曹洞禅 修行僧

大角幻了おおすみげんりょう

坐禅の実践と自意識の解放 

悟りへの飽くなき挑戦を続けましょう

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『 第三章 』

-目次-

  1. 「生死事大」
    −生きながら死ぬ修行(生きたまま死ぬのです)−
  2. 祖師方の語録は初心者には難解です
  3. 「霊魂の存在の否定」
  4. 「自己を忘ずる」とは知識・経験の忘却ではありません
  5. 身心脱落に至るの為の必要条件
  6. 頓悟とんご禅と漸悟ぜんご禅と頓悟漸修とんごぜんしゅう
  7. 悟りを開いた禅僧は剣の達人?
  8. 悟りを開いた禅僧から学べること
  9. 「只管打坐」−ただ坐る・・・・ということ
  10. 一瞬の非思量
  11. 悟りと感情(死の恐怖)
  12. 悟りと感情(喜怒哀楽)
  13. 身心脱落は無分別の分別心が覚知する
  14. 一分いちぶの思量
  15. 祖師方の教えはすべて非思量に集約する


「生死事大」
-生きながら死ぬ修行(生きたまま死ぬのです)-

2019.5.15
禅門は生死事大として生きながら死ぬ修行をするのです。
禅は生きながら死の不安と恐怖と別離の悲しみを根元的に解決することのできる唯一の道なのです。
「生きながら」というのは生身の肉体はそのままで、何の変りもなくという意味です。
禅門に於いて、「一度死ぬ」というのは、意識の作り出した精神上の身体と自己の中の自己が、精神上消滅してしまうことを指すのです。何度も申し上げておりますが、私達の自己の中の自己の消滅は、意識(我、自我)の消滅であり、意識が作り出した精神上の架空の身体の消滅なのです。それを道元禅師は身心脱落と表現しているのです。
禅門に於ける「死」というのは、身心脱落のことです。禅門に於ける「死」は精神上の死なのです。

非思量の状態を意図的に維持することによって、死の不安や恐怖や死の別離の悲しみを消滅せしむることが可能なのです。それは身心脱落することで死の正体が見え、死のメカニズムが明らかとなり、死は精神上に生じるものであることが明らかになるのです。
佛陀(ゴータマ・シッダールタ)は死は精神上に存在することであり、身心脱落することにより死の不安も恐怖も別離の悲しさも消滅してしまうことを体験したのです。それは死にまつわる諸問題の究極的な解決を意味しているのです。

自己と他己の区別を天賦の機能として持っている動物にとって、自己(意識、自我)があるから「死は恐怖である」という因果関係が無条件にあるのです。
自己の中の自己(意識)に死に対して恐怖を抱く機能があります。それは生き延びる為の機能の一つなのです。死に対して恐怖を抱く理由は死を逃れる為なのです。死の可能性を最小限にする為なのです。死を恐れないことより、死を恐れるほうが、そして、死に対して臆病なほうが生き残る確率が高くなることはよく知られたことです。
死への恐怖心は自己保存本能を全うする為の必要な機能です。人間や動物の死に対して恐怖するという原則は狂気(神経症や強迫観念症や強い怒り、激しい恋、強烈な執着心等々)でもない限り変わることはありません。
しかし、この原則を変えて死の恐怖を消滅せしめる方法が禅門にあるのです。但し、この天賦の機能の原則を変えるということは動物として生存が不利になることは確かです。自己保存本能を全うする為の機能の消滅ですから当然のことです。
身心脱落の結果、死の恐怖が消滅して自己保存本能の全うに不利なことが生じても、人間にとってそれ以上に価値のあることがあるのです。それは寿命が短くなったとしても死に対する不安や恐怖や別離の悲しみが消滅してしまうことです。つまり、死ぬことが恐くなくなるということです。死ぬことが平気になるということです。死という現象を自覚、認識していながら死の恐怖が生じてこないのです。
これを禅門では「死に切る」といい、「生きながらの死」というのです。

我々人間にとって死の恐怖の精神的衝激は極めて大きいものです。死以上の絶望と不幸はないのです。死を逃れる為に人は全財産をかけても惜しくはないのです。死を回避して生き延びることを最優先に願うのです。
この死に対しての恐怖心が消滅してしまうことは、我々人間にとって最大の救いなのです。永遠の寿命を授けられるよりも恐怖のない死の安らぎのほうがはるかに恩恵なのです。佛陀(ゴータマ・シッダールタ)が悟りに於ける死を涅槃(ニルヴァーナ)と表した理由です。佛陀(ゴータマ・シッダールタ)や祖師方の死は恐怖心の消滅した死なのです。佛陀(ゴータマ・シッダールタ)に限りません。私達でも禅の修行によって身心脱落をすれば、同じ涅槃の境地に入ることが可能です。涅槃の境地は永遠の不老不死よりも絶対的な価値があるのです。佛陀(ゴータマ・シッダールタ)は永遠の不老不死を求めなかったのです。諸行無常は不変の真理であることを膚で感じ取っていたと思います。
永遠の命は一見すると、無上の価値があるかのように思います。しかし、実際にそのような寿命を特別に得られても、何れ退屈心(倦怠心)の克服に苦しむのです。「さまよえるユダヤ人」のように死にたくても死ねない苦しさというものがあるのです。もうこれ以上生きていても意味がないという時が必ず来るのです。安易に永遠の命を神に願うのは愚かなことです。それよりも死を忌避する理由を問うべきです。賢明な人は死を忌避する理由の解決を求めるのです。佛陀(ゴータマ・シッダールタ)は死を忌避する理由の解決をされた方なのです。
死を忌避する理由は、不安、恐怖、別離の悲しみ、現世への執着です。幸せな人生を送りたければ、不老不死を求めるよりも恐怖のない死を求めるべきなのです。恐怖のない死にどれほどの価値があるかを慎重に考えなくてはなりません。
佛陀(ゴータマ・シッダールタ)は現世を娑婆と言ったのです。娑婆というのは忍耐のいる苦しい世界だという意味です。四苦八苦という苦悩の絶え間ない世界であると説いたのです。四苦八苦は永遠に無くならない人間の苦しみなのです。

人が長生きしたいという根源的理由、死にたくないという本質的理由は、死が至上の恐怖だからです。その恐怖さえなければ、死というのは生きていく上での人生の他の選択肢と同様に、一つの選択肢にすぎなくなるのです。
何がなんでも苦しさに耐えて当問題の解決をするか、この問題の解決は放棄して死んでしまったほうが自らの人生としては良いのかの選択をすることとなるのです。自らとしては真に生きる為に死を選択するという人生の選択肢が一つ増えることを意味するようになるのです。

禅は死にまつわる全ての問題を根源的に解決できる世界で唯一の宗教なのです。禅以外に死を根源的に解決できる宗教は現在に至っても一つも現れてはいません。極めて稀な宗教的体質を持った宗教です。死の問題を根源的に解決できる唯一の宗教でありながら世界に広がらないのです。それは大きな難点があるからなのです。
その大きな難点というのは、その修行の正しい指導者がとても少ないということと、修行が必ず成就できるという保障が全くないということ、そして、その修行には長年にわたる大きな忍耐力が求められるという三つの点です。
誰にでもできる修行ではないのが現状です。現実にやれば必ずできるという保障がないのです。
今日、禅門に宗教的天才が現れることを切望しております。

鎌倉時代、京都東福寺開祖聖一國師(駿州の産)は「坐禅の用心に一切の善悪都て思量すること莫れというのは、直に生死の根源を截断する処なり。坐禅時ばかりと思うべからず。行住坐臥の禅なり。」と説いております。
これは非思量は生死の問題を直ちに解決するものである。非思量は坐って坐禅している時だけでなく日常の行住坐臥すべてに於いてでなければならないという意味です。

また江戸時代の名僧、江戸小石川の至道無難禅師の歌に「生きながら死人となりて、なり果てて、思いのままにするわざ(わざ:しわざ、行ない)ぞよき」というのがあります。
「生きながら死人となりてなり果てて」と言っていますが、この部分だけでは非思量の状態の相続の経験のない人、或いは無分別の分別の状態の分からない人にとっては全く理解できないはずです。
「生きながら」というのは、生身の肉体が生きたままという意味です。
「死人となりて」というのは、これだけでは前の「生きながら」と矛盾していて、何がどのように死んだかがはっきり分かりません。この死んだ(死人となりて)というのは、生身の肉体ではなく、自分の心の中のもう一人の自分(自己、我、自我、意識、自意識全部を指す)が消滅してしまったことを言っているのです。この消滅は私全体を支配している自分の中の自分の死を実質的に意味しています。
「思いのままにするわざぞよき」というのは、自己の中の自己が消滅(死滅)してしまうと、利己心が消滅してしまっているので、どのようなことでも思いのままにすることは、何一つ罪咎はなく煩悩、苦となるものはないと言っているのです。

次に「ひたすらに身は死に果てて生き残るものを佛と名づけり。」とも歌っています。
この「身は死に果てて」という身の意味は、身心脱落の「身」のことです。意識が心の中に創った精神上の架空の身のことです。この架空の身が消滅してしまったことを意味しているのです。身心脱落してしまったことを「身は死に果てて」と表現を変えて言ったのです。実質的には同じことです。消滅を死と喩たわけではありません。死の本質(正体)が明らかになっているから斯く表現しても間違いではないとしての表現なのです。
この死に果てる身は精神的身体のことで、形而下的に実在するわけではなく形而上の心の中に存在している身体のことです。人には二通りの身体があって生身の肉体としての形而下の身体と、精神上の意識の作り出した実体のない形而上の身体があるのです。
私達はこの二通りの身体を区別なく融合した形で自由に一体として使いこなしているのです。
「生き残るもの」これは身心脱落した自己の存在しない心の働きすべて、身体の働きすべてを指します。
身心脱落して残るすべてを佛性と言います。
身心脱落した人を佛と言います。
心の中の身体を精神的に構成しているのは意識なのです。心の中の自己を心理的に構成しているのも意識なのです。

以上三つの文は、我々の意識(自己の中の自己)そのものに死があることを意味しているのです。我々の死は生身の肉体ではなく精神上の架空の身体にあるのです。死の恐怖は我々の生身の肉体ではなく精神上の身体にあるのです。そして、自己の中の自己にあるのです。死、或いは死の恐怖は精神上の架空の身体と自己の中の精神上の自己にしかないことを禅の祖師方は身心脱落をしてみて分かったのです。

禅門に於いて精神上の身心の死は身心(意識)の脱落を指しております。精神上の身心の死は禅門の身心脱落にのみあることで、一般的な生活にはないことです。それは自然にあることではなく、人為的な精神行為である禅修行、非思量の状態の相続によって得ることができるのです。
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祖師方の語録は初心者には難解です

2019.6.11
黄檗おうばく禅師の曰く
「妄を起して妄をやむるは、両共ふたつながらともに妄なり、妄念若し起こらば妄と知れば忘るる也。」とあります。
黄檗禅師は百丈懐海禅師の直弟子、黄檗山断際希運禅師といいます。
妄は妄念のことで、思量全般のことです。
妄念とは自己の介在する思量のことで、身心脱落していない人の思量は皆そうです。
妄念に対して正念がありますが、正念は正念相続として臨済宗でよく用いられます。思量のない無分別の分別のこと。非思量の状態のことです。
「妄と知れば忘るるなり」とありますが、これは修行の浅い者で非思量の状態の相続のできない者には無理な話です。出来ません。

また古人曰く
「妄念起る時、妄とだに知れば失する也。」とありますが、これも上記と同様で非思量、正念の相続のできない者には無理な話です。このようにはなりません。

百丈禅師の曰く
「念起るをば即ち覚せよ 是を覚すれば失すと云へり。」
これも正念、非思量を知らない修行者が念(思量)が起きたことを自覚した処で失することはないのです。

以上、如何にも簡単で妄と気が付くだけで非思量(正念)の状態になれるように書いてありますが、気付いた処で非思量(正念)の状態になれるわけではありません。
修行者自身が妄と自覚しても妄が簡単に途絶えて非思量(正念)の状態になることはありません。だからといって、自分の修行が間違っているのではないか、禅を修行する者として資質が劣っているのではないかと落胆することはありません。これからですから勇気をもって非思量の状態をまず体験し、その状態が体験できたら、その状態をある程度の時間維持できるよう忍耐をもって工夫、精進することが大切です。そして、非思量の状態の相続ができるようになれば、「妄と知れば忘るるなり」の状況になってまいります。曹洞禅の非思量を始めたばかりでは妄を覚しても失すと云へる状態にはならないのです(妄念が生じていることを自覚しても消失することはないのです)。
このようなことが非思量の修行を始めるとすぐにできると思うと非思量の修行の方向性を間違え、修行の実践に於いて混乱を起こす原因となります。

「妄とだに知れば失する也」ということが、なるほどと納得できる修行者は非思量の相続がある程度できるようになっているのです。いわゆる禅定力が養われているのです。祖師方が説いているようにできないからといってガッカリすることはないのです。
祖師方はいかにも簡単に述べておりますが、それらはかなり修行の力量のついている(禅定力のある)専門の修行者を対象にして説いたものです。若い雲水や未熟な修行者に説いたものではないのです。
また、修行僧の初心者を相手にして説いたものではないのですから、自らの宗教的資質がないものと落胆する必要はありません。修行は焦ることなく忍耐力をもって進めていけばよいのです。
これから非思量という状態を知って修行を進めていこうとする修行者が、先にあげた祖師方の言葉を納得するのは無理な話ですから、このことは何れそうなっていくものだと理解しておいて下さい。

盤珪禅師の法語集の中に次のような一文があります。
「まず、三十日間、不生で居てみさっしやれい。三十日不生で居習はしやったならば、それから後には、おのづから居とむなうても、いやでも不生で居ねばならぬやうになりまして、見事不生で居らるるものでござる。」
これも同様で、若い雲水や未熟な修行者は一日だって不生で居られることはありません。修行の初心者がこれは良いことを聞いたと思い、まともに受け取っていきなり三十日間不生でいようと修行を始めると挫折するのです。
盤珪禅師はいとも簡単に述べているので誰でもできるように思いますが、不生の佛心で居ることは如何に難しいかはやってみると分かります。
不生の佛心で居ることができる修行者は正念をしっかりとできる人であり、非思量を相続できるようになっている人です。

「三十日間、不生の佛心でいらっしやれ、さすれば、どうのこうのせずとも不生の佛心でおらざるを得なくなる」と盤珪禅師は説いていますが、修行者でも、信仰の篤い人でも不生の佛心で半日でさえ居ることは難しいものなのです。
不生の佛心の不生は一念不生のことですが、盤珪禅師は民衆の為に民衆信仰として広めたいとの思いから一念という言葉を略して、標語的にお念佛のように憶えやすく口にしやすい一言句(ワンフレーズ)にしたものと思います。
一念不生というのは曹洞宗的に言いますと非思量ということになります。臨済宗的には正念ということです。
この非思量、或いは正念という言葉は一般民衆には馴染みのない言葉ですし、宗教性や佛教的な信仰の色彩がない言葉ですから用いないのは当然です。
盤珪禅師は民衆信仰として不生の佛心を教え、広く説きたかったものと思います。
「不生の佛心」を民衆信仰として家庭の中でも修行してもらいたかったものと思います。
しかし、「不生の佛心」の生活は言葉のわりには難しいのです。出家の修行にしてもかなり難しいのです。理は分かり易いのですが、実践は難しいのです。祖師方も如何にも簡単に説いていますが、誰にでも説いているわけではないのです。

祖師方は身心脱落しているのですから学校でいえばノーベル賞受賞者級の大学教授の力量の方です。その力量の大学教授が幼稚園生や小学生に理解できるように説くはずはないのです。子供に理解できるようなことではないし、子供がそのようなことを求めるはずはないのです。求めない者に説く必要がないとするのが禅門の在り方なのです。なぜそうなるかは注意深く考えれば分かるはずです。禅では自らの力量に相応するように説くのが自然ですので普段通りに自らの様子を顧みて説くのです。
それを初心者がまともに受けると当然、理解するにも難しく、実践するにも難しいのです。祖師方は自らの様子に照らして説いているのです。私達の立場や様子、或いは相手の力量を判断して説いているわけではありませんので、そこのところを分かっていないと誤りをもたらすことになるのです。
脱落してしまうと、その状態が直に馴染んでしまうので自らの脱落以前の心の感覚、様子を忘れてしまうのです。
脱落していない人の状態や様子を、脱落した人は自らの状態や様子に照らしてみているので分からないというのが正しいところです。
脱落すると他者の心の状態や様子が手に取るように分かると思うのは間違いです。

