつかもうと工夫に工夫を重ね、忍耐に忍耐を重ね続けます。そうこうするうちに調心のコツがつかめ始めます。調心が把握でき、しっかり行えるようになってきたら動中の工夫も始めます。
調心そのものは静中も動中も同じです。
しかし、工夫の仕方は静かにしている時の工夫と動いている時の工夫とでは、そのやり易さには難易差があります。非思量のやり易さに難易差がありますが調心そのものは同じです。
ここで調心につて少し説明致します。
開祖 道元禅師の坐禅は「非思量」という心(脳)の状態を維持するのです。
曹洞禅は「只管打坐」と言い表されています。只管というのは「ひたすら」とか「余念をまじえず」とか「ただ」という意味の動詞を修飾する副詞句です。
曹洞禅の修行は、身体は坐禅の姿勢を保って心の中では非思量を維持します。このことを「打坐」と言い表しています。
「只管打坐」という漢語句を和文の読み下し文にすると「只管に打坐せよ」ということになります。「打」は強調の接頭語です。「坐」は坐禅です。坐禅はその内容は非思量です。
ですから「只管非思量」ということになります。和訳すれば「ひたすら非思量であれ」或いは「余念をまじえず非思量を行ぜよ」ということになります。
「非思量」は曹洞宗の両祖師 永平道元禅師と総持瑩山禅師が坐禅の要術(要諦)であると言われるほど、曹洞禅における修行の重要な唯一の手段なのです。これを外しては禅の修行は成り立ちません。
曹洞、臨済のあらゆる坐禅の工夫の仕方、例えば、数息観や随息観や公案等はすべて修行が進むに従って非思量に集約されていきます。入口は異なっても修行が進むに従って皆、「非思量」になってまいります。
ただ、最初から非思量は難しいので、初心者には便宜的方法として取りあえず、数息観や随息観や公案を用いて「非思量」へと導くのです。勿論、人によっては最初から「非思量」を行わしめてもよいのです。これは師家(禅の公認の専門指導僧)が修行者の器を見て決めるものです。
この「非思量」は静中に限らず、動中でも要です。
動中においても平凡な日常生活の起居動作をしながら、心の中は「非思量」の状態を維持するのが動中の工夫なのです。
動中の工夫は動きに心が奪われ周囲の変化に流されて非思量どころではなくなってしまいます。いつの間にか非思量を保とうという気持ちが紛れてしまい、非思量の工夫を見失ってしまいます。このことを何十回も何百回も何千回も性懲りもなく繰り返し続けているのが実状です。これが精進の実態です。
諦めないで気が付いたらまたやることしか、確実に非思量に至る方法はありません。
禅の専門的修行僧は坐禅を行うのに適した環境である坐禅堂(僧堂)で静かに坐して、心(脳)の中を普段の心の状態から修行の状態である「非思量」に移行させ(切り替え)ます。簡単に切り替えはできませんが、できるまでやるしかないのです。
そして「非思量」の状態を約40分間(坐禅の1回の時間)維持することに全神経を傾けます。集中が途切れないように全神経を傾け続けます。
しかし、約40分の坐禅に慣れてくると眠たくなります。少し気を緩めるとすぐに眠くなります。眠くなるということは気の緩んだ証拠ですが、眠くなると同時に集中のたががはずれて、様々な思量が湧出してきます。
そしてそのまま浅い眠りに入り、その時の思量がそのまま夢となり、夢を見続けていきます。ハッと気が付くまで夢を見て現実との区別がつかない状態が続きます。なんとしても眠くならないように覚醒状態を保ち、非思量を維持する努力を工夫をします。それでもなかなか行えるものではありません。
動中における非思量を保つ工夫は、坐禅堂(僧堂)のように非思量の状態を行い易い整えられた環境ではないので、かなり難しいものです。
動中であれ、静中であれ、「非思量」という状態を維持することは同じです。
動中の工夫は静中の工夫よりも、幾千倍もの効果があると白隠禅師が述べていますが、幾千倍の効果があるということは、それほど難しいということです。それほど精神力、集中力を維持する力、忍耐力が必要ということを意味します。
「非思量」を維持することを禅の専門用語で「正念相続」といいます。
「正念」というのは「非思量」のことです。「相続」というは維持、持続、継続という意味です。
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2015.9.27
禅宗では歴史的に言葉の定義が一度もなされておりません。現代に至っても禅用語の定義がなされず、師家(禅の公認指導者)によって禅用語の使い方にある程度の幅があり、まちまちです。師弟は阿吽の呼吸によって意を伝え意を受けて理解するのが禅門の伝統なのです。つまり以心伝心なのです。
その為に師も弟子の理解度が明確に確認できず、弟子も師の説くところ(意向)が明確に確認できないまま、一抹の不安を持ったまま修行を続けることになってしまっているのが実状です。
歴代の書き手、説き手である祖師(悟った歴史上の一級の禅僧)方も、その祖師の見識によって、語句の意味にある程度の幅をもたせて使用しております。
聞き手、読み手である修行僧は、文の前後でその語句の意味を解釈しなくてはなりません。聞き手、読み手である修行僧の修行の力量が文(語句)の解釈に大きく影響してきます。
自分の力量以上の文を解釈するときは、分からないのに無理に解釈しようと努力してはいけません。その文(語句)が分からないときは、未だ修行がそこまでに至っていないと受け取って、文(語句)のことはそのままにして坐禅に励まなくてはいけません。文(語句)の解釈ができないときは、坐禅に励みなさいということだと受け止めなくてはなりません。
禅の修行が、祖師の書かれた祖録(法話)を理解したり、或いは解釈することによって進むということはありません。祖録というのは、自分の修行の力量を知る目安となるべきものなのです。修行の力量があれば、語句の使い方に惑わされることはほとんどありません。正しく解釈できるものです。
禅の指導の問題点、及び修行の難しさ、及び禅問答が分かりにくいという理由は、用語の定義がなされていないことにあります。一日も早く、全国の師家方が集まって実践を踏まえた明確な禅用語の定義集を作って下さると、修行僧にとって大きな福音となります。是非やるべきです。
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2015.10.22
禅僧によって修行における専門語、慣用語句の使い方は、それぞれ個人的にある程度の幅を持って使っています。その語句をどのような意味で使っているかは、読み手が文の前後によってその意味を特定して理解するしかありません。その理解には読み手の修行の力量による部分がかなり多いと言わざるを得ません。
今日の学問の世界におけるのと同じように、禅門においても基本的な専門語、慣用語句の定義を、誰が読んでも正しく伝わるように厳密に詳細にしなければならない時代になっていると思います。
基本的な禅の専門語、慣用語句の定義は、禅学の専門家によるものでは実践の工夫の経験が少なく、机上で禅の修行を試行錯誤するので参考になることが少ないものです。彼等ではなく、実際に修行している経験豊かな禅僧や身心脱落した禅僧によるものが必要です。
禅の修行の実践についての基本的な語句の解釈や定義は、理論的に現代の常識に収まらないことが多いのです。
禅修行の実践を伴っていない禅学の専門家では充分納得のいくものはできないと思います。
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2015.9.27
一般の人の中で「自然に無心に至った人」は、歴史上いないことはありませんが、皆無といってよいほど稀です。ほぼ100%の人々が有心、つまり意識の伴った日常生活をしています。意識の存在は、一時的に紛れたりすることはあっても途切れたりすることはありません。
一般の人の無意識の知覚、無意識の行為と、悟りを開いた禅僧の無心の知覚、無心の行為とは、その本質において異なった精神状態です。
「無心にやってしまった」「知らぬ間にやってしまっていた」「無意識にやってしまった」という無意識の知覚、行為というものは、実際は人のあらゆる知覚、行為の時に、記憶する機能が一切働いていない精神状態における知覚、行為のことです。記憶していないだけであって、実際はその知覚や行為は、その人はその時に意識を伴って自覚し判断して行っているのです。意識があっても記憶という機能が全く働いていない精神状態が人には存在するのだということを理解していないと、このことは分かりにくいのです。
そうでないと、無意識という何か特別な精神状態があり、無意識という意識が存在しているかのように誤解してしまうことになります。
意識という言葉に対して無意識という言葉がありますが、無意識という意識は実際にはないのです。無意識というのは、意識があるかないかということではなく、その知覚、行為を記憶しているかいないかということの問題です。
一般の人は自己の意識がすべての感情、思考、想像、記憶、欲望、知覚を統括し司っていると考えています。それが問題なのです。
私達は、感情も思考も想像も記憶も欲望も知覚も言動も、すべて自己の意識の介在なしで行われていることを、知らなくてはいけないのです。
人の言動には意識の介在が必要ないことを知ることが、禅の修行を正しく理解する為には必要です。このような状況を諸法無我というのです。
このような精神世界があることを最初に発見した方が、今から約2400年前 インドに実在したシッダールタ(ゴータマ=仏陀)です。仏教の開祖です。
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2015.9.27
意識的知覚とは記憶の機能が働いている精神状態における知覚のことです。禅の立場からすると意識が知覚するのではないのです。
五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)の機能がそれぞれに自律的に知覚するのであり、その知覚に意識が関与したり介在したりすることはないのです。
人の知覚に私という主体があるように思っていますが、実際は人の知覚に主体はないのです。知覚するのは「私」ではないのです。知覚したのを知るのが「私」です。
知覚は人の意識が働く以前に、すでに始まり終わっているのです。人の意識は常にその残効(残影)を相手にしているに過ぎないのです。
一般に人は意識が自己であり、意識が言動や精神活動の主体であると錯覚をしています。
無意識的知覚
禅の立場からすると無意識という意識はありません。これは記憶する機能が一切働いていない精神状態における知覚のことです。知覚だけでなく思考や想像についても同様のことがいえます。人の一切の行為や状態に対して必ずしも記憶する機能が伴う(働く)ということはないのです。人の行為には記憶能力が全く関与していない場合も多々あるのですが、そのことを人は記憶していないので把握できないでいるだけです。
無意識というのは、実際は意識が有るとか無いとかということではなく、意識の存在を記憶していない状態、自ら一切の行為を記憶していない状態のことを指しているのです。
一般の人の場合、意識は人の心の中に常に存在し、思考や想像や感情や欲求や言動に必ず伴っているのです。そして人は意識が思考や想像や感情や欲求や言動を司っているかのように感じています。「無意識に云々・・・。」という場合は、これらの行為のときに意識がなかった訳ではなく、意識があったが記憶の機能が全く働いていなかっただけのことです。うっかりしていた訳ではないのです。茫然自失の状態であった訳ではないのです。
意識の有無ではなく記憶の有無の問題です。
禅における無心は意識を完全に忘却した心の状態です。無心は意識感覚の完全な忘却であって、記憶能力の欠如(欠落)ではないのです。
「無意識」と「無心」とは全く異なった心の状態です。無心における行為は無意識といわれる心の状態ではなく、意識そのものがない心の状態での行為です。意識はないが記憶がないわけではないのです。意識のないまま記憶はできるのです。ここが一般的にいわれる無意識の行為とは異なるところです。無心の人の行為は知らぬ間に行ってしっまたということでも行為したが覚えがないということでもありません。その時にそのことをしっかりと全身全霊をもって受け止めています。うっかりはないのです。
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2015.10.12
精神分析学の世界で抑圧によって意識に出てこないようにすることを無意識化といいますが、それはその記憶が出てこないように意図的に抑え込んで、出てこないようにしている状態をいいます。
意識を無意識化するという発想に何ら根拠はありません。そもそも意識にいわゆる意識(顕在)と無意識の二つの意識があるとする根拠はありません。無意識という意識が存在すると仮定した方が精神を説明する時に都合がよいということが根拠で、科学的には極めて弱い根拠です。
無意識化というのは意識の問題ではなく、自らの意志によって記憶をコントロールするところの記憶の出入の機能(働き、作用)の問題なのです。
その記憶が出てこないようにすることを無意識化と言っていますが、その記憶が出てこないようにする理由は不快であるからです。この場合の精神的な快、不快は人によって様々で基準はありません。ある出来事が不快なものであり二度と思い出したくないということは一般的によくある話です。ある出来事にまつわる記憶が不快だからと抑え込んで出てこないようにすることは可能です。それ程難しくはありません。
もし、それが疑問と思うならば実際にやってみるとよいでしょう。
人は不快の故に抑え込んで出てこないようにしていることを更に出てこないようにするだけでなく、抑え込んでいることさえも記憶から消してしまいたいと願うのです。抑え込んだことも忘れてしまうことができるのですから、人の心というものは思いもよらないことをするものです。
これは無意識の問題でも無意識の作用でもありません。本人の快、不快の問題なのです。
この単なる記憶の入力と出力の問題を、意識に結び付けて論を展開するということは「意識」の本来の機能が全く解明できていないということになります。意識と心の快、不快の問題は直接関連はありません。
このような意識の無意識化という都合のよい論理は論理一貫性の為の論理で、事実に基づいているものではないので、意識の解明から益々遠のくこととなります。
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2015.9.28
人は皆、心の問題の捉え方が間違っています。
迷いが問題なのではありません。迷いは誰にでもあります。迷いは何時でもあります。
迷いを知る「私」が問題なのです。
苦悩が問題なのではありません。苦悩は誰にでもあります。苦悩は何処にでもあります。
苦悩を知る「私の存在」が問題なのです。
煩悩が問題なのではありません。煩悩は誰にでもあります。煩悩は何時でも何処にでもあります。
煩悩に伴ってそれを知っている「私」が問題なのです。
自己の中に、迷いや苦悩や煩悩を知る人がいなければ、迷いや苦悩や煩悩といわれるものはないのです。それらを知る「私」がいなければ、そのような様子があるだけで何も心の問題は起きないものなのです。
この世の中は、それぞれのことに「自分」が介在するだけで、まるっきり正反対の負の作用が起きるのです。自由が不自由になったり、安心が不安になったり、満足が不満足になったり、利他的な心が利己的な心になったりするのです。「自分」というものが介在するだけで、心の中に天地の隔たりができるのですから不思議なことです。
「煩悩即菩提」「娑婆即浄土」とはこのことを教え示した言葉です。
「煩悩即菩提」というのは、煩悩に「自己」が介在しなければ、煩悩と思っていたことがそのまま悟りであるということです。
「娑婆即浄土」というのは、この世は娑婆(忍耐の世界)であると思っていたのに「自己」を忘却したら、娑婆はそのまま浄土であったということです。
私達は迷いや苦悩や煩悩の現実から逃げたいものですが、それは無駄なことです。逃げた先に「自己」が離れずについてくるのですから・・。
迷いや苦悩や煩悩から逃げるよりも現実のまま「自己」を離すこと、「自己」を忘却することに努力するとよいのです。
その方法は、正しく修行をしている禅僧が知っています。
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2015.9.28
人間の五欲である食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、金銭(財)欲の中には入っていませんが、五欲に匹敵するする重要な欲に「知欲(知識欲)」というものがあります。
知欲は探求心として具体的に体現されます。
一般的には、知欲は真理を求めたり、何が正しくて何が間違っているのかを求めるたりするものと考えている人が多いと思いますが、知欲は真理とか真実とか、何が正しくて何が間違っているのかを求めているわけではありません。
知欲を満たすには、求めているその事が正しくなくてもよいのです。真実でなくても真理でなくてもよいのです。
その事を本人が正しいと思い、真実と思い、真理と考えれば、知欲は満たされるという性質を持っています。そして知欲は「知ること」によって満たされ、そこで完結されるものです。
しかも、これでよいという限界はなく無限に知欲は生まれ続け満たされることを求め続けます。ここに知欲の本質があり限界があります。
欲の一つである知欲は五欲(食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、金銭欲)と同じように、これでよい、完全に、永遠に満たされたという限界はないのです。塩水で潤す喉の渇きと同じです。他の欲望と本質的には同じです。つまり知欲が満たされても、それで心が真に満たされるのではないということです。知欲は心を満たすのではなく、知の「欲」を満たしただけのことです。
性欲と同じです。性が一度満たされても再び欲求し、更に欲求し、年老いて性欲が衰えるまで無限に続くのと同じ本質を持っているのです。知欲は人の心の安らぎにまでは及ばないのです。知欲は知という欲の充足が目的です。このことを忘れてはいけません。知欲に過度の期待をしてはいけないのです。知欲に心の真の満足や心の真の自由を求めてはいけないのです。心のことは知欲の領域外のことなのですから・・。
知欲は知ることによって、一時有限に満足するものであるということを理解して下さい。
心が自由になることと、知識的に自由ということを知ることは全く別次元のことであることに気付いていただきたい。
仏道は知欲の問題ではないのです。知欲の領域を越えた心の世界のことなのです。心の世界は知欲では捕まえることはできないのです。心の世界のことに「知る」という概念はそぐわないのです。
「道は知にも属せず、不知にも属せず」というのはこのことです。
禅の修行はその心になることが目的です。仏道は知ることではありません。その人となることが目的です。
自由についていえば、自らの真に自由の心の状況を知識学問的に知ることが目的ではないのです。真に自由そのものの人になることが目的なのです。そしてそれが可能なのです。そのものと、それを知る「知」の世界とは別次元の世界です。
人間の欲は、五欲に知欲を足して、六欲とするのが妥当だと思います。
なぜ現代まで、人間の様々な欲から知欲を外して五欲としてきたのか、私には分からないのですが、どうでしょう。
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2015.10.18
禅宗の修行において禅籍を読破し禅語を勉強し理解し完全に覚え、理に適う道理を説けるようになったとしても、決して道に至ることはありません。
祖師方の書かれた禅籍語録を研究して、その意味を解き明かしても、完全な論文を書き上げ発表し学会その他から賞賛され特別賞を頂いたところで、決して道に至ることはありません。
名聞利養を得たということで満足をすることはあるでしょうが、その満足は仏道の満足とは異質な一過性のものであり有限のものです。その満足は名聞利養よりもたらされるものなので、心の安らぎも自由も得ることはないのです。
人々が知りたいということから学問し理解し納得するという行為は、知欲、知識欲、知的探求心を満たす行為であって仏道を成就する行為とは全く別のものです。
知欲を求めるのは五欲、つまり食欲、性欲、睡眠欲、名誉(地位、名声)欲、財欲(金銭欲)を求めることと本質的には何ら変わることはありません。知識欲だからといって決して優れているわけではなく、またこれらはいくら求めても仏道により近づくということもないのです。いくら知欲の願望が満たされたところで、塩水で喉の渇きを潤すのと同じように、一時のものであり、渇いては潤し渇いては潤すという行為を生涯繰り返し、一時も心の安まることもなく、満たされることもないのです。
知欲はその性質上、他の五欲とその本質は同じものです。
例えば、一流のシェフの料理を腹一杯食べて食欲を完全に満たしたところで仏道の成就に至ることはないのと同じで、いくら仏教に対する知欲を最高レベルの学問や研究で満たしたところで身心脱落、無心に至ることはありません。
また、素晴らしい理想の異性を求め求めて、愛を満たし性欲を満たしたところで、無限の心の満足に至ることはないのです。これは性欲という一過性の欲を満たしただけで、また渇望の時に至ることは誰でもが承知していることです。
「臘を得て燭を望む」ということになります。
これら五欲や知欲の欲望には際限はないのです。しかもこれらの欲望から得られる満足は有限なのです。五欲と知欲の際限のない欲望と有限の満足には心の安らぎや自由はありません。
人は知りたいという願望があり、これを知欲とか知識欲とか探求心とかいいますが、これらは他の五欲よりも高尚であり優れているという価値観を一般の人は持っていますが、「欲」という本質においては何も変わることはないのです。
知欲が満たされても心が満たされることはなく、心の問題が解決されるわけでもないのです。知欲が満たされたことで心が満たされたと勘違いをし、心の問題が解決したと錯覚しているに過ぎないのです。
知識人や見識の高いといわれている人を含めて皆、自己の心がよく見えていないのです。
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2015.10.18
私は長年、自由について考えてきました。真の自由を捜し求めてきました。そして最近、世界的に活躍されているある高名な哲学者が自由について説かれたことを聴きました。そしてその著書も読みました。とても丁寧に易しく詳しく説明されていたのでよく理解できました。感激しました。久しぶりのことです。
しかし、ここで自らを顧みてみました。哲学者の自由論をよく理解できたのに、そして納得したのに、なぜ私の心は自由にならないのか? これ程よく理解できたのに、なぜ私は心の自由を得られないのか?
このことについては何も語られませんでした。著書にも、このことについては一つも触れられていませんでした。
現在の私にとって、自由とは何だという哲学や理論よりも、実際に自由の心になることの方が重要な問題です。
なぜ、自由についての道理を聞いても自由な心を得られないのか?
その理由を問うた哲学者はいたのでしょうか? どうも皆無のようです。
それでは心理学者はいたのでしょうか? 心理学者にも皆無のようです。
それでは精神分析学者の中にはいたのでしょうか? 精神分析学者の中にも、そのような人は皆無のようです。
それでは宗教者の中にはいたのでしょうか? 宗教者の中にも皆無のようです。
いや待て! 鎌倉時代の初めの頃の宗教者に、これに似たようなことを問い続け求め続けた方が一人いました。
それは曹洞宗開祖 道元禅師です。
彼は仏法を勉強し尽くし、若くして(18歳か19歳か?)結論に達しました。
仏教では八万四千の法門があり様々に説かれていますが、究極的には人は「本来本法性 天然自性心」であると説いています。つまり、人は「本来(生まれ付き、元々)仏性(法性、仏心)を持っており、それは天然のまま(そのまま、このまま、ありのまま)の心である」と、仏法は説いているとの結論に達し、よく理解ができ、その通りであると納得もしました。
しかし、理解し納得はしたのですが、自らの心がその通りにならないのです。その通りになっていないのです。なぜなのだろうと自らに問い、善知識、高名な僧侶に答えを求めました。しかし、この疑問に答えることのできた僧侶は誰一人としていませんでした。
結局、当時の中国帰りの禅僧、日本臨済宗の開祖 栄済禅師の元を尋ねました。しかし、栄済禅師は一足早く、既に亡くなっていました。
道元禅師は栄済禅師には会えませんでしたが、その弟子の明善和尚には会えました。
彼は「中国禅の中に、その答えを持っている禅僧がいるらしい。日本では無理ですから中国に行くしか方法はありません」と言いました。
道元禅師は意を決して中国行きを決め、明善和尚も、自らも本格的に禅の修行をしたいので一緒に同行させてほしいと申し出ました。二人は命の危険を賭して中国へ向かいました。道元禅師 24歳の時です。
中国を行脚して苦労に苦労を重ねても、一人の明眼の禅僧に会うこともできませんでした。諦めて帰国を決意したその帰国間際に、帰国船のある港で一人の老禅僧に出会うことができました。その老禅僧の師匠は、明眼の師であると告げられたので、最後の望みを託して会いに行くことに決めました。
その人が道元禅師を身心脱落へと導いた天童如浄禅師でありました。
道元禅師は天童如浄禅師のもとで坐禅をし、長年の疑問であった「本来本法性 天然自性心」そのものの人となりました。人の知恵による理解と納得を越えた人となったのです。
彼は理解と納得だけでは、なぜその人となれないのかという長年の疑問を解決しました。
その後、彼はそのことについて、その人となる方法を事細かに説明した書物をを著しました。それが普勧坐禅儀と正法眼蔵です。
この書物の中に、その人となる道が理論と実践の両面から詳細に記してあります。
彼は十代という年代で仏教の神髄である「本性本法性 天然自性心」を理で理解し納得したのですが、それだけではその内容が手に入らなかったのです。つまり、その人になれなかったのです。そこでそれが実際に手に入りその人となる方法を求めて、中国に渡り禅を修め根本的に解決して曹洞宗の開祖となりました。
一緒に中国に渡った明善和尚は中国で禅の修行中、病の為に亡くなり生きて日本に帰ることはありませんでした。
先ほどの話に戻りますが、自由についての道理を聞き理解し納得しても、私自身は自由になりませんでした。どんなに、その説を勉強し同感(共鳴)し感激したところで、私自身の心は一つも自由になりませんでした。今の私にとっては自由とは何だろうということの理論や哲学を知ることよりも、自由な心になることや自由そのものの人になる道の方が遥かに大切です。それなのに現在、その道を示す専門家が一人もいないということは、何と不幸なことでしょうか。
人にとって必要なことは、道理や理論や哲学を知り知識を蓄えることよりも、その人になることです。
ほとんどの人は知ることによって、或いは納得することによって、その人になったような錯覚をしているに過ぎません。しかもそのことに少しも気付いていないのです。
このことを知っている人は極めて僅かです。
ほとんどの人は知ることが重要であるとしています。そして知識として蓄えることの方が重要と考えています。知ること以上に大切なことがあることを知らないのです。
人にとって知ること以上に大切なこと、それはその人となることです。
人の活動の目的は集約すれば、そのすべては心の満足、自由、無畏、平安等に行き着くことです。そこで例えば、自由とは・・と問うと、どの哲学者も心理学者も精神分析学者も心理療法士も皆、自らの専門とする立場から、その理論や説を述べることでしょう。そして自らの理論を蕩々と述べるだけで、ほとんどの方がこと足れりと満足します。
その人々の中には自由になるにはどうすればよいのか、真に自由の人となるにはその理論や説をどのように実践すればよいのかを説く者はいません。更に、その理を理解し納得し共感しただけでは、なぜ真の自由を得られないのかを明らかにする者がいないのです。
このことの解決がなければ、聞き、読み、知り、理解し、信じ、共感し、感激したところで何の意味もありません。
大抵の人は聞いたり納得したり共感したりしただけで満足してしまうのです。その時にそのことについて何の疑問も生じないのです。自由について知識を得、理解し共感しただけで、自由になったような心持になってしまうのです。
現代人は知識に最も重きを置き、思考が好きなわりには単純な脳をしています。
思考の思考たる由縁とその限界が分かっていないのです。
人が更に、人間として向上する為には「理は分かりました。それではその人となるにはどうすればよいのですか」と問う人とならなければならないのです。
なぜ、理を理解しただけでは、その人となれないかを問う人にならなければならないのです。その理由と、そしてその人となる為の道、方法を求め実践する人とならなければ人生を真剣に生きた、或いは真剣に生きているとはいえないのです。
人生の目的は知恵の人、博識の人、地位名声のある人、財の豊かな人、多くの友人知人を持っている人等になることではないのです。「その人」となることです。例えば真に自由な人、真に無畏の人、真に満足している人、真に平安な心の人等々に・・。
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2015.9.29
聴いて理解するのは私ではありません。
聴いて理解したことを知っているのは私です。
視て覚知するのは私ではありません。
視て覚知したことを知っているのは私です。
触って感じたのは私ではありません。
感触を感じたことを知っているのは私です。
味わったのは私ではありません。
味わったのを知っているのは私です。
匂いを覚知したのは私ではありません。
匂いを覚知したことを知っているのは私です。
五つの感覚(視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚)に対する外部からの刺激を覚知するのは私ではありません。
それぞれの感覚への刺激を覚知したことを知っているのは私です。
刺激を覚知することと、それを私が知ることに時間的ずれがあって、同時のようですが同時ではないのです。五感が刺激を覚知することより、私が知ることの方が時間的に常に遅れます。五感が受け入れた刺激は私が受け入れたわけではないのです。これらの働きは元々身に備わっていたことです。私はそれらに何も関与はしていないのです。私がしたことは、それらを追認しただけのことです。追認しなければならない理由はないのですが・・。
これらのことは自分の身の上に生じたことなので他者に伝えるべき言葉は一切必要がないのですが、どうしても言葉に置き換えてしまう癖がどなたにもあります。
自己の心の中のことは、全て分かっているのですから、自分が自分に言葉をもって伝えるべきことは何一つあるはずはないのです。(自己の中の自己と言葉を交わす必要はないのです)
人は他者に伝えるべき言葉によって五つの感覚(視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚)の覚知をするわけではないのです。
私達は言葉が動き湧き出てくる前に、五つの感覚がそれぞれ縁(刺激)にふれて覚知したことは分かるのです。ここに「私」が介在していなくても分かるのです。その覚知を分かるのは私ではないからです。更に、これらの覚知は言葉が動くより前に反応するのです。
五つの感覚が縁(刺激)に応じて動き機能するのは私が行っているわけではないのです。私が気が付いて私の意志が動く前に、もうその覚知は済んでしまっているのです。
五つの感覚が機能(作用)している時に私は常に存在していますが、だからといって私がそれらを統括しているわけではないのです。私には五つの感覚の覚知を選択することはできないのです。その証拠に例えば、耳に入ってくる音を私達は好き嫌いによってシャットアウトしたり、音量を調節したり、音を選択して聞き入れたりすることはできません。私達の意志にかかわらず、その通りに入ってくるのです。他の感覚もすべてそうです。
私の心の中の私は常に存在していて、五感の覚知の追認をしているだけで、それら五感の覚知には全く関与はしておりません。私の中の私が精神上、司ることは、それらのこととは全く別なことなのです。それが何かは坐禅の修行をしていくと明らかになってまいります。
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2015.9.29
禅の修行の世界では、自己の中の自己(自我とか意識とか言う)を忘却することが修行僧の共通の目的です。何の為かというと、それは修行僧それぞれの理由があって共通したものはありません。しかし、どのように自己の中の自己を忘却するかは共通しています。これは修行僧(年齢は関係ありません)として最低限の目標であり基本的な在り方です。
自己の中の自己を忘じなければ禅僧としての次のステップ(道)はありません。
終生、自己の中の自己の忘却(禅の専門語では、これを身心脱落とも大悟徹底ともいい、他にも様々ないい方があります)を目指さなければなりません。
禅門に出家し雲水となった禅僧というのは、そういう宿命を負うものです。私達、禅僧は年齢の多少(老若)に関わらず、身心脱落するまでは終生 雲水なのです。これは出家する時に神仏に誓い、自らが自らの心に約束したものですから、その約束は破ることはできません。
修行が成就し自己を忘却できれば、それから以降、修行の成就した禅僧がどのように生きていくかは、全く決まりはありません。また、悟りを開いた禅僧らしい生き方というものはありません。自己を忘じた禅僧がどのように生きていくかは、その禅僧の出家をする目的や能力や個性によって様々です。
外見的な禅僧らしさや、外見上の禅僧らしい生き方、在り方というものはありませんので、身心脱落(大悟徹底)した禅僧であるか否かは、話をしてみなければ見分けることはできません。その禅僧の性格や能力や向き不向き、得手不得手はまちまちです。
自己を忘じても生来のものは変わることはありません。自己を忘じて悟りを開いても特別な能力や神通力が備わるわけではありません。頭脳明晰になるわけでもありません。才能が急に豊かになるわけでもありませんので、ここの所は誤解しないようにして下さい。
禅の修行によって特別な才能を身につけることが目的であっても、それは無理というものです。禅の修行の目的がそこにはないからです。
2016.2.11
食欲・性欲・睡眠欲等の生物としての基本的欲望のコントロールは坐禅の禅定力によって自在となるのです。これは悟りを開いた禅僧の生涯の記録を見れば自ずと知ることができます。
禅僧の生活は極めて質素・素朴・枯淡ですが、一般の人の貧乏生活とは異なります。どこがどのように異なるのかといいますと、一般の人の貧乏の心の中には対比(対極)として金持ち豊かな生活が鎮座していますが禅僧には対比の心がないのです。
基本的欲望から解放されるので禁欲生活を敢えて忍耐して送るわけではないのです。
坐脱立亡(坐禅したまま亡くなること、立ったまま亡くなること。亡くなっても姿勢が崩れることなくそのままの状態。)も同様の禅定力によるものです。
・禅定:心を不動にした宗禅の瞑想の境地。心を安定、統一させること。
2016.2.11
「平常心」
五欲のうちの名聞利養(名声欲・名誉欲や財欲・金銭欲)に対して悟りを開いた禅僧は一つも魅力を感じません。
名誉欲も財欲も多数の他者が存在することが前提で際限なく膨らむ欲望です。他者が存在しない処では名声欲も財欲も金銭欲も意味がなくなります。他者がいるからこその欲望なのです。
例えば、生きることに困らない豊かな孤島で生活しているとしましょう。この島の生活に名誉欲は必要でしょうか? 名誉を誇るべき他者が一人もいないのですから名誉欲は何の意味もありません。その欲は膨らむよりも凋む一方です。
また、財欲も生きていくだけのものがあれば充分です。ダイヤモンドのネクタイピンなど必要ないのです。生きる為に必要最小限で充分なはずです。いくら高価な立派なものを手に入れた処で、それを自慢し誇るべき相手はいないのですから・・・。
島の山羊や猪に金時計を自慢した処で意味はないのです。島の生き物達は誰も賞賛してはくれないのですから財欲も金銭欲もほとんで役に立たないのです。
所有欲も独占欲だって何ら意味をなさないのです。それらを主張すべき他者(他己)が存在しないのですから・・・。
悟りを開いた禅僧は自己を忘じ他己を脱落してしまっているのですから禅僧の精神世界には自己も他己も存在しないのです。
悟りを開いた禅僧の精神世界には名誉も財も、それらを自慢し誇る自分も、相手も、いないのです。ですから、それらの欲望は動くことがなくなるのです。
名聞利養の欲望を禁欲するのではなく自然に離れるのですから禅僧本人は特別のことをしている感覚はないのです。いつも通りなのです。
禅の世界ではいつも通りのことを「平常心」というのです。自然体ともいいます。
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2015.9.27
掃除をしていた人や草取りをしていた人に「何を考えてやっていましたか」「何を思ってやっていましたか」と尋ねると、心に何も悩み事を抱えていない人は皆、「何も考えずにやっている」「何も思わずにやった」と答えます。
誰でもがそのように答えますが、本当に何も考えず何も思わずに何かをすることができるのでしょうか? 実際 何も考えず何も思わずにやることができるはずはありません。彼等は、実際は何かを考え思いながら掃除をしていたのですが、考えていたことや思っていたことは、とりとめもなく次から次へと出てきて、次から次へと消えているので、そのことを覚えていないだけのことです。忘れてしまっているだけのことです。
実際は様々なことを考え、様々なことを思いながらその作業をやっていたはずです。
一々、そのことに気を留めていないだけのことです。それが習慣になってしまっているので特別にやっているように感じないのです。ごく自然に日常的にやってしまっていることなのです。
禅の修行においてはこれら習慣になっている考えや思いも「考え思っている」と捉えています。つまり「思量」とみています。
考え思いを出るに任せ、消えるに任せておいて、放っておけばよい。そしてただ坐っていればよいと、禅の修行を指導している師家が見受けられますが、それでは、まさに世間の人達は知らぬ間に修行的日常生活をしていることになります。しかし世間の人の中に知らぬ間に身心脱落をしてしまったという話は聞いたことがありません。このような日常のあり方では、坐禅の要術である「非思量」には絶対に至ることはないのです。「非思量」という様子に気付くことすらありません。
思量を出るに任せ、消えるに任せて取り合わねばよい。これが坐禅中の調心であると指導しても、それは普勧坐禅儀や坐禅用心記で書かれている非思量という調心とは異なります。今のままの有り様をそのまま認めての修行では坐禅の要術をつかむことはあり得ません。禅の修行の在り方に安易を求めては仏道を成就することはありません。
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2015.9. 29
禅の修行をする修行僧は十人十色です。
禅僧(雲水)になる理由は様々で、こうでなければならないという決まりはありません。禅の修行によって得られる心境(内容)は求道心の程度に差があって一様ではありません。修行によって到達する心境は修行僧の修行に対する要求度によって深浅の差があって様々です。どの程度の心境によって、修行僧本人が納得するか、どのくらいの心境に至って本人が満足して腰を据えるかはまちまちです。
出家して修行をする禅僧は皆が皆、歴代の祖師方や開祖 道元禅師と同様の悟り(解脱)の内容に至ることを目指しているわけではないのです。求道心(修行に対する熱意、修行成就の要求度)の強弱は修行に対する忍耐力の大小にも大きく影響します。そして、それは忍耐の持続力(維持力)の長短にも大きく影響します。
禅の修行の忍耐力は三年や五年の短期間よりも二十年、三十年の長期にわたる忍耐力が特に必要となります。
修行僧の求道心の強さは修行を始める目的(動機、理由)によって異なります。禅の修行に対する目的(動機、目的)によって修行への忍耐力が異なります。求道心の強さによって、修行によって至ることのできる心境の程度(度合)は異なります。また心境に対する自己の納得度も異なります。
現代では衣食住が充分に足りている為か、開祖 道元禅師が得られたと同様の身心脱落を望む者がいたとしても、実際にそれほどの修行をする者は少なく、そこまで忍耐力を長期間持続せしむることができる者は少ないのです。
次に、長期間にわたる忍耐力を最も妨げるものに名聞利養があります。名聞利養以上に忍耐力をそぐものはないと心得て下さい。修行にとって最も妨げとなる名聞利養を離れる程度(度合)も様々です。
名聞利養は修行者にとってできるだけ離れ、できるだけ捨てる方がよいことは確かですが、実際は名聞利養から離れる程度は様々です。
徹底的に離れる人もあり、かなりの部分まで離れることのできる人もあり、ある程度まで離れることができる修行僧もあり、ある程度までしか離れることのできない人もあり、ほとんど離れることのできない人もあります。それぞれのまま、このくらいはよいであろうと名聞利養の心を残したまま禅の修行をする修行僧が多いのです。また名聞利養の心を持っていても、そのことに気付かない、或いは気にしない禅僧も多いのです。しかし、それら名聞利養から離れる度合は当然、長期にわたる忍耐力の維持にも大きく影響します。そしてそれは禅の修行の結果を大きく左右することとなります。
名聞利養とは名誉心、虚栄心と利益、得失の心のことです。名聞利養から離れるとか、それを捨てるということは、名聞利養に心がひかれないとか、名聞利養に関することがあっても、それに心を奪われないで修行に専念できるということです。名聞利養の為に修行を止めたり休んでしまわないということです。
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2015.9.29
禅の修行は「知ること」や「学ぶこと」に主眼はないのです。主眼は「その人」となることにあります。
その人とは慈悲その人、不動心その人、自由その人、無畏その人、積善その人、陰徳その人、忍その人等々です。
知ることや、或いは学ぶことは生まれてからどなたも普段やっていることなので理解ができるはずです。この知ることや学ぶことは、人の知欲(知識欲)の分野のことで禅の修行には何の助けにもなりません。知欲は知ることがその役割です。それ以上の役割はありません。知って終了です。それで知欲の渇望は満たされるのです。食欲と大した違いはないのです。
禅には知欲に基づいて学ぶべきことは一つもありません。知欲に人格を向上させたり、人を幸せにしたりする機能はないのです。禅の修行を望む人は知欲の役割とその限界を理解していなければなりません。
禅の道は知ることではなく、その人となることが主眼です。禅の修行は人の思考を一切用いないのですから思考力はいらないのです。
「その人となる」ということは、どういうことか分からない人が多いと思います。
例えば、「自由」についていいますと、「自由」について、学問(哲学)の世界では様々に説かれています。多くの「自由論」があります。それらを学び、知識として蓄積しても自らが自由な人となることはありません。知識として自由ということを知っただけですから・・。言ってみれば、知識欲を満たしただけのことですから、それ以上のことは何も起きないのです。自由なその人になる為には、その為の方法を知って実際に実行していかなければなりません。
人は何か大切なことを知ると、それだけで何かが大きく変わるように思うのですが、知っただけでは、人格にも人生にも生活にも何の変化も起きません。知っただけですから・・。
自由なその人になる為の方法は様々に説かれています。自由は古来より誰でもが望んできたことですから、どれが本当に自由になる方法であるかは、その道理を聞いてやってみるしかありません。
真に「自由なその人」になることは難しいが、生涯をかけてやってみる価値は充分にあります。禅は真に「自由なその人」になる道の一つであることは間違いありません。
禅には自由についての自由論はありませんが、何が人の心を束縛して自由を奪っているかを知っています。そして、どのようにすれば人の心を束縛しているものを取り除くことができるかを、禅は経験上、知っております。人の心を束縛して自由を奪っているものを取り除けば、「自由なその人」となることができることは当然の理です。
禅では「その人」となる為には特別の方法を用います。特別な方法というのは、禅宗では坐禅です。坐禅は忍耐力を活用するものではなく、人の心の原理を応用するものです。
禅は知ることでは心を全く変えることができないことを知っていますので、知欲とは無関係で修行していきます。
禅では知ることではなく「その人となる」ことが主眼です。
その人となる道を発見した人は仏教の開祖 インドのシッダールタ(ゴータマ)、つまり仏陀です。
その道を現代まで正しく伝えてきたのが禅宗です。
坐禅は脳の機能の原理に基づいて行う修行ですから、結果は必然で、偶然はないのです。因果の道理に外れることのない修行ですから現代的であるともいうことができます。
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2015.9.29
禅は昔から大道無門といわれるように、いつでも、どこでも、どこからでも禅の修行に入ることができるのです。禅の修行は禅寺とか僧堂や坐禅堂に限ったことではないのです。
重要なことは、心の流れのどこから入るのかということです。禅の修行は心の流れ、変化の中で、どの心で行うかを知ることが必要です。
人の心は大きく分けて、言葉が生まれる前と、言葉が生まれた後と、二つに分けることができます。
禅の修行は言葉の生まれる前のところ(心)で行うのが正しいのです。
キリスト教の「初めに言葉ありき」という状況以前のところで禅は修行を行うのです。宗教でありながら宗教の生まれる前(時間的に)のところで禅の修行は行うのですから、哲学的常識からみたら考えられないことです。哲学の本場であるヨーロッパで禅や無我の思想、文化が生まれ育たなかった理由であります。
言葉の生まれる前(時間的に)のところで、言葉の生まれる前の心で修行するのですから、奇抜と言えば奇抜です。考えられないと言えば考えられない世界です。人類の長い歴史の中で禅は宗教、思想、哲学から必然的に生まれてくるような性質を兼ね備えたものではないのです。
言葉(思い、考え、思量)が次から次へと生まれている状況では、禅の修行はできないのです。言葉の生まれる前の心を知り、その心を保つことで修行をするのです。言葉(思い、考え、思量)の生まれる前の心を知ることを見性といいます。言葉の生まれる前の心を曹洞宗では非思量というのです。その心を正念ともいい、その心を保つことを正念相続ともいいます。
正念というのは言葉の生まれる前の心のことです。相続はその状態を保ち続けることを指します。
人は普段は習い性となって言葉(思い、考え、思量)が次から次へとで出てくるのです。よって初心者が言葉の生まれる前のところを知ることは難しいのです。
そこで初心者に言葉の生まれる前のところを教え示したり体験させたりするのが、師家(禅宗の公認の指導者)の重要な務めの一つです。
禅は修行によって諸行無常、諸法無我、因縁の法則の真理を身心をあげて知ることができるのです。
人類が伝達手段の一つとして作った言葉(文字、言語)で真理をつかもうとすることは無理なのです。言葉(文字、言語)では真理に触れることさえできないのです。真理は言葉のないところ、非思量の世界でのみ触れることができます。
独創性は一般的には思量から生まれると思われていますが、実際は思量の行き詰ったところ、即ち「非思量」から何かを縁として生まれることが多いのです。
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2015.9.30
曹洞宗の師家は説きます。
坐禅は「正身端坐」「坐相が美しい」「坐相が整っている」のがよいと・・。
正式には結跏趺坐が最も効果がある、姿勢の歪みは正しい坐禅につながらないともいいます。しかし坐禅をしている本人にとっては、この坐相は終生、決して見ることも知ることもできないものです。自分で見ることも知ることも確認もできない坐相が修行にとって極めて大切であるという主張には問題があります。
「人目が気になるのか?」・・・名聞という欲。
坐相は他者の視覚上の評価、外観上の評価にすぎないのです。非思量の禅の修行は姿、形には重要性はありません。いくら禅の修行を積んでも人の内面を外観から知ることはできません。もしできると言っても、その実際は、予測をしているにすぎないのです。言葉をもって問わない限り、その人の修行の力量を知る手立てはないのです。
正身端坐を修行にとって重要であると説く師家が思っているほどには、正身端坐には深い意味や力はありません。
坐禅の姿勢は禅特有のものではなく、インドでは古来より各宗教、宗派でなされている坐る姿勢です。ヨガでも坐禅の姿勢については厳しいものがあるのです。
「禅の修行が進むと坐相が整い美しくなる」「威厳がでてくる」「神々しくなり自然と手を合わせたくなる」「人の心を打つものがある」といわれる師家が多いのですが、それは禅の修行のどこに重きを置くかの視点に錯誤があるのです。実際、外見だけで、その人の内面を見抜くことができる禅僧などはいませんし、いくら修行したところで、姿だけではその人の心の内容を知ることができるようにはならないのです。
正身端坐と称して、この姿勢に極めて重きを置いている禅僧が多いのですが、禅の修行は心の在り方のみで行うものであることが分かっていないのです。姿、形、礼儀作法が見た目に整い美しければ、心も整い美しいと考えることは短絡的です。現実界を私心を捨てて正しく見ていない証拠です。坐禅は人に見せるようなものではないのです。
坐禅の姿勢は一定の姿勢を長時間安定し保つのに生理的に理にかなったものであるというだけのことです。この姿勢が何か特別に精神面で無心に至らしめる効果を及ぼす神秘的な力があるということではないのです。坐禅の姿勢にこだわらずに程々にできていればよろしいと指導するのが正しいのです。
姿勢にこだわると坐禅が坐禅でなくなってしまいます。姿勢が歪むと心も歪む、姿勢がねじれると心もねじれるという因果関係は一切ないのです。
心のねじれ、歪み、傷、苦しみ、悩みは身体のねじれ、歪み、欠損、欠落、故障、醜悪を生ぜしめるものではないのです。またその逆もありません。心のねじれ、歪み、傷、苦しみ、悩みは一点、心の中の「自己」の扱い方が原因です。
病気の身体にも歪みのない健全な無心は宿るのです。「健全なる肉体に健全なる心は宿る」と提唱する考えは誤りです。障害のある身体にも健全(完全)な無心は宿っているのです。歪んだ姿勢にも健全な無心は宿っているのです。
禅の修行というものは、今までの人の考え方、信条、思想、主義の禅的なものへの変化、転換を目指すのではないのです。あくまでも心の中の自己の処理だけが問題なのです。
故に、例えば性欲の悩みを克服する為に男根を断っても心根(心の中の自己の存在)が切れない限り克服することはできません。
その証拠に、古来より近代まで世界中に存在していた去勢された奴隷、官吏の実態を知るとよいでしょう。彼らが性欲を克服できていたといえるでしょうか?
