曹洞禅 修行僧

大角幻了おおすみげんりょう

坐禅の実践と自意識の解放 

動物の意識や思考や感情は人間と同じです

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『 動物の意識 』

-動物の意識や思考や感情は人間と同じです-

-目次-

  1. 動物の幸せを願って
  2. 動物のテリトリーと自己の存在
  3. 動物のテリトリーと意識の存在
  4. 動物の言葉
  5. 思考によって生き延びる為の智恵が形成される
  6. 「我れ思う、ゆえに我れあり」の考察
  7. 「禅の立場から見て」の意味するところ
  8. 動物の行動の理解の為に


動物の幸せを願って

副題

2019.6.10

-前提-

禅の修行の中心的存在は意識(自己)です。この意識の存在を心の中から消滅することが修行の目的です。
禅宗と医学、それぞれで意識という用語を用いますが、その意味するところは大きく異なっています。
医学上は、五感(眼・耳・鼻・舌・身)から入力される刺激(情報)の全ての覚知機能が機能不全(停止)に陥っている状態を「意識が無い」状態としています。
一方、禅宗では、自己の心の中の自己、自己の行動や心の動きを常に冷静に観察している心の中の自己のことを意識といいますが、この意識(自己)が心の中から消滅してしまった状態を無我とか無心とかいい、それが悟り(身心脱落)です。この場合、五感の覚知機能や思考・想像する機能や感情等はそのまま機能している状態です。
一般に用いる我や自我や意識や自意識は、禅宗の意識のことです。
禅宗の「意識の消滅」と医学上の「意識が無い」ということは、その意味するところが大きく異なりますので注意をして下さい。
初めて禅に触れる方は以上のことを踏まえて読み進めて下さい。

以下のことは非思量の状態、身心脱落の状態になってみて分かることです。
考えたり思ったりすることには言葉が必要です。想像することには像・形・色が必要です。これらがなければ、思うことも考えることもできません。但し、言葉や像・形・色に該当する合図、信号、音声があれば思考、想像は機能することができます。
言葉を理解する機能と言葉を用いる機能は、それぞれ脳の別々の部位の機能です。同一の脳の神経部位の機能ではありません。
この二つの機能に主体である自己や意識は必要ないのですが、多くの人はこの二つの機能には自己という主体や意識という主体が関与していると思っているのです。詳細に観察してみますと、実際は二つの機能に主体がないことが分かります。私も私の意識も関与することなく縁に感応して機能しているのです。
人間に限らず動物全般に於いて生きていく上での学習には、基本的に言葉は必要がないのです。言葉によらずに経験毎に全身心で学習し記憶していくのです。言葉で記憶学習するのではないのです。言葉や想像で記憶した場合は、状況の変化にも拘わらず記憶した通りにしか反応できないのです。現実から乖離した決まりきった対応しかできないのです。
IQの高い者が予測不能の状況に於けるサバイバルに全く対応できないのはこの為です。この全身心を挙げての学習は私や私の意識がするのではなく、縁(経験)に応じて自然に感応して記憶の入力、出力がされていくのです。私はそれを知っているだけです。

以上のことを前提として動物には心、意識、思考力、コミュニケーションの為の言葉があるのかないのか、喜怒哀楽の感情があるのかないのか、苦痛を感じるのかないのか、精神的苦悩があるのかないのかについて禅の立場から述べていきます。

私は曹洞宗の禅僧ですので、曹洞禅の修行の中心である非思量の脳の状態を維持し続けて分かること。そして、身心脱落(悟り、解脱)をして分かることを述べてまいります。
これからのことは禅の修行者に対してのものではなく動物の心を偏見なく知りたい方の為に書くものです。
動物も人間も、その命の価値や生存の権利に違いはなく、平和裡に共存すべきと考えている方の為に書くものです。
但し、食物連鎖という森羅万象(人間を含めた自然界)の原理(原則)を無視して自然の摂理に反してまで変えるべきとは考えておりません。人間も動物なのですから、その自覚は必要です。
但し、科学がかなり進歩して肉食雑食性の動物が自らの体内で草食動物のように蛋白質を作ることができるように遺伝子を組み換えられるようになれば別です。そうすれば、食物連鎖による悲しみが解決されるようになるのです。このことが可能か、不可能かと問われれば、可能なことと思います。
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-動物の意識についての考えの現状-

ここで、初めて禅の原理・原則・思想に接する人の為に、すべての前提となるべき実際について述べておきます。
修行を積んだ禅僧は非思量の状態を自由にコントロールできるようになっていますので、全く思考・想像の生じない心の世界を知っているのです。全く思考・想像のない心の状態で、どのようなことができるものかも分かっているのです。
動物に言葉や言葉による思考がないとすれば、言葉のない、且つ思考のない動物が、日常の様々なことに出会った時にどのように対処しているか、おおよそ分かるのです。
動物に意識があるかどうかについては全く分かっていないのですが、ないだろう・・・・・というのが定説のようです。
意識には生存の為に必要ないくつかの重要な機能があることを私達禅僧は分かっています。
悟ると意識が消滅します。悟る前と悟った後の自己の様々な機能の消滅よって意識の機能が分かります。
悟って意識が消滅してしまった自己と、悟る前の意識のある時の自己と比較することで初めて分かることであって、自己のあるままの状態で意識の機能を明らかにすることはできないのです。意識のない心の状態など誰にも推測することができない精神世界です。
人間の意識の機能が明らかになると、意識は人間だけの特有のものではなく動物全般にもあるものだということが分かるのです。生き延びる為に動物には必要な機能だからです。

近代の動物学者、心理学者、哲学者に以下のような言葉があります。
「我々は人間以外の種(動物)の感情や思考についてほとんど知らないので、動物が苦しみを意識しているかどうか判断するのは難かしい。」
「たとえば苦痛などの動物の体験は意識を伴わないので、我々人間にとって(たとえ動物に苦痛を与えたとしても)道徳的関心事にならない。」
「実際動物の心的状態は全て意識のないものなので、動物が傷ついたとしても、我々人間の関心事にもならない。」

斯様に動物の意識について述べておりますが、そもそも、意識というものの正体は何なのか、人間の意識は何故あるのか、そして人間の意識に何らかの機能が有るのか無いのか、等々について何一つ明らかになっていないのです。
動物学者や心理学者や哲学者、脳神経学者に於いて、意識の正体、存在理由、機能が何一つ明らかになっていない現状にも拘わらず、動物に意識が有るとか無いとかを論じているのです。自分達にはあたかも意識の正体や存在理由やその機能が明らかになっているかのような論調です。
我々人間の意識の正体や機能がまだ何一つ解明されていない状態で、動物に意識が有るとか無いとかを論ずるのは時期尚早です。理に敵っていないのです。
また、動物に意識がないという前提で動物の心理について論ずることも科学者として何を考えているのかと疑問に思います。人間の意識について何も解明されていない状況下で動物に意識があるかどうかを論ずること自体、無意味なことです。
我々人間の意識の正体が明らかになり、その意識に機能があるかどうかが解明されることが動物の意識を知る為の前提となるのです。
人間の意識の正体が明らかになり、その機能が解明されれば、その機能を動物にも適用することは問題がないものと考えられます。
意識に基づいた人間の意識的行動と同様の行動が動物にもあれば、動物にも意識があることが推定できるのです。
動物学者や心理学者や哲学者や脳神経学者は、動物の意識を解明する前に人間である自らの意識の正体や機能を明らかにすることが先決です。手順を踏まずにいきなり動物の意識はないこととして動物の心や知能を論ずることは非論理的であり非科学的です。動物には意識がないことを前提にして動物論を構築することの意味が私には分かりません。

禅宗が印度から中国に伝えられた当初から、自己の正体は意識であり、その機能については気付いていたのです。
禅の悟り(身心脱落)から見た意識の正体とその機能については、私のこのHP『意識の機能』を参考にして、『第一章』『第二章』の中に詳しく書いてありますので、そちらをご覧下さい。
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-人間と動物の意識は同等です-