たとえば、平常心にしても祖師方の平常心と一般の方の平常心とは、かなりの隔たりがあるのです。
(2019.6.18追記) 祖師方は、凡人の時の自らの平常心を覚えてはいないのです。自分が一般人であった時の平常心はどのようであったかということは遠い昔に忘れてしまっているのです。
祖師方の説く平常心は身心脱落をしている状態をもっての平常心ですから、自己を忘却(脱落)していない凡人の平常心とは本質的に異なっているのです。
祖師方は身心脱落する前の凡人であった時の心の様子、苦悩の心境を身心脱落してしまうとすっかり忘れてしまうのですから、祖師の言葉をそっくりそのまま今の自分に当て嵌めて解釈をすると、正しい修行からそれてしまう恐れがありますから注意が必要です。
祖師方の言葉は基本的には門外漢や初心者に述べたものではなく、かなり修行を積んだ修行者に述べたものです。
アインシュタインのような天才的な科学者の専門的な意味の何気ない言葉は、子供や門外漢や初心者に述べたものではないのです。それと同じで、祖師方の何気ない一言はかなりの力量を養っている修行者に対してのものなのです。平常心もそうです。日々是れ好日もそうです。如是もそうです。その通りに受け取っては痛い目に合うのです。禅門に於いては軽く受け取れる言葉ほど実際は軽くはないのです。
常識的に容易に理解できそうな言葉ほど、その理解は本当は容易ではないのです。このことを肝に銘じて非思量の相続に打ち込まなければなりません。
私が、この非思量ということ、或いは禅の修行とは、とその意味を質問されて日常会話的に答えるならば、「何も考えないことですよ」と言うと思います。受け手の人は、その言葉通りに受け取って、「あア‐ 考えなければいいのですか、そんなこと子供だってできますよ!」半分軽蔑したような口調で返事してくるのです。平常心もそのような展開の一つです。
軽く見えますが軽くはないのです。あなたの平常心のことではないのです。身心脱落している祖師の平常心なのです。私達、凡人からは想像さえできない心境なのです。そのことを理解できていないのです。

祖師方が身心脱落する前の自分を忘れてしまうということが理解できない方が多いと思いますので、身近な例を引いてみようと思います。
たとえば、大人が子供の心を理解できないのと同じなのです。
大人もかっては子供だったのですから、子供の心を分からないはずはないと思いますが、実際はほとんどの大人は子供の心を忘れてしまうのです。童心を忘れてしまうのです。大人は誰でもが通ってきた道です。子供の頃の心をほとんど忘れてしまって思い起こすことができないことは誰でもが知っていることです。大人になってしまうと子供の心には戻れないのです。無邪気さも忘れてしまっているのです。忘れてしまうと二度と手にすることのない心です。
これは例として挙げたのですが、祖師方は身心脱落してしまうと、身心脱落以前の心はすっかり忘れてしまうのです。悟る前の平常心は忘れてしまっているのですから、祖師の「平常心」という一言は無我・無心に於ける平常心なのです。鵜呑みにしないで下さい。(2019.6.18追記)

あなた方 大人は子供がそのことをどのように感じているか分かりますか?
その事をどのように思っているかが分かりますか?
あなた方 大人が誰でもがかって通ってきた路です。
脱落した祖師方も人です。
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「霊魂の存在の否定」

2019.6.26
超常現象の一つである心霊現象は世界中で報告され、その体験談や記録が数多く残されております。
その心霊現象を起こしている主体を一般的に霊、魂、霊魂と呼んでいます。
現在のところ、その霊、魂、あるいは霊魂の正体(本性)を知っている人はいませんし、その正体を客観的に明らかにした人はいないのです。
ただ、曹洞宗では霊や魂や霊魂の存在を否定しています。その根拠は宗祖 道元禅師の著わした正法眼蔵にあるのだと思います。
超常現象の一つである心霊現象を起こす霊と、私達が私達の身体に宿っているとしている自分の魂、霊魂とか言っているものとは本質に異なっているのです。
この二つを混同しているのが一般的です。

私達一般の庶民は魂は霊魂として身体に宿り、死ぬと魂は霊魂となって身体から遊離して来世(あの世)に向かうと考えているのです。
戦前までは、魂呼たまよばいという儀礼が臨終に伴ってなされていました。屋根に登って大きな声で亡き人の遊離した魂を呼び戻すのです。魂を呼んで戻ってきてくれれば、生き返ると信じてなされた民間信仰です。
この身体に宿っているとされている霊魂は超常現象の一つである心霊現象を起こすものではないのです。このことは明確に言えることです。

曹洞禅に於いては身心脱落によって身体に宿っているとされている霊魂の正体が明らかになるのです。それは身心脱落すれば誰にでも分かることです。難しいことでもないし、特別な神通力も必要ではないのです。
一般の庶民信仰では、自己の中の自己の正体が魂であり霊魂であると考えられています。
自分の生身の身体と自分の心が死んでも自己の中の自己の正体は魂であるから、死ぬことはなく死体から遊離して霊となって浮遊して来世(あの世)へ向かうと考えているのです。

我々の自己には二通りの自己があって、肉体と共に一体としてある自己と、その自己の言動を常に知り観察している心の中のもう一人の自己です。
心の中のもう一人の自己は生身の身体と一体としてある自己とは別の存在です。
私達はその心の中のもう一人の自己をいつからか分からないが、どこからか来て、我が身体に宿っているように思っているのです。自己の心の中にいる自己の正体が分からないので、たぶん自分の魂であろうと推測しているのです。それを自分の魂であると信じている人が多いのです。
一つの肉体に自己が二人いること自体が道理として矛盾しているのです。二人の自己の一人を生身の身体に宿った魂と捉えれば矛盾がないのです。そのように考えなければ、なぜ一つの肉体に二人の自己がいるのか分からないからです。自分を見ている自分と見られている自分の二人です。
自己の心の中のもう一人の自己は何の為にいつ、どこから来て、そして肉体が死んで、その自己はいつ、どこへ行くのかが何一つ分からないのです。

フランスの画家 ゴーギャンの名画に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という題の画があります。
この名画の題は正に我々の肉体に宿っていると信じている魂についての根源的な疑問です。「我々」というのは我々の魂のことです。
「我々の魂はどこから来るのか、この魂の宿っている我々は何者なのか、死して魂はどこへ行くのか」という意味なのです。

自己の中の自己を肉体に宿った魂と考えると、肉体とそれに伴って一体となっている自己が死んでも、心の中に居るもう一人の自己は魂なので死ぬことはなく、死体から遊離してあの世に行く、或いは輪廻転生して生まれ変わり死に変わると考えているのです。
この自己の中の自己の正体は本当に魂なのでしょうか。
現代に於いても霊魂の存在を肯定している人は60%にのぼるのです。葬式、法事供養も霊魂の存在を肯定しているが故になされる儀礼なのです。
この自己の中の自己の正体が何であるか明らかになれば、そして肉体が死んで、自己の中の自己がどうなるかが明らかにされれば、魂、霊魂の存在の肯定、否定に決着がつくのです。

曹洞禅では肉体に宿っているとされている魂や霊魂は否定しております。それにはきちんとした理由があるのです。
禅門は「生きながら死ぬ」という経験があるからなのです。
「生きながら死人となる」体験を修行に於ける身心脱落によって体験をするのです。生きたまま、一度実際に死ぬのです。その死は生身の肉体ではなく意識が創り出した精神上の架空の身体と、意識が作った自己の中の自己の死なのです。消滅なのです。この死によって魂と思われている心も消滅してしまうのです。生きながら死ぬというのは、生身の肉体は生きたままで精神上の架空の肉体と自己を見ている心の中の自己が死んでしまうことです。二つとも消滅してしまうことです。つまり、無我の精神状態になったということです。この状態に於いて魂と言われるものは心の中に存在していないのです。
魂というものを在る・・と感じているのならば、それは意識が心の中に作った幻想なのです。架空のものなのです。
これは身心脱落によって自己が消滅することによって、心の中をくまなく観察することによって分かったことです。心の中に何も残っていないのです。自己も、他己も、自己の中の自己も、意識も、自意識も、我も自我も、魂も霊魂も、何も残っていないのです。心の中は縁に従い感に赴いて生滅しているだけなのです。縁に応じた佛性(心)の生滅があるだけなのです。
眼に物が映ったら心にそれがあるのです。耳に鳥の声が聞こえたら、心にそれがあるのです。それ以外に何もないのです。私がいないのです。故に無我と言うのです。
魂と捉えている自己の中の自己は身心脱落することによって消滅してしまうのです。
身心脱落に於ける生きながらの魂の消滅によって、私達が思っている魂の正体は自己の中の自己、つまり、意識であることが分かるのです。
身心脱落してしまうと生身の肉体に一体としてある自己と、自己の中のもう一人の自己と、自己の魂も共に消滅してしまい、これらは心の中の何処を捜しても存在していないのです。

このことによって禅門は魂や霊魂の存在を否定するのです。死して肉体から遊離するとされている霊魂の存在を否定しているのです。
禅宗の葬儀・供養は、この霊魂に対して行なう儀式・法要ではないのです。この霊魂は存在していないのですから、この霊魂に対する儀式や法要は勤めようがありません。
それでは何に対して何の為に葬儀・供養をするのかという疑問が生じます。
曹洞宗の公式の見解に私には理解できないところがあるのですが、たぶん一般の檀信徒も私と同様だと思います。
霊や魂や霊魂の存在を全く否定するならば、世界各地で心霊現象が目撃されていますが、それらの心霊現象がどのように起きるのか、そして、その現象を起こしている主体は何なのかも宗教者として明らかにすべきです。もし、その心霊現象が錯覚というならば、その錯覚するメカニズムを明らかにして正しい信仰に導いていくべきです。否定だけするのでは人は納得できません。
道元禅師は、心霊現象そのものを否定されているのか、心霊現象は認めるが心霊現象を起こしているのは魂や霊魂ではないと言っているのか、魂、霊魂が身体に宿っていて死ぬと身体から遊離してあの世に旅立つという民俗信仰の考えを否定されているのか、私には分からないのです。
私はその否定の根拠となった文献や資料を目にしたことがありませんので判断ができないのです。魂や霊魂を否定している文献か資料を一度見てみたいと思っております。文献や資料等は、それを解釈、判断する人によって違いが出ることも多いものです。
例えば、身心脱落の身心は「しんじん」と読みますので、そこから類推、解釈をして身心は書き間違いで本当は「身塵」ではないかと考える宗門学者もいるのです。それのほうがつじつまが合うと主張するのです。
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「自己を忘ずる」とは知識・経験の忘却ではありません

2019.8.21
禅門では悟る(大悟徹底、身心脱落)ことを、悟るとは言わないで「自己を忘ずる」とよく言います。
これは自己の存在を忘却してしまうという意味です。「自己の存在を忘れてしまった」という会話的、述懐的な感じの言葉なのです。
ところが曹洞禅の坐禅の要術である非思量の状態の相続がしっかりと分かっていないと「自己を忘却すること」と「自己の様々な知識を覚えたり忘れたりしていくこと」の本質的違いが理解できないのです。
心の中の自己の存在と、自己の知識の記憶の区別がつかないのです。心の中の自己の存在の自覚は記憶の領域のことではないのです。自己の知識と心の中の自己の存在とは全く関係はないのです。心の中の自己の存在は思考力・想像力で自覚(覚知)するのではなく、言葉のない精神世界の無分別の分別心によって自覚(覚知)するのです。
このことは非思量の状態をある程度、相続できるようになると、観えてくることです。
「自己を忘ずる」ことと「知識を忘ずること」は全く異なることですから混同してはいけません。

中国の逸話に、若き頃、中国随一の弓の名手で、禅門に入り修行して大悟した紀昌という禅僧が、最晩年、市場を訪れた時に弓を見て、これは何に使う物かと店主に尋ねたというものがあります。
この話を禅の修行に絡めて紹介したのは有名な僧堂の堂長師家です。
この堂長師家は「私達の禅修行の究極は、すべて忘れることです。戒名の上に”新帰元”と書きますでしょう。禅も忘れ、法も忘れ、元に帰る。しかし、並大抵の努力では元に帰ることはできません。本当に粉骨砕身して、すべてのものを忘れきらないうちは、佛様の徳を損なって、佛法は消滅しますよということです。それくらい忘れきらなければならないということです。」と述べております。
この堂長師家は「すべて忘れること」と言っておりますが、曹洞禅の非思量の修行は心の中の自己の存在を完全に忘れることです。
この逸話の紀昌という禅僧が最晩年に自分が出家前に慣れ親しんでいた弓のことも忘れ切ってしまったとして、禅の修行はこの紀昌禅師のようにすべてを忘れることですと紹介しているのです。
このように「自己を忘ずること」と身心脱落後の「聖体長養」の修行の中味を、自己のすべての知識・経験を忘れることと誤解してしまっている修行僧や師家が今日とても多くなっているようです。
これは非思量の状態(正念相続)が全く体験できていないことに起因しているのです。
この堂長師家はすべてを忘れることと言っても、その方法を曹洞宗開祖の永平道元禅師の説かれた非思量であることは言わないのです。そのものに成り切るとか、三昧になるとか、意識をもって意識を摺りつぶすとか述べて、坐禅の要術とも言うべきものがないのです。坐禅の要術の周辺を突っついているのです。じれったいものです。
この堂長師家は禅の修行に於ける「忘れる」ことの意味を正しく理解していないのです。
この堂長師家の言うように自らの知識や経験をすべて忘れると困るのです。
今、ご飯を食べたことも忘れてしまうことになってしまうのです。ナイフやフォークを指して、これは何に使う物かと問うことになるのです。散歩に出ても帰り道を忘れてしまうのです。迷子になって自分の名前も忘れてしまっていることになるのです。

禅門に於いては、自己の存在が消滅することをもって、忘れるといっただけなのです。これは自己の存在を消滅することを指しているのであって、知識や経験の記憶の消滅を指しているわけではないのです。

自己の中の自己、つまり意識・自意識には生きる為に必要な機能があるのです。
知識・経験は記憶の入力と出力の問題ですが、記憶された知識・経験には機能はないのです。
自己の存在は記憶力によるものではなく、物事の知識・経験は記憶力によるものであり、自己の忘却と知識・経験の忘却には因果関係はないのです。それらの消滅は連動しないのです。
前述の堂長師家は自己の存在は記憶によるものと勘違いしているのです。心の中にどのようなメカニズムで自己が存在するかが明らかになっていないことからの誤解なのです。以上の誤解が生じるのは、非思量の状態ができない為に、無分別の分別心の働きが観えていないことによるものです。
自己を忘ずることは、知識を忘ずることの一環である、或いはその逆に、知識を忘ずることは自己を忘ずることの一環であると理解しているのです。このように考えるのは、自己を忘ずることの意味を理屈だけで考えるからです。意識と思考と自己と知識の関係が明らかになっていないのです。残念なことです。
曹洞禅の非思量は自己を忘ずることです。自己を忘ずることに、自己の知識や経験を忘ずることは含まれてはいないのです。
曹洞禅の非思量は言葉や考えることを忘れる修行ではなく、言葉を用いることを身心脱落するまで一時的に意志をもって停止する修行なのです。それは一定期間中の停止であって、ずーと忘れ去ることを意味しているのではないのです。
すべてを忘れなければならないと述べている堂長師家は、自己を忘ずる(身心脱落)ことの意味が理解できていないのです。身心脱落とはまるっきり異なった方向への修行をしているのです。曹洞禅からすると、間違った方向へ導いているとしか言いようがありません。

ここにイギリスの音楽学校で天才青年ピアニストを指導する教授の言葉があります。
「正確に暗譜して、そして完全に忘れなさい!」
まるで禅の世界そのものです。無分別の分別心の働きをよく理解しているからこそ言える言葉です。無分別の分別心は禅の世界にのみある精神世界ではなく、世界中、どの人も斯くあるのです。
禅のことは知らなくても、この言葉は禅の修行そのものです。流石に超一流の人達は東西共通するものと感銘を受けました。
この教授は無分別の分別心の働きを経験則としてよく知っているのです。この教授は非思量の状態をピアノを演奏中体験しているものと思います。
しかし、このピアノ演奏中の非思量の状態の延長線上に禅の悟りがあることには気付いていないのです。無分別の分別心の価値は充分に気付いていますが、それが禅門の悟りにかなり近くに在ることに気付いていないのです。残念なことです。その状態が曹洞禅の非思量であることに気付かないのは、千年も二千年も前にインド(天竺)からヨーロッパに禅佛教が伝わらなかったからです。
非思量の状態や無分別の分別という精神世界を体験している人はヨーロッパにも多くいるものと思います。しかし、禅という精神文化がありませんので、その価値に気付くことがないものと思います。