禅の修行はあくまでも自我の処理のみで、身体には一切及ぶことはないことを改めて知る必要があります。
仏陀の肉体への六年間にわたる難行苦行を無駄と知って止められたことを思い起こす必要があります。仏陀は誰にも肉体への難行苦行を勧めたことはないことを思い起こす必要があります
禅の修行は心(自我)をもって心(自我)にするものであることを知らなくてはならないのです。禅の修行は心の中の自己をもって、心の中の自己(見ている自己、見られている自己、知っている自己、分かっている自己)にするものであることをよく理解しなくてはいけないのです。
修行の方法を間違えると永遠に無心に至ることはないのです。
ご用心!ご用心!
禅の道、仏道という修行は、社会的ルール、社会的規範、社会的倫理道徳、社会的礼節を知り、身につけ、それを守り、逸脱することなく日々生活することができるようになることが目的ではないのです。
人格の完成というのは一般には社会的人格の完成をいいますが、仏道は社会的人格の完成を目的とはしていないのです。
禅者の幸福観、価値観は一般の社会的幸福観、価値観と相反するものが多いのです。
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2015.9.30
禅の修行においては「分別をしてはいけない」「是非善悪を思うこと勿れ」「常に何も思わぬは佛の稽古なり」「無雑作、無分別」「不思善、不思悪」「念相観の測量を息め 作佛を図ること勿れ」等々。どの祖録(法語、法話)を見ても是の如く説かれています。これが禅修行の要諦なのです。なぜそのように説き示すのか、それには理由があります。
「只管打坐」 これは曹洞宗開祖の道元禅師が標榜する坐禅の修行方法です。
これを現代的に易しくいうと「ただ坐禅をせよ」「余念をまじえず坐禅をせよ」という意味です。
この打坐を現代の曹洞宗の師家方は「坐れ!」と訳していますが、これは「坐れ!」という身体の動作ではなく、非思量という心の状態をもって坐ることを指しています。
曹洞宗の坐禅は「非思量」です。つまり「ただ非思量であれ」「ひたすら非思量であれ」「余念をまじえす非思量であれ」という意味です。ひたすら坐っていたところで心の中の状態が非思量でなければ、ひたすら坐っただけでそれは坐禅とはいいません。更に詳しく述べますと「ただ」とか「余念をまじえず」に「非思量であれ」ということです。「非思量」というのは文字通り、思量を一切用いない、動かさない心の状態です。臨済宗ではこれを「正受」とか「正念相続」といいます。
只管、正受、正念相続は、外部からの五感覚(眼、耳、鼻、口、身)に入ってくる刺激(情報、禅においてはこのことを諸縁といいます)を分別せず判断せず自らの意見を入れず、そのまますべてを無条件(何もせずにそのままにという意味)で五感覚に受け入れることを指します。
修行して身心脱落するまでは「私」は心の中に常に存在していますが、この「正受」や「正念」に本来「私」という存在はいらないのです。つまり関わっているように見えますが、本当は関わっていないのです。この状態を揺るぎなく維持していくことを「只管」とか「正受」とか「正念相続」といいます。
この「只管打坐」とか「正受」とか「正念相続」の状態を一定時間持続すると、自動的に天賦(天然)の自己(自我、意識、自意識、自己感覚、自己の存在感)の忘却システム(機能)が作動するというのが、禅の修行における基本原理です。
この自己忘却システム(機能)は自律神経系統(自己が管理統御できない)のシステムなので、一切の自己の意志が関わることができません。これは、例えば人が食事をすると自動的に唾液が出てきて胃腸では消化液が分泌されて自動的に消化されていくのと同じシステム(機能)なのです。
自律神経系統の自己忘却システムが充分に円滑に機能することができるように、修行者は意志をもってその精神的状況(精神的環境整備)を作り維持しなければならないのです。これが仏道(禅)の修行の基本原理です。
自己忘却の自律神経システムが充分に円滑に機能する精神的環境作りの方法が「只管打坐」「只管に行住坐臥を行ずる」「正受」「正念相続」、臨済宗で用いられる「公案禅」なのです。このことを坐禅中に関わらず経行中でも日常生活の中でも維持、相続することが、即、禅の修行、坐禅、仏道修行なのです。
仏道、仏法の総府としては他に修行として行うことはありません。
これらはすべて禅僧の修行における経験則ですから、その自己忘却システムの脳のメカニズムの解明は現在のところ全くなされておりません。しかし、いずれ誰かがこの点に着目して脳のメカニズムの解明がなされるものと思っております。
仏道は祖師方が脈々と体験し実証し続けて現代に至っております。ここに何の神秘も奇跡も神通力も霊的なものも宗教的天才という能力も入る余地はないのです。
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2015.10.11
『兀々として(休まずに努力する様子)端坐すべし。
此に於いて箇の不思量底を思量す。
如何思量せん。
謂く非思量此れ即ち坐禅の要術なり。』
ー大本山総持寺開祖 瑩山禅師著 「坐禅用心記」ー
目的を達成する為の坐禅中の心を調える方法について説明致します。
曹洞宗の坐禅の心の調え方は非思量です。非思量は文字通り、思量に非ずです。
心(頭脳)の中の様子が非思量状態であることです。
曹洞宗は坐禅を作法通り組み呼吸を整えてじっとして動かさないで、線香一本が燃え尽きるまでの時間(坐禅一回分の時間)を過ごします。その時に心の中で行うことは、まず初入門の修行僧は「非思量」の心の状態を知ることです。師家から非思量の心の様子、非思量に至る工夫の仕方を聞き、教えていただいて、実際にやってみるのです。心の様子をいつもよりしっかりと見つめ観察して非思量の心の状態を捜すのです。暫く苦労してやっていけば非思量の心の状態が分かってきます。
非思量の心(頭脳)の状態は分かっただけでは何にもなりません。非思量の状態に容易になれなくてはいけません。そして更に非思量の状態を何分も何十分も何時間も維持できなくてはいけません。そして、その状態を坐禅をやっていない時、日常生活の中でも行えるようにしなくてはいけません。何時間も何日も非思量の状態を維持する努力をしなくてはいけません。できなくても努力しなくてはいけません。やっていれば段々とできるようになってきますので、諦めずに努力することが大切です。
自己の中の自己、即ち意識を忘却するまで努力することが大切です。
禅の修行の目的は自己を忘れることです。自己の中の「自己」を忘却することです。自己を観察している自己を忘却することが禅の修行の基本的な目標です。ここまでは師家の指導が必要です。
悟った後は、本人の性格、向き不向き、価値観、人生観、修行の動機によって様々です。それはその方が決めることです。悟った禅僧としての歩むべき道に決まりも上下もありません。大道無門なのです。
坐禅の要術である「非思量」というのは思考が頭の中に生じる以前の状態なのです。或いは思考と思考の間、前の思考が途切れ次の思考が起きるまでの僅かな時間も、思考のない状態です。(茫然自失の時も自己はありますが思考は全く動いておりません。)ここには思量が全くないはずです。この状態を非思量というのです。この非思量をできるだけ長くしていく努力と忍耐が修行の内容です。これが精進です。
思量は思考のことですが、人の思考には二通りの思考があります。
一つは心の中で言葉(言語)を用いる思考です。もう一つは心の中で像・形・色(映像)を用いる思考で、これは一般に想像と言われています。
非思量はこの思考、想像を認めません。また、意図的に思考、想像することも、自然に思考、想像することも、知らぬ間に思考、想像することも許しません。どんな思考、想像であろうと理由の如何に関わらず、すべてを一切許容しないのです。
また、師家によっては初念(一回目の思考、想像)はよいが二念三念はいけないと指導する場合もあります。しかし非思量には初念も二念も三念もありません。
念に念を継ぐ念も、一念一念と途切れ、前念後念と関連性のない念でも、念が生じればその時点で非思量ではありません。いかなる念も皆、思量です。よいも悪いもありません。気を付けて下さい。
禅門では昔から言葉による思い考えを「念」といいます。思考や思量よりも念が一般的に禅門では用いられていますので心得ておいて下さい。意味は同じです。
禅籍の古典を読むと「念」という言葉がよく出てきます。「念」は言葉を用いた思考という意味と、意識(自己の中の自己)という意味にも用いられますので注意して念の意味を解釈しなくてはなりません。
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2015.9.30
「非思量」の修行をするにあたり、師家によっては初念はよいが二念、三念はよくないと説いています。しかし今の一念に、初念も二念も三念もありません。今はいつまでも一念しかありません。その一念に二念、三念の区別はありません。
道元禅師の説く非思量は初念であっても念は全く認めません。初念の頭出しだけでも認めることはありません。つまり歌のクイズ番組のイントロの僅かな部分や一音だけでも認めないということです。
「念想」の「想」の場合も同様です。
想の頭出しは、言葉と違って透明感があるのでうっかり許してしまいがちです。眠気が少しでもあると、知らぬ間に想が出てきて現実との区別がつかなくなってしまいます。そうなると知らぬ間に、起きていながら眠りに入ってしまっていることが多いのです。想はそのまま夢となってしまっています。ハッと気が付いて眠気を払うまで夢を見ています。眠気に負けてはいけません。
眠くなったら、その都度その都度、眠気を払う工夫と努力をするしかありません。眠気を払う特別な方法はありません。
眠気との戦いで睡魔が襲う。気が付いて払う。また眠くなる。また払う。この繰り返しで約40分の坐禅の時間を終えてしまうことも度々です。
初念、初想に関わらず、頭出しだけでも許さないように徹底的に非思量を維持(禅の世界では相続といいます)しなければなりません。
数息観を行うならば、取り敢えず1から10の数を数える中で非思量の精度を100%にしなくてはいけません。非思量の精度を100%に高めてそれを維持しなければなりません。非思量に1%の念や想や観が入ってもいけないのです。非思量に混ぜ物は許されないのです。100%の精度の非思量を目指して精進しなくてはいけないのです。
純度100%の非思量でなくては正念とはいえないのです。
仏道を求める人は取り敢えず、純度100%の非思量を目指した工夫をしなくてはいけません。ここは不動明王の忿怒の姿の気迫と忍耐力が最も必要となります。
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2015.10.13
曹洞禅は修行として、心(頭)の中で行うことは思考(念)と想像(想)の機能(活動)を完全に停止せしめることであることは再三申し上げておりますが、ここで思考(念)と想像(想)について間違いのないように説明致します。
「思考」は禅の書籍では「念」という言葉を用いています。「無念無想」の「念」です。頭(心)の中で言葉(言語、文字)を用いて思い、考えることを指します。
思い考えるということは自然に出てくる場合と、意志をもって思い考える場合の二つがありますが、禅の修行においては両方の場合を「思考」といいます。両方を指します。
この思考は「音声」なので脳の中で聴覚神経経路を用いております。
「想像」というのは禅の書籍では「想」という語を用いています。「無念無想」の「想」です。これは頭(心)の中で像・形・色を用いて様々な物事や情景を思い浮かべることを指します。この想像は意図せずとも自然に出てきてしまう場合と、意図して思い浮かべる場合の二つがありますが禅の修行においては両方とものことを指します。
この想像の活動は「像・形・色」なので視覚神経経路を用いております。
以上のことは非思量の状態を作り出し、それを維持する為には重要な原則なのです。
非思量の脳の状態は、人間が意志をもって作り出す特別な精神状態なので脳に対する反自然的行為なのです。脳は自然に戻ろう戻ろうとする力を働かせますので、非思量状態を維持し続ける禅の修行は決して楽な行為ではありません。
外部入力情報(音に関する情報)に聴覚神経経路を覚醒して優先的に用いれば、言語を用いる思考(念)は聴覚神経経路を用いることができません。よって言語を用いる思考(念)は動きにくくなります。
視覚神経経路を外部入力情報(像・形・色に関する情報)に優先的に用いていれば、像・形・色を用いる現象は視覚神経経路を用いることができません。よって像・形・色を用いる想像(想)は動きにくくなります。
以上の原則を理解して、非思量状態を維持する工夫を修行として行います。
思考、想像といっても、その為の、それぞれの専用の神経経路が存在するわけではありません。言語による思考は鼓膜につながっている聴覚神経経路を用います。像・形・色を用いる想像は網膜につながっている視覚神経経路を用いています。
日常的に言葉による思考をよくする人は、聴覚に集中して外からの縁による音声をしっかりと耳にして聴覚神経を用いるとよいのです。現実の音が聴覚神経経路を使用しているので、言葉による思考で聴覚神経経路を使うのが難しくなる為、非思量を維持し易いのです。
日常的に像・形・色を用いる想像をよくする人は、視覚に集中して像・形・色をしっかりと眼にして視覚神経経路を用い続けるとよいのです。実際の像・形・色が視覚神経経路を使用しているので、像・形・色による想像で視覚神経経路を専用するのが難しくなる為、非思量を維持し易くなるのです。
以上が非思量の状態になり、それを維持する工夫の原理です。
どちらがよいかは個人差によります。視覚(眼)か聴覚(耳)を用いて坐禅をするのが基本です。
外縁の眼から入る視覚情報を優先させるか、脳内の想像力から生じる脳内想像情報を優先させるか、この選択が坐禅の修行なのです。
視覚を用いる修行は、主として外縁として眼から入る視覚情報を意志をもって優先させ続けるのです。脳の想像力から生じる脳内視覚情報を視覚神経経路に優先させるような切り替えを、意志をもって阻止(抑制)するのが禅の修行なのです。
耳から入る聴覚情報の場合も同様です。
外縁の耳から入る聴覚情報を優先させるか、脳内の言葉による思考力から生じる言語による脳内思考情報を優先させるか、この選択が禅の修行なのです。
聴覚を用いる修行は、主として耳から入ってくる外からの聴覚情報(音声)を、意志をもって優先させ続けるのです。脳内の思考力から生じる言語による脳内聴覚情報を聴覚神経経路に優先させて使用するような切り換えを、意志をもって阻止(抑制)するのが禅の修行なのです。
視覚や聴覚に限らず、臭覚も味覚も触覚も同じです。時々の状況に応じて五感を切り換えて、同じようにして非思量の状態を維持するのです。
食事の時、何かの香りをかぐ時、痛みに耐える時等々・・。
また、人が同時に覚知できることは二つまでです。例えば「見つつ聞く、聞きつつ見る」「味わいつつ見る、見つつ味わう」「聞きつつ匂いをかぐ、匂いをかぎつつ聞く」「痛みに耐えつつ聞く、聞きつつ痛みに耐える」等々。人が同時に覚知できることは二つまでです。
ここで問題なのは、人は同時に二つまで覚知できますので、上記のように行えばよいのですが、多くの人は往々にして五感のどれか一つの知覚と自己(意識)を覚知するパターンを採ることが多いのです。これが問題です。
これを行うと永遠に自己の中の自己を忘却することができません。なぜなら忘却すべきものを常に用いているのですから、それを忘却できるはずはないのです。
見ていることと、それを見ている自分。聞いていることと、それを知っている自己等々。
知覚と自己(意識)の二つは同時に覚知できますが、これだけはやってはいけません。
これは「念想観の測量を息め」の観に当たります。息めなければならない心の働き「観」を用いてはいけません。
「観」の自分がどうしても入り易いので、それを防ぐ工夫として五感の二つの覚知を同時に行う工夫をするとよいのです。
二つ同時の覚知ですが、それでも平等、均等の覚知はありません。主従の関係で覚知をするのです。例えば、視ることを主として聞くのです。或いは聞くことを主として視るのです。このバランスは微妙ですから、自分でこのバランスを工夫しなければなりません。
上手に工夫ができれば自己の介在、意識の存在は全く動かないので、無きに等しい状態となります。実際は身心脱落までは自己がなくなることはありませんが、無きに等し状態であるので自己の存在をほとんど気にしなくてすみます。
それぞれ実際に即して、自分で工夫をして下さい。
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2015.9.30
「縁に任せる」とは、内容的には「自己を捨てる」と同じことです。表現と観点の違いです。
禅の修行において、自己を捨てる(自己を忘ずる、自己を忘れる)為の工夫の仕方です。
縁に任せるということは、森羅万象(地球上のあらゆる事象)という縁(外的刺激情報)に対して自己が一切の思量(言葉、文字、見解)を用いない、差し挟まないということです。その時の状況に対して分別(見解、判断、考え、思い、思考、想像)を一切用いない心(脳)の状態のことです。
森羅万象のその時その時の縁(刺激、情報)を正しく(その通りに)受け入れて、自己の人間的判断(常識的判断、非常識的判断、独創的判断、普遍的判断等あらゆる人としての判断)、見解を一切差し挟まないことです。
「その通り」とは、様々に入ってくる縁に対して言葉による表現を一切用いない、或いは言語、想像に置き換えない(言い換えない)ことです。
森羅万象に対して言語表現を用いない心境、様々な事柄や出来事に対して思考、想像をしない心境を自ら様々に工夫して持続し続けるのです。「正念相続」ということと同じです。
「苦は何に縁って生ずるか
老死に縁って生ずるのではない
自我の存在が苦の原因であり
それに老死が作用すると苦が生ずる」
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2015.10.1
「心」のことならば、仏道に何を求めても構いません。問題はその真剣さが重要なのです。
その事があなたを本当に苦しめているのなら、その解決を徹底的に禅の修行に求めてよいのです。禅は心のあらゆる苦悩を解決する力を持っています。
仏道には「何も求めてはいけない」といったり、或いは禅の修行は世俗的な苦悩や私的な苦悩は論外で、世俗を離れた正しい清い苦悩や人々を救うことを願いとした問題の解決でなくてはならないとする禅僧達がいますが、彼等は禅の修行というものを何も理解していないのです。
誰が物事の聖俗、上下、尊卑、公私を決めたのでしょうか?何を基準に決めたのかよく考えてみるとよいと思います。
修行しても何にもならないとする禅僧達がいますが、彼等は仏道というものの本質を何も分かっていないのです。
人は自らの苦悩の解決を求めて仏道に入るのです。それは人として当然のことです。それには何も問題はないし矛盾もありません。この苦悩は自らを救う為でも他者を救う為でも構わないのです。いずれにしても、自らの苦悩であることには違いないからです。
そして修行が真に成就し身心脱落の境界に至れば、自ずと慈悲心が尽きることなく湧いてきますので先のことを問題にする必要はありません。だだし、慈悲心の表し方は無心の人のそれぞれで一様ではありません。
人は自らの苦悩の真の解決を得るべく禅の修行に精進します。禅修行によって得るものがあるのです。
しかし、それをいけないとする禅僧達がいます。「何も求めてはいけない」「坐禅をしても何にもならない」と説く禅僧達がいます。
仏陀は何も求めなかったのでしょうか? 何も得るものはなかったのでしょうか?
道元禅師は、白隠禅師は、何も求めなかったのでしょうか?
そして、身心脱落して何も得ることがなかったのでしょうか?
そのことをよく思い起こしてみるべきです。
仏陀の出家の動機はどうであったでしょうか?
道元禅師の仏道を求めた理由はどうであったでしょうか?
白隠禅師が出家した動機はどうであったでしょうか?
坐禅をしても何も得るものがない、何もならないと説く禅僧は、よくよく祖師方の出家の動機を思い起こしてみるとよいと思います。
「何もならない」とか「求めてはいけない」とか「得るものがない」とか「そのままでいい」とか「本来本法性 天然自性心」という理を信じてさえいればいいとかなどと、訳の分からないことをいって、これから厳しい禅の修行をしようと決意した善良な人々を惑わしてはいけないのです。
仏陀をはじめ宗祖といわれる祖師方は徹底的に求めました。誰一人として求めなかった者はいませんでした。自らの求心が止むまで求め続けました。そして地球上のいかなる金銀財宝よりも価値のある大安楽の法門を手に入れました。
自らの求心が止むまでと述べましたが、ここで間違えてはいけないことがあります。それは、何となく時を経て修行を止めてしまったことと混同してはいけないのです。つまり修行への情熱が冷めてしまったことと、求心が止んだこととを混同してはいけないのです。
多くの禅者はほとんど、自らの苦悩が年月が解決してしまったこと、途中から名聞利養の魅力に引き摺られて無常心が失せてしまったこと、年老いて青壮年の頃の情熱が知らない間に冷めてしまったことを、長年修行しているので、坐禅の結果、求道心が正しく止んだことと勘違いして「これでいいのだ」「このままでいいのだ」と腰を据えてしまうのです。
宗教家の現実との妥協です。つまり堕落です。無常を感じることがなくなって、その結果、求心がなくなってしまったのに、「求心止む時即ち大安」ということと都合よく考え違いをしてしまうのです。
確かに、正しく禅の修行をしていくと、求めたままで求める欲求が止んでくるようになります。「求心止む時」とは、求める道心をそのままに変えずして、そのままで求心止む時ということです。修行への情熱も無常観もそのままです。そのままで求め続けたまま、本人の意志の有無に関わらず必然的に求心が止む時が来るということです。求心止む事を求めるのではないのです。
これはかなり徹底的に求め求めていかないと至ることはあり得ません。見性程度では駄目です。入頭の辺量に逍遙する程度ではまだまだです。この状況ではまだ名聞が動くからです。ほとんどの禅僧99,9・・%の求心が止むというのは、時の移り変わりや年令が増したことによって情熱が冷めた為ということです。
それは禅僧に限らず、一般の方でも一生涯情熱を持ち続けるのは難しいことです。
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2016.2.17
禅僧の真の悟りは祖師方によって様々に表現されております。
例えば、一般的なものに解脱、大悟(徹底)、(身心)脱落、忘自己、自己を忘ず、成仏、仏道を成ず、覚する、等々があります。この他にも無漏地や漆桶を打破すなど聞き慣れない言葉が沢山あります。
但し、公案を用いて修行する臨済宗の見性や十牛図の「第三見牛」は悟りの中には入りません。これらの見性や見牛というのは禅の本格的修行の入口に立ったところで、まだこの先どうなるかの見当のつけられないところです。正しい修行に入るか、それとも逸れてしまうか、そこで止まってしまうかの岐路に立ったところです。正師家の指導如何です。
これらの見性や見牛が正しく、十牛図の見牛であるならば、それは曹洞禅或いは臨済宗各開祖方の坐禅要術である、いわゆる「非思量」の様子が少し分かったところです。
曹洞禅も臨済禅も鎌倉時代の各開祖方の調心は、正念相続、つまり非思量なのです。
曹洞禅は現代では一般的に「只管打坐」と説かれていますが、只管打坐という言葉には調心の意味は包含されておりません。
調心は「非思量」です。間違いのないようにして下さい。
また、現在では曹洞禅の坐禅は正身端坐であると広く説かれておりますが、この言葉には坐禅姿勢のみのことが言い表されており、調心の意味はありませんので注意して下さい。
見性というのは、これからやっと正しく間違いなく禅の修行が始めることができる段階に入るということで、その自覚が必要です。見性したところで修行者本人はそれ以前とそれ以後と何も心境の変化はないはずです。流れ星を見たことのない人が流れ星を見たという程度のことです。流れ星を見たところで何も変わることはないはずです。もし心境の変化があるとすれば、その見性は禅天魔となるべきもので正しいものとはいえません。
公案は思考の末に思考に窮して一切の思考の動かない、或いは動かさない状態に至ることが大切なのです。公案の答えは師家(老師)が何と言おうと、何と否定しようと、一切の思慮分別の動かないところから出せば、それで可です。一切の思慮分別が働かないからといってもまだ、自己が残っているので自由がきかないはずです。
見牛以降は徐々に公案を離れて思慮分別の一切動かない生活へと移行していけばよいのです。
曹洞禅の非思量(思慮分別を一切動かさない状態・様子)の工夫は公案を用いないので、非思量の様子を道理によって理解し、次に実際の日常の中から非思量を体験していくのです。一度非思量の様子を知ったら後は、非思量の状態を日常生活全般に広げていくのです。そして、非思量を相続(維持)する工夫を重ねていくのです。非思量の状態を知るよりも、非思量を相続することがこの上なく難行で苦行です。この難行に耐え抜いた禅僧はそれほど多くはありません。
公案禅に於ける見性、及び十牛図「第三見牛」は、曹洞禅の非思量の様子の手がかりが、まさに手に入らんとするところなのです。
この時に師家(老師)が正しく指導しなければ、修行者はその様子を見落とすこととなります。師家(老師)の責任は重大です。ただ単に次の公案を出すだけの師家(老師)では、あたかも学校の教師が業者が作成した試験のプリントや宿題のプリントをそのまま出すようなものです。このような教師は駄目教師、手抜き教師と言われているのです。
天下の師家(老師)たるもの誰かの作った公案を、或いは誰かの使った公案をそのまま出すようでは情けなく思います。公案は数多く出す必要はありません。本当に徹すれば一つで足りるはずです。
十牛図「第四得牛」以降の内容は非思量の工夫の進捗を四、五、六、七と分かり易く段階に分けて書かれおります。
「第八人牛倶忘」が身心脱落(大悟徹底)です。
公案の工夫について何一つ書かれていないのに公案禅の臨済宗の師家(老師)方が十牛図を重要視して提唱、解説する理由が分かりません。
十牛図は内容的には非思量の修行について説いておりますのに非思量の修行を主としている曹洞禅系の師家(老師)方は全く提唱も解説もしていないのが不思議です。
どうなっているのでしょうか?