言葉の有無
私達禅門の者から見ますと人間にも動物にも意識があり、その正体と機能に於いて本質的には違いはないのです。
それは状況に応じた基本的な行動が人間も動物も同じだからです。動物も意識のある人間と同様の行動をとることから、動物にも人間と同等の意識があることが分かるのです。意識の有る無しが人間と動物の違いを作る要因ではないのです。
それでは人間と動物の違いは、言葉があるかないかによるのではと一般的に考えると思います。
戦後暫らくまで、動物には言葉はないことになっておりました。この場合「言葉」というのは、どのように規定されるかが重要なのです。私は言語学については全くの素人なのですが、常識的に考えると、言葉というのは同種の仲間のコミュニケーションの為に共有する意味のあるやり取りのできる音声(鳴き声、鳴き方、声音の出し方)とするのが適切だと考えております。
同種の仲間の間で共有する意味のある音声(鳴き声、鳴き方、声音の出し方)で、それをコミュニケーションに用いていることが生態観察によって明らかになれば、その動物にもコミュニケーション能力があり、コミュニケーションに用いる人間の言葉に該当するものがあり、人間の言葉に該当する鳴き声を発する能力があり、人間の言葉に該当する鳴き声を理解する能力があるとすることができます。
言葉というのは同種の仲間内でコミュニケーションの為に共有する意味のあるやり取りのできる音声(声、声の出し方。動物の場合は鳴き声、鳴き方と言います。)と規定するのが適切です。
言葉の目的・機能に焦点を当てて定義すれば、すべての動物に適用可能となるのです。どの動物も人間と同様の声の出し方で、同様の統語法を備えていなければ言葉とは言えないと言うならば、どの動物にも言葉などは最初からないのです。人間の用いるような言葉は動物が生きていく為には必要がないのですから・・・。
それこそ、これは人間は優位な存在であるとの人間至上主義の宗教的観念が歴史的に根深いのでしょうか。人間種のエゴなのでしょうか。考え直す必要があると思います。
言ってみれば、人間の言葉にしても話す時は音声なのです。鳴き声と基本的に違いはないのです。他の種の動物から見れば、人間が話していることは鳴き声に聞こえるはずです。出している音声の意味が分からなければ、それは単なる鳴き声にしか聞こえないはずです。
一切の思量を動かさずに外国の人の話を聞けば、それは単なる音声なのです。その意味を知っている人はそれを話していると理解し、言葉であると受け取るのです。
このことを踏まえて、言葉はその目的・機能で定義すべきであり、統語法など、その形式によるべきだはないと考えます。
どの動物も状況に応じて鳴き方を変えていることは、少し注意して観察すれば分かることです。そして、仲間内でその意味を理解しているかのような行動をしていますからコミュニケーションに用いていることは間違いないと思います。特定の鳴き方に対して特定の行動をとっていることは現在の動物観察によって分かっているのです。

考える、思う
動物にも人間の言葉に該当するものがありコミュニケーションをとっていることが明らかになりつつある現在、人間と動物の違いは何によるのでしょうか?
考えることができるのが人間であって、人間を人間らしくする要因なのでしょうか?
従来から動物には考えることができないという常識が欧米にはありました。
近年の研究によりますと類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オラウータン、手長猿、ボノボ等)は考えることができるという研究結果が出ているのです。
この場合「考える、思う」ということはどういうことを指すのか定義をしておく必要があります。
「考える、思う」ということは、同種の仲間内でコミュニケーションに用いる共有する意味のある音声(鳴き声、鳴き方)と像・形・色を頭の中に思い起こすことであるということでよいと思います。思い起こし方の統一は難しいのです。動物それぞれがどのように音声や像形を思い起こすかは差異があって当然と考えるからです。皆、人間と同じ思考、想像の仕方であるべきとするのは研究者としては狭量です。

定義しました思考・想像の姿が、思考・想像の原初の形であるとするならば、動物もその程度の思考・想像をすることができると言えます。
動物は絵画的思考をしているのではないかと説く動物学者がおります。それは人間の像形色を思い浮かべる想像に当る思考です。
動物が森羅万象に於ける出来事(体験)を記憶することができれば、それを思い起こすことはあり得ます。記憶力には入力と出力の機能が兼ね備わっているはずだからです。記憶を再生利用して、人間を含め動物は経験を生かして生き延びていく知恵を蓄積していくのです。動物でも人間と同様に、より賢く用心深く生き延びていくのです。動物も人間も基本的には殆どすべては同じなのです。
連続した想像は類人猿には必要がありませんので無理かもしれませんが、単発的には像形をを思い起こすことは充分可能なはずですから、実際にやっていると思います。しかし、無分別の分別心は動物すべてにあり、その機能によって殆どの動物は生活しているのですから、思考は今を生きるのには二の次であって構わないのです。

脳の構造・脳機能
動物といっても、その脳の構造は基本的に人間と同じで、人間と異なる動物特有の脳構造というものはないのです。当然、脳の機能についても、人間のみの特別の機能、動物のみの特別の機能というものも考えにくく、基本的には違いはないのです。ただ、脳の構造、脳機能の発達、進化の程度の差というものはあります。
人間でも赤児と大人の脳の構造、脳機能の発達の差はありますが、それは赤児と大人の人間としての脳の基本的違いを表すものでないことは明らかなことです。
人間と動物の脳の構造や脳の機能の違いは基本的にないものとして動物の生態を観察・実験すべきです。
人間に喜怒哀楽の感情があるならば、動物にも喜怒哀楽の感情はあるとすべきです。私達人間がそのことを覚知する能力がないだけのことです。森羅万象の中、生き延びていく為には不安な心や恐怖心も必要なのです。用心深くなるからです。慎重であることは長寿には欠かせない資質の一つです。
視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の五感も感情も生き延びていく為の情報を察知し判断する為の器官であり機能です。快・不快も好悪も安全に生きていく為の指標となるのです。欲望もなければ生体の健康を保てませんし子孫も残せないのです。どれ一つとっても人間にも動物にも生きていく為に必要な機能なのです。
この内の一つでも欠けると、それを補う何かがなければ生き延びにくくなることは確かなのです。人間だけ特別であるという思想は改めるべき時代になっているのです。

人の道
動物にも人間と同様に快・不快はあり、悲しみや喜びもあるのです。恐怖も感じ、不安も感じるのです。意識もあり、様々な自覚もあるのです。
我々人間と基本的には何ら変わりがないのです。ただ、我々がそれらを察知し汲み取る能力がないだけです。動物の悲しみの心を共感する能力に欠けているのです。勿論、動物の心を察知する五感のような器官が人間にはありませんので、推し量って動物を保護し共生していくしかないのです。
私達人間は他人の心を推し量って手を差し伸べたり優しい言葉をかけたり日常的にしているのですから、同じ心で動物に接するのが人の道でもあるのです。

動物にも人間と同様の基本的生存権を付与すべきと考えます。
動物の習性に応じた生活をする権利です。虐待や虐殺されない権利、死の不安や恐怖から逃れる権利です。安楽死の権利等を付与すべきと考えております。
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動物のテリトリーと自己の存在

2019.6.10
動物のテリトリーは他者(非自己)の侵入を認めない領域です。テリトリーへの他者(非自己)の侵入は即、侵害です。

生体で考えてみますと皮膚がテリトリーに該当する境界の役目をもっています。皮膚は生体内側への非自己の侵入を決して許さないのです。非自己の侵入は健康な身体への侵害です。当然、排除の行動に出るのです。これが生体の免疫機能の基本です。
自己と非自己の区別をする機能が免疫機能には重要です。自己と非自己をしっかりと区別しないと侵害者としての非自己の排除ができない恐れが生じるからです。つまり、現場が混乱して自己が自己を攻撃・排除してしまうという事態に陥ることとなってしまうからです。