思考しなくても生活ができるのは、人には無分別の分別心の機能があるからです。人には限りません。動物も皆、そのような機能によって生きているのです。
無分別の分別心の能力を普段から高めておけば、生活上の支障はないのです。身心脱落する前によく勉学に励み多くのことを学習し生活習慣もしっかりと身につけ、仕事の仕方、技術もしっかりと高めて身についておけば、修行して非思量の生活者となっても困ることはないのです。
身心脱落して思考が動かなくても一通りのことは何でもきちんとやれるように身に覚えさせておくのです。覚えきって、それを忘れてもよいのです。無分別の分別心だけでも何事もなしていけるのですから・・・。
禅の在り方は、自ら非思量の修行をして自ら納得するというものです。説明を聞いて納得できる精神世界ではありません。
納得したければ非思量の修行を実践されることです。
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身心脱落に至る為の必要条件

2019.9.1
曹洞禅の非思量は、いついかなる時にも非思量の状態を相続しているようにならなければ身心脱落することはありません。
非思量の状態の相続は、この位できていればという程度の問題ではなく、いついかなる時も非思量の状態を自然に相続できるようになっていなくては身心脱落に至ることはないのです。
自然に非思量の状態、つまり意図せずして無思量でなくては身心脱落に至ることはないのです。
非思量の相続に必要なことは忍耐力のみです。

非思量の修行は極めて単純です。非思量の修行というのは道理として難しいことは何一つありません。
7才の童子でも理解できることです。
「何も考えなくていいんだよ!」と言えば7才の童子は「ハイ!」と言い、「我慢するんだよ!」と言えば「ハイ!」と答えます。その位簡単なことなのです。7才の童子でも考えない、思わないということは理解できるのです。
青少年でも理解するのに何一つ難しいことはありません。
非思量は理解することは簡単なのですが、修行として実行できるかどうかが問題なのです。
7才の童子が理解できるとしても、そのようなことを修行として実行することは動機がないので無理なことです。
曹洞禅の非思量の修行は基本的に一人でコツコツ行なう修行ですから、特に修行に対する動機が重要となります。孤独な強い忍耐のいる修行を動機が支えてくれるのです。師家や同参の修行仲間の励ましはほとんど意味がありません。周りに修行仲間が多く居ても、曹洞禅の只管打坐の修行は基本的に孤独なのです。臨終の時と同じです。只一人黄泉に赴くのです。

戦前までの曹洞禅の修行者(禅僧、道人)というのは、片田舎や山里の小寺(貧乏寺)で目立つことなく孤独の中を黙々と生涯をかけて只管打坐の修行をしていたものです。いつまでも自らを開祖道元禅師に比べて修行未熟としておりましたから、参禅者を広く集めて参禅会を催したりはしなかったのです。生涯枯淡な修行生活に甘んじて良しとしていたのです。禅僧として最も戒められるべき名利から完全に離れ、捨てきった姿だったのです。
曹洞禅の禅僧は臨済禅とは異なって寡黙で枯淡で地味な風貌の道人ばかりでした。派手さは一つもなかったのです。人知れず密かに在ることを良しとしていたのです。
それがいつの頃からでしょうか、曹洞禅の師家の一部は派手になり、見性や大悟を前面に出す臨済禅の宗風の修行を推し進めるようになりました。
それを推し進めたのは、大正から昭和にかけて活躍された有名な師家老師で、その師家老師は日本一の鬼僧堂と言われる曹洞宗公認の道場を築き上げた方です。
この師家老師の修行は厳しいことこの上ないものでありますけれども、臨済的であり、見性や大悟を目指し、非思量についてはほとんど触れていないのです。
道元禅師を開祖とする曹洞禅からすると、大分距離がある禅風で、只管打坐でもない、非思量でもない様相の修行のようです。

以前にも書きましたが、曹洞・臨済の修行は坐禅という姿勢をとる処はよく似ているのですが、両宗派は全く異なる立ち位置から修行を始めるのです。真逆なのです。
曹洞禅は思量の全く動かない処に着目させて、そこから修行を始めるのですが、それに対して臨済禅は公案という道理の矛盾した問題を修行者に与え、思量を極限まで使い尽くさせるという修行です。
曹洞禅は悟ることを目的として、それを前面に掲げて修行するようなことはしないのです。曹洞禅に於いては、身心脱落(悟り)は目指したり、目的としたりするものではなく、只管に非思量を相続していれば、求めなくても身心脱落は自然についてくるものだという宗風なのです。悟りという体験に主眼があるのではなく、悟りの内容が身心に醸成されていくことに主眼があるのです。
例えば、お金を目的として仕事をしてお金持ちになるのと、仕事を極めることに励んでいた結果、知らぬ間にお金持ちになっていたとの違いなのです。結果は同じかもしれませんが、その内容が違うことは一目瞭然です。当然、人間性の向上にも大きな違いがあることは確かなのです。
曹洞禅は身心脱落を目指している間は悟ることができないことを経験則から知っているのです。身心脱落したければ、身心脱落を目的としないで只管に非思量の相続をしていれば、自然に必然的に身心脱落するという原理なのです。

曹洞禅に於いては、自己がある内は身心脱落しないという考えではなく、思量が僅かでも動く内は身心脱落をしないと心得て、非思量の相続をひたすら行なうことが大切です。自己が僅かでもある内は身心脱落しないことは確かですが、身心脱落しないのは僅かに自己があるからではなく、非思量の相続に僅かに綻びがあるからです。
いついかなる時も、非思量の状態でなければ、自分が気付かないほどの自分は残っているので、身心脱落に至ることはないのです。
このことをよく心得て、名利を捨てて、ひたすら曹洞禅の修行をして下さい。

修行者それぞれの誓願を達成する為に身心脱落は欠くべからざるものと思います。身心脱落を求めて禅門に入門することは当然のこととしてどのような師家も認めるところです。しかし、一旦、修行を始めたらそのことは脇に置いて非思量の相続に専念するのです。
それに併せて朝夕に佛法の守護神であります「龍天護法大善神、白山妙理大権現」に道心堅固であること、そして修行が無事に成就することを祈り願うことを忘れてはなりません。この掛軸がなければ、内佛の御本尊様でも構いません。雲水は師僧から龍天様を揮毫してもらい掛軸にして自室の床の間に掛けることを常としているのです。
いくら禅僧と雖も身心脱落していない限りは修行は未熟であり、人間として弱いものです。初心を貫くことは難しいものです。宗教者、修行者として道心堅固と誓願成就の祈願を忘れてはならないのです。
宗教には祈りと修行の実践の二つが必要です。坐禅だけしか行わないとか、祈りだけしか行わないというのでは宗教者としての資質に欠けが生じることが多いものです。禅僧は両方共に勤めなくてはなりません。
悟り(身心脱落)を目指す熱心な道人や参禅者は往々にして祈りを軽視したり、坐禅に祈りは必要ないとして無視する人がありますが、そのような人は正しく身心脱落することは稀なのです。

禅僧の祈りは、道心堅固と修行成就を神佛に誓うと同時に、神佛の加護を願う宗教行為の一環です。
自らの修行の意志を過信してはなりません。禅の修行成就には宗教的天才でもない限り、十年、二十年、三十年とかかるのです。その年月の間、道心を保てるかどうかの保証は何もありません。。そこは神佛の加護を願うしかないのです。
禅の修行は自力本願と雖も神佛の加護を願う祈りは常に必要です。
道心堅固と身心脱落は自分が決められることではないのです。諸行無常の世です。道心があっても修行のできない状況はいくらでもあるのです。諸般の事情で修行を諦めなくてはならないことがあるのです。
その反対に、修行ができない状況でもないのに道心を堅持できない場合も多々あるのです。理由なく道心を喪失してしまうのです。
途中で修行の腰が折れてしまうことを真摯な道人は恐れるのです。道心を堅固に保つことは至難であることを禅者は知っているのです。
このようなことの恐れが充分にあり得ますので、道人は神佛への祈りを大切にして朝夕に道心堅固と修行成就、法臘延長を冀う祈りをするのが常なのです。身心脱落は坐禅だけでは至る(得る)ことは難しいのです。
祈りなく坐禅に価値を置いて坐禅だけを行っている修行者や参禅者は正しく身心脱落に至ることは稀であると心得て修行をなさることです。
六十才になっても、七十才になっても道心堅固を保っている禅僧も稀なのです。生涯にわたる道心を堅固に保つのが如何に難しいかを肝に銘じることも大切なことです。

曹洞禅は非思量の修行の必然として身心脱落があるのです。
その為には道人は生涯にわたって道心を堅固に保つことができること、名利を離れることのできること、途中で諦めない忍耐力があることが求められるのです。
以上の条件を満たす修行者であるならば、身心脱落する可能性は大きいと思います。
私は曹洞禅の修行の世界に五十年以上おりますが、正しく身心脱落している禅僧、老師、師家にお会いしたことがありませんので、確実に申し上げることはできません。また明治以降現代に至るまでの語録、法話等の書籍を見ましても、身心脱落の内容を持っているものに巡り会ったことがありませんので曹洞禅の修行には苦労をいたしましたと申し上げておきます。

人や動物は強迫神経症的本質(気質)を持っております。
朝夕に祈るという宗教的行為は、心理学的に見ると人間や動物の生き延びていく為に必要な強迫神経症的本質(気質)を人間特有の精神活動である宗教行為に応用しているのです。
朝夕に神佛に祈るということは、心願を忘れないように深く心に刻み込ませる行為なのです。朝夕の祈りによって心に深く刻み込まれた心願が強迫神経症的傾向を帯びてくることが、宗教の修行にとっては必要なことなのです。
強迫神経症的傾向を帯びていると、それを指して宗教的に「道心堅固である」と言うのです。強迫神経症的傾向が必要以上に強くなってくると病的な宗教行為、修行となって、それは禅門の正しい宗教者からは否定されるのです。
曹洞禅の正しい非思量の修行は病的な修行者となることはありませんので、安心して道心堅固、修行成就を朝夕、祈願して下さい。
祈って心に刻み込まれた誓願は修行のエネルギーを生み出し、修行行動に現れて必ず成し遂げるようになるものなのです。祈っただけでは絵に描いた餅ですから、必ず修行を伴うことは言うまでもありません。
宗教的行為は程度の差こそあれ、強迫神経症的行為なのです。人間の強迫神経症的本質(気質)に基づいたものなのです。
自らが神佛に祈ることで人間の精神的最高位であります神佛に約束(誓い)をしているのです。約束(誓い)は守るというのが人間の基本的在り方であり、それは人間の強迫神経症的本質(気質)に立脚しているのです。
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頓悟とんご禅と漸悟ぜんご禅と頓悟漸修とんごぜんしゅう

2019.9.11
禅の修行は人の脳の神経回路の変化に及ぶものです。
思想や信条、宗教観を変える程度の考え方や捉え方の変化ではなく、人間の動物としての本質を変える程の変化をもたらすのが禅の修行です。
思想・信条・宗教観を変える場合、人間の本質の変化にまで及ぶものではなく、物事に対する考え方・捉え方を変えるもので、これは自分の意志さえあれば変えられます。この場合、変える為の修行というものは必要ではなく、変える為のきっかけがありさえすれば変えられるものです。人の意志が及ぶ範囲の事柄なのです。
人間の動物としての本質は天賦のものですから、人の意志では変えることができないのですが、禅の修行はそれを可能ならしめるものです。
例えば、死の恐怖を消滅せしむることは、人の意志によっては不可能ですが、禅の修行では死の恐怖を消滅せしめてしまうのです。
また、人の意志では利己性を消滅せしめ、利他性の人となることも困難です。社会的に利己性を抑圧することはできますが、プライベートまで利己性を抑圧することは難しいものです。信仰によってできたとしても、それは利己性を抑圧・抑制しているだけであって、利己性を心の底から消滅せしめることはできていないのです。禅の修行は利己性を心の底から消滅せしめ、利他性の人となる道なのです。禅の利己性の消滅はパブリックな場合も、プライベートな場合も、すべてに及びます。利己性の消滅は道徳・倫理・宗教観に基づく意図的な抑圧・抑制によるものではなく、人間の本質から消滅せしめてしまうのです。
そして、心に利他性のみが残り、それがその人の本質となります。このような人を佛心の人、佛性の人、或いは佛と言うのです。
また、自己と他己を区別することは生きていく上で必要なことですが、禅の修行によって、その機能が消滅してしまいます。
この様子を禅語で「自他一如」と言います。心の中から自己と他己という感覚が消滅してしまうのです。自他の区別が消滅してしまうので、分け隔てのない人となるのです。
これらの変化は人間の本質の変化ですから、脳の神経回路の重大な変化に基づくものなのです。
脳の神経回路の構造の一部の変化によるものと思います。人の意志で変えられるものではないので、斯く考えるのです。
以上の変化は、人の意志ではなく、禅の修行の必然的変化なのです。
「師家の言下に大悟する」とか、「悟りというのは我々がもともと悟っていることに気付くこと」とか、「自己は本来無いことに気付くこと」とか、と説かれている師家が少なからずおられるようですが、一言で直ちに悟るということは、頭脳の重大な変化に対応できませんのであり得ないことですし、また、気付く程度では、脳の重大な回路の変化は伴う必要はないのですから、それは悟りとは認められないことです。

禅門の修行方法には臨済系の看話かんな禅と曹洞系の黙照もくしょう禅の二つがあります。
看話禅は公案禅とも言い、修行者が師家より公案という解釈不能・解答不可能の問題を与えられて、それを解くことに極度に集中することによって正念相続を体得することが主眼の修行方法です。正念相続が体得できたら、それをひたすら行じて大悟徹底するのです。
黙照禅というのは只管打坐を旨とする修行で四六時中、ただひたすら非思量の相続に専念するのです。機が熟すると自然に身心脱落(悟り)するのです。
更に、悟りに至る方法に二通の方法あると説かれています。
それは「頓悟禅」と「漸悟禅」です。この二つをそれぞれ「頓悟門とんごもん」「漸悟門ぜんごもん」と呼ぶこともあります。
頓悟門というのは、修行の過程を踏まないで、直ちに悟りに至る道を立てる禅の宗派を言い、南宗なんしゅう禅の立場を指します。南宗禅は六祖慧能の法系の禅をいい、中国南部に広まった禅で頓悟禅を特徴とします。
漸悟門というのは、修行の各段階を踏んで悟りに至る道を立てる禅の宗派を言い、北宗ほくしゅう禅の立場を言います。北宗禅は神秀の法系の禅をいい、中国北部の地で広まった禅で漸悟禅を特徴とするのです。
「頓悟」というのは順序、段階を経て修行を重ねて次第に悟りに至るのではなく、直ちに悟りに至ることを言います。
「漸悟」は地道に修行を一つ一つ段階を追って積み重ねて悟りに至ることを指します。
頓悟、漸悟という言葉は修行の実際の内容から見ますと的外れな表現です。修行の実際からの正しい表現は頓悟漸修という言葉です。
「頓悟漸修」という言葉ですが、これは頓悟するには一つ一つ段階を経て進めていく修行が必要だということであり、且つ、頓悟した後にも段階を踏んで修行を積むことが必要だということです。
漸修は、頓悟前も頓悟後も、どちらも修行として行うことは非思量の相続、或いは正念相続です。
漸修の一つ一つ段階を経てというのは、一つ一つ非思量を相続して、一つ一つ時間的経過を踏んでという意味です。
漸というのは「徐々に進むこと」「だんだん進むこと」という意味です。
頓悟と漸悟の関係は、それぞれ別のものではなく、既に漸修がなされていて臨界点に達していると、機縁に触れて、頓悟となって身心脱落がなされるということなのです。
漸悟も最後の一息半歩の縁で身心脱落するのです。修行は一つ一つ非思量の相続という順序を経て進めるのですが、徐々に具体的な段階的方法を経て身心脱落するのではないのです。
この身心脱落の処に注目して禅の悟りはすべて頓悟だというならば、まさに頓悟です。
師家の中には漸修を無視して頓悟のみをやたらと強調される方がおられるようですが、漸修なくしての頓悟はあり得ませんので、そのところを勘違いされることなく肝に銘じて非思量の相続、或いは正念相続を続けて下さい。

曹洞禅の修行は臨界点に達するまでは表面的には何の変化もないのですから、悟りは何かを縁としていきなり来るように感じられます。
しかし、頓悟に至るまでに漸修があるのです。漸修という下地があっての頓悟であることを忘れてはならないのです。漸修のない頓悟は曹洞禅の非思量の相続にはないのです。曹洞禅は必ず頓悟漸修なのです。
或る時、突然(予期せぬ)の身心脱落であるから頓悟であるといっても、修行全体から見ると頓悟漸修なのです。
曹洞禅は非思量の相続の機が熟していないのに、師家の一言で、突然、身心脱落するようなことはありません。
臨済禅では問答中、祖師の一言で大悟したというようなことが語録等の中に随所に出てきますが、言下に大悟したわけではなく、修行の工夫に気が付いたことがあったという程度のことです。
中国は白髪三千丈の国ですから、禅書と雖もかなり差し引いて現実的視点で読み進めていった方が間違いがありません。
三十棒だの、三日間耳が聞こえなくなっただの、誰がそこに立ち合っていたのか知りませんが、いかにも中国的な誇大妄想的表現です。禅門らしからぬ名利の強い表現です。このような表現は読み物としてはおもしろく痛快ですが、禅という現実的実際的宗教が現実から乖離してしまうことになってしまいますので好ましいことではありません。修行者に間違ったイメージを与えることになってしまうのです。修行者が余計なイメージを抱くことは曹洞禅にとってはマイナスです。