「十牛図」で近代、現代の臨済宗の老師方は「本来の自己」を牛にたとえて展開していると説かれておられますが、それは本当でしょうか。
第一項の尋牛から第十項の入てん垂手までを見てみると、私にはこの牛が本来の自己、つまり身心脱落した自己、無我の自己とは到底思えません。第三見牛の項で、牛にたとえた「本来の自己」を見たとするには無理があります。
本来の自己というのは身心脱落した自己ですから、身心脱落していない者が身心脱落した自己を見ることができるはずはありません。もし本来の自己、つまり身心脱落をした自己を見たというのであれば、見た本人は身心脱落していなくてはなりません。一度身心脱落した人が次の第四得牛に至ると元の凡夫に戻るなどということはあり得ません。
意根が完全に切れたから身心脱落するのですから、その切れた意根がまたつながるということになってしまうからです。身心脱落していないのに本来の自己、つまり身心脱落をした自己を見ることは決してあり得ません。
自己のある私が自己のない私を見ることできるというのは自己のある私の中に、自己のない私が共存或いは混在しているという考えによるものと思います。これは間違いです。
本来の自己、つまり身心脱落(大悟徹底)をした自己に会うことができるのは身心脱落をした人だけです。脱落していない人が脱落した自己、つまり本来の自己に会えるはずはないのですから。
十牛図の牛を本来の自己にたとえるには禅理上無理があります。
十牛図の中では、牛が本来の自己つまり身心脱落(大悟徹底)した自己、無我の自己、万物に証せらるる自己とは一言も言ってはいないのです。
十牛図の牛を誰がいつ頃から本来の自己と言ったのか知りたいと思います。
また、その根拠も知りたいものです。
十牛図の牛は非思量の状態を指したものです。決して身心脱落をした自己を指すものではありません。それは「第四得牛」のところを見れば、自ずと分かることです。
十牛図の「第一尋牛の序」は道元禅師著の普勧坐禅儀の前文の序のところと同様の展開をしております。ですから「尋牛の序」の尋牛は本来の自己尋ねるという展開にはなっていないのです。
この尋牛は十牛図全体の位置づけを表しています。修行の正しい方法を尋ね修行していくという展開の中で、第二の見跡から修行の正しい方法を探り歩くのですが、ここではまだ模索をしている段階です。修行の何たるかが分からない状態です。
第四の得牛に至って始めて修行の仕方の手がかりがつかめたところです。手がかりがつかめたところでいきなり本法性を見ることなどはあり得ないことです。
修行の手がかりというのは曹洞禅の非思量、臨済禅の正念で、それを「牛」で表しております。
曹洞禅の非思量の工夫も臨済禅の正念相続の正念も表現が違っていますが、その内容は同様のことを指しています。実際にやって見れば分かることです。正念相続の時はもう既に公案から離れてしまっております。
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2015.10.5
禅宗は娑婆(忍耐の世界)を変えることよりも、自らを変えることによってあらゆる苦悩の元となる問題を解決する道を示します。禅僧は社会の矛盾や理不尽を変えて、よりよき社会を作る社会改革者的生き方はしないのです。
人が主張する社会的正義、公平公正に具体的普遍性は存在しないので、決して社会的正義や公平公正を求めたりはしないのです。自己欺瞞とならざるを得ないからです。
なぜなら人間の本質が利己的だからです。人の生来の利己的な心は矛盾と理不尽に満ちているのです。
人間の行動原理は自己保存本能なのです。自己保存本能を行動原理とする人間の心にとって自己保存本能が正義なのです。自己保存本能を遂行すること、そのことが正義であり公平公正なのです。自己保存本能はあくまでも利己的な行動原理を生み出すことを忘れてはいけません。利他主義とは相いれないのです。
社会的正義を叫ぶ人間の表面的な利他的行動は欺瞞に満ちています。
自己保存本能は自己の利益を最大にすることが善なのです。ここに正義は利己的にならざるを得ません。これが社会全般の姿なのです。娑婆たる由縁です。
禅宗は娑婆を変えることによって自らの苦悩を解決する道はとりません。娑婆は娑婆のままでよい。どう変えたって娑婆は娑婆なのですから・・。
あくまでも自らを変えることによって自らの苦悩を解決する道を選択します。
禅宗は自己の利己的原理を忘却して、自己の利他的原理を行動原理とする生き方を実現する宗教です。
具体的には「非思量」を用いて自己(利己的主体)を忘却するのです。
非思量という修行によって人間という動物の利己的な心の中に、利他的原理が実現できることを、今からおよそ2,400年前に仏陀(シッダールタ・ゴータマ)が発見しました。
名聞利養は自己保存本能にとって最も都合のよい価値観です。自己保存本能は名聞利養と相性がよいのです。つまり名聞利養は自己保存本能が作り出した価値観です。名聞利養を好むのです。名聞利養の追求が自己保存本能の遂行に必然的に寄与するのです。
宗教は自己保存本能を否定することが出発点となります。宗教は利他的を理想とするものですから。
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2015.10.1
「知覚する」「分かる」ということに言葉はいりません。これは無分別智の働きです。
この「知覚する」「分かる」ということには 「なぜ、どのように、どうして知覚する」「なぜ、どのように、どうして分かる」という「なぜ」「どのように」「どうして」という言葉はいらないのです。
縁に従い、感に応じ、間髪を入れずに「知覚する」だけ、「分かる」だけというのは無分別なのです。
「知覚する」「分かる」ということは、自らに対しては勿論のこと、他者に語る必要も説明する必要もないということなのです。「知覚する」「分かる」という段階では、他者に語り説明する必要もないので、「なぜ」「どのように」「どうして」は一切いらないのです。
自分を見ている自分にも、自分の心の中のもう一人の自分にも、なぜ、どのように、どうしてと語る必要も説明する必要もないのです。
このような「知覚する」「分かる」という無分別の智の働き(心の状態)と、「考える」「思う」「思量する」「善悪を思う」「是非を管する」「分別する」「思考する」等々の分別の智の働き(心の状態)との違いが分からないと、道元禅師の普勧坐禅儀で使われている「非思量」の心の様子、実際の様子は分かりません。この心の様子、状態が分からないと「非思量」という正しい坐禅の精神状態の維持ができないのです。
坐禅を正しく行う為には、まず自分の心の様子をよく見て、無分別の時の心の様子と、分別の時の心の様子の違いをよく知ることが大切です。自分の悩みとか苦しみとか、業が深いとか浅いとか、因縁とかということを見るのではないのです。人の考え、思い、感情、知覚の生滅の様子がどのようになっているか詳しく注意して見るのです。そうすると五感(眼耳鼻舌身)の視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚等の知覚には、言葉は一切不要であることが分かるはずです。この知覚は言葉が介在しなくてもよく体感でき、分かるのです。また、言葉で何と表現しても五感の知覚を通して入ってきた事実は全く変わることはありません。
実際のこと(事実)は、人の考え、思いをもってしても決して変わらないことを理解しなくてはならないのです。
「知覚する」とか「分かる」という無分別智の働きを知ることが、禅の修行では極めて大切なことです。
知覚する時、分かる時は、未だ他者の存在がないことに注意しなくてはなりません。知覚したこと、分かったことを他者に説明する必要のない時は、心の中に言葉はいらないのです。この様子をしっかりと知ることから非思量の修行が始まります。
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2015.10.1
本当に「そのままでいい」ならば、こんなに楽な修行ありません。
禅僧で楽に修行して身心脱落(悟り)した者はいません。皆、命がけで修行をするのです。
「そのままでいい」なんてことはないのに、「そのままでいい」とはどういうことでしょうか?
このように言ったあなたはお分かりでしょうか?
多分、あなたは分かっていないでしょうから私が説明いたします。
そのままでよいのは、ある一事を除いてすべての事についてです。
あなたの考え方も教養も見識も変える必要はありません。そのままでよい。あなたの癖も好みも習慣も行儀も作法も、あなたの喜怒哀楽の感情も趣味も、あなたの姿も性別も人種も民族も信教も信条もすべてそのままでよいのです。何も変える必要はないのです。
すべて一点を除いて、そのままでよいのです。
般若心経で以下のように示されております。
「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅」
ここまで申し上げれば、禅に関心のある方は薄々気が付いていると思いますがいかがでしょうか。このままでよくないものが、一つだけ心の中にあるのが分かりますか?
その為に仏陀も苦しみました。道元禅師も悩みました。白隠禅師も良寛さんも皆、その一点の為に苦しい修行を実践しました。
そのもとは、心の中に存在しているもう一人の自分です。もう一人の自分の存在だけは、そのままではよくないのです。その者が心の中に存在している為に「そのままでいいんだがなー」にはならないのです。
その者が存在している状態を有我。
その者が存在してない状態を無我。
どうですか? お分かりになりましたか。
有我では駄目なんです。無我にならなくては・・。
「そのままでいいんだがなー」はその通りですが、この自己の存在だけはこのままではよくありません。
「仏道を習うは自己を習うなり
自己を習うは自己を忘るるなり」(道元禅師)
仏道修行というのは「自己の存在を完璧なまでに忘れ去る」為の工夫です。
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2015.10.1
「ただやれ」「ただ坐れ」「ただ作務せよ」「ただやればよい」
口を開けば、「ただ ただ ただ ただ ただ・・・」
これが禅の正しい修行三昧の生活だという禅の僧侶が多いのです。
この「ただ」についての説明は一切ありません。問うたところで、彼等は「理屈はいらない、ただやればよい・・・」 或いは茶を飲んでみせて「これがただだ!」といいます。
「ただ」といい、「ただ」と思えば、実際「ただ」になれていると思っているのです。まるで念仏禅みたいなものです。
この「ただ」は概念のみで、実際がないことに微塵も気が付いていないのです。「胡椒丸のみ]とはこのことです。
この禅僧達は「ただ」には概念がないと思っているのでしょうか? 或いは「ただ」は真如実際だと思っているのでしょうか?
概念のない言葉など存在しないことが分かっていないのです。言葉は真如実際ではなく、実体もないということが分かっていないのです。「ただ」というのは人の概念を越えるものではありません。「ただ」は人の言語世界のことであって、真如実際にはそのようなものは存在していないのですが、「ただ」という事実が存在しているかのように思っている禅者がいかに多いことでしょう。
「ただ」というのは言語として極めて短く簡単な音であり、その意味も余念をまじえない単純なことを指しています。「ただ」でも、その概念があるということでは、善でも、悪でも、是でも、非でも、有でも、無でも同じことです。
極めて短い言語の一つであり、極めて短い単純なことを表す言葉だから概念がないということではないのです。
「ただ」にも極めてしっかりとした概念があり、この概念を忘れることや取り去ることは、死の概念を忘れることや取り去ることと、修行の上では何の違いもないのです。
「ただ」という言葉を、修行において優れていると思っている禅僧は、「ただ」という短い音節と、簡単というような、余念をまじえないというような意味の言語にだまされているのです。
概念として脳裡にこびりついたら、その簡単な「ただ」という言葉でさえ、取り去るのに苦労することとなります。「ただ」という言葉でも人は強烈に執着するものであることに気が付かなくてなりません。
あなたが真に「ただ」を知っているとするなら、「ただ」という概念を述べるのではなく、「ただ」ということの具体的な心の在り方の内容を説くのが正しいと思います。そして、「ただ」という禅的に便利な言葉に執着しないように注意深く説く必要があります。
どんなに素晴らしい禅の言葉や修行方法でも、執着心を起こさせないように指導すると同時に、新たな概念を抱かせないように指導しなければなりません。
師家は、その時にどのような心があれば「ただ」になっているかを説くべきです。修行者は、その時に自らの心がどのような状態であれば「ただ」になっているかを問い求めるべきです。修行者本人の坐禅中に「ただ」の自覚はなくてよいのです。師家は「ただ」になっているか、なっていないかの確認を修行者自らにさせてはなりません。修行が進んで機が熟してくると自ら納得できる時が必ずきます。その時が禅の「ただ」の実際が手に入った時です。
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2015.10.1
人は「意識していなかった」「無意識であった」「知らぬ間にやってしまった」「無心にやり遂げてしまった」等々の言い方をする時があります。
その時にそのことを行っていながら無自覚の状態であり、しかもきちんとやってしまっている。或いは素晴らしいできであった。これを無心というのか、という具合です。
人には時たま、その時のことを全く記憶していない時があります。つまり記憶の機能が全く働いていない時があるということです。記憶の機能が全く働いていない時は、一秒前のことでも語ることはできません。記憶していないのだから思い起こすことは無理なのです。このような状況を一般の人は「無意識であった」「無意識でやってしまった」「無心であった」と表現します。
人は常に自動的にすべてのことを記憶して行っているわけではないことを知っていなくてはなりません。その時にそのことを記憶していなかったからといって、その時に意識がなかったというわけではありません。その時に記憶の機能のスイッチがたまたまオフだったのです。いつもならオンなのですが、何かの拍子にたまたまオフだったのです。
一般の人は日常的に、意識が伴わない言動はないのです。精神的に特別な状態でない限り、意識(自己)の介在のない精神活動はないのです。一般の人は無意識という意識や潜在意識という意識があると思い込んでいますが、そのような意識はないのです。意識は皆、その存在を私達は自覚できるものです。自己が自覚できない意識というものはありません。意識の精神活動は皆、顕在しているものです。
「意識がない」「無意識」という精神状態は、仏教では無我とか無心とかというものにあたります。この無意識は禅においては無我、或いは忘自己のことで、この状態に自然になることはありません。そして一度無我になった心が再び有我に戻ることはあり得ません。
無心(無我)という状態は、人が禅の修行によって至ることのできる人為的な精神状態です。自然に知らぬ間に至ることはありません。無心(無我)は自然界に自然に存在する精神状態ではないのです。人間が宗教の名において、人間的理想に叶うように脳(精神)のメカニズムを応用して創造した精神です。
(意識が実生活において、自己の中の自己となり、自己の心となり、自己の身となり、自己の中の他己となったりします。意識そのものの実際の姿はなく存在と働きだけがあるのです。そこで以上のことにより、坐禅によって自己が忘却されるということは、自己の身心の忘却であり、畢竟、自己の意識の忘却ということになります。自己の意識の忘却は無意識と同じか別かということですが、このことに答えられる学者は一人もいないはずです。)
動物として生きていく人間に、生存の為に生来備わっている意識(自我=自己)を、意図的に坐禅によって消滅せしめた状態を無心(無我)といいます。
動物としての人間は本来、利己的なものです。動物はまず自分が生き抜くということが生まれ付いた使命なのです。このことの為に利己的であらねばならないのです。その使命を司るのが意識です。自己の中の自己の存在です。自己の中の自己を一般的に意識といい、仏道ではそれを自己とか自我とか我といいます。
この自己(自我)、つまり意識の役割を見出したのが、シッダールタ(ゴータマ)です。
それは忘自己(無心、無我)に至って初めて分かったのです。意識が自己の心の中から消滅したことによって分かったことです。それは自己の中に意識がある時の心の状態と、意識がない時の心の状態を比較することができるようになるから可能なのです。この無我の精神状態は坐禅によってのみ至ることのできる精神(世界)です。非思量という精神状態をしばらくの間、意図的に維持することによって至ることのできる精神(世界)です。
人は非思量であり続けると、自己(自我、意識)を忘却してしまうのです。
この原理を発見したのがインドのシッダールタ(ゴータマ)です。
仏教の基本原理です。仏教はすべてここから始まりました。
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2015.10.4
「そのことと一つになる」「そのことになり切る」「そのことに任せる」「ありのままでよい」「何もしなくてよい」「そのままでよい」「ただやれ」等々。
これらの語句は現代の師家が修行僧や参禅者を指導する時に用いる常套句です。
「見たら見たものと一つになる。聞いたら聞いたことと一つになる」それが禅の修行だというのです。他の語句も同じように用いて修行僧や参禅者を指導しております。
このようなことをしても何も禅の修行にはなりません。一つになるように努力したところで身心脱落に至ることはありません。
なぜか? 一つになるように努力したところで、一つになることは決してできないからです。一つになることを邪魔(阻害)している自己が心の中に存在している限り無理な相談です。それは、「一つになる」というのは身心脱落している様子だからです。自己を忘じきっていないのに、一つになることなどできるはずはないのです。ですから「一つになれ」「なり切れ」「任せきれ」「そのままでよい」「ただやれ」も、すべて自己が自己の中にあるうちはできるはずはありません。また、そのように努力したところで身心脱落することはありません。
「一つになれ」とか「なり切れ」とか「任せきれ」とか「そのままでよい」とか「ただやれ」等々、坐禅の調心の方法として説いている祖録はありません。
祖録で坐禅の修行の調心の要訣として説いていることは、「是非を管する勿れ」とか「善悪を思うな」とか「非思量」とかです。決して、見たものと一つになれとか、その音になり切れとか、縁に任せきれとか、そのままでよいとか、ただやれとは説いてはおりません。祖師方は畢竟「非思量」しか説いておりません。
一つになるも、なり切るも、ただやるも皆、自己を忘じた人の様子なのです。
身心脱落もせずに、自己の中に自己があるうちは、そのものと一つになることはできませんし、そのものと一つになっていることを知ることもできません。身心脱落した結果の自己の様子なのです。身心脱落すると、見るもの聞くものと一つになっているのです。何をやるにも、ただやっているのです。任せる気がなくとも任せてしまっているのです。そのままでよいのです。なぜかって、自己の中に自己がいないからです。
身心脱落しないうちは自己の中に自己が存在しているので、如何に努力したところで一つになることはできないのです。
逆に、一つになるように、如何に努力したところで自己の中の自己を忘じることはあり得ません。
ですから、一つになれ、なり切れ、任せきれ、ただやれという指導は全くの見当違いです。身心脱落に至ったことのない師家が、多分、そのようにやれば身心脱落するのではないかという
当て推量的指導なのです。このような指導者に任せきっているようでは禅も衰えていかざるを得ないと思います。
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2015.10.5
・「本覚」
衆生は本質的に悟りを得ているということ。
人間は生まれついたまま悟っていることを表す。
本来具わっている悟り。
・「始覚」
悟りは修行の積み重ねによって煩悩を払って得るものであるということ。
悟りは教を聞いて修行し初めて得られるものであるということ。
・本覚が生得的に悟りを得ているとするのに対し、始覚は修行によって初めて悟りを得られるとする立場。
「無所得無所悟(得ることもなく悟ることもない)」の心の状態は非思量にとって大切な心の在り方なのです。この心でないと、宗祖 道元禅師が実践された非思量にはなり難いのです。理のみで詮索せずに実際に非思量の状態の坐禅を行ってみると、坐禅中は無所得無所悟であることがよく分かるはずです。
身心脱落する為(仏道を成就する為)には無所得無所悟で非思量の状態を維持(相続)しなくてはいけません。
無所得無所悟というのは、心の中は零状態(ニュートラル)です。心の中を零状態(ニュートラル)に保たなければ、身心脱落に至ることはないので無所得無所悟と示すのです。
有所得有所悟の心で修行する者はどうしても心の中を観察してしまうのです。
心の中をその都度、見性はまだか、悟りはまだか、少しは進んだか、今度はどうか、何か変化はないか、何か気が付かないことはないか等々と期待心をもって自己を観察してしまうのです。これは人の性なのですから、なかなか変えられません。有所得の心、有所悟の心の弊害がでてしまうのです。
観察する心は自己そのものです。自己をもって自己を観ていれば、終生、自己を忘却することはありません。当然、身心脱落することはないのです。
また、禅の修行は曹洞も臨済も本覚の立場でなければ身心脱落(大悟徹底)に至ることはありません。本覚という考えも心の中を零状態(ニュートラル)にする為の考え方です。
始覚の考えですと、どうしても先のある気持ち、先を見た思惑をもった非思量にならざるを得ないのです。始覚ということで坐禅を行うと、純粋に非思量の相続ができないという弊害がでてきます。本覚なら先を思うことは必要ありません。これからを考えることはないのです。今のところで腹を据えて非思量が相続できるのです。
実際、坐禅の修行は自己が変化して、段々と無我になっていくわけではありません。自己を自己のまま忘却してしまうわけです。それ以外、何も変わることはありませんし、何も変えることはないのです。ただ、自己の有無だけが問題なのです。
始覚状態で修行を始めて、段々と本覚に近付いていくのではないという立場は正しいのです。本覚を自覚することを邪魔している存在があるから、それを取り除く為に非思量の状態を維持する必要があるのです。我々修行者が意志を持って修行として行えることは、非思量の状態を維持するだけです。自己の忘却を我々は行うことはできないのです。我々が行えるのは非思量だけです。ここまできた、あそこまで行ったなどということを見ることも、考えることも、観察することも、予感することも、予期することも、予測することも一切できないのがこの道です。ですから、元々本覚も始覚もないのですが、あえて論としていうなら本覚といいます。本覚と思えば、心の中はこのことに関して零状態(ニュートラル)となることができるからです。
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2015.10.5
「坐禅中、念などいくら起こってもかまわん。ある意味それでこそ生きている証拠だと観念して、一切取り合わず相手にせぬがよい。そうすれば、もともと根無し草の念のことだから、やがて消えてなくなる」
このように説く師家が現代の曹洞宗ではほとんどです。
一見するとすばらしい達観した心境に見えますが、よくよく考えてみますと、今の念に次の念が取って代わるだけのことです。
今の念がやがては消えてなくなっても次の念が起こり、次の念が消えても、また更に次の念が起きてきます。生涯この繰り返しとなり、念が止むことはなのです。このような状態で心が安まる時があるのでしょうか?
念が止むことがなければ、いくら坐禅をしたところで非思量に至らず、正念相続はできません。正念相続ができなければ身心脱落は夢のまた夢となります。身心脱落をしなければ大安心を得ることはありません。真の自由を得ることもありません。我と天地有情と同時成道もなく、衆生無辺誓願度も叶わぬ願いとなってしまいます。出家の身としてこのようなことでよいのでしょうか?
身心脱落(大悟徹底)を夢として、その希望だけで禅僧として生きるのも一つの道かもしれません。また、坐禅を身心の健康の為、或いは文化、教養の為に行うのであれば、それもまたよしです。
また、師家によっては「思いや考えは脳の機能として、次から次へと出てくるものでどうしようもない。そこで、思考を脳の分泌物と捉えて、邪魔にもせず、取り合わず、眺めておれば何ら問題はない」と説いています。
人の思考をプツプツ止めどもなく出てくる分泌物と捉えると何ら問題はないが、これでは思量は終生止むことはありません。この状態を続けても、自然に或いは必然的にこれで非思量に至ることはありません。
これが修行なら誰も苦労はしません。これでは修行をしていない一般の人の日常と何ら違いはありません。
このような自己流の坐禅をしないで、宗祖 道元禅師が説かれた非思量を言葉通りに受けて、愚直にやり抜いてみたらよいと思います。身心脱落に至らずとも愚直に徹するだけでもよっぽど禅の修行になると思います。
祖録をその通りに受け取らずに、自己流に論理的、哲学的に解釈したり、自己流に実践を工夫しすぎて本来の非思量から離れるのは問題です。これでは伝灯の灯を消すことになります。
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2015.10.7
・「仏道」
禅修行の実践の場合に用いる。仏の道。悟りに至るべき道。
仏となる為の教え。仏教の修行。
・「仏法」
理論を展開する場合に用いる。仏の悟った真理(法)。仏の説きたもうた法。
仏道の修行においては、精神的に在ると感じている自己の身心の有無だけが問題なのです。自分の身がある、ない。自分の心がある、ない。自己が存在している、いないということが重要なのです。それ以外に坐禅中、或いは広く禅の修行中、何を体験しようと何が体験されようと、どのような特別な心理になろうと、それらは全く意味がないので捨てておくのが正しいのです。
特別な体験をすることを求める心を持って禅の修行をする者が多いようですが、それは間違いです。禅の修行における精神的変化はすべて自然であり、当然に感じられるものばかりで、驚くような歓喜するような神秘的精神変化はありません。禅の修行に特別なものは一つもありません。
禅の修行においては非思量の維持(正念相続)と身心の存在の有無だけが注意すべきことであり、重要なことなのです。他者に評価されたい、指導者から認められたいという名聞の気持ちが少なければ少ないほど、自己の身心の有無だけが問題となっていきます。
修行によって何か特別なものを得たいとか、特別な体験をしたいとか、神秘的な経験をした特別な人間になりたいとか、或いは禅の悟りを得て有名な禅匠になり社会で活躍したいとかという心は、非思量にとって邪魔なものとなります。これらはすべて名聞利養の心から生まれるものですからご用心です。
現代は禅の正師の極めて少ない時代です。その代わりに昔は門外不出であった法語や祖録が今では自由に手に入る時代になっておりますので、無師であっても修行が全くできないことはありません。無師ですと少し苦労が伴いますが仏道の成就は可能です。
正師がいなくても修行者の心の中に仏祖や開祖 道元禅師の正眼があればよいと思います。この正眼は修行上の妥協を許すことはありませんので身心脱落に至ることは間違いありません。
注意すべきは無師であってもよいのですが名聞だけは微塵も動かしてはなりません。身心脱落に至るまでは名聞利養がないということは一般的にはあり得ませんが、それは極力抑え抑えて身心脱落するまで抑えきらなければなりません。他者を救う為といっても、その元に名聞の心があることが多いのですが、僅かでも名聞があるうちは、身心脱落に至ることは難しいことです。真に脱落するまでは非思量に全身全霊を傾けて修行に専念しなくては年月をいたずらに費やすこととなります。
自己の身心脱落の経験を歓喜するようでは、それはまだ真の身心脱落でないことが多いので、自己の心の中をよく点検しなくてはなりません。
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2016.2.29
ここで見性や大悟の体験を心底希求している禅の修行者や参禅者に見性という超常心理現象を体験した方の体験談を三つほど例示致します。
禅の見性体験と、禅の修行によらないで体験した超常心理現象体験との区別は極めて難しいものです。近代現代の多くの師家方の中には禅の見性体験以外に、見性によく似た超常心理現象体験があることを知っている方はまずいないと思ってよいと思います。
身心脱落をした禅僧や大悟徹底した老師は見性体験のようなものは一蹴して認めることはありません。そのような特別な体験は害になることは多々ありますが、益することはまずありませんので、正師ならば、すぐ捨てさせるものです。すぐ忘れるように指導するものです。
原の白隠禅師が最初に特別な体験をして禅天魔(有頂天になって増上慢になること)に陥ったのも「いわゆる見性体験」です。
(・増上慢:まだ悟っていないのに悟ったようなつもりになってうぬぼれ威張ること)
後に飯山の正受庵の道鏡恵端禅師に出会い、それらを捨てさせられて正しく修行をやり直したのは有名な話です。
禅の修行を目指す者は見性体験を希求してはいけません。そのような特別なものはないからです。見性体験としているものは皆、超常心理現象の体験であって、それがたまたま坐禅中に、或いは禅の攝心中に生じたものですから白隠禅師のように有頂天になってしまうのです。間違いです。
禅の体験は唯一、正しいものは一回限りの身心脱落(大悟徹底)の体験のみです。この体験をした祖師方は「手の舞い足の踏む処を知らず」というような歓喜をするようなことはありません。身心自然に脱落をして、当然のことと受け取っておられるのです。
超常心理現象の体験は精神的に追い詰められるような苛酷な状況であれば、いつでも何処でも、どなたにでもあるものです。一般の人は、あの時にこんなことがありましたという程度で忘れてしまうのですが、見性体験を希求して坐禅(参禅)をする者は、この体験に執着をしてしまうのです。
私は禅のすごい体験をした。他の修行者とは違うのだと他に抜きん出た気持ちになってしまうのです。見性として師家(老師)より認められれば尚更です。これは認める師家(老師)に問題があるのですが、認められたいと願う修行者(参禅者)の禅の修行に対する心構えにも問題があります。
この認められたいという気持ち、認められて喜ぶ気持ちは、名誉欲(名聞)に他なりません。名聞という欲は禅の修行に於いては、まず捨てなくてはならない欲であると同時に最後まで執着して離れられない欲なのですから気を付けなくてはならないのです。多くの禅僧は、この処で失速するのです。
見性体験の特徴と超常心理現象体験の共通の特徴は、
・第一の特徴は思考や知覚が消滅し、不安、恐怖から自由になった静穏な心境です。ただし脱落したわけではないので、自分という存在はそのまま保たれているのです。
・第二の特徴は身体という枠を超えた或いは身体から抜け出たという感覚です。
つまり身体感覚或いは五体の存在感が無くなっているのです。
・第三の特徴は恍惚感、宗教的法悦感に満たされるのです。理由が分からずに心の奥底から自然に湧き出てくる悦びです。
・第四の特徴が最も際立っております。それは調和の感覚です。普段、感じている主観(主体)と客観(客体)の区別や自己と対象との区別がなくなり、周囲と自分が一つに融け合った境地です。
以上の特徴でいわゆる見性体験と超常心理現象体験の区別はまずできません。ですから、そのような特別な体験は捨てさせて思考が消滅したところをよく見させて非思量の修行に本格的に進ませなければなりません。ここが修行者を生かすか駄目にするかの、大きな分かれ目となるところですから師家(老師)の力量が問われるところです。
実際の超常心理現象体験話を参考に掲げます。
1.坐禅、瞑想をしている時でした。脚を組んでマントラを唱えるように「無ー」「無ー」「無ー」と唱え、心配事や雑念が消え、内面の静寂が得られ「無」と一体となることを願っていました。
そんなある日のこと、いつものように坐禅、瞑想を始めたところ、ものすごい速さで「上」に向かって落下していく感覚が出現しました。重いコートを脱いだように身が軽くなり、無限の広さを持ち輝かしいのになぜか漆黒の真っ暗い空間に入っているのを感じました。
さっきまで次々に浮かんでいた考えの最後が泡のように湧いたかと思うと消え、それから先は何も出てこないのです。
何が起こっているのだろうという疑問すら蒸発し、精神が完全に沈黙しました。私の知る限り生まれて初めてのことです。今、振り返ってみますと、その状態は15分位続いたのではないかと思います。
しかし、自分自身を経験するという意味での普段の「私」が存在しなかったのです。
時間について内側から語ることはできません。時間が経過する感覚はなく、至福という言葉を使いたい気もしましたが、いつものような感情の動きはなくなっていたのです。
自分の身体への意識は勿論、今どこかの場所にいることの自覚もないのです。あるのはただ意識そのものだけでした。
2.少し冷えた部屋に入り暖房に火をつけて坐禅、瞑想を始めました。しばらくして坐ったまま心地良い眠りに入ってしまいました。フッと坐睡から目が覚め暖房のガス・バーナーの火がついていることに気が付きました。もう充分暖かいのでスイッチを切らなくてはと思いつつ炎を見ているうちに不思議なことが起きました。
私は坐禅をしている位置からだけではなく、妙な言い方ですが炎の中からも見ているのです。私は炎になっていました。その赤さと暖かさに吸収され熱を受け取り、熱を与えていたのです。それと同時に私は坐禅をして坐っていることも自覚しているのです。周囲の壁や窓、畳や柱も自覚しているのです。私の自己は自分という境界を流れ出て部屋のあらゆる隙間に染み込んでいくようでした。更に奇妙な話ですが私は部屋の向こうにも存在していたのでした。坐禅、瞑想をして前方に視線を落としているのですから、前後左右の四方の壁が見えるわけでもないのに内側のみならず、外側にもいるような気がしました。
あらゆる場所、あらゆるものに自分がいるのです。はるか遠くの星にも、目に見えない程のチリの中にもいるのです。空間とか位置関係、境界、区別といった感覚はすべて消えていました。
その時、私は思いました。否、知っていたと言うべきでしょう。今 自分が経験していることが物事の本当の姿なのです。私は大きな全体の一部であり、これまでのすべての経験の方が、ある意味では非現実だったのです。
私はこれほど不思議な状態にあるのに不安は感じなかったし、何なんだろうという疑問も起きないのが不思議でした。何もかもがごく自然に感じたのでした。
3.「無ー」「無ー」「無ー」とマントラを唱えるように唱えているうちに、知らぬ間に眠ってしまい夢を見ていました。そして、ハッと目が覚めた時にそれは起こりました。(これをきっかけに同じようなことは、それから何度も経験いたしました。)目はすっかり覚めているのですが、身体はまだ睡眠麻痺の状態にあるような感じでした。睡眠麻痺のような状態がなくなるのを少し待つことにしました。その時、誰かがすぐ後ろに立っていることに気が付きました。というより確信しました。身体に力が入らないので振り返ることはできません。しかし、物理的な何かではなく本質的な存在だったと知っていますので振り返る必要はありません。慈愛にあふれ、そこから放たれる慈愛は私ばかりかすべてのものを大きく包み込んでいました。法悦を感じました。
以上が一般的にいう三つの超常心理現象の体験談です。
この体験を禅の世界ではどのように捉えるのでしょうか。
見性体験になるのでしょうか。
最初の公案が通ったというところでしょうか。
それとも禅の魔境といわれるものでしょうか。
それとも何の役にも立たない単なる異常心理状態に陥ったというのでしょうか?
以上のような体験をもし見性体験であるとするとその根拠は何でしょうか?
もし見性体験でないとするとその根拠は何でしょうか?