これは動物がテリトリーを守る上でも同様です。
自己と他己(非自己、侵入者)を区別する機能をもっていなければテリトリーは成り立たないのです。動物にも自己がなければ、テリトリーを作ることができませんし、自己と他己の区別する機能がなければ攻撃・排除の行動に出ることもできないのです。この機能には言葉も思考力も必要がありません。この自己と他己を区別するのは生物の一つの機能なのです。これは思考の動く以前に瞬時に区別する機能です。そして、この自己と他己を区別する能力は利己性に支配される必要があるのです。利己性も生物の一つの機能なのです。この自己と他己を区別する能力に利己性が備わって機能すると、自己保存本能と自己遺伝子保存本能が必然的に全うされるという仕組みになっているのです。
動物のテリトリーというものは動物が食物の確保や自分の巣の防衛や繁殖等の為に必要なものとして作るものです。つまり、自らの生活圏を確保する為にある一定範囲の地域を自己の縄張りとするのです。その縄張りは他者(捕食者、同種の者等)の侵入に対して個体や集団によって防衛される一定範囲の地域です。縄張りは個体、或いは集団の日常生活を営むにあたっての生活と安全を絶対に守るべき最善の範囲で他者の侵入を認めない領域です。
その領域は主に匂いによって印をつけておくことが多いのです。自らの縄張り(テリトリー)であることの印を全域に隈なくつけておくのです。動物は毎日、自らの縄張りを点検し、再度、印をつけて警戒を怠ることがないのです。つまり、一般に言うところのマーキングをするのです。鳥の場合は鳴声で示すことが多いのでしょうか、詳しくは知りません。
その領域は生体の皮膚のように他者(非自己)が侵入してきた場合に絶対に排除すべき区域なのです。その領域への他者(非自己)の侵入は自己の生存にとって脅威(危機)なのです。当然、侵入者(他者、非自己)を攻撃し排除する行動を取るのです。以上の一連のテリトリーへの侵入者排除の行動は生体の免疫機能と同様な機能で精神的に行われるものですから、精神的免疫機能と言うことができます。

一般的に免疫機能というのは肉体の生体内の機能のことなのですが、精神的にも生体と同じような機能があることに気付いている人は禅僧以外にはいないのです。それは禅僧が意識の機能を身心脱落(悟り・解脱)によって知っているからなのです。
肉体、つまり、生体の免疫機能は生体の自己と非自己の区別をする機能が基本(前提)です。この自己と他己を区別する基本的機能のもとに生体内に異物が侵入してきたら、それが自己か非自己かの区別をし、それが非自己である場合は、それを体外排除、消滅、殺傷するのです。動物は生体の健康な生存の為にこの免疫機能を生まれつき備え持っているのです。
肉体、つまり、生体に免疫機能があるならば、同様に精神にも免疫機能があってしかるべきです。精神上、自己と非自己を区別し、非自己を縄張り(テリトリー)から排除する機能です。人や動物には精神的に自己と非自己を区別する機能があるということは自明の理です。反論する余地はありません。人や動物が自己と他己(非自己)を区別することができるのは当たり前すぎるくらい当たり前のことです。このことに疑問を持つ者は一人もいないと思います。動物にも人と同様に自己があり、自他を区別しているのです。

人に於いて自己と他己を区別するのは意識です。このことを明らかに知っているのは悟りを開いている禅僧です。自己と他己を区別する機能は意識が持っているのです。自己と他己を区別するのは精神上の一つの機能なのですが、人や動物の一つの機能(能力)と捉える考え方は一般的にはありません。動物にも自己があり、自己と他己とを区別しているということは動物にも意識があるということを意味しています。
ゴリラやオラウータン、鯨や海豚、牛や犬猫、鳥や魚、蛙や昆虫に至るまで自他を区別していない生物はいないと思います。
自他を区別しているということは、自己があることが前提です。ただ、自他を区別するメカニズムが人間と類人猿、鯨や海豚、牛や犬猫、鳥や魚、蛙や昆虫等々、皆同じということはないと思います。生物、それぞれの自他の区別のメカニズムがあるとは思います。皆一様であるとは思いませんが、すべての生物に自他を区別する機能があることは確かです。
ただ、この自他を区別する機能は、機能というほどのものではなく、自然に自動的に反応するだけで、その機能の主体はない、意識はない、とする動物学者がおられることも確かです。また、この意見はとても重要なことを言っているのですが、この動物学者達は、その重要性に何一つ気付かずに言っているのです。
悟りを開いた禅の立場から言いますと「動物は刺激(縁)に対して自然に自動的に反応しているだけだ」ということは正しいのです。この意見に付け加えて、人も同様に刺激(縁)に対して間髪を入れずに自然に自動的に反応しているだけなのです。反応しているのは私ではなく主体もないのです。その反応を覚知し、知っているのが私なのです。
この様子を江戸時代の曹洞宗の高僧であります静岡県島田の天桂伝尊禅師は「本然無造(雑)作、無分別にしてよく造作分別す。これ佛法の定まれる正思惟なり。」と述べておられるのです。
本然ほんねん」は元々、本来という意味です。
「造作」はあれこれ考えて手段技巧を弄すること。
「分別」は理性で物事の是非善悪、道理の思案を巡らし分析判断すること。
「本然無造(雑)・・・・・分別す。」は、何も思わず何も考えず、一切のことを想像しない曹洞禅の坐禅の要の方法である非思量のことを指します。
「佛法の定まれる正思惟」は佛法に於ける動かすことのできない正しい考え方という意味です。

1970年代にベンジャミン・リベット(アメリカ合衆国イリノイ州生まれ。カリフォルニア大学サンフランシスコ校教授、生物学者、医学者)は準備電位の実験の結果、人の意志が動き出す前に脳は0.5秒〜0.3秒ぐらい先に動き始めていることを発見してしまったのです。その脳を動かす主体のないまま突然動き始めていることを発見したのでした。人の意志の動く前の脳の動きなのですから、人の自由意志が機能していないとの結論に至ったのです。
この問題は脳神経や脳科学だけではなく哲学、心理学にまで及ぶ重大な疑問を提することとなったのです。現在でもこの自由意志の問題は決着がついていないのです。
禅の世界では中国に禅が伝わった頃から、このことは悟りを開いた禅僧の間では当たり前のこととなっていたのです。
天桂伝尊禅師の「本然無造作、無分別にしてよく造作分別す」という件がベンジャミン・リベットの実験結果の正しさを証明しているのです。ここでは縁(刺激)に感応する働きがあるだけで充分に生きる為の機能は果たせていると言っているのです。縁に対して自由意志が介入する必要は全くないのです。無分別の分別心が瞬時に感応して、瞬時に判断して、瞬時に適切な行動を私達の自覚や意志に関係なくとっていくのです。これを「佛法の定まれる正思惟なり」と表現しているのです。
これは動物に於いても全く同様のメカニズムで、感応し判断し行動をしているのです。
以上のことを明らかに知っている人は現在のところ悟りを開いている禅僧のみです。私がここに記した以上により詳しく知りたければ、悟りを開いている禅僧を捜し出して尋ねてみて下さい。
ここで少し話がそれましたので元に戻して続けてまいります。

もし、生体の免疫機能が正常に働かないとその生体が死に至ってしまうように、精神的免疫機能が正常に機能しないと、その種は絶滅することとなるのです。
自己と非自己を区別するのは、生物が絶滅から逃れ生き延びていくための重要な機能の一つとみるべきです。この重要な機能を担っているのは何処なのか、そのメカニズムはどのようになっているかを科学的に明らかにすべき時代に入っていると思います。それだけ科学が進み、それらを調べることのできる機器も作ることができるようになっているのですから・・・。
このことのヒントは禅の世界にありますから、古くからの禅藉を調べてみるとよいと思います。
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動物のテリトリーと意識の存在