それでは、ここで、曹洞禅はなぜ頓悟漸修なのかということについて、道理として理論的に矛盾のないように説明して参ります。
禅をやっていなくても関心のある方ならば理解できるようにとの観点から書き進めて参ります。
心の問題は全て脳内の問題なのです。形而上のことはすべて脳内で起きることです。曹洞禅の悟りである身心脱落は形而上のことなのです。脳内の変化を伴うのです。脳内で起きることだからと言って、その影響は脳内に留まらず全身心に及ぶものです。
身心脱落は脳の神経回路のホメオスタシス(恒常性)を破る変化を伴うものです。身心脱落という出来事は意識の機能の再生のない停止によるものだからです。
この意識の機能の停止は神経回路の遮断によって生じるものなのか、神経回路の消滅によって生じるものなのかは現在のところ分かりません。脳科学が進歩すれば、いづれ分かると思います。
禅門で明らかになっている意識(自己の中の自己・自我)の主たる機能は、自己と他己の区別をし、他己を排除するという精神的免疫機能と、利己性をもって自己保存本能と自己遺伝子保存本能を司る機能です。
このような重要な機能を司る意識(自己の中自己・自我)の機能が再生のない完全な停止に至るのに、脳の神経回路に重大な変化がないはずがないのです。
この意識(自己の中の自己・自我)の機能の完全な停止が私達の非思量の相続の修行によって生じ、それを曹洞禅の身心脱落という悟りの体験によって自覚するのです。
その自覚は私達の認識の力ではなく、無分別の分別心によって知ることができるのです。非思量の相続をしていますと誰でも無分別の分別心の働きがよく分かるようになるのです。

禅の語録の中に禅問答に於いて、祖師の一言で悟りを開いたということが随所に出てきますが、これはまさに頓悟、禅の特徴を示しているのです。
「祖師の言下に大悟す」というくだりです。これは脳の意識に関わる神経回路の重大な変化が禅問答の一言で生じたことを意味しているのです。
いきなり頓悟ということがあると語録では示しているのですが本当なのでしょうか。
私は疑わしいと思います。
意識の機能を司る脳の神経回路の重大な変化が禅問答の一言で生じることは脳生理学的にあり得ません。それは脳の神経回路もホメオスタシス(恒常性)の機能に支配されているからです。禅問答の数語のやり取りの一言で、脳の神経回路のホメオスタシスを破って身心脱落することはあり得ないのです。
意識を司る神経回路が急激に停止することはあり得ないのです。いきなりの頓悟はあり得ないのです。漸修が下地として必要なのです。
曹洞禅の身心脱落は禅問答に於いて、言下に生じるものではなく、曹洞宗開祖道元禅師が説き示す非思量の相続を行った結果、脳の意識を司る神経回路が徐々に変化して起きるものと考えるのが無理がなく自然です。
頓悟禅の考え方によると意識を司る脳の神経回路の急激な変化が起きることになります。それはかなりの衝撃が必要であり、それは脳の正常な神経回路の破壊や異常をもたらす可能性が大きいものと思います。
大悟(身心脱落)は頓悟ではなく、頓悟漸修であると考えるのが妥当です。頓悟はどう考えても無理があり道理にかなわないと思われます。
頓悟のようなうまい話しは、禅門の修行にはふさわしくないのです。禅の修行が運任せのようになってしまいますから、頓悟は期待せずに地道に非思量を相続すべきです。

実際、身心脱落に至るには、開祖道元禅師のような宗教的天才でもない限り、長い時間がかかり、その為に大きな忍耐力が求められるのです。
漸修、つまり、年月をかけて段々と非思量の相続を深めていって、完全に非思量の状態に至った時に初めて身心脱落に至ることができるのです。非思量の相続も充分にできない内に祖師の一言で悟るようなことはないのです。
祖師の言下に大悟するというような頓悟は多くの修行者の願望であって、実際はあったとしても極めて希なことです。急速冷凍や急速充電のような芸当は脳の神経回路の変化には向かないのです。時間をかけて徐々に脳の神経回路を変化させて身心脱落に至るのです。私達は修行として非思量の状態を作り出し、それを維持(相続)することしかできないのです。
身心脱落に至るには非思量の状態が最善なのです。この状態が脳の意識を司る神経回路の機能を停止せしむるのです。これは脳が機能として行なうことで、私達は関与できないのです。意識を司る脳の神経回路の機能が停止した時が、身心脱落の時なのです。
悟りに至る修行は基本的には漸修があっての頓悟です。漸修のない頓悟はあるとしても例外的なのです。
禅の修行に於ける脳の神経回路の変化は水面下(脳内)で徐々になされていくので、私達はそれに気付くことはないのです。
頓悟とか漸悟とか分けるよりも頓悟漸修という表現が実際的には適切です。
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悟りを開いた禅僧は剣の達人?

2019.10.16
或る流派を開いた剣聖に「悟りを開いた(生死を超越した)禅僧は剣術に於いても自由自在の働きができるのでしょうか?」という質問が門弟からありました。江戸時代のことです。
剣術の師が答えるには「悟りを開いた禅僧といえども、剣術の技と筋力を鍛えているわけではありません。悟ったということだけでは、剣術という命を守る役目の代わりにはなりません。悟りを開いたからといって剣術に於いて自由自在の働きができるようになるわけではありません。
只、禅僧は悟ることによって生死を超越しているので、命を惜しむことがなく、死を恐れることもないという点で学ぶべきところが大いにあるのです。死を恐れないということは、剣術で心を養い、筋力を鍛錬しても容易に手にすることのできない心境だからです。」と。
このことは剣道では精神面の修行には限界があり、生死事大と不動心と自由無の心は悟りを開いた禅僧に学ぶしかないということを示しているのです。
さらにまた、「初心のうちから何ら身についた筋力も技術もないままに、無心の境地に至れば、剣術の極意を得て、技術は自然に発揮され、柔はよく剛を制するものである。技術の習得や、その為の筋力を鍛錬することは枝葉末節のことに過ぎないと考える武芸者が時にありますが、それは大きな間違いです。剣術は、まず技術を取得し、筋力を鍛錬することが大事なのです。これらのことを疎かにするのは愚かなことです。」と答えているのです。
物事を習得するのには、技術と筋力、そして精神力の順が大事なのです。この逆は大成するには程遠いのです。

剣聖 柳生宗矩むねのりが、澤庵宗彭そうほう禅師に不動心、その他剣術の精神的極意について書き留めたものを所望して戴いた書物が「不動智神妙録」です。
剣聖といわれた柳生宗矩でさえも不動心や自由無礙な心、生死を超越した心の極意は大悟した禅僧である澤庵宗彭禅師に教えを乞うしかなかったのです。剣道の世界で剣聖といわれる達人でも不動心や自由無礙の心や生死を超越した心に至ることは難しいことなのです。

澤庵宗彭禅師(1573〜1646年)は享年73才で但馬たじま(今の兵庫県の一部)の生まれです。京都大徳寺派の禅僧で、徳川三代将軍家光の帰依を受け、家光の建立した江戸品川東海禅寺に開山として迎えられたのです。
「不動智神妙録」は剣聖柳生宗矩の要望にもとづいて書き著して与えたものです。
澤庵宗彭禅師は不動智神妙録の中で、「心を一処に止めず、固まらせず、全身に延び広がらせて右へも左へも自由自在に動いて少しも留まらない心を不動心という。」と述べています。
動かさざる心(不動心)というのは何時如何なる時も自由自在に動いて少しも止まらない心のことを指しているのです。私達が考えている「不動心」の常識とは全く正反対の心なのです。
以上のように澤庵宗彭禅師が説かれても、澤庵宗彭禅師自身が実際に刀剣を構えて柳生宗矩と勝負ができるかと問えば、それはできないと答えることでしょう。心は不動心であって、少しも死を恐れることはないといっても、刀剣を自由自在に使いこなす修練された技術と鍛えぬいた筋力と柔軟な身のこなしが錬成されていないからです。

剣聖といわれるには剣術の技術を徹底的に身体に憶え込ませ、そして、すべての奥義を忘れ、五体を忘れなくてはならないのです。
その上で命を惜しむ心が一瞬たりとも動かなければ、間髪を入れずに、相手に自由自在に応ずることができるのです。死の恐怖が一瞬たりとも動けば、身体の自由は一瞬、束縛されるのです。
勝負を競う武術に於いては、技術的重要度と筋力的重要度は精神的重要度に優先するのです。
技術が劣っていれば、いくら精神を鍛えても、不動心を得ても、勝つことはできないのです。
筋力が劣っていれば、いくら精神を鍛えても、生死を越えても、勝つことはできないのです。
精神的に隙がなくても、技術的に隙だらけですし、筋力の面でも相手の動き・相手の速さに自由自在についていけませんので隙だらけです。
精神的隙、技術的隙、筋力的隙(これらは動きの僅かな遅れとして現れるのですが)は、もともと別々のものなのですが、実際は別々に現れることはなく身心一体として現れるのです。
たとえ禅僧が悟り生死を超越しているとしても、勝負としてみれば隙だらけで決して勝つことはできないものです。
禅の修行者や参禅者は根拠のない幻想的願望を捨てなくては正しい修行はできません。

明治に入って間もなく果たし合いは御法度となりましたが、その頃に最後の真剣による果たし合いがあったそうです。
これは剣術家の立ち合いの許で行われたもので、その様子を記したものが残っているのです。それによりますと、剣術家二人の技量はほぼ互角で勝負が始まって剣を抜いて相対したのです。
二人は正眼の構えで立ったまま長い時間少しも動きがなかったということです。
そして、或る瞬間、一方の剣術家が刀をスーッと引いたのです。するともう一方の剣術家がその引きにつられて、身体が自然に前に傾き、その瞬間に切られてしまったそうです。
真剣勝負というものは時代劇映画に見るようなハデな動きはなく極めて静かな一瞬の動きで決まるものだそうです。

前述の「不動心」の「心を一処に止めず」というのは「思量分別をなさず」という意味です。
人というものは思量のない状態にあります時に、フッと何かを思い、考えると、そこに心が動いているように感じるのです。
不動心というのは、禅門に於いては、縁に応じて自由自在に働く心の様子を指します。縁に応じて自由自在に動いているといっても、実際には本人の心(思量、分別)は少しも動いてはいないのです。心は不動のまま縁に応じているのです。心は不動の故に自由自在に縁に応じることができるのです。
この様子を曹洞宗開祖道元禅師は「自己を運びて万物を修証するを迷いとし、万物を運びて自己を修証するを悟りとす」と述べているのです。
「万物を運びて」というのは全く思量分別なく縁に応じてという意味です。
「自己を運びて」というのは思量分別してという意味です。自己のあるままということです。
不動心は見方を変えて「思量の動かない心」とすれば分かり易いかもしれません。曹洞禅の非思量と同じ表現になりますので理解し易いと思います。人は思量と同時に感情が動くものなのです。

ところで、或る禅の会が出している小冊子で、「或る剣道の範士(剣道で八段以上の優秀者に授与される最高の称号)が、老師の御姿を拝見して、いかほどにもつけ入る隙がなかったと感心されていた」という話が紹介されています。これは、師家老師の高弟が逸話として紹介したものです。
悟っていたとしても、剣道の心得のない素人では構えた処で隙だらけです。
このようなことを逸話として紙面で紹介するものですから、禅や大悟に対する誤った観念を醸成してしまうのです。正しい禅が衰退していく原因でもあるのです。

技量が同じである場合、剣術者に隙があるか否かという判断は、命を惜しむ気持ちが僅かでも動くか否かによるのです。技量の差があれば、この限りにあらずということです。
命を懸けた真剣勝負は、命を惜しむ分だけ、その気持ちは身体の動きを縛るのです。死を恐れる分だけ身体の自由を奪うのです。この部分を隙というのです。これは剣術者の経験則です。
その隙は眼を見て判断するのです。死の恐怖、命を惜しむ心は眼に現れるからです。一瞬でも命を惜しむ心が動くと一瞬の隙ができるのです。刀剣の動きは間髪を入れず一瞬なのです。命を惜しむ心は一瞬の思いを動かすのです。言葉にならない思いを一瞬巡らすのです。この一瞬の言葉にならない心の動きを人は自覚できるのです。心を澄ませていれば自覚できるのです。
この「心を澄ませる」という意味は非思量の状態にあるということです。無分別の分別心の働きのままであるということです。
この一瞬の言葉になり切らない思いが一瞬のためらいを生むのです。一瞬のためらいは命を落とすには充分な時間です。
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悟りを開いた禅僧から学べること

2019.10.24
「不動心」 「無念無想」 「平常心」 「明鏡止水の心境」 「泰然自若」等々の言葉は皆、感情を自由自在に制御し切った境地を表しております。これらは悟りを開いた禅僧の境地として、我々凡人が憧れるものです。
物事に動じない精神力、感情を自由に制御することのできる胆力、何が起きようといつも通りに淡々と対応していける冷静沈着な心等々は、誰でもが望むものです。我々凡人は見掛けによらず繊細で、小心で、傷つき易いのです。
自分は気が小さいと感じている人は、体躯に関係なく男性に多いのです。それ故に、男性は不動心とか平常心とか泰然自若とかに憧れるのです。一生涯そうなのです。
ある程度年をとれば、例えば、70才 80才位にでもなれば、物事に容易に動揺しなくなる、泰然自若と構えていられると思っている人が多いのですが、そのようなことは決してないのです。それはそれで若い時から自ら努力をして精神修養していなければ、決してなれる心境ではないのです。

明治以降、日本は日清、日露、第一次、第二次大戦と戦争続きでした。そのような中で不動心とか平常心とか泰然自若の精神とかを養うべく、軍の指揮官に当たる立場の人が盛んに坐禅をしていたのです。当然、死を恐れぬ心を養いたかったものと思います。
また、鎌倉時代から江戸幕府ができる頃にかけて、武士はいくさに於いて死を恐れない精神力を養うために禅僧に教えを乞い、坐禅修行をしていたのです。
武士も軍人も命が危険にさらされる身分であり職業ですから当然のことなのです。死を超越していくさに臨み、武士や軍の指揮官として、部下に対して自ら先頭に立って模範を示し、指揮、命令を下したかったものと思います。
死を恐れぬ心で戦いたいと、人ならば誰もが望むものです。その為に禅の修行が求められたのです。
死を恐れると、腰が引けて、身体がこわばり、自由がきかなくなるからです。当然、判断力も鈍り、それは取りも直さず部下の死と自らの死を意味することになるからなのです。
剣聖や軍人が禅僧から学びたかったことは死を恐れぬ精神力です。

禅僧が悟りを開いたところで、教えられることは死を恐れぬ精神力を養う方法だけで、戦いに勝つ方法は、素人ですから教えることはできないのです。
ましてや剣の真剣での勝負に勝つことは到底できるものではありません。真剣を扱うことには、ずぶの素人なのですから当然のことなのです。
ところが悟った禅僧には、いくら剣術に勝れた武人でも打ち込むことはできないほどの定力があると喧伝けんでんしている師家が時にあります。
日常的に身体を鍛え技術を工夫し磨いている剣の達人に、悟りを開いていると雖も剣術の素人である禅僧が勝てるはずはないのです。
悟った禅僧が真剣を構えて剣術家に立ち向かったところで、技術・体力面で圧倒的に優位な剣術家に勝てるわけはないのです。悟っていても禅僧は技術面では隙だらけですので、それを見極められない剣術家(剣聖)はいないのです。
悟った禅僧には、全く隙がなく、優れた剣術家と雖も打ち込むことができないものだと述べる師家がおりますが、それは願望的幻想であって、根拠などないのです。
ただ、悟った禅僧の優れている処は、命をいたずらに惜しむところがないこと、死に対する恐怖がないという点だけです。
この点に於いて、剣術の達人(剣聖)や優れた軍人と雖も、容易に得られる心境ではないのですから、充分に教えを乞うに値する人物なのです。