もし見性体験とすると、この体験の中に何に気付かせるのが正しい禅の指導なのでしょうか?とても大切なことです。
以上の体験で修行が止まってしまい、真の大悟徹底(身心脱落)に至る禅者は稀です。
それは初めての素晴らしいと思い込んだ禅の体験を捨てることができないことと、次のスッテプからが真に厳しい修行になることに気付かないからです。
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2016.3.1
一般的に知られている超常心理体験は通常の精神状態とは明確に区別できる共通の特徴がいくつかあります。
・第一の特徴は思考や知覚が消滅してしまうのです。思考が全く動かないので、今どうするか、後先をどうするかと思う心が全く働かないのです。ただし、それらを知っている自分という存在はゆらぎなくあるのです。
・第二の特徴は不安、恐怖から解放され自由になった静穏な心境になるのです。
・第三の特徴は身体という枠を超えた或いは身体から抜け出たという感覚です。つまり、身体感覚或いは五体の存在感がなくなってしまっているのです。
・第四の特徴は、恍惚感、宗教的法悦感に満たされるのです。理由は分からずに心の奥底から自然に湧き出てくる悦びです。
・第五の特徴が最も際立っています。それは調和(融和)の感覚です。
普段感じている主観(主体)、客観(客体)の区別がなくなってしまうのです。自己と他己(対象)との区別がなくなり周囲と自分が一つに融け合った境地です。
-「脳と意識の地形図」リタ・カーター著抜粋 藤井留美訳-
以上のことは何の説明もしないで、坐禅をしている人や禅に関心を持っている人に見せると見性体験や大悟体験の説明と受け取ると思います。しかし、これらは冒頭で説明した通り、坐禅経験のない一般の人達の超常心理現象体験を脳科学の専門家がまとめたものです。
このような体験の報告例は世界的にいくらでもあり、心理学の世界では決して珍しいことではありません。
このような体験は苛酷な自然条件の下や人為的に作られた苛酷な条件下に於いて、自然に偶然に体験することもあれば、宗教上の祈りや瞑想や行を通じて体験した人もいるし、精神的に作用する薬剤によって体験した場合もあります。
以上にあげた五つの超常心理現象体験は禅の修行に於ける見性体験や大悟体験と極めてよく似た体験です。超常心理現象体験と見性体験や大悟徹底の体験の区別は本人は勿論、一般の師家(老師)では区別することは極めて難しいものです。あの原の白隠禅師自身もそうですが、門下の大事了畢の雲水(修行者、禅者)の中にも多く間違いがありました。
坐禅修行中の特異な心理体験が一般的な超常心理現象体験であるか、宗教上、正しく見性体験であるか大悟徹底体験であるかを自ら見極めることは不可能です。正しく大悟徹底(身心脱落)した師家(老師)に点検してもらうしかありません。
禅の修行する者(雲水、禅僧、参禅者)の多くは禅に過大な期待を持って見性や大悟や超常心理現象をすることを求めて坐禅をしていることは確かです。禅の修行者にとって見性体験や大悟徹底体験は喉から手が出るほど欲しくて欲しくて仕方のない体験なのですから、坐禅中に超常心理現象を体験すれば、即見性、即大悟と思い込むのは致し方ないのです。ここで師家の指導が最も重要となるのです。その修行者を駄目にするのも、大成させるのも師家(老師)次第なのですから師家(老師)の力量が問われるのです。
禅の修行は見性体験や大悟体験が大切であると捉えてきた修行者の問題点がここにあります。禅の修行はそのような体験ではなく、自己の中の自己の有無が重要なのですが、このことに気付くことなく禅の修行を始めた者の欠点です。禅の修行は自己の中の自己の有無が最初から最後まで問題であることに気付かないと正しい修行はできないのです。
また、このような特異な体験を求める心というのは、その本質は名聞利養であることに気付いていないのです。
人を救う為という良いことを求めているのであるから名聞利養にはならないとか、或いはたとえ名聞利養であるとしても悟りたいという正しい志であるから許されるものであると考える修行者は多いのですが、これらの理由は禅の正しい修行にとっては大きな障害となりますので用心しなくてはなりません。
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2015.9.20
人は慣れていない事をする時、上手に手際よくできるように工夫をするものです。そして、いくら工夫してもできない事がある時は、その事に精通した人に、どのように工夫すればよいかを尋ね教えてもらい指導してもらい、自分でそのようやってみるものです。ほどほどにできるようになっても、更に上達するように様々に自ら工夫をしていきます。坐禅の修行も以上のことと何も変わりはありません。坐禅の修行といっても特別な神技的な事はありません。
禅の修行は非日常ですから、経験のある人は少なく、初めてのことだらけ、分からないことだらけです。分かるようになるまで、正しくやれるようになるまで工夫に工夫を重ねて努力していきます。
心の整え方の微妙な所は、師に尋ねても分からないことが多いので、師の言葉をヒントとして自分で工夫してみるしか方法はありません。禅の修行は心のことなので、取り出して目で確認することができないのです。師に尋ねても実物がないので言葉を介してのやり取りになります。師の説明に対する自分の理解に、間違いはないかの確認ができないという不安が常に付きまといます。禅の修行は一般社会の発明・発見の研究開発と同じように、目的を達成するまでに様々な工夫が必要なのです。師や修行の先輩や仲間にどのように工夫してきたかを尋ねることも大切です。
禅の修行において「工夫」という言葉を常日頃用いますが、以上のように一般社会における「工夫」「工夫する」という使い方と同じです。禅だからといって特別な意味が付与されているわけではありません。
禅の修行は非日常です。誰でもが日常生活で経験のないことを行います。入門したての修行僧や一般の人で坐禅の修行を志す参禅者にとっては、すべて未経験のことばかりです。早く一人前に修行できるように古参(先輩)の修行僧や先輩参禅者の動きを見ながら経験を積み、試行錯誤して工夫を重ねていきます。古参の修行僧の指導のもと、師家の言葉を受けて坐禅が正しくできるように、調心の一方法である「数息観」がしっかりできるように、或いは正統な本格的な調心である「非思量」を正しく理解し、それが実行できるように、歯を食いしばり工夫に工夫を重ねる毎日を送ります。
調心の工夫は難しいものです。誰でもが苦労します。「数息観」や「非思量」を行うにしても、師家の言葉に専門用語が多く、なかなか理解できず、また自分が尋ねたいことを師家に理解してもらえない等々の難しさがあります。
実際に、心を整える時に自分の心は自分の心でありながら全く思い通りにならないということにハタッと気が付きます。ここから修行の苦労が始まります。
例えば「数息観」です。これは呼吸に合わせて一から十まで数を数えるのですが、こんな簡単な事さえ容易にできません。
「非思量」、これは何も思わず考えず眠らずに約四十分間坐っているのです。
「思わない・考えない・眠らない」 最初は誰でもこれは簡単と思い、容易なことと考え、こんなことで修行になるのかと思います。難しいことを考えるよりも易しいと思いますが、実際はこれほど難しく忍耐の要ることはないのです。その証拠に明治時代から戦後にかけて、最後までやり遂げた修行者はオリンピックの金メダリストよりもはるかに少ないのです。ノーベル賞受賞者よりも圧倒的に少ないのです。皆、忍耐が続かなくて途中で止めてしまうからです。そのようなことが分かっていても道を真剣に求める人は修行を続けます。
思い通りにならない心を思い通りにしようと努力しても、そのままでは思い通りに非思量ができるものではありません。それでも何とかしようと工夫をし始めるのです。修行は工夫の連続です。ああでもない、こうでもないと工夫し、やってみる。少し上手くいった、やっぱり駄目だ、それでもやってみようと工夫し努力を続けるのです。上手くいかない時もあるし、上手くいく時もある。苦しい時もあるが順調な時もある。眠くて仕方ない時も多い。睡魔と闘うことも苦しい。気が緩んで坐禅にならない時もある。それでも懲りずに工夫をしながら坐禅をするのです。このような状態で何年、何十年と坐禅の修行をしているうちに数息観も非思量もできるようになってきます。
禅の修行に奇跡や神通力の働く余地はありません。地道にしつこく諦めずに行うのみです。
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2015.9.21
「坐禅は安楽の法門」であるとよく言われます。しかし実際に坐禅をしてみて「坐禅は安楽の法門」と思ったことが一度もないのは、私だけではないはずです。「坐禅は安楽への法門」というなら理解できますが、それでも、それだけでは坐禅をすることの弾みにはなりません。それ程に修行僧である我々にとっても坐禅は精神的に苦しい辛い修行です。
坐禅は身心脱落するまでは禅僧であるといえども辛い行いですから、それを覚悟して禅の修行を始めることをお勧めいたします。
坐禅中、非思量の心理状態を維持する為には心に極めて大きな負荷をかけ続けなくてはいけません。その負荷は精神的弱者でない限り、耐えられない負荷ではありません。どなたでも心願があって禅の修行をするのであれば、その負荷に耐えられないことはありません。負荷、負荷といっても、その負荷は他者からの負荷ではなく自分で自らにかける負荷です。自分の力量や心願の強さに応じてかける負荷ですから、耐えられないことはありません。
禅の修行というのは指導者である師家が修行僧に対して負荷をかけても、ものにはなりません。修行が成就することはありません。自分が自分で自分に負荷をかけるからこそ修行になるのです。
禅の修行の負荷というのは、「念・想・観」の習い性との闘いと睡魔との闘いで最大となります。妥協はありません。その負荷の手抜きをしては非思量の維持ができません。気を抜く時はないのです。負荷を緩くして気を抜き精彩を欠いたら、その時は非思量の状態にはなっていません。非思量の状態を維持する坐禅は、ただ坐っている姿だけの坐禅とは違って、決して安楽ではないのです。
非思量の状態を続ける負荷とくらべれば、世間の心労のもたらす負荷は軽いものです。レンコンじゃないけれど先が見えていますから。
禅の修行は精神的に強い負荷を十年、二十年、三十年とかけ続けます。先が全く見えないのですから、その負荷に対する忍耐はなかなか厳しいものです。
鈴木正三禅師が提唱する不動明王の忿怒の形相での坐禅というのは、正にこのことです。忿怒の形相での仁王禅と言われる由縁です。
不動明王尊や仁王様の忿怒の形相や心で行わなければ、禅の修行の負荷には耐え切れないと鈴木正三禅師は説いたのです。
坐禅中、非思量を維持する為の負荷は、凄まじいと言えば凄まじいものです。
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2015.9.21
師家の多くは、まず、数息観がしっかりとスムーズに自然に行えるようになることが大事であり、それが滞りなくできるようになることが目的であるように説きます。それができたら、ひたすら数えることに徹していけばよいと説きます。
これらの師家は、なぜ数息観を行うかの理由を全く理解していないのです。
数息観という修行は数を数えることを通して非思量という工夫をつかむことが目的なのです。数を数えることに極度に精神集中することが目的ではないのです。極度に数を数えることに精神集中しても、超心理体験をすることがあっても、身心脱落をすることはあり得ません。
非思量という修行の在り方の経験がないからに他なりません。禅の修行がどのような方向に進んで行き、どのような修行状態になって、そして身心脱落に至るか全く見当がついていないからです。暗闇の中で、全方位的可能性をもって全方位的に修行しているかのような感じを受けます。大道無門を取り違えているのではないかと思います。修行に入る門は全方位ですが、行く方向には一定の法則があります。
数息観は数を数えることが目的ではありません。スムーズもゆっくりも気にする必要はありません。数を数えている時に非思量であるか否かが大事なのです。
人の脳は同時に二つの事をしっかりと確実にすることができないようにできています。つまり、数える時は数えることをしっかりと確実にすることしかできないのです。何かを思いつつ数を数えることはできないのです。もし、数を数えている時に何かを思ったり考えたりができるとすると、それは適当に数えている状態です。しっかりと数えたら、思いや考えが出てきませんので、どう数えたら、思いや考えが出てこないようにしっかり数えられるかを工夫しなくてはいけません。惰性的に数えたら思い考えが出てきます。しっかり数えるということは思いや考えが出てこないということです。しっかり数える工夫を様々にやってみることです。非思量の状態になっていればよいのですから・・。
心に力をいれず、ゆったりと縁に任せるようにして坐ったところで非思量の習慣を身につけることはできません。忿怒姿の不動尊のように心に力を入れ、一気に非思量に突き進まなければ思量を断つ習慣を身につけることはできません。人の習癖を劇的に変えるということ、或いは真逆に変えるということは決して楽にはできません。工夫に工夫を重ね、ああでもない、こうでもないとやってみないといけません。
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2015.9.21
禅宗という宗派はありません。修行の時に坐禅を組む宗派、坐禅を信仰と修行の中心とした宗派という意味です。禅宗は明治期以降、臨済宗と曹洞宗と黄檗宗の三派が残り、現在に至っております。それぞれの宗派には特徴があります。
臨済宗は公案を用いた坐禅をいたします。よって公案禅といいます。
曹洞宗は「非思量」を行ずる坐禅ですが、開祖 道元禅師が「只管に打坐すべし」と唱えたことから、只管打坐が曹洞宗の特徴を表す言葉となっております。
臨済宗の坐禅は坐禅の姿勢をとり、公案を用いた修行をいたします。このことから公案禅という語は臨済宗の特徴をよく言い表しております。
しかし、曹洞宗においては、只管打坐という語は曹洞宗の坐禅の特徴を言い表しておりません。曹洞宗の坐禅は正身端坐という坐禅の整形の姿勢をとり、心の中では「非思量」を行じるので、正確に言うと「非思量禅」ということになります。この非思量禅を只管(ひたすらに余念をまじえずという意味)に行いなさいという意味で道元禅師は「只管打坐」と言ったのです。ですから、只管打坐の坐禅は曹洞禅の特徴を言い表してはいないのです。
「公案禅」は坐禅の姿勢をとって、心の中で公案をひたすら拈提しているのです。坐禅の内容は公案を解くことです。
「只管打坐」は文字通り訳すと坐禅の姿勢をとってひたすら坐禅をすることです。坐禅の内容は非思量です。ですから、曹洞禅は只管打坐ではなく、あえて正確に言うならば、「只管非思量禅」と言い表すのが正しいのです。これでは字数が多く言いにくいので短くするなら「只管打坐」よりも「非思量禅」の方が内容を正確に表しているのでよいと思います。「非思量禅」ならば「公案禅」に対応して適切表現だと思います。
曹洞禅を日本に最初に伝えたのは道元禅師です。道元禅師が著した普勧坐禅儀と瑩山禅師の著述した坐禅用心記という坐禅の仕方についての本があります。その中で調心(坐禅中の心の整え方、在り方)について書かれていますが、その中に「ただ」とか「ひたすら」という調心があるとは書かれていません。道元禅師及び瑩山禅師の調心は「非思量」です。非思量以外の調心は書かれていません。非思量について、只管にやりなさいとは書かれています。つまり、ひたすら非思量を行じなさいと書かれているのです。
そうであるのに戦後、眼蔵家とか、その流れを汲む師家方とか禅学の先生方は曹洞宗の坐禅のやり方を「只管打坐」であると説くようになりました。そして、その説明として「ただ坐る」とか「ひたすら坐る」とか「何も求めずに坐る」とか述べるだけで、それ以上の説明をしていません。この説明では、道元禅師と瑩山禅師、両禅師の説かれた坐禅の調心の説明になっていないことに気が付いていません。彼らは「只管」の現代語訳をもってして、坐禅の調心の説明になっていると思っています。彼らは只管の現代語訳はしていますが、坐禅の要術である非思量には全く触れていません。調心である非思量にはほとんど重きを置いていないようです。あたかも只管という坐禅があるかのような説き方です。
彼等は坐禅というものは調身と調息を整え、正身端坐の姿勢をとって一定時間坐ることと思っています。この正身端坐の姿勢を保って「ただ坐れ」「ひたすら坐れ」ばかりで、それがそのまま道元禅師や瑩山禅師の説く坐禅であると説き、調心である非思量を無視しているのは誠に残念です。
只管打坐を「只管正身端坐」と捉えているのではないかと思います。「正身端坐」は調身であって調心ではありません。正身端坐は姿勢の問題であって、それは調心の非思量と連動した関係性はありません。正比例の関係もありません。「只管に打坐すべし」の文のどこが重要かについての錯誤があります。
この文の主体は只管という打坐を修飾する副詞句ではなく、打坐という動詞句にあたるのは常識のある人ならば、どなたにも分かることです。只管が重要だと主張する方は普勧坐禅儀や坐禅用心記を再度、先入観を持たずに素直に読んでみるべきだと思います。
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2015.9.22
武道には型のみを修得する部門があります。そして型のみを一人で行って見せたり、相手をもって実践的様相で型を見せる部門があります。それは実践の実力は問いません。なぜなら、それは型のみを忠実に美しく行うことが主眼であるからです。
最近ではこれに近く似たものでエアー・ギターなるものがありました。実際にギターを持って演奏しているかのように動作をし動き回るのです。ギター以外にも様々なエアー○○○というものが行われ、いかに臨場感があるか、真に迫っているかを競う大会も行われています。
最近の坐禅もこの様相を呈しています。正身端坐といって外見の姿を尊ぶのです。中味・内面は問わないのです。正身端坐の姿が内面を表していると評価しているらしいのです。内面は外見に表れるということらしいのです。或いは外見の宗教的な端正な威儀、作法の姿勢は内面を整える力を持っているということでしょうか?
本当に内面は外見の威儀、作法の姿に表れると言い切れるのでしょうか?
お師家さん方に外見だけで内面を見抜く力があるというのでしょうか?
私は疑問に思います。歴史上第一級の禅僧である、あの白隠禅師が大事了畢を認めた十何人かの弟子の中に何人の見誤りがあったのか御存知ですか? 一度文献を調べてみるとよいと思います。
臨済宗中興の祖である白隠禅師ですら何人もの見誤りがありました。(白隠禅師の跡を継いだ第一弟子である東嶺禅師が再点検し、その結果であると記しています。)それも常日頃、接し指導している弟子(僧・俗)の中にです。
曹洞宗の師家は正身端坐の姿で規定通りできているから、この修行僧は可。あの修行僧は姿が歪んでいるから不可と言い切れるのでしょうか?
坐禅は姿でするものではありません。正身端坐に身と口を律する力はありますが、心を律する力などありません。正身端坐に人の心を非思量にする力はないのです。正身端坐は身、口、意のうちの身と口を律することはできますが、「意」を律する力は一切ありません。ここの所を間違えてはならないのです。
姿や形を整えることは難しいことではありませんが、非思量へと心を整えることは極めて難しいものです。実際、やり比べてみると分かります。武道の「型」の修練と一緒です。型のみでいくら修練を積んだところで、本来の実力が身に付くものではありません。実際に戦わせてみればよく分かるはずです。戦う前に心が動揺するのです。型を整えても心は別なのです。
同様に禅の修行も正身端坐が大切だ!尊い!不可欠だ!といって坐禅の姿に専心したところで身、口、意の「意」は如何ともし難いことは正身端坐に打ち込んでいるご本人がよく認識しているはずです。もし実力がつくというなら、実際に有力の人と法戦をやってみるとよいでしょう。
いくら姿が惚れ惚れするくらい美しく凛とした雰囲気がでていたところで、心は縁に応じてぐらぐらと動揺するはずです。他者はごまかせても仏祖と自分をごまかすことはできません。禅は修行の最初から坐禅の要術である非思量に専心すべきです。姿は二の次でよろしい。「豈に坐臥に拘らんや」です。型などに目をくれなくてよいのです。型などは程々できていればよいのです。身体と意は別ですから。
このように言うと理にさとい禅僧はかく言うでしょう 「身心一如・・」と。
(身心一如とは身と心は一体のもので切り離すことはできないものであるということ)
身心一如をその通り常識的に解釈すると、身と心は一体だから身で行ったことは心で行ったことになり、心で行ったことは身で行ったことになるとの主張なのです。
身心一如という祖師の言葉は姿勢を整えれば心も整い、心を整えれば姿勢も整うという根拠なのです。身心一如は身心不二、不二身心とも言います。
この意見は非思量をきちっと修行していない方の言い分です。この場合の身は生身の身ではなく、私達が身と思い込んでいる身のことです。私達が我が身と思い込んでいる身は、精神的な身であって生体としての物理的な身ではないのです。「念をもって身となす」の身ですから、「念」 即ち自己が創った精神上の身のことです。自己の中の「自己」と、自己の中の「身」は元は同じ「念」ですから一如です。正身端坐の身は生身の身体であって、身心一如の身ではないのですから注意が必要です。正身端坐の姿を整えてただ坐ることが真の修行だと思い込んで坐禅をしてはいけないのです。
曹洞禅では行住坐臥の一つ一つに於いて非思量ができているか否か、非思量を行っているか否かだけが問題なのです。
禅の修行は「意」だけが問題なのです。見世物ではないのですから姿はそれほど重要ではありません。いくらやり易い理解し易いからといって姿勢を重視した坐禅をもって修行と称してはなりません。
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2015.10.11
坐禅を行う人の中にはその姿勢を重視する人が多くいます。
その理由は、道元禅師がその著書の中で、正しい身の姿として端正な坐姿、端厳な姿勢を表す正身端坐という言葉を用い、且つ、坐禅の姿勢になぜそのような姿勢を求めるのかの理由を述べずに、事細かな注意を示していることによるものと思われます。
正身端坐をなぜするのか?
その程度はどの程度まで厳密にするのか?
事細かな一つ一つの作法はなぜそのように行うのか?
その理由が一切記されていないのです。一つ一つのことに、なぜそのような注意をするのか等をきちんと説明すれば、坐禅の姿勢や作法の完成度、達成度の許容範囲が分かり、柔軟に対応してそれ程厳密に神経質に坐禅の姿や作法に執着し問題にすることはなくなると思います。
坐禅の姿や作法よりも心の中をどのようにすれば非思量の状態となり、それを維持することができるかに心を費やさなければならないはずですから・・。
なぜかといいますと、坐禅の姿勢と非思量の工夫とは何も連動していないからです。
つまり、いくら完成された正身端坐であろうとも、それによって必然的に心が非思量の状態になることはないからです。正身端坐という坐禅の姿勢とか坐禅の作法が必然的に心に非思量をもたらすという因果関係はないのです。経験則でもそのようなことはないのです。
坐禅は他者に見せたり見てもらうものではありません。師に坐形、坐姿を評価してもらうものでもありません。正身端坐は他者が決めるものではないのです。自らの坐禅に他者の存在は一切不要です。
只管打坐や非思量を相続することに影響がない程度に坐禅の姿や坐禅の作法ができていれば充分です。このことをよく理解して坐禅の姿勢を保って非思量に専念されるとよいのです。
非思量の心が坐する姿に現れることは絶対にありません。誰にも他者の心の中を見、知ることはできないのです。たとえ身心脱落、大悟徹底している師家であろうと外見のみでその人の心の中を知ることはできないのです。「正身端坐=完全なる非思量」という図式は全く成り立つことはありません。心の中は宗祖と雖も外見、姿だけで知ることはできないのです。
坐禅の最初の用心はどの祖師方も「不思善 不思悪」「善悪を思わず」「非思量」「是非 分別をしない」と述べております。祖師の言われた通りに、このことを素直にその通りに受け入れて、根気よくやるしかないのです。
非思量は正身端坐に命をかけるよりもはるかに難しいことです。やってみると分かります。
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2015.9.22
坐禅の姿勢をきちんととってひたすら坐ることをもって坐禅をしているとはいいません。身は坐禅の姿勢をとって心は非思量であることをもって仏祖の坐禅といいます。動静、坐臥にかかわらず心が非思量であることをもって禅の修行といいます。
白隠禅師以降より臨済禅は公案禅となりましたが、白隠禅師以前は臨済宗においても坐禅は非思量でした。白隠禅師が非思量を公案に代えた理由はどこにも記されていませんので私には分かりません。
公案禅といっても見性したならば非思量に移行していく(入っていく)のが正統の禅といえます。これは師家の力量によるものですから師家次第です。純一無雑の非思量禅の方が力があることは間違いはないのです。禅の修行だからといって無いところに敢えて(無理して)大疑団(大きな疑問の塊という意味)を抱かせることを非思量の修行においては行いません。自らが禅の修行に入った理由(動機)だけで非思量は充分できます。それ以上の大疑団と称する人為的な「たんこぶ」は必要がないのです。
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2015.9.22
「只管打坐は無目的の行である」「坐禅は坐することが仏になることである。何かの為に坐するのではない(無目的)」
曹洞宗の坐禅は無目的である。何の為に無目的なのか? それは身心脱落する為です。
一見すると、この論理は矛盾しています。「身心脱落する為」と述べているのですから、これが目的ということになります。そうであるなら曹洞宗の坐禅は無目的であるという最初の言葉は矛盾しています。
しかし、ここが禅の禅たる由縁で論理的には矛盾していますが、実際に坐禅をしてみると矛盾はしていないのです。
曹洞宗の坐禅は、身体は坐禅を組んだ姿勢で心の中は非思量を行じるのです。この非思量は宗祖が説かれているように身心脱落する為の重要な方法なのです。非思量は「何かの為に」という心が僅かにでもあると、それは身心脱落に至る非思量とはいわないのです。「何かの為に」という目的に基づく予期の心、期待の心が少しでもあると、或いは僅かでも動くと、この非思量は宗祖 道元禅師の説く非思量ではなくなるのです。
宗祖 道元禅師の説く非思量というのは目的の無い心の状態で行う非思量です。身心脱落という目的(願望)を持ったまま、その目的を完全に忘れて非思量を行じなければ、それは宗祖 道元禅師が説いた非思量ではないのです。これは考えるとできそうにありませんが、実際にやっていけばできることですから、自分で工夫してやれるように努力する必要があります。目的を忘れた非思量を行じて、初めて宗祖 道元禅師が説かれた非思量となり、これによって身心脱落が可能となるのです。ですから、曹洞宗の坐禅は無目的であると師家が説くのは間違っているわけではないのです。禅の修行は無目的であるが故に目的が達せられるという論理的に矛盾に満ちた道なのです。
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2015.9.22
坐禅中、非思量を維持する為に五感の内のどれかを用います。私は視覚です。何かの縁ですぐに想像(物事の形、姿、色を思い浮かべること)する癖があるからです。言葉による思量を用いる癖の人は、聴覚を用いると言葉による思量を断つことができます。
視覚を用いる工夫について述べていきます。坐禅というのは、一点に澄んだ独楽のように集中すると考えている人が多いと思いますが、坐禅は視覚を一点に集中するのではなく、一点に開放するというほうが感覚的には正しいことです。
人は一つのものを見続けたり、一つの音を聴き続けたり、一つの匂いを嗅ぎ続けたり、一つの味のものを味わい続けたり、一つの皮膚刺激を受け続けたりすると、その刺激(入力感覚)が鈍ってきます。そして、しまいにはその刺激(入力感覚)が全く鈍麻して知覚されなくなってきます。
これは知覚の消失現象(フェイディング)と言いますが、坐禅中は知覚の消失現象が生じるような状態にもっていってはなりません。知覚の消失現象が起きると、あたかも坐禅の三昧の状態に入って、修行にとってとても良い状態と捉える禅僧が多いのです。
しかし、これは正しい坐禅の状態ではないので気を付けたほうがよいと思います。つまり、非思量から遠ざかって一つの特別な心理状態に遊戯してしまっているからです。或いは、知らぬ間に坐ったまま浅い眠りに入っていることも多くあります。坐禅も慣れてくると姿勢を崩すことなく眠ることができるようになるのです。鶴が一本足で立って寝入るようなものです。
消失現象が生じるような状態で坐禅を行っていると眠気を催す原因となります。また、気が緩む原因ともなります。気が緩むと念想観が活発に動いて、そのまま知らぬ間に眠ってしまうことになります。眠くなると気が緩むし、気が緩むと眠くなり坐禅にはなりません。
坐禅中は視覚を主とした五感を完全に覚醒状態にしておくのですが、同時に心の中は非思量の状態になっていなくてはならないのです。このようなことがしっかり行えている時には知覚の消失現象が生じることは少ないのです。坐禅中は常に覚醒状態でなくてはならないのです。五感も常に開放状態でなくてはならないのです。一点に集中と称して一点に凝集して、他の五感を塞ぐようになってはいけません。
知覚の消失現象が起きてきた時や眠くなってきた時は、眼に力を入れて瞬きをするとか、覚醒すべく眼底や眼球の奥の方に力を入れるとか、上下の眼瞼を見開いたり力を入れるなどして覚醒を維持するようにします。フェイディング現象も途切れて再び坐禅に専念することができるようになります。
坐禅中、眼の状態を固定させて凝視し続けていると視覚への入力刺激による覚醒が鈍ってきます。五感の感覚が鈍ってくるようでは坐禅になりません。五感は全て開放状態になっているのが良いのです。五感の覚醒を維持することによって正念相続が可能となるのです。坐禅中のフェイディング現象を許してはいけません。その為の工夫を様々に凝らしてみることが必要です。
視覚を用いての非思量の維持の場合、眼の状態、或いは視線が固定的になるのですが、その為に他の五感の感覚が鈍ったり、入力刺激を遮断するようになってはいけないのです。視覚を最大限に覚醒状態にしつつ、他の知覚の刺激入力は自由で全開放状態になっていなくてはいけないのです。ここのところは実際にやってみて、いろいろ工夫してみるしかありません。
また、視覚を覚醒状態に維持していることをもって集中といいますが、その際、どこに視線を落としたらよいのか、どこを見たらよいのかも問題になります。これは非思量をしっかりやって最初の一山を越えると解決します。
身心脱落まで汗水かいて山越えしなければならない山は沢山あります。五つや十で済むと思ったら大間違いです。江戸時代の愛知県足助の鈴木正三禅師の「不動明王の如くになって坐禅せよ」という言葉が参考になります。正三禅師が忿怒の不動明王の如くに全身に力を漲らせて坐禅せよと唱えるのは、知覚のフェイディング(消失現象)の防止の為であり、睡魔を追い払う為であり、念想観の測量を息める為であり、非思量の状態を維持する為です。非思量が充分に正しく行えるようになると視覚、或いは聴覚のフェイディング現象は生じません。
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2015.10.19
禅の修行で三昧という言葉をよく目にします。
曹洞宗ではあまり用いませんが臨済宗ではよく使うようです。心の集中に関することなのでしょうが、私としては実際にはどのような精神状態なのかは経験がありませんのでよく分かりません。
曹洞宗においては非思量の状態の維持が坐禅の中心です。非思量に集中はしておりません。坐禅というと、一点に集中することと捉えている人が多いのではないでしょうか。その集中も外界との縁を断ち切って特別の心理状態で、心の深淵の中に入り込んでいるかのように考えている人が多いように感じます。
実際は非思量の坐禅は、どうすれば非思量を維持できるかという一点の為に、心の中では様々に工夫し微調整をしているのです。非思量を死守する為に、思量や睡魔や気の緩みと戦っているのです。
非思量になる為には、昔から五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)のうちのどれかを利用することになっています。一般的には視覚を用います。その理由は、視ることによってすぐに想像する(関連したことを思い浮かべる)癖を持っている人が一番多いからです。
聴くことによってすぐに想像(思い浮かべる)する癖の人も、視覚と同じ位多いと思います。その場合は聴覚を用います。
視覚も聴覚も工夫の仕方は同じですので、視覚における場合を説明していきます。
視覚を用いて非思量になる為には、まず第一に視覚の緊張感を途切れさせることなく最大限に用いていると、思量が動かないことに気付きます。そこに気付くことが大切です。その要領は様々な工夫の中から自分でつかむのです。
視覚を実際に緊張感をもって用いることによって、脳の思考回路内の想像の回路を遮断してしまうのです。これはいわゆる食道と気道を用いる関係に似ています。食道を用いれば気道は閉じるし、気道を用いれば食道は閉じるという関係です。
実際の視覚の神経回路も、思量上の想像の神経回路も同じものを用いているのです。
禅の修行の場合は非思量の状態の維持ですから、思量上の想像(物事の姿、形、色を心の中で思い浮かべること)の神経回路を遮断するればよいのです。想像の神経回路を遮断する為に、実際の外界からの視覚情報に対して視覚を意図的に集中的に継続的に用い続けるのです。そうすれば必然的に脳の想像の神経回路は遮断されることになるのです。
これで非思量が手に入り、後は血の滲むような忍耐で、この神経回路の維持に務めるのです。それを死守するのです。人の想像する習癖は執拗です。修行中の悪魔の甘い誘惑とはこのことです。
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2015.9.21
意識には姿、形、色はありません。意識の発生する所は脳幹か、その近くのどこかにあるはずですが、私達禅僧はそれを解明すべき手段を持っていません。それは脳科学の専門家に任せるしかありません。
意識は人の思考には一切関与していないことが、非思量の状態の心になって初めて明らかになりました。意識は、私達の心を空にしてみると、ただ存在しているのみで変化はほとんどありません。私達は意識を自由に動かしたり操ったりすることはできません。意識には存在と働き(作用)があるのみです。その働きは自己の中の自己となったり、精神上の他己となったり自己となったり、自己の中心となったり、精神的な身体となったり、自己の中の変わらぬ魂のような主体となったり、自己の中に方向と距離を出す為の基点となったりします。そして意識の機能を自己とか他己とか身体とかを主体を通して具体的に示し表します。
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2015.9.21
自己を忘ずると、この身体の内側と外界を区別する精神的皮膚感、精神的皮膚の表皮感、表皮が覆う腕や脚等の精神的立体的存在感や精神的輪郭感がなくなります。皮膚に対する刺激(感受感)は残りますが、その際の皮膚の存在感、身体を覆う皮膚の立体感、輪郭感はなくなります。
この身体には五つの感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚)を通して入ってくる縁(刺激)に対する感受感、反応感のみが存在します。五つの器官への刺激の感受感は残りますが、その際に精神上の象形的目や耳や鼻や舌(口唇)や皮膚の存在感は消滅します。身体全体の輪郭感、輪郭線の存在感が消滅するのです。また、身体の内側と外界との境がなくなり、身体の内側と外側という感覚がなくなります。どこまでが肉体かという肉体の広がりの境界(有限感)もなくなります。自己の身体に残るのは縁に反応するポイント的感覚のみです。この感覚の総体が身体であると、理知としては理解できます。
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2015.10.12
一般に人の「意識」は眼と唇に集中していることが多いものです。人は眼と唇の存在感を一番強く感じ、そこに自己或いは自意識を構えるのです。この一番強く感じるというのは、実際には心の中で視覚的にイメージして、心の中で視覚的に見て、心の中で視覚的に感じているということです。この「視覚的に」ということが「意識」とか「自己」の感覚的実体です。これは精神的に創られたものです。
人が覚知するという場合、必ず五感、つまり視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚の五感覚器官で覚知しているのです。
最近、体内時計といって体内に時間を覚知する感覚器官があるかのような主張をする科学者もいるようですが時間を覚知する器官はまだ発見されてはいないようです。
これら五感以外に人は覚知するの器官を備え持っていないようです。
この場合、感覚器官は厳密には五感覚器官の知覚神経で覚知しているという意味です。
なぜ、このようなことを言うかといえば、例えば言語による思考の場合、人は思考を覚知しているがそれは脳内で音声系として思考をしているからです。つまり思考を覚知する専用の覚知器官はないので聴覚神経経路を用いて思考しているのです。
思考は聴覚神経経路を用いていますが、実際には内部からの聴覚刺激情報なので、外部からの情報を入力する鼓膜等の振動器官を用いてはいないのです。
人が意識として、或いは自己として感じているものは視覚的イメージ感覚です。
視覚神経を用いて内部からの視覚情報として知覚している自己感覚を、人は意識として捉え、自己と捉え、自意識として捉え、自己の中にいるもう一人の自分等々と捉えているのです。これら自己も意識も自意識も自己の中の自己も、それぞれ別々のものと思っている方が多いのですが、どれも心の一つの働きで、同じ心が具体的な場面に応じて変換即応したにすぎないのです。つまり、様々に見え、様々に感じても、様々に分類し、様々に呼称しても実際は同じものです。
他者を見て他己と感じ、自己を自己と感じても、それらはどちらも同じもので状況に応じた姿です。
禅の修行においては、自己も他己も意識も自意識も、見かけの自分も、本当の自分も、自分を観察している自分も、されている自分も、自我も超自我もエスもその本質においては皆同じものと見ています。
つまり、すべて自己であり、我(自我、意識、自意識)であるということです。
また、身体感覚と肉体としての身体は別です。
身体感覚は精神的な自己です。
肉体としての身体は負荷を負荷として感じるのみで自己と感じることはないのです。また、身体の形を感じることはないのです。
肉体としての身体負荷と、身体感覚としての身体は、一般の人では一致することはありません。常に必ず、ずれているはずです。
私達が自己と感じている身体は実際の肉体としての身体ではなく、精神的な身体感覚としての自己身体です。
ここの所を江戸時代の禅僧 至道無難禅師は 「無難仮名法語」の中で
「さとりは念を滅却するを云ふ。念をもって身となす。さとれば生きながら身なし。」と表現しています。
この場合の「念」は考えや思いではなく意識(自己)のことです。「念」の意味はいくつかあり、それは文章の前後で判断するしかありません。
人は自らの手を見ても、自己の身体の一部である「手」とは理知として認識しても、そこに感覚的に自己を感じないはずです。ここの所を私達は常にいぶかしく思ってきたはずです。
目に映っている「手」は肉体の一部である物体としての「手」であって、そこに自己は存在していないと感じているはずです。「自己」は見ている側にあって、自己の肉体の一部であろうとも、見られている手には自己感覚はないのです。
精神的な自己と生身の身体は一体のものではないのです。且つ、同一のものではないというのが人の実際の様相です。
しかし、無我に至ると身体そのものが自己であり、目に映じた手が自己であると覚知するのです。この自己は無我の自己です。無我(無自己)の為に、見ている側に自己が無いが故です。
ここの所を曹洞宗の開祖 道元禅師は「自己をはこびて万法を証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」
「自己を忘ずるというは万法に証せらるるなり、万法に証せらるるというのは、自己の身および他己の身心をして脱落せしむるなり」と言い表しております。
-言葉の意味-
「自己をはこびて」
自分という感覚をもって。自分が行なって。意図して。
「万法」
すべての事象、出来事。宇宙。森羅万象。
「証する」
認識する。自覚する。覚知する。
「すすみて」
万法という縁によって。縁に自然、必然に触れて。
「万法すすみて自己を修証」
万法によって修行し、万法によって万法そのものが自己であることを証明する。
「忘ずる」
文字通り完全に忘れ去る。
「万法に証せらるる」
万法によって万法そのものが無我の自己であることを自覚する。
万法によって自己の存在と活動が証明される。
自らの心によっては何一つ自己の存在も活動も証明されない。
鏡の存在機能と同じ。鏡はその存在と機能を万法に写すことによって証明される。
万法が一切光のない闇ならば、鏡の存在も機能も証明されることはない。鏡は自らその存在も機能も証明することはできない。
万法に覚知している側に覚知する自己が存在していない。
「脱落」
自己の身と心の存在感覚、自己の上に感じている他者の存在感が滅却してしまうこと。悟り。大悟徹底。解脱等と同じ。
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2015.9.22
道元禅師著 正法眼蔵・現成公案抜粋
「自己を忘るるというは万物に証せらるるなり。万物に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
自己を忘却してしまうと、自己の存在を覚知する自己がなくなってしまうのです。自己の存在を覚知している自己がなくなってしまっても、万物の見聞覚知の働きはあります。その見聞覚知をする主がなくなってしまう様子を「万物に証せらるる」と表現したのです。「万物に証せらるる」というのは悟りの様子です。「自己を忘るる」というのは悟ることです。「身心の脱落」は悟ることです。
禅門では悟ることを一般的に「大悟徹底」といいますが、曹洞宗では特に「身心脱落」と表現し、悟る体験的様子をそのまま表現しています。道元禅師は現成公案の中で「悟り]というのは自己の身と心、および他己の身と心が同時に両方ともに脱落することだと述べております。このようなことは一般の方にとっては経験のないことですからとても難解です。何のことをいっているのか見当のつかないことだというのが一般の意見だと思います。
常識から見た道理で考えると二つの矛盾があります。
その一つは、悟るということは心のなすことですから「煩悩脱落」とか「心塵脱落」というのなら少しは理解できます。しかし、ここでなぜ身心の脱落といって「身」まで脱落してしまうのか理解に苦しむと思います。
もう一つは、自己の修行で自己の身心が脱落して悟りの境地に至るのに、なぜここで他己(他者)の身心までもが一緒に脱落してしまうのか不可解でならないと思います。
ここで一つ目のことについて概略だけを述べて詳しいことは別稿に譲らせていただきます。
江戸時代 江戸小石川の臨済宗の禅寺 至道庵の庵主・至道無難禅師という大悟徹底した禅僧がおられました。至道無難禅師は白隠禅師を大悟へと導いた長野県飯山の正受庵の庵主である道鏡恵端を育てた禅僧です。至道無難禅師の著「即心記」に次のような言葉があります。
「さとりは念を滅却するを云ふ。念を以って身となす。さとればいきながら身なし」
「ころせ(=忘却)ころせ わが身をころして、なにもなきとき人のしとなれ」
「天は身なし 念なし 心なし 是非なし 身あれば八万四千の悪念あり 身の為に苦しむ事たしかなり」
「(仏道を問う人に)身をなくす事なり 身に八万四千の悪あり 身なければ大安楽なり」
「主なくて見聞覚知する人を生き仏とはこれをいふなり」
更に、曹洞宗大本山総持寺開山 瑩山禅師著 坐禅用心記の中に以下の言葉があります。
「心変じて身と成り 身露れて相分る」
「心は海水の如く 身は波浪の如し。海水の外 一点の波無きが如く。波浪の外 一滴の水無きが如し。」
他にも多くの禅師の身心についての同様の言葉があります。
至道無難禅師の「念を以って身となす」の念は思いや考えのことではなく、この場合は自己の中の自己、「仏道を習うは自己を習うなり」の自己、すなわち意識のことです。有我無我の「我」、有心無心の「心」のことです。つまり、「念を以って身となす」ということですから「自己の中の自己(意識)を以って身となす」と解釈できます。これだけでは正確さに欠けるのでよく分かりません。言い方を変えますと身は意識そのもののですということになります。これでもよく分かりません。
もう少し詳しく述べますと、我々が我が身と思っている身体や身体感覚や身体の存在感を構成しているものは意識だということです。そして我々は普段は何となく自己の身体を認識していますが、その身体は意識が創り出しているということを述べているのです。私達が自分の身体と思っているものの実体は意識によって精神的に創られた身体で、血の通った物理的に存在する身体ではないということです。
これは非合理的な非科学的な見解で、到底受け入れることはできないと思います。しかし坐禅を修行していくと「念を以って身となす」ということが正しいということが分かってまいります。
「念」 即ち意識の機能が、禅の修行が進むに従って分かってくるからです。私達の実生活は精神的実体のない身体を基本としております。私達が私達の身体と思っていたものは、実体としての身体ではなく、意識が創った精神的身体であるという主張は前代未聞の驚きだと思います。
ここで「念を以って身となす」という見解は非合理的で非科学的で到底受け入れられないと主張される方に質問をいたします。
(問一) 今、自分が見ているわけでもないのに自分の姿が見えているのはなぜか?
