『 はじめに 』 『 第一章 』 『 第ニ章 』 『 第三章 』 『 第五章 』 『 第六章 』 『 動物の意識 』 『 意識の機能 』 『 用語の説明 』 『 質疑応答 』 『 問い合わせ先 』
第一章から第三章までの文はテーマを一つに絞りましたが、第四章はテーマが一つではありません。
文を書いておりますと、書いておかなければと、あれもこれもとなってしまいます。結局、長〜い文章となりました。
題名だけでは内容全体は推し量れませんので、長い! と思われても読み進んで下さい。
基本的には「祖師方の説く処と師家の説く処の違い」がテーマとなっております。
2020.4.11
禅の修行の一つである曹洞禅の非思量の相続(維持)は極めて人為的な意図的な修行です。臨済系の公案禅のような偶然の入る余地が全くない修行です。因果の道理歴然とした修行で、神秘的・霊性的・超心理的要素の入る隙間のない修行です。
子供の思い描くことのできない大人の修行であり、弱さのない忍耐を最善に求められる修行です。長い年月の忍耐と孤独を求められる真に大人にしかできない修行です。
曹洞禅の修行は自己の心の中からの消滅、身と心(自己)の心の中からの消滅を目的とした人為的に工夫された意図的な精神行為です。
自己の消滅を目的とした人為的に工夫された極めて忍耐の必要とする宗教的精神行為ですので、「修行」というのです。
禅の修行は自然の、あるがままの、そのままの、忍耐のいらない精神世界には存在しないものです。
宗教的天才でもない限り、日常の生活が自然に修行となってしまったり、偶然に非思量の状態に陥ってしまっていたり、五感を開放して何もしないで縁に任せていたら非思量の相続をしてしまっていたということは決してないのです。
また、極めて短い時間の非思量の状態は修行とは言わないのです。それは忍耐が伴わないからです。
曹洞禅の修行は意図的に非思量になるべくして非思量になる修行です。
曹洞禅の悟りである身心脱落は、自らの意志を以って非思量の状態を忍耐を以って相続した結果に至る当然の精神的な境地なのです。
曹洞禅の身心脱落は非思量の相続を意志を以って行わずに至ることはないのです。
非思量の相続を行っていないのに、禅の修行らしきことを模索しながら、あれこれと工夫していたら、或いは作務をしていたら、或いは何かに集中していたら、或いは坐禅をしていたら、突然、自己を忘却してしまったという人が時々あります。この自己を忘却してしまったという様子は身心を脱落(消滅)した様子とは異なっているのです。
この自己を忘却してしまったという状態は、一時的記憶喪失、一時的前後不覚、一時的茫然自失なのです。禅門に於いてこのようなことを経験する人はそれほど珍しいことではないのです。
身心脱落は心の中の身心が脱落(消滅)するのであって、ここに忘却という精神状態が伴うことはないのです。
多くの修行者や平凡な師家は、脱落という言葉を忘却という言葉のことと思い違いしてしまっているのです。
身心脱落に一般的な忘却ということはありませんし、一時的記憶喪失、一時的前後不覚、一時的茫然自失ということもないのです。正しい身心脱落に忘却は伴わないのです。一時的記憶喪失も、一時的前後不覚も、一時的茫然自失ということもないのです。
しかし、多くの参禅者や修行者や平凡な師家は、特別な心理状態をすぐに見性とか身心脱落と判定してしまうのです。これらには非思量の相続が未だできないという共通点があるのです。
非思量の相続ができない時に於ける上記のような特別の体験は皆、意識変容状態といって心理学の世界に於いては珍しいことではないのです。
意識変容状態について知りたければ専門の研究書がありますから、その研究書を求めて調べると宜しいでしょう。
禅の師家や修行者や参禅者で意識変容状態という特別の心理状態があることを知っている人は稀です。意識変容状態を知らない為に坐禅修行者の特別な心理体験をすべて見性や身心脱落に結びつけてしまうことが多いのです。
師家よりそれが身心脱落だと認められた処で、本当の身心脱落ではないので自由がきかないのです。自由無碍の活動ができないのです。一時の法悦なのです。何の意味もない法悦ですので、時が過ぎて一人で冷静になってみると首をかしげることとなるのです。悟ったはずなのにおかしい・・・と。
それは見性や身心脱落ではなく意識変容状態の体験だったということです。目を覚ますことです。
非思量の相続がしっかりできないうちの特別な心理体験は、全て意識変容状態であって身心脱落ではない、と正しく判断しなくてはなりません。その程度の非思量の相続では身心脱落することはないのです。
このような意識変容状態を身心脱落と思い込む人は、特別な心理体験を求める気持ちが強いのです。この特別な心理体験を求める人は名利(名聞利養)を励みとし、師や同参の賞賛を希望として修行している者に見られる傾向があります。
正しく非思量の修行をしている人は、常に自己の有無を見、自己と対峙して修行していますので正しい身心脱落を間違うことはないのです。
特別な体験ではなく、自己の有無に目を向けていますので、自己が有るうちはどんな特別の体験をしても、そのような体験に心を奪われることはないのです。正しく身心脱落の判断ができるのです。
そのような道人にとっては、どんな特別な体験であっても、それが自己が有るうちのものであれば、何の価値もないのです。そんな体験は捨ておくべきものなのです。特別な体験が何の価値もないことや捨ておくべきものであることは、誰に言われずとも、教えられずとも自ら分かることなのです。このような人が真の道人です。
名利(名聞利養)は一度に捨てきれるものではないのですが段々と捨てていけるものです。
名利を離れること。つまり、見性や身心脱落をして他者に認めれれたいという心を捨てること。
修行の師から誉められたい、認められたいという気持ちを抱いてはいけません。悩み苦しむ者を救いたい、導きたいという考えも捨てなくてはなりません。
ある程度力がついたら、見性したら、身心脱落したら人を集めて参禅会を開いて活発に活動したい、各地の参禅会に招かれて坐禅の指導や提唱をしたいと願うのは一見すると禅者として正しいことのように思われますが、これらはすべて名利の心のなせることですから、修行にとっては障碍となる心の動きなのです。正しい身心脱落には決して至ることはありません。
禅門に於いては善いことであっても、名利の心から行われることは善行とは言わないのです。陰徳を積むための善行は名利から離れた善行ですから、禅の修行に於いては尊ばれるべきことです。
名聞利養は現代では名聞は名誉(名声)欲と言い、利養は財欲・金銭欲と言い慣わしており、別々な欲としております。
佛教では名誉欲と財欲の二つに分けずに、名利或いは名聞利養と言い表しているのです。
この名誉欲と財欲は本質的に一体のもので表裏の関係なのです。根が一つなのです。それ故に名利とか名聞利養と一体的表現をするのです。私達、禅界で長く修行する者にとって名利という方が納得のいく表現なのです。
名利を離れることは非思量の相続と同じぐらい忍耐の要ることです。極めて難しい修行なのです。
非思量の相続は坐禅中であろうと、経行中であろうと、作務中であろうと、喫茶喫飯中であろうと、休息中であろうと、スポーツをしている最中であろうと、散歩中であろうと意志を以って行うのです。自然にできることはありません。自然にやってしまっていることもないのです。
日常、一挙手一投足すべてにおいて非思量であることを忍耐するのです。それでこそ修行であり、それは充分に可能なことですからやってみることです。
曹洞禅の日常すべてが修行であるということは、日常すべてが非思量の相続の中に於いて行われるということなのです。
非思量の相続はかなりの忍耐が要りますので、自分の意志とは無関係に自然に、或いは偶然になされることは決してないのです。意志をもった非思量の相続でなければ決して曹洞禅の身心脱落の状態に至ることはありません。
自らの非思量の相続以外で体得した悟りや特別の心理体験は曹洞禅の身心脱落ではないことは確かです。
そして、それらの体験は真正の身心脱落に近づいている証しではないと同時に、その延長線上の近くに身心脱落があるわけでもないのです。
特別な心理体験(禅的体験)をしても、自らの心の中の自己の有無を点検すれば、それが身心脱落や身心脱落に近づいている体験でないことは直ぐに分かることです。自己の心の中の自己の有無は他人や師家は誤魔化せても、自分は誤魔化せないことが原則です。
禅の修行は他者の目を見て行うのではなく、自分の心の中の自己の有無を見て行うのです。
ある高名な師家は、厳しい修行を長年続けていると、身も心もへとへとになるぐらいに疲労困憊するようになってくる。そして知らぬ間に思量停止状態に陥って、何かの縁で、例えば、竹に小石が当たる音を聞いたり、桃の花が咲いているのを目にしたりした縁で自己を忘じてしまっていることに気が付くことがあると述べております。
また、修行の工夫が全くつかめずに、精神的に行き詰って二進も三進も行かなくなり、悟りたいという気持ちも無くなり、全てを放り出して淡々と作務三昧の生活を送っていると、自然と非思量の状態に陥り、何かのふとした縁で、例えば、虫の音を聞いた縁で悟りを開くことがあるというようなことを述べたりしております。
極限に近い疲労困憊をしたところで非思量の状態になることはありません。
これは曹洞禅の非思量がまるで分かっていないが故の説です。体験の裏付けがあるわけではなく、「そうなれば、そうなるのではないか」という予測を述べただけのことです。根拠は全く無いのです。
語録や法語にもそのようなことを説いたものはありませんし、そのようなことを説き示した祖師もいないのです。
このような根拠のない説は真摯な修行者を惑わすものです。罪です。
真摯な修行者の生涯を苦労ばかりで意味のない無駄なものとしてしまうのですから罪なのです。
・日常の修行生活を気を抜かずに緊張感をもって日々を送る。
・何事も緻密に、丁寧に、集中して打ち込む。
・難行苦行のような生活、厳格な妥協のない生活、規律正しい怠けることのない生活を送る。
・粗末な質素な貧乏生活を厭わない。
・骨身を惜しまず陰徳を積む生活をする。
以上のどれかでも、そのような生活をしていれば、とてもよい修行となり、人格を養い、身心脱落に至ることのできる禅僧らしい禅僧となるという信念を持った師家が多いのです。
このような修行生活の在り方は曹洞禅に於いては、行事綿密であるとか、威儀即佛法・作法是れ宗旨にのっとった在り方であるとか、如法な修行生活であるとか、道は貧にありで名利を捨てた枯淡な禅的生活であると言って尊ぶのです。
非思量の相続よりも、以上の在り方を生涯貫き通して、是で足れりとする禅僧が多いことは確かです。
以上のことは社会的に活動する宗教者の姿としては誰でもが目で確認でき尊重される在り方なのです。
しかし、この宗教者としての尊ばれる禅僧らしい在り方は、必然的に曹洞禅の非思量に直結するかと言えば、それはないのです。
非思量の相続の修行は、非思量の相続を何も介せずに直接行うしかないのです。
行事綿密に日常の修行生活を行うように努力するとか、威儀即佛法・作法是れ宗旨ということで、常に威儀に気を付け、正し、作法を丁寧に綿密に行うとか、衣食住に於いて貧乏な枯淡な生活を極めたところで、如何に如法な修行生活に勤めたところで、自然にも必然的にも非思量の状態に至ることはないのです。
何も介せずに非思量の状態を体得し、何も介せずに非思量の相続をするしか曹洞禅の修行は成り立たないのです。
何度も繰り返し申しあげますが、非思量の相続の修行というのは、直に、自覚して非思量の相続をしない限りあり得ない修行です。
非思量の相続という修行は極めて人間的な精神行為であり、意志的な意図的な精神行為なのです。
何かの時に自らが非思量の相続をしていたことに気付くということではないのです。
何かの時に師家の指摘によって自らが身心脱落していたことに気付くようなことはないのです。
そのような偶然性の介入する余地のない修行であり、棚からぼた餅のような修行ではないのです。
私達凡人は本来、覚っているわけでもありませんし、身心脱落をしているわけでもありません。
本覚思想の由来する言葉である「本来本法性」というのは、本来悟っていると解釈するのは誤りです。ただ法性を備え持っているという意味です。
法性というのは佛性のことです。全ての人は佛性を備え持って生まれてくるということです。
天賦のものとして佛性を備え持っていても、その佛性の機が全面的に日常生活に現れることはないのです。その機が日常生活に現れて納得のいく生き方となる為には非思量の相続によって、本来の佛性の機を阻害している自己(我・自我・意識)の脱落(消滅)が必要なのです。
本来佛性を備え持っているということと、身心脱落するということは、全く別の次元のことです。
このことを混同する宗門学者や眼蔵家や師家が多いのです。それは坐禅の要術である非思量を実際に行った経験がなく、頭で論理的につじつまが合うように解釈したが為なのです。その解釈は結局は苦肉の策なのです。上滑りなのです。
禅門の修行は道理を理解して、宗祖道元禅師が説き示した通りに、まずやってみることです。
佛性は天賦のものであっても身心脱落しない限り、その機は現れないのです。佛性が天賦の性として備わっていても、その機を阻害しているのが自己(我・自我・意識)なのです。利己性を生み出す性が自己の中の自己(我・自我・意識)なのです。
自己の中の自己が利己性を生み出し、自他一如を妨害し、利他心が現れることを阻害するのです。
悟るというのは利己性を生み出す自己(我・自我・意識)を消滅せしむる精神行為なのです。
利他性の機を阻害する自己(我・自我・意識)を消滅せしむる精神行為が非思量の相続なのです。
ですから、我々は既にそのままで悟っているという理屈は成り立たないのです。自己が心の中にあるからです。利己心が心の中心にあって活動しているからです。
この自己の生み出す利己心が、決して止まることのない人間同士の争いの原因です。心の底から満足できない理由です。真の自由が手に入らない理由です。虚栄心やプライドに振り回され、心の安らかな対人関係が構築できない理由なのです。
最高権力者の独裁者になりたいのは利己心によるのです。他者を虐殺する心も利己心が生み出すのです。自分の意に反する他者を邪魔な存在として抹殺する心も利己心です。他人の不幸を顧みずに自分の利益だけを追求する心を生み出すのも利己心なのです。
その利己心は自己の中の自己(我・自我・意識)が生み出すのです。自己、つまり意識には自己保存本能を司る機能があるが為なのです。自己保存本能を全うする為には利己性が必要欠くべからる最重要の機能なのです。
この利己性を生み出す自己の中の自己(我・自我・意識)は唯一佛性ではないのです。今のありのままが佛性というのは間違いです。生まれながらにして悟っているという理である本覚思想は間違いなのです。
本覚思想が生まれつき佛性を持っているという意味ならば間違いではありませんが、どうもそうではありません。生まれながらにして身心脱落しているとか、悟っているとか主張していますので、そのような意味に本覚思想を受け取っているならば、間違いなのです。
性悪説は利己性の存在があるが故に成り立つのです。
性善説は利己性の心の存在がない場合に成り立つ説なのです。つまり、身心(自己)脱落した人がそうなのです。
利己心がないということは利他心の機が全面的に現れてくるということです。慈悲心の人なのです。慈悲心の人を佛と言うのです。利己性のない愛です。
古くから「佛は慈悲して慈悲知らず」と言われているのです。
それは非思量の相続によって可能となります。
非思量の相続をしていれば求めずとも身心脱落に至るからです。身心脱落すると利己性が消滅することとなるのです。
目次へ
2020.6.5
曹洞禅の坐禅修行は「只管打坐」ではなく「非思量」です。
このことは宗祖道元禅師の著書「普勧坐禅儀」の中に出てきます。
この普勧坐禅儀は坐禅の理論書(原理書)ではなく坐禅修行の現場に於ける指南書なのです。具体的な坐禅の仕方についての説明、指導書なのです。
調身といって身体の整え方・作法を説明し、調息といって呼吸の整え方を説明し、調心といって心をどのように調えていくかについて、その要点について説いているのです。
普勧坐禅儀の中で最も重要なのは以下の箇所です。
「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」
箇の文の中で「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。」と述べていますが、これは「非思量」の状態を具体的に教え示す為の前触れとして述べたものです。
「結局何も考えることはできないでしょう」この状態を「非思量」というのですと言わんが為の一文なのです。
普勧坐禅儀の中で道元禅師が教え示したかったのは「非思量」だけなのです。これ以外に真に必要な処は無いと説きたかったのです。他の文は「非思量」を導き出す為の導入としてあるのです。ここには只管打坐さえもないのです。一念不生ということなのです。
あまりにも簡明すぎて、理屈の一つも言いたくなるかもしれませんが、それは一般人の癖です。それは相手にしてはいけません。禅の修行は「非思量」だけをしっかりと押さえて、ここが禅修行の全ての出発点(中心)であることが分かればよいのです。
禅の修行は集約すると「非思量」の一言なのです。ここの処は修行者の直観なのです。道元禅師の心(考え)に重ね合わさったということです。この「非思量」が最も大切なことであり、他の事はすべて枝葉末節なことと受け取ることができれば修行の方向が明確になるのです。
修行として行うことは非思量なのです。
坐禅として行うことは非思量なのです。
只管打坐として行う調心は非思量なのです。
このことは祖録を見ても明らかなことです。それぞれの祖師の言葉や表現は異なれども言わんとすることは非思量なのです。
曹洞禅の修行は徹底的に完全な非思量を求めるのです。このように言うと気の遠くなるようなことで、今の自分の様子からみて到底不可能と思ってしまうものです。しかし、やってみて下さい。非思量の相続にはかなりの忍耐力が必要ですが可能であることが徐々に分かってきます。
非思量の状態はある程度できればよいということはありません。完全な非思量を求めるのです。
完全な非思量に至れば自然と身心脱落することは必定です。身心脱落しても、それは自然なことであり当然のことなので、気の狂うぐらい歓喜することはありません。もし歓喜するとしたら、それは正しく身心脱落しているわけではなく、その歓喜は名聞利養の心がもたらすものですから非思量を根底からやり直すことです。
「到り得、還り来れば別事無し」が正しい身心脱落です。ここに歓喜するような別事はないのです。
身心脱落を価値あることと思い巡らし、期待し、切望する心は全て名利です。
身心脱落したか、していないかの目安は自己の有る無しで判断するのです。
自己の有る無しは、外を見ないで自分の心の中を常日頃点検していれば誤魔化されることはありません。
常に自分の心の内を心眼で見て、自己の在ることを自覚していることが大切です。
正師(身心脱落している禅僧のこと。表立った処にはおりませんので捜すことです。)と雖も、その修行者が身心脱落しているかどうかは、正師の質問に修行者自身が自己の内容を正直に述べない限り判断はできません。まして、その人の表情や態度や歩く姿や受け答えの仕方を外から見ただけでは知ることはできないものです。
また、古参になると正師の点検に受け答えする知識も技術も長けて、その気があれば難なく通過することは可能です。
身心脱落を点検する為に公案で試したり、わざと引っ掛けるような質問をするのは師家と雖も厳禁です。力量不足の師家のやることです。下品です。正師ならば話しを聞いていくだけで分かるものです。
私も若い頃、有名な老師からやられましたが、引っ掛けているなァと感じると同時に不快なだけでした。私は自分の様子を誤魔化す気などさらさらありませんし、力量以上に自分をよく見せようという気もないのです。老師から正直に問われれば、正直に答えるだけです。人を試すようなことはしてもらいたくはありません。自分の力量は自分がよく知っているのですから。
老師には自分を認めてもらいたかったわけではなく、私の修行のやり方が正しいか否かだけを教え示してもらいたかったのです。それは今でも同じです。
その時に、如何に世間で大悟していると評価されていようとも、私は品位のない駄目な老師だと思っただけで、その後二度とその老師の処に行くことはありませんでした。
禅の修行者が老師や師家に認められることを求めるのは、正しい求道心から外れるのです。自分の今の修行のやり方が間違っていないか、正しく行っているかどうかだけを問えばよいのです。この確認ができれば、後は忍耐をもって非思量の相続に精進するだけです。
明治、大正、昭和初期に活躍した臨済宗から曹洞宗に宗旨変えをした師家がおられます。原田祖岳老師の弟子になった師家ですから、原田祖岳老師の許で大悟徹底したのだと思います。原田祖岳老師の印可を受けたのだと思います。
ここで私が大悟徹底という言葉を使い、身心脱落という言葉を用いないのは、この師家は曹洞禅の非思量の相続の具体的なことが分かっていないからです。
この高名な師家(曹洞宗の中では評価されていません。)は大悟徹底すれば、手の舞い足の踏む処を知らずと言うぐらい歓喜するものであると述べておられます。
しかし、手の舞い足の踏む処を知らぬぐらい歓喜する心理的何かを体験したところで、それは身心脱落したという判断材料にはなりません。
あの白隠禅師を見ればお分かりになると思います。
白隠禅師の22才で最初の大悟したと思った体験は大悟ではありません。
24才で正受老人の許で大悟したとされていますが、これも大悟ではありません。正受老人も本人も大悟と思った体験は大悟ではなかったのです。
白隠禅師が正しく大悟したのは42才の時、コオロギの鳴き声を聞いた時の大悟が正しく大悟した時です。
三度目の正直は本人が正念において確信したのです。
法悦の深い歓びがあったというだけでは見性、即身心脱落したという確証にはならないのです。
身心脱落したかどうかは、自分の心の中に自己が有るか、自己が無いかを自分で自己点検することが大切なのです。この時に名利の心が有るとその点検は信憑性が疑われます。
自己が有るか無いかの点検は自分がすればよいのです。当然、名利の心は離れていなくてはなりません。
自己の身心脱落が間違っていないかの点検を正師にやってもらえば更に良いということです。1人の心眼より2人の心眼の方が間違いが少ないからです。
正師の点検・証明のない身心脱落は邪道であるかのような発言を臨済宗から曹洞宗に宗旨替えした師家がしておりまが、この師家は一体全体誰の証明を受けたのでしょか?