書道にして然り。
悟った禅僧は超一流の書を書くものだという常識があります。
書に関しても、いくら悟った禅僧でも、書家の技術の高さ、芸術としての美しさ、独創性という点について勝るものではありません。書は人それぞれの癖があって、それぞれの書はその人独自のものであって個性的ですが、これだけでは独創性があるとは言えないのです。
この点の理解(認識)がなく、悟った禅僧の書を手放しで賞賛することは愚かなことです。
悟った禅僧は世俗的価値観の上手下手を超えた書を書くことができるということ。他者の眼や評価を一切気にせずに揮毫することができるということ。天真爛漫な子供のように、書法にとらわれず、上手下手の枠を取り払った書を書くことができるという点が優れていると言えば優れているのです。この点については書家がいくら心を尽くしても真似ができないということなのです。
書家の芸術性と技術(技巧)という点では、いくら悟った禅僧と雖も、それまでに書家としての精進をしていなければ、書家以上の書を書くことはできるものではありません。
禅僧の書というだけで有難がることは愚かなことです。
禅僧が悟ったからといって、急に技術が向上し、技巧が優れ、芸術性が高まり、独創性が開眼するわけはないのです。

話す能力にしても、文章を書く能力にしても、それまでに習練を積んでいなければ、悟りのお蔭で、急にそのような能力が生まれることはないのです。
話すことが下手な禅僧は、悟っても下手なのです。文章を書くことが苦手な禅僧は、悟っても苦手なのです。
尺八を吹いたことのない禅僧が悟ったからといって、一流の虚無僧のように尺八を吹けるようになることはないのです。そのような習練を少しは積んでいたところで、悟ったからといって急に一流の虚無僧のように吹くことはできるものでもないのです。上達といっても三段跳びのように上達することはないのです。そのような幻想に憧れて禅の修行をしても得るものはありません。

話は変わりますが、その老師や師家が悟っているか否かを判断できるのは、悟った禅僧だけです。自分にその経験がなければ、その老師や師家が悟っているかどうかは判断できないのが原則です。
身心脱落していない禅僧や参禅者に、そこまで見抜く力量などあるはずがありません。
その老師や師家が身心脱落しているか否かを知るには、まず第一に名聞利養の言動があるか否かです。それは日頃の言動を見ていれば分かることです。その老師や師家の日常生活を注意して見ていると分かるものですが、あまりにその老師や師家を尊敬し憧れてしまうと鑑識眼は曇る(鈍る)ものです。
そして、身心脱落するまでには、明らかになっていなくてはならない幾つかの通過点があるのです。必ず分からなければならないことが幾つかあるのです。
その明らかになっていなくてはならない通過点、分からなければならないことについて、老師や師家に質問した時、その老師や師家の返す言葉によって、その老師や師家が身心脱落しているか否かが分かるのです。
当然のことですが、老師や師家の力量を試すには自分にそれ相応の力量がなければなりません。少なくとも無分別の分別が充分手に入っていなくてはなりません。
「あの老師や師家は悟っている方だ」と他者に言えるということは、おもねっていない限り、並々ならぬことなのです。そのように述べている自分の力量が並々ならぬものであると表明していることでもあるのですから・・・。

最近はあまり言われておりませんが、一般的に専門職(職人、武道、芸事)の間で昔から言われていることに「他者の技量を判断する基準」というものがあるのです。
それは、自分より少し劣ると思われる技量の人は、ほぼ自分と同じ程度の技量があると考えて間違いはないというのです。
自分と同じ程度と思われる技量の人は、実際は自分より上と判断するのです。
自分より少し上かなアと思われる技量の人は、自分よりだいぶ上であり差があると心得たら間違いはないということなのです。
多分これは間違いのない目安だと思います。
以上のことを目安にして自分の技量を自覚し、他者の技量を知って、自らの技量の習練に励むようにと口伝として言われてきているのです。
これは参考までに紹介してみました。
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「只管打坐」−ただ坐る・・・・ということ

2019.11.20
『 只管打坐 』の『 只管 』は、「 ひたすら(に)」 「 いちず(に)」 「 余念をまじえず(に)」という意味です。
これは仏教語でもない禅の用語でもない一般的な熟語です。
『 ひたすら 』は、「 ただそればかり 」 「 ひたむき 」
『 いちず(一途)』は、「 一つのことに打ち込むようす 」「 一つのことに向かい、他をかえりみないこと 」という意味が辞書に載っております。
「 只管打坐 」というのは「 ひたすらに坐禅をする 」という意味です。
「 ただ坐禅をする 」という意味に用いると若干意味が異なるように思います。
「ひたすらに坐禅をする」という意味に用いると坐禅をする人の意志を感じますが、「ただ坐禅をする」という意味に用いる場合は坐禅をする人の一途な意志は感じられないように思われます。

曹洞禅は初心から半ば熟練するぐらいまでは、強い意志をもってひたすら非思量の坐禅をするのです。
そして、非思量の相続がある程度できるようになると、それこそ強い意志を前面に出すことなく、ただ坐る・・・・ことができるようになるのです。この時点からの只管打坐をもって老成の坐禅であると以前に私が申し上げたのです。
非思量の相続がコントロールできるようになるまではただ坐る・・・・ことはできないのです。それまでは非思量の相続に向かって強い意志をもってひたすら努力するのです。強い意志をもって非思量の相続に忍耐するのです。強烈に忍耐している間はただ坐る・・・・ことはできないのです。

曹洞禅の只管打坐の内容には二通りのものがあります。
非思量の相続ができない心境に於ける時の只管打坐と、非思量の相続が充分に制御(コントロール)できるような心境に於ける時の只管打坐との二通りがあって、それははっきり異なっているのです。
この区別を認識していない師家ばかりですので、初心者の雲水から熟練の雲水まで只管打坐一本(非思量の相続ができない心境でありながら、非思量の相続の努力をしない坐禅一本)ですから無理があるのです。曹洞禅にとっては残念なことです。
いづれにしても曹洞禅の只管打坐は、できても、できなくても、非思量の相続なのです。
非思量の相続のない曹洞禅の修行は、日常の起居動作も正身端坐も威儀も作法も修行にはなっていないのです。非思量の相続があって、初めて日常すべてが曹洞禅の正修行と言えるのです。

「ただ坐る!」という只管打坐は老成した(かなり熟練した)坐禅ですから、なかなか容易にできるものではないのです。思量が自然に生滅している内は「ただの坐禅」にはならないのです。
思量が自然に生滅しても本人は気にならないから問題はないとしている師家がおります。これは曹洞禅にとっては大問題なのです。「ただの坐禅」にならないからです。
思量が自然に生滅している状態に於ける只管打坐と、思量が全く生滅していない状態に於ける只管打坐と、どのように違うか比べてみるとよいと思います。
どちらがただ坐っていると言えるか、両方をやってみると実感としてよく分かるものです。片方だけやって、これがただ坐る様子であると断定するのは、独りよがりであり、禅の修行者として正しい姿であると言えません。
自分の意志に関係なく思量が自然に生滅しているのだと言っても、思量が動いている内は「ただ」にはなれないのです。しかし、「ただのつもり」になることはできますが、「ただになっているつもり」と「ただである」のとは自ずから異なるのです。
ほとんどの場合、「ただになっているつもり」だけで、「ただになっていない」ことが多いのです。

「独りよがりのただになっている」ことに気が付かないのは、無分別の分別の状態を知らないからです。
無分別の分別は非思量の状態の相続ができていないと知ることは難しいのです。
ただ・・になっていると信じている今の状態を、ただ・・であると信じている分だけ、或いはただ・・のつもりになっている分だけ、ただ・・にはなっていないのです。
思量の生滅している状態は、それが自然であり、本人にとって気にならなくなっていると雖も、正しくただ坐っている・・・・・・・感覚、実感はないのです。無分別の分別心で坐っていて初めてただ坐っている・・・・・・・実感があるのです。
思量の生滅している内は、思量が生じたことで「ただ」の状態を邪魔しているのです。また、思量が生じたことで、思量が「ただ」の状態を邪魔していることに気付き難くなっているのです。「ただ」の状態をを思量が途切れさせているのです。
無分別の分別心のままでいますと、このことに気付きますから、実際に無分別の分別心のままにあることを実際にやってみて下さい。私の言っていることが明らかになります。

只管打坐という坐禅修行は、非思量の相続は当然のことなのですが、これを別の見方をすると無分別の分別の状態にあると言うことができるのです。無分別の分別の状態にある時が「ただ」という実感があるのです。
一般的に思慮や分別が生滅している状態では「ただ」という感覚はないのです。一般的な思慮や分別の生滅というのは、皆、煩悩の種を播き、煩悩の芽が動き始めている様子なのです。当然、修行にとってよいはずはありません。思量の出ることを許可することも、認可することもできないのは当然なことです。
外からの縁に対して無分別の分別の状態にある時は、自らの心の内側から生滅してくるものが何一つない状態です。外からの縁に感応しているだけでの様子です。外からの縁ばかりなのです。
この時が只管打坐という実感があるのです。

非思量の相続のコントロールができない修行の浅い者にとっては、ただ坐る只管打坐は無理なのです。充分に非思量の状態の相続ができるようになって初めて、ただ坐る坐禅が只管打坐となるのです。
曹洞禅の修行者は、まず非思量の状態を知ることから始め、その非思量の状態を知ることができたら、その相続に専心、努力をするのです。
そして、非思量の状態の相続が、ある程度できるようになって初めて、ただ坐る只管打坐となるのです。この手順を踏まない只管打坐はないのです。
ただ坐っているつもりになっている只管打坐は、思い込みという余計なものを抱えた坐禅ですので、正伝の只管打坐ではないのです。
このような思い込んでいる坐禅には「我れと大地と有情と同時成道」ということはないのです。
「我れと大地と有情と同時成道」ということのない坐禅ですから小乗坐禅と称すべきもので、小乗仏教的性質を帯びた坐禅です。戒律を保つように坐禅をするのですから、大乗的性質の坐禅にはならないのです。自分の坐っている狭い範囲の坐禅なのです。それは「我れと大地と有情と同時成道」という無限の広がりを持つようにはならないのです。このような坐禅でも、全く無意味ということはありません。死ぬまで、そのつもりになって、信じ切っていけば、小乗仏教的な小乗禅としての価値は充分にあります。自らの救いは充分に果たせるのですから、六波羅蜜の持戒と同じ意味があるのです。これはこれで信じ切って死ぬまで疑を起こすことなくやり抜くことです。

大乗禅としての坐禅は無分別の分別の状態をもっての坐禅なのです。これが正伝の只管打坐です。無分別の分別心であれば、一挙手一投足すべて只管なのです。起居動作すべてが禅修行となるのです。
「只管」というのは、坐禅にのみ冠することができるものではありません。
すべてに対して無分別の分別であれば、すべての威儀・作法に冠することができるのです。言い換えますと、すべての威儀・作法は無分別の分別でなすことができるということです。
「只管」は人の行為・動作すべてに冠することができるのです。
只管打坐に限らず、只管喫茶、只管喫飯、只管作務、只管歌舞音曲、只管武道(柔・弓・剣)、只管スポーツ、只管料理、只管茶花香道、只管作業、只管労働、等々と言うことが可能です。すべてのことを只管打坐と同等の修行とすることができるのです。
つまり、すべての縁に対して無分別の分別の状態で対応すれば、何でも坐禅と同等の修行となるということなのです。
無分別の分別心で諸縁に対応することは、非思量の状態がしっかりと手に入っていれば、身心脱落以前でも可能なのです。
それは非思量の状態が手に入れば明瞭になることです。考えているだけではだめ・・なことです。禅の道は体験によって明らかになることだからです。
「しっかりと手に入れば」ということは、体験をしっかりとすれば、という意味です。
禅の道はスポーツや武道と同じで、思索だけではその実際の感覚を全く理解できない世界です。

また、無分別の分別の様子が分かりますと、日常的に無分別の分別心ですべての人間の活動がなされていることが明瞭になります。
自己の存在の有無に拘わらず、自己の意志の動く以前に、自己の意識の有無に拘わらず、自己が知っていようと、いなかろうと、無分別の分別心が諸縁に間髪を入れずに感応(対応)していることも明瞭になります。これらのことが明らかになるのは非思量の相続のおかげなのです。
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一瞬の非思量

2019.11.20
「非思量というのはどういうことですか。どのように工夫することですか。」という質問がありました。
それに対して、ある師家老師は拳で机をコツコツと叩いて「非思量というのは、こういうことだ。」と返答されておりました。こういうことについて、言葉を用いての何の説明もないままでした。
机を拳でコツコツと叩いたり、拍掌したり、朱色の扇子を取り出して広げて見せたりしたところで、それをもって非思量の様子とすることはできないのです。私達はこれらの動作(行為)を思量の動いているままでも、その逆に思量が全く動かない非思量の状態のままでも行うことができるのです。それは無分別の分別心によってなされるからです。
この無分別の分別心という機能は、悟っている・悟っていないに拘らず、誰にでもあるのです。そして、誰でもが日常的にこの機能を用いているのです。
身体の動作(行為)と、思量・非思量の精神的行為は全く関係なくなされ、全く関係なく為すことができるのです。それぞれ個別の行為なのですから、身体の動作(行為)をって思量・非思量の状態を表すことはできないのです。
元々、身体的行為は精神的行為である思量の制約を受けることなくなされるものなのです。身体的行為は、精神的行為である思量を無視して、優先してなされるものですから、思量・非思量の有無のいかんに拘らず状況に応じてなされるのです。
ですから、身体的行為が行われたからといって、思量中であるとも、非思量中であるとも言えないのです。

身体の動作(行為)を見ただけでは、その師家老師の心(頭脳)の状態が思量が動いているか、思量の全く生じていない非思量の状態なのかは、第三者である私達は窺い知ることのできないことです。
心の中の様子が思量の動いている状態なのか、思量の全く動いていない非思量の状態なのかは、師家老師本人が自らの口を開いて明らかにしなければ誰にも分からないのです。曹洞宗開祖道元禅師でも、黙して語らない師家老師の思量・非思量の心の状態を知ることはできないのです。
机を拳でコツコツと叩いただけでは、思量・非思量について何も他者に伝え、教え、説くことはできないのです。
更に、師家老師が机を拳でコツコツと叩いたり、拍掌したりして修行者や参禅者の聴覚(聴力)に訴えたり、或いは朱扇を掲げたり広げたりして修行者や参禅者の視覚(視力)に訴えたところで、それをもって非思量の様子(状態)を示すことはできないのです。

これをもって非思量の状態(様子)を示すことができないと言うには、もう一つ別の理由があるのです。
それは聴覚、或いは視覚からの入力刺激情報によって生ずる非思量の状態が時間的にあまりに一瞬だからです。
それらの行為がもたらす非思量はあまりに一瞬ですから、修行者も参禅者も非思量の状態を自覚することは勿論、覚知することもできないのです。
非思量のコントロールが充分にできる私でも、机を叩いたり朱扇を広げたりした時の一瞬の非思量では、その一瞬の非思量を自覚することはできないのです。
ただ、私達が覚知できない一瞬ではありますが、その瞬間の縁に対応する一瞬の非思量の状態は「理論的にはあるはずだ」と言うことはできるのです。
机を叩いたり、朱扇を広げたところで、その非思量の状態はあまりに一瞬なので、自覚したり、修行に活用できるほどの時間的分量はないのです。
一瞬の非思量では曹洞禅の修行に於いて何の意味もないのです。ただ道理として、机を叩いた瞬時は極めて一瞬、思量は停止するのです。
机を拳でコツコツと叩いて、一瞬、思量が停止して非思量になったところで、また一瞬にして思量が生じるのです。机を叩くという縁に触れて一瞬、思量が停止し、縁が滅して一瞬にして思量が動くのです。この繰り返しが我々の日常の心の状態です。

机を叩く程度の思量の停止を曹洞禅に於いては非思量とは言わないのです。
この瞬時の思量の停止は誰も自覚することはできないのですから全く意味がないのです。
曹洞禅の非思量は自覚のできる非思量でなければ修行に於ける意味がありません。修行に於ける非思量の状態を知る為には、一瞬ではなく時間的に数秒の長さの非思量が必要なのです。
机を叩いたり朱扇を広げたりして、これが非思量の様子であると示すことには無理があります。せめて数秒の非思量の状態を作り出すことができる何かで示さなければ、修行者や参禅者が非思量の状態を自覚することができません。
しかし、そのような何かを示すことはかなり難しいと思います。
結局は机を叩くような人の動作で非思量の状態を示すことはできませんので、まず言葉で丁寧に説明して理解させることから始めるのがよいのです。
非思量の状態を言葉で説明する場合に、非思量の状態と自己の存在の状態と無分別の分別の状態の三つの関係性を明らかにしなくてはならないのです。
この三つの関係性を明らかにすると修行者や参禅者は非思量の状態を正しく理解できるようになるからです。