(問二) 自分が決して見ることのできないはずの自分の表情が見えているのはなぜか?
(問三) 今、自分がどんな表情をしているのかがなぜ分かるのか?
(問四) 今、見えていないはずの自分の様子、姿、表情を見ている人は誰か?
これらの質問は人間の心(意識)の本性を知るうえにおいて極めて重要な質問です。その理由は常識で考えるとあり得ないことが常識的にあり得ているからです。この答えは身心脱落した禅僧は皆、知っております。
「念を以って身となす」ということが正しいか否かの証明は論理的にはできないことはありませんが、いづれ正しい手順に従って身心脱落した禅僧の指導のもとで科学的に証明する時が来ると思います。
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2015.10.7
禅宗では悟る(身心脱落して無我になる)と自己と他己(他者)の隔てがなくなります。自己と他己(他者)の区別がなくなって一体となってしまうのです。もっと正確に厳密に申し上げますと、それは自己が心の中から消滅すると同時に他己(他者)も自己の心の中から消滅してしまうのです。よって自分の心の中に自己と呼ばれるものがなくなると同時に、自分の心の中の他己と呼ばれるものも消滅してしまうのです。この心の状態を禅語で「自他一如」というのです。
禅宗では悟るということは無我の心になることです。心の中の自我(自己)の存在が消滅してしまうことを指します。この自己というのは私達が常日頃感じている自分の中の自分、自分を冷静に観察している自己、自分のすべてを見ている知っている自分のことです。この自分を一般的に自我とか意識とかいっています。或いは自意識ということもあります。
禅修行における「自我」とは精神分析における「自我」とは違います。
禅における自我というのは「自己の中の自己」「私の心の中にいる自己」「私が私の中心にいてすべてを視ているという感覚」「自己のすべてを知っている自己」「自己を見ている自己」「意識」「自意識」「ホムンクルス」等々のことです。
思考、想像、記憶、感情、欲望、知覚等々のことではありません。
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2015.10.10
自我(意識)の主な役割の一つは自他の区別をつけるということです。
自己と他己の区別は生物として基本的なことであり極めて大切なことです。自己と他己の区別なくしては自然界における生存は不可能です
生物はこの世に生まれ出たら、まず空気を吸うことと自己と他己の区別をするのです。自己と他己の区別がつかないと、自己保存本能と自己遺伝子保存本能の遂行に重大な支障をもたらすことになるからです。
この自他の区別は自己と他己と同時に行われるのです。自己ができると必然的に他己が生じ、他己の存在を知覚すると自動的に自己の存在を知覚することとなるからです。
このことはどちらが先でどちらが後でというような前後することではなく、全く同時に生じます。つまり自他の関係は本質的に絶対のものではなく相対のものなのです。自己と他己はそれぞれに別個に独立して存在するものではなく、自己、他己は相対的関係において成り立つものであるということです。ここで反対に自己の存在が消滅すると同時に自然に必然的に、他己の存在が消滅するという原理が成り立ちます。
この原理を前提に修行するのが仏道であり禅であります。
このところを禅では自他一如と言い表し、自己(或いは同時であるから他己でもかまわないが)の存在が消滅することを、「解脱」とか「身心脱落」とか「大悟徹底」とか「悟り」とか「自己を忘ずる」とか「自己を忘れる」とかいいます。
無我に至った禅者(仏者)の慈悲は自他の区別なくすべてに平等に及ぼすというのは当然です。
仏道の慈悲とキリスト教の愛の大きな違いは自己(意識)の介在の有無です。
簡単にいいますと、自己(意識)の介在のある愛と自己(意識)の介在のない愛の違いです。自己(意識)は本質的に他己を排除する性質を持っています。そして利己的なものです。
無心に至った禅者においては自我がない為に全自己が全他己なのであり、全他己が全自己なのです。当然、自己が存在しないので他己排除の本質は持っていないのです。
自己が消滅した自己を禅では「無我」とか「無心」とか「無位の真人」とか「本来の自己」とか「父母未生前の自己」とか様々な言葉で多くの祖師方が言い表しています。
「自己を忘るるというは万物に証せらるるなり」と道元禅師が無我の自己の様子を述べています。つまり万物の存在によってしか自己の存在の証明ができないということです。
無我の自己によっては自己の証明はできないのです。つまり無い自己を無い自己によって証明することができないということです。「ないもの」によって「あるもの」の存在は証明できないということです。なぜなら自己は身心脱落(大悟徹底、解脱、悟ること)によって、すでに消滅しているからです。
自己と他己の存在は、自己と他己の精神的距離感の存在でもあります。
つまり有我の人はどんなに愛し、どんなに一体となりたくとも、自己と他己は一つになれずに必ず自他の間に距離が生じます。どんなに側まで身を寄せても精神的には距離が生じているのです。心の距離ですから物理的な距離とは一切無関係です。
自己、他己の距離、隔たりも、自我(意識)という点を心の中に一つ置いただけで発生します。自我の発生は自他という相対関係をもたらし、自他の間に精神的な距離を発生させ、自己の自我は他己の自我に対峙すると、眼前から排除する行動にでる性質を持っています。
なぜなら自己の自我(意識)、他己の自我(意識)の存在の知覚は人にとって不快、不安、危機感を生ぜしむるように遺伝子に組み込まれているからです。
このことは必然的に同時に同所に、或いは一定の範囲内に存在する他者を排除して自己保存本能と自己遺伝子保存本能が優位に遂行されることを意味します。
人という動物はジャイロメーターのように不快感、不安感、危機感がもたらされると自動的にこの状況を解消して安全安心な状況に戻すような行動に出るようになっています。
なぜなら不快、不安、危機的な感覚の存在には一刻も耐えられなくできているからです。それらの感情が生じるのは自己の生命、存在の危機の時に生ずるものなのですから、これは人の遺伝子に生物として必要不可欠な精神活動として組み込まれているものです。
2016.2.12
「慈悲」
愛は利己的なものです。愛には利己を司る自己が介在するからです。
身心脱落した禅僧は自己が消滅してしまうので、自己の介在のない愛となります。
仏教では自己の介在しない愛を慈悲といいます。自他の区別をしない愛です。自他の区別のない愛です。自己が消滅するので自ずと利己心がなくなり、利己的愛はそのまま慈悲心となるのです。
人は本来、利他性なのです。利他に自己が介在するとオセロゲームの如くそっくりそのまま利己となるのです。慈悲心はそっくりそのまま愛となるのです。
自己は自己保存本能を司るのですから、利己の本性を持っているのです。利己でなければ自己保存本能を全うできないからです。
愛は与えると同時に求めるものですから、相手が必要なのです。その愛は相互に利己的ですので、相互に相反して利益を求めるのです。相互に相反する利益を求めるので相互に葛藤が生じるのです。一方的に与えっぱなしではないのです。与える以上に求めるのですから葛藤は生まれるのです。利己的な自己が介在する愛ですので皆、苦悩の原因となるのです。
その点、慈悲は苦悩の原因となることはないのです。利己的な自己が介在していないからです。自己が介在していないので自己の利益、見返りを求めることがないからです。
慈悲は昔から「佛は慈悲して慈悲知らず」というのです。キリストの愛は極めて強い意志が必要なのです。
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2015.9.22
自我は自己と他者、自分と他人を区別するのが最大の機能です。この機能によって、我々人間という動物は自己保存本能と自己遺伝子保存本能の二大本能の遂行達成が可能となります。
悟りを開いた禅僧は「自他一如」「天地同根万物一体」「自他の隔てがない」「自他の距離がなくなる」「対象になりきる」「一つになる」「一つになりきる」等々を説きます。
自分と他人が一体である、彼我がない、自分と他者が隔てなくぶっ通しであるということです。他というのは人間に限らず眼前に存在するもの全てです。
この悟った禅僧の自他のない心境で自己保存本能を追求できるでしょうか?
自己保存本能の為の欲求を最優先で最大限に求めていけるでしょうか?
禅者の答えは一つです。「不可」。
悟りを開いた禅僧(つまり自己という感覚も他者という感覚も心の中に存在しない人間)に自己保存本能、自己遺伝子保存本能の最優先的追求、最大限達成はあり得ないことです。
さもなければ、自他一如、大慈悲心、菩薩行はどうなります。
名聞利養を捨てたような言動、色欲財欲の全くないような言動、大慈悲心の言動、自他一如の言動、菩薩行の言動、生に執着しない在り方、死を恐れない言動、大安心の態度、大満足の言動、無畏の言動、自由無碍の言動等々は意志をもって世間体の為、職業上、宗教者としての在り方にそうように意図的に行っているわけではないのです。皆、当然、自然の心の発露なのです。社会向けの顔、世間向けのポーズ、パフォーマンスではないのです。宗教者に対する社会的な宗教的要求に応じた結果ではないのです。心の中をそのまま表出させたにすぎないのです。このようなことに何の努力も忍耐もやせ我慢も必要としないのです。
これが身心脱落して無心に至った禅僧なのです。
無心に至った禅僧の死に対する恐怖心の欠如はどうでしょうか。生への何が何でもの執着の欠落はどうでしょうか。性欲の自由な抑制はどうなのでしょうか。名誉・財欲への無執着はどうでしょう。
無心の精神世界に生きている禅僧は自己保存本能、自己遺伝子保存本能が動物として健全に充分に機能しないのです。無心が原因です。心の中からの自己の消滅が原因です。この自己とは意識のことです。このことから意識(自己)の機能が見えてきます。
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2015.9.23
空間に点を二つ置くと距離が生まれます。これは宇宙の原理です。
空間に点を二つ以上置くと、そこを中心として必然的に相対の関係が生じます。
自己の心の中に置いた点を自己といい、自己との相対に点を置くと他己が生まれます。他己との相対として自己が生まれます
自己は他己が自己を証明(確定)し、他己は自己が他己を証明(確定)します。お互いがお互いを証明(確定)していくという相対関係が自他にはあります。
自己が自己を証明(確定)するという関係は成り立ちません。自己が自己を証明(確定)するには、その自己に対する自己以外の何かが必要となるからです。当然、他己が他己を証明(確定)するという関係も成り立ちません。
自己のない他己は存在しないし、他己のない自己は存在しません。あくまでも自他は表裏一体の関係なのです。自己と他己とは同時、相対の存在です。心の中に自己が在るが故に他己が存在する。他己が存在するが故に自己が存在するという関係が成り立っているのです。
禅では「心の中に自己が存在しないと他己は存在しない。他己が存在しないと自己は存在しない。」といいます。
正法眼蔵・現成公案
「自己を忘るるというは 自己の身心 他己の身心をして脱落せしむるなり」
この原理原則のもとに、この原理原則の実現を目指して修行をするのです。
この心の様子を禅は無心、或いは無我といい「自他一如」「天地同根万物一体」「衆生と我れと同時成道」「自他不二」といいます。
皆、同じ心境から生まれた表現です。
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2015.10.8
免疫というと世の常識では生体の免疫のことを指します。しかし、私、禅僧の立場からすると、精神上にも免疫機能というものがあると実感しています。
一般的に免疫機能とは生体上の自己と非自己の区別をして生体への外からの異物(非自己)の侵入を排除し、自己の生体を守る為に身体に備わっている仕組みです(生体防御反応)。正常ならば、自己をかたちづくっているものに対して免疫反応が起こることはありません。免疫機能とは生体内に異物、即ち非自己である細菌、ウイルス、他の生物の体液、ゴミ、チリ等が入ってきたときにそれらを攻撃、殺傷、消滅、体外排除する機能です(生体防御反応)。
私達には身体上の免疫機能があると同時に精神上にも同様な免疫機能というものがあります。このことに気が付いている人は悟りを開いた(身心脱落、無我)禅僧以外にはいないはずです。
精神上の免疫機能というのは生体上のそれと同様にまず、自己と非自己の区別をすることから始まります。つまり精神上の免疫機能を遂行する為に自己と非自己(他者)を区別しなければなりません。誤って攻撃、排除しては困るからです。
動物である人間の心にも身体と同様に、自分の生存を脅かす他者を異物(非自己)として威嚇、攻撃、殺傷、消滅、縄張りから排除するという精神上の免疫機能とも言うべき機能があります。この精神上の免疫機能とも言うべき機能がなければ、人間という動物は生存することが不可能となることは誰の目にも明らかです。よって、この機能を私は精神的免疫機能と名付けます。
この精神的免疫機能が適切に機能する為には、まず前提条件として自己と非自己を区別する機能が必要です。自己と他者(非自己)を区別する機能が精神上存在しなければなりませんが、それを精神上の何が行っているかを明らかにすることが重要です。我々は日常、自己と非自己(他己、他者)を区別して生きているのですから、その区別する機能を司っているところが心の中あるはずです。
今まで自他を区別する精神上の機能について考えた人があったでしょうか?
私はそのようなことを聞いたことも見たこともありません。そのようなことはリンゴが落下するように当然のことだからです。誰もが不思議にも疑問にも思わないほど、当たり前のことなのです。ところが極めて当たり前のことでも疑問に思う人が時たまあるのです。その時に新たな発見がなされるのです。
今から5,000年前にニュートンという方がおりました。この方は極めて当たり前のことに疑問を持って世紀の大発見をしたのです。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、なぜリンゴが下に落ちるのだろうと不思議に思い、そしてその疑問から万有引力を発見したのです。ニュートンまでは、誰もがリンゴが下に落ちることは当たり前のこととして何も疑問に思わなかったのです。
それと同じように自分と他人を区別するのは当たり前のこととして、誰もがそれに疑問を持たずにおります。私は禅の修行の途中、このことに疑問を持ちました。
自他の区別をするのはなぜだろう? 何が自他の区別をするのだろうか? 悟るとなぜ自他の区別がなくなるのだろうか? なぜ自他が一つになってしまうのだろうか?と不思議に思いました。それらのことは禅の修行が進むに従って明らかになって参りました。そして自他の区別は精神的免疫機能によるものだということが分かりました。
私は禅僧として長年禅の修行をしてきております。禅の修行は全知全能の神や仏陀を対象にして行うものではなく、自己、もっと厳密に言いますと意識を対象とするものです。
自己つまり意識の忘却(滅却、消滅)を目的としています。その方法として身体は坐禅を組んで精神は非思量の状態を維持し続けます。非思量というのは文字通り頭脳の中に思量のない状態を指します。頭の中で文字による思い、考えや像・形・色による画像の想像を一切用いない、完全に行わない状態のことです。
この状態を一時的ではなく連続して維持するのです。何十分も何時間も何日も非思量の状態を維持し続けるのです。一見、無理難題で不可能のように思えますが強烈な意志をもってすれば、できないことはありません。2,000年以上にわたって禅の祖師方は行ってきたのですから、実証ずみです。その方法も何ら変わることなく今日まで伝わってきております。
非思量の修行をしていきますと、非思量の状態がある程度の時間維持できるようになってまいります。ここまでくると一般的に言う「無念無想」という状態に当てはまります。この状態は非思量の修行の入口を少し過ぎたところだと思います。非思量に徹していきますと、心の中に一切の思い、考え、想像が存在しなくなります。そうすると心の中の様子がよく見えてまいります。心の中に一切の思い、考え、想像が生じませんと、心の中に残っているものが一つだけあります。それが意識です。精神の様々な働き、例えば喜怒哀楽の感情や五欲(食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、財欲)や五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚)の知覚等々は常には心の中に存在していません。外からの縁に触れ、因に応じて間髪を入れずに反応し生滅するだけです。私は一切それに関与していません。それらの反応の生滅を、私は後から知って追認するだけのことしかしていません。「後」といっても0.何秒の僅かの時間ですから瞬時にといっても過ではありません。意識はこれらのことに全く関与していないことは非思量の心の状態になってみるとよく分かります。
意識の機能は非思量になってみないと分かりません。想像しても分かる筋のものではありません。例えば地上から火星や金星の状態を想像するようなものです。行ってみなければ分かるものではありません。
意識も同じです。非思量になって意識から思考、想像を切り離して単独の意識の様子を見ないと分かるものではありません。
意識を観察しますと、自己と非自己(他己、他者)の区別をするのは自我(意識)がその役割を担っております。自己の生存を脅かす他者を認識する機能は自我(意識)が持っております。これは祖師方の書かれた祖録や法語の中に散見されます。祖師方は悟られて(身心脱落して)自我(意識)が消滅された方々です。
一度、自我(意識、自意識、自己の中の自己等々)が消滅いたしますと自我の根が切れますので、再び自我(意識、自意識、自己の中の自己等々)が生じることはありません。祖録や法語では自我(意識、自意識、自己の中の自己等々)が完全に消滅してしまっていますので、自我(意識、自意識、自己の中の自己等々)の在る時の様子と自我が無い時の様子の比較が可能となります。祖師方は現在生存していませんので、その祖録や法語の中の意識に該当する所の文と、悟っていない私達の心の様子とを比較すると意識の機能が明らかになります。
自己の在る時と無い時を比較する為に祖録、法語の一句を紹介します。
祖録の一句ですから当然、自己の無い時の様子となります。
それは「自他一如」という言葉です。
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2015.10.9
「自他一如」という言葉は禅語の中の熟語の一つです。
これは自己と他己(他者)が一体である、或いは自己と他己(他者)の区別がないという意味です。
悟る(身心脱落)と自己と他己の区別がなくなってしまうのです。悟る(身心脱落)というのは無我の心境のことです。無我というのは心の中に自我(自己)の存在がなくなっている状況です。無我というのは正確に厳密に言いますと、心の中に自己という感覚と他者(他己)という感覚が存在していない状態なのです。
この所を曹洞宗開祖 道元禅師はその著 正法眼蔵、現成公案の中で「自己を忘るるというは自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり」と言い表しております。
この「自己を忘るる」ということは「自己を心の中から忘却してしまう」「自己を滅却する」という意味です。この心境は坐禅の修行における心を調える方法である「非思量」で至ることができるのです。
次の「自己の身心と他己の身心」は無我に至ると自己の身と心、他己の身と心が同時に脱落してしまうということです。同時に脱落というのは同時に消滅してしまうことを意味しています。
これは自分の心の中に自己と他己(他者)が存在していることを意味しています。
常識的に自分の心の中に自分が存在していることは理解できますが、自己の心の中に自己だけでなく他己(他者)も存在しているというのですから驚きです。そのようなことは全く考えられないことです。しかし禅の修行によって自我を忘却してしまった禅僧にとっては当たり前のことなのです。論理的にではなく実際に自己を滅却してしまって分かったことですから間違いのないことです。
禅の道においては物事は理屈よりも実体験が重要なのです。どうしてそうなのかが論理的に分からなくても経験則が優先するのが禅の道なのです。自己を忘却(滅却)してしまうと自己と他己が同時に消滅してしまうということは、自己の元と他己の元が同じものであることを意味しています。自己と他己もその本質は同じもので、縁に応じ因に従って自己となって現われ、他己となって現われことを意味します。
また「仏道を習うというは自己を忘るるなり」と書かれていますが、この自己というのは自己の中にいる自己、自己を観ている心の中の自己、自己に見られている自己等々、つまり現代語で言う意識を意味しています。
非思量という心の調え方をしていくと思考、想像が心の中から一切消滅して、心の中に残るものが一つだけあります。それが自己であり意識なのです。この意識は心の中に厳然として動ずることなく、変化することなく存在しているだけなのです。
この状態で意識を観察すると様々なことが見えてまいります。思考、想像が心の中に存在していないので意識の単独での素の状態を観察できるのです。そのものの機能、性質を観察するにはもってこいの状態です。意識について知りたければ試しに無念無想の状態になってみることをお勧めします。その方法は私がいつでも指導してあげられますので、どうぞ申し入れて下さい。
更に、自己(意識)を滅却すれば自己(意識)の存在する時と自己(意識)の存在しない時とを比較することができるので、意識の性質と機能をより明らかにすることができます。
また、様々の祖師が著した祖録、法語を丁寧に読み併せると、その中に意識の性質、機能についてのことが様々な表現で記されていますので、意識の性質、機能がより明らかになってまいります。
ここで「自他一如」についてもっと厳密に説明します。
自己と他己の区別がなくなり、自己と他己が一体になるという書き方をしますが、これは正確ではありません。悟る(身心脱落)と自己が消滅するのです。同時に他己(他者)も消滅するのですから自己と他己を区別することができなくなるのです。そういう意味の自他一如です。
また自己と他己が一体となるといいますが、消滅した自己と消滅した他己が一体になることはあり得ません。自己も他己も消滅してしまっているのですから。
「自他一如」以外にも「大地と有情と同時成道」も同じことを意味します。「身心一如」も「身心脱落」も意識の機能を適切に言い表しています。「念をもって身となす」も同様です。これらは皆、祖師方の経験則ですから異論の入る余地は全くありません。その通りなのです。それらが正しいか否かは自らやってみるしかありません。やってみて下さい。必ず分かりますから。
禅のすべては経験則で論理より導き出されたものではありませんから、いくら思考を重ね、論理を展開したところで禅の説くところには行き着くことはありません。
2016.2.9
曹洞禅の修行をしていくと自己と他己の区別は、自己の中の自己が行っていることが分かってきます。自己の中の自己とは私達が普段感じている意識のことです。この意識の存在は理論的に導き出されたものではなく、経験上のことで誰でも分かっていることです。
自分と他者の区別があるのは当たり前のことで誰でも知っていることですが、自己と他者(他己、非自己)の区別が消滅してしまう精神世界があることを知っている者は極めて少ないのです。
禅の世界では自他の区別のない精神世界があることは常識です。それは「自他一如」という言葉で表されています。悟りを開いた(解脱した、身心脱落した、大悟徹底した)禅僧の心境です。言葉通りに解釈すると「自己と他己が一体である」という意味になりますが、実際は自己と他己が心の中から消滅してしまうことを意味します。
自己と他己は本質的に自己の意識が作り出したもので、自己も他己も、それを構成するものは同じ意識です。その時々の状況に応じてその意識が変じて自己となり、そして他己となるのです。正確に言いますと意識が変じて自己と感じさせ、そして他己と感じさせるのです。
身心脱落という言葉は道元禅師を悟りに導いた中国の天童山の如浄禅師の言葉ですが、日本では道元禅師が悟りを表す言葉として最初に用いました。
身心脱落は仏教では一般的に悟りを表す解脱のことです。臨済宗では大悟徹底と言い表しています。見性とは大きく異なります。身心脱落の「身心」は自己の中の自己のことです。つまり、今でいう意識あるいは自意識のことです。
道元禅師はその著書の中で「自己」というのは「自己の中の自己」のことだと述べております。ここの処はしっかりと認識しておいて下さい。
「脱落」は脱げ落ちること、つまり消滅、滅却、忘却のことです。ですから、身心脱落というのは自己の中の自己が消滅してしまうことを指しています。ここで注意して頂きたいのは自己がはじめから消滅していたことに気付くことではありません。はじめからというのは禅の修行を始める前からという意味です。
修行によって始めて身心は脱落をするのであって、修行によって身心が脱落していたことに始めて気付くことではないのです。禅の修行は気付くことにあるのではないのです。脱落することにあるのです。
身心の脱落というのは実体験をその通りに言葉をもって表現したものであって決して比喩ではありません。身心脱落の「身」は私達が日常感じている身体感覚のことです。
「心」は自己の中の自己、つまり私達が常日頃感じている(自己)意識のことです。「仏道を習うというは自己を習うなり」の「自己」のことです。
身心脱落というのは自己の中の自己が消滅してしまうことを意味していますが、それは同時に自他が消滅してしまうことを意味しています。
「我と大地有情と同時成道」と仏陀はその様子を表現しています。
道元禅師はこのところを「仏道を習うというは・・・他己の身心及び自己の身心をして脱落せしむるなり」と説き示しております。
これは自己の中の自己の消滅によって他己も消滅してしまい自他の区別がなくなってしまうのですから、自己の中の自己が自己と他己(自己と他者、自己と非自己)を区別していると考えられます。
つまり、意識に自己と他己(非自己)を区別する機能があるということになります。これは生体の免疫機能の自己と非自己を区別する基本的機能と同じです。
「自他一如」という言葉は悟りを開くことによって自他の区別がなくなってしまうので、自己と他己の対立、自己による他己の排除の動きも消滅してしまうことを意味します。まさに「天地同根万物一体」なのです。
心の中に自己と他己の存在がなくなってしまうということは、他己の存在をストレスと感じる自己がなくなってしまっているのです。また、ストレスとなるべき他己の存在もなくなってしまうのですから、物理的存在である生身の他己を邪魔に感じ、自己と利害が相反する存在として排除しようとする行動に出ることもなくなってしまうのです。
人間に限らず動物は生得的に自他を区別し生存の為に他己を排除する機能をもっています。この機能は一般的に自己保存本能及び自己遺伝子保存本能を遂行する為の基本的機能です。
この自己の中の自己、つまり意識の機能は生体の免疫機能と同様の精神上の機能ですから、生体の免疫機能と区別して精神的免疫機能と名付けます。
2016.3.1
精神上の何かが私の心の中に精神上の「私」を作り出し、精神上の「他者」を作り出していると以前に書きましたが、それは自らの禅修行中の体験と、曹洞宗の開祖道元禅師の著された書物の中に「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは・・・他己の身心及び自己の身心をして脱落せしむるなり」と述べられたことに基づくものです。同じ内容の言葉は他の祖師方によっても述べられております。
道元禅師の他己の身心も自己の身心も自己の心の中にあることを示しております。
自己の心の中に自己と他己が同居しているのです。とても不可解なことですが、禅の修行によって自己を忘却(身心脱落)してみると、このことが明確に理解できます。
私達は誰でも自分の心の中に精神的な自己と精神的な他者を作り上げているのです。これは人間だけに限ったことではありません。
私達が自覚している自己も他己(他者)も、実在の物理的存在である自己や他己(他者)ではないのです。生身の物理的存在の自己の身体を私達は自己と感じないのです。同様に眼前の生身の物理的存在の他己(他者)の身体を私達は他己(他者)とは感じないのです。
物理的存在の自己と物理的存在の他己をそれぞれ自己と感じ他己と感じるには、自己の心の中に精神上の自己と精神上の他己の存在がなければならないのです。
自分の心の中に精神上の自己と精神上の他己が存在するのが一般の人なのですが、禅の修行をして身心脱落(悟る)すると心の中の「自己と他己」が消滅してしまうのです。この様子を「自他一如」といいます。自己の中の自己が消滅すると同時に自己の中の他己が消滅して本質的一体となった状態のことです。自己と他己もその本質は意識ですから、同じものの立ち位置の違いで排除する主体を自己とし、排除される客体を他己としたのです。他己の身も自己の身も精神的に作り上げられた身だから消滅が可能なのです。
精神的な他己の身心が脱落しても眼前の物理的存在である他己の生身は消滅することはありません。
私の心の中に作られた自己と他己は、お互いに自己保存本能の下で利害の対立、相反する存在として精神上作り上げられたものです。この自己と他己は自己保存本能を全うする為に作られたものです。よってこの自己と他己は相互に利己的なのです。利己的が故に相互に排除の対象となるのです。排除すべき他己という役割が利己的な精神的自己によって与えられるのです。
以上のことは理論的に導き出されたものではなく、また宗教上そうあるべきであると決められたことでもありませんので、”そうなんだ”と取りあえず受け入れて、それが正しいか否かは、自ら曹洞禅の修行をやってみて確かめて頂きたいと思います。
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2015.10.12
『仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』
この文の自己と他己について説明いたします。
この文は自己の心の中に、自己の身と心および他己の身と心が存在していることを意味しております。そして、自己を忘却すると自己の身と心および他己の身と心が脱落してしまうと述べておりますから、自己も他己も自己の心の中に存在しているということを意味しております。そして、同時消滅ですから、自己の身心も他己の身心も、心の中におけるその存在の根源は同じだということになります。
自らが身心脱落(解脱すること、悟ることを体験的感覚でその通りに表現したもの)すると、その根源が消滅することによって、自己の心の中の自己も、自己の心の中の他己も同時に消滅してしまうことを意味していますがその心の根源というのは自己の中の自己、即ち意識のことです。
自己の中の自己がどうして意識だということが分かるのかといいますと、坐禅を行っていくと心の中の思い、考えが減っていきます。更に坐禅を進めていきますと心の中に一切の思考がなくなります。その時に心の中をよく観察して見ると、残っているものがあります。それは自己です。自己、即ち意識です。自己と意識が同じものであるということも分かります。
そして、よく心の中を観察すると、生身の身とは別に、意識が自己の心と身をつくり、生身の目や口や手足とは別に、自己の目や口や手足を精神的に創り出していることも分かってまいります。
そして、眼前の実際の他己も、五感で覚知しただけでは他者であるという感覚は生じないものです。五感で覚知してそれを縁として五感で覚知した私が、自己の心の中に他己感を生ぜしめなければ他己とはならないのです。その他己に対峙している自己の心の中に、他己として存在して初めて他己という感覚が生じることも分かってきます。
他己という感覚は外から入ってくるのではなく、他己に接した私がそれを縁として、自己の心の中に他己感を生ぜしめて初めて、眼前に物理的に存在する他己が人間として他己となるのです。そして、自己の身心も他己の身心も、意識が私の中に創り出したものだということです。
この場合の身心の心は、自己の中の自己のことです。自己の中の意識のことです。
常識では自己の身心は、自己の中の自己(意識)が創る出したという説明は理解に苦しむものです。まして、他己の身心が自己の中に存在し、他己の身心を自己の中の自己(意識)が創り出したものであるということは到底考えられることではありません。しかし、禅の立場から見ますと以上のことはまさしくその通りなのです。
これは心の中を、念も無く想も無い状態にして初めて理解できることなのです。
念も生滅せず想も生滅しない状態である無念無想というのは、心の中の一切の思量が消滅した状態を指します。無念無想ではまだ悟りではありません。非思量(=無念無想)を根気よく続けていきますと、そのうち自己を忘却する時が必ずまいります。
自己の忘却ということは自己の身心の脱落ということです。自己も他己も意識が創っている意識そのものですから、自己が脱落しますと他己も同様に脱落するのです。
そこで「自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり」となるのです。
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2015.9.22
どなたも知っているように生体(身体)には免疫機能があります。免疫機能のまず第一に重要なことは自己と非自己を区別することです。この区別が混乱すると健全な免疫機能は遂行されません。身体が非自己から自らを守る(自己保存)為に免疫機能を備えているのと同じように精神面でも免疫機能があります。
その目的は自己を非自己から守る為です。自己を非自己から守るのは自己保存本能と自己遺伝子保存本能の完全なる遂行の為です。
精神面の免疫機能は意識(自我、自己)が担っております。
生物は人間に限らず、全て自己保存本能と自己遺伝子保存本能を備え持っています。その自己保存本能と自己遺伝子保存本能を遂行する為に精神面にも免疫機能が必要なのです。
精神的に自己と他己を区別し非自己を排除する機能は意識(自己・自我)にあります。自我と他我を区別し非自我(他我)を排除すると言い換えても同じことです。自己とは意識のことであり自我のことです。
禅門では意識のことを自己とも自我ともいいます。自己とは自らの手や腹や身体の部分や身体全体のことではありません。例えば、手を見ても、脚に触れても、そこに自己はありません。自己の所有物としての手や脚があるだけで、それは自己ではないのです。誰も自らの生身の身体を自己とは思いません。自己の身体ではありますが自己そのものではないと思っているのです。
我々には生身の身体があるだけでなく、精神的にもイメージで構築した身体があります。そして精神的に構築された身体の方を我々は自己の身体と感じているのです。
この精神的に構築された身体の全体及び部分を我々は自己の身体と思っているのです。これは実際の生身の身体と微妙には重なりますが、完全に一致し一体となることはありません。この精神的に構築された身体を、意識として我々が自覚しているのです。
本来の意識を我々人間は自覚することはできません。意識はその働き(機能)しか存在しないのです。実体はないのです。我々が自己と思い感じているその実体は「意識(自我)」です。
意識はその免疫機能の特性として自我(自己)と他我(他己)を区別し、精神上の自己の身体を構築し、そして他我(他己)を非自己として排除するのです。その結果、自己保存本能と自己遺伝子保存本能を最優先的に遂行することができるのです。
自我(意識)はその特性として基本的に利己的であり他我(他意識)を嫌うのです。敵対する他我が精神的な一定範囲内に侵入してくると、自我は他我を排除する行動にでるのです。生体の免疫機能と同じです。他我の存在は自我にとって強い不快感、不安感、恐怖感、危機感をもたらすからです。自我はこの精神状態の持続に耐えられずに、この状態からの解放の行動に出ます。それが結果的に自我の一定距離からの他我の排除となるのです。自我の一定距離とは、自己保存本能と自己遺伝も子保存本能の遂行を妨害されない範囲ということです。
人が他者の自我の存在を最も意識するのは視線(眼)です。眼と眼(視線と視線)が合致すると自我の強化は一挙に最高レベルの臨界域に達するのです。そこで自我は相互にその免疫機能を果たす為に他我の排除の行動にでるのです。
他我の排除は自他の相互の眼の合致、視線の直達することによって起動するようです。他己の自我は、その視線を通して自己の自我を呼び覚まし身体のアドレナリンを増大させるのです。相対的に自己の中の他我の存在感も強化増大するのです。それは自我も他我も自己の心に相対的に存在しているものだからです。自我は自己の中の他我によって存在し、他我は自己の中の自我によって存在するという相対的関係だからです。自他は、自我が存在しなければ他我は存在しない、他我が存在しなければ自我は存在しないという相関関係にあるのです。強化された他己の存在は、自我にとって極めて不快であり、不安感、恐怖感、危機感が強まるのです。自我がこの状況からの解放の為の行動に出るのは当然のことなのです。つまり他我の排除である精神的免疫機能の作動です。
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2015.10.13
「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
この文の「他己の身心」の他己は実際に存在する実体としての他己ではなく、精神的に自己の心の中に生じた他己です。自己は己の心の中の自己です。他己は己の心の中の他己です。自己、他己といっていますが、どちらもその実体は己の心の中の己なのです。
心の中の己を自己と他己に変化させて心の中に相反する存在を作り上げているのです。実体の自己を守る為に、己の中に対立(利益が相反する)する他己を作り上げたのです。
なぜ、自己の心の中に利益相反する他己を作る必要があるかというと、それは自己保存本能の為です。
私達人間及び哺乳動物は五感(眼、耳、鼻、舌、身)で感じ把握する実在の眼前の他者に対しては、その存在を感じ把握することはできますが、敵対したり警戒したりする心は動かないのです。他己に対して敵と自覚したり警戒したりする為の特別なメカニズムが己の心の中に必要なのです。
五つの感覚(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)や思考判断力にはそのようなメカニズムはありません。そのメカニズムは自己の心の中に他己の身心を作り上げることによって機能されるのです。
なぜ、自己の中に利益の相反する他己を精神的に作る必要があるかということが問題です。他己の身心を精神的に作り上げる自己は意識なのです。意識は自己保存本能を司る機能を備えております。
意識の機能は身心脱落(意識が消滅すること)する前と後を祖録、法話の文献の中から拾い出すと比較は可能になり、その比較により意識の機能が明らかになります。そのようにして比較すると意識は自己保存本能があると結論できます。
自己も他己もその本性は自己なのですから、自己が「他己という自己」を排除するという関係になります。作用、反作用の関係です。自己の中の自己が強くなると、自己の中の他己も強くなるという関係になります。自己の中の自己の警戒心が弱いと自己の中の他己の警戒心も弱いということになります。
この感覚をそっくりそのまま実在の眼前の相手に重ねると、自己保存本能が実際に様々に有効に起動することとなります。
実体としての他己の存在は、自己の中に精神的他己が存在しなければ、排除すべき他己ということにはならないのです。人は自己の中に精神的他己を作り出さなければ、五感で感ずる実体としての他者を、排除すべき存在とは感じないものなのです。実在の他己に対して、実際に他己から危害が加えられるまでは恐怖心や敵対心は生じないものなのです。赤児の心と同じなのです。赤児も五感は充分機能しているのですから相手の存在は見聞覚知して分かっているのです。しかし、実際に捕食されるまで、その危険性が分からないのは、赤児の心の中に未だ自己が育っていないからです。赤児の心の中に自己が育っていないということは、意識の機能がまだ充分育っていないことを意味しています。意識が充分に育っていないということは排除すべき他己も、自己の心の中に育っていないことを意味しています。
排除すべき他己が自らの心の中に育っていなければ、実際に危険な他者であっても赤児にとっては、ただの存在でしかないのです。赤児は意識が充分に育っていないので自他を区別することもできません。自他との距離感覚も育っていません。非自己である他己を自己の利益の為に排除する機能も育ってはいません。赤児のような心であっては私達人間を含めた哺乳動物は生きていくことは不可能です。他の動物の餌となって食べられてしまうことになります。
このような赤児の状態から脱して弱肉強食の世界を生き抜いていくには、意識を正常に育て、自己の中の自己をしっかりと育てると同時に自己の中に排除すべき他己を作り上げる必要があるのです。ここの所は人間がしつけとして身に付けさせることはできません。人間が下手に子供の心をいじらずに、子供を自然に健全に育てれば心も健全に育ち意識も健全に育っていくものです。
意識は自己保存本能を司るのが、その本来の機能です。そこで意識は自己と他己(自己と非自己)の区別を行い、自己の利益を求め他己を排除する機能を持っているのです。
自己意識は自己保存本能を司るので本来利己的なものなのです。一見、利他的な行動をしているように見えても、それは利他的な行動をとった方がより大きな利己的な利益を得られると判断した場合が多いのです。
実在の他己を実際に排除する為には、実際の他己の出現を縁(きっかけ)として自己の心の中に排除すべき他己を作り上げるのです。自己の中に生じた他己は実際の眼前の他己に重ねられて排除の行動が行われるのです。
意識が利己的な訳は自己保存本能の機能を司るからです。これは人間という哺乳動物が生き抜いていくにはなくてはならない本性なのです。利己は動物としては決して悪ではないのですが、宗教というものは利己を悪として利己を否定します。そして利他の生き方を求めるものです。それは動物的な本性の否定です。
禅宗の自己を忘却する(身心脱落即ち意識を消滅する)ということは利他的言動を求める宗教としては誠に理想に叶ったものです。
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2015.10.19
・動物は本質的に自己保存本能と自己遺伝子保存本能を持っています。
・自己保存本能と自己遺伝子保存本能の遂行を全うするのが利己性です。
・自己保存本能と自己遺伝子保存本能は利己性によって無条件に最優先されるのです。
・利己性とは自己の生存をあらゆる他者に無条件で最優先する性をいいます。
・あらゆる動物にとって、自己が生き抜く可能性を最優先に追求することが最大にして最善の行動原理です。
利己性に宗教の入る余地は全くありません。
なぜなら、利己性は自らの命を守り抜くことが唯一絶対の善なのですから・・。
宗教は、自らの命を守り抜くことを唯一最高の善とする利己性を捨てて、神の為に(神の御心に沿う為に)自らの命を捧げることを求めます。つまり絶対の利他性を要求するのです。
哺乳類の場合の自己遺伝子保存本能は、子供を産み、そして成人するまで我が身の一部と見なして育て上げることを無条件に優先する本能です。
子育て中は自己の子供を他者と認識しない何かが機能しているのです。
子供を自己の一部と認識する何かのメカニズムがあるはずです。子供を育て上げる行為はあくまでも利己的なもので利他的なものではありません。
我が子を自己の一部として認識するメカニズムは現在のところ解明されてはいません。「精神的免疫機能を停止せしむる何かが機能する」はずです。
動物の利己性は心の何が担うのか?