2019.6.10
テリトリー(縄張り)を持つというのは脊椎動物、昆虫に於いて広く見られることですが、鳥類に於いて最も顕著です。
人間に於いても自分の住いは動物の巣に該当するものであり自分の住んでいる土地はテリトリーの一つととらえることができます。
昔の村境い、国境いや現代の国境線も、その国民集団にとってのテリトリーを表しているといってもよいものです。人権もプライバシーも他者の侵すべからざる精神的なテリトリーと見なすことができます。

テリトリーは、人間の場合は個人の自由意志によって、或いは集団の自由意志によって設けられ、動物は刺激に応じて考えることなく本能的に自然に設けるという動物学者の意見は人を納得させるものではありません。
テリトリー(縄張り)を設けるということは自己と他己が存在するということが大前提なのです。この自己と他己は、自己の心の中に精神上構成された自己と他己なのです。私達は物理的存在である生身の自己の肉体と他者の肉体をもって、自己と感じ他者と感じるのではないのです。このことは禅門に於いて身心脱落(悟り)すれば当然のこととして分かることです。
テリトリーを作るのは守るべき自己があるからです。そして、そこには排除すべき他者も必要なのです。動物の心の中に自己があり、他者の存在が人間と同様のメカニズムで在るということを意味しているのです。
禅門に於いては「自他一如」といって、自己も他己(他者)も精神上の存在であって、その本質は同じであることを知っているのです。自己も他己も、自己の中にいる自己、つまり意識が作り出したものであり、或いは意識そのものであることが分かっているのです。
この自己の中にいる自己も、他己も、形而下の存在ではなく各自の精神上に必ず一対として存在する形而上のものなのです。それは自らの心の中に自己と他己が一対として相対あいたいする形で存在するものなのです。物理的に実体として存在する自己の生身の肉体と他己の生身の肉体をもって私達は自己と他己(他者)を実感するのではないのです。
自己と他己(他者)は必ず一対となって自分の精神上に存在するものなのです。自己だけ存在するとか、他己だけ存在するということはないのです。必ず自己と他己は一対として各自の心の中に形而上存在するものです。
このことは曹洞禅の修行である非思量の状態を維持(相続)していると分かってくることです。心眼に観えてくるのです。もし検証して確かめたければ実際にやってみて下さい。

動物には自己がない、コミュニケーションの言葉もない、喜怒哀楽の感情もない、快・不快もない、不安の心も恐怖心もない、苦痛もない、五欲等の欲望もなく、彼らは本能的に刺激に対してただ応じているだけであるという考えが現代まで一般的でした。
しかし、なぜ人間にだけ感情や快・不快や不安感や恐怖心があり、苦痛を感じる心があるのかについての納得のいく説明はなされずに現代があるのです。
どうして、人と同じように暖かい血の通った動物に様々な感情や恐怖心や苦痛を感じる心がないといえるのでしょうか? 納得のいく説明がなされたことはないのです。
我々人間には自己があるが、動物には自己はないのだと断言できるのでしょうか? 従来の動物学者の根拠のない偏見だと思います。
生き物はすべて自己があり他己がないと自他の区別をつけることはできないのです。テリトリーを作るのも守るべき自己があり、排除すべき他己があるからなのです。守るべき自己がなければテリトリーを作る必要もないし排除すべき他己がなければテリトリーを作る必要性はないのです。このことからも動物にも自己があることが分かるのです。そして、自己と他己は必ず一対で心の中に存在するという原則によれば、動物に自他はあるということになるのです。

自己と他己(非自己)の区別ができないと、動物は自然界の中を生き延びていくことが不可能となってしまいます。そして、感情も、その全ては生き延びていく為に刺激情報の判断材料を提供するものですから、なくてはならないのです。苦痛を感じることも恐怖を感じることも生き延びていく為の必須の感情です。当然、動物にだってあるべきものです。

感情、恐怖、苦痛、快・不快は人間にのみあるという人間のみを特別視し、一段も二段も上の優位な存在であるという宗教色の濃い見解にそった考えは破棄されるべきものです。
自己だけあって他己がない心はあり得ないのです。また、他己だけあって自己がない心もあり得ないのです。これらは常に対峙して在るのが原則なのです。ただし、自己も他己も両方とも存在しない心はあり得るのです。それは禅門の悟り(解脱、身心脱落)を得た禅僧のみにあり得ることです。
自他があるからこそ他己を排除する利己心が適切に機能できるのです。このことによって自己保存本能と自己遺伝子保存本能が全うされるのです。

この自己と他己は意識が自らの心の中に創り上げた精神上の架空の自己と他己です。このメカニズムは動物にも適用されるのです。一動物である人間だけが特別仕様ということは自然の摂理の上からみてあり得ないのです。人間も類人猿も鯨も海豚も、牛や馬や犬猫も皆、自然界の動物として基本的に同じ仕様であるはずです。
自己と他己を区別する機能は、自己の中に自己と他己があることが前提なのです。

以上のことは曹洞宗開祖道元禅師の著書、正法眼蔵現成公案の巻の中の一文によって示されています。その文というのは「自己の身心及び他己の身心をして脱落せしむるなり」という一文です。
これは自分の意識が消滅してしまうと自己が消滅してしまい、そして、それと同時に他己の存在も消滅してしまうという意味です。
また、禅語に「自他一如」という言葉があります。
これは悟ることによって自己と他己が消滅してしまうという意味と、自己と他己もその本性は意識であり、意識が作り出したものであるという意味です。
これらは意識に自己と他己を区別する機能があり、意識が悟ることによって消滅してしまうと、自己と他己の存在も消滅してしまうということを言い表した言葉です。意識に自己と他己を区別する機能があることを示した言葉です。

自己と他己(非自己)を区別する機能は生体に於ける免疫機能の最も基本的機能であり、それが大前提になって生体の免疫機能全体が成り立っているのです。意識も同様の自己と他己(非自己)を区別する機能があります。そして意識に利己性があるので、それが他己を排除する機能となって現れるのです。この二つの機能をもって精神的免疫機能と言い得ると私は考えています。
人間を含めて生物は何らかの方法、機能を用いて自己と他己の区別をして、それを大前提として生きているのです。

テリトリーを持つということは、その動物には守るべき自己があり、そして排除すべき他己があるが故の習性なのです。人間も例外ではなく集団としてのテリトリーと個人としてのテリトリーの二つを持つのです。自己と他己があるということは、それらを精神上作り出す意識があるという証拠でもあるのです。
しかし、意識があるからといって思考があるとは限らないのです。意識が思考という能力を作るわけでもなく思考が意識を作り出すわけでもないのです。意識と思考は別々の天賦の機能であって、その機能は重なることはありません。
自己と他己を精神上作り出しているのは意識です。そして、自己と他己の区別をするのも意識の機能なのです。
そして禅の悟りによって意識が消滅すると自己も他己も消滅してしまいます。禅の悟りというのは意識の消滅のことなのです。意識の消滅をもって悟りの体験をしたと言うのです。それは意識の作り出す自己の消滅をもって悟りとも言いますし、自己と他己の両方の消滅をもって悟りとも言うのです。
ここの処を曹洞宗開祖道元禅師は「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と悟りについて表現しているのです。
禅門では動物にも自己があり自他の区別をする機能があり、そのことをもって天賦の機能として意識があるとしているのです。そして、意識に様々な機能があることも悟ることによって明らかになっているのです。

自己と他己(非自己)を区別する機能は生体の免疫機能と同じで、自己の生存を保障する為の大前提です。この機能に利己性が加わると自己の利益を最優先に守り、他己を排除する行動をとるのです。この機能は生体の免疫機能に匹敵するものですから精神的免疫機能と私は呼んでいるのです。
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動物の言葉