机を叩いて、これを非思量であると示している師家老師自身も、この瞬時の非思量を覚知できているわけではないのです。師家老師本人は道理として「非思量のはずだ」と言っているにすぎないのです。
机を叩いて示している非思量はあまりに瞬時ですから、師家老師本人も覚知できているわけではなく、その状態をコントロール(制御)できているわけでもなく、道理として、そのはずだ、と言っているだけのことです。
この机を叩いての非思量は言ってみれば、点「・」なのです。点と点を結んだ線にも、線と線で囲まれた面にもなっていないのです。禅の修行に於いては点は全く意味がありません。せめて線で示さなければ、示している師家老師はもとより、誰も覚知はできないのです。
非思量を道理として線や面で示す工夫が師家には求められるのです。
非思量を言葉を以って道理としてその因果関係を説くことは、非思量の状態を知っている人ならば可能なことです。机を叩いたり、朱扇を掲げて非思量を示すようなことは修行者を惑わすことになるばかりで何の効もありません。実際の非思量の様子を自覚できませんし、解釈・理解が360度分もあるからです。非思量は公案として用いるものではないのですから、尚更です。そのように示している師家老師本人も、その瞬時の非思量の状態を覚知できないのですから・・・。


また、非思量の相続の工夫について、次のように説かれている師家老師もおられます。
「例えば、見台けんだいこつでコツコツと叩くと、その瞬間に一瞬の非思量の状態に誰でもがなります。五感と縁との関係はそのようになっています。特別なことではありません。但し、その非思量の状態はほんの一瞬で、すぐに日常の思量の状態に戻ります。一般の人は思ったり、考えたり、思い出したりして常に思量のある状態にあり、それが普通の状態です。」
さらに、この師家老師は「見台をコツコツと叩いた縁に触れることによって、それまでの思量の状態が断たれ、一瞬にして非思量になるのです。このように縁(外部からの一定の刺激)を繰り返して継続していけば、一瞬一瞬の非思量の状態が続いていくこととなり、非思量の相続が必然的になされます。自分が自覚する、しないに拘わらず、自然に、日常生活の中で非思量の相続の修行を行ってしまっているのです。このようなことで、在家のままで身心脱落してしまう人もいるのです。」と述べています。

これによりますと、笏で見台をコツコツと何回も何十回も打ち続ければ、一瞬の非思量の状態と雖も、連続することとなるので、実質的に非思量の相続がなされているということです。
このような非思量の相続の工夫は、どうも実際にやってみたわけではなく、「理論上はそのはずだ、できるはずだ」という意味合いで説いた工夫の仕方ではないかと思います。
この工夫の仕方が理論上のことであって、実際にやってみたわけではないと私が言うにはそれなりの理由があります。
上記のことを述べている師家老師は、人の五感の感応という機能にフェイドアウト(鈍麻)という生理現象があることを知っていないようだからなのです。この五感の感応の機能のフェイドアウト(鈍麻)は日常的によくあることですから、少し注意をすると分かることなのですが、この師家老師は工夫の話しをする時に気が付かなかったようです。
外部からの入力情報(縁)に対する五感の感応は、最初は思量が飛んでしまうぐらいですから強いのですが、同じ入力情報が何回も何十回も繰り返し入ってくると、その感応は徐々に鈍化していくのです。
そして、最後には全く反応しなくなってしまうのです。五感の感覚がフェイドアウト(鈍麻)してしまうのです。
この感応が鈍ってくるというのは、すべての五感の感覚においてそうなります。
笏で見台をコツコツと叩き続けると、最初の内は一瞬にして一瞬一瞬の非思量の状態になるのですが、それが何回、何十回と繰り返されると、聴力の感覚が段々と鈍り、終いには反応しなくなるのです。聞こえてはいるのですが聞こえなくなってくるのです。当然、非思量の状態ではなくなり、日常の思量の状態に戻ってしまうのです。
これが人間の五感に於ける連続して繰り返される入力情報に応ずる生理的反応なのです。外部からの入力情報がフェイドアウト(鈍麻)でなくなってくると、一瞬の非思量の状態もなくなってしまうのです。

この師家老師の非思量の工夫は人間の生理的反応の性質を忘れた理論上の工夫の仕方なのです。
この非思量の工夫の理論は人間の五感の生理的反応を無視した理屈の世界であって、非思量の修行の実際的裏付けがないのです。
禅は実際・実践を主とする修行ですので理論によるのみでは修行は成り立たないのです。
但し、禅の修行は、実際・実践であるといっても、それを理論的に解明、分析したり、理論的に理解したり説明したりすることは可能なのです。
禅の修行や身心脱落は因果の道理の上に成り立っていることは開祖道元禅師も述べておられます。
このことを正しく理解しないで、禅の修行や身心脱落は理論的に説明できるものではない、理論的に理解できるものではない、理論的に解明できるものではない、と主張される師家が多いのは残念なことです。師家方がこのように主張する根拠は「冷暖自知、不立文字、教外別伝、以心伝心」と禅の世界で古くから言われてきたからです。
これらの言葉の意味していることは、非思量の様子、無分別の分別の様子、心内に於ける自己の消滅した様子は言葉では伝えられないということです。
これらの様子はすべて五感と心眼(意識の視覚と意識の聴覚)で覚知することなのです。五感と心眼の覚知感覚は言葉で表現することも、他者に伝えることもできないのです。
例えば、「山椒の味」を外国の人に言葉で説明しても伝えられないのいと同じことです。「トリュフ」の味や香りを言葉で説明されても食べたことのない人にとっては分からないということと同じことです。
禅語の冷暖自知も、不立文字も、教外別伝も、以心伝心も、このことを言っているのであって、特別な、神秘的な、超常現象的な、超心理現象的なことを言っているわけではないのです。ごくごく一般的な当たり前のことを言っているにすぎないのです。
山椒のことについても、トリュフのことについても、ある程度の概要を言葉でもって説明することはできるのです。
禅の修行の因果関係や身心脱落について、言葉でもって、ある程度の概略をつかむことはできるのです。全くできないということはないのです。説明できるところまでは説明すべきです。ここの処は師家の力量や能力の問題なのです。
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悟りと感情(死の恐怖)

2019.12.12
身心脱落(悟る、自己の消滅)すると喜怒哀楽の感情はどうなるのでしょうか?
不快な嫌悪すべき感情のみかなり軽減してしまうのか。そのような感情は消滅して動かなくなるのか。
もしそうならば、嬉しいと思う方が多いと思います。

そうであればこそ、悟りの境地は、いついかなる時も「平常心」であり、「日々是れ好日」と説かれていることが納得できるのです。
不快な嫌悪すべき、忌避すべき感情がそのままで「平常心」「日々是れ好日」はあり得ないと考えるのです。当然のことです。

私は禅門に何十年と身を置いておりますが、師家老師が身心脱落すると感情はどうなるかということを説かれたこともありませんし、私自身が師家老師に尋ねたこともありません。また、そのようなことを耳にしたこともありません。そのことについて記した法語や禅籍も目にしたこともありません。
このことは、とても大切なことなのですが、自ら思ったことも考えたこともありませんでした。
身心脱落した後の喜怒哀楽の感情について説いたものを私は知りませんので、このことについて、修行している方々の参考になるように、私の分かっていることを書き留めておこうと思います。

取り敢えず、今回は感情の中でも最も重要な死の恐怖の感情について述べます。
死の恐怖の感情は喜怒哀楽の感情とは別の性格を持っています。
死の恐怖の感情は生まれながらにしてあるものではないのです。
生まれながらの感情ではない証拠として、幼い児には死の恐怖がないことを私達は日常的に経験しています。また、身心脱落した禅僧は死の恐れがなくなることからも、それが分かるのです。
死の恐怖の感情は意識の成長に伴って育っていく感情です。
他面から見ますと、自己保存本能の成長と伴に育っていく感情です。
自己保存本能は意識の成長と伴に育っていくものなのです。
死の恐怖の感情は意識が育て上げていくものです。
自己保存本能も意識が司どり育て上げていくのです。
意識が成長し一人前の大人になった頃に、死の恐怖の感情も成長し大人になるのです。

現代に於いては、身体面の成長と精神面の成長はずれることが多いものです。人間社会に於いては、身体面の成長の方がかなり早く、精神面の大人への成長は遅れるのが一般的です。
身体面が大人になるのは思春期の頃です。この頃に意識も成長して大人になるのです。
精神面に於いては、大人となり社会的に自立し生活できるようになる為には多くの学ばなければならないことがあり、学習、教育に時間がかかります。15〜16才では社会が高度化し複雑すぎて学びきれません。
その一方で核家族、少子化であり、親が子に対して過保護となり、親類との交流も減り、それが基となって社会的経験も不足します。その結果、子供の自立にブレーキを掛けることも多いのです。また、子離れできない親の為に子供が自立できなくなることも多いのです。
ニートや引き籠りのような精神的成長障害が目立つようになった所以でもあるのです。
このような傾向の実状からも身体よりも精神面の成長が遅れるのが一般的です。
意識が健全に充分成長していないと、死の恐怖の感情も充分成長しないのです。現代に於いては子供の意識の健全な成長を抑圧するような養育、教育をする親も多いのです。
子供の家庭内暴力の問題は、親による子供の意識の健全な成長を抑圧し続けた結果であり、意識の活動が封じ込められた結果なのです。成長した意識の行き処、発露すべき処、発散すべき機会がなく、暴力として現れたものです。
意識には元々、自立し自己と他己を区別、他者を排除する機能があるのですが、その機能が、抑圧を強制し続けた養育の大恩人である親に向けられ暴発したものなのです。
家庭内暴力の責任はすべて親にあり、その子供がたとえ20才になったとしても、30才になったとしても、子供は加害者ではなく被害者なのです。子供が爆発するまで、親は親の権力を子供に幼い頃より振り回し続けて、随分と楽な我儘な養育、子育てを、子供が親よりも体力が勝るまでやってきた結果なのです。
子供はずーっと抑圧されて苦しかったのです。素直な良い子供は苦しいことに気付かずに苦しんできたのです。子供は何も分からずに苦しかったのです。誰が苦しめているかも分からなかったのです。何が原因かも分からずに苦しいままに素直な良い子だったのです。それが何かを縁として爆発が始まるのです。
子供の意識を健全に育てる責任は子供にあるのではなく、大人である親にあることを自覚していない親が増えたということです。
これは子育てに於ける意識の重要性に気付いていない現代の親に問題があるのです。昔の人は経験則でこのことに気付いていたのです。それを代々受け継いできたものなのです。
話しが少しずれてしまいましたので元の本題に戻ります。

死の恐怖の感情は意識の成長に伴って思春期の頃までに成長するのです。そして止まるのです。恐怖心もここまで成長すれば、生存する為には充分の成長がなされたことになるのです。
但し、人間の場合、死の恐怖の感情は意識の成長が止まっても成長していくのです。それは欲望と同じメカニズムで膨らんでいきます。
年をとっていくにつれ、10代や20代よりも死の恐怖感(恐怖心)は増し、命を惜しんで無謀なことができなくなっていくのです。
10代や20代の死の恐怖感は生存に必要で充分な恐怖感なのです。年をとっていくにつれ死の恐怖感は必要以上になっていくのです。
10代や20代の若者の意識の成長が止まる頃の死の恐怖感には、使命感を越えるような感覚の恐怖感はないのです。逆に言えば、死の恐怖感を越えて何かに人生を賭けることができると言えば言えるのです。その分、自由なのです。束縛するものがないようなものなのです。命に未練のない年頃なのです。死の恐怖感が正常に働いている証しでもあるのです。

身心脱落すると、死の恐怖の感情は消滅してしまうのです。幼児のように死の概念が消滅してしまうのです。人は生まれながらにして死の恐怖の感情があるわけではありません。一般的な喜怒哀楽の感情はあるのですが死の恐怖の感情はないと言ってよいぐらい小さいのです。
一般的に7才ぐらいが死を自覚し始めるのでしょうか?
それに伴って死の恐怖の感情も少しずつ芽生え成長していくのです。これは意識の成長と並行しているのです。
身心脱落すると死の恐怖が消滅してしまうのは、死の恐怖を司る意識が消滅してしまうからです。死の恐怖の感情のみは意識が司っているからです。
死の恐怖の前に於いては、他の全ての喜怒哀楽の感情は消滅してしまうのです。動くことはないのです。
死の恐怖が生じる時の心は無常を観ずる心なのです。無常心が支配している時は、人の心には吾我の心が生じないのです。そして、名聞利養の心も動かないのです。そして、時間の過ぎ行く速さに恐怖するのみなのです。
これは道元禅師が述べていることです。私も体験上、この通りであると確信しております。。
このことは道元禅師や私だけのことではなく、どなたでも無常心が心を支配している時は同じはずです。

死の恐怖は意識の作り出した自己にあるのです。
そして、更に死の恐怖は物理的存在の生身の肉体ではなく、意識の作り出した精神的身体に対してあるのです。
この意識の成長に伴って自己の中の自己も確立していき、精神的身体も形成されていくのです。
そして、これらの自己の中の自己と精神的身体が一応出来上がるのが思春期の頃なのです。意識が成長し、その機能が機能できるように成長を遂げる頃とほぼ一致するのです。
これら死の恐怖は意識が司るものですから、禅の修行によって解脱すると、意識(自己の中の自己)が脱落(消滅)してしまいます。そして、自己の中の自己と精神的身体も脱落(消滅)してしまうのです。ここに至って死の恐怖は消滅し、死にまつわる苦悩はすべて解決してしまうのです。その反面、これは一面素晴らしいことのように思われますが、自己保存本能の放棄を意味していることですから、生き抜くことが至上命題である動物としての人間にとっては重大な事なのです。

禅門に於いては、死の問題を「死の問題」とは言わずに、必ず「生死の問題」と言います。それは生死一如(生と死は一体である。生と死は同じものの裏表である。生と死の正体は同じものである。)だからです。
私達の「生きている」という自覚は自己の中の自己に対するものであり、精神上の身体に対するものなのです。死に対するものと全く同じ構図なのです。それ故に明らかに生死一如なのです。
生まれてから直ちに死の恐怖の感情が大人並みにあるわけではないのです。死の恐怖の感情は成長するものなのです。意識も生まれ落ちてから成長していくものなのです。
意識の機能も生まれたばかりの時は弱く小さいのです。それも身体が成長するに従って成長していくものなのです。
意識の機能は自己保存本能と自己遺伝子保存本能を全うする為に必要な幾つかの主たる機能を持っているのです。
自己保存本能を全うする為に死の恐怖は必要欠くべからざる重要な機能なのです。
死の恐怖心は単なる感情ではなく生き延びる為の重要な機能と見なくてはなりません。

2019.12.22
人は死を恐れるが故に生き続けたいと願望するのです。
死の恐怖はあらゆる願望、あらゆる生きる望みを奪い、破壊するのです。
死の恐怖は全ての望みを断つ(絶つ)のです。
つまり、望みも欲望も全く無い世界に私達を引きずり込むのです。
そのような世界は死の恐怖の世界しかないのです。
あらゆる望みも欲望も全く役に立たない世界が死の恐怖の世界なのです。
この時に抱く人の感情が無常観なのです。
その時の心が無常心なのです。
死の恐怖の世界がこれほど恐ろしいが故に、自己保存本能が有効に機能するのです。
死の恐怖心があるが故に、何が何でも最優先に生き抜こうという自己保存本能が成り立つのです。
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悟りと感情(喜怒哀楽)

2019.12.12
身心脱落(悟る、自己の消滅)したからといって喜怒哀楽の感情や快・不快の感情が消滅したり、本質的に変化したりすることはありません。感情そのものは本質的に何も変わることはないのです。
何事があっても平然としていて感情の動きの極めて少ないゴルゴ・サーティーンのような人間になるわけではないのです。禅はゴルゴ・サーティーンのような人間となって世の中を感情の起伏を極力抑えて、泰然自若として渡っていくことを目指しているわけではないのです。

身心脱落すると感情に動かされる度合いが減るのです。
動揺することがなくなるわけではなく、その度合いが小さくなっていくのです。
ここの処を誤解している人が多いのです。かっての少年のように感情が純粋になるだけのことです。感情に名利の打算が干与する度合いが減るのです。
喜怒哀楽の感情は元来、善いものでも、悪いものでも、苦しいものでも、辛いものでもないのです。全ての感情はどなたにとってもそれぞれ耐え得る範囲のものです。心を痛めるものであっても充分に耐え得る範囲のものですから、心配することも忌避することもないのです。
身心脱落すると全ては「日々是れ好日」で、我れ関せずというようになるわけではないのです。素直な元々の感情の働きに戻るだけのことです。感情の動きに引きずられることなく、切り替えが上手になるのです。
この状況を禅に於いては思量、分別、感情の「前後際断」というのです。
幼な児や少年は気持、感情の切り替えが上手ですから後を引くこともなく、感情的になることもなく、心痛したり苦悶するようなことはないのです。
たとえ親が死んでも、そのような感情は動くことはなく純粋な悲しみだけなのです。幼な児や少年が慟哭するようなことはあり得ないのです。
大人は感情に執着する癖がついていますので、このようにはいかないのです。感情を充分に抑制し楽になりたければ、感情に執着する癖を取り除く必要があるのです。
その為には感情に執着する癖がどのように身についたのかを知る必要があります。これが分かってくると感情に執着する癖を取ることが可能であることが理解できるのです。