宗教的利他性は心の何が司るのか?
これらを明らかにすることは人類の平和と幸せの為に極めて大切なことです。
つまり利己性の強い人を利他性に変える方法(精神修養)が見出される可能性があるか否かにつながることだからです。
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2015.10.20
禅僧はいいます「本来の自己・・」と。
この表現は誤解を生じます。人という生物は自我があって元々です。自我(意識)は天賦のものです。この自我(自己)を修行によって意図的に完全に忘却した「自己」を、文字通りでは本来の自己ではないが「本来の自己」と呼んでいます。
禅の世界では自己を忘却した状態(無我の状態)を「本来の自己」と名付けたのです。
ここの所を誤解なさらないで下さい。
この無我の自己は、自然にこの世に存在するものではありません。
この世に生まれ出た時、人は無我ではないのです。生まれ出た時から有我の自己なのです。無我の生まれ出た人間は、歴史上一人も存在していないはずです。例外はないと思います。もしあるとすれば、その方は仏陀に匹敵する世界宗教を創始しているはずだからです。人はこの世に生まれ出た時から有我なのですから、無我の心の状態の自己を「本来の自己」というと、禅のイメージを誤らせることになります。
この地球上の本来の自己は有我です。無我の自己は修行の賜物なのです。禅で説く「本来の自己」というものは、この地球上に天然には存在しないというのが正しいのです。
自己の本来は利己的なものです。利己的ということは、まず自己が最優先に生きるということです。それが本性です。何があろうともまず、自分が生き抜く、その為にはあらゆる手段を用いるというのが利己の本質です。生物はすべて利己的に生まれ付いて生存競争をするのが自然なのです。生き抜くことに良い悪いという人間的価値観は何ら意味を持たないのです。人間も例外なく動物なのです。
人間の利己性は自己の中の自己の機能です。人間の意識(自我)が利己性を司るが故に、仏道においては自己を忘ずることに主眼を置くのです。自己を忘却すれば利己性は忘却され、心の底にあった利他性が宗教的利他性となって枝葉を広げてくるのです。これが仏教の本質です。
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2015.10.19
人間(哺乳類)の基本形は女です。
人間(哺乳類)の基本的本性は利他性です。
この世に生まれ出る時に利己性が芽生え始めます。もっと正確に申しますと利己性を司る(担う)意識が芽生え始めます。
動物は自然界において自己が死ぬまで生き抜くことが、最大にして最善の使命です。
動物が死ぬまで生き抜く為には利他性では困難です。利己性が必要なのです。自己保存本能と自己遺伝子保存本能を全うする為には、利己性が充分になければならないのです。
幸い人間(哺乳類)には利己性を司る意識があります。人間(哺乳類)の利己性が機能する為には、まず必要なことは自分(自己)と他人(他己)の区別です。
私達は自他の区別は生まれ付き備わっていて当然と思い、そのことについて何も不思議とは思っていないのです。万有引力のようなものです。物は下に落ちて当然であって、そのことになぜだろうと疑問を持つ人がいなかったこととよく似ています。
私達が自他の区別をすることに何の疑問を持つことがないのは普通のことです。
しかし、なぜ私達が自他を区別する機能を持っていなくてはならないのか?
そして、なぜ自他を区別できないといけないのか? 理由があるのです。
利己性が機能する為に、まず第一に自他の区別がないと自分に対する利己性が発揮されません。次に、自己の利己性を追求する為には他己は障害となります。そこで他己を排除するのです。他己の排除が心の縁に応じて起動するのです。これで自己保存本能を全うすることができるのです。
自他を区別して他を排除する機能は一般的に免疫機能といいます。
一般的に知られている免疫機能というのは、身体(生体)について認められています。
この一般的に知られている免疫機能は身体(生体)についてのものですが、精神上にも免疫機能があるのです。
そこで私は従来の免疫機能を身体的(生体的)免疫機能と名付け、これに対して精神上の免疫機能を精神的免疫機能と名付けております。
先に、私は人間(哺乳類)が自己保存本能を全うする為には自他の区別をし、そして他を排除する機能が必要ですと申し上げましたが、これはまさに精神上での身体(生体)の免疫機能と同じ機能ということができます。この精神的免疫機能を司る(担う)のが意識です。
意識が自己保存本能を全うする為に自己と他己を区別して他己を障害になるものとして排除する機能を司るのです。
坐禅をして身心脱落(悟る、解脱)すると精神的自己が消滅してしまいます。
ー道元禅師著 現成公案ー
「仏道を習うというは自己を忘るるなり」
という開祖 道元禅師の言葉が、そのことを端的に表しています。この自己というのは「自己の中の自己」「自己を観察している自己」のことです。つまり意識のことです。
更に、道元禅師は「仏道を習うというは自己の身心および、他己の身心をして脱落せしむるなり」と、「自己を忘るるなり」を詳しく述べております。つまり自己を忘るるということは、自己の身と心、そして他己の身と心を消滅(滅却)せしむることであり、自己(身心)を滅却せしむると必然的に他己(身心)も滅却してしまうことを意味します。
この様子を禅語で「自他一如」といいます。
この自他一如というのは、自己と他己が融和して一体となるという意味ではなく、自己と他己が心の中から消滅した様子を表しております。
この自己は精神的な自己であり物理的な生身の自己のことではありません。
この他己は精神的に自己の心の中に作った他己であって、物理的に眼前に存在する生身の他己のことではありません。自己も他己も自分の心の中に意識が作ったものです。
ですから、坐禅によって身心脱落(悟る)して自己が消滅してしまうと、自己が作った他己も必然的に消滅してしまうのです。
身心脱落の身は精神的に意識が作り上げた精神的身体であって生身の身体ではありません。
「自己の身心および、他己の身心」についても同様です。
この自己の中の自己という意識は、演出家が俳優を兼ねているようなものです。
意識は縁に応じて、ある時は演出家であり、ある時は俳優となって様々な自己を演じるのです。
自己も他己も意識が自らの心の中に作ったものですから坐禅によって悟る(自己を忘ずる)と、自己も他己も消滅してしまうのです。
曹洞宗では「悟る」という言葉はあまり用いません。「悟る」では何を悟るかが表現されていないからです。
道元禅師は悟る様子を具体的にいい表します。例えば、「自己を忘るる」「自己を忘ずる」「身心脱落する」「自己の身心および、他己の身心をして脱落せしむる」等、具体的に「何をどうするのか」「何がどうなるのか」を述べています。
自己も他己も消滅してしまうということを「自己の身心および、他己の身心をして脱落せしむるなり」と述べています。これは、自己も他己も自己(意識)が作ったことを意味しています。自己も他己も根は意識です。故に意識(自己)を忘却すると自他ともに同時に消滅してしまうのです。これは意識が自他の区別をする機能を持っていることを表しています。
「自他一如」は自他が消滅して自他の対立がなくなっていることを意味しているのですが、これは意識に自らを守り他を排除する機能があることを意味しています。これは意識の利己性の故の機能です。
私達は五感(眼、耳、鼻、舌、身)によって他己を物理的に区別をすることはできます。しかし、利己的視点に立って他己を区別することはできません。私達が自己保存本能を全うする為には、利己的視点に立って物理的存在の他己を精神的他己として認識しなければなりません。物理的存在の他己を精神的存在の他己と認識するのは意識の役目です。
意識は、自己を自己の身と心として、他己を自らの心の中に、他己の身と心として認識して始めて意識の精神的免疫機能が全うされるのです。
道元禅師が述べるように自己の身心および、他己の身心をして脱落せしむると、つまり自己と他己が心の中から消滅してしまうと、利己性も利他性も意味がなくなってしまいます。自己保存本能も自己遺伝子保存本能も、自己と他己が消滅してしまいますと全く意味がなくなってしまいます。同種の保存か異種の保存か、それさえ何の保障もありません。遺伝子に関しても同種の遺伝子か、他種の遺伝子か何も分かりません。誰が死に誰が生き延びても、どの種が亡び、どの種が生き延びても、全く分からない状態になることは確かです。精神的免疫機能も存在意義がなくなります。
自他を区別する心が動かないのですから、排除する主体である自己は存在していないし、排除されるべき他己もないのですから機能は不全に陥ることになります。
以上のことを禅僧が述べると次のようになります。
聖一国師坐禅論
「無心のとき生ずる身もなく、無念のとき滅する心もなし、無念無想のとき全く生滅なし」
この言葉をよく味わって自ら坐禅をする気持ち、菩提心を発して下さることを願っております。
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2015.10.19
人には他人を認識するのに二通りの方法があります。
一つは他人を森羅万象の一つの存在として認識することです。この認識は自己保存本能や自己遺伝子保存本能を全うする為の、排除する相手としての認識ではありません。また、生存競争の相手としての認識でもありません。これは五感(眼耳鼻舌身)を通して、感覚のみの入力刺激での認識です。物理的存在として認識しただけです。
もう一つは精神的存在としての認識ですが、上記の「ただの物理的入力刺激」を精神的存在の他己として認識するには、五感以外のものの関与が必要です。
「他己の身心は、他己が眼前に出現することによって私の心の中に生じる」
他己を精神的に認識するということは、即ち自己保存本能および、自己遺伝子保存本能を全うする為に、排除する相手として認識することです。生存競争の相手として認識することです。
他己を精神的に認識するのは、その機能を司る自己の中の自己、つまり意識です。この意識が五感を通して入ってきた他己という物理的存在に刺激されて、自己の心の中に精神的他己を作るのです。ここで初めて物理的存在の他己が精神的存在の他己となるのです。
自己、つまり意識が自己の心の中から脱落(滅却)すると、自己と他己が同時に自己の心の中から脱落(滅却)してしまうと宗祖道元禅師が述べております。
これは逆からみますと意識が自己の心の中に、自己と他己を同時に作り出すということを意味しています。意識が自己と他己を作っているということは、意識が消滅すると心の中の自己と他己が同時に消滅するのは当然ということが分かります。このことは自己、つまり意識が自他という対立存在を精神上、醸成するということが分かります。
五感には物理的存在を入力するだけの機能しかありません。入力した刺激を他己として精神上認識するのは、自己の中の自己、即ち意識です。
精神的自他は同時の存在で、どちらか一方だけでは認識しあえないのです。自己がある故に他己があり、他己がある故に自己があるという精神上の相対関係にあるのです。自己も他己も両方とも、意識が作り出したものの故です。(物理的存在には相対関係はありません。)精神上認識された自他はどちらもその実体は意識です。根は同じなのです。意識が自己と他己の仮面をかぶっているのです。
自己の中の他己の排除は、実在の他己をもって意識が行うのです。意識の精神的免疫機能が働くからです。
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2015.10.19
私達が日常、自己の身体と思っているものは、物理的存在の身体と精神的身体の二つがあります。
私達が日常、私の身体と思っているものは、主として精神的存在の身体です。
物理的身体は「考えてみれば私の身体である」という程度の身体感覚です。自分のもの、自分の所有物程度の存在なのです。何が何でも守り抜くべき存在ではないのです。危機感を感じる存在の身体ではないのです。
自己の身体=私自身というように思っている身体は精神的存在の身体で、これは実在感があるのですが実体はないのです。
禅の世界で「自己の身心」とか「我が身」という場合は精神的存在の身体を指します。これは自己即ち意識が作り上げたものです。意識が意識に作り上げたものですから、坐禅の修行によって「身心脱落」が可能なのです。
私達が思っている身も心も意識そのものです。どちらか一方が脱落すれば、もう片方も脱落してしまうわけです。
摩訶般若波羅密多心経というお経の中に出てくる「無眼耳鼻舌身意」の「眼耳鼻舌身」は、私達が見たり触れたりすることのできる物理的存在の生身の「眼、耳、鼻、舌、身」ではなく、意識が意識の中に作り上げた、私達が見たり触れたりすることのできない精神的存在の「眼耳鼻舌身」のことなのです。
このことが理解できないと禅の世界を理解することは難しいのです。勿論、般若心経の理解も全く自己流のトンチンカンのものとなってしまいます。
禅の修行によって解脱をすると、精神的存在であった眼耳鼻舌身が消滅してしまいますということを般若心経の「無眼耳鼻舌身意」は示しているのです。これは体験してみるしかないかもしれません。
身心脱落しても実際には生体として存在している「眼耳鼻舌身」が無くなってしまうわけではありません。この精神的存在の身体は生来のものではなく、生まれてから身体と意識の成長に伴い、意識が必要があって意識の中に作り上げたものです。
意識が作り上げたものですから、意識を坐禅によって脱落せしむれば、精神的身体も消滅してしまうのです。
2016.2.9
私達は幼児から老人に至るまで、生まれてから死ぬまで、自己と他己を区別して生活しております。まず、このことが生きることの基本原則です。
また、このことは私達の精神(心)に自己と他己(非自己)を区別する機能があることを意味しています。しかし、自己と他己を区別することは、手足と同じように、そのように生まれ付いたものであって、機能といわれるものではないと思われている方もいると思います。
私達が気付いた時には既に自己と他己を区別していましたから、それがいつからか、どのようにしてかは誰も知らないことです。誰も知らないこと、誰も知らなかったことだから、生まれ付きのものだと思い、誰も疑問に思わないのです。この世は最初から自己と他己が区別された世界で、そこに私達は生まれ出たと考える方がほとんどだと思います。
禅の世界では、自己と非自己の区別は自己の中の自己、つまり意識の一つの機能と捉えております。その証拠に悟りの境地を表した「自他一如」という言葉があります。これは悟る(解脱、大悟、身心脱落、自己の忘却)と自己と他己(他者)という隔てがなくなって一体となってしまうということを意味しています。坐禅の修行によって悟って(自己の中の自己を忘却して)しまうと対立する自他が消滅してしまうという様子を表した言葉です。
また、ここで重大な疑問があります。
自己と非自己を区別しているのは私ではないということです。私という存在が認められた段階で既に自己と他己は区別されていたのです。「私」が自己と非自己を区別したから、そのような概念が生じたわけではないのです。「私」は自己と非自己(他己、他者)が区別されていることを追認したにすぎないのです。
私が私を私(自己)と認める以前に心の何かが精神上の「私」を作り出し、精神上の「他者」を作り出してしまっているのです。この精神上の自己と精神上の他者を作り出した「何かとは何か」を既に知っている世界が禅の世界です。
ここで精神上の「私」と精神上の「他者」と申し上げましたが、私達が私と思っているものは物理的存在の私の身体ではないのです。私達が「私」と思っているものは精神上の私です。私達が私の身体と思っているものは精神上の身体であって生身の物理的存在の身体ではないのです。
ですから切断された自分の脚を誰も自分とは思わないのです。自分の肉体の一部である脚とは思いますが、自分の一部が切断されたとは思わないし、そのように感じもしないのです。
私達が精神上作り上げた身体と物理的存在である生身の身体は元々別のもので一方が失われても一方はそのまま無傷で残ることができるのです。精神が狂い破壊されても、身体は破壊されることなく無傷で残るのです。逆に生身の物理的存在の身体が破壊されても生命と頭脳が無傷である限り、私達の精神的身体は破壊されることなく健全に残り続けるはずです。(このことは私は未経験の故に実際に身体の一部を事故等で失われた人に尋ねてみるしかありませんが・・・。)
禅語に「身心一如」「身心脱落」というものがあります。
更に禅僧の言葉に「念をもって身となす」「是非を離れ自他の隔てなく身念すきと消えてなき人、生死、万物を離れて解脱を得る也」
「一心おこりて生死あり、無心の時、生ずる身もなく、無念の時、滅する心もなし。無念、無心の時、全く生滅なし。我が身ありと思う心を止めて本来一物なき処に打向ひ生ずるとも思はず死するとも思はず・・・。」
「殺せ 殺せ 我が身を殺し果てて何もなき時人の師となれ」
「身心脱落、脱落身心」等々。
これらの文に「身」と出てきますが、それらは生身の物理的存在の身ではなく、我々が精神的に知らず知らずのうちに心の中に作り上げた精神上の身のことを指しています。この精神上の身の存在は無念無想の心の状態に至って、心の中をよく観察すると精神的に作り上げられた「身」がはっきりと把握できます。何の為に作り上げられたかも明らかになります。また何がそれを作り上げたのかも分かります。
このことを知りたかったら或いは学問的に研究したければ曹洞宗の非思量の坐禅を正師についてやってみるとよいでしょう。坐禅は曹洞宗の非思量の状態を保つ坐禅をしなければ上記のことは見えてきません。非思量の状態を保つことができれば、身心脱落せずとも明らかになります。臨済禅の公案では大悟徹底にまで至らなくてはなりません。
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2015.10.19
人間の本性(本来の自己)は利他性です。つまり善です。
意識(自己)を坐禅によって滅却した禅僧(仏陀をはじめ、歴代の祖師方)は皆、利他的です。
この利他性を仏教では慈悲というのです。意識(自己)の存在(介在)しない愛です。
禅僧が解脱(身心脱落)した自己を、従前の自己と区別して本来の自己といいます。
仏教は意識を滅却することが主眼です。意識を滅却した禅僧は皆、利他的になるということは、意識が利己性をもっていることを意味しています。
禅僧の利他的というのは慈悲心で代表されます。
ー至道無難禅師ー
「つねづねに心にかけてする慈悲は、慈悲の報いを受けて苦しむ。われなればこそ慈悲すると思ひし人に。」
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2015.10.19
著書 現成公案の中で「自己の身心および、他己の身心をして脱落せしむるなり」と宗祖 道元禅師が述べておられます。
これは坐禅修行をして自己を忘却すると、自己の身心と他己の身心が脱落(滅却)してしまうという意味です。自己と他己が自己の心の中から完全に消滅してしまうのです。これは自己と他己の区別がなくなってしまうことを意味しています。
禅ではこの状態を自他一如といいます。解脱した(悟った)禅僧の自他の在り様です。
このことから、自己即ち意識が、自他の区別をする機能を担っていることが分かります。
意識は自他を区別していると同時に、利己性も司っていることが分かったと思います。
自己即ち意識が消滅して、自他の区別ということがなくなると、利己性も精神的免疫機能も自己保存本能も自己遺伝子保存本能も意味がなくなります。
「自己〜」「他己〜」とつく行動は、全く行動原理としての意味を失うことになります。
自他ということがなくなると、そもそも自然界における生存競争という「自然の摂理」そのものが消滅してしまうことになります。混沌です。
例えば、自己保存本能から自己を取り除くと何の意味もなくなります。「保存本能」これでは、やみくもの保存本能となります。
精神的免疫機能も自他を区別するからこそ、その機能を全うできますが、自他の区別がなくなったら免疫機能不全となることでしょう。
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2015.10.9
・自我(意識)は自我を嫌い忌避する。
自我は自我を嫌い忌避するが故に、自我と対峙する時は必然的に自我を排除する。
つまり自我は自我の排除がその主な機能です。
私の自我も他者の自我も個性はなく同じ機能を持っているのです。自我は人間共通、動物共通のものです。個体差はなく同じ性質、同じ働きをするのです。互換性があるのです。つまり生体の各種のホルモン物質と同じ働きと同じ性質を持っているのです。
自我は「自我」であれば、他己の自我であろうと自己の自我であろうと、当然排除する行動に出ます。
但し、自己の自我というのは自己の自我の残効(残影)なので、現前の他己の自我ほどの存在感も脅威感もありません。自我は誰のものでも、どの動物のものでも同質、同効果で各人、各動物の性格的個性による違いはありません。自我には個体による違いはなく共通した同質のものです。
反抗期、或いは思春期の頃の青少年は誰でも自己の自我の処理に戸惑い苦悩(苦労)するものです。それは意識(自我)が成熟し意識(自我)の存在が確立し、意識(自我)の機能である自他を区別し他己を排除する機能が充分に発揮し始めたからです。
今まであまり気にしないでいられた意識(自我)が、心の中にしっかりとその存在感を増し、その機能を始動させたからです。精神的に極めて不安定な時期と言われる理由です。青少年は成熟しつつある自己の自我の処理の仕方が分からないのです。
自己の自我の処理を確かに知っている者(大人)はいません。
自己の自我とはどのようなものであるかを知っている者もいません。よって、青少年に誰も自我の処理の仕方を教えてくれませんし、教えることのできる者もいないのです。また、その重要性に気が付いている大人もいないのです。そのようなことを書いてある書籍は古い宗教書を除いて、一般には出版されていません。そもそも自我そのものを直接、問題にした者は現在までほとんどいなかったのではないかと思います。
青少年は身体の成長に伴う新たな体験である性欲の芽生えとその増大、そして親から独立して生きていく為に必要な精神の成長に必然的に伴う自我の存在の強化と増大、この二つの新たな大問題の出現にその適正な処理がつかめず心の不安を抱えるようになっているのです。
この二つの問題で青少年が親から自立して安定して社会生活を送ることができるようになる過程で、その社会に適した処理方法を学び体得するまで苦悩します。
私は禅宗の僧であるので、性欲はここでは問題にしないで修行の中心である自我(意識)を取り上げます。
自我ーその存在する理由は自己と他己の区別の認識と、他己を排除して自己保存本能と自己遺伝子保存本能の遂行にあります。自我は生得のものであるので、そして自我の芽生え、生長、成熟、完成も人の意志とは無関係に自律的に自然に必然的に生物としてなされるのです。このことをふまえて、特に青少年は自我と対峙して自我をむやみに抑制(抑圧)して自在に操ろうとか消滅させようと戦っても無駄であることを理解しなくてはならないのです。
意識(自我)は自分の心の中の存在ですが自分のものではありません。自分のものではないので手を付けてはいけないのです。正しい方法を知らないで自我と戦えば戦う程に心が歪むだけです。精神が病むだけです。
一般に大人は自我(意識)を以下のようにして適切に処理しています。
・自我はあって当然、仕方がないものである
・気にしてもどうにかなるものではない
・気にしないようにしている
・対峙しないようにしている
・直視しないようにしている
・無視している
大人本人は何も分からないので経験則でやっているのですが、このような対処方法でよいのです。大人は経験則として「このようにせざるを得ない」「このようにした方がよい」と自ら知ったことです。ほとんどの大人はこのような考えで自我に対処して人生を送っているのです。
自我はその存在感が変化し強くなり、或いは増大しても気にしないで放っておくのが最善なのです。自我を無視して放っておくのが一般人にとっては最善の対処法なのです。
これ以上の方法を求めるならば、坐禅によって無我に至るしかありません。
これは人類究極の自我(意識)に対する対処法ですが、そのことを知っている人はほとんどおりません。
仏陀が発見し仏陀が始められた方法です。これを仏教とか仏道とかといいます。
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2015.10.11
(1)
・意識と意志とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と思考とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と感情とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と身体的欲である三大欲(食欲、性欲、睡眠欲)とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と精神的欲である名聞利養(名声欲、金銭欲)とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と精神的欲である知欲(知識欲、探求欲)とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と精神的欲である支配欲、独占欲とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
・意識と記憶の入力、出力とは全く別の精神的存在であり、その機能も異なります。
意識はそれぞれへ本来関与することはありません。
それぞれからの意識への関与はありません。
逆に、それぞれの人の意志による意識への干渉は意識の健全な精神活動を損なうことになります。意識は放っておくのが正しい対処法です。
お互いに干渉せずに放っておくのが正しいのです。
(2)
・意識と意志は別々の存在です。
・意識と意志は異なる(違う)役割があります。
・意識は意志に関与することはできません。
・意志は意識に関与することはできますが関与してはなりません。
・意識は意志の関与を極めて嫌います。
・意識は放っておくのが正しいのです。
・意識は気になっても放っておくのが正しいのです。
徒に意志をもって意識に干渉すると、意識の本来の機能を損なうことになります。
つまり、精神的自己免疫機能疾患として精神障害をもたらすこととなります。意識は人の意志に関係なく自律して、その役割をなすようになっているのです。
つまり、意識は自律神経的に人の意志とは関係なく、自律した精神活動を行うのです。
(3)
・意識と意志は違います。
意識は意志に関与することはできません。
・意識と判断力は違います。
意識は判断力に関与することはできません。
・意識と実行力は違います。
意識は実行力に関与することはできません。
・意識は人の意識以外の精神活動に関与することはできません。
・意識は存在することにその意味があります。
意識は存在することによって精神的免疫機能を司るべく自他の区別をもたらし、遺伝子に組み込まれている自己保存本能と自己遺伝子保存本能の完全な遂行を使命とします。
これらのことは坐禅をして非思量の精神的状況を維持し続けて無念無想に至って分かったことです。
無念無想に至ると意識のみが心の中に残ります。一切の思い、考え、想像がなくなると、意識の存在が明らかになり意識の働きが明確になってくるのです。
無念無想の心境を非思量といいます。無念無想になっても意識は残ります。この残った意識が完全に根こそぎ消滅(忘却)した心境を身心脱落(無心、無我、悟り、大悟、解脱等々)といいます。
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2015.10.19
・至道無難禅師 即心記
「さとりて修行して、身もなく、念もなく、知るものも、知らぬものもなくなるべし」
「主なくて見聞覚知する人を生き仏とはこれをいふなり」
・道元禅師 現成公案
「万物を運びて自己を証するを悟といふ」
「自己を忘るるといふは、万物に証せらるるなり」
以上の抜粋は、心の中に見聞覚知をする主体(自己)のない様子を示しております。
物事を見聞きしていても見聞きしている自己のない様子です。物事を見聞きしてもそれを知っている自己のない様子です。
人は見聞する時は必ず自己(主体)という中心点(視点)を置きます。しかし、この世の中には自己という中心点(視点)を心の中に持っていない人がいます。それは身心脱落(悟る、解脱)した禅僧です。中心点(視点)とすべき自己が坐禅によって脱落(忘却、滅却)してしまって存在していないのです。つまり無我なのです。
無我を分かりやすく言い換えますと無自己、或いは無視点ということです。自己の心に自己がないのですから、視点のない状態なのです。
そこで道元禅師はこの状態を「万物に証せらるる」と表現したのです。つまり、視点のない遠近法ということができます。
一般的に人は、必ず自己に視点を置いて物事(万物)を見聞きしています。
レオナルド・ダビンチはこの様子を絵を描くときの技法として明確に取り入れた初めての画家です。私達は常日頃、レオナルド・ダビンチの遠近法で生活をしているのです。この技法は遠近法という絵画の技法として今日まで伝わっております。
遠近法には必ず視点があります。つまり自己の眼があるのです。自己の眼があり、視ている人がいて、それを知っている人がいるのです。
悟った禅僧は視点のない遠近法で生きているのです。つまり自己の眼がないのです。般若心経というお経の一節に「無眼耳鼻舌身意」というのがありますが、「無眼」が正にこのことです。自己の眼がなく、視ている人がなく、それを知っている人がいないのです。
「さとりて修行して、身もなく、念もなく、知るものも、知らぬものもなくなるべし」というのは、この様子を表した文です。この場合の身は眼としてもよいのです。「念」は自己の中の自己のこと。知るものも自己のこと。知らぬものも自己のことです。一切の視点とすべきものが心の中にないのです。
視点のない遠近法では物事(万物)はどのように見えるのか試してみてはいかかですか? 悟り(身心脱落)を開いた禅僧は毎日が視点のない遠近法で生活をしているのです。
身心脱落(悟り)というのは、視点を置いた遠近法の生活から、視点のない遠近法の生活に変わることことだといっても間違いではありません。身心脱落した禅僧の在り方の説明として一般の方には分かりやすいのではないでしょうか?
2016.2.12
禅僧が身心脱落(悟りを開くこと)して、自己の中の自己を忘却してしまうと自己と対象物(人に限りません)との精神距離が消滅してしまいます。なぜなら自己の中の距離の基点である自己が消滅してしまうからです。(私達は普段、距離の基点となる視点を自己の中の自己に置いているのです。)レオナルド・ダビンチの発見した遠近法の視点である自己の中の自己が心の中に存在しないので、遠近法的な物の見方ができなくなります。
つまり、遠近法的距離感なくなってしまうのです。見る対象がそのまますべてベタに入ってくる感じとなるのです。見る自分に視点というものがないからです。見る自分が自己という視点を作らないのでベタに対象物を見るような感じになるのです。視点を持たないと距離感が出せないのです。距離感は視点があるが故に出せるものなのです。
自己の中の視点となるべき自己が消滅すると、物を見るというよりも眼に物が映るという感じの方が合っていると思います。
見る者も見られる者もなく、また見る感覚も見られる感覚もなく、ただ対象が全体として存在しているのです。ここに距離感は伴わないのです。
当然、悟りを開かれた禅の世界では般若心経の示す通り「無眼耳鼻舌身意」、つまり眼もなく耳もなく鼻もなく舌・唇もなく身体もなく自己もないのです。
眼がないということは全体としての物理的存在の眼がないというのではなく、精神上の眼の存在感がないということです。
私達は普段、生体としての物理的存在の眼と自らの心が作り上げた精神的存在の眼の両方で物を見て視覚的に認識しているのです。
悟りを開かれた禅僧には眼の存在感がないので両眼を通して、その奥の自己に視点を置くことはないのです。両眼の視点を結ぶ処に自己はないのです。悟りを開いた禅僧は、眼を通すことなく直接対象の世界なのです。
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2015.10.20
森羅万象(万物)の存在にはすべて理由があります。
なぜそうなのか?