2019.6.10
禅の立場からみて思考には言語が必要です。言葉なくして思考はできないのです。
曹洞禅の修行方法は思量を一切停止した非思量の状態を維持するのです。
この非思量の状態を維持すると言葉なくしては思考はできないことが実体験として分かります。
また、非思量の状態を維持していて思考をしていなくとも物事の覚知、判断、理解、行為は可能であることが実体験として分かります。
そして、人の行為のすべてに思考が伴う必要がないことも分かるのです。
思考が伴わなくとも、その音に経験上の意味がある場合は、その意味に応じた行動をとることができるのです。
「音」に共有する意味を持たせてあれば、その音がすれば、その音の意味に応じた行動を一切の思考をすることなくとることができることも分かります。これは非思量の修行によって分かることです。

言語と思考は切っても切れないものと哲学者や動物学者も述べております。
思考というのは人間の場合、言語を用いて行う思考と像形色を用いて行う想像という思考の二通りあります。禅の立場に於いても同様で言葉や像形色を用いないで私達が自覚できる思考をすることはできません。
動物の思考を考える上で、絵画的思考が重要であると説く動物学者がおりますが、この絵画的思考というのは言葉を用いることのない想像という思考のことです。純粋に想像だけならば、そこに言葉が一切さし挟まることはありません。人にとってこれは難しいことです。人間は言語を用いる思考と像形色を用いる絵画的思考が混在していて、どちらかだけという思考はないのが普通です。
一般的な人の場合、思考というと言葉を用いる思考と像形色を用いる思考があります。両方がランダムに混在しているのが一般の人です。一方だけを選択的に用いての思考はできないのです。
曹洞禅では言語を用いての思考を「念」と言っております。像形色を用いる思考を「想」或いは「想像」と言います。
厳密には禅の修行に於いてこの二つを区別していますが、実際の修行に於いてはこの二つを区別することなく、まとめて「思量」と言います。実際の修行に於いてはこの二つを区別する必要がないからです。

類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オラウータン、テナガザル、ボノボ等)以外の殆どの動物は考えることができないと動物学界の説がありますが、それは生態観察や実験結果から導き出した推測なのです。類人猿以外の動物は考えることができないという主張は確かなことではありません。なぜなら最初に申し上げましたように、考えるには言葉が必要だからです。つまり、コミュニケーションに用いる言葉になり得る音声(鳴き声、鳴き方)が必要なのです。コミュニケーションに用いる音声ですから、当然その音声には仲間で共有する約束された意味があるはずです。仲間で共有する意味のある音声(鳴き声、鳴き方)があるとすれば、それは人間の話し言葉の音声に該当するもので、同じ原理で成り立っていると考えるのが妥当です。
仲間で共有する意味のある音声(鳴き声、鳴き方)が動物達にあるとすれば、それは人間の話し言葉に該当する音声なので、それを用いて思考はできるという原理になります。ただし、記憶保持の能力が思考ができる程度にあるということが前提となります。
動物が一音声でも、それに共有する意味を持たせることができれば、それは言葉としての機能を持たせることができるということになります。
動物が共有する意味をもった音声を発することが観察できたとすると、それは言葉を用いてコミュニケーションをしていると判断することができるのです。
私達は経験上、一音節でも共有する意味を持たせることはできます。一音声でもその発声に強弱をつけたり、高低をつけたり、平坦にしたり、二度繰り返したりして共有する意味を持たせることは可能です。
たとえば、感嘆の「オー!」、良いという意味の「いい」、返答の「えー」、疑問の「えー?」、母親の「カカー」、危機の「キキ」、お婆さんの「ババ」、お爺さんの「ジジ」等々。それぞれ共有する意味を持った音声です。
異なった意味を持った音声を二つつなげて並べてもコミュニケーションを取ることができるのです。接続詞はなくても相手に意味を伝えることは可能です。

動物に共有する意味のある音声を発することは類人猿以外でも多くの動物で観察されています。共有する意味ある音声を発したということは、人間に当てはめれば言葉を用いてコミュニケーションをしたということなのです。
動物達も共有する意味のある音声を発するということは、人間に当てはめれば言葉を用いて話しをすることができるというこのになるのです。動物達も言葉を持っていることになるのです。言葉の種類の多寡は当然、種によって異なると思います。動物にとって生き延びていく為に必要最少限の言葉はあると解すべきです。言葉の多寡は、記憶力が大きいか小さいかが関係してくると思います。記憶力が大きければ、多くの意味のある音声の記憶が可能となるのです。記憶力が大きい分、それだけ多様な声の出し方(鳴き方)が仲間同士のコミュニケーションに用いられるということになります。
ただし、これは動物の共有する意味のある言葉としての音声(鳴き方、鳴き声の出し方)は生活の必要性と記憶能力の範囲内であって、人間のようにやみくもに増えていくわけではないのです。動物にとって大切なことは生き延びていく上で必要かどうかなのです。「必要は発明の母」は動物の言葉としての音声(鳴き方)にも当てはまるのです。
動物の共有する意味のある音声(鳴き方)を、コミュニケーションをより確実にする為に表情や動作で補強するのです。人間の会話中のジェスチャー、手ぶり、身振り、表情を伴なうのと同様のことがなされているはずです。それを人間の観察者が聞き分けたり、見分けたり、感じ取る能力に欠けている為に意味のある音声がなされていることに気付かないのです。

類人猿が考えることができるという生態の観察、実験結果が出たのであれば、それは正しいと思います。
類人猿が考えることができるということはお互いに共有する意味のある音声(鳴き方)があるということになります。つまり、人間の言葉に該当するものが類人猿にもあって、話しているということになるのです。
ただここで一つ明確にしておかなくてはならないことがあります。
キリスト教の聖書に「初めに言葉ありき」という一文が出てきます。
キリスト教には言葉は神から人間のみに与えられたものという考えがあります。神は動物には言葉を与えていないという宗教的概念がキリスト教圏には色濃く浸透しているのです。このことが動物には言葉はないとの動物学者や哲学者、心理学者の根拠のない見解になっているものと思います。

思考には言葉が必要ですが、動物の鳴き声・鳴き方に仲間で共有する一定の意味があるならば、それはコミュニケーションの手段であり、コミュニケーションに用いらているのでありますから、それは人間の言葉と同等のものであると言うことができます。それらの動物の鳴き方はそれらの動物の言葉と言うことができます。
キリスト教の神が人間のみに言葉を与えたという宗教的概念に反することなのですが、学者として学問科学の世界に於いて、動物にもコミュニケーションとしての言葉があると認めるべきです。
動物の鳴き方によるコミュニケーションは人間の会話に当り、人間の言葉の原点とも言うことができます。人の言葉の原点が動物の鳴き方にあるという見解はキリスト教圏の人々にとっては認め難いことというのは宗教者として理解はできます。
人類もその誕生の頃にはコミュニケーションの為に、仲間で共有する意味を持った音声であったはずです。いきなり今日のような文法をもった言語のはずはありません。聖書にある「初めに言葉ありき」ということは宗教の世界以外には考えられないことです。
人間は地球上に於いて優位な存在であり、特別であるから、人類誕生の初めに言葉があったと考えることは人類のおごりです。
最初は動物の鳴き方のように人間も音声に共有する意味を持たせてコミュニケーションをしていたと考えるのが常識的です。それが何千年という長い年月をかけて今日のような言葉となったのでしょう。
言語の発達には人間にとっての必要性と記憶力の強さと記憶容量の大きさが他の動物に飛びぬけていることが大きく寄与しているはずです。
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思考によって生き延びる為の智恵が形成される