当時、この師家は、臨済には大悟している老師は一人も居ないということで、臨済宗を見限って曹洞禅に移ってきたのです。自分の師と求めた原田祖岳老師が豁眼の師なのでしょうか?
原田祖岳老師は当時、曹洞・臨済の中で全国的に最も高名で、右に出る者はいないと言われるぐらいの評価の高い超一流のお師家さんでした。原田祖岳老師の住する発心寺は天下の鬼僧堂としてその名を天下に轟かせておりました。
原田祖岳老師が豁眼の師であるかどうかは、非思量についてどのように説いているかを見れば自ずと分かります。皆さんもどうぞ自分で調べてみて下さい。
(豁:悟りを開いた、悟った)
正師、正師と言いますが、正師がいつの時代でも必ず何処かに居られるという保証はないのです。歴史的に見ても曹洞・臨済に於いて正師が不在の時代がいくらでもあるのです。祖師方にしても必ず連綿と正師が途切れることなく繋がっていくものとは考えてはいなかったはずです。正師の途絶える時が必ずあるのです。
そのことを予測して祖師方は法語・祖録を残しておくのです。正師の居ない中を一人で正修行をし、自己点検をし、自己証明できるようにと法語や祖録を残したのです。大悟徹底したということを自分の偉業の証しとして残したわけではないのです。
現代のように正師不在の時代でも、祖師方の残された法語や祖録で自己点検ができ自己証明ができるのです。それが曹洞禅の非思量の相続という修行方法なのです。
臨済禅はこの限りではありません。臨済禅の修行の根幹である公案の工夫には修行者自身が自己点検できないという欠点(弱点)があるのです。臨済禅の公案に於ける修行には大悟徹底への必然性はなく、そこには必ず偶然性が加わるからです。
ゴルフのグリーンのようなところがあるのです。ビリヤードのように計算し尽くすことのできる確実性はないのです。必然だけではない修行方法なのです。大悟徹底に至る因果関係が曹洞禅のように明らかではないのです。
曹洞禅の修行は自己の有る無しだけが問題です。臨済禅のように修行途中に一つ一つクリアーしていく公案のようなものがあるわけではありません。曹洞・臨済共に自己が完全に消滅(忘却)した状態が身心脱落です。
自己の有る無しは名利を離れて自己点検すると、誰にでも自覚ができるものです。
名利の心(禅の世界で悟って名利を得ることが目的、高い評価を得ることが目的、等々)で禅の修行を行うと、自己の有無は名利の蜜のような魅力に掻き消されて気づきにくくなってしまうのです。多少、自己があることに気づいても名利の魅力に引きずられて無視をしてしまうのです。
味覚に例えると、名利の方が自己の有無よりも格段に味が濃く甘くて美味しいのです。
聴覚に例えますと、名利の音の方が自己の有無の音よりもはるかに心地良いのです。存在する自己の出す音に気付かないか、気付いたとしても無視してしまうのです。
名利の心をもって禅の修行をすると、忍耐のつらさに耐えられなくなるのです。
身心脱落をして賞賛を得たいという程度の動機(実際にはこのような人が圧倒的に多いのですが)では非思量の忍耐に勝てないのです。
身心脱落するまで20年かかるか、30年かかるか、一生涯かかっても駄目なのか、全く分からないのです。それだけでも不安で苦しいのです。頼りになるのは健康と忍耐力だけです。
名利の動機(深層心理)で修行を始めた人(殆どの修行者や参禅者はこのタイプです)は熱心ではありますが忍耐が続かないので、皆、名利への脇道にそれていくのです。そのような熱心な修行者や参禅者は伝統的な曹洞禅の道人と異なって、目立った活躍を目指すようになっていきますのですぐに分かります。それが名利の本質なのですから当然のことです。
やれば必ずできる、必ず大悟できると豪語していた臨済宗から曹洞宗に移籍してきた高名な師家がおりましたが、実際にやってできた禅僧は、その高名な師家を含めて現在に至っても一人もおりません。
宗祖道元禅師と同様に身心脱落した禅僧は明治以降一人もいないのです。
やれば必ずできると豪語していた当の師家は一箇半箇も残してはいないのです。身心脱落に至る非思量の相続はやれば必ずできるというほど簡単なことではありません。やること、そのことは「非思量」ですから簡単なことですが、その為の忍耐力が並大抵ではないのです。余程の動機付けない限り忍耐力が続きません。
修行の動機として最も適切なのが、昔から無常観(心)です。そして、利他心(慈悲心)です。
明治以降の近代、現代人は忍耐力がかなり落ちていますから曹洞禅の修行は困難になっていると感じます。特に人間の忍耐力を弱める最大の要因は名利です。名声欲と財欲です。有名になりたいと願う心です。お金や財、富を欲しがる心です。
禅の修行を始めて、最初から名利の弊害に気付いている修行者はおりません。
名利そのものから生まれる善行もあるのです。苦しんでいる人を助けたいという心は全て利他心と思うことは大きな間違いです。
自分の為に、自分の名利を満たすことに結果つながることを見込んで行う似非善行もあるのです。自分の地位を高める為の似非善行、自分の地位を守る為の似非善行、自分の何らかの物心の利益を得る為の似非善行もあるのです。本人が無自覚で行う似非善行もあるのです。
名利を離れた善行と名利の心から生まれる似非善行の区別がはっきりと分かっている人は少ないと思います。
人を救いたいという心は、それは他己の為、それとも自己の為、それとも両方の為か、はっきりと自覚できている人は意外に少ないのです。
道元禅師も中国に渡って天童山で修行を始めた時に、古参の修行僧から何の為に修行するのかと問われ、苦悩している人々を救う為と答えたのですが、最後には答えに窮したことが記録に残っております。
名利の心は修行の弊害になることを師家が話して聞かせてあげなくてはなりません。名利の世界から離れるように、名利の心を動かさないように指導していかなければならないのです。名利の心を徐々に捨てていくようにすれば、正しく非思量の相続の忍耐力が生まれてくるのです。非思量の相続の忍耐力がしっかりとついてくれば、何れ身心脱落することは確かです。
ところで諸行は無常です。
人には限られた寿命があることを忘れてはなりません。人の寿命を考えると、修行は時間との勝負でもあるのです。のんびりゆっくりやってはならないのです。
「頭燃を救うが如くすべし。」と開祖道元禅師は述べております。
この言葉の意味は、髪の毛が燃えている場合に人は何はさて置き、急いで火を振り払い消すものです。それと同じように禅の修行も諸縁を放捨して、何事にも優先して急いで修行をしなさいということです。
名利を離れていかない、捨てられない修行者は身心脱落することはないのです。
身心脱落していることを装う禅僧を時に見受けます。その区別は一般の修行者や参禅者には無理です。このような名利の魅力にとりつかれた師家が戦後多くなりました。残念なことです。
師家の是非は、その師家或いは門下の弟子達に名利に関わるような言動があるかどうかで見分けるのが最も適格で誤りが少ないものです。このような師家を見分ける私達宗教者に於ける目安は、その師家の印可についての噂話が流れているかどうかです。
その師家は誰々の印可を受けているというような噂話が出ているようであれば、その師家が身心脱落をしていないことは確かです。その噂話の出先は本人だからです。印可については本人が流す以外に世間に出ることはないのです。
禅門に於いては印可のことは室中のことなので他言無用です。秘密なのです。そのようなわけで、一般の人々に対しては、尚更、軽々しく言うものではありません。師家本人が流さない限り、他の派の禅僧も一般の在家の人も知ることはまずないのです。
僧侶の世界では印可のことは室中のこととして口に出すことは許されないこととなっているのです。本人であっても、第三者の者でも、弟子同志の中であっても、同参の者同志の中であっても、印可のことについては触れないのが暗黙の了解事項です。
印可の噂が出ているということは本人が流したという以外にないのです。
それは誰々の印可を受けていることを知ってもらって、自らの禅僧としての評価を高める為の材料として利用したいが為ということです。それ以外に印可の証明を受けたことを世間に知ってもらう理由はないのです。名利の心が言わしめたことは確かです。
自己が有るか無いかを自己点検によって知る目安が一つあります。
それは眼・耳・鼻・唇(舌)・身(五体、皮膚)の五官の存在感によって自己の有る無しが分かるのです。
非思量の相続をしていくと、これら五つの器官の存在感が一つづつ落ちていくのです。落ちていくというのは自分の心の中から消滅していくということです。鼻や耳はかなり早くその存在感が消滅してしまいます。次に身です。最後まで残るのが眼と唇です。
非思量の相続を忍耐強く修行していきますと、自然に身体の各器官の存在感が一つづつ脱落(消滅)していくのです。いっぺんに同時にではないのです。
各器官は一つづつ脱落(消滅)していくのですが、最後まで暫く残るのが眼と唇です。この眼の存在感もその内に落ちてしまうのですが、唇の存在感はなかなか無くなるものではありません。
非思量の相続を更に進めていきますと、唇の存在感も無くなってきます。
この存在感が無くなる過程は、唇の形や唇の動く様子のイメージが心の中から消滅していきます。心眼で見えていた唇の閉じた形や唇を開けた形が思い浮かばなくなるのです。そして、更に非思量を相続していますと、形や動いている様子や閉じている様子等が消滅して存在感のみになるのです。形のない唇が存在感のみになって暫く残っているのです。唇の残滓とも言うべきものです。その存在感も非思量の相続によって薄らいでいき、ついには無くなるのです。
摩訶般若波羅蜜多心経という経文の中に「無眼耳鼻舌身意」という言葉が出てきますが、この言葉のようなことは有り得ないと考えるのが一般的であり、これは悟った人の特別な神秘的な世界のことと考えております。
非思量の相続を修行していきますと、実感として以上の様な様子があることが理解できるのです。
自分の五体の手足胴などの一つ一つの存在感も無くなります。
自分の腕を見て自分のものという実感が無くなってしまうのです。自分の意志とは関係なく必要に応じて動いていることを不思議に感じるのです。不気味にさえ感じてしまうのです。一体この腕は誰なんだ!という感覚になるのです。五体の密接な一体的連携感がないのです。五体を一体として統合している主体が無くなってしまうのです。自分の身体であるという感覚も消滅してしまうので不思議なのです。
非思量の相続を行っていると五官の全ての存在を忘れてしまっていることが多くなってきます。それで良いのです。ここまでくれば、日常のいつも通りの生活に於いて、ほぼ完全に近い非思量の相続ができるようになってきているのです。
身心脱落の「心」は自己のことです。「心の脱落」は自己の脱落のことであり、自己の忘却のことです。
以前にも何処かで何回か書いておきましたが、禅門に於いては言葉を一つの意味にしか用いることは少なく、場合によっては異なった幾つかの意味に用いることが多いので、その文の前後でその語はどの意味に用いているかを自分で探ることが大切です。この探る力も非思量の相続によって自然と身についてくるものなのです。
曹洞禅の修行は孤独です。このことは覚悟していて下さい。
身心脱落した処で、誰もその価値に気付いてくれないことも覚悟して只管に打坐して下さい。
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2020.7.4
‐鐵眼禅師‐
1630年1月1日生 1682年3月22日没。 享年53才。
寛永庚牛 肥後国(熊本)益城郡に生れる。13才で出家。
明暦乙末の秋、中国の禅僧隠元禅師の長崎興福寺に来たりしを聞き、直に長崎に赴き参ず。
その後、木菴禅師、即非禅師の二大老師に師事し、臨済33世の法燈をかかげて大いに道俗の衆を接化し、その名天下に轟きぬ。
天和3年2月に遷化(没)す。
八ヶ寺を開創す。
鐵眼禅師は、黄檗宗の中国帰化僧である木菴禅師に主に師事した黄檗宗の禅僧です。
黄檗宗は日本に於いては中国黄檗宗隠元禅師が最初に伝えた禅の一宗派で、総本山は京都宇治の万福寺(開創隠元隆g禅師)です。
鐵眼仮名法語は禅要に志し深き一女人の求めに応じて書き繰られしものにして、元禄(1688年〜1704年)4年の秋に版刻して本にして世に出されたものです。
仮名法語のその主な内容は、摩訶般若波羅蜜多心経の「五蘊」について述べられたものです。
この仮名法語は般若心経の五蘊について書かれている為に「心経大意」などと称されることがありますが、一般的にその旧の書名に従い鐵眼仮名法語とされております。
鐵眼仮名法語を紹介致しますのは、「坐禅の工夫の内容とその心境の変化」について説明しているところがあるからです。
鐵眼禅師の師である木菴禅師は若き頃 永平道元禅師が中国に渡って修行し大悟した寺である天童山に上り、暫く密雲禅師に参じていた経緯もあるのです。
黄檗宗は念佛禅と言われますが根は禅宗なのです。坐禅三昧となる為に念佛を取り入れたのです。
黄檗宗は念佛禅といわれ、坐禅を組みながら念佛を唱えるのです。念佛三昧になるのです。
数息観とよく似ておりますが、数息観は坐禅を組んで息の出入りに合わせて数を数えるのです。そして、数息三昧になることを目指すのです。
数息三昧になったところで、それでは識が残っておりますので大悟することはありません。見性までは至ることはできますが、見性というのは非思量の状態が手に入ることで、大悟に至るには、その後、その手に入った非思量を相続する忍耐と努力が求められるのです。
念佛禅は公案禅の無字の拈提ともよく似ております。
無字の拈提は坐禅を組みながら無ー三昧に至るべく、一時も休むことなくムームームームーと唱え、ムームームーと念じていくのです。そして、無字を忘れ、無字を拈提している自己を忘れることによって、無字三昧の心境に至るのです。ここで「自己を忘れ」と書きましたが、「識」が残っておりますので本当に忘れているわけではありませんので誤解のないようにして下さい。
念佛禅も、数息観も、無字の拈提も、唱える言葉は違えども実質的には同じことを行じているのです。そして目指す処は三昧なのです。
三昧になったと雖も阿頼耶識は残っていますので大悟に至ることはないのです。
道元禅師著の普勧坐禅儀の中の「念想観の測量を止め」の「観」が残るのです。これが阿頼耶識です。
何れのやり方でも三昧に至って、非思量の様子(正念相続の正念)に気付かなくてはなりません。不思善不思悪を実践するのです。一念不生を実践していくのです。非思量を相続することによって初めて自己、即ち、阿頼耶識の根が切れるのです。切れた時が身心脱落であり悟りなのです。
黄檗宗の禅僧の書かれた「坐禅の工夫の内容とその心境の変化」についての説明を臨済・曹洞の修行僧や参禅者が目にすることは稀なことです。
目にすることによって、禅の修行についての視野が広くなることは良いことであり、また、禅の他宗派に対する偏見も正され、自分の宗派のみを優越感をもって見る狭隘な心も払拭されることとなるのです。各人の修行に資することは大きいと思います。
そして、また、禅宗三派、曹洞・臨済・黄檗の各御開祖の修行の基本は不思禅・不思悪、非思量で違いのないことが分かるのです。
それは各御開山の法語・語録を見てみますと坐禅の要術として説いていることは、結局は、非思量なのです。そこには表現の違いはあっても内容の違いはないのです。
ただ、臨済宗は江戸の中頃、白隠禅師が出てきて、不思善・不思悪、非思量を提唱すること(勧めること)は止めて、公案を修行の主流にもってきたのです。
白隠禅師が看話禅を主体にしてから正念相続は二の次になってしまいました。あたかも公案の拈提だけで大悟できるかのように考えられるようになってしまって今日に至っているのです。
修行眼のある禅僧は大悟する為に、見性に至ると公案を捨てて、正念工夫に切り換えているのです。
正念相続は言葉は異なっていても内容そのものは非思量です。
臨済禅は初心者には公案を与えて拈提させますが、見性して正念を見てからは、公案の拈提は止めさせて正念(非思量)の工夫に専念させるのです。それが正しい修行なのです。そして、正念の相続によって、結果、大悟徹底が自然にもたらされることは、非思量によって身心脱落が自然にもたらされることと同じなのです。
大悟徹底(身心脱落)が公案の拈提を離れて正念相続(非思量の相続)によってもたらされることは、例えば、白隠禅師が法華経を目にしていた時にコオロギの鳴き声を耳にした縁によって大悟したいきさつによって明らかです。
正受老人の許で公案の調べは終っていたはずです。
駿河に戻ってからは正受老人に言われた通りに、公案の拈提は止めて正念の相続に専念していたはずです。
もし、公案を拈提していた状況に於いての大悟徹底があるならば、正念相続という工夫を祖師方は説かなかったはずです。
白隠禅師が公案を拈提していた状況に於いて大悟したのならば、その大悟徹底時の公案のことは重要なことなので、必ず記しておくはずです。
しかし、実際は法華経を読んでいる時と記録に残されているので、公案の拈提を既に離れ正念相続の修行中ということになります。
公案の拈提している状態に於いて併せて正念相続をすることは不可能なことです。正念相続に於いては公案の拈提は雑音でしかないのです。正念相続を妨害することとなるのです。このことは実際にやってみると分かります。
非思量に於いて併せて数息観を行うようなものです。非思量に於いて数息観をやることは余計なことでしかないのです。非思量の相続を実際にやっている修行者は、このことはよく分かっているはずです。
曹洞宗も臨済宗も黄檗宗も、禅修行の原形であり究極的工夫とも言うべきものは非思量の相続です。
臨済禅は公案の拈提から始まって見牛に至って正念相続に移行していくのです。
その「正念」が「正しい念」というだけでは、具体的なことは一切分かりません。
しかし、臨済宗の法語や語録を見てみますと、正念というのは曹洞宗の非思量のことを指していることが明らかなのです。
禅門に於いて、初心者に対する導入の為の便宜的修行方法は各宗派によって様々ですが、禅の修行が進んでいくに従って最終的には三宗派とも非思量の相続に収束(収斂)していくのです。
但し、曹洞宗は初心者に対しても熟練者同様、最初から非思量です。
そして、完全な非思量の相続によって各禅宗三派の修行は悟りに至るのです。
各禅宗三派の工夫を凝らした様々な補助手段、工夫の仕方を全て取り除いた純粋な素の修行の在り方が非思量なのです。この非思量の状態の相続というのは禅の修行の原形であり、行き着いた完成された姿でもあるのです。禅の修行の在り方として足すこともない引くこともできない素の完成された姿が非思量なのです。
曹洞宗開祖道元禅師は禅の修行の究極的要術として非思量を示し、素の坐禅として様々な余分な補助的工夫を全て取り払った姿である非思量を禅の修行者に示したのです。
黄檗宗の鐵眼禅師もその説くところは、内容的に道元禅師と同じことなのです。つまり非思量です。このことに該当する部分を抜粋して以下に紹介致しますので読んでみて下さい。分かり易く説いておりますので初心者にとって禅修行の理解の参考になります。
「坐禅工夫をなす時、その心の内に善、悪、無記の三性の品(種類の思量)起こる。
善といふはよきことを思う心、悪といふは悪しき事の(が)心にうかふ(浮かぶ)を言ふ。
無記といふは、善にもあらず、悪にもあらず、茫然として(とりとめもなく漠然としている様子)、うかうかとしたる(している)心なり。
此の三しな(種類)の念(思量)起こりて止む事なし。