なぜそうなるのか?
なぜそこに存在するのか?
すべてに理由があります。
理由があるということは因果の道理があるということです。因果の道理を外れている存在はないということです。ただ、人間の科学の力には限界がありますので、因果の道理を明らかにしたり知り尽くすことはできません。因果の道理を知るには限界があるからといって因果の道理がないということではないのです。
仏陀はこの世は因果の法則(因縁の法)に支配されると説いています。これが真理だと述べておられます。
宗祖道元禅師は「因果の道理歴然として私なし」「因果亡じてむなしからんが如きは諸仏の出世あるべからず。祖師の西来あるべからず。」と述べておられます。これはすべては因果の道理のもとにあるという意味です。
仏道を実践せられた道元禅師の禅の道も、因果の道理を離れてあるはずはないのです。道元禅師の述べられた「是非善悪を思わず」も「念想観の測量を息める」ことも、坐禅も、非思量も、身心脱落も、「自己を忘るる」ことも皆、因果の道理にあてはまるということになるのです。因果の道理があてはまるというなら、その因果の解明は可能ですし説明できることになります。
禅の道が因果の道理にあてはまらないというなら、その解明も説明も不可能ということになりますが、禅の道が真理ならば因果の法則を離れることはありません。
今日においても曹洞禅の師家方は、禅の道は幽邃だとか幽玄だとかいって文字による説明はできないといいます。禅は昔より不立文字、教外別伝というではないかと・・。
今日まで禅の様々について、因果の道理の観点から明らかに説いた師家や宗教学者はいないようです。禅のすべては宗祖道元禅師がかく説いているからと説明するのです。宗祖の言をすべての根拠として、それを明示することで説明は充分としているのです。
因果の道理を尊ぶなら(何よりも大事なことと思うなら)宗祖がなぜ、そのように説いたかの理由を明らかにすべきだと思います。
宗祖が何かを説き示したことには、それなりの理があるはずです。理由がなくて何かを説くということはあり得ません。今までは伝統を重んじるあまりにということで致し方ありませんでしたが、これからは禅を広め、その教えの社会貢献の為には、誰でもが納得する因果の道理を明らかにする必要があります。
現代は理由のないまま行うことのできない社会、行わせることのできない社会となっています。それは現代ではすべてのことは理由があることを誰でもが知っているからです。それも子供だましの理由ではなく、因果の道理にそった科学的理由がきちっとあることを知っているからです。
禅の道は幽邃だとか深淵だとかいって、その因果の道理を明らかにすることを避けているようでは、世界的に人々を納得させることはできません。ますます禅が社会から離れていくことになります。
また、禅の説明の講義は提唱といって一般の講義とは一線を画しておりますが、提唱をする師家は論理の一貫性のない説明をなるべくすべきではないと思います。また、その際に用いる禅語を充分に定義をしないまま、自分の主観で自由無碍に用いている観があります。それも禅をますます分かり難くくしている一つであります。
他者に説き示す以上、その際に用いる用語の意味をしっかりと定めて用いる態度が最低限必要なことです。このようなことも今もってできていないことは残念です。
師家は提唱の本来の意味を再考すべきです。なぜ提唱というのか? 自らが説くことが提唱になっているのか? 等々。まるで公案の末路のようです。提唱の内容が形骸化しつつあります。因果の道理を離れた提唱はないはずです。
禅僧と雖も因果の理を念頭に置いて、世界に向かって説く姿勢を持つべきと願ってやみません。
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2015.10.21
「意識」というものがどういうものであるのか、その正体はいったい何なのか、どのような働きをするのか、どのような機能を持っているのかなどのことを知りたければ、意識を他の様々な精神活動から分離して、単独に観察しなければ分かるものではありません。
現代では「意識」ということが注目されて、上記のようなことを、複雑に入り組んだ精神が活動したままの状態で把握しようとしていますが、それは無理です。
そのものを知りたかったら、そのものを単体にして観察しなければならないことは科学の常識です。
意識について様々なことを知りたかったら、まず最初になすべきことは、意識を他の精神活動から分離して「意識」だけにする方法を、人類の何千年という長い歴史の知恵の中から捜し出すか、あらたにその方法を発見するしかありません。
現状で意識のことを調べても皆、研究者自身の自分の心の様子の観察に基づく私的推測でしかありません。私的な自己の精神を研究対象として、意識の研究を当て推量的方向づけをして行うのですから、まるで当たるも八卦当たらぬも八卦の占いの世界のようです。下手な鉄砲も数打てば当たるかもしれませんが、本当に当たったかを見極める根拠は得られません。
物の性質、機能を知りたかったら、まずその物の純粋な姿を把握する必要があります。
その物を、その物の純粋な姿を、単独で取り出すことができたら、その物のある時とない時の比較をすれば、その物の機能を明らかにすることができます。これが一般的なやり方です。
ところで、禅の修行は自己の忘却が目的です。この自己というのは現代でいうところの意識のことなのです。思量を完全に停止せしめて自己、つまり意識を裸にしてしまうのです。裸になった意識は観察が可能となります。
また、悟りは身心脱落といいますが、これは自己、つまり意識を完全に忘却した状態を指します。ということは意識の存在していた時と意識が存在していない時の精神の比較が可能となることを意味しています。これが禅の精神上の内容です。
ここで禅の修行について詳しく経過を追って説明していきます。
禅の修行はまず、非思量の状態を知って、次にその状態を維持できるように気を抜かないで努力することが大切です。
できるできないに関わらず非思量の状態を維持すべく努力していると、思量が全く出ない状態が少しずつ増えてまいります。
非思量の工夫、努力中は、五感覚(眼耳鼻舌身)の働きは働いたままに放っておくのです。これは人の意志に関わらず外縁に即応して機能するようになっております。様々な欲望(食性睡名財等の五欲)が生じても、それも人の意志に関わらず縁に応じて働くものですから放っておくのが正しいのです。放っておけば自然に生じたものですから自然に滅していくものです。相手をしては欲望は盛んになっていきますので修行の妨げとなってしまいます。但し、修行とはいっても生きる為に必要最小限満たすことはやぶさかではありません。
禅の修行において、その相手をするということは、その欲望について思考、想像することを指します。放っておくということは、そのことについて思考、想像しないということを指します。よく心得ておいて下さい。無視するということも同じです。縁に任せるということも同じことを指しています。そのことに手をつけないということも同じことを指しています。以後このような表現が禅の祖録、法語、書籍には多々でてきますので迷わないようにして下さい。
人は日常、身体のみならず頭脳でも様々な活動が行われていますが、禅の修行においては、それは相手にしないで放っておいて非思量のみに注意しなくてはなりません。そして、その状態を維持できるように様々に自己工夫をしなくてはなりません。
その間、様々な思い考え想像が好き勝手に出続けます。制御がききません。
脚は痛くなるし、思量は思うように止まらないし、眠くもなるし、じっとしているのも辛くなるし、散々の状態の中で忍耐に次ぐ忍耐で努力に次ぐ努力で、この状態を心に最大限の力を入れて少しづつ克服していくしかありません。
そして忍耐と努力の甲斐あって、やっと非思量の状態をある程度維持できるようになってまいります。それでも思量の圧力に負けます。眠気はなかなか収まらず、これが坐禅に慣れれば慣れるほど坐禅の大きな障害となります。身心全体に力を入れて眠気をはね除けるしかありません。修行は楽ではありません。
止まらぬ思量は習慣による所が大きいようです。思量する癖を直すのですから大変なことは大変なのです。
非思量の坐禅を行って行きますと思考、想像が全く動かないようになってまいります。思量が全く動かなくても意識(自己の中の自己)は厳然として心の中に存在していることが分かります。この辺りで禅の修行の対象が意識(自己の中の自己)であることがはっきりとします。
無念無想(非思量)の状態になっても心は自由ではないし満足もしないのですから、思量が人の心を悩ます原因ではなく、意識(自己の中の自己)が人の心の自由を縛り苦しめていることが明らかになります。
意識(自己の中の自己)の忘却が心の問題の解決に必要なことが理解できます。
開祖 道元禅師の「仏道を習うというは自己を忘るるなり」の意味がはっきりと自覚できるのです。
意識(自己)の存在の確認は可能です。
純粋な意識(自己)のみの存在の状態を意図的に作りだすことができます。
その方法は禅宗の坐禅です。
曹洞宗の坐禅の要術である「非思量」(不思量でも同じことです。表現の違いだけで内容には全く違いはありません。「思量」という語句を名詞句として用いたか、副詞句として用いたかの違いで不と非の使い分けがでてきたのです)の状態を知って、その状態を努力して維持すれば、心の中はいわゆる「無念無想」の状態になります。この「無念無想」の状態は悟り(解脱、大悟、身心脱落)ではありません。明鏡止水の状態というものにも当たりません。明鏡止水は凡人の悟りを想像した表現だと思います。
曹洞宗では、「無念無想」の状態を「非思量」といっております。
非思量の状態をある程度の努力でできるようになってきますと、思考が全くない心の状態を心で観知することができます。
思考の全く動かない状態の心の中に残っているものは意識(自己)のみです。心の中に意識(自己)以外に存在しているものはないのです。
五感の受け入れ器官(眼耳鼻口身)の存在感は全くなくなります。五感が受け入れる刺激情報(音、物象色、匂、味、触)は有る(在る)だけで、時間的連続はなく、生滅だけがあります。放っておきます。それで何も困ることはありません。
記憶に関することもありません。
感情は五感の働きと同じです。各欲望(食、性、睡、名、財、知等)も生じたら生じただけで、すぐに消えるかそのままかです。それ以上でもそれ以下でもありません。放っておきます。それで何も問題は起きません。
五感の知覚も喜怒哀楽の感情も記憶の入力、出力も各欲望も、言葉、想像に転換(置き換え)し発展させなければ、急に生じ速やかに滅し、心は何の変化もなく元のままです。意識(自己)が存在し続けているだけで、意識に何の変化も何の動きもありません。途切れることもありません。自分で意識に意図的に何かをすることもできません。厳然として存在しているだけです。
禅の修行の悟り(解脱、身心脱落)は、この意識(自己)の忘却した状態を指します。
禅の修行は思考、想像のない状態を作ることではありません。非思量の状態を維持することによって、その意識(自己)を完全に忘却することが目的です。
意識は不活性ガスのように全く変化はしません。また動くこともありません。生滅もありません。私達の意志で変化させたり動かしたりすることもできません。
いたずらに意識を意志をもって触ろうとすると、本来は他己(敵)に向かうべき意識が自己に向かい、自己排除の動きをするようになり、精神的自己免疫不全疾患とも称すべき神経症(自律神経失調症)をもたらすことになります。
そこで禅の修行において意識(自己)を忘却する為に、心の中に存在している意識(自己)を触らないで忘却する方法を用いるのです。
それは非思量を坐禅中のみならず日常生活の中でも徹底的に維持するのです。禅は何をやっている時も修行でなくてはならないのです。修行でなくてはならないということは、何をしている時も非思量であることを維持しなくてはならないということです。
坐禅中や日常生活の中で、できるできないに関わらず徹底的に非思量の状態を維持していますと、自然に心の中の意識(自己)が忘却していきます。そして、ある時、意識(自己)が完全に忘却する時が来ます。この時が悟り(身心脱落)です。完全に意識(自己)の根が切れて、再び生ずることはありません。
この時以降、心の中に意識(自己)が生ずることはありません。
これ以降、悟った禅僧としての人生を歩むこととなります。再び、元の意識(自己)のある凡人に戻ることはありません。その禅僧の心に意識(自己)があるかないかの区別は凡人は知ることはできません。無我の禅僧を知るのは無我の禅僧のみです。
坐禅中、非思量を最初に行う時は、心の中で言葉を用いる思考と像、形、色を用いる想いを一切用いない為の工夫をします。そして、工夫の効があって次第に思考、想像が消滅してきましたら、次に心の中の様子や意識(自己)の存在を観るようなことをしないようにします。意識(自己)の存在を知っている、分かっていることは構いませんが、そのことを観察してはいけないのです。
このところを曹洞宗の宗祖 道元禅師は、坐禅の指導書である普勧坐禅儀の中で「念想観の測量を息めて作仏を図ること勿れ」と示しています。
「念」は言葉による思い、考えです。「想」は像、形、色を用いる想いです。「観」は観る、観わたすという意味ですが、この場合は測量の中の観ですから、心の中を観ること、心の中の様子を観わたすことを指します。
非思量の工夫が手に入ったら、意識(自己の中の自己)の存在を分かっているだけで、放っておく、気にもしない、無視しておくということが要点です。何も手を付けないということです。
このように「念想観の測量を息め」ていきますと、坐禅の主対象である自己(自己の中の自己=意識)の存在が段々と徐々に気が付かないくらいの状態で薄くなっていきます。そのうちに自己の実在の眼の存在感、耳の存在感、鼻の存在感、口(唇)の存在感がなくなってきます。そして五体の身体の存在感がなくなってきます。
完全ではないが目、耳、鼻、口、身体の形象は全くなくなり、顔の存在感や顔の輪郭感がなくなっていきます。
最後まで残るのが人によって異なるのでしょうが、眼か唇です。それでもその頃には眼や唇の形象はなくなり、存在感のみが残っている状態のはずです。
身や姿、動きの感覚は眼や唇より先になくなります。身の輪郭感、皮膚が身の内側と外側の境をなしている感覚はなくなります。身の皮膚輪郭を境にした内と外という感覚はなくなります。皮膚その物がなくなります。
この感覚を悟りに用いて表現したのが曹洞宗 大本山総持寺第二祖 峨山韶碩禅師の「皮膚脱落」です。
五感覚は私が感じている、私のもの、私の意志に従うものという感覚はなくなります。五感覚器官は私を離れて存在し機能していることが分かります。五感覚は私がなさしめているわけではなく、ただ縁に従って縁に応じて間髪を入れない速さで石火の如く働いていることに気が付いてまいります。
これらは意識(自己の中の自己)の存在感が薄くなるに応じて変化してきます。
身体もなくなってまいります。自分の身体が今どのようにあるか、どのように動いているかという姿が心の中に見えなくなります。浮かばなくなります。
こうなると自己の身体が自己のものという感覚はなくなります。手が動いても足が動いても、私が統轄し動かしたという自覚はありません。勝手に手は手の意志によって動いているように見えます。動いている手が私の身体のものという感覚はなくなります。私の胴体につながっているという感覚もありません。動いている時の負荷だけはありますが、その負荷には手の負荷という感覚はありません。
私達は自分のことを実際の眼ではなく「意識の眼(心の眼)」で見ていたのですが、「意識の眼(心の眼)」の存在が薄くなるに応じて自己の姿、姿勢、動きが見えなくなり浮かばなくなってまいります。額に在るとされる第三の眼が脱落してくるのです。そのうち、ほとんど分からなくなるくらい姿、形、姿勢がなくなり身の存在(身の負荷)のみになります。
「意識の眼(心の眼)」というのは守るべき精神上の身体を観察している意識のことです。私達の身体は誰でも直接見たわけでもないのに「意識の眼(心の眼)」で見えているのです。心の眼といった方が分かりやすいかもしれませんが、この心と意識とは同じものです。感じの違いだけです。
見たことのない自分の後姿でも見えるのです。アクロバット的姿勢や動きをしても、その身体の姿勢や動きが見えているのです。見えていないのに見えているのですから、これはとても不思議な現象で大問題になるべき事柄なのに世界の七不思議に入っていないのです。誰も疑問に思ったり、不思議に思ったりしないのです。まるで万有引力のようです。
この実際には自己の実眼で見えない自己の身体、姿勢、動きが、心の眼で見え、常に心で分かっていなくてはならない理由があるのです。この心というのは意識のことであり、自己の中の自己のことです。心の眼というのは自己の中の自己の観察眼のことです。
この精神上に存在する身体は、想像力によって想像した身体ではないので、常に動態の身体です。
想像力によって想像した身体は、動態ではなく常に固定したものです。
精神上の身体は常に動態であるが故に、半透明のようでつかみどころがないのです。はっきりと固定的に見ることができないのです。
精神上の身体はなぜ、常に動態なのかと、またなぜ精神上見えていて、その姿勢、動きが分かっていなければならないかといいますと、生身の実際の身体を守るシステムなのです。危険、外敵から守るべき身体を精神上、構築したのです。この精神上の身体を守るのは意識の役目です。(手足は誰のものでもありません。)
自己保存本能を遂行する機能を持った意識が基本的になすべきことは、自己の実際の身体の安全を守ることです。このことによって自己保存本能が全うできるのです。(意識が自己の身体の自己所有感、責任を持つ)。
この実際の身体に本来、所有者はおりません。手一本、脚一本の所有者もおりません。しかし、この手一本、脚一本の所有者が誰もいなければ、手や脚やその他の身体を守るべき者がいないことになります。守るべき者がいないと、自己保存本能は全うできないこととなり命を失うことの危険が大きくなります。この実際の身体の存在感、自己所有感、自己のもの一体感は、坐禅によって意識(自己の中の自己)の存在感が薄くなっていきますと弱くなってきて、手が動くのを見ても自分の手という感覚はなくなり、身体との一体感もなくなり、自分の意志が動かしているという感覚もなくなってきます。
意識(自己の中の自己)が完全に忘却されますと、それを「身心脱落」と祖師方が表現していますように自分の精神上の身体と自己の中の自己の存在が全く心の中から消失してしまいます。
私達が実際に在ると思い感じている身体は、実際の身体ではなく意識が自己保存本能を全うする為に精神上に作り上げたものです。
生まれてから成長(思春期)するまでの間に、様々な経験を得て心の中に精神上作り上げた虚構の身体なのです。この虚構の身体はバリヤーとして実際の身体をすっぽり覆っております。実際の身体が動いても、この意識が作り上げた虚構の身体がそっくりそのまま、実際の身体の動きに間髪を入れない速さで合わせて動いています。
この精神上の身体は一秒たりとも静止していることはありません。常に微動状態で実際の身体の縁に応じる動きに即応するようになっています。その故に精神上の身体は常に動いています。常に動いているが故にはっきり見ることもつかまえることもできないのです。動いていて精神上のもので実態がないが故に半透明に見えるのです。
この意識によって作り上げられた身体は、意識の役割の一つである自己保存本能を遂行する為に必要なものなのです。
意識は精神上の身体を統轄して守ることによって実際の身体を守っているのです。
意識は自らが作り出した自己の精神上の身体を守ることによって意識の役割である自己保存本能が全うされるのです。
意識は実際の自己身体を守る為に精神上の身体を作り出し、その身体に自己の所有感を持たせて守らせることで実際の身体を守るという方法をとっているのです。
意識は精神上、虚構の身体を作り出し、その身体の中に自己を作り、自己と非自己(自己と他己)を区別し、非自己(他己)を自己保存本能を全うする為に排除するのです。
これは生体を守る為に免疫機能というものがありますが、精神上の同様な機能なので、生体を守る為の免疫機能を身体的免疫機能とすれば精神的免疫機能ということができます。
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2015.10.22
禅の修行対象は意識です。
禅籍では意識のことを自己とか我とか身心、己我、等々多くの表現をしております。
曹洞宗開祖 道元禅師は意識のことを「自己」と表現しております。
自己 即ち意識をどのように扱い、どのようにするかが禅の修行の最も重要なことです。
禅宗はインドのシャカ族出身のお釈迦様、つまり本名シッダールタ(ゴータマ)が解脱(成道、悟り)した時の修行原理と修行方法を二千数百年の間受け継いで現代に至っております。シッダールタ(ゴータマ)が苦悩を解決する為に坐禅によって自己(我)を忘却(消滅)させて解脱したことにならって、仏教の一宗派である禅宗は自己(我)を忘却(消滅)せしむる為に坐禅を中心とした修行をします。シッダールタ(ゴータマ)は約2,400年前の12月8日の早朝に自己(我)を忘却(消滅)してあらゆる苦悩から解き放たれたのです。つまり解脱(成道)したのです。
坐禅はシッダールタ(ゴータマ)が修行した方法です。あらゆる苦悩を根本的に解決する唯一の方法です。
禅宗では自己(意識)を完全に忘却した状態を身心脱落とか無我とか無心とかいいます。無我(無心)というのは欧米で考えられているような無意識とは全く別の次元の心理状態です。
この無我(無心)は病人や怪我人の意識のある、なしの無意識とか、夢遊病者の無意識というものとは全く異なった心理状態です。
また、無我(無心)というのは無念無想とは違います。無念無想というのは非思量(心の中に自己はあるが、思考がない心理状態)のことで、自己を忘却する前の修行中における心の状態を象徴的に表現した言葉です。無念無想は禅の修行の目的ではありません。本格的に禅の修行が分かった状態になります。
・坐禅は身体の姿勢と、その時の心の在り方(状態)の二つに特徴のある修行方法です。
・坐禅はいわゆる坐禅の姿勢を組み身体を安定させます。そして次に心(頭脳)を非思量という状態にもっていきます。心(頭脳)を非思量という状態にして、それを維持し続けるのです。
・禅の修行において、坐禅の姿勢が非思量という頭脳の状態に資する機能はありません。坐禅の姿勢のみをしっかりと組んで、長時間坐っていたところで、ただそれだけでは自己(意識)を消滅せしめることはできません。
・禅の修行において最も重要な唯一のことは非思量です。
・坐禅中に限らず、あらゆる日常生活で心(頭脳)を非思量の状態に維持することが禅の修行です。禅の修行は何をしていても修行だという理由がここにあります。
・ここで非思量について説明をしておきます。
「非思量」というのは「思量するにあらず」と訳します。不思量も同じことで、思量を動詞句とするか名詞句とするかによって、否定する場合に動詞句なら「不」、名詞句なら「非」を用いるということの違いで、それ以上の意味はありません。またそれ以上の意味を持たせ難しく解釈している師家方がいますが、それは頭を使っての考え過ぎです。考えによって修行を打開していこうとはせずに、更に「行」そのものに専念すべきです。禅の修行においては素直に受け取れることは素直に受け取った方が間違いは少ないものです。
一切の思考、想像というのは、思考は言葉(文字)を用いた思い、考えであり、想像は像、形、色を用いた想いです。人の思考、想像は心(頭脳)の中で言葉や像、形、色を必ず用います。
・人は五感への刺激情報がある時は間髪を入れず瞬時に即応するのですが、この即応する時は思考力も想像力も動きません。動く間がないのです。人は思考力、想像力を用いなくても瞬時に「分かる」という能力を有していますので問題はないのです。この「分かる」ということは私が思考力をもって分かるのではないのです。理屈なく分かるのです。
・禅の修行は思考、想像が動く以前の「分かる」という処に注目するのです。この分かるという処が非思量なのです。
「非思量」を正確に述べますと思考、想像が生じた処をを停止せしめるのではなく、思考、想像の動く前の状態を知り体得して、それを維持する努力が非思量という修行の内容です。
ここの処を一般的に剣道や弓道や書道等の「道」のつく世界では無念無想といいますが、臨済宗では「正念相続」といいます。見性後に行う最も肝心な修行です。
「非思量」という表現は曹洞宗が用います。曹洞宗では初心者から熟達者まで、そして修行の最初から最後まで非思量です。但し、非思量という状態を全く知らない人には最初は数息観という方法を行わせ、その中から非思量を体得させます。
・「非思量」ということは人間にとって不可能ではないのか?
思量は人間の人間たる由縁ではないのか?
人間は考える葦であるとあの大思想家のパスカルも述べているではないか?
一切の思考の停止は考えられないと禅の修行者も含めて多くの人がいうと思いますが、坐禅指導書の古典である普勧坐禅儀や坐禅用心記にも書かれており、他の祖録、法語にもこのことは禅の修行の基本として書かれております。それらの指導書に従って実際に私がやっておりますから不可能ではありません。もし嘘だというのであれば、MRIでもMEGでも私を使って脳のデータを採って分析して見て下さい。必ず可能であることが証明できると思います。
・ここで話を非思量に戻します。
意識を消滅(忘却)せしむるのに、なぜに思考、想像の活動の停止をするという間接的な方法を用いるのか? 直接、意識を消滅(忘却)せしめる方法を採らないのか?
それは意識を消滅(忘却)するのに直接、意識をもって意識を消滅しようとしても、意識は消滅(忘却)されないということが経験上明らかになっているからです。
禅の修行はすべて経験則なのです。
現代以前の禅のあらゆる修行上の注意点や工夫の仕方や極意は、口伝といって師から修行僧に直接、秘密裏に伝えられてきました。つまり秘伝的要素が濃いものなのです。この口伝、秘伝というのは、禅宗に限らず当時の社会的、文化的、習俗的な慣習だったと思います。
禅の修行は昔からすべて実参、実究だけで文字には残さずに直接、師家から門弟や弟子である修行僧に今日まで連綿と受け継がれてきたのです。よって非思量の実際の工夫についての書籍、文章は必要がなかったのです。
一般的な免許皆伝は禅門では印可証明といわれます。禅門においては印可証明書を与えられる時に免許皆伝における虎の巻のような秘密の技術や特別の方法を記した秘伝書は与えられることはありませんので書いた文章として残らないのです。
印可証明書には師僧が当弟子の修行が成就したことを証明する文言しか書かれておりません。
話を前に戻します。
意識は意志を以って直接、消滅(忘却)することはできないので、頭脳(心)の中を「非思量」の状態を維持し続けることによって、間接的に意識を消滅(忘却)せしむる方法を用います。更に、厳密に申し上げますと「非思量」の状態を維持し続ける時に、解脱(悟る、身心脱落)を待つ心、期待の心、予期等の心を少しでも頭をもたげさせてはいけません。これらの心は皆、意識そのものの動きだからです。意識を消滅(忘却)せしむる時は意識を動かしてはいけないのです。意識に関することは一切、手付かずに放っておく(無視する)のが禅の修行における意識に対する正しい処し方です。
・道元禅師著の普勧坐禅儀(坐禅の手引書、極意書)の中で「念想観の測量を息めて作仏を図ること勿れ」と述べられています。
「念」は文字を用いる思考のこと。
「想」は像、形、色を用いる想像という思考のこと。いわゆる映像です。
以後これを「想像」と表します。
「観」は見ること、見渡すことですが、次に「測量」という心の中の働き(作用)の言葉がでてきますので、この観は外部を見ることではなく、心の中の働き、様子を見るといういう意味になります。つまり、この「観」は意識の動きそのものを示しています。
「念、想」は思考という頭脳の一つの機能です。
「観」は思考の機能とは別の意識の機能の一つです。これは意志をもってどうすることもできないので放っておくのです。
「念と想」は私達の意志で使うことも止めることもできる機能です。この機能を完全に停止せしむることによって意識の機能を根底から消滅(忘却)させるのです。
意識の機能を兎の毛ほども残らぬくらい完全に根底から消滅(忘却)させた後で、「念、想」の思考、想像の機能は元通りに用いることができますから心配はいりません。ゴータマ(シッダールタ)は沢山のお経を残していますし、解脱をした祖師方も解脱した後で多くの禅籍を残していることからも、解脱後の思考能力に何ら問題はないことが分かると思います。
・「念、想」の思考の機能を完全に停止せしめて、その状態をある一定期間(これは人によってまちまちで定めることはできません)維持し続けると意識が消滅(忘却)してしまうのですから不思議なことです。
この原理を今から約2,400年前にインドのシャカ族出身の出家僧ゴータマ(シッダールタ)が独力で人類史上初めて発見したのですから、その苦労は並大抵のものではなかったと思います。
仏教という宗教の指導の先達が一人も存在していない時代、ある時からゴータマは従来の諸宗教における難行苦行を止めて断食を止めて食事を普通に摂り、菩提樹の木陰に坐っているだけとなりました。その安楽な外見の様相を見て、他の多くの修行仲間や従者出身の修行僧達は、ゴータマが修行を止めて堕落したと非難し見放し立ち去りました。その中ゴータマはやり遂げたのです。それが仏教の始まりです。
意識の存在しない「自己」、つまり自己の中の自己、自己を観察している自己がいない「自己」が仏教という宗教の原点です。
・思考(念、想)停止による意識(自己の中の自己)の消滅(忘却)の原理(メカニズム)はいずれ脳科学の進歩により解明されると思います。
・意識が未だ残っている非思量の状態で心の中を観ると、意識は存在しているのみで変化はなく、増減もなく、強弱もなく、無味、無臭、無色、無形です。この時に思考を用いても、意識はそのことに何の影響も受けずに存在しているだけです。思考によって動く気配も変化もありません。
・今まで意識のことを様々に述べてきました。禅門(禅宗)では意識のことを我、自我、心、己我、身心、自己等々の語句を用いています。意識は自己のことです。自己は意識のことです。
道元禅師は「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは万物に証せらるるなり」とその著、正法眼蔵 現成公案の巻で述べております。
この文で用いられている「自己」は、いわゆる「自己の中の自己」「自己を観察する自己」のことです。つまり、意識のことです。自己そのものが意識なのです。意識そのものが自己なのです。
なぜ、そのように言い切れるかと申しますと非思量(思考、想像の完全停止状態)に至って心の中を観察してみますと、心の中にあるのは自己であり意識であります。それ以外に何もありません。それ以外の脳の働きによるものは、縁によって生じ、縁によって滅し、実体もなく跡形もなく即、生じ、即、滅していきます。非思量の心の中にある自己を意識と考えてもよいし、自己と思っても間違いではありません。明確な区別も差異もないのです。どこかで区別の線引をしようにもできないのが実状です。
・「脳と意識の地形図」の著者であるリタ・カーターは「意識」について次のように定義をしております。
「意識とは、基本的には私達が周囲の様子に気付いていて、気付いていることを自覚している状態」
・私はリタ・カーターに対して意識について以下のように定義いたします。
「意識とは基本的には私達が周囲の様子を分かっていて、分かっていることを知っている私」 私そのものが意識です。意識と私が別々に存在するのではないのです。
リタ・カーターは「意識とは自覚している状態」としていますが、私は「意識とは知っている私」とします。
意識は状態なのでしょうか? 意識は私なのでしょうか?
いずれ明らかになる時がまいります。
これは大変大きな認識の違いなのですが、実際の体験による自覚の違いでもあります。
・思考、想像、五感覚(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、感情、欲望、記憶の入力、出力等々の精神(頭脳)活動は私がなすのではありません。意識がなすのでもありません。なすべき主体はありません。
しかしそれらの精神(頭脳)活動がなされたことを知っているのは私です。五感覚、感情、欲望等の精神(頭脳)活動は縁(刺激)に間髪を入れない速さで即応するように生まれ付いた機能です。先天的な機能で、そこに私は介在しません。
縁に触れて心(頭脳、精神)が動いたことを知るのは私ですが、それは事実という縁にわずかに遅れてなされます。私が認識し動くのは事実に触れた後です。同時ではないのです。意識を自分の願望や欲に基づいてコントロールしようとすると、その本来の機能が狂っていく原因となります。
意識は精神的免疫機能(これは別稿で説明致しました)を司るのが一つの機能ですが、その為に常に外に向いているのが自然なのです。それを自分の心に向けるので、本来の機能が狂って、精神的自己免疫不全の状態になるということです。
禅では意識即自己、自己即意識という関係ですから、自己を変えようと自己の存在に手を付けることは、意識を変えようと意識の存在に手を付けることになります。それは自己による意図的な精神への侵略行為なのです。結果、精神的自己免疫不全を起こすことになるのです。自律神経が失調症となるのは当然です。
意識の存在は誰でも分かっていますが、それは分かっているだけにして気にせず放っておくのが、大人の正しい意識への対処の仕方です。
意識の存在が気になったり、気にしたり、意識に気持ちを集中してみたり、意識を邪魔にしてなくそうとしたり、自分の望む状態に変えようとしたりしてはいけないのです。
意識は我々の日常生活に支障なく存在し、私達の認識に関係なく、自律的に有益な働きをして存在しているだけですから無視しておけばおとなしいものなのです。
私達は不動の心になりたいとか、高尚な人間になりたいとか、プライドの高い人間になりたいとか、常に泰然自若としていたいとか、他者から評価される人徳のある人間になりたいとか等々の理由や願望で、自己(意識)を直接いじくりまわしてはいけないのです。人生の夢や希望に燃えた青少年や若年層の犯し易い間違いです。意識は気になっても放っておくのが正しいということを大人が教えてあげなければなりません。このようなことを教えてもらわないで、意識そのものを直接いじったりすると意識の本来の機能は狂っていきます。
一度、意識の機能が狂い始めると自己復元、自然復元がなされないので、一般の人では正常に戻すことは難しくなります。
・禅では自己を有我(有心)と無我(無心)に分けます。有我(有心)というのは意識の有る自己のことです。無我(無心)は意識の無い自己のことです。
禅では意識と無意識という使い分けはしません。実際に修行をして悟ってみると、そこには無意識という意識はないのですから当然です。
西洋の心理分析では理論上そうしないと、辻褄が合わなくなるので無意識という意識を作り出したのでしょうが、禅宗においては理論上ではなく、実際に有るか否かで判断しているのです。
西洋の無意識は、有意識の時における無意識です。無意識という意識なのです。つまり意識には違いないのです。
西洋における心理学、精神分析の無意識は、禅宗における無心(無我)とは全く別の概念です。西洋人には無我(無心)という実体験がないのですから、無心(無我)について論理的に展開をすることは無理があると思います。
見えてもいないのに見えている自分の様々は、意識によるものです。無我(無心)に至りますと自我(自己の中の自己、意識)が存在していないので、見えていない様々は存在していないということになります。客観的には身体は存在しているのですが、私の感覚の中に身体は存在していないのです。それでも日常生活には何の支障もありません。
解脱した禅僧にとって身体は?