2019.6.15
動物に言葉があるか、言葉を用いてコミュニケーションをしているか否かを考察する時に知っておかなくてはならないことがあります。
それは、私達人間が言葉を理解する時に意識は関わっていないこと、私自身も関わっていないことを知っていなくてはなりません。
このことを知っている人は曹洞禅に於ける非思量の状態をある程度コントロールできるようになっている禅僧に限られています。
また、言葉を理解するというのはどういうことなのかを知っておく必要があります。
言葉を理解するということは、多くの人が行っているように、相手の言葉を自分なりに解釈したり、自分が理解し受け入れ易いように言い換えたりすることではありません。そのようなことをする前に、人は既に言葉を理解してしまっているのです。言葉を理解してしまっているので、解釈したり言い換えたりできるのですが、そのことに気が付いている人は少ないと思います。
聞いている言葉をその通りに理解するように、私達の脳はできているのです。

動物の思考を考える時、物事を思い考え、想像するということはどういうことかを明らかにしておかなくては、見解がかみ合わず有意義な議論がなされない可能性が大です。
思考には言葉と像形色が必要です。これらがなくては想像を含めた思考はできません。自らの思考の時の頭の中の状態を観察すれば、それは明らかになることですから、自らの思考の様子をよく観察することです。議論の余地はありません。
思考は厳密には二つに分けられます。
一つは言葉(或いは言葉に該当するもの)を用いる思考と、もう一つは像形色を用いる思考があります。像形色を用いる思考は一般的には想像といいます。
言葉を用いる思考は人の聴覚の入力の神経回路を用います。
想像の思考は人の視覚の神経回路を用います。
思考は以上のように二つの別々の神経回路を用いて行われているのです。これも自らの思考の時の頭脳の様子を観察すると分からないことはないと思います。

禅の修行に於いて言葉については、一音であっても脳の聴覚の神経回路を用いていれば、思考(思量)と判断するのです。たとえば、無(ムー)は一音でありますが、思考と判断します。数字の一でも二でも頭に思い浮かべれば、それは思考の為の聴覚神経回路を用いているのですから、思考(思量)と判断するのです。その言葉に意味があるかないかによるのではなく、その言葉を音声によって心の中で用いたからです。それは当然、聴覚の神経回路を用いているのです。
一般的に人は正常であるならば、無意味な音声を心の中で用いることはありません。仲間内で共有する意味のある音声を用いて思い考えるのです。
場合によっては、頭の中で短い一単語を繰り返し繰り返し用いることもあるのですが、それも言葉なのです。仲間で共有する意味のある音声でありますし、当然、聴覚の神経回路を用いているのです。
禅に於ける言葉というのは、統語法のある言葉のことではなく、その音声の目的と機能と脳のどの神経回路を用いるかによって、言葉とするか否かを判断するのです。

サヴェージ=ランボという動物学者は、「人間の言語の本質は統語法にあるのではなく、コミュニケーション信号を真の言葉と見なすには信号が意味のある知識を伝えなければならない。この信号は同様の知識、意味を伝えることと受け取ることの両方に用いることができなくてはならない。」と述べております。難しい言い回しですが、要するにコミュニケーション信号を真の意味と見なすには仲間内で共有する意味のある信号でなければならないということです。
コミュニケーション信号は必ずしも音声を用いるとは限りません。
たとえば、手信号の場合、仲間内で共有する意味のある手信号を頭の中で像形として用いるなら、それは視覚の神経回路を用いているので、想像という思考がなされたとするのです。
人の思考は言葉を用いる思考と像形色を用いる思考があるのですが、一般的には、この二つが混在して思考がなされるのです。しかし、人によっては言葉ばかりの思考の人もあり、人によっては像形色ばかりの思考の人もあることはあります。

人間の思考は以上のような様子ですが、動物の場合はどうなるのでしょうか?
これは推論ですが、その動物にコミュニケーションの為に共有する意味のある鳴き声(鳴き方)があるならば、それを思い起こすことをもって思考とすることができます。動物自らが経験した事物情景を思い起こすならば、それは想像という思考とすることができます。
動物の脳の構造と機能は人間の脳の構造と機能と基本的に違いがないので、動物も人間のように最低限上記に挙げた程度の思考をしていると思います。
思考があるならば、思考に基づく行動判断は当然するものです。

人間も動物も五感(眼耳鼻舌身)から事実の刺激入力に基づいて行動判断しますが、思考(架空ではありますが)も、脳内の聴覚神経回路からの思考や視覚神経回路からの想像も一つの入力刺激となって行動判断の材料(情報)となるのです。
思考、想像は基本的に過去の経験に基づくものですから、確かに生き延びる為に役に立つのです。過去の経験が忘れ去られることなく生かされる道なのです。
動物も人間も、過去の一度の経験が思考の繰り返しによって、何度も仮想(架空)体験がなされて、実体験に準ずる生き延びる為の智恵が形成されていくのです。思考は過去の経験が有効に生かされる方法です。生き延びるという生物の至上命題を達成する為の手段である思考が、人間だけということはあり得ません。過去の経験が思い起こされないならば、脳に定着されにくくなり生き延びることが圧倒的に不利となります。
経験を定着させるには思考は必須なのです。思考なくして経験を定着させるのは難しいということは自らやって見ると分かることです。非思量の状態にあると、その時に行ったことをすぐに忘れてしまうのです。覚えていることが難しいのです。
動物も人間も脳の構造が基本的に同じですから、記憶と思考の関係も、それほどの違いはないものと思います。
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「我れ思う、ゆえに我れあり」の考察

2019.6.17
フランスの哲学者 デカルトの「我れ思う、ゆえに我れあり」のこの言葉は欧米の哲学・思想・文化に大きな影響をもったまま現代に至っております。
私は禅宗の僧侶ですから、哲学は専門外で「我れ思う、ゆえに我れあり」の意味するところは全く分からないのですが、その言葉づらだけならよく分かります。
多くの人もこの有名な言葉を言葉面だけで理解して、その言葉の意味する深い処を知っている人は少ないのではないかと思います。
この言葉は人や動物の意識と思考の問題と深く関わっておりますので、非思量の禅修行をしている禅僧としてはないがしろにはできません。禅僧の立場から少し考察してみようと思います。

フランスの近世哲学の祖 デカルトは数学者であり物理学者でもありました。
「我れ思う、ゆえに我れあり」というデカルトの有名な言葉があります。
禅門の立場からすると、この言葉には、デカルト自身の心の観察の不充分さという問題があるように思います。哲学者ですから思索を重ね、推敲を重ねて達した言葉なのでしょう。この言葉の不充分な点というのは「我れ思う、ゆえに我れあり」の反対の立場からの検討がなされていないということです。
反対の立場というのは「我れ思わぬ、ゆえに我れなし」という観点のことです。
哲学者ならば、両方の観点からの考察が必要なのですがなされていないようなのです。
我れ思わぬ時に、我れは無いのか、我れは有るのかの自己観察と考察がなされていないのです。
なぜか? それは、デカルトは思わぬ時(非思量の時)の状態があることを知らなかったのだと思います。日本の禅の世界に於ける無念無想という状態があることを知らなかったのです。
また、デカルトは「我れ思う」と言っておりますが、彼は「思う、我れの無い」精神世界があることを知らなかった故の言葉です。
我れ思う我れの無い精神世界は禅門の無我・無心の精神世界のことです。
禅門に於いて、思うことに我れは必ずしも必要がないことは常識的なことなのです。我れが有ることと思考は全く別の機能です。我れが有ることに思考は全く関与していないのです。
このことにデカルトは気付いていなかったのです。我れと意識と思考は一体と考えていたのだと思います。
全く思考のない状態を曹洞禅に於いては非思量と言うのですが、この非思量の状態が我々人間にあることを知らなかったのです。
我々禅僧は非思量の状態を知っていますが、非思量の状態であっても、我れ、つまり意識が厳然として存在していることを知っているのです。我れの形而上の存在は思う、思わないという思考とは別次元のことです。
禅門とすると、ここは「我れ思わざれども、我れあり」或いは「我れ思う、ゆえに思うことに気付く我れあり」とするのが我れと思うことの関係から見た場合、正しいのです。
禅門は我れという自己の正体を知っていますし、思うという思考の機能も分かっているのです。思うことに我れは必要がないし、我れは思っていることを覚知しているだけだということも分かっているのです。
そして、言葉を理解するのは自分が理解するのではなく、理解していることを我れが自覚しているだけであることにも気付いているのです。言葉を理解するのに、その主体がないことも分かっているのです。
これは自らが自らの思考を機能させることも停止させることも自由にコントロールすることができるので分かることなのです。自分で思考を自由自在にコントロールすることのできない人には理解することのできない精神世界です。