あるいは(ある場合は、ある者は)、悪事を思はざれば、善事を思う。善事を思はざれば悪事を思う。
もし少しの間など善念も悪念も起こらざれば、無記とて、何ともなき茫然としたる心(とりとめもなく漠然としている様子)にて、うかうかとしてあるものなり。
その悪念は地獄、餓鬼、畜生の種(迷い苦悩の原因)、善念は人間、天上の種〔求道心(佛心)の起きる原因(要因)〕、無記はいまだ善悪の分かちなき(分別のない)、愚痴、無明の姿(状態)なり。
かように善、悪、無明の内(心の状態)を離れざる間は、いまだ坐禅の熟せざる初心の人のありさまなり。
かかる念の起るにもかまわず、いよいよ志、深くして、退屈の心なく、ひたと(ひたすら、一途に)坐禅する時は坐禅の心ちと(少し)熟して、時として善悪も起こらず、悪念もまた起こらず、うかうかとしたる無記の心にてもなくして、その心、澄みわたりて、研ぎたてたる鏡の如く、澄みわたれる水の如くなる心、少しの間、生ずることあり。これは坐禅の心もち、露ほど現われたる印なり。
かようの事、あらん時(有る時)は、いよいよすすみて(進んで)坐禅すべし。
ひたと(ひたすら、一途に)怠たらず坐禅すれば、はじめは暫くの間、澄める心になりたるが、漸々に(次第に)その心、澄みわたり、坐禅の内に三分の一澄むこともあり、あるいは三分の二、澄むこともあり、あるいは初より終り(終始)澄みわたりて善悪の念(思量)も起こらず、無記の心にもならず、晴れわたる秋の空の如く研ぎたる鏡の台にのせたるが如く、心、虚空(何もない空間)に等しくして法界(森羅万象)、胸の内にあるが如く覚えて(思えて)、その胸の内の涼しきことたとえて言うべきようもなく覚ゆる(思える)ことあり。
これははや(早くも)坐禅を過半、成就せるすがたなり。
(以上の状態は非思量の相続がある程度できるようになった心境ですが、未だ身心脱落には至っていないのです。)
これを禅宗にては打成一片と言ひ、また一色辺と言ひ、大死底の人とも言ひ、普賢の境界とも言ふ。
かようなこと、しばらくあれば初心の人は、はや悟りて釈迦、達磨にも等しきかと思へり。
これは大いなる誤りなり。
かくの如くなりたる時を、此れ第五の識蘊と言ふ(意識の世界のことを言ふ)。
世上につよく坐禅する人ありて、かようの処を見つけては、はや悟りぞと心得て臨済、徳山をもあざむき、我れ本來の面目(悟り)を得たり、本分の田地(悟りの境地)に至れりとののしり〔大声で言い騒ぐ(自慢すること)〕、人にも多く印可(悟りを開いたとの証明書を授けること。免許皆伝を授けること。)し、棒を行じ(棒で打ったり)、喝を下し(喝!と大声を出す)、祖師の振る舞いを為す。〔これは棒喝といって修行者を棒で打ったり一喝したりして導くこと。或いは払拳棒喝といって、払子(40〜50pの束の白毛のついた邪気を払う法具)や拳骨、棒などを使って打ったり、怒鳴りつけたりすること。師家の修行者を指導する一方法で臨済禅でよく行なわれる。修行の厳しさを象徴する言葉です。曹洞禅ではこのような指導は全くありません。〕
これはいまだ佛祖の内證(内面の悟り)を知らず、一心の根源に至らざる人なり。
いまだ此の処までも至らずして、諸々の道理(禅の修行や悟りの情報・知識)を心得て、悟りと思ひ、あるいは一切空なる処を悟りと言ひ、あるいは目口を動かし、手足を働らかすものなどを、悟りぞとて人にゆるすあり。
これは、皆はるかに、佛祖の心に隔たりたる人なり。
いま此の識に迷いて悟りと思へる人は、さやうの浅き心得の人には大いにかはれり〔買われり(値打ちを認めること)〕。
真実もあるゆえにこの処まで修行し、上ると雖も、此の識を越ゆる事、知らずして識に迷いて本心とす。
いまだ修行のいたらざる処あるが故なり。」
「これ皆、見聞覚知の分別を離れて、無念無心なる処をさして、佛も祖師もかくの如くのたまえり。
無念、無心にして晴れたる空の如くなる処は衆生の第八識とて(であって)、三界、六道の迷いを作り出せる根本なり。
この処よりして天地虚空、その中の有情(命のあるすべて)、無情(命のないものすべて)、さまざまな品(場合、存在、万事)を思い出せり。眠れる故にさまざまの夢を見るが如し。
三界、唯識と佛の説きたまうはこの義(意味)なり。」
鐵眼禅師のこの抜粋した坐禅についての法語の言わんとする処は、多くの禅の指導者(師家)達は公案を通って自ら悟ったと思い、或いは白隠禅師の22才・24才に於けるような特別な異常心理(超常心理)体験をもって悟ったと思い込んでいるけれども、その心境は祖師方の説いている大悟ではなく、一歩手前だと指摘しているのです。まだ自己が充分残っていると言っているのです。
しかし、彼らは、昭和・平成の現代の師家方と同じように、自己が残っていることに気付かずに、大悟したと勘違いをして、祖師方のように振舞って若き修行者を指導し、印可を授けているが、それは間違いであると説いているのです。
見性しただけで、あたかも悟っているかのように思い込んでいる禅の指導者は、その心境は第八識に留まっているのが実情だと訴えているのです。祖師方や各御開山禅師方の悟りには至っていないと注意しているのです。
・「三界」とは迷える者が流転を繰り返す三つの世界。欲界・色界・無色界のこと。このような世界が実在するわけではなく、人の思考が作り出した世界です。
・「識」とは認識作用のこと。識別作用のこと。意識そのもの。心の作用(働き)全般を統括する心の活動。
鐵眼禅師は思量を道元禅師のように念想観と分けずに善・悪・無記と分けているのです。
善を考え思う、悪を考え思うというのは、これは是、これは非と考え判断することと同じです。これは誰にでも分かることです。これを分別ということも誰でも知っていることです。無記というのはあまり出てこない表現なので珍しいことですが、思量をより詳しく分類しただけのことです。
無記は鐵眼禅師が書かれている通り、とりとめもなく、それほど気にしない状態で思うことを指しているのです。それは物事をこれは善、これは悪としっかりと考え、判断するのではなく、なんとなく思いなんとなく忘れてしまう思いのことを指すのです。なんとなく何かをしながら思い出し、思い返し、なんとなく忘れ、なんとなく流れていってしまう思いを鐵眼禅師は無記といっているのです。
そして、これら物事の善、悪を考えることと無記を止めることを説いているのです。曹洞宗の現代の師家方が説く只管打坐とははっきりと違うのです。
曹洞禅の師家の説く只管打坐は、出てくる思い考えは出てくるままにし滅するままにして放っておきなさい、相手にしないでいなさい。そのままでひたすら坐っていなさいという指導です。
この出てくるままの思い考えというのは無記のことです。無記も習慣的な思い考えとは言っても思量には違いないのです。
無記も実質、思量なのです。道元禅師の説く非思量の中には無記も含まれるのです。それは思量の本質を知っているからです。無記までも止めないと身心脱落には至ることがないことを経験上知っているので「念想観の測量止め」と示し、非思量を説いたのです。鐵眼禅師もそのことを明示したのです。
−阿頼耶識−
阿頼耶識は意識の一つです。特別な意識ではありません。
アラヤ識の本質を究明したところで身心脱落に至ることはありません。この阿頼耶識を含めて「識」或いは「意識」全体を消滅(忘却・脱落)せしまないと悟りとは言えないのです。
この阿頼耶識は意識全般を生み出す根なのです。
これは例えば、「魚の目」の根のようなものです。「魚の目」はその根を取り除かない限り、表面を少しぐらいほじくり取って無くなったように見えても暫くすると再びできてしまうのです。その根、一番深い処にある小さな根を取り切ってしまわないと治ることはないのです。この「魚の目」に当たるのが阿頼耶識です。
悟りはこの阿頼耶識を消滅(滅却)せしむることによってもたらされるのです。言い方を替えると阿頼耶識を消滅せしむることを悟りと言うのです。このことによって悟りの心境に至るというわけなのです。心の最深部に存在する根元的な精神作用を司っているのです。迷いの世界である現世もこの阿頼耶識により縁起して成り立っているとしているのです。七識までは、すべてこの阿頼耶識によって成り立ち、阿頼耶識に含まれるのです。
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2020.8.10
坐禅中(曹洞禅・臨済禅)、或いは禅修行の起居動作中、特別な異常心理状態(程度差があります)に陥る体験をすることが間々あります。
その傾向としては曹洞禅よりも臨済禅の修行者の方がはるかに多いようです。
曹洞禅に於いても、悟り体験を目指して臨済禅の修行を取り入れている道場に於いては多いようです。
特別な異常心理状態に陥る体験をする修行者や参禅者は、悟りや悟りに準ずる見性を目的として坐禅修行をしているのです。
悟り(身心脱落)を目的として禅修行をしている者の悟りの招来を待ち望むような気持を手放して只管に非思量の相続に専念する曹洞禅に於いては、特別な異常心理状態に陥ることは少ないのです。たとえ特別な異常心理体験をしたところで、そのことに取り合っていると非思量の相続に支障をきたしますので、多くの修行者は放っておくのが常です。放っておくことが曹洞禅としては正しい心理的処理の仕方なのです。
臨済禅(公案禅・看話禅)の師家や、臨済的修行方法を取り入れている曹洞宗の師家方は、直接的に悟りや悟りに準ずる見性を目的とした(待悟禅)修行を行うのです。
待悟禅に於いては、修行者や参禅者は坐禅をしていながらも特別な異常心理体験を待ち望んでいるのです。つまり特別な何かに気が付くことに注意しつつ期待しつつ坐禅をしているのです。
そして、或る時、知らぬ間に特別な異常心理体験をするのです。
悟りや悟りに準ずる特別な異常心理体験をすると、修行者或いは参禅者は歓んで師家に報告するのです。
師家はその報告を聞いて、その体験の内容を点検して、内容に応じて、大悟或いは大悟に準ずる見性体験として認めるのです。
この時に修行者も参禅者も師家も体験を優先するものですから、本人の心の奥に自己があるか否かの点検をしないのです。本人とっては、待望していたものが手に入ったという喜び一杯で、自分の心の中に自己があることなど全く眼中にないのです。
師家も体験した修行者や参禅者の心の中の自己を探り出すほどの力量を持ち合わせていることが少ないのが実状です。
修行者や参禅者や師家が皆、押し並べて悟りや悟りに準ずる見性を体験することを目的とし期待しているものですから、何か少しでも心理的変化があったり、特別な心理状態に陥ると、悟りや悟りに準ずる見性として師家や修行者本人や参禅者本人共々に、大喜びしてしまうのです。
この体験の時に、師家はその本人に自己の有る無しを自己点検させなければならないのですが、それをする師家はそう多くはないようです。
悟りや悟りに準ずる見性を目的として禅修行を指導する師家は、自らの門下から何人の大悟者や見性者を輩出することができるかが大切なのです。より多くの印可証明を出すことが目的となってしまっているのですから、自己の有る無しの点検がどうしても甘くなるのです。
宗祖道元禅師の述べている「正師」ならばそのようなことはありませんが、現代においては、「正師」と認められる師家は一人もいない時代ですから致し方ないのです。
但し、良いか悪いかは別として現代曹洞禅に於いて「私は正師である」「〇〇の印可証明を受けている」と自己申告している師家が少なからずいるようです。
曹洞禅に於いては、非思量の相続中、自己の有る無しをずーっと自覚していますので、誤って身心脱落していると勘違いすることはありません。
如何なる特別な異常心理体験をしようとも、自己が脱落していない限り、その体験は一つも意味のないことであり、修行者も参禅者も皆、そのことを自覚していますので問題ないのです。そのような体験は自己が脱落していない限りは全く意味のないことであると知っているのです。
自己の有る無しよりも、特別な心理体験を期待する待悟禅の修行者や参禅者は、自分の特別な異常心理体験を悟りや悟りに準ずる見性としか思わないのです。しかも他に悟りや悟りに準ずる見性によく似た意識の変性(意識変容状態)という異常心理というものがあるということを師家や禅の修行者は誰も知らないのです。
曹洞宗宗祖道元禅師は悟りを待ち望む禅修行を「待悟禅」と称して、それは修行として間違いであると否定されているのです。
悟りを待ち望む心、待望心というのは意識の働きですから、その心がある内は意識の脱落はないのです。待望心は「念想観の測量を止め」の観であり、意識そのものです。待望心という意識そのものを抱えての意識(自己・身心)の脱落はあるはずがないのです。しかし、このことを臨済禅、或いは臨済的な修行をする曹洞禅の師家方は意に介さないのです。
彼らは異常な程の意識の塊となって悟りを求め、公案の拈提を続けるのです。
この時の意識の異常な塊が特別な異常心理をもたらすのです。意識を以って意識をとことん凝集していくのです。意識を過剰凝集していくと意識の脳神経回路がショートして意識の機能不全となって異常をもたらすのです。これが公案の拈提であり、「無字に成り切る」或いは「無字を見る」ということなのです。
このことによって意識は一時的に機能不全となるだけであって、消滅してしまうことはないのです。
意識が一時的に機能不全となると茫然自失状態となって思量が停止するのです。この状態が非思量の状態なのですが、自己の意志でコントロールすることができないので修行に役立てる非思量ではないのです。しかし、非思量の状態を知ることには役立つのです。そして、そのことを知る為には師家の適切な指導が必要になるのです。この状態は非思量なのです。この状態に於いても意識は厳然と残っているのです。まだ意識が残っているということは自己が残っているということなのですが、本人は自己の無い処を見ているので、無い自己を見ている自己に気付いていないのです。
坐禅修行に於ける特別な異常心理体験と考えられていることは、それ程珍しくなく、一般の人にもあるのです。この体験は禅の世界にしかないと思うのは大間違いです。
この悟りや見性によく似た異常心理状態を心理学に於いては、意識の変性とか意識の変容状態といいます。このことは心理学に於いて禅の場合のことも含めてよく研究されております。
悟りや見性に於ける特別な異常心理と意識の変性(意識変容状態)との区別のつく師家は皆無と思います。師家はそもそも一般の人の日常の仕事や生活の中に意識の変性(意識の変容状態)という特別な異常心理状態のあることを知らないのです。禅修行に於ける特別な異常心理状態をそのまま悟りや見性と判断してしまうのは致し方ないことかもしれません。
私も多くの誤った判断を見てきました。
悟ったと評判の何人ものお師家様にお会いしましたが、一人として正しく身心脱落したと思われる師家にお会いしたことはありません。
意識変容状態(意識の変性)については、本HP『第二章』No23見性・大悟体験と間違い易い意識変容状態(知覚の歪み)に於いて、禅の修行・悟り・見性の判断に必要な程度の説明をしてありますので、内容を知りたければそこを見て下さい。
また、心理学の意識の変性(意識変容状態)について詳しく書かれた書物も沢山出版されていますから、それを求めることもよいと思います。
ところで意識の変性(意識変容状態)というのは禅の世界では珍しいことではありません。
一般社会に於いても、そう珍しくなく生じ易い職業というものがあります。
それは命の危険のあるアドレナリンが急激に増加するような仕事に携わる職業です。その職業というのは軍人とアメリカ銃社会の現場の警察官です。軍人や警察官の意識の変性(意識変容状態)の研究はアメリカでしっかりとなされているようです。
この意識の変性(意識変容状態)と悟りや悟りに準ずる見性に於ける異常心理はとてもよく似ておりますので、その区別の仕方が分からないと禅の修行や悟りや見性の質の低下をもたらすこととなってしまうのですから、師家はこのことによく留意して修行者や参禅者を指導していかなくてはなりません。
特に本人の自己申告の悟り体験は全く当てになりませんので注意が必要です。
江戸時代の原の白隠禅師の22才の大悟徹底と24才の正受老人の許での大悟体験は2度とも大悟ではなかったのです。本人はそのつもりでしたが、正しく大悟徹底したのはそれから18年後の42才のコオロギの鳴き声を聞いての大悟体験です。これは間違いありません。42才の初めての大悟体験は静かなものだったのです。
明治・大正・昭和にかけて活躍した臨済系の曹洞宗の師家老師は、「大悟は手の舞い足の踏む処を知らずと言われるような大歓喜がある」と処々に書かれていますが、これは大悟ではないのですから注意が必要です。
正しい大悟徹底はこのようなことはないのです。
大悟する時に特別な異常心理状態を体験して手の舞い足の踏む処を知らぬぐらいの大歓喜をするというようなことを書くものですから、後進の一個半箇の禅者が一人も育たない事態に陥るのです。
若き修行僧や参禅者はそのようなことを期待し切望して修行に励むようになってしまうので身心脱落ができないのです。
大悟や大悟に準ずる見性を体験すると手の舞い足の踏む処を知らずというぐらいに大歓喜するものであると、禅の修行に於ける誤った既成概念を作り上げ若き修行僧や参禅者を洗脳してしまった罪は大きいものがあります。
意識の変性(意識変容状態)体験と、悟りや悟りに準ずる見性体験とは、明確に異なる点があります。
意識の変性(意識変容状態)の体験の場合は、人の思いや考えが有っても無くてもそのようなことと関係なく起きるということです。一般の人は思い考えが動いているのが普通ですから、実際は思い考えが動いていてもそのような異常心理現象体験は起きるということです。
悟り(身心脱落)や悟りに準ずる見性は、思量が止まっている時、全く動かなくなっている状態に於いて生ずるのです。
正しく悟り(身心脱落)や悟りに準ずる見性体験をした修行者に「思いや考えはあっても構わないですか」と問えば、必ず「非思量の相続で完全に思い考えが止まって脱落するのです。無分別の分別の状態の時に脱落するものです。」と答えるのです。
それに反して、「思い考えはあっても構わない。それを止めようとする必要はない。無念無想になる必要はない。それらとは関係なく悟りや見性は経験するもの。」と答える修行者や参禅者の体験は、正しく悟ったり見性したのではなく、意識の変性(意識変容状態)の体験なのです。
彼らは一度たりとも無念無想の状態を保つことも、非思量の相続に忍耐した経験もないのです。
完全な非思量というのは、ある時、突然に非思量になるわけではなく、常に修行として非思量の相続に精進していなくてはなりません。たまたま非思量になってしまって身心脱落してしまったということはないのです。非思量の相続に限ってたまたまとか偶然ということはありません。身心脱落の為の非思量は自らの意志である程度日常的にコントロールできるようになっていなくてはならないのです。
非思量の相続に於ける特別な心理体験があれば、それは大悟(身心脱落)として認められるべきものです。身心脱落以外に特別な心理体験というものはありません。曹洞禅の非思量の相続に於いては見性という状態はないのです。曹洞禅に於いては、もし見性という言葉が用いられるとすれば、それは悟りのことです。
但し、臨済禅の立場からも理解し易いように、私は便宜上、見性という言葉を用いています。
身心脱落に至るまで本来の自己を知ることはないのです。身心脱落するまでは常に自己(識)があるからです。一時も離れることも消滅することもないのが自己(意識・我)なのです。自己がないように思えてもよく見ると自己はあるのです。
このことは大切なことですからしっかりと覚えておいて下さい。