また、基本的には、身心脱落すると、負の感情が生じるようなことをしなくなります。自らの責任で生じた負の感情はいつまでも後を引くからです。良いことは一つもないのです。
また、負の感情を生ぜしめられるような人を相手にしなくなります。そのような負の感情を他人に生ぜしめるような業を持った人は、他者に負の感情を生ぜしめることを好むからです。相手にしている限りそれが止むことがないのです。
また、負の感情が生じるような事に首を突っ込むようなことをしなくなります。負の感情が生じるような事とは、強い利己心に関わること、強い名聞利養に関わること等です。
以上の三つのことができるようになるだけでも、不快な感情に悩まされたり迷惑を受けることが大分減ることは確かです。
以上のようなことを申し上げると、現実から目を背け、見て見ぬふりをするということになるように思われるでしょうが、そのようなことはないのです。
卑怯な真似をしたり、責任を回避したり、現実を逃避して保身に生きるようなことは決してしないのです。
身心脱落した禅僧は縁に従って何事もしっかりと受ける人間となるものです。名利を捨てた人間ですから、自らの損得は何一つ顧みることはしないものです。あるのは社会的正義だけなのです。
しかし、それを実現する為に、どのように行動し言動し生きていくかは、その禅僧の個性によるもので決まりはありません。あらゆる選択肢が状況に応じてあるのです。一つだけではないのです。二つや三つだけではないのです。それが一般的社会人とは異なるところです。
身心脱落した世界では一般的な価値観だけでなく、それこそあらゆる価値観を内包した全宇宙的価値観というものがあるのです。身心脱落した禅僧には選択肢が無限にあるのです。

身心脱落すると、喜怒哀楽の感情の内、負の感情のみが消滅したり、或いは肯定的な感情のみになったり、負の感情に対する忍耐力が強くなるわけではないのです。
身心脱落すると嫌なことがなくなり、嫌な人もなくなり、苦手な人もなくなり、不快に思うことも、避けて逃げてくなるようなこともなくなり、毎日が「日々是れ好日」になると思うのは間違いです。
何があっても気が動転することもなく平常心で泰然自若とした心境で対処していけると考えることも間違いです。
身心脱落しても喜怒哀楽の感情は消滅してしまうことはないのです。身心脱落した人としての特別な感情に変化するということもないのです。

開祖道元禅師はその著「正法眼蔵、現成公案」の巻の中で「花は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみなり」と述べておられます。
身心脱落しても愛惜という感情も棄嫌という心もありますと述べているのです。
つまり、愛惜と棄嫌とは言っていますが、これはこの二語で感情を代表して述べているだけで、喜怒哀楽の感情はすべてそのままでありますということを述べているのです。
身心脱落したところで何に愛惜を感じるか、何に棄嫌の心を動かすかに原則はなく、その人その人の因縁によるものであって、それぞれがその人の個性となって現れるのです。
「あの花は好き、この花は好きではない。」「この人は好き、あの人は嫌い。」「これを食べたい、それは食べたくない。」等々。これは自分が考えて決めたわけではないのです。
ほとんどの人は自分が決めたと思っておりますが、好みに思考や判断は必要がありません。そのような心が動く前に縁に触れて間髪を入れぬ速さで決まってしまうのです。私達の好みの選択は意志的、合理的な方法では為されないのです。
それらは無分別の分別心によって為され、自己はそれを自覚するだけです。
例えば花屋さんで花を購入するとき、私達は並んでいる花から好きなものを何でも選ぶことができます。しかし、自分がどの花が好きかを決めることはできないのです。
自分がどの人を好ましく思い、どの人を好ましく思わないかは自分が決めることはできないのです。
自分が何が好きで何が嫌いなのか、自分が何を欲して何を欲しないのかを私が決めることはできないのです。
禅門に於いては、物事の愛惜や棄嫌を決めるのは無分別の分別心が決めるということになっています。愛惜や棄嫌は自己が為しているわけではないのです。知らぬ間にそうなのです。このようなことに私達の自由意思はなく、私達は決まったことを事後承諾しているだけなのです。
このことは曹洞禅の非思量の相続をしていくと分かってくることですから、私の述べていることに不信を抱くようでしたら非思量の修行をやってみることです。

快・不快、恐怖、不安、嫌悪等の喜怒哀楽の感情は、動物及び人間が森羅万象の中を生き延びていく為に必要な基本的な機能なのです。それらが消滅してしまうとゾンビのような無欲、無感情の存在になってしまいます。
身心脱落しても、感情の機能は生きていく為に必要なものですから消滅してしまうことも、減退することも、鈍麻することもありません。ただ子供のような純粋な感情に戻るのです。
身心脱落すると感情が容易に動かなくなり、感情を超越して泰然自若の心境になるわけではないのです。常に不動心であり、常に平常心であることを願って坐禅をしても、文字通りの心境になるわけではないのです。

明鏡止水の心境や不動心、平常心、日々是れ好日も禅門に於けるものであって、一般の人達が思い描くことのできる心境ではありませんから注意が必要です。
これらは一般の人の心の様子としてあるものではなく、身心脱落して自己が心の中から消滅してしまった心の様子なのです。一般の人には思い巡らすことのできない心の様子なのです。一般の凡人のまま、そのような心境になることはありません。一般の人が憧れることは良いことですが、自己のない心の様子ですから想像はできないのです。本当に知るには自ら脱落の体験が必要です。
身心脱落すると縁によって生じた感情の「際断」が自由になるので、生じた感情に引きずられて苦しむことはなくなるのです。

感情の生滅は私(自己)が為すのではなく、縁に感応して主体なく為されるのです。但し、生じた感情に執着するかしないかは、私(自己)が自ら選択することができるのです。
縁に応じて最初に生じた初感情(一次的感情)は快・不快、好悪はありますが、それによって苦悩するまでには至らずに消滅してしまうのです。但し、放っておいた場合ですけれども・・・。
最初に生じた感情に執着して感情に感情を重ね、思いに思いを重ねることによって、感情は強くなっていく性質を持っているのです。
感情は放っておかないで相手にしていると、増大し強化され膨張していく負の連鎖となる性質があるのです。
快・不快や好悪に拘らず感情に執着し、その感情に伴う思量に執着し、それを繰り返し思い続けることによって相乗的に感情は増大していくという原理なのです。
曹洞禅の非思量の修行は感情に伴う思量に執着する癖を弱め、消滅せしめる方向に導いていくのです。
感情に伴う思量が生じなければ、感情の悪化は防げるのです。そして、感情は増幅していくことはなく、苦の伴う感情の負の連鎖を断つこととなるのです。
感情が二次、三次、四次と発展せずに初感情に留まることになれば、感情が悪化して自らが苦しむことがなくなるのです。
感情の強化増大は、その感情が好ましいものでも、不快なものでも、苦悩の原因となるのは確かです。
火に油を注ぐというように、感情という火に思量という油を注ぐことが感情悪化、苦悩の原因なのです。
思量に思量を重ねること、その問題を思い続けることが、感情という火に油を注ぎ続けることになるのです。
執着する思量を断つことが重要です。
曹洞禅の非思量の相続は、このようなことに適う修行なのです。

感情は刺激情報が外部から五つの感覚(眼耳鼻舌身)を通じて入力されることによって生じるものです。それは人の意識も思考も分別も関与することなく為されるのです。この時に生じる感情が初感情(一次的感情)なのです。
人は入力された記憶を外からの縁がないにも拘らず、内部で出力し入力することができるのです。つまり、一人相撲ができるのです。
外部からの刺激情報に感応して生じる初感情(一次的感情)に対して、既に記憶された刺激情報を心の中に思い起こして、その情報によって感情を生ずるのです。つまり、二次的感情が生ずるのです。二次的感情は三次的感情、四次的感情、五次的感情と無限に発展していく性質があるのです。
初感情(一次的感情)は心を悩ますようなことはないのですが、二次的感情、三次的感情へと次々に二転し三転していく感情は「次」を追う毎に苦悩となり苦痛となっていくのです。この感情の発展、悪化には必ず思量が伴っているのです。思量が伴なわなければ感情は発展、増幅していくことはないのです。
負の思い想像を重ねる毎に、感情はそれに伴って膨らみ、苦悩も増していくというメカニズムなのです。
そして、「次」を重ねることによって初感情に対して発展し増幅し強化された負の感情が定着してしまうのです。大人になると初感情の動きは弱くなり定着した負の感情がいきなり動くのです。
感情は初感情の時は良いのですが、負の感情が「次」を重ねることによって固着してしまうのです。一度固着してしまった感情は初感情が動くと同時に動くのです。このことは負の感情ばかりではなく、正の感情の場合もそうなのですが、正の感情の場合は個人的にほとんど問題になることはないのです。
外部からの刺激情報に反応するだけの初感情(一次的感情)だけで済ますことができるならば、人の苦悩は全く生じないのです。初感情(一次的感情)に快・不快はあるのですが、その初感情に苦悩はないのです。
初感情で生きているのは、かっての昭和の子供達なのです。現代の子供はそうばかりでもないようですが、私は現代の子供に接することがありませんので、はっきりとはわかりません。
子供は初感情で生きているので天真爛漫でいられるのです。動物も同様なのです。だから無邪気で可愛いのでです。
初感情には懲りるということはないのです。こりごりという感情は動かず、いつも初心感覚なのですから不思議なものです。
子供というものはそういうものだったのですが、現代の子供というのは、どうなのでしょうかねぇ・・・。
このような初感情だけで生活していくことは大人には無理な相談です。
大人には童心などないのですから・・・。「初心忘る」のが大人なのです。初感情は初心のことでもあるのです。

繰り返しになりますが、初感情に対して心の中でそのことを思い起こして二次的感情が生じ、この二次的感情を刺激情報として三次的感情が生み出されて無限に膨らんでいく宿命なのです。
このように際限なく思考想像に基づく感情が生起され増強されていくメカニズムになっているのです。負の感情は増々負の感情となっていくのです。一般的な合わせ鏡に映った像は段々と小さくなっていくのですが、感情はまるで拡大鏡の合わせ鏡のようなシステムになっているのです。それは人の執着心(習い性)が関与しているのです。強迫神経症的性質が関わっているのです。
曹洞禅の非思量の修行によって執着心を自在にコントロールし、際断していく禅定力を養うのです。この際断する禅定力によって苦悩は消滅する方向へと向かうのです。
この際断する禅定力は思い、考え、想像する習慣性(癖)を際断する力でもあるのです。この力は身心脱落へと繋がっているのです。非思量の相続は前後際断の定力を養うことに繋がるのです。
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身心脱落は無分別の分別心が覚知する

2020.1.12
「修行らしきことは何もせずに機能通りに任せきったのです。六根の眼耳鼻舌身意を開放せられたのです。どのような縁に触れても問題にせず、相手にしないで徹頭徹尾捨ててしまってゆかれたのです。そうしたら遂に認識そのものが死んだのです。認識そのものが死んでしまっている時にピシャと隣単の雲水を打つ音がしたのです。その途端に初めて死に切っていた認識が息を吹き返してチラッと頭をもたげたのです。心意識がチョコッと動いたのです。それで自らが自己を忘じていたことに気がついて、あらっ? ははあー  これで終りか と結着したのです。自ら身心脱落したことを自覚したのです。
落ち切った時は認識が死に切っているのです。
身心脱落した時は、認識が死に切っているが故にそれを知る者(自己、主体)はいないのです。
認識が死に切っていた世界では、一切の事は自覚することは不可能です。一切の事を自覚するのは認識なのです。
一切の事を自覚するには、死に切っていた認識が何かの縁で頭をもたげる必要があるのです。
その縁は、佛陀は明けの明星でした。
宗祖道元禅師は隣単の修行者が居眠りしていて叩かれた音で、白隠禅師はコオロギの鳴き声を聞いて認識が動いて身心脱落したことを自覚したのです。
自己を忘じたことは認識が動くことによって気がつくのです。」

以上のように身心脱落(自己を忘ずる)の様子を説明している曹洞宗師家がおりました。曹洞禅の師家がこのように身心脱落の時の様子を明らかにすることは誠に珍しいことです。

私はこの説明を読んで正直言って違和感を覚えました。
それは、身心脱落の体験の自覚は認識がするのであるというくだりです。
一度死に切った認識が再び動く、頭をもたげる(復活、蘇生)という件です。
この場合の「認識そのものが死に切る」、或いは「落ち切る」というのは自己が落ち切ったという意味です。つまり、自己を忘じたこと、或いは身心脱落したという意味です。
認識は意識の働き、或いは意識そのものといってもよいぐらいのものですから、意識が完全に消滅(脱落)したことを斯く表現したのです。
この文で問題なのは、一度脱落した身心或いは意識が何かの縁によって再び動くという点です。そして動いた認識によって自らが身心脱落したことに気づいたという点なのです。
身心脱落の身心も、意識も、認識も、自己も、その正体は皆同じもので、その作用(働き、機能)によって分別ぶんべつした呼び名なのです。
曹洞宗開祖道元禅師の述べている身心脱落の身心は、一度脱落(消滅、忘却)すると復活(蘇生)はないのです。それ故に「死に切る」と言うのです。
一度死んだら身心を備えた人間が蘇生することはないのが常識です。仮死状態のような完全に死んでいない場合の蘇生はあり得ますが、完全に死んだと診断されれば復活はないのです。一度完全に死んだとされて、三日後に復活された方はイエス・キリストぐらいなものです。
禅門に於いて、一度完全に死に切った認識や自己は再び頭をもたげるようなことはないのです。再び動き出すような身心脱落はないのです。
禅の世界に於いては、一度落ち切った身心、一度死に切った認識が頭をもたげて、その機能を復活することはないのです。
この点はどうなのでしょうか?
何か重大な見落としがあるようです。

また、このお師家さんは認識が再び動いて身心脱落(自己が落ちたこと、自己を忘却したこと)を自覚したと述べております。
このお師家さんは物事の存在や変化、心の存在や変化、身体の存在や変化を自覚し識別するのは認識しかないと思っていることも、重大な見落としなのです。
人は認識によって物事の存在や変化を覚知し識別する以前に、無分別の分別心によってそれがなされていることに、このお師家さんは気づいていないのです。
このお師家さんは物事の存在や変化を認識によって自覚すると言っていますが、実際は認識ではなく、私という自己のない無分別の分別心によって覚知し識別しているのです。しかし、このことは非思量の状態でなければ知ることはできないのです。
一般の人、或いは非思量の相続のできない禅僧にとっては見掛け上、森羅万象すべてを認識によって覚知し識別しているように思えるのですから無理のないことです。
身心脱落すれば、無分別の分別心の働きがよく見えるはずです。認識によって落ち切ったことを自覚するのではなく、無分別の分別心が落ち切ったことを覚知するのです。ここの処は極めて重要な違いなのです。
一般の人の平常の心の動きである思量の相続と、正しく曹洞禅を修行している禅者の非思量の相続とは天地の違いがあるのです。

認識は身心脱落すると、死に切ったまま再び息を吹き返すようなことはないのです。
認識の正体は意識であり、その働き(作用)だからです。自らの身心脱落を自覚するのは私という自己の存在しない無分別の分別心によるのであって、それを知る者(自己、主体)の存在は必要がないのです。
一般の人、及び非思量の相続ができない禅僧は、森羅万象の存在や変化を意識の働きでもって覚知し、識別し、判断し、記憶し、感情が動いていると思っておりますが、実際は、以上のことは自己のないまま、或いは自己の存在に関係なく無分別の分別心で覚知し、識別し、判断し、記憶し、感情が動いているのです。
ただ、一般の人、或いは非思量の相続ができない禅僧は、これらの機能に意識(自己)が必ず伴っているものですから、自分が認識しているように思っているのです。
一般の人や非思量の相続ができない禅僧がそのように思っていても日常生活に何ら支障もありませんし、重大な影響もありませんので気にする必要はないのですが、禅門のお師家さんがこのように思っていることがあるならば、それは問題なのです。
曹洞宗に於いては、まず、曹洞宗開祖道元禅師の説かれますように、非思量の相続ができるようになることが大切です。ここから正修行が始まるものだからです。

非思量の相続ができるようになりますと意識や認識は、物事の存在や変化、自らの心の様子や変化、自らの身体の様子や変化の覚知にも、識別にも、判断にも、記憶にも、感情の動きにも、何の働きも関与もしていないことが分かるのです。
非思量の状態になってみると意識や認識が心の中にどのような状態にあるか、何処にどのように作用しているかが観察できるのです。
身心脱落を自覚するのは認識が動いてするのではなく、また認識によってするわけでもないのです。
身心脱落は無分別の分別心が自覚するのです。自覚するとは言っても自覚する主人公の存在が必要ないのです。