欧米の近代現代の哲学・心理学・脳科学・脳神経学の世界に無我・無心の精神世界が全く欠落しているのは、デカルトの「我れ思う、ゆえに我れあり」のこの一文が大きく深く影響していると思います。
精神分析理論を提唱したドイツのフロイトの無意識や潜在意識の存在を考え出すに当って、無我・無心の発想が全く見られないこともデカルトの影響だと思います。
私が欧米に無我・無心の精神世界が全く欠落しているとする根拠は「無我」「無心」という言葉がないことです。
また、それに該当する言葉も類似する言葉も見当たらないからです。言語がないということは、そのような精神文化がなかったことを意味しているのです。そのことに気付くことのない精神文化なのです。
それに対して、禅が広く浸透している日本は、有我有心の精神世界から無我無心の精神世界に及ぶ幅広く奥の深い精神文化が今日まで培われてきた世界で唯一の国なのです。極めて貴重な特異な国なのです。
しかし、現代の日本は欧米化されて、無我無心の精神文化の残滓が僅かながらある程度になってしまいました。真に残念なことです。
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「禅の立場から見て」の意味するところ

2019.6.17
禅の修行の目指すところは、自己の消滅、自己の心の中の自己の消滅、我の消滅、自我の消滅、意識の消滅、、自意識の消滅、他人の視線の消滅、自分の視線の消滅、自己の身体の消滅、五感覚器官(眼耳鼻舌身)の消滅、等々によって無我の人、無心の人となることです。
これらの消滅を曹洞禅では身心脱落といい、佛教一般では悟り(解脱)というのです。
上に箇々の消滅を書き出しましたが、その本性は斯様に多くある訳ではなく一つなのです。どれも一つの本性の縁に応じた現れなのです。
無我の人となると死の恐怖が消滅するのです。満足・不満足の心が消えて安らかに生きていけるのです。どの人も渇望してやまない真の自由人となるのです。当然、自尊心も虚栄心も無用の人もとなるのです。

我々の自分の中の自分を意識といいますが、悟りを開くことによって意識が消滅してしまいますと、意識の機能が明らかになるのです。
意識の消滅をもって悟り(解脱、身心脱落)というのですが、そのようなことで意識の機能が明らかになる理由は、意識の消滅前の精神の状態と意識が消滅した後の精神の状態を比較することができるからです。意識の消滅する前にあった心の機能が意識の消滅によって無くなっていれば、それが意識の機能であることが分かるのです。状況状況に応じて意識の機能が一つづつ明らかになっていくのです。このようにする以外に意識の機能を明らかにする方法は現在のところ見出されてはいません。このような方法以外で意識の正体を結論づけたところで、それらは皆、推論でしかないのですからあてにしてはいけません。

悟りというのは思い、考え、想像する思量を完全に停止状態に至らしめことによって間接的に得られる心境です。私達は自分の意志をもって直接悟ることはできないのです。私達が修行として行えることは、ただ、ひたすら忍耐のもとで非思量の状態を相続することだけです。
このことによって脳の意識を司る神経回路が遮断されるか、完全休止してしまうのか、回路が消滅してしまうのか、確かめようもありませんが、何れかだと思います。
私達が非思量の状態を相続すると、意識が必然的に消滅するような性質を脳の神経組織はもっているようなのです。ここの消滅の部分に関しては、私達は直接には何もできない領域です。
私達が自己の意志をもって悟れるわけではなく非思量の状態を維持し続けていると知らぬ間に、棚から牡丹餅が落ちてくるが如くという状態で身心脱落を自然にするのです。
悟りの牡丹餅は口を開けて待っていると決して落ちてこないという性質を持っているのです。

私は時々、「禅の立場から見て」という言い回しをしますが、その意味するところを明らかにしておきます。
「禅の立場から見て」という意味は、自分の一切の思い、考え、想像を完全に停止した状態(曹洞禅では、これを非思量の状態といいます。)から、心の様子や精神機能を見た場合という意味です。
また、自己の中の自己(意識)が完全に消滅した身心脱落の状態から、心の様子や精神機能を見た場合の二つの立場があるのです。
この二つの立場と一般の人の思量と意識の常に混在する精神状態とは大きく異なるのです。
禅の立場というのは、机上で哲学的、思索的に結論を導き出すのとは違って、実際の禅の修行に於ける心の観察から明らかにすることなのです。その真偽の検証は可能なのです。
禅門の祖師方、禅の各宗派を開いた各御開山方は自らの禅の修行を同じ条件で、同じようにやって、同じような体験をして、確かに間違いはないと代々にわたって証明をしてきたのです。
禅の悟りを疑う人、或いは正しいのではないかと考える人は、理で結論づけるだけでなく、実証を試みることをお勧めします。
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動物の行動の理解の為に

副題

2019.7.1

‐”動物に苦痛はない”を反証する為に‐

ある動物学についての書物の中に「動物の行動を理解するのに、動物の簡単な感情、恐怖、快・不快感、欲望、思考などを体験していると仮定するならば云々。」という一文があります。動物学者の動物に対する基本的見解を表す一文ですが、この一文によりますと、人間にある感情や恐怖や快・不快感や欲望や思考が動物にはないと、当時の動物学界は考えており、その考え方が現在まで続いているということです。
これは動物学のスタートがキリスト教に於ける宗教的人間観と動物観を何ら検証することなく、そのまま受け入れてしまったことによるのです。その弊害が今日まで社会全体に行き渡ってしまっているのです。
動物には苦痛はなく、単に自然に刺激に反応しているだけだということを実証する為の、動物の生体実験が近代から現代にわたって繰り返しなされてきたのです。そして、動物には意識がなく、身体に強い刺激を与えても苦痛を伴うことはなく、ただ、単に自然に刺激に対して、化学反応のように反応しているだけだとの結論に至ったのです。それが今日までの動物学界の主流の考え方なのです。
しかし、近年、この結論に対する反証が示されるようになってきました。喜ばしいことですが、まだ充分ではなく決定的な反証にはなっていないのです。それは動物が自らの意志を人に伝えることができないことからくるのです。この問題をクリアーできない限り、肯定・否定相半ばする状態が続くものと思います。
現在、この問題を解決する道は動物学の基本的手法である観察しかないのです。長期にわたる詳細な観察をしたところで、観察結果の解釈は推論しかないのですから、動物学者の立場によって解釈は複数成り立ってしまうということになるのです。結論は出せないのです。
この状態を解消する為には全く異なる考え方から観察、実験、検証をしていかなければならないと思います。
そうでなければ、従来の動物学の見解に対する反証は難しいと、門外漢であります禅門の私は考えております。

私は以上のことの解決の為に次に述べる4つのことが明らかになる必要があると考えているのです。
それらの前提条件として、キリスト教に於ける宗教的人間観と動物観を動物学の中に持ち込まないことが大切です。
佛教や禅宗には宗教的人間観や動物観はありませんので、これらに関しては白紙なのです。
それでは解決の為の4つのことを一つずつ説明してまいります。
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‐1) 自己と他己の区別の必要性の有無を知る‐

一つ目は我々人間を含めて生物は生きる為に自己と他己の区別をする必要があるかどうかです。その必要性が有るか、無いかの検証を初心に戻ってする必要があります。
一般的に自己と他己の区別は極く極く当たり前のことで、何ら疑問に思うことでもなく、宇宙の真理・原則であると暗黙の了解事項なのです。誰もそこに疑問を持つものではなく、そこを前提としてすべてを論理展開していくのです。