身心脱落するまでは常に自己はあるのです。
自己のある自己が、自己の中に、自己のない自己を見ることは有り得ないのです。
見性したり大悟したという師家や禅僧や在家得度の在家僧を20人前後知っておりますが、私の知っている限りでは、彼らの中に非思量の相続をしていた方は一人としておりません。彼らは皆、特別な心理体験をしているということなのですが、一人として非思量の相続の精進はしていないのです。
彼らは皆、特別なことはせず、五感を開放して縁に任せていたら知らぬ間に特別な異常な心理を体験したと言うのです。そして、それは大悟であり大悟に準ずる見性であると自信をもって述べております。
彼らは特別な心理体験をしていると言っても、それらは非思量の相続に於いての体験ではありませんので、意識の変性(意識変容状態)の体験なのです。それらはあたかも自己を忘じたかのような体験なのですから間違えるのも無理はありません。それも人生一度切りの初めての体験ですから他の自己体験と比べようもないのです。
この体験が意識の変性(意識変容状態)であるという理由は非思量の相続に於いての体験ではないからです。
彼らは体験後も非思量の状態を理解しておりませんし、非思量の相続もできないのです。また無分別の分別の様子も分からないのです。
無分別の分別の様子は非思量の状態にあれば誰にでも直に分かることです。
また、大悟体験・見性体験について彼らに訊ねてみると、彼らは必ず、思いや考えがあるとか無いとかは関係ないと申します。思いや考えがあっても構わないと申します。無念無想にこだわることもなく、非思量にこだわることもないと説くのです。特別な工夫はせずに、考えは相手にせず、五感を解放して縁の通りに任せていれば自然に大悟や見性はするものだと説くのです。
このように述べる師家や修行者や参禅者の特別な心理体験は皆、意識の変性(意識変容状態)の体験であって正しく非思量ではないのです。
彼らは宗祖道元禅師の説かれている非思量や念想観の測量を止めることについては我関せずで相手にしないのです。
以上が修行中に於ける特別な心理体験が正しく身心脱落(悟り)かそれに準ずる見性であるかどうかを判断する目安です。
曹洞宗の師家は安易に「悟り」を口にしないことです。誰でも悟れるようなことも口にすべきではないのです。
また、禅の修行は悟りが目的であるというようなことも安易に口にすべきではありません。
修行者・出家者・参禅者がなぜ禅の修行をし悟りを目指すのかをしっかりと聞いてみなければなりません。その修行する動機によっては悟るまでもないことが多いのです。悟らなくては解決できない問題はそういくつもあるわけではありません。
例えば、死の恐怖・嫌悪の問題の解決には大悟が必要です。
絶対の安心と絶対の自由を得る為にも身心脱落が必要です。
利己心を離れ絶対の利他心の人となる為にも身心脱落は必要です。
世の中の人々及び動物を苦悩から救う為にも身心脱落は必要です。
身心脱落(悟り)しなければ解決しない問題は以上の四つぐらいでしょうか。それ以外はないように思います。
以上の理由以外の問題で禅の修行をするようであれば、何も悟り(身心脱落)を求めることはないのです。
禅の修行をする場合に皆が皆、悟り(身心脱落)を求めることはないのです。悟らなくても非思量の相続をしっかりと修行していけば、ある程度の処までいくと自分の問題の殆どは自然に解消してしまっているものなのです。
非思量の状態の相続には心の歪みを矯正する力があるのです。心の不自然な癖を取り除く力があるのです。
その理由から身心脱落してからの聖胎長養という「悟後の修行」も非思量なのです。
曹洞禅は身心脱落する前から「悟前修行」とも言うべき聖胎長養を実質行っているのです。
よって、一般の人は必ずしも大悟(身心脱落)を目的とすることはないのです。
それこそ無所得・無所悟の非思量に於ける只管打坐を相続すれば、大方の人生の問題は解決するのです。
大悟しなくても、それで充分、坐禅を信仰の一つとして修行する目的は達成されるのです。
坐禅をする人達は不思議と出家・在家を問わず、いとも簡単に悟ることを目的としています。誰でもがやれば必ず悟れると安易に考えているのです。誰がそのようなことを言い広めたのでしょうか。
禅の正しい悟りは佛陀(シッダールタ)や祖師方と同じ悟りなのです。
正しく悟った祖師方は歴史に名が残るぐらい尊く数少ない存在なのです。
正しく悟った祖師方はそのことだけで出家をし人生を送った方々なのです。
このことをよく理解して禅の修行に臨むべきです。
一生涯の時間と忍耐が必要だということも理解して頂きたいと思います。
悟ることを目的として禅の修行をする場合は、悟らなければ解決のできない苦悩の場合です。悟らなければ解決できない問題は死に対する苦悩の他三つぐらいしかないのです。
一般的に私達の苦悩は悟るしか解決の方法がないわけではありません。坐禅に必ずしも悟りを求めることはないのです。私達の日常的苦悩の解決を求めて坐禅をすればよいのです。
非思量という修行は悟る悟らないに拘らず聖胎長養としての側面があります。非思量の修行は身心脱落する前から聖胎長養としての修行を併せて行っているのです。これはとても重要なことです。
このことが宗祖道元禅師が無所得・無所悟の只管打坐を説く一つの理由なのです。
宗祖道元禅師の只管打坐は当然、非思量の許の只管打坐です。
非思量の相続の伴なわない只管打坐には聖胎長養という修行の側面はありませんから大乗ではなく小乗としての坐禅となってしまいます。
聖胎長養の側面は只管打坐や正身端坐にあるのではなく、非思量の相続にあることを理解してもらいたいのです。
大悟しなくても、只管に非思量を相続する修行としての、そして信仰としての価値は充分にあるのです。
一生涯、非思量に於ける只管打坐を専らとすれば、身心脱落した禅者と同等の道人となることができるのです。脱落コンプレックスを持つことは不要であることに気が付く時がきます。
一般的な禅の修行者や参禅者は悟りを求めるよりも自らの問題の解決を求めることに注意を向けて修行することが大切です。
斯くすれば、意識の変性(意識変容状態)と身心脱落とを間違えることは少ないのです。意識の変性(意識変容状態)は他の修行者に自慢できても、自らの心の苦悩が解消されることはないからです。
意識の変性(意識変容状態)は真の身心脱落(悟り)ではありませんので、一時の舞い上がりでしかないのです。直に冷静になり現実に戻りますので、自ら悟ったという思いと、自分の一挙手一投足の現実とが一如にならずに乖離していることに気が付くのです。自分の思いや考えや感情の動きや欲望の動きも、悟りとはかけ離れていて今まで通りであることに気付くのです。
自分の心のコントロールもままならずに縁に引きずられてしまうことに苛立つこととなるのです。自分は悟ったはずなのにどうなっているんだと悩むのです。
非思量をやっていないので、その状態から抜け出る修行方法も分からないのです。悟後の修行方法が非思量であることも分からないのです。
白隠禅師が24才の時に正受老人の許で大悟され(修行の為に8ヶ月間滞在)、間もなくして駿河の原に戻ったのです。それから2年もたたない内に身と精神が病んでしまったのです。そこで白幽という仙人から「内観法」を教えられ、それで完治したということが白隠禅師が書かれた「夜船閑話」という本に載っております。内観の法も詳しく書かれております。現代の身心医療です。
白隠禅師24才の時、正受老人の指導の許で大悟したということになっていますが、それが正しく大悟ならば、身心が病むことはないのです。
大悟して身心が病むということは身心が深層で苦悩していたということですから、その大悟は疑似大悟です。大悟もどきの意識の変性(意識変容状態)だったということです。
24才の若き白隠禅師が若さの故に意識の変性(意識変容状態)を二度までも大悟と思い込んでしまったのは致し方ないことかもしれません。それにしても至道無難禅師の印可を受けている正受老人までもが誤った判断をしてしまうというのはどうかと思います。
これは見方によっては意識の変性(意識変容状態)というのは大悟とよく似ていて区別をしにくいものであるから注意しなさいということでもあります。
白隠禅師が間違えた要因は、悟りへの過剰な期待心があり、悟り願望がなみなみならぬものであったということ。
そして、公案を通ることに目が向いていて、自己の中の自己のあることに無頓着であったということ。
さらに、公案を通ることが大悟だと思っていたこと。自己が心の中から完全に消滅してしまうことが大悟であるということを教えられていなかったこと。
それから、正受老人が悟ったと認めたこと。正受老人から悟後の修行としての正念相続の大切さを教えられていなかったことなどです。
悪条件が重なったのです。
その体験が正しく大悟・見性であるならば、正念相続が分かるはずです。正念相続が分かるということが正しく大悟であり、正しい見性の証しなのです。
正しい身心脱落は非思量の相続なしにはあり得ないのです。正しい身心脱落は非思量の相続の結果なのです。
もし、自分がたまたま見性したり、身心脱落したと思ったら意識の変性(意識変容状態)を一度は疑ってみて下さい。
白隠禅師は二度までも間違え、正受老人は白隠禅師の公案拈提に於ける特別な異常心理体験を大悟と間違えて認めてしまったという歴史的事実があるからです。
悟りを求めて(悟りを目的として)坐禅する多くの修行僧や参禅者は、一般の人よりも秘めたる名利が強い傾向にあります。また、自尊心(プライド)も強い傾向にあるようです。
悟りを目的として坐禅する彼らは、人の上に立ち指導する側に回りたいという深層の願望が、表面上は人を救いたいという尊い願望にすり替わっていることに気付いていないのです。これらは名利です。
60才 70才になっても求道心を衰えさせずに修行する道人に会ったことがありません。
「一生涯雲水」に甘んじる禅僧は今は昔のことなのでしょうか。寂しいものです。
曹洞禅の修行は身心脱落しなくても、聖胎長養という側面があることを忘れないで下さい。聖胎長養が禅僧らしい禅僧を作り上げるのです。
非思量の相続は身心脱落に至る道であると同時に、聖胎長養という宗教者としての資質を高める道も併せもった優れた修行方法なのです。
故に生涯、無所得・無所悟に於ける只管打坐が成り立つのです。
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2020.9.1
次の一文は飯田とう隠老師の書かれたものです。
無念無想、つまり非思量の修行について述べたものです。
「山の中の静かな世縁を遠ざかった処で(何も思わぬ、考えぬように)練習すれば、一程度までは、無念無想、木石の如くなることもある。」
飯田とう隠老師は「無念は一念不生」「無想は一念不生」ということがまるで分かっていないのです。
不生の佛心で一切事が全て調うという意味が分かっていないのです。
この一念不生は非思量のことです。
一念不生という言葉を盛んに用いた禅僧は、日本禅界に於いては盤珪禅師が有名です。この一念不生は盤珪禅師に限ったことではなく、中国の祖師方の法語や語録にもよく出てくる言葉です。決して特異な修行方法ではないのです。ごく普通の禅修行に於ける坐禅の調心の工夫の要点を、一般の庶民に理解し実践し易く示した言葉です。
一念不生というのは一念も生ぜざる処に居るようにしなさいという意味です。
この一念というのは念想のことです。つまり、思量のことです。
一念不生は言い方を変えると、非思量であり、無念無想なのです。
盤珪禅師は「その不生にして霊明な佛心に極った事を決定(確信)して、すぐに不生(一念不生)のままでござる人は、今日より未來永劫の活如來でござる」と述べております。
盤珪禅師は不生という言葉をよく用いて説得するので「不生禅」と一般的に言われています。不生禅という禅があるわけではないのです。
盤珪禅師が修行者や信仰の庶民に要求していることは、「すぐに不生のままでござれ」ということなのです。修行として特別のことをすることはないと説いているのです。
「不生のままでござれ」というのは、一念も一想も生じない生じさせないままでいなさいという意味です。
或る女の「禅師のお示しの通りなれば、無造作に不生の佛心で居れば心安うござりまするが、余りにお示しが軽過ぎますではござりませぬか?」との問いに、「身どもが示しは軽過ぎはしませぬ。不生の佛心で居るより重く尊い事は外に有りはしませぬ。身どもが佛心で居たまえと言うは、軽い事のように思いやるが、重いがゆえに皆の衆が得佛心で居ぬわいの。それが軽い事か。」と盤珪禅師は答えているのです。盤珪禅師は、不生の佛心で居ることは難しいが故に、皆の衆は不生の佛心でいることができないのです。それが軽い事なのですかと問い返しているのです。
「得佛心で」というのは「不生の佛心で」という意味です。
盤珪禅師は他の処で「とりあえず、三十日間、不生の佛心(一念不生の状態)でござれ。」と説かれています。
不生の佛心というのは一念も生じていない状態のことを言うのです。
一念も生じない状態を、曹洞禅に於いては非思量というのです。
盤珪禅師も道元禅師も表現は異なれども同じことを説いているのです。
「不生の佛心でござっしゃれ。三十日間不生の佛心でござっしゃれば、いやがおうでも佛心で居るようになるわいの」とも説かれています。
この佛心というのは一念も生じていない心(精神状態)を言うのです。
三十日間一念不生の状態でいれば、否応なしに佛心で居るようになってしまうと言っているのです。これは非思量の相続についても同様です。
一念不生(非思量)の状態が習い性となってしまうのです。一念不生(非思量)の状態が習慣となって、その状態が自然になってしまうのです。そこまでやりなさいと説き示しているのです。
飯田とう隠老師は「練習すれば、一程度までは、無念無想になることもある。」と述べていますが、ここに非思量を当ててみれば、「練習すれば、一程度までは、非思量になることもある。」となるのです。また、一念不生を当ててみれば、「練習すれば、一程度までは、一念不生になることもある。」となるのです。
私は飯田とう隠老師のようなことは言いません。経験があるからです。現在 私は非思量の状態が普通なのです。盤珪禅師のお示しも、道元禅師のお示しも無条件で肯定致します。
飯田とう隠老師は無念無想の状態の経験がないのです。それは無念無想を「木石の如くなる」と記していることから分かります。
無念無想は木石の如く喜怒哀楽の感情がなくなることも麻痺することもありません。喜怒哀楽の感情はいつも通りです。
食欲・性欲・睡欲・知欲等の欲望も縁によって常の如しです。
眼耳鼻舌身の五感覚である視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚も従前の如しで何も変わることはないのです。
飯田とう隠老師は、無念無想・一念不生・非思量という状態を「木石の如く」無感覚・無感情になることと思っているのです。これは修行経験のないことからくる誤解です。頭だけで想像を思い巡らすと、このような間違いを犯すのです。
飯田とう隠老師は無念無想の状態を知らないのです。
無念無想の状態が分からなければ当然、曹洞宗宗祖道元禅師の説示した非思量も分かるはずはありません。無念無想に至る工夫も分からなくて当然なのです。非思量の工夫も全く分からないということです。
無念無想が分からないのですから、普勧坐禅儀の中の「念想観の測量を止め」ということも理解できるはずはありませんので、お茶を濁すようなことで誤魔化すこととなってしまうのです。
不生の佛心も、一念不生も、不生禅も、無念無想も、念想観の測量を止めるも、不思善不思悪も、非思量も、正念相続も、皆同じことを説いているのです。
その実際の工夫も皆、同じです。どれでも一つだけを実際に愚直にやってみれば、どれも同じことで表現の違いがあるだけのことが分かるはずです。
禅の修行を木石の如くなる修行と勘違いする修行者がよくいたと見えて、このことを戒めた逸話が公案として残っています。
無感覚・無感情・無欲望となることを「枯木倚寒厳三冬暖気無し」と言って、禅の修行によって人間らしい生気を失った木石の如くになることは間違いであると戒めているのです。
無念無想の状態というのは、木石の如く欲望の一切生じない無感情の心になるのではなく、無分別の分別心の作用する精神世界になることです。
ゾンビ(心理学の世界で無感覚・無感情・無欲望の三無の架空の人間のこと。つまり、枯木倚寒厳三冬暖気無しの心を持った仮定の人間のこと。)のようになると飯田とう隠老師は頭で考えているようです。
無念無想に至ることが禅修行の目的(行き着く処)ではありません。
無念無想・一念不生・非思量を徹底的に油断なく精進していけば、身心脱落に至ることは確かです。
無念無想・一念不生・非思量の相続がある程度できるようになっただけでは、自己(阿頼耶識・自我)が残っていることは明瞭ですから、ここで手を緩めることは厳禁です。公案禅を修行してきた修行者は、ここで大悟したと勘違いをすることが多いのです。臨済禅に於ける打成一辺とか大死一番とか言う心境はここの処なのです。
打成一辺という並々ならぬ心境に至っても、心の中をよく見ると自己が充分に残っているのですが、看話禅の修行者は公案を通ることに主眼を置いているので、そのことは無視するのです。自己の有る無しを大悟の目安としてはいないので、大悟を間違えるのです。
曹洞禅は自己との対峙の中でずーと非思量を推し進めていきますから、途中の特別な異常な心理体験があったとしても、それを身心脱落と間違えることはないのです。無念無想になったとしても阿頼耶識(自意識・意識・自我・自己)が残っていることは確かです。
ここの処を飯田とう隠老師は「いつか縁に触れて念が飛び出して大苦悩の時が來る。」と述べております。
無念無想・一念不生・非思量の心境に至っても身心脱落しない限り、縁に触れて思いが動き心が騒ぐことはありますが、大苦悩となることはありません。その念を即、断つことができる禅定力が非思量によって養われているからです。軽い苦しむほどでない苦しみで収束してしまうのです。
意馬心猿の如く念が飛び出し断つことができないということはありませんし、大苦悩の時が來ることもありません。
飯田とう隠老師はいつも表現が大袈裟なのです。
無念無想の状態で初念に於ける初ストレス(苦悩)はあっても、二念、三念は自ら断ってしまいますので、それに応ずるストレスは発展していくことがないのです。ストレスが発展して苦悩となるのは念想を断たないで重ねていくことによるのです。
非思量がある程度コントロールできるようになりますと、念が動きますとそれがストレスとなることが分かりますので、即、念を断つのが修行者としての常識です。その念を断てばストレスはそこで止まってしまうのです。消滅です。
ストレスが大苦悩に発展するというのは間違いです。
念想を断てば、念想がそれ以上に生じないのでストレスは自然に収束していくのです。完全に収束するまでは残影がありますので暫くの辛抱が要ることは致し方ありません。少し我慢していればよいことです。そのことを思わず、思い出さなければ、不快なストレスは自然に収束してしまいます。
飯田とう隠老師の、この一文を見てみますと、非思量の修行はしたことがないようですから、的を射るようなことが言えないのだと思います。自分の実際の修行経験のないことについては述べないほうがよいように思います。真摯な若き修行者を誤った方向に導くこととなってしまうからです。このようなことは十重禁戒の不妄語戒か不説過戒かの何れかに触れるのではないでしょうか? どうでしょうか?