このお師家さんは続けて「死に切った認識が動いて身心脱落したことを自覚したのです。認識が死に切っていた(身心脱落した)世界では、一切の事は自覚することは不可能です。自覚できないので記憶も当然ありません。
認識が死に切っていたその間が身心脱落の状態であって、その間のその様子を自覚することはできないのです。空白の時間が斯くあったことは確かです。
しかし、その間、何があったか、どのような状態であったかの自覚が全くないのです。重大な体験を確実にしたという事実は揺るぎなく私にはあるのです。
認識が縁によって頭をもたげて初めて、その時に身心脱落したことを自覚したのです。」と述べておられます。

このお師家さんは死に切っていた認識が頭をもたげて身心脱落したことを自覚したと言っていますが、それが身心脱落であるという確証はないはずです。これが身心脱落ではないかな程度のはずです。ここで正師の証明が必要となるのです。
残念なことに、このお師家さんの場合、これは悟り(身心脱落)ではなく、心理学の世界で一般によく知られているところの意識の変容状態の一つである一時的な記憶喪失です。
意識の変容状態は様々なパターンが研究されていますが、その一つに一時的な記憶喪失状態もあるのです。
この意識の変容状態である一時的な記憶喪失が何かの縁で解除されますと、まず意識が戻り、そして認識が正常に機能し始めるのです。その間の記憶は全くないのです。
記憶喪失中、その間がどのくらいの時間なのか、その間に何があったのか、その間はどのような様子であったのか、その間自分は何をしていたのかなど、全く記憶にないのです。何かの縁で記憶喪失状態が解除されますと意識と認識がすぐに戻りますので、自分が記憶喪失状態に陥っていたことに気づくのです。
正しく身心脱落をしますと記憶喪失状態に陥ることはありません。そして、縁に触れて自らが身心脱落したことを自覚しても、自己も意識も認識も脱落(消滅、忘却)したままで復活することはありません。自らの身心脱落を自覚するのは私ではないのです。
私は脱落してしまっているので「私」が自覚することはないのです。「私」とは意識であり、認識であり、自己のことです。

身心脱落は無分別の分別心が覚知するのです。正しく身心脱落していれば、自己や認識ではなく無分別の分別心によって身心脱落を覚知していることに気づくはずです。無分別の分別心は自己なき分別をし、主体なき分別をするのです。認識なき分別をするのです。
無分別の分別には、私達が自覚できるような言葉や意識の伴う思考・想像のようなものが介在することはないのです。それ故に無分別と言うのです。その無分別の分別がいつどのようになされたかは本人は勿論のこと誰もわからないのです。常に間髪を入れずになされているのです。道理に従ってなされるわけではなく、諸々の縁に感応してなされるのです。縁の世界には人間の道理、価値観は通用しないのです。
思考力や言語能力や記憶力を基にした知識や判断を一切用いずに、佛法の定まれる正思惟によって身心脱落を覚知するのです。ここの処は曹洞禅の坐禅の要術である非思量の相続の修行を進めていくと自ずから分かってくることです。一念不生の状態です。不生の佛心の人になることです。

心理学の世界に於いて一般的によく知られている意識の変容状態を見性、或いは身心脱落と間違う修行者には共通点があります。
それは非思量の相続に重きを置いていないと同時に、非思量の相続の経験が全く無いということです。非思量に坐禅の要術としての重要性を認めていないのです。
そして、そのような修行者は禅の修行に於いて、或いは見性、或いは身心脱落の体験に於いて、思量の有る無しは関係ないと言います。思いや考えは止めることも邪魔にすることもなく、あるがままに放っておいてよいという考えなのです。思量の有る無しは見性や身心脱落には関係ないと判断している修行者の見性や身心脱落の体験は、意識の変容状態の体験である可能性が大きいのです。
意識の変容状態は実際、思量の有る無しに拘らず起きるのです。そして、そのままあるがままの状態で突然に生じるのです。
この体験を見性ととるか、身心脱落ととるかは、自己の有る無しに常に着目して修行をしていたか、いないかによるのです。
自己の存在に常に着目して非思量の相続に専念している道人は、意識の変容状態の体験に囚われることはないのです。常に自己の有る無しだけに注目して修行しているからです。特別な体験よりも自己の有る無しを常に優先して修行する人を真の道人と言うのです。

人というのは正しくても間違っていても、同じように自信を持つことができるので、不思議であると同時に厄介なものなのです。
師家が揺るぎない自信を持っているからといって正しい修行をしているとは限らないのです。正しい身心脱落をしているとは限らないのです。修行者は注意が必要です。
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一分いちぶの思量

2020.2.13
黄檗断際禅師著の宛陵録に次のような文がありました。
うっかりすると見過ごしてしまう文なのですが、非思量の状態の相続についての極めて重要なものです。
これは「不思善不思悪」、つまり「非思量」「一念不生」「見をむべし」について、どこまでその状態を徹底させるべきかについて述べているものです。
いついかなる時も完璧に不思善不思悪、非思量、一念不生、見を息める状態を相続しなくてはならないということを説き示したものです。
場合によってはそこまで完璧に非思量の状態の相続を求めなくても、ほどほどできれば身心脱落は可能ではないかと考える修行者に対する答えなのです。
このことに言及している祖録や法語は他にはないのではないかと思います。私にとっては初めてにして唯一の語録です。私に限らず大方の師家や修行者や参禅者は、このような一文を知らないと思います。
そこで、曹洞禅の身心脱落を求めて非思量の相続を真摯に勤めている修行者や参禅者が知っておくべきものと思い、ここに紹介することと致しました。

問 「三界を出離するというのは、どういうことですか?」

答 「善をも、悪をも思わぬことです。そうすれば、たちどころに三界を出られるのです。もし一切の心(この場合の心は念のことです。思量のことです。)がなければ、三界も存在せぬことになる。もし微塵を砕いて百分し、その九十九まはで無くしてしまっても、一分だけ残存していれば摩訶衍は輝き出ることができないのです。その百の微塵全部が無くなって始めて摩訶衍は輝き出ることができるのです。(摩訶衍は大乗の教えのこと。具体的には身心脱落すること。)」
以上です。

三界を出離するというのは身心脱落することを指します。身心脱落するというのは大乗の教えそのものの人となることです。
三界を出離する為には善をも悪をも思わぬことが必要なのです。不思善不思悪の状態を相続すれば、三界を出離することができるのです。
三界を出離するということは身心脱落することであり、身心脱落すれば三界(現世)を出離することができるのです。
三界は今生きている娑婆世界のことです。この三界は本人自身が在ると考えている三界です。心の中に概念として在る三界なのです。この三界は自己を離れては存在しないのです。

不思善不思悪というのは善いことも悪いことも思わないということですが、これは善人悪人の考えをしないという倫理的意味ではなく、思善・思悪という二つの相対する思量の仕方をもって思量全般を表わしているのです。思量には当然、善にも悪にも拘わらない思量がありますが、その思量の中で特に善と悪に拘わる思量のみを摘出し、指し示しているのではないのです。思量全般を善と悪という言葉でくくって象徴的に代表して言い表わしたまでのことです。
六祖の説、不思善不思悪は思量という思量すべてのことを指しているのです。

「もし微塵を砕いて云々」という箇所は思量すべてを百分に分割して、その内の九十九までを無くしてしまっても、一分だけでも残っていれば摩訶衍は輝き出ることができないのです。つまり、身心脱落することはできないということです。その百に分割した思量の百、全部が無くなってしまって始めて身心脱落することができると説いているのです。つまり完全な非思量です。いついかなる時も完全な非思量であることができれば摩訶衍は輝き出ることができるのです。

平常心是れ道という平常心は、非思量の状態のことを言っているのです。
平常心が非思量である時が即ち今、佛道が手に入り、佛道そのものであるということなのです。
祖師方の平常心は非思量なのです。
身心脱落後の聖胎長養は死ぬまで続くこととなりますが、それは非思量の日常ということです。日常の心がつまり平常心なのです。
身心脱落をしていない凡人の日常の平常心とは自ずから本質的に異なるのです。このことを肝に銘じて非思量の修行をすることが大切です。
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祖師方の教えはすべて非思量に集約する

2020.3. 2
黄檗断際希運禅師著「伝心法要」「宛陵録」からの抜粋。

「念を動ずれば即ちそむく、念をめ、慮を忘ずれば、佛、自ずから現前する」
この「念」は思量のこと。「乖く」は佛道、悟りから離れていってしまうことです。念も慮も思量のことです。「息める」「忘ずる」というのは思量をめるということですから非思量の状態のことです。
「佛、自ずから」の「佛」は悟りの世界、身心脱落した世界、無我の世界のことです。
全体の文の意味は「非思量の状態を相続すれば、悟り(身心脱落)の世界が自ずから現れる」ということです。身心脱落するということを言っているのです。

「一念も生死を計すれば、即ち魔道に落ち、一念も諸見を起こさば即ち外道に落つ」
「一念」は「考え一つ」ということです。生死について考えを一つでも動かせば、佛道から外れるということです。
「諸見」の「見」は見解のことで、諸々の縁(出来事)についての考え、思い、想像のことです。
諸々の縁(出来事)について、一つでも考え、思い、想像すると佛道から外れてしまいますという意味です。

「六祖いわく、汝しばらく暫時しばし、念をおさめて善悪すべて思量すること莫れと。」
「六祖」は菩提達磨大和尚から直系の六祖慧能禅師のことです。
「念を斂めて」の斂めるというのは納と同じ意味です。念を斂め(納め)というのは念を用いることをやめるという意味です。
「善悪都て」の「都て」は「総て」と同じ意味ですので、善悪の分別判断の思量すべてをすること莫れという意味です。

「真を求むることを用いず、唯すべからくけんむべし」
佛道の修行は真実、真理を求めることをするのではなく、当然のこととして見解を動かすことを息めなくてはなりません。見解を動かすことをやめれば自ずと真理は手に入るのです。真理が手に入るというのは身心脱落するということを意味しているのです。

「伝心法要」「宛陵録」は中国、唐の時代の祖師の一人である百丈懐海えかい禅師の後継者である黄檗断際希運禅師の語録です。
希運禅師は曹谿そうけい六祖直系の法孫であり、百丈懐海えかいの直弟子です。
希運禅師は現在の福建省の出身で、若くして郷里の福州黄檗山で出家しました。
臨済宗開祖の臨済義玄禅師は希運禅師の弟子で、法を継いだ十三人の弟子の内の一人です。
希運禅師は百丈禅師の法を継いだ後に、洪州にほど近い高安の地に出身の寺の名に因む黄檗山を開創します。師の百丈禅師の入寂は元和9年(814年)のこと。黄檗山の開創はその数年後のことと考えられるがはっきりはしません。希運禅師の俗姓は分からず、入寂も生年も世寿も明らかではないのです。希運禅師は堂々たる偉丈夫で身長7尺、額の間に肉珠(瘤)があったことは文献から明らかになっています。

後に希運禅師は「大唐国内に禅者なし」と述べています。これは重要な一言です。
当時、禅が盛んであり、禅寺の各山に500人、1000人の修行僧が居り、幾人かの祖師が生まれている唐の時代でさえ正しく身心脱落している禅者は稀な存在だったのです。
希運禅師が悟りを開いたとする禅僧の中に、自分を越える禅者は一人も居ないと嘆いた言葉です。その代毎に師を越える禅者が常に何人かはいないと禅は衰退していくということを知っているが故の言葉です。
黄檗断際希運禅師の伝記のことについてはこのぐらいにして、抜粋文について述べていきます。

前掲の文は語録ですから短い文ばかりですが、禅の修行の要諦なのです。
全体としては一念不生、非思量以外に修行としてやるべきことはないと言っています。
六祖慧能禅師の説く「不思善不思悪」が佛道として行うべき修行なのです。
このことだけを徹底してやればよいのです。
唯、ここで注意しておきますが、「善を思わず、悪を思わず」という和文からして「物事の善悪の判断、分別をしない」というように解釈する師家、修行者、参禅者が多いのです。しかし、このように解釈することは六祖の意図を外れることになります。
「不思善不思悪」というのは、修行者としては直感で、非思量のことを指していることが分からなければなりません。この「不思善不思悪」は宗教者としての道徳倫理観を表した言葉ではないのです。六祖の説いたこの語は修行に於いて決して軽んずべきものではないのですが、重要視する師家はほとんどいないのです。軽く触れ、読むだけで次に進んでしまうことが多いのです。不思善不思悪を徹底すれば良いと説いた師家を私は一人も知りません。
曹洞宗開祖道元禅師著の普勧坐禅儀の坐禅の要術である「非思量」も同様で、非思量については軽く触れる程度で、只管打坐ばかりを前面に押し出して重要視しているのが明治以降の曹洞宗の師家方なのです。真に残念なことです。

曹洞、臨済が分かれる前は「不思善不思悪」が禅の修行の要諦だったのです。「不思善不思悪」或いは「非思量」だけで充分なのですが、何故、公案が生まれてきたのかが私には分かりません。公案だけでは大悟することはないのです。
公案を通過して正念を体得し、そして正念を只管に相続して大悟に至るのです。公案は正念を体得することが目的なのです。正念の様子を手に入れた段階が十牛図の第三の「見牛」なのです。この正念は「不思善不思悪」のことなのです。不思善不思悪は非思量のことなのです。六祖慧能禅師の説く「不思善不思悪」に公案の入る余地はないのです。
勿論、非思量にも公案を拈提ねんていする(古則公案を提示し、学人に説き示すこと)余地はないのです。
一念不生も同様のことなのです。
公案は一念を動じて二念三念四念の中のことなのです。一念不生の修行に公案は不必要なことなのです。一念不生から見れば、公案は雑念でしかないのです。公案は非思量や一念不生の相続に至る前段階にあるものなのです。

禅の修行に於いては最初に掲げた文がすべてなのです。禅も修行に於いて行うべきことは以上の文で示されたことしかないのです。
以上のことを一言で示すならば「非思量」なのです。
曹洞宗開祖道元禅師がその著「普勧坐禅儀」の中で坐禅の要術として説かれた言葉です。
非思量という坐禅の要術は、文字通り簡明であり単純なことです。また、実際にやってみるとこれほど簡明なことはないのです。
今、思量が有るか、思量が無いかのどちらかなのです。そして非思量は思量の生じる前の状態を指しているのです。
一念不生も同じです。念が生じる前の状態を指しているのです。その通りに文字通りに受け取ることが簡明なことであり単純なことなのです。

「非思量」も「不思善不思悪」も「一念不生」も簡明なことで理解しやすいのですが、その実践となるとこれほど難しいことはないのです。
理解する上では、こんな簡明なことで禅修行になるのですかと問い返したくなるほど単純なことなのですが、実際にやってみると、その難しさは半端ではありません。求道心(志)と忍耐力で支えるしかないのです。
坐禅は修行として行なうべきことは単純、簡単なことなのです。理解するのに難しいことは何一つないのです。
「佛法に多子無し」なのです。単純で簡明なことなのです。
「佛道も多子無し」なのです。「坐禅も多子無し」なのです。

「唯だすべからく見を息むべし」なのです。
これは、ただ当然すべきこととして見解を動かすことを息め(=止め)なくてはなりません。という意味です。「見」は見解のことです。
見解を持ったり、見解を動かす時、人は思量をするのです。言葉を頭脳の中で用い想像をするのです。見解には言葉、文字が不可欠です。文字や言葉の伴わない見解というものはありません。見解も思量の一つの形です。
善を思い、悪を思い、それぞれを分別する時も、人は頭の中で言葉を用い想像をするのです。それらは見解であり思量なのです。
見解を用いては修行になりません。「非思量」が修行となるのです。ですから当然、禅の修行というのは、見を息め、不思善不思悪なのです。非思量であり、一念不生の状態の相続を説くのです。
ところでこの「息」は呼吸という意味が一般的ですが、止む、終わるという意味もあるのです。終息(おわりやむ)息災(佛力で災を止めること)という意味でも一般的に使われております。

「見」を息めた状態というのは非思量の状態です。
非思量は文字通りに愚直に受け取って思量の非ざる状態です。
思量の非ざる状態は頭脳の中が思量の非ざる状態のことです。考えや思いや想像することの息んだ(止んだ)状態のことです。考え思い想像の生じる前の状態は考え思い想像の息(止)んでいる状態なのです。
考え思い想像の生まれる前の状態を別の表現にすると父母未生以前とか一念不生というのです。その状態の時間の長短に拘わらず非思量の状態に気が付くことが大切なのです。

「真を求めることを用いず、唯すべからく見を息むべし」というのは、真実を求めるならば、真実を求めることをしないで、ただ考えや思いを息(止)めなさい。そうすれば、真実が自然に眼の前に現れてきます。と述べているのです。
真実が眼の前自然に現れてくるということは大悟(身心脱落)するということです。

公案というものは、非思量、一念不生、不思善不思悪に於いては雑念でしかないのです。余計なものなのです。公案に成り切るというのは公案を忘れることであり、公案が必要でなくなることなのです。
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