「自己と他己の区別は生物の生きる為の一つの機能である」ということは、禅僧としての私には明らかになっていることです。禅門に於いて、無我として自己と他己の区別のない精神世界があることを知っているからです。
自己と他己の区別がないということは、修行によって自己と他己を取り除いたからです。自己と他己を取り除くことができるということは、それは一つの機能だということを意味しているのです。
生物にとって自己と他己の区別は生きる為に必要欠くべからざる機能なのです。これが生物の一つの機能であることを、まず理解する必要があります。
そして、この機能は人為的に消滅せしむることができることも理解する必要があります。
我々人間にとって自己と他己の区別のある精神世界と自己と他己の区別のない精神世界があることも知る必要があります。我々には二つの精神世界があるのです。動物にはこの二つの精神世界はなく、自己と他己の区別のある精神世界のみなのです。
これは見方を変えますと、自己と他己の存在する精神世界と自己と他己の存在しない精神世界ということです。
今日このことを知っているのは禅門に属する人のみです。

生き延びていく為になぜ自己と他己の区別が必要なのか、そして、何がそのような機能を担っているかを明らかにしなければならないのです。
感情なのか、欲望なのか、思考想像力なのか、記憶の入力・出力なのか、本能なのか、五感なのか、意識なのか、それとも他にあるのか、検証する必要があるのです。
これは人間と動物の違いがどこにあるかを明らかにする為に必要なのです。或いは、逆に本質的な差異のないことを示す為に必要なのです。
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‐2) まずは人間の意識の解明です‐

二つ目は動物に意識があるかどうかが問題なのです。
今日まで動物学界に於いては、動物には意識というものものはなく、意識がある動物は人間のみであるという見解です。
動物に意識があるかどうかを問題にするならば、その前に、意識そのものの機能・正体を明らかにする必要があることは誰にでも理解できるものと思います。
意識は現在、すべてが謎なのです。何一つ分かっていないのです。心理学、脳科学、医学、哲学等の世界での重要問題なのです。
意識の機能・正体を明らかにする為には、人間自らの意識の機能・正体を明らかにすることから始めるしか方法はありません。
そして、その機能と正体が明らかになれば、その機能と正体が動物が生きていく為に必要欠くべからざる機能・正体であるか否かを検証すればよいのです。
その機能が動物が生きていく為に必要がなければ、動物には意識がないこととなり、動物にとってもその機能が生存する為に必要欠くべからざるものであれば動物も意識があることとなるのです。
このようにして意識の有無の判断をするしか方法はありません。

世界に於ける意識についての研究の欠点は、意識を思考に絡ませたまま研究していることにあります。また、精神分析に於ける潜在意識の想定に問題があります。
意識の葛藤が心の病の原因としていることにも問題があります。禅門から見ると意識は葛藤するような性質を持っていないのです。
フロイトは意識に対して潜在意識を想定しなければ理論的矛盾が解決しなかったからなのでしょう。それは催眠術治療で思いついた理論と思いますが、この分け方は正確さに欠けています。
意識という核ともいうべき心があって、それが縁(外的刺激)に応じて顕在意識として働き(機能)、ある時は潜在意識として作用するとすべきです。潜在意識と顕在意識が同時に存在することは決してないのです。それはどちらも意識であり、縁に応じて作用が異なるのです。
フロイトの潜在意識としているものは、その実際は記憶の入力と出力のことなのです。経験の記憶が縁に応じて出力したことを自覚した自己を潜在意識としたのですが、意識は潜在化したり顕在化したりする性質は持っていないのです。

意識を研究している専門家先生方は意識と思考を分離することができることを知らないのです。意識と思考は一体のものではなく、元々別々の機能のものですから分離できるものなのです。これは禅門に於いては常識なのです。意識を研究するならば、思考を切り離して意識の存在の様子と思考の入力・出力の様子を観察することから始めることをお勧め致します。この方法以外に意識について知ることは難しいのではないかと思います。
それと併せて身心脱落(悟り、解脱)した祖師、禅師方の語録や法話を調べてみることです。意識という言葉はあまり出てきませんが、意識の機能や正体に該当することが数多く出ていることに気付くはずです。それを頼りに意識の機能や正体を明らかにすることは可能と思います。
人間の意識の正体の解明から、それは動物の生存に必要がないか、或いは逆に必要欠くべからざる機能であるかを明らかにすることです。それによって動物に意識があるかないかを解釈の違いではない推測ができると思います。
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‐3) 思考想像のない行動を知ること‐

三つ目は動物には思考がないと考える動物学界の先生方は、思考のない精神世界に於いて生きるのはどのようなメカニズムによって可能となるのかを知ることが大切です。
「本能だ」とか、「自然に必然的に反応して」だとか、「自動的に対応するようになっている」だとか、非科学的な根拠の全くない当然視するような言句は科学者として用いないことです。科学者として根拠のない結論は禁句です。
私は曹洞禅の中に身を置いている者として非思量の状態を日常的にコントロールをして修行生活を送っております。
この非思量の状態に於いて、何ができて何ができないか、何が記憶できて、どのようにすると記憶できないか、理解するということはだれがどのように理解することなのか。また、独り言の意味、つぶやく意味、それに重要な意味があるのか、それともほとんど意味がないのか。等々を経験則としてよく理解をしているのです。
この非思量の状態というのは、文字通り頭の中に一切の言葉による思考も映像(像、形、色)による想像も完全停止した状態のことを指すのです。この状態を相続することが曹洞禅の修行の根幹なのです。
一般的に曹洞禅は只管打坐しかんたざと言われていますが、確かに只管打坐ですけれども、それは非思量の状態を相続するという前提条件があってのことなのです。非思量の相続ということのない坐禅は曹洞宗開祖 道元禅師が説かれた只管打坐とは異なりますので注意が必要です。このことも理解して思考のない行動を実験、検証してみる必要があります。可能か不可能かを問われれば、可能と答えます。
我々人間に於いても反射的行動や習慣的行動以外でも、思い考え、想像して、そしてその判断のもとにすべてのことを行なっているわけではないことを自覚することも大切です。このことはベンジャミン・リベットの自由意志の実験で明らかになっていることです。現代科学の世界では、現在に至っても未だ結論が出されていない未解明の部分ではあります。禅門に於いては、この自由意志の結論は中国に禅が伝わってから既に出ていることです。
これらのことが動物学の世界で明らかになれば、動物の行動を理解することに大いに役に立つのです。
動物と人間の行動の基本が同じであるのか、共通点があるのか、全く異なるのかが明らかになるのです。
以上のことは曹洞禅の非思量の相続がしっかりできている禅僧に協力してもらうか、共同参画してもらえば、実験、検証は可能なことです。
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‐4) 思考想像の有無を脳のデータで知る‐

最後の四つ目は動物が思考・想像するのかということについてです。
人間の言葉を用いる思いや考えがある時の脳の活動状態と思いや考えのない時の脳を比較して、その活動部位を特定し、その様子を観察することです。
更に、想像(像・形・色)のみをしている時の脳の活動状態と想像していない時の脳の状態を比較して、想像する時の脳の活動部位を特定し観察データを採ることです。
この二つのデータで思考・想像の有る時と無い時の明確な相違が得られれば、このデータを基にして動物の脳の思考と想像の有無を明らかにすることができると予測しております。この方法以外に禅門には今のところ動物の思考・想像の有無を確認する方法はないと思います。これも曹洞禅の非思量の相続をある程度コントロールできる禅僧を捜し出し、協力を得ることができれば可能なことです。
ただし、このような禅僧は僅かしかいませんので、いつでも、いつまでもということはありません。
諸行無常を念頭に置いていることです。
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