飯田とう隠老師は出家(60才)するまでずーと臨済禅をやってこられた方ですから、曹洞禅の修行はまるで分からないのです。
非思量は公案よりもはるかに難しいのです。非思量の相続と公案の拈提は、禅の修行としては対等に位置するものではありません。非思量の相続にとっては公案の拈提は雑事でしかないのです。余計なことなのです。
このことが飯田とう隠老師には理解できないのです。
これが臨済禅の限界なのです。
禅の修行としては、すべての禅の修行は非思量に収束(収斂)していくのです。非思量に於いて大悟徹底があることを自覚して頂きたいと思います。
最後に「一念不生」について、祖師方はどのように見ておられるのかついて一文(法語抜粋)がありますので紹介致します。
先ずは大燈国師
大燈国師という方は京都大徳寺の開山(開創した方)です。播州の産なり。
晩年、鎌倉建長寺に住した大応国師に参じ数年にして大悟する。年27才。
世寿56年。
そも世の済家(臨済宗)の宗師(僧侶)と称する者、必ず応、燈、関(大応、大燈、関山の三國師)と称す。
大燈国師は法を大応国師に嗣ぎ、これを妙心寺開山関山国師に伝ふ。
師の大応国師は駿州安倍の産なり。
幼くして出家し鎌倉建長寺の帰化僧蘭渓道隆に参ず。正元の年間、海に航して中国・宗に入り虚堂和尚に参じて大悟す。
‐大燈国師仮名法語‐
・ 『一念起らざる時は佛も無く法も無く、迷も無く悟も無し。
譬へば虚空に相貌無きが如し。
直に一念不生の処を知りぬれば、即ち虚空の正体を知り、虚空の正体を知りぬれば心の正体を知り候なり。』
【意訳】
「一念も起きない時は心の中に佛についての思い考えも無く、佛法という思い考えも無く、知覚(五感)によって捉えられるすべてのことについての思い考えも無く、迷うという思い考えも無く、悟るということに関する思い考えも無いのです。念が起きなければ、これらのことは全て存在しないのです。
たとえば虚空に見るべき姿・形・色が無いようなものです。
直に一念不生の様子、一念も生じない心の状態を知れば、見るべき姿・形・色の存在しない虚空の正体が分かり、虚空の正体が分かれば、自分の一念不生の時の心の正体を知ることができるのです。」
・ 『時々に起る念を捨つべし。
古人云く、心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅すと説き給ふも此事なり。
心生ずるとは一念の起ることなり。』
【意訳】
「時々に起きる思い考えを捨てなさい。そのまま放っておかないで断つことです。捨てるということは断つことです。一念不生(非思量)のことです。
修行としての一念の不生の状態は自然にはあり得ないのです。起こる念を捨てていると、それが習い性となっていくのです。習慣となって一念不生(非思量)に自然となってしまうのです。自然になるまでやるのです。
古人云く、念が生ずると種々の形而上のこと形而下のことが心の中に存在し、思量が消滅してしまえば種々の形而上・形而下の思いや考えが消滅してしまうと説き示されるのもこの事なのです。
心が生ずるというのは一念が起きることを指すのです。
一念というのは、一つの思い、一つの考えのことです。
この場合の心は念のことです。」
・ 『本來 只念を拂ひ捨る事を専にすべし。
念を拂へと云ふは坐禅をすべし、念を収れば彼の本來の面目顕はるるなり。
念は譬へば雲の如し、雲はれれば、月顕はるるなり。
真妙の月と云ふも本來の面目の事なり。
又は念を鏡の上のくもりに喩るなり、曇を拂へば鏡顕はるるなり。
念を収めて未だ生ぜざる前の面目を見よ。
生まれざる以前と死して後とは一つなり。
生まれざる以前を知らば死して後を知るべし。
生まれざる以前は、地獄も無く極楽も無し、只本來の面目のみ有って異物無し。
本來の面目と云へばとて、形など有るべき物にあらず。
能く能く工夫して見給ふべし。』
【意訳】
「本来、基本的に念を払い捨てる事をもっぱらにしなさい。
念を払うということは坐禅をしなさいということです。坐禅というのは非思量の相続をもって坐禅というのです。正身端坐の姿勢を取り続けることをもって坐禅と思うことは間違いです。祖師方はそれを坐禅とは定めていないのです。念が生じることが収束すれば彼の本来の面目が顕われてくるのです。つまり身心脱落するのです。身心脱落した様子を本来の面目と言うのです。
念というのは譬へると雲のようなものです。雲が晴れれば、月が現われるのです。
真妙の月というのは本来の面目の事です。大悟徹底ということです。
又は念を鏡の上のくもりに喩へたりするのです。曇りを払へば鏡が現われるのです。
念を収めて、念が生ずる前の様子を見なさい。
念の生ずる前と念が消滅した後の様子を知らなくてはいけません。
念が生ずる前は地獄という思い考えも、極楽という思い考えも無く、只、元々の思いや考えの生ずる前の虚空の如き心のみ有って、他に何も無いのです。無分別の分別の様子のみが有るのです。
本来の面目といっても、心に形や姿などは無いのです。
よくよく一念不生(非思量)を工夫し相続して自分の心の正体を見なくてはなりません。」
次に卍庵老人
卍庵老人は洞上の僧で宝永前後の人であるらしいということしか明らかになっておりません。法語の内容は確かです。
-卍庵老人仮名法語-
・ 『自ら信心純一、正念相続せざれば、見性悟道の時節あるべからず。
もし正念相続せず工夫純一ならざれば、徒に海に入りて、沙を算ふるのみ。
その正念とは無念なり。工夫とは無想なり。
祖師道元禅師曰く、非思量底を思量する、是れ坐禅の要術なりと。』
【意訳】
「自ら信心純一にして、正念相続をしなければ見性悟道の時はあるはずはない。この正念というのは臨済宗で用いる言葉で、曹洞禅では非思量というのです。禅門に於いては一念不生とか不思善不思悪と一般的に言います。見性悟道というのは大悟徹底のことであり身心脱落のことです。
もし正念相続をしないで正念の工夫が純粋でなければ、徒に海に入って沙(砂、まさご)を数へるようなものです。無駄なことです。何にもならないのです。
その正念というのは無念のことです。無念というのは字の通り、念の無い状態のことです。一念不生の状態のことです。工夫というのはこの場合、無想を工夫するということです。正念に於いても工夫はするのです。正念は無念無想のことですが強調する為に無念と無想を分けて説明したのです。
祖師道元禅師曰く、実際に非思量の状態を以って非思量の状態を思量してごらんなさい。非思量底を思量することはできない。思量することのできない状態が坐禅の最も重要なところなのです。非思量なのです。」
・ 『動静の二境に対して工夫純一ならざれば、少分の相応も得がたし。
正念工夫は動作中最も修練すべし、必ずしも静を好むべからず。
往々静なれば、修行速かなるか如く思ひ、動中は散乱するが如く思へども静処の修練得力は動境に対する時に確実ならず。』
【意訳】
「動静の二つの状態、静かに坐禅している時、起きて作務や勤行等の日常の動作をしている時に工夫純一、つまり正念相続をしていなければ、少しの効果も得ることはできない。
正念相続の工夫は動いている日常の動作の時に最も純一に修練しなくてはならない。徒に静に坐禅することを好んではならない。
往々にして静かに坐禅をしていれば、修行が速やか進んでいくように思い、動中は心が散乱してしまうように思っても、静かに坐禅している時の心境は動いている時には役にたたないのです。正念工夫は動中の工夫が最も大切です。」
以上。
一念不生・非思量は言葉を変え、表現を変えて、祖録や祖師方の法語の中にここかしこに出てまいります。
公案禅はその一部でしかないのです。正念工夫をつかむまでの修行として存在しているのです。
禅の修行は正念の工夫・非思量の相続の方が、公案の工夫修行の何倍もの時間と忍耐が必要です。正念相続からは師を離れ同参の者を離れるのが一般的なのです。独りで黙々と修めていくのです。孤独を嫌う者は公案までです。それ以上である非思量は無理です。
大燈国師は日本臨済宗の三祖の一人です。
一般的に臨済宗は公案禅と考えている方が大半なのですが、臨済宗も当然のことながら元々は一念不生・無念無想・非思量の工夫が修行の根幹だったのです。
公案、公案と修行について口を開く毎に唱える師家や修行者や参禅者は、臨済宗の宗祖応・燈・関の説示することに耳を傾ける必要があります。
また、臨済宗的家風・手法・公案を専門に取り入れている曹洞宗の師家も考え直す必要があります。
純粋に非思量の相続を唱える責務があるのです。それが曹洞宗宗祖道元禅師への報恩なのです。
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2020.10.1
『最後の一決は、只だ本当に単になれ、単になれと幾度も同じことを叫んで修養の根本義と定めておく。』
と飯田とう隠老師は述べております。
これは理であって修行の具体論ではありません。これだけでは修行することはできないのです。この区別ができる修行者はほとんどいませんが、とう隠老師もこの区別ができていないのです。
曹洞禅ではこの区別ははっきりとしているのです。
曹洞禅では、冒頭に掲げました文は次のようになります。
『最初も最後も、その一決は只だ本当に非思量になれ、非思量になれと幾度も同じことを叫んで修行の根本義と定めておく。』
と・・・。
この文は具体論です。非思量が具体的なのです。
「単になる」というのは具体的な修行の結果です。人は自ら直接「単になる」ことはできません。修行として意志をもって「単になる」ことはできないのです。
誰も「単になる」方法を知らないし、とう隠老師も「単になれ」と言いながら「単になる」具体的な方法論を説いていないのです。
とう隠老師はこの場合に限らず、何処に於いても具体的方法論は述べていないのです。禅の修行は理論を説いても意味がないのです。実際の経験に基づく具体的方法論を説くべきです。
「単になれ」という指導は曹洞禅に於いては、何処にもないのです。
私達が修行として自らの意志によってできることは「単になる」ことではなく、「非思量になる」ことです。
「念想観の測量を止める」ことです。
「言を尋ね語を逐ふの解行を休する」ことです。
非思量であれば、どうすることもなく必然的に単になっているのです。
このことが分からない師家は斯く叫ぶのです。
「ただやれ!」「単になれ!」と。
単になることと非思量の因果関係が全く理解できていないのです。
このことが理解できていないということは、非思量の相続の経験がないことを意味しているのです。
とう隠老師が「単になれ」と叫んでも、修行者は「単」の実際を日常生活に於いて知らないのですから無理な相談です。師家はまず「単」ということはどういうことなのかを具体的に説明することが必要です。それをせずにただ「単になれ」というのは師家としては怠慢です。
師家として自分の伝えたいことが相手に伝わるように相手が理解し易いように説明する責任があるのです。
師という者は自分の話したいこと教えたいことを、話すことに主眼を置くのではなく、自分の伝えたいことがどのように説けば相手に正しく伝わるかを工夫しなくてはならないのです。そうでなければ有能な教育者とは言えないのです。
この観点が師家には欠けていますので、有能な若い修行者が育ってこないのです。
従来は修行者の意欲に問題があるとしてきましたが、それは逆で、雲水を育て指導する師家の教育者としての資質に問題があるのです。師家はその自覚を持つべきです。人が育たないのは教える師家の教育者としての資質に問題があるのです。
師家としては、「単になれ」と叫ぶよりも、「単」になる為には何をどのようにすれば良いのかを説明することです。それで済むことです。具体的な何の説明もなく「単になれ」と叫んでも、修行者は困惑するだけです。
結論から申し上げますと、「単」は非思量であればよいのです。非思量の様子が「単」なのです。非思量の様子を取り敢えず「単」と呼んでいるだけのことです。「単」という精神状態はないのです。非思量という精神状態はあるのです。
その言葉に具体性が有るのか無いのかが分からないと修行の指南はできません。
その言葉が理論のみを表す言葉であって、具体性がないことが分からないと、師家として修行者の指導はできないのです。
「単」という言葉には、具体的な修行の内容は一つも含まれていません。修行の実際の工夫は一つもない言葉です。
非思量という言葉は、何をどうするかの具体的内容が示された言葉です。
言葉には具体性のある言葉と、具体性のない言葉があるのです。
具体性のある言葉というのは、具体的に修行の工夫の仕方を示す言葉という意味です。
このことを踏まえずに、理屈だけの言葉、具体性のない言葉を多用している師家が大多数なのです。その指導を受ける修行者は困惑するだけです。禅の修行の指南は具体的でなくてはならないのです。
次に、
具体的な修行の方法として道元禅師が示した「非思量」について、飯田とう隠老師はどのように説明しているのかを見てみたいと思います。
この非思量という言葉は「無念無想」「一念不生」「正念」「正念とは無念なり」「不思善不思悪」「念想観の測量を止め」「是非善悪を思わず」「作佛を図ること莫れ」「是非を管すること莫れ」等々と同じことなのです。どれをとっても皆、同じ精神的脳活動・脳行為なのです。一つでもやってみれば分かります。
「非思量は坐禅の要術なり」は道元禅師の書かれた坐禅の指南書である普勧坐禅儀の中に出てくる言葉です。
この非思量という言葉を飯田とう隠老師は以下のように説明していますので、それを紹介すると同時に私がその言葉を説明していきます。
『不思量底とは自己なきことぢゃ。思量すとは自己なきままに活動することぢゃ。思量は無形の識ぢゃが、識が人の心を乱すもの故に、ここに是れを用いたのぢゃ。・・・・・坐る時は坐るばかりにして自己はない・・・・・。
作用とは六根の作用にして、作用のままに自我なき時、佛性徹見ぢゃ。ここを非思量底を思量すと云ふたぢゃ。非思量は不思量底を思量すの代数語ぢゃ。非は除不の非にはあらず。非は脱落なり思量の真実体なり。』
以上は飯田とう隠老師の不思量・非思量についての基本的見解を述べたもので、曹洞禅の修行の経験度及び理解度を示した一文です。
とう隠老師はこの一文を基本として曹洞禅の只管打坐、公案禅(看話禅)の正念相続の全体を理解しているはずですから重要な処です。
以下、
非思量の相続を実際に愚直に行じてきた洞門下の僧侶としての私の立場から、公案禅出身の飯田とう隠老師との見解の違いを示していきたいと考えます。
最初に「不思量底とは自己なきことぢゃ」
と述べておりますが、不思量底※は非思量と同じことで、坐禅の調心の指南として説いた言葉です。。坐禅の要術として具体的に説いた言葉で、自己の有る無しを説いた佛教理論(禅の理論・禅の原理)の言葉ではありません。
敢えて、とう隠老師に従って説くならば、
「不思量底は自己が有っても不思量底であり、自己が無くても不思量底です。」
不思量底は自己の有無に拘らず不思量底なのです。不思量底は自己なきことと限定はできないのです。
つまり、脱落身心(悟り)でなくても不思量底なのです。
思量・不思量は脱落身心(悟り)とは別次元のこと(別の機能)です。
その故に身心脱落(悟り)しても思量は脱落とはならないのです。身心が脱落しても、それに伴って思量が脱落することはないのです。
身心(意識)が思量の機能を司っているわけではないのです。このことは非思量になってみると分かります。
※ 「〜底」 について
近代・現代に於いては全般的に「底」は無くてもよい言葉です。如何にも禅らしい雰囲気が文章に出ますので用いる師家が多いことは確かです。良いか悪いかと言いますと、あまり良いことではありません。禅籍に親しんでいない者にとっては解釈する時に迷いのもととなるからです。
「〜底」というのは文章や法語等でよく出てまいります。その意味が分からない人が多く居ると思いますので、ここで少し説明をしておきます。
「〜底」というのは「〜の」、「〜のところ」、「〜的」、「〜のような」という意味です。
基本的に底の処を「〜のこと」、「〜の人」、「〜のもの」とすると意味がはっきりとします。
例えば、「箇の不思量底を思量せよ。」というのは、「箇の不思量のところを思量せよ。」ということになります。
また、「これは学得底、参得底を出してみよ!」というのは、「これは学得のこと、参得のことを出してみよ!」ということになるのです。
また、漢文を和文に読み下しにする時に、口調が良いので習慣で入れる場合があります。この場合は「底」に意味はありません。
例えば、「思量分別底の心」は「思量分別の心」ということです。禅らしい文となるので用いる師家も多いのです。
「思量すとは自己なきままに活動することぢゃ」
と述べております。
思量は自己の有る無しとは関係なく行われる脳の活動なのです。自己が有っても思量は縁に応じて自由に活動しますし、自己が無くても縁に応じて自由に活動(生起)するのです。
思量しながら、自己の無きままに活動するのが脱落身心の人なのです。
思量しながら、自己の有るまま活動するのが我々凡人なのです。
よって、「思量す」とは必ずしも自己なきままに活動することを指しているわけではありません。
「思量は無形の識ぢゃ」
と述べております。
思量と識は脳の別々の脳神経回路であり、別々の機能です。思量と識とは別々の脳の神経回路の活動ですから、思量の脱落を伴わない識の脱落がなされるのです。
識は具体的には時に、身心として現れますから、身心脱落が識の脱落なのです。思量の脱落はないのです。
思量は思量であって識の活動の一部ではありませんので、思量は無形の識と言うことはできません。また、識に無形の識というものも、有形の識というものもありません。識は識であって形而上のことなのです。有形、無形を問うべきものではないのです。
このことは自らが無分別の分別心の状態に在れば分かることです。
「識が人の心を乱すもの」
と書かれています。
生存する為の必要な機能を持っている識(意識・自我・自己)は人の心を乱す厄介なものではありません。必要があって天賦のものとしてあるものが人の心を乱すというのは間違いで、識(意識・自我・自己)等の用い方に問題があるのです。用い方を誤ると何でも問題になるのですから、正しい用い方をすることが大切です。
ここで一言述べておきますが、識(意識・自我・自己)は生まれつき備わっているもので、人間が動物として生まれ、生き抜いていく為に必要な幾つかの重要な機能をもっているのです。
とう隠老師は「いつの間にやら人と人が交渉をするに従って、無明が起こって我なきに我を作り人我の見(見解のこと)を起し、相手が気にかかり出して自ら苦しむばかり」という見解です。
道元禅師は著書「正法眼蔵 現成公案」の中で自己(識・意識・自我)の機能について明らかに説いておりますが、とう隠老師は曹洞宗開祖道元禅師と対立する見解ですので困ったものです。
繰り返しになりますが、識は人間が動物として生まれ、成長して、生き抜いていく為の基本的な重要な精神的機能を持っているのです。
一例として挙げれば、自己と他己を区別をする機能です。身心脱落して識(自己・自我・意識)が消滅してしまいますと自己も他己も消滅してしまいます。
これを自他一如というのです。
これは「正法眼蔵 現成公案」という書物の中で「万法に証せらるる(身心脱落する)といふは自己の身心および佗己(他己・他者)の身心をして脱落せしむるなり。」の一文で表されています。
自己と他己の区別ができないと、自己への利己性が優先されずに、自己の優先的生存が保障されないこととなるのです。
識は決して人の心を乱す(苦悩せしむる)ものではありません。
いってみれば、人の心を乱すものは他己(他者)の存在です。他者がいなければ意見や主義や主張の相違でぶつかることはないのです。
また、名利で心が乱され苦悩することはないのです。名利は他者の存在があっての欲なのです。一人だけの存在ならば、名利は何の意味も無い欲望です。
また、他者が存在しなければ、自尊心も虚栄心も自己の尊厳の心も無用です。
識が人の心を乱すのではなく他人の存在が人の心を乱す主な要因なのですが、それだけでは人の心が乱れ苦悩することはありません。人の心が乱れ苦悩するのは識と感情と思量と執着心の四つが揃わなければならないのです。
識は必ずストレスをもたらす存在であることは確かですが、ストレスが伴うが故に、時に応じて緊張感をもって対応して生き延びていけるのです。識によるストレスは必要なストレスなのです。人が耐えられない程のストレスをもたらすことはないのです。
縁に対しての初感、初ストレス、初対応、初行動という一連の対処活動のストレスですから、乱れたり苦悩している間はないのです。人を含めた動物はストレスのままに間髪を入れずに電光石火の如く対応するようになっているのです。
人の心を乱すものは、胸の内の言葉と感情の執拗な連鎖です。
現実(事実)を離れての言葉(思い・考え)と感情が相乗的な悪循環を繰り返すことが原因なのです。この連鎖を断ち切れば心の乱れの苦悩は消滅してしまうのです。識の存在が人の心を乱す原因ではありません。
先ず、思量を断てば心の乱れは解消されます。識が存在すると思量を断てないというなら話は別ですが、識があるまま思量は断つことができるのです。
思量を断つことが最良の方法です。思量を断てば心は乱れること無く落ち着いてくるものです。思量を断てばもがかななくなります。
「坐る時は坐るばかりにして自己はない」
と述べております。
この心境に於いては、この言葉に続けて「立つ時は立つばかりにして自己はない。」と続けることが親切というものです。
言葉が中途半端で、未熟な修行者は誤解してしまいます。
この言葉を真に受けて、他に何もせず、正身端坐さえしていれば良いと思うのです。(現代の曹洞禅の師家の称える只管打坐がそうなのです。何もせずにただ坐っていれば、そのままで佛であるという見解です。)
自覚のある無しに拘らず正身端坐していれば自己はないのだからと考えるのです。禅の修行は只管正身端坐と勘違いして坐禅という姿に固執してしまうのです。
中途半端なこの言葉は若き修行者に誤った情報発信となりますので、是の様に書いてはなりません。
この「坐る時は坐るばかりにして自己はない」というのは脱落した人の様子です。脱落した祖師方は起居動作あらゆることに自己はないのです。
普勧坐禅儀の調心の説明をする中で修行者に対して断りを入れずに、脱落した祖師の坐禅の様子を入れることは宜しくありません。混乱をしてしまうのです。
普勧坐禅儀の調心は脱落していない人に対しての調心です。
我々は脱落していないが故に「坐る時は坐るばかりにして自己はある。」というのが修行者の実状を正しく反映しているのです。
坐る時は坐るばかりにして自己は厳然として在るのです。自己が厳然として在るが故に身心脱落の自覚があるのです。
身心脱落を自覚するのは自己ではなく(認識ではなく)無分別の分別心です。
身心脱落を自覚するのは自己の身心や他己の身心ではなく、無分別の分別心が自覚するのです。
この自覚を一度死んでしまった認識が息を吹き返して、認識が自己の身心脱落を自覚したと述べている高名な老師がおりましたが、それは間違いです。それは身心脱落ではなく変性意識の体験にすぎないのです。
無分別の分別心は非思量の相続ができるようになると分かってまいります。
「見性は作用に在りと云ふ作用とは六根の作用にして、作用のままに自我なき時、佛性徹見ぢゃ」
この作用は機(働き)のことです。機能のことです。
眼耳鼻舌身意の六根の機能のことです。
六根の働きのままに於いて自我なき時というのは身心脱落した時ということです。言い換えれば佛性徹見ということです。当たり前のことを言ったにすぎないのです。当たり前のことを禅的に難しく高尚に表現してみせただけのことです。
この場合の見性は身心脱落のことで、公案禅に於ける見性ではありませんので注意が必要です。いきなりこのように用いると誤解を生みます。使い分けを読者に分かるようにしなくてはなりません。
続いて「ここを非思量底を思量すと云ふたぢゃ」
と述べております。
身心脱落・脱落身心のことを「非思量底を思量す」と言ったわけではないのです。
坐禅の要術は非思量なりということを明らかに示す為に斯く言ったのです。
非思量底を思量することは脱落身心していなくても、脱落身心していてもできることです。
この場合の「非思量底を思量す」という言葉は坐禅の要術として述べたものです。
自我の有るままに非思量底を思量するから身心脱落に至ることができるのです。非思量、一念不生のことです。
調心の要術を述べた言葉であって脱落身心の境地を指し示した言葉ではないのです。佛性徹見に至る為の坐禅の調心の工夫を説いた言葉なのです。
自己の在る状態で非思量底を思量するのです。それが曹洞禅の修行なのです。
「非思量は不思量底を思量すの代数語ぢゃ」
非思量は不思量底を思量すの代わりの言葉ではなく、非思量が結論であって、これが曹洞宗開祖道元禅師が坐禅の要術であると説き示した、最も重要な言葉です。
「非思量」というこの一言が坐禅の要術です。「不思量底を思量す」は非思量という一言を導き出す為の導入の言葉なのです。
具体的に実際に不思量を思量してみますと、その様子が非思量なのです。思量が全く動かない心の様子です。やってみると分かります。
「非は脱落なり思量の真実体なり」
この非は脱落の意味ではなく、坐禅の時に思量をどうするのかということに於いての「非」なのです。
非は思量の真実の体なりと言っていますが、真実体ならば、それは必ずしも思量でなくてもよいのです。非思量でも構わないことです。
ここの処はとう隠老師が何を示したいのか、その真意がよく分かりません。
「非は除不の非にあらず」
としていますが、坐禅の調心としての非ですから「除不」の非です。否定の意味の非です。思量という活動をどうするかについての非です。
普勧坐禅儀は修行の現場での指南書です。具体論なのです。
現場で「非は脱落なり、思量の真実体なり」と言われても、修行者は困惑するだけです。理屈なのです。
このとう隠老師の書かれた一行の文の中には坐禅の調心についての具体的説明が一言もないのです。
曹洞宗開祖道元禅師の示された
「箇の不思量底を思量せよ」これは具体的です。
「不思量底如んが思量せん」これも具体的です。
「非思量」これも具体的です。
それに引き換え、飯田とう隠老師の説明は全部具体性がないのです。
とう隠老師の説明は、実際に坐禅の調心をどのようにすればよいのか、具体的な結論が示されていないのです。
とう隠老師は普勧坐禅儀という実践の指南書を普勧坐禅論という理論書・哲学書に押し上げてしまっているのです。
理を好む師家の観が強い傾向にあるようです。
飯田とう隠老師のように普勧坐禅儀を説いていきますと、具体性のない言葉が多く修行の方向付けがしにくいのです。具体性のない言葉は聞き手が聞き手の立場に応じた様々な解釈が可能となる弊害があります。解釈の幅が大きいと書き手の真意が伝わり難くもなります。
但し、述べたことに曖昧さがある場合は、後日、その点について質問をされた時に書き手が上手に言い逃れできるので、かえってその方が都合がよいという利点もあるのです。
つまり、落語の蒟蒻問答になる弊害と利点があるということです。
書き手も読み手も、自分の想像を働かせて同床異夢となってしまいますから抽象的言葉を用いずに具体的な言葉を用いて説明すべきものなのです。
普勧坐禅儀は修行の具体的な手引き書(指南書)ですから、尚更、具体的でないといけないのです。
最後に
曹洞宗開祖道元禅師の非思量についての仮名法語を紹介致します。
分かり易いと思います。
〔永平仮名法語抜粋〕
・法華経に云はく「是非、思量、分別、無くして能く悟ると云へり。この法は思量、分別のよく悟るところにあらず」
・『一念不生なれば、衆生、則ち是れ佛なり。一念生ぜば佛もまた衆生なり。』
・「佛祖は一切の諸法に於いて一念も生ぜずして無念なるが故に生死に於いて自在を得たまえり。
衆生は一切の万物に於いて念を生じ、諸の念あるが故に、生死に流転して苦を得るなり。
六祖曰く衆生成佛せんと思はば先づ無念なるべし。
無念なるが故に成佛すと云へり。」
以上三つほど紹介致しましたが、
「念」というのは思量のことです。是非も分別も言葉を用いて行いますので思量なのです。
「無念」というのは無念無想のことであり、非思量のことです。一念不生のことです。一念不生というのは「一念も生せず」という意味です。
「佛」というのは身心脱落した人、悟った人のことです。成佛と言うのは悟ることです。
成佛(身心脱落・大悟)する為には一念不生(非思量)でなくてはならないと言っているのです。
自分で自分の一念不生(非思量)の状態が分からない人は、独りでの非思量の修行は無理ですから、非思量がしっかりと分かっている経験のある禅僧の指導を受けた方が宜しいです。
非思量の修行には思案する余地はありません。ためらっている余裕は全くないのです。やるしかないのが非思量の修行です。非思量の道理は簡明ですが、修行を始めてすぐに胸突き八丁の苦しい山があるのです。まず、是れを越えることが必要です。
公案禅の師家はこの山を越えさせる為に、修行者を公案でいじめぬくのです。それでも正念の工夫が手に入る者は少数です。
非思量の相続は公案禅の修行に比べたら穏やかなものです。黙って一人坐って終日を過ごすだけですから・・・。
しかし、非思量の相続の苦しさは公案の拈提どころではないのです。精神的難行苦行なのです。これ以上の難行苦行はありません。
今日、只管打坐や公案を行う者はいくらでも居ますが、非思量の相続を行う者は一人か二人か三人か、そのぐらいのものです。
正伝の佛法が正伝でなくなってしまうのです。
目次へ
2020.11.3
盤珪禅師の説く「不生の佛心」「不生禅」「一念不生」の内容は、曹洞禅の坐禅の要術である「非思量」と同じです。
一念というのは一思量ということです。
一念不生は一念も生じない状態ですから、それは不思量であり非思量なのです。
不生の状態が佛心です。
不生というのは一念(一思量)不生という意味で、一念(一思量)の生じない状態をいいます。
盤珪禅師の説く不生の佛心というのは阿頼耶識の残っている無分別の分別心のことです。
盤珪禅師は一念不生であれば、自己があっても無くても佛心だと説いています。
不生の佛心で生活していれば全ては調うと説いているのです。
調うというのは心が調うということで、心の苦しみや悩みが自然に解決していくという意味です。
これは確かに調っていくのです。論より証拠で実際にやってみることです。
それでは悟りは目的としない、無視しているのかというと、そうではありません。
不生の佛心で居るということは、悟りを求める念も生ぜず、修行によって何かを得る念も生じないということで、正確に言いますと、悟りを求める念を動かさない、何か修行によって物心共に得る念を動かさないということです。
何かを得る念や悟りを得る念が自然に生じないというのではなく、修行として意志をもってその状態を保つのです。
そのように忍耐していくと、何れ自然と悟りを求める念も、何かを得たいという念も生じなくなるということです。
そして、四六時中、一念不生であれば、求めずとも自然に大悟していくということです。
曹洞宗開祖道元禅師はここの処を「無所得無所悟の禅修行、坐禅」と説いているのです。
盤珪禅師は臨済宗の禅僧ですが、曹洞宗開祖道元禅師と同じことを説いているのです。
曹洞・臨済共に大悟徹底(身心脱落)に至る為の坐禅の要術は非思量なのです。
臨済禅では非思量のことを正念と言っているのです。
盤珪禅師は「非思量」という言葉も「正念」という言葉も用いずに、一般の信仰の庶民が受け入れ易い言葉として「不生の佛心」という言葉を用いたのです。
悟る前の修行も、悟った後の悟後の修行も、聖胎長養も、すべてが一念不生・正念であって何も変わることはないのです。悟りの体験を境として何かが変わるわけではありません。それが正しく悟った様子なのです。
公案禅の修行で見性したり大悟する場合は、その体験の変化の落差が大きいのです。それらの体験は「識」の中の変化ですから大きな変化を伴なうのです。それらの変化はいくら大きくても、正しい大悟徹底・身心脱落とは違いますので、それ程の価値はありません。変化の落差はなるべく小さいほうが正しく修行している証しでもあるのです。
悟りを目的として禅修行する修行者はここの処の見方・考え方が間違っている場合が多いのです。大きな凄い変化があると期待しているのです。
期待心・待望心がある内は正しく身心脱落することはありません。それらは「識」の動きだからです。悟りさえすればという希望をも捨てることが大切です。
人生に於いては、正しい希望・高い希望は人に生きる勇気と喜びをもたらし、苦難、困難を乗り越える忍耐力をもたらし、大切なものです。
しかし、禅の修行に於いては悟りへの希望は手離していくことが大切です。
非思量の相続に於ける正しい身心脱落は、脱落以前と脱落以後の境界は全くありません。修行者本人にとってはあまりに自然に身心脱落が為されていくので、その時に気付くことはまずありません。
祖師方の身心脱落というのは、身心脱落のその体験をするのではなく、長年の修行の結果で既に身心脱落の状態に在ることに、何かの時に気付くという方が感覚としては合っています。
その気付くきっかけを「縁」と言って、それは人さまざまで決まったものはないのです。
これまでのいろいろな師家方は、例えば、「明けの明星を見た縁によって悟った」とか、「隣で坐禅している人が大きな音を出して叩かれるのを聞いて、その音を縁として悟った」とか、「コオロギの鳴き声を聞いた縁で悟った」とか、「桃の花を見た縁で悟った」とか、「竹に小石が当たる音を聞いて、それを縁として悟った」とか解説していることが多いのです。
しかし、それを縁として悟ったわけではなく、それを縁として既に身心脱落している状態に在ることに気付いたということです。
或る縁によって身心脱落したと説いている現代の師家方は、実際の身心脱落の経験のないままに、それらしい整合性のある理屈で説くので一般の修行者は騙されてしまうのです。
既に身心脱落していることに気付くのは無分別の分別心によってです。
身心脱落していれば、認識は既に消滅してしまっているのです。
ここの処も多くの悟ったとする現代の師家方は間違うところです。
彼らは非思量の相続の経験がない為に無分別の分別心の働きが分からないのです。
この無分別の分別心の働きについては、盤珪禅師は一般の信心の善男子・善女子に法話の度に分かり易く説いております。
盤珪禅師はそれを無分別の分別心などという分かり難い言葉を用いずに、「佛心」と言っているのです。
白隠禅師の坐禅和讃の冒頭にある「衆生本来佛なり」ということを、「誰もが生まれつき備わっている佛心」と説いたのです。同じことを言っているのです。
盤珪禅師は「不生の佛心ですべて調う」ということを一般の民衆信者に説いています。
これは必ずしも悟り(身心脱落)に至ることを求めているわけではなく、また、不生の佛心で居れば悟れる(身心脱落できる)と言っているのではないのです。
信仰として不生の佛心で居るようにしていれば、悟らずとも心は調ってきて穏やかに日々を送ることが出来ると説いているのです。
不生の佛心で居れば悟りを開くことが出来ると言っているのではないのです。
悟りを開かないと悩みや苦しみは何も解決しないと言っているわけではないのです。一念不生(非思量)で日常の悩みや苦しみの心を調えることが出来ると言っているのです。
盤珪禅師は不生の佛心という信仰に悟りを開くということを求めてはいないのです。ただ不生の佛心でいなさいと説いているのです。
曹洞宗開祖道元禅師が無所得無所悟の心で坐禅をしなさいと言っていることと同じことを盤珪禅師も説いているのです。
道元禅師は、何かを得ようとか、悟りを得ようとかと考えて坐禅や禅修行をするものではないと示しているのです。
現代の或る師家方は禅の修行は悟ることが目的であると説いていますが、それは間違いであると示しているのです。
盤珪禅師の「不生の佛心で調う」というところの「調う」という意味は、曹洞宗開祖道元禅師の普勧坐禅儀の中の「調心」という言葉の「調う」ではありません。
普勧坐禅儀の中の「調」は、修行の為に心をどのように調整していくかの「調」です。坐禅中、心をどのように調えていくのか、心をどのように整理していくのかの「調」なのです。
盤珪禅師の「調う」というのは、心の苦しみや悩みが収まっていく、安らかになっていくという意味の「調う」ですから、全く意味が異なっています。
この違いをはっきりと区別して理解しなくてはなりません。。
不生の佛心であれば、無所得無所悟のままの佛心であって、心は次第に調ってくるのです。
無所得無所悟の何ものもを求める心がなくても安らかに日々を送れるのです。
ここでは悟りの体験の有る無しは問題ではなくなってしまうのです。
非思量の相続を続けていけば、何も変わらないということはなく、必ず身心脱落に自然に近づいていくのです。求める心がなくても必ず身心脱落に近づいていっているのです。それは修行者の力ではなく、非思量の力なのです。
不生の佛心にしても同じことです。非思量と異なることは何もないのです。
禅の修行は身心脱落(悟り)に価値があるわけではなく、不生の佛心(一念不生・非思量)に価値があるのです。身心脱落(悟り)が全ての心の問題を解決するわけではなく、不生の佛心(一念不生・非思量)が全ての問題を解決していくのです。この関係を明らかにして禅の修行に精進しなくてはなりません。
不生の佛心(一念不生・非思量)を相続していれば、余計な見解を動かさなければ、「識」が残っていても問題はないのです。何れ「識」は消滅してしまうからです。
「識が有ってはいけない」という余計な見方・考えが問題なのです。その余計な見解が何時如何なる時も動かなければ問題は生じないのです。
不生の佛心(一念不生・非思量)をしっかりと相続していれば、「識」は自然に消滅するという原理が経験則として存在することを祖師方は知っているのです。
「識」だけでなく自己を悩ます心の癖・歪みも自然に修正されてしまうのです。
不生の佛心(一念不生・非思量)の修行は悟る悟らないに拘らず、心は調っていくのです。調っていくということは迷いや苦しみの心や悩みの心が収まっていくということです。それ故に「不生の佛心で居れ」と説いているのです。
禅の修行は悟ることを目的とする師家があります。また一方、悟ることは目的でないという師家もあります。
どちらが正しいかと言えば、どちらも正しいのです。
正しく修行する為にはどちらも正しいことを理解して、どちらの意見をも捨てる(離れる)ことが正しいのです。
現実のあらゆる心の苦悩を最終的に絶対的に解決する為には身心脱落が必要です。
しかし、実際にあらゆる極限の苦悩を抱く人は極僅かです。そこまでの精度・純度を求めなくても殆どの人は問題ないのです。悟らなくても、悟る遥か手前で解決をしてしまうことが多いのです。
盤珪禅師の不生の佛心で居れば、一般の人のほとんどの問題は解決することが出来ることは確かです。
不生の佛心(一念不生・非思量)の修行(信仰)の場合は、悟ることよりも心が調うことを第一とすることが大切です。
悟らないことには自分の問題が絶対に解決しないという強い思い込みは止めなくてはなりません。そうしなければ、心を楽にする修行の為に心を苦しめるという逆効果となってしまうからです。愚かなことです。
これは悟りを目的とした修行を謳って人を集めている師家に大いに責任があります。
一念不生(非思量)の相続に於いては、悟りを目的としなくても自然に悟り(身心脱落)があるのです。悟り(身心脱落)が修行の終りでもなくけじめでもないのです。
身心脱落によって心の苦悩が解決するのではなく、一念不生(非思量)の相続によって心の問題が消滅してしまうのです。ここの処は大切なことですが、このことを理解している師家は少ないのです。
身心脱落は修行に於ける一過程です。
身心脱落の前も、身心脱落の後も、常に心は調った状態の非思量であり、そこに何の変化もないのです。身心脱落することは、その非思量が正しいという証しなのです。
身心脱落をその程度に考えて非思量(一念不生・不生の佛心)の相続を精進するのが正しい曹洞禅の在り方です。
非思量(一念不生・不生の佛心)の修行に於いては、身心脱落しなければならないという考えは捨てるべきものです。
禅という宗教に対する信仰の目的は、心の問題の解決であり、悟りではありません。
私の心の問題の解決は悟りによってなされるのではなく、非思量(一念不生・不生の佛心)の相続によってなされるのです。
身心脱落は心の問題の解決の後の場合もあり、問題の解決の前の場合もあります。
故に、悟りを目的としないで常に非思量(一念不生・不生の佛心)であればよいということになるのです。
身心脱落と非思量(一念不生・不生の佛心)には因果関係が歴然としてあることは確かですから危惧することはありません。正しく忍耐強く非思量(一念不生・不生の佛心)を相続することが大切です。
佛心は一念不生のことです。一念不生の状態が佛心なのです。
無分別の分別心が佛心なのです。佛性とも言います。
悟り(身心脱落)を目的としますと、悟り(身心脱落)の体験の有無で、非思量の相続の効が百%か零%となってしまい、非思量を積み重ねてきた効が全くなくなってしまいます。
ただの一念だけの存在で、非思量の相続の効が零になってしまうのですから、悟り(身心脱落)を目的とせずに非思量を相続することが大切です。
非思量(一念不生・不生の佛心)の禅の修行は、悟りが境い目ではなく、悟らなければ何の意味も何の効もないというわけではないのです。
心の歪みや癖が少ないにも拘わらず、なかなか悟り(身心脱落)に至らない修行者もあります。
トラウマが全体的に浅い人は悟りに至り易いものです。
トラウマが一つだけしかないのに、そのトラウマがかなり深いとなかなか悟りに至ることができません。このような道人は修行に於ける苦労人です。その代わり、道を得た時には人を導き救う力は並々ならぬものがあるのです。
非思量の相続が禅の修行にとっては大事なのです。
脱落以前も、脱落以後も非思量であることが重要です。
身心脱落にはそれほどの重要性はありません。
身心脱落が非思量の相続を左右することはありません。
非思量が修行の全てを左右するのです。
身心脱落に至ったのは非思量の効なのです。
身心脱落が非思量の相続を決定づけるわけではありません。
身心脱落で修行が終了するわけではないのです。
身心脱落と同時に私達は佛陀(シッダールタ・ゴータマ)と同様の人格を成し遂げられるわけではないのです。
宗教者としては、まだまだ終わりなき先があるのです。
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2020.12.4
私は曹洞宗の僧侶であり、曹洞禅の坐禅の要術である非思量の文字通りの、相続に精進してきた者です。
明治より、曹洞宗の坐禅の仕方について、型通りに踏襲して只管打坐を説くばかりで、それに併せて坐禅の要術としての非思量をしっかりと説いた師家は一人もいないのです。
「非思量に於ける只管打坐」を曹洞禅の要術と説いた方は、曹洞宗開祖道元禅師と瑩山禅師だけです。
明治・大正・昭和の師家方は全員が非思量抜きの只管打坐を曹洞宗の基本的な坐禅としています。
宗祖の説く非思量が抜けてしまっているのですが、何故、非思量が抜けてしまっているのか、抜けてしまっていても問題はないかについての説明は一つもないまま、今日に至っているのです。
何故、只管打坐だけでよいのかを非思量の相続との関連の観点から一つも説いていないのです。
開祖の説く「一念不生が主旨である非思量の相続」と、明治・大正・昭和の師家方の主張する現況の「考えや思いは出てきても相手にしなければ良いとする只管打坐」とは、その整合性に重大な問題があるにも拘わらず無視し続けているのです。
そのような中で、臨済禅(公案禅・看話禅)を若い頃からずーっと修行し60才になってから、小浜の発心寺住職・原田祖岳老師の許で出家し、曹洞禅に転向し、曹洞禅の師家となって活躍した飯田とう隠老師という方がいました。
江戸時代 幕末文久3年(1863年)に生れ、昭和12年に亡くなった師家です。
僧籍は曹洞宗のみですが、印可は36才で臨済宗師家・南天棒(中原ケ州)老師より受け、師家分上の生粋の臨済禅(公案禅・看話禅)の禅僧です。
出家前から師家として認められ活動しておりました。
飯田とう隠老師は当時、天下の鬼僧堂と言われ曹洞禅の師家でありながら臨済禅的修行を行っていた原田祖岳老師の弟子に入ったのです。
曹洞宗の師家となっても臨済禅の家風をそのままに曹洞宗師家として活動していた方です。
曹洞禅の中に臨済禅の修行の家風を原田祖岳老師以上に持ち込もうとして失敗した臨済系の師家なのです。
現在、曹洞禅の修行の家風に、飯田とう隠老師の影響は全く見られません。
具体的な非思量の相続も、その工夫の仕方も、只管打坐も、全く飯田とう隠老師の影響を受けてはいないのです。
曹洞禅の中に公案禅の入る余地は全くなかったのです。
曹洞禅の非思量の相続に於いては、公案の拈提・工夫は雑事でしかないのが実態です。
曹洞禅の中に公案禅を持ち込むのは、純粋の中に異物を入れるようなものだったのです。
臨済禅(公案禅・看話禅)の公案は、悟りを待ち、悟りを得る為の修行という色彩が強く、修行の出発点からの聖胎長養という側面がありません。
それに比して、曹洞禅の非思量・盤珪禅師(臨済宗)の不生の佛心には修行の最初から聖胎長養としての側面がしっかりと裏打ちされているのです。
故に、開祖道元禅師によって無所得無所悟ということが説かれているのです。
曹洞禅は修行と雖も只管に非思量に於ける打坐のみで、悟りを求めることは一切不要なのです。宗教者としての全てが調っていくのです。
それに対して、臨済禅(公案禅・看話禅)は公案に於いて大事了畢(公案に於ける大悟)しなければ、全く宗教者としての意味がないのです。公案の拈提・工夫では全てが調うことにはならないのです。
公案は不生禅と違って、それだけで調うものはないのです。
公案のみで曹洞禅の身心脱落に当たる大悟に至ることはありません。
臨済禅は公案の全てが終わったところで、そこから正念相続に切り替える必要があるのです。
正念相続というのは臨済禅の用語で、これは曹洞禅の非思量、盤珪禅師の不生の佛心・一念不生に該当するものです。
臨済禅では正念相続を推し進めるところから、正しく大悟徹底への正修行が始まります。
白隠禅師も、夜船閑話に書かれている(当時の心療内科の)治療が終わる頃から公案禅の大悟の意味がやっと分かったものと思われます。
その頃から正念相続(非思量)に精進して10年以上かかって42才の時にコオロギの鳴き声を聞いて、今度は間違いなく正しく大悟徹底したのです。
正念相続というのは、実質、曹洞禅の非思量という坐禅の要術の相続です。
そのような修行上の位置付けにある臨済禅(公案禅)を曹洞宗に持ち込む意味は全くありません。
曹洞禅の方が禅の修行としては上位にあり、純粋禅なのです。
全ての禅宗、禅派が収斂する位置にあり、道元禅師が佛法の総府と称する所以でもあります。
飯田とう隠老師は曹洞禅に臨済禅を取り入れて、より良き曹洞禅に改革しようと曹洞宗の師家になったということですが、それは筋違いというものです。
飯田とう隠老師は公案の調べは全て終了し、師家分上になったのでしょうから、公案禅に限定された大悟をしたものと思われます。
しかし、公案禅に限定された大悟をした後の正念相続の修行は手付かずのまま良しとしてしまったようです。
飯田とう隠老師の非思量(正念)の説明を見てみますと、公案ばかりで正念相続の修行を行った経験が全く無いのだなということが伺えます。
飯田とう隠老師は公案禅の修行の本質と曹洞禅の非思量の修行の本質の違いが全く分かっていなかったということです。
飯田とう隠老師を指導した臨済禅の師家の南天棒が、公案の調べが終った時点で印可を与えたことに問題があるのです。公案を全て通った処で大悟したと認めたことが間違いです。これから正念相続の修行があることを教えなかったのです。
「公案終了の大悟」と「正念相続に於ける大悟」は異なることを教えていなかったのです。
飯田とう隠老師は曹洞禅に臨済禅のよき家風を取り入れるべく、曹洞宗にて出家したとしておりますが、この言葉は本当かどうか疑わしいものです。
その理由は、当時、臨済宗には錚々たる管長老師や師家老師がおられ、その中に割って入れるような状況ではありませんでした。
しかも、師家分上の諸老師方と雖も、真に大悟徹底している方はおられず、公案の調べも形式化してしまっている状態でした。
つまり、臨済禅の修行や公案の調べが形骸化していたのです。
公案の解答書とも言うべき虎の巻が秘かに流通し、その弊風は看過できない状況でありました。
臨済宗はこのような状態であり、その状態を飯田とう隠老師も知っていたはずです。
他人(曹洞宗)の頭上のハエを追う間があったら、自分(臨済宗)の頭上のハエを払うべき立場にあったはずです。
他宗の改革よりも自宗の改革に専念すべきだったのです。
しかも、飯田とう隠老師には曹洞禅の非思量の経験が全く無いのです。曹洞禅の修行の改革など出来るはずもありません。
それは、飯田とう隠老師の曹洞禅の非思量の説明が間違っておりますので、斯く言うのです。
非思量の体験のないままの説明ですので、非思量の正しい説明ができないのです。
非思量が分からないのでは、曹洞禅の改革など無理というものです。
飯田とう隠老師の「非思量」についての修行経験・理解度を知ることのできる一文があります。
曹洞禅の坐禅の要術である非思量の相続を愚直に修行してきた私から飯田とう隠老師の非思量についての考え方を見てみますと、やはり臨済禅の師家の家風が色濃くあり、公案の工夫の観点からしか見ることができないということを感じます。
公案の工夫の延長線上で非思量を捉えてしまう癖がどうしても抜けていないのです。
非思量の工夫は公案とは全く異質な修行方法ですから、公案禅の立場から非思量の修行を推し量ることはできません。
公案の工夫と非思量の工夫には共通点はありません。
公案の工夫は思量が出発点です。曹洞禅は非思量が出発点です。
曹洞禅は非思量を入口としてより深い非思量の世界に進んでいくのです。
臨済禅の公案は思量を出発点として思量の窮極へと進んでいくのです。
全く逆方向へ修行していくのですから共通点のあるはずがありません。
公案禅は見性、或いは大悟を求め期待して公案を工夫していきます。
曹洞禅は見性や大悟や特別の体験を求めることもなく、期待することもなく、非思量を只管に相続していくのです。
斯の様に曹洞禅の非思量と臨済禅の公案とは全く異なる修行ですから、公案禅の修行経験から曹洞禅の非思量の修行をうかがい知ることはできないのです。
曹洞禅の非思量の修行を知るには、公案禅の体験や見性体験や大悟体験を全て捨てて、一から始めなくてはなりません。
正念の相続を知っているのでしたら、そこから入ればよいのです。
公案禅を修行してきた師家は、公案の拈提・工夫だけで、祖師方のなされた大悟徹底に至れると誤解しているのです。
公案禅をやってきて、考える癖を取ることは基本的に困難なことです。
公案禅に於ける見性や大悟は、祖師方のなされた大悟徹底(身心脱落)ではなく、正念に気が付いた、正念の工夫が手に入ったという意味での見性、或いは公案に限定された大悟と言っているのです。
白隠禅師の述べている大悟・小悟を数知らずという意味に於ける公案禅に限定された大悟・小悟です。
佛道に於ける佛陀が体験された大悟ではないのです。
佛陀のなされた大悟は一つだけで、数を知らずというぐらいの複数の大悟があるわけではありません。
臨済禅の大悟は大死一番・打成一辺の大悟ですから、阿頼耶識の残っている臨済禅特有の、臨済禅に限定された大悟なのです。
佛陀のなされた普遍的な正しい大悟ではないのですから、このことを公案禅を修行している者は自覚していなくてはなりません。
公案禅に於ける大悟は曹洞禅の身心脱落(大悟徹底)ではないのです。
いわゆる見性の一つで特別な異常心理現象の体験です。
この特別な異常心理というのは心理学でよく知られている意識の変性(意識変容状態)です。この体験を臨済禅では見性、或いは大悟と呼んでいるのです。
この意識の変性(意識変容状態)体験は、思い考えの有る無しに関係なく起きます。
思量の有無に拘らず意識の変性(特別な異常心理)は突然起きるものですから、意識の変性体験を、見性、或いは大悟と思い違いをしている師家は、自らの体験に照らし合わせて、見性、或いは大悟は非思量でなくても起きるものであると説くのです。
彼らは思い考えを止めようとしていたわけでもなく、非思量の状態を保とうとしていたわけでもありません。そのような状態の中での体験(特別な異常心理)を見性した、大悟した、と受け取っているのです。
上記のような体験は意識の変性体験です。非思量の状態に於いての体験ではありませんので、意識の変性(意識変容状態)体験であると言えるのです。
身心脱落(大悟徹底)の体験は特別な異常心理体験ではなく、非思量の相続の結果、自己の存在が自然に消滅してしまうだけです。
特別な異常心理体験の結果、身心脱落(大悟徹底)するのではありません。
ここの処を殆どの師家や禅僧や修行者は勘違いをしています。
身心脱落(大悟徹底)には特別な異常心理体験が必ずあると考えているのです。
身心脱落は変性意識(特別な異常心理状態)とは全く異なった心理的変化ですから、特別な異常心理は生じないのです。
身心脱落(大悟徹底)は、その前提条件として非思量であることが必要です。普段通りに思いや考えや想像が存在していてはならないのです。
ここの処が身心脱落(大悟徹底)と変性意識(意識の変容状態)との大きな違いです。
身心脱落(大悟徹底)は、非思量の状態に於いてのみ体験することができる精神世界です。
身心脱落(大悟徹底)には、異常心理状態や特記すべき素晴らしい宗教的な心理体験というものはありません。
身心脱落(大悟徹底)は、非思量の相続に於いては「別事無し」と表現するのが正しいところです。
正しい身心脱落(大悟徹底)というのは、眺めるべき体験というものが無いので「別事無し」なのです。眺める人(自己)が居ないのですから当然のことです。
公案禅では公案を徹底工夫しても大悟徹底することはありません。
公案禅で大悟徹底するのは公案の拈提・工夫ではなく、正念に切り換えて、その相続(正念相続)によるのです。殆どの臨済禅の師家方はこのことに気付いていないのです。公案の修行は正念を体得するのが目的です。
公案禅に於ける見性、或いは大悟という異常心理体験をした修行者は、自分は見性、或いは大悟という特別な禅的体験をしたと思い込みたいのでしょうが、その特別な異常心理体験は、心理学で言うところの意識の変性(意識変容状態)体験が殆んどです。この体験は決して珍しいことではなく、一般的に特定の職業の人達の中ではよく生じる体験です。
この体験は、脳内の思量・非思量の状態とは関係なく、日常・非日常の中で突然起きます。その生じる因果関係は今のところ明らかにされていないのです。
公案禅に於ける見性や大悟が、禅に於ける正しい見性や大悟とする為には、正念の様子や正念の工夫が手に入らなければならないのです。
正念の様子が明確に実感として分かれば、その見性は禅に於ける正しい見性ということになります。
正念の工夫が明瞭に手に入れば、その大悟は阿頼耶識の残った状態の大悟ですから、その大悟は公案禅に於ける正しい大悟と認めることができるのです。
この公案禅に於ける大悟は阿頼耶識の残っている大悟ですから、佛陀や祖師方の体験された大悟とは異なり、正しく大悟に近いが大悟ではないのです。
意識の変性(意識変容状態)体験が、正しい禅的な特別異常心理体験であるか否かは、その体験によって正念(非思量)を自覚できるか否かによります。
正念の様子の分からない特別な異常心理体験は単なる意識の変性(意識変容状態)体験で、禅の修行に於いては全く意味のないものです。その体験は余計な体験ですから、早く忘れてしまうことです。
師家方が「本来の自己に会う」とか、「本来の自己を見る」とか言いますが、身心脱落するまでは、正念相続が手に入っても「本来の自己を見る」ことはありません。
身心脱落するまでは、自己の中に「本来の自己」は存在していないからです。
「本来の自己」というのは、身心脱落した状態に於ける自己という意味です。
今現在の私の中に「凡夫の自己」と「本来の自己」が同居しているわけではないのです。
「本来の自己」は身心脱落によって、具現化(顕在化)するのです。
「本来の自己」に会いたければ、身心脱落することです。身心脱落するに至って、初めて「本来の自己」が具現するのです。
十牛図の見牛の牛は「本来の自己」ではありません。
多くの師家がよく間違えるのです。理屈で考えるからです。
非思量であれば、このような間違いはしません。
身心脱落するまでは、四六時中、「凡夫の自己」を離れる時はありません。
公案を拈提していて如何なる異常心理体験をしても、阿頼耶識を離れることはありませんから、「本来の自己に会う」ことはありません。
私達が「本来の自己に会う」時は身心脱落した時です。
近代・現代の臨済禅の見性に於いて、正念の工夫が手に入ることは殆どないようです。
その証拠に、公案禅を修行してきた師家の中に正念に言及している師家が一人もいないのです。
正念工夫・正念相続について詳細に説いている師家は一人もいないのです。
彼ら師家の説くものは公案の中のことばかりで、それを乗り越えていないからです。正念にまで至っていないのです。
正念は公案すべてを越えているのです。
身心脱落も公案すべてを越えて在るのです。
この違いが分からなければ正しく禅修行はできないのです。
では、以上を踏まえて
私の手元に飯田とう隠老師の書かれたもので、非思量の説明が載っている書籍があります。
この本から非思量の説明の箇所を抜粋して、私が解説していきますので、どのように間違っているかが明らかになります。
曹洞宗の老師家や古禅僧というのは生涯にわたって名利を求めず淡々として地味なものです。これが曹洞禅の家風です。
曹洞宗の禅僧とは違った飯田とう隠老師の輝かしい履歴に騙されることなく、しっかりと判断して頂きたいと思います。
禅者たる者は生涯、愚の如く魯の如く、ただよく非思量を相続することに専心するべきなのです。
但し、後進の為に法語として残しておくべきことがあるはずですから、それは必ずしておくべきことです。
‐飯田とう隠老師曰く‐
「若し坐禅中、色々のことを思い起こすことありとも、それはそれに任せて、
只そのもの、それに純一になれば、それでよい。」
「所詮坐禅中、いかに心念紛飛すとも、関する処にあらず。
只思ふままに任せて可なのである。
即ち是れ、思量、不思量底のものにあらずして何ぞや。
実参、実究するがよい。」
取り敢えず、以上のことについて曹洞宗開祖道元禅師の説く非思量とどのように違っているかについて逐一説明して参ります。
「坐禅中、色々のことを思い起こすことありとも、それはそれに任せて」
というのは、思い起こすことは放っておいて、そのままにしておいてということですから、これは非思量の相続の否定であり、曹洞禅とは本質的に異なります。
「そのもの、それに純一になれば、それでよい」としています。
これは「思量に純一になればよい」ということですが、思量に純一になる方法は曹洞宗開祖道元禅師の坐禅の指南書である普勧坐禅儀の中には書かれていません。普勧坐禅儀に於いては、思量の生滅は認めていないのです。
飯田とう隠老師は曹洞宗の師家でありながら、開祖道元禅師の非思量の相続を否定する新しい方法を提唱しています。
しかも、この提唱の言葉の中では、どのようにすれば、「それに純一になる」のかが説かれていません。
飯田とう隠老師の言葉は、何処を読んでも具体的な修行方法が説明されていないのが常です。
この言葉には実際がありません。実際が分かっていないが故の一歩引いた言葉です。
修行の現場を離れた、頭で考えた、師家特有の言い回しであり理屈です。
禅の修行に於いて、そのものに純一になればそれでよい、というのは当然なことです。このような理屈は禅の修行する者は誰でも分かっていることなのです。
そうなる為には何をどのようにしたら良いのかが説かれていないのです。
持って回った禅的理屈だけで終始するのですが、修行者はその先の具体的なことを説いてもらいたいのです。
曹洞禅に於いては、坐禅の要術は非思量であり、一念不生です。
このように理屈ではなく実際を説明しなくては適切な指導とはならないのです。
曹洞禅の修行に於いては「それを純一にすればよい」という理屈ではなく、具体的に何をどのようにすれば良いのかを示さなくてはなりません。
祖師方は、ここで「不思善不思悪」「一念不生」「非思量」「不思量」「是非を管すること勿れ」等々と説き示しているのです。
よく考えれば分かることですが、これは理屈ではなく、実際に何をどのようにするかを示しているのです。
「善をも思わず、悪をも思わず」「一念も生ぜず」「思量せず」「思量しない状態」「是非という分別を起さず」等々具体的です。
どの祖師方にも飯田とう隠老師のような「思いを生ずるに任せて」とか、「出た思いに純一になれば良い」とか、等の理屈はないのです。具体的状態としての「一念不生」「非思量」なのです。
非思量(一念不生)の状態であれば、それはそのものに純一になっている状態です。
修行者本人は非思量の状態の自覚はありますが、そのものに純一になっている自覚はありません。本人がそのものに純一になっている自覚は必要ないのです。
純一になっていれば、純一になっている自覚はないのです。
純一になっている自分を眺めている自分はいません。
純一を眺めていたり自覚しているとすれば、純一を眺めている自分があるということです。純一ならば、それを眺めている自己はいないのです。
飯田とう隠老師は言っていることが矛盾しているのです。実際に即した言い回しをすべきです。
「そのものに純一になっている」というのは理屈ですから自覚する必要はないのです。それに反して非思量は実際ですから、その自覚が必要です。
もし、そのものに純一になっている自覚があるとすれば、それは純一になっているつもりの自覚です。それは余計な思い込みをしているだけのことで、非思量(一念不生)からずれてしまうことになります。そのような無理な自覚はしてはならないのです。
ここの処は祖師方の説くことを信じることです。
飯田とう隠老師は、ここの処で「そのものに純一になればよい」と理屈を説かずに、直截的に、具体的に「非思量」或いは「一念不生」を説くべきです。
そのものに純一になっていることを非思量を実践している修行者は自覚することができないのですから、「純一になれ」というのは無理というものです。
純一になるというのは理屈ですから、自覚することも確認することもできないものです。
ただ、非思量(一念不生)の状態がそれに任せている状態であり、そのものに純一になっている状態であると信ずれば、それでよいのです。
非思量(一念不生)の相続が進むに従って、そのものに純一になっている状態であることが理解できるようになってきます。
ここで私が飯田とう隠老師の説明が理屈であると言うことについて説明をしておきます。
飯田とう隠老師自身は自分の説明が理屈であるとは考えていないはずです。
また、老師の著作物を読んだ師家方や修行者も理屈とは思っていないでしょうから説明が必要となります。
私が理屈であるというのは、実際がないという意味です。
実際がないということは具体的なことが説かれていないということです。
事実に当って具体的に曹洞禅の修行を始めようとした時に、その言葉や説明文に何をどのようにするのかについて何一つ記されていない時に、その言葉、その説明文は理屈だというのです。
事実・実際から離れて頭の中で考えるとそのようになるのです。自らの実体験を踏まえていないのです。実体験がなければ、踏まえるも踏まえないもないのですから、禅的な高尚な理屈になるのです。
人というのは、実体験のないことを具体的に説明しようとする場合、実体験があるかのように装う為に、如何にも実際に有りそうな出来そうな、巧みな言い回しをするものです。結果、高尚な言葉を用いた禅的な理屈にならざるを得ないのです。
現代の師家方は修行の現場に居ながら、禅学者のように机上の理論を述べていることが多いのです。
例えば、
或る有名な悟ったとされている専門僧堂の堂長師家老師
は次のように述べています。
「意識を集中することによってだんだん呼吸三昧、意識三昧に入ることができると思います。」
「わかっている意識を意識によって擦りつぶすような状態」
「一度ものを知って、そして知ったその意識によって擦りつぶしていく」
「根気よく自分の呼吸を意識することによって、必ず三昧に入ることが可能になると思います。」
この老師は三昧に入ることが修行と考えているのです。
意識を集中すると言っていますが、それは意識を具体的にどのようにするかが述べられていないのです。
呼吸三昧も意識三昧も、それは具体的にはどのような状態のことなのかが説明されていないのです。読み手や聞き手が、自分なりに想像するしかありません。
それらの解釈や想像には決まった原則はありませんので、百人百様のものとなり、これでは正しい修行は偶然のものとなってしまいます。
意識三昧ということが本当に現実にあるのでしょうか。疑問です。
意識を意識によって擦りつぶすような状態というのが現実にあるのでしょうか。
意識をもってどのようにすれば意識を擦りつぶすような状態になるのか、全く現実の修行としての具体的な手掛かりがないのです。
意識によって擦りつぶすとは具体的に意識をどうするのかが明らかではありません。
呼吸を意識することによって三昧に入ることは可能と言っていますが、この「三昧」と「意識によって意識を擦りつぶすこと」と「非思量」との関係は一切説かれていないのです。
このような修行では自意識過剰の精神状態を保つことになってしまいます。
意識、つまり自己、を離れることが増々困難となり、身心(意識)脱落からは遠ざかる恐れが強くなります。
道元禅師は、曹洞禅の修行は非思量であって、修行する要術として意識をどうのこうのすることは説かれていませんし、三昧についても普勧坐禅儀の中で一つも説かれていないのです。
曹洞禅の非思量に於いて、非思量を意識することによって非思量三昧になるということも説かれていませんし、思量を意識して思量三昧になることも説かれてはいないのです。
曹洞禅は三昧ではなく、非思量の状態を自覚をもって相続していくことしかないのです。非思量三昧を目指しているわけではなく、只管に非思量を意志をもって相続していくのです。
三昧という特別な精神状態を求めていくことは間違いです。
この師家老師は修行の具体性がないのです。
曹洞禅に於いては、意識は相手にしないで放っておく、無視しておくことが大切です。
意識を相手にすることなく放っておいて、ひたすら非思量を相続していくのが曹洞禅の正修行です。
意識三昧などという冥想世界は禅の修行にはありません。それは禅の修行とは無関係なものです。
三昧を前面に打ち出している仏教系の宗教が沢山あります。それらとどのような違いがあるのでしょうか?
連携して修行をやってみられたらどうでしょうか。提案させてもらいます。
意識三昧など曹洞禅に於いては論外です。真に受けないことです。
飯田とう隠老師の言葉に戻ります。
「いかに心念紛飛ぶすとも、関する処にあらず。
只思ふままに任せて可なのである。」
と述べておりますが、この一文は非思量の否定であり、一念不生の否定です。
この一文は白隠禅師の正念相続に於ける非思量の否定です。
何処から是の様な見解になるのか理解に苦しみます。
白隠禅師が42才にしてコオロギの鳴き声を聞くことを縁として大悟徹底した正修行の因縁を否定する発言なのです。
これは多分、飯田とう隠老師自らの変性意識(特別な異常心理体験)の体験の時の様子が、このようなものだったので斯く言うのでしょう。
この変性意識を見性、或いは大悟体験と受け取った時の体験から斯く言っているものと思います。
変性意識の異常心理体験が起こるには、「只思ふまま任せて可なり」ということは確かです。体験を間違って受け取っているのです。
見性、大悟体験の師家方は、殆どがこのタイプです。喉から手が出るぐらい欲しかった見性や大悟です。その願望が判断を狂わせるのです。
白隠禅師は、飯山の正受老人の許で大悟したと師弟共に確認し、間違いなしということで大事了畢と認められ、そこを辞して自坊(駿河の松陰寺)に戻ることを許されたのです。
大悟したということで意気揚々と自坊に戻ってから、自分の大悟に疑義が次から次へと生じ、その為にノイローゼ(神経衰弱)となり、ひどく心身を患ってしまいました。そして、禅の修行をやり直したのです。
それからの修行は正念相続だったのです。つまり、禅の原点の修行に戻ったのです。
白隠禅師の著書「遠羅天釜」の中で「不思善不思悪の当体を正念工夫の真修」と述べているのです。
「思ふに任せて可」ではなく、「思ふに任せて不可」が不思善不思悪なのです。
一念不生であり、非思量であり、不思量なのです。
飯田とう隠老師は、宗祖道元禅師や白隠禅師、臨済宗の御開山大燈國師方と真っ向から反対の論を述べているのです。
「是れ思量、不思量底のものにあらずして何ぞや」
と述べております。
「思ふに任せて可」ならば、その様子は思量の時もあり、時間的には僅かではありますが不思量底の時もあるということです。
多くの一般の人の頭の中が思量と不思量が交錯している状態が実際だということで、それ以上でもそれ以下でもないということです。実状の分析です。何の取るべきこともない一言です。
「只思ふに任せて可なのである」
多分これは飯田とう隠老師自身が公案の工夫に於いて、大悟に至った時の様子から述べたものと思います。自身の体験からの言葉ですから確かなものです。
但し、この様子は正念相続でも、非思量でも、一念不生でもないことは確かです。
確かに大悟に似た経験があったのです。その大悟と思っている体験は正念相続や非思量や一念不生の相続に於いての体験ではないのですから、その体験は正しい大悟徹底(身心脱落)ではありません。
心理学で研究されている意識の変性(意識の変容状態)です。
意識の変性体験の故に正念相続の様子、或いは非思量の状態の様子が分からないのです。
大悟徹底(身心脱落)は正念相続、非思量の相続、一念不生の相続を維持しなければあり得ません。
祖師方も誰一人として「思ふに任せて可也」とは説かれていないのです。祖師方は皆、一様に非思量、一念不生、不思善不思悪です。
先にも少し触れましたが
臨済宗中興の祖であり、公案禅を確立した白隠禅師は、その著書「遠羅手釜」の中で、次のように述べられています。
「十二時中、胸中一點の缺曇りもなく、不思善不思悪の当体を正念工夫の真修と云ふ。」
「胸中一點の缺曇りもなく」というのは頭の中に一念も生ぜずということです。一念不生の様子のことです。
「不思善不思悪の当体」というのは、「不思善不思悪そのもの」という意味です。
「正念工夫の真修」というのは「不思善不思悪という精神行為が正念の工夫であり真の修行である。」という意味です。
白隠禅師は若い頃から公案を用いての修行を工夫してきた禅者なのですが、その方が真の修行の工夫として「不思善不思悪」、つまり非思量・不思量・一念不生を説いていることに注目しなくてはなりません。
公案では真の大悟徹底には至らないことを2度までも身をもって体験したが故の、不思善不思悪なのです。正念相続なのです。
また、白隠禅師はその著書「岸江小話」に於いて、次のように述べています。
「時に於いて心に一切思はず、兀兀として総べて不生不死の境界に入り、不思量なるべし。
正坐禅の大方に伝へて、正儀とするは是れなり。
坐禅は他の道理すべてなし。」
以上です。
「時に於いて心に一切思はず」というのは、
いつでも頭の中は一切思はず、考えず、想像せずという意味です。
つまり、常時、非思量・一念不生の相続をするということです。
「兀兀として」は一心不乱に修行する、工夫する様のこと。
「不生不死の境界」というのは、(不生は生ぜず、不死は滅せずということです。)非思量不思量(一念不生)の状態ということです。
「不思量なるべし」というのは不思量でなければならないということです。非思量でも同じことです。
「正儀とするは是れなり」は正しい道筋とするのは不思量なりということです。
坐禅は不思量以外に他の坐禅の正しい道筋は全て無いと述べているのです。公案ではないのです。
以上のことからすると
飯田とう隠老師は、500年来傑出の禅僧であると謳っているのですから、白隠禅師も、良寛禅師も、至道無難禅師も、愚堂東寔禅師も、天桂伝尊禅師も、盤珪禅師も、鈴木正三禅師も、熊本の大智禅師も越えているということです。
歴史に残る大禅師ということになるのでしょう。
このような500年来傑出の禅師とも称号(聖号)が付される禅僧でありながら、飯田とう隠老師は非思量(一念不生)のことが全く分かっていないのです。
正しく大悟徹底(身心脱落)していれば、正念の相続が非思量の相続であることは充分に分かっているはずです。
非思量は「思ふに任せて可なり」ではなく、「時に於いて心に一切思はず」です。飯田とう隠老師は、間違っているのです。
飯田とう隠老師は非思量(一念不生)とは言わずに「坐禅中、思ふに任せて可なり」と述べているのですから、思うに任せたまま坐禅をしていて大悟体験があったということです。
思うに任せたままに於いての大悟体験は、祖師方の法語を見ても有り得ないことです。思うに任せたままに於ける飯田とう隠老師の大悟体験は、白隠禅師の22才と24才の時の2回にわたる大悟と同様の体験なのです。
結局、白隠禅師のこの2回の大悟体験は42才で正しく大悟徹底するまで間違いであることに確かには気付かなかったのです。
24才での正受老人の許に於ける大悟は正受老人も認めた大悟だったのですが、それは師弟共に間違って判断を下したのです。
正受老人は至道無難禅師の印可を受けているということなのだそうですが、その正受老人でさえ正しく、大悟と心理学に於ける意識の変性(意識変容状態)とを区別できないのですから、その2つはよく似ているということです。
白隠禅師が2度までも大悟と信じて疑わなかった大悟は意識の変性(意識変容状態)だったのです。
心理学に於ける意識の変性を大悟と信じる師家や禅僧は必ずと言っていいほど、共通して非思量の相続(正念相続)を行っていません。
飯田とう隠老師も非思量の相続を一度も修した体験がないものと思います。そうでなければ、「思うままに任せておいてよい。」とか「いかに心念紛飛しても、それはそれで放っておいてよい。出てくる任せておればよい。」と言うはずがありません。
このことは浜松の井上義衍老師も同様のことを説いて禅の指導をしていたのです。
悟りは思量の有無に拘らず、縁が熟せば体験するものと考えているのです。
正しい悟り(身心脱落)は非思量(正念)の相続に於いて体験するものです。
一念不生が自由自在にコントロールできるようになって初めて至ることができるのです。取り留めもなく思量を垂れ流しているような心理状態では至ることはできません。
公案の拈提・工夫に於ける大悟は打成一辺とか大死一番とか称しておりますが、それは曹洞宗開祖道元禅師や大徳寺開祖大燈國師の説かれている大悟(身心脱落)とは異なっています。
前者は阿頼耶識の残っている公案禅(看話禅)に限定された大悟であり、この心理状態(心境)は曹洞宗の身心脱落に至る前の、ある程度まで非思量の相続のコントロールができるようになっている修行僧と同等のものです。大したことではありません。いつも通りです。
白隠禅師はこの状態から正しく大悟するまで18年の歳月が必要でした。
このことを公案禅(看話禅)で大悟徹底を目指す修行者は重く受け止めるべきです。
白隠禅師に限らず、大悟したという実感と歓喜と満足感と自信と自由無礙の心の様子は、正しい大悟の保障とはならないのです。
これらの心の様子を基準にするので、皆、間違うのです。
これらのことは、全て修行者本人の主観的な判断であり、一つも客観性がありません。
問題なのは、これらの心の様子に対して、さも客観性があるかのように説く師家があることです。
主観的なことにお墨付きを与えて、客観的基準であるかのようにしてしまったのです。
「手の舞い足の踏む所を知らず」というような主観的なことに、客観性があるかのように述べているのが飯田とう隠老師です。
原の白隠禅師さえ2度までも、そのような自らの主観的な事に、自らが騙されているのです。
2度とも、その大喜びは主観的なものであって、大悟の客観的な判断基準にはなりませんでした