見えていないから存在しない。
「目」は見えていないから存在しない。しかし視覚は働いております。
「口」は見えていないから存在しない。しかし物を食べ味覚はあります。
「鼻」は見えていないから存在しない。しかし香りを感じます。
「耳」は見えていないから存在しない。しかし音や声は聞こえます。
「身体」は見えていないから存在しない。しかし自由に動きます。
ここの処を般若心経では無眼耳鼻身意と説いております。その存在を知覚できないのですから無眼耳鼻身意なのです。これは解脱しなくても非思量を維持していくと確かにその通りだと理解できることです。
意識を私達は直接覚知することはできません。意識は様々な働きがあって、その存在を間接的に覚知するしかありません。
私達は、例えば精神上の自己や他己の存在で、或いは精神上の眼耳鼻舌身意の存在で、或いは精神上の身体の動きや姿勢で、或いは精神上の顔の表情で、或いは自己の中の霊魂のような主体の存在で、或いは自己の中に周囲の距離と方向を出す為の基点、中心となったり等で、その存在を覚知するのです。
そしてその特徴は「見えていないのに見えている自分の様々」です。実際に見えていないのに見えているのですから、便利というか不思議というか有難いことです。
見えていないのに見えている自分の様々は、見えていないので想像する自分の様々とは違います。私達の想像力による精神的行為は自らの意志によって生じるもので、外縁とは無関係に行うことが多いものです。
その像形に動きはなく固定的でスライド的変化のみです。私達が意志をもって想像している時は他の感覚の入力は一時ストップしてしまいます。意識には以上のようなことはありません。意識の機能に私達の意志は一切関与することができません。私達の心の眼で見えている様々は固定や停止することはなく常に動態です。一瞬たりとも停止することなく変化するので固定された実体はないのです。動態の故に私達の様々は透明感のある存在なのです。
常に動態の故に瞬時に様々な縁にためらうことなく適切に間髪を入れずに対応できるのです。
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2015.9.23
「威儀即佛法 作法是宗旨」
これは曹洞宗開祖 永平道元禅師の言葉です。
この威儀と作法は曹洞宗の宗教儀式や修行生活に於ける威儀と作法に限られたことと思っている方が多いと思います。しかし実際に非思量の修行生活をしていきますと、この威儀即佛法・作法是宗旨はそのような狭い限られたものを指すのではないことが分かってまいります。一挙手一投足そのものが宗教色を越えた動きをしているのです。宗教の生まれる以前の動きが作法であり宗旨なのです。あらゆる地域、あらゆる国、あらゆる民族のあらゆる宗教、あらゆる文化、あらゆる習俗、あらゆる生活の威儀と作法ということです。
無心は曹洞宗だけ日本人だけ日本文化だけに特有の精神世界ということではないのと同じです。無心は宗教も文化も国も民族も限定されないということです。
普遍的な精神世界です。ただ気がついていないだけのことです。気がつかないから存在しないということではありません。
このことに異議のある方は、仏心(無心)は「法界に充満し」或いは「遍界に普ねし」という言葉を思い起こして下さい。
無心は我々の心の中にあらゆる人間的な価値観、様々な文化、習俗、宗教が生まれる以前の心の様子です。仏法も人の是非善悪の生まれる以前の心の働きです。宗旨(仏法の総府の宗旨であり、曹洞宗として限定された宗旨ではありません)も人の思慮分別の動く以前の心の作用の様子のことです。
禅の修行者は目の付け所を間違わないようによくよく注意しなくてはいけません。
無心から生まれる宗教も文化も習俗も、決まったもの定まったもの必然的なものはありません。無心に至ると必ずこのようになるという威儀・作法の因果関係もありません。無心からもたらされることは真の自由と真の満足と無畏と慈悲です。あくまでも心の中のことです。その表出は様々です。
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2015.10.20
「諸行無常」「諸法無我」「縁起」
これは仏陀が説いた、この宇宙の真理です。例外のない普遍の原理です。人間の心も例外ではありません。宗教の世界も例外ではありません。
しかし、現代の欧米の科学の世界では未だ、これらが真理であるとは証明されていません。現代科学は欧米で確立し発展してきた真理の証明法の上に成り立っています。
欧米はキリスト教圏です。そこでは仏陀の諸行無常も諸法無我も縁起の法も認めることはないのです。なぜなら、もし異教徒、或いは邪教と捉えている仏陀の教えを認めたならば、キリストの神の存在はどうなるのかということです。キリスト教圏の人心の混乱は極めて重大な事態をもたらす可能性が大です。
この世が諸行無常ならば、キリストの神の常住存在が否定されてしまうことになるからです。つまり、いづれ神も滅する(死ぬ)時が来るということになるからです。
また、この宇宙が諸法無我ならば、神の意志の存在がないことになるのです。
仏陀は森羅万象はすべて、縁によって生じ縁によって滅すると説いたのです。原因も結果もなく始めも終わりもないということです。原因も結果もなく、すべてが縁によって変化していくと説くのです。
諸法無我ということは、この宇宙の存在すべてが無我であり、その主体、主人公となるべき神のような存在はないということです。また、神やその他、誰の意志も入るものではないということです。
仏陀の教えでは、神の御心も意志も、この宇宙には存在しないこととなるのです。また、宇宙を司る主体としての神の存在も否定されることとなるのです。
また、縁起がこの世、宇宙を支配するならば、神の御心や意志の入る余地が全くないこととなり、神の存在は否定されることとなるのです。
これでは仏教はキリスト教圏では絶対に認めることのできない宗教です。
これらのことが仏教(禅)がキリスト教圏に浸透していかなかった最大の理由であると思います。
仏教(禅)はあまりにも科学的すぎるのです。神秘や奇跡や霊性の入る余地がないのです。
仏教圏の、その社会は迷信的、宗教的、情緒的、多神教的非合理性の社会なのですが、その教えの根本(精神的基盤)は極めて科学的なのです。
その一方でキリスト教圏の、その社会は極めて科学的、論理的、理性的であり合理的であり効率的であり経済的なのですが、その教えの根本(精神的基盤)は極めて非科学的なのです。
それぞれ極めて矛盾していますが、それぞれ上手にバランスをとっているのです。
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2015.10.20
仏陀の宗教的正しさの証明方法は、現代の科学の新発見の正しさの証明方法と全く同じです。現代の科学界では誰かが新発見をすると、その発見が正しいか否かは他の複数の科学者によって同じ条件で同じ方法で追認実験が行われます。そして、その発見者と同じ結果がどの科学者にも得られれば、その発見は正しいと証明されたこととなり、社会でその正しさが認知されることになります。つまり、新発見の科学者の正しさを証明するのは本人ではなく他の複数の科学者達です。
かってキリスト教が支配していた西欧社会では真理、原理の正しさは全知全能の神がその証明権を独占し人間の入る余地はありませんでした。
ところで、仏教の開祖であるシッダールタ(ゴータマ=仏陀=お釈迦様)の宗教的正しさの証明をしたのは誰なのでしょうか?
聖人であり大宗教の開祖であるので、仏陀の宗教的正しさを証明したのは、この宇宙を司る神様であろうと思うのが一般人です。人間以上の方であると思うのが普通です。
しかし、実際に仏陀を間違いなく宗教的に正しいと証明したのは、直系の一番弟子である摩迦迦葉尊者です。また、弟子の摩迦迦葉尊者の宗教的正しさを証明したのは、他ならぬ師僧であるシッダールタ(ゴータマ)です。
その摩迦迦葉尊者とシッダールタの正しさを証明したのは、摩迦迦葉尊者の直系の一番弟子である阿難尊者です。阿難尊者の解脱を証明したのは、彼の師僧である摩迦迦葉尊者であり、その師のシッダールタです。阿難尊者の宗教的正しさを証明したのは、阿難尊者の直系の一番弟子である商那和修大和尚です。
このようにして次々と相互に同時に証明に証明が重ねられ、日本の永平寺開祖 道元禅師に伝わる時には、最直系、最優秀者52人(1仏51組)もの証明が相互に同時に重ねられたのです。年月にしてみると約2,400年もの年月が重ねられ次々に相互に同時に証明が受け継がれてきました。
人間、シッダールタの解脱を最初に証明したのは、人間、摩迦迦葉尊者です。それも師、弟子相互に同時にということが仏教という宗教の特徴です。
仏教は修行を成就した人間が、修行を成就した他の人間の宗教的正しさを相互同時に事実と実体験をもって証明するのです。現代科学の正しさの証明方法は今より約2,400年も前にインドにおいて既に行われていたのです。
それを始めた人は、どなたでも知っている釈迦族の族長の王子であるシッダールタです。この方は王家から出家されて修行し悟られて世界三大宗教の一つである仏教を創始しました。
他の二つの宗教、キリスト教とイスラム教はこのような方法で自らの正しさや正統性を証明してはいません。彼らの証明方法は王権の正統性の証明方法と同じです。
その正しさを証明し権威付与の証明方法は、この宇宙を支配する神という存在を前提にして、その神が彼らの正しさ、正統性を証明したとしているのです。
キリストは全知全能の宇宙の神の信託を受けたのです。キリストの正しさ、正統性を証明し権威を付与したのは、誰も見たことも接したこともない、誰もその存在を証明したこともない全知全能の父なる神なのです。
イスラム教のマホメットにしても同様で、彼の正しさ、正統性を証明し権威を付与したのはアッラーという神です。
彼らは人間ではないのです。何だか分からないのですが神なのです。
この他、どの宗教も皆、その開祖(始祖、初祖)の正しさ、正統性を証明し権威を付与したのは、この宇宙の何処かに住まわれ、この宇宙の創造主とされ、或いはこの宇宙を支配し司っている人間以外の存在である神です。
現代では仏も神の部類に入れられて、仏も神のような扱いとなっているのが実状ではありますが・・。
仏教においてはその正しさを明らかにする為に、冒頭で示しましたように、相互の実体験という極めて科学的な証明方法を用いているのです。この証明方法が現代まで連綿と続けられて今日に至っております。
近年、後進の禅僧が身心脱落の実体験を目指して、あえて仏道の正しさを証明しなくても、宗祖が実体験をして既に証明しているのであるから、それは「正しいのである」と信じればよいとされるようになりました。
我ら後進の禅僧は、身心脱落の体験をしなくても、その正しさを愚直に信じきればよいのであるとされているのです。
この開祖、或いは宗祖を「信じきる心」こそ、正統な信仰なのであると説く近代、現代の禅の高僧方によって、安楽の法門である禅の厳しい修行は、文字通り安楽になりました。
これを一般的に宗教的堕落というのです。禅という仏道の本質がここから変わるのです。残念です。
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2015.10.20
ソクラテスの哲学の世界と道元禅師が著された正法眼蔵の世界(無我の世界)とは交わることはありません。現代人のソクラテス的哲学の思考の中からは、決して正法眼蔵の「忘自我」 つまり無我(無心)を考え出すことはできません。
なぜなら、無我は思考の活動を継続的に停止することによってもたらされる心の状態であるからです。一時の思考停止状態、茫然自失、俗に言う「頭が真っ白になる」状態のことではありません。
思考(思索)の学問である西洋哲学には、「無我」とか「無心」を表す言葉(用語)がないことからも、このことは理解できるものと思います。
ソクラテス的思考にどっぷり浸かった現代人は思考に頼りすぎです。考えることによって、あらゆる人類の問題が解決すると考えることは誤りです。思考の限界と役割を知るべきです。そして、思考を離れた精神活動や心の外の世界の事実、実際の中に、人が求めている精神生活や精神的価値のすべてが揃っていることに気が付かなくてはいけないのです。
事実、実際の中に人が望み求めているものが何一つ欠けることなく完全に揃っていることを、曹洞宗開祖 道元禅師は「道本円通如何修証を仮らん」と表現しております。
このことは今から約2,400年前にインドのシャカ族の王子として生まれたゴータマ(シッダールタ=仏陀)が人類史上初めて気付いたのです。
「無我」という精神世界の人類最初の発見者です。
現代ならノーベル賞ものです。
現代人も思考や言葉によって人類のすべての苦悩を解決しようとすることを暫く止めて、事実や実際に学ぶ生活をするとよいでしょう。考えや思いは何もいらないのです。そして、心に何も足さず、何も引かず、一切の思考を離れて初めて、自由を得、満足を得る道があるということに人類はそろそろ気が付かなくてはならないと思います。
この道を仏道、或いは禅といいます。
理論的に宇宙に存在するといわれている「ブラックホール」に対して、全く逆の原理「ホワイトホール」が存在すると考え出し提唱した科学者が現れたように、西洋文化の思索の産物である「哲学」に対して、思索を完全に離れたところから生み出される「反哲学」という学問領域を創りあげる者はいないのでしょうか。
仏陀が有我(有心)に対して無我(無心)を発見したように・・。
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2015.10.20
忘れることができないと、人の心は決して満足することがないということを知っている者は稀です。
人は恣意的に覚えることができても、心に傷を残すことなく、或いは心を歪めることなく、心に抑圧を続けることなく自然の姿で恣意的に忘れることはできません。
覚えなくてはいけないことを恣意的に覚えることはできます。忘れないようにすることもできます。覚えなくてはいけないことを覚える技術を知っているからです。忘れないようにする技術も知っているのです。
しかし、人は忘れなくてはいけないことを意図的に心を歪めることなく忘れることはできません。一般人は忘れる技術(方法)を知らないからです。もし意図的に忘れることができるという者があるとすれば、それは無理な抑圧によるものです。その結果、その者は心が不自然に歪んでしまうことに気が付いていないのです。
人は今まで忘れてはいけないことを忘れる為の技術を習ったことがありません。人間社会では忘れるということは無能の証なのです。
故に、忘れるという技術を真剣に考えた者はいなかったのです。しかし、今から2,400年前頃、稀にも、忘れるということの大切さ、意味を初めて知った者がいました。そして、忘れるという技術を人類史上初めて確立した者がいました。
それはインドのシッダールタ(仏陀)です。
彼は徹底的に忘れる技術を実践と理論で作り上げたのです。
彼は徹底的に忘れるということを人類史上初めて体験して様々なことを知り得ました。
例えば、諸法無我。
例えば、諸行無常。
例えば、因果の道理。
例えば、涅槃寂静。
仏祖はこれを仏法と名付けました。
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2015.10.21
忘れることができるが故に、人は自由になれるということを知っている者は稀です。
真の自由は自らを縛っている「自己」を忘れることによりもたらされるのです。このことは約2,400年前にインドのシッダールタ(ゴータマ=仏陀=お釈迦様)が発見しました。
しかし、このことは全人類で共有せずに、僅かに日本の禅僧のみが細々と現代まで受け継いでいるに過ぎません。
あの一休さんも良寛さんもその一人です。
現在、自由を得る為に自らを縛っている自己をどうすればよいかを知っている者は、この日本でも極めて少なくなっています。自己を忘れる以外に、真の自由に至る道はないことを西洋文明は未だに知らないのです。
西洋(欧)文明は考え記憶することにのみ価値を認め、忘れることの価値を認めていないのです。
人類は覚忘両方の価値を認めないと、真の幸せ、自由に至ることはないことを認識しなければならないのです。
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2016.2.14
「死にたくないから死にたくない」
「生きたいから生きたい」
「死にたくないから生きたい」
「生きたいから死にたくない」
これでは死にたくない理由にはなっていませし、生きたい理由にもなっていません。
人は死にたくない理由を様々に述べます。人は生きたい理由も様々に述べます。しかし、本当の理由を求める人は多くはありません。
死にたくないのは生物として自己保存本能を全うする為であることは確かです。生きたいのは生きとし生けるものとして自己保存本能を全うする為であることは間違いありません。
しかし、私達は生きることを自己保存本能を全うする為であると自覚することはありません。
実際に私達が死にたくないのは、死に対する恐怖心、不安感、嫌悪感があるからです。生きたいという原動力は死に対する恐怖心です。死ぬことは人間が生まれてきた宿命です。誰も逃れられないことです。それは大人から子供まで誰でも知っていることです。そうであるのに死にたくないのは死の恐怖が最大の理由です。年老いて80才になっても90才になっても100才になっても死は恐ろしいのです。80才や90才になっても生きなければならない理由はありません。また、80才、90才になって死ぬことは当たり前ですから、生きたいという欲望も他の欲望と同様に減退して当然ですが、死にたくないという欲望は減退しないのです。それは死に対する恐怖心、不安感、嫌悪感が年老いても減退しないからです。これは生きたいといういうのは「欲望」ではないという証です。
死に対する恐怖心は坐禅によって、恐怖心を司る心を取り除くしか道はありません。死に対する恐怖心は自己の中の自己である意識が司るのです。それは禅の修行によって自己の中の自己、つまり意識が脱落(消滅、忘却)すると、死に対する恐怖心が消滅することによって知ることができます。
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2016.2.14
禅の修行(坐禅)によって、自己を完全に忘却する(脱落する、消滅する)と死の恐怖がなくなります。
禅の修行はその中心が精神上(頭脳の活動)、非思量の状態を維持することですから、禅の修行の過程で死について考察することは一切ありません。禅の修行は生老病死の苦悩とは絡めることなく無関係に進められていくのです。
死の恐怖がなくなるのは、自己つまり意識が完全に自己の心の中から忘却される(脱落する、消滅する)ことによりもたらされることは確かです。
死への恐怖がなくなってしまうということは、何が何でも生きなければならないという欲望が消滅してしまったことを意味しています。死を恐れること、何が何でも生きたいということを現代の生物学的用語を使用して言い換えますと、自己保存本能ということでしょう。
人が生きたいという理由は表面的には様々あるでしょうが、その根底には死への恐怖があります。それは生得的なものです。それは理由なく瞬時に動くものです。
その反面、生きたいという欲望は瞬時に動くことはありません。この処は自らの心をよく観察すれば分かることです。
死の恐怖が生ずることがなければ、生きるも死ぬも神仏の召されるままで、何も苦悩することはないのです。皆、「縁」で片付けられることで、人生の一大事といわれるほどのこともないのです。
死はあたかも眠るが如く、再び目覚めることのない永眠でしかないのです。生きるも良し、死ぬも良しの心境で人生を送るのですから、誰でもあこがれる素晴らしい心境だと思います。まるで悟りを開かれた禅僧の境涯です。
死への不安、恐怖がなくなることは生物学的には自己保存本能の機能が停止或いは消滅したことを意味しています。
坐禅によって自己の中の自己(意識)が忘却された(脱落した、消滅した)ことによって死の恐怖がなくなってしまったのですから、それは「生」を担保する機能が停止或いは消滅してしまったことを意味しています。「死」の恐怖心は「生」の欲望を生み出すものです。我々の「生」を担保する機能は自己保存本能が担っています。
悟り開いた禅僧は死に臨んでも泰然自若として不安も恐怖もないことは昔から知られていることです。
禅僧の死に際の逸話は坐脱立亡という言葉で数多く残されております。
次に禅僧の残した死についての言葉をいくつか紹介いたします。
・至道無難禅師「即心記」
「死をいとふは死を知らぬ故也」
「是非を離れ、自他の隔てなく、身念すきっと消えてなき人、生死万物をはなれ、解脱を得るなり。」
・東福聖一国師
坐禅の用心、一切善悪すべて思量することなかれ。此の句は直に生死の根源を裁断する処なり。
・永平仮名法語
仏祖は一切の諸法に於いて一念も生ぜずして無念なるが故に生死に於いて自在を得たまへり。衆生は一切の万物に於いて念を生じ、著の念のあるが故に生死に流転して苦を得るなり。
・大燈国師
念を収めて未だ生ぜざる前の面目を見よ。生まれざる以前と死して後は一つなり。生まれざる以前を知らば死して後も知るべし。生まれざる以前は地獄もなし、極楽もなし。
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2016.3.1
現成公案
・「仏道を習うというは・・・自己を忘るるなり。自己を忘るるというは万物に証せらるるなり。万物に証せらるるというは他己の身心及び自己の身心をして脱落せしむるなり」
・「自己を運びて万物を証するを迷とす。万物を運びて自己を証とするを悟とす」
仏教の目的は自己を忘却(消滅)することだと述べております。
次に自己を忘れるということは、自己の中から他己の身心と自己の身心の両方が消滅してしまうことだと述べています。
自己の消滅だけでは不充分で正しい身心脱落ではありません。自己の中から自己と他己の両方が同時に忘却(消滅・脱落)してしまうのが正しい成道であると述べているのです。
以上をふまえて「万物に証せらるる」と「万物を運びて自己を証する」について説明いたします。
「万物を運びて自己を証するを悟とす」の「万物を運びて自己を証する」というのは身心脱落をしてしまうと自己の中の自己が消滅してしまうので、自己を認識(自覚)することができなくなってしまうのです。自己の中に自己を認識(自覚)する機能を荷う自己が消滅してしまっているからです。
@自己が自己である為には自己の中の自己の存在がなくてはならないのです。自己の中の自己が自己であることを認識する機能を持っているからです。
A自己が自己であると認識するのは、自己の中に自己があるが為なのです。
「万物に証せらるる」とか「万物を運びて自己を証する」という説き方は、自己を認識(自覚)する自己を、坐禅の修行によって脱落(忘却・消滅)しまった様子(心理的状況)の宗教的表現であり、言い回しなのです。この内容は常識では計り知れないことなので難解です。文全体が詩的表現を重視して書かれている為に説明的表現が少なく、尚更に分かり難くなっています。
私は現代の教育を受け現代の社会に生きている禅宗の僧侶ですから、現代的表現や言い回しを用いています。
そして私が文章を書くのは、他者に読んでもらい、私が伝えたいことが正しく伝わることが重要であると考えています。
私の禅の文章を、日本に拘らず全世界の縁のある人・ない人、禅の素養のある人・ない人、禅に関心のある人・ない人々等々がたまたま手(目)にした時に、何れの人々にも理解されるようにしなくてはならないと考えて書き上げました。
禅の世界の論理の筋を現代人が受け入れることができるように通し、祖師方の法語の意味を現代の人々が理解し易いように深く深く洞察して宗教性よりも宗教以前の人の本質に視点を置いて説き、展開しています。
宗教性、神秘性が損なわれると考える禅者もあると思いますが、それを問うにはそもそも宗教とは何かということが明らかになっていなければなりません。
宗教とは何か? 宗教の目的は何か? 宗教の修行とはどういうことか? ということについて私の文章の宗教性を問う宗教者は、どなたも自ら明らかにすべきです。それがなくして宗教性を私や他の宗教者に問うことはできないと思います。
私の宗教とは何か等々については別稿にて掲示いたす予定です。
「万物を運びて自己を証する」「万物に証せらるる」というのは、自己の中の自己(私)が身心脱落して存在していない為に、自己の心の中がすべて万物のみになってしまうということを述べているのです。
非思量の修行をしていきますと、自己の心の中に一切の思考・想像が存在しなくなります。その時に心の中にあるのは自己の中の自己、つまり意識のみが存在しています。そして非思量を続けていきますと身心が自然に脱落します。この身心というのは自己の中の自己のこと、意識のことなのです。心の中から意識も消滅してしまうと心の中には何も残っていないのです。自己を自己と証明するものが何も残っていないのです。
そうすると自己を証明するものは、眼耳鼻舌身の五感覚の機能の働くことによってであると述べています。
それは例えますと一点の汚れ・傷のない無限大(際限のない)の鏡のようなものです。無限大の一点の汚れも傷もない鏡は光があって物を映すことよって、鏡という自己の存在を証明するのです。鏡それ自体は光や物が存在しなければ、自らの存在を証明するものや機能を備え持っていないのです。
鏡は万物を映すことによって自己の存在を証明するのです。
「万物に証せらるる」というのはこの例えでよく理解できると思います。
人の心は本質的にそのようにできていると理解して下さい。
このことは祖師方が禅の修行をして悟ることによって明らかにし、説き示したことです。もしこのことが本当に正しいかどうかを検証したかったら、あなたも自ら実際にやってみるとよいと思います。期待しています。
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・「脳と意識の地形図」リタ・カーター著 (藤井留美訳)
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2015.9.20
賽銭箱の正面に書かれている言葉です。
喜捨とは「お金をこの箱の中に喜んで捨てる気持ちで入れなさい」という意味です。
賽銭とは「願い事を聞き届けてもらう為の礼金ではないのです」という意味です。
お金を欲しい、惜しいと思う心を捨てさせる為です。お金はいざとなれば捨てられても、お金は大切、お金が欲しいと思う心までは捨てられないものです。まして、その心を喜んで捨てるなんてことは常識では考えられないのです。その本意とするところは、人を苦しめる元である名聞利養から離れさせる為です。名聞利養から離れさせるのは苦悩のすべての元である自我を捨てさせる為です。自我(自己)への執着を離れさせる為です。ここで誤解のないよう言っておきますが、仏教(仏道・禅)は執着心を悪とは捉えていません。執着心を苦悩の元凶とは考えていないのです。執着心がなければ、苦しい修行を何十年と続けられはしないのです。執着心がなければ、陰徳も積むことができないのです。善行を行い続けることもできないのです。執着心は仏道を成就する為にはなくてはならない心です。何に執着心するかが問題です。
目の付け所を間違わないように・・。
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2015.10.21
真の禅僧は「その場がこなけりゃわかんねえ」とは言いません。
「引導は無事なる時に受けたまへ、末期の旅におもむかぬうち」これは一休禅師の歌です。
これが禅僧の言葉です。
取り敢えず、「その場がこなけりゃわかんねえ」という言葉を信じたとして、死に臨んでそんなことを言っていられるでしょうか?
その場がきてわかったところでどうするのでしょう? 苦しむ事、この上ありません。
何時間余裕があると思いますか?
死に臨んで、間に合わないと思いませんか?
余命はどのくらいあると思っているのでしょう。
その場がきて急いで修行したところで間に合いますか?
後悔することこの上ありません。こんなことなら前もってやっておけばよかったと・・。
仏陀はその場がこなけりゃわかんねえとは言っていません。
無常の故に、急いで前もってやるべきことをやっておきなさいと言っています。
あの白隠禅師も死んでから落ちるとされている地獄が恐いといって若い時から修行しました。
誰でもその時がいつか必ず来ることはわかってはいるのです。
その為にすべきことをまず第一にしておかなくてはなりません。
その時を無事に乗り越える為に、仏陀も白隠禅師も一休禅師も良寛禅師も前もって行ったのです。まず第一にそれを行ったのです。そしていつ死んでもよいようにしておいたのです。
その場がこなけりゃわかんねえところの不安も恐怖も絶望も孤独もすべて、その場がこないうちに乗り越えたのです。
彼らはその場がこなけりゃわかんねえなどと言わずに修行に励みました。
道元禅師も修行は「諸行は無常の故に、頭燃を救うが如くすべし」と・・。
つまり、明日の命もわからないのですから燃えた頭の火を振り払うが如く、取るものも取りあえず急いで修行しなさいと説いています。
道元禅師も、その場がこなけりゃわかんねえと、前もってやっておくべきことを先送りにするようなことは言いません。
痛快な心地よい言葉にご用心ご用心。
禅僧の禅僧臭い言葉にご用心。
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2015.09.20
近頃、世の中が穏やかでなくなった。
世の人の記憶力が良くなった為か?
近頃、世の中が平穏に感じられなくなった。
世の人が忘れなくなった為か?
近頃、世の中が安らかでなくなった。
世の人が忘れることの価値を忘れてしまった為か?
人は取るに足らない事でも忘れなくなった。
人は忘れるべき事も忘れなくなった。
人は忘れてあげるべき事も忘れなくなった。
「許す」ということは「忘れてあげる」ことだということを忘れてしまった。
「許す」というのは文字通りに「許してあげる気持ちになる」ことではないのです。
このことに殆どの人は気付いていません。
「許す」などというそんな気持ちは、いつ変わるかわかったものではありません。
何かある度に再び思い起こして、非難や愚痴を始めるのが常です。
「あの時は・・」と言って残念がり、「ああしなければ・・」と言って非難し、「ああしたもんで・・」と言って愚痴を始めるのです。
「許す」ということは、「本当に忘れてあげること」ということを知らなくてはいけません。
本当に忘れ切れなくても、本当に忘れた風(真似)をすることだけでもよいのですが・・。
それも大切なことです。
自分がくだらない人間にならない為にも、それは必要なことです。
心穏やかに日々を過ごす為にも、それは必要なことです。
「忘れてくれる」ことの価値は幼児に学ぶとよいのです。
幼児は優しい。
親の犯した過ちを、みんな忘れてくれるから。
こんな嬉しいことはありません。
幼児は神の子・仏の子といわれる由縁です。
忘れてくれる人は慈悲深いのです。
大人は、忘れてくれることこそ、真に許してくれることだということを知らなくてはいけません。
このことをよくよくかみしめて子供を育て、人に接していかなくてはいけないのです。
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2015.10.21
忘れることができるが故に
他者を許せるということを知っている者は稀です。
他者を許すということは
忘れることだということを知っている者も稀です。
戦後 忘れることが苦手な者が増えました。
水に流せないのです。
過去に執着するのがよいと考えているのでしょうか。
過去の記憶を忘れることは悪と考えているのでしょうか。
忘れることができないが故に
水に流せないのだということを知らないのです。
現代人は理知が人の価値を高めると考えているのです。
利巧なばかりで大愚ということを知らない者が増えたのです。
人の価値を高めるのは理知ではないのです。
何を忘れるべきであるかを知っている者です。
「愚の如く魯の如し」
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2015.10.20
私はふだんのままが好きだ ふだんのままは静かでよい。
特別なことはいらない ふだんのままがよい。
私が逝く時も ふだんのままがよい。
誰かが涙するであろう それもふだんのままだ。
見慣れた光景だ。
誰かが、二言、三言、話を交わすこともあろう・・。
それもふだんのままだ。
多勢の人々が野辺送りをする 葬列は静かだ。
それもふだんのままだ。
幼い時に遊んだ草原にはとんぼが飛び交い、
小川の土手には彼岸花が咲く。
その中を葬列は続く。
私の幼い頃と少しも変わらない。
私の眠る墓を金木犀の香りが包む。
ふだんのままだ ふだんのままは静かでよい。
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2015.10.20
人の出会いは
人が人より生まれることから始まる。
人はよき誕生を自ら選ぶことはできない。
人はあしき誕生も自ら選ぶことはできない。
よきもあしきも選ぶことはできない。
人はよき出会いを選ぶことはできない。
人はあしき出会いも選ぶことはできない。
よきもあしきも選ぶことはできない。
人はよき死を選ぶことはできない。
人はあしき死も選ぶことはできない。
よきもあしきも選ぶことはできない。
何でも自分で決めてきたと考えているあなた。
人は縁というものを選ぶことはできないということを知らなくていけない。
これを知らない人に苦悩が生まれる。
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2015.10.20
よき出会いといえども
あしき別れとなれば、
これはよき出会いとはいわない。
あしき出会いといえども
よき別れとなれば、
これはよき出会いであったといわなければならない。
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2015.10.20
己の眼をもってものを見る。
ここに自由はない。
己をもって他者を見る。
ここに安らぎはない。
己の眼を忘れてものを見る。
初めて自由を得る。
己を忘れて他者を見る。
初めて安らぎを得る。
この道を禅という。
「無眼耳鼻舌身意」
魔訶般若波羅密多心経に出てきます。
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2015.10.20
塵一つ動かさずに、
人生の問題を解決するのが大人の在り方。
他者を動かさずに、
人生の問題を解決するのが大人の在り方。
周囲を一つも変えずに、
人生の問題を解決するのが大人の在り方。
人生の問題解決を他者に求めることなく
人生の問題解決を他所、他事に求めることなく
人生の問題解決を自らの心に求めるのが
正しい大人の在り方です。
このような道が禅の道です。
誰も思いもよらない道です
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2015.10.20
人は必ず死ぬ これは真理?
諸行無常 これは真理?
真理に迷いはないはず。
あなたはこれらのことを知っていながら未だに迷っている。
あなたはこれら真理の知識が充分にありながら真理に迷っている。
なぜ、真理を知っているのに迷うのか?
あなたは真理という言葉を知っているのであって
真理の実際を知っているのではないからです。
あなたは「必ず死ぬ」という真理を示す言葉を知ってはいるが
「死」という真理の実際を知っていないからです。
あなたは「諸行無常」という真理を表す言葉を知ってはいるが
「諸行無常」という真理の実際を知らないからです。
真理にあなたの言葉はいらない。
真理にあなたの知識学問は一切必要ない。
真理にそれを知るあなた自身もいらない。
さあ どうする?
「諸法無我!」
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2015.10.20
ちょうどよいあんばいに もう一押し。
これで少し修行になるか?
ちょうどよいあんばいに もう二押し。
これで少しましな修行になるか?
ちょうどよいあんばいを捨てて もう一押し もう二押し。
これで本当の修行になる。
ちょうどよいあんばいは駄目だ
壁を打ち破ることはできない。
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2015.10.20
「どう動く」で迷うことはない。
「どう動く」かを決めるよりも 「その時」無心であることを願うとよい。
無心はその時に間髪を入れない無上の動きをするものだからだ。
これ以上の動きはない。
剣聖が尊んだ理由だ。
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2015.10.20
その時どう動く
あなたが今決める必要はない。
今あなたがすべき事は常に無心でいることだ。
常に無心でありさえすれば
どう動くかは
その時に神仏がお決めになられる。
神仏は無心の心の中にその姿を現す。
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2015.10,20
その時どう動く
最善の動きは「間髪を入れず」が鉄則だ。
何事につけ分別をするのが人の常。
分別はあまりに遅すぎる。無分別がよい。
無分別なら「どう動く」はいらない。
無分別は間髪を入れない動きをするからだ。
無心から生じる分別を無分別という。
無分別の動きをする者は
自らの無分別を識ることはできない。
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2015.10.20
電光石火に人の意の介在が許されるのか?
許されたとしても、意の介在には時間がかかりすぎる。
すべての森羅万象の動きは電光石火。
人にとってゆったりと見えることでも皆、電光石火の急です。
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2015.10.21
若いうちに、情熱のあるうちに、
一番大変なもの、一番難しいもの、一番大事にしているものを捨てるとよい。
一番大変なもの、一番難しいもの、一番大事にしているものとは何だかわかりますか。
一番大事にしているものは、一番あなたを悩ませ苦しめるものとなります。
一番あなたを悩ませ苦しめるものは、あなたが一番大事にしているものです。
あなたが一番大事にしているものは、
お金? 地位、名誉? 自尊心? それとも命ですか?
皆、大事なものでしょうが、まあ つまるところ命でしょう。
命を捨てることができれば、あらゆる苦悩を解決することができます。
命を捨てた者ほど、強く自由なものはありません。
情熱はいつまでも続くものではありません。
どうでもいいものは放っておいてもなんとかなるものです。
どうせ捨てようと目指すなら、一番捨てたくないものから捨てるとよい。
いつまでも若いわけではないのだから。
一番大事にしているものから捨てるのがよい。
それが仏陀の教えです。
それが禅の導き方です。
(ここで使用の「命」という言葉は、生き死に関係の「命」ではありません。「命」は自我、自己、意識等の意味です。)
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2015.10.21
「どうでもいいものから捨てていくんだね」という人がいます。
そうすれば順番に軽いものから重いものへと進み、
楽に捨てられると思うのでしょう。
どうでもいい煩悩は幾つあることか? それは無限です。
一生涯かかっても捨てきれるものではありません。
これは逆にしたほうがよい。
どうでもよくないものが悩みの元。
どうでもよくないものが自分を一番苦しめる。
これらは確かなこと。
一つを捨ててすべてを解決する道が一番よい。
元を断つのです。
蚊を一匹づつ殺すより水溜りを埋めた方が早い。
禅僧が「大死一番」というのはこのことです。
(ここで使用の「死」という言葉は、生き死にの「死」ではありません。「死」は自我、自己、意識等を消滅させる意味です。)
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2015.10.21
世の中には完全、不完全というものがあります。
人間は不完全です。
このことは私達は常識的に知っています。
完全な人間は実際にはあり得ないということも皆、知っています。
完全なのは神だけです。仏だけですということも知っています。
それでも人間の完全、不完全を問題にすることは無意味だとは思っていないのです。
人は不完全であるが故に、完全により近づくべく努力していくのが正しい生き方だと考えています。
実際にそのような生き方をしている人は少ないのですが・・。
宗教というのは人格の完成を目指しているというのが一般常識だと思います。
皆、この常識に異論はないことでしょう。
しかし、この見識ある常識をよくよく考えて下さい。
人間の完全、不完全にどのような意味があるのかと・・。
仏教の開祖 お釈迦様は私達に完全になれとは言いませんでした。
人間の完全、不完全を一つも問題にしておりません。
人間に完全、不完全の別があるとも申しておりません。
お釈迦様がお説きになったことは、人間はなぜ悩み苦しむのか、その原因は何か、それはどうすれば解決できるのか、解決すればどうなるのかということしか説いておりません。
人間の完全、不完全よりも、このことの方がどの人にとってもはるかに重要な問題のはずです。
つまり、老、病、死等の四苦八苦のあらゆる苦悩から救われる(解放される)ことはできるのか?という問いに対する完全な答えです。
その中に人間の完全、不完全ということは、一つも説かれていないのです。
人間の完全、不完全を問題にしたところで、人の幸せにとっては全くの無意味だからです。
人間の完全、不完全と苦悩からの解脱には、相関関係はないのです。
幸せになりたいと思い、納得のいく人生を歩みたいと願って人格の完成を目指して悩んでいる君。これで一安心だろう。
人目を気にしないことです。
人の評価を望まないことです。
たとえば、孤島で暮らす自分を想像してみて下さい。
孤島で自らの完全、不完全を問題にしてもはじまりません。
他人の評価のない世界では、人格の完全、不完全は価値がないのです。
他人の視線のない世界では、自らの完全、不完全は問題にならないのです。
他者との比較のない世界では、自らの完全、不完全は意味がないのです。
それよりも苦悩の解決の方が大切なことを知ることでしょう。
孤独の苦しみ、病の苦しみ、老いの苦しみ、死の苦しみ。
これは人格の完成とは無縁です。
人格の完成を目指すより覚者となることです。
つまり、無心の人となることです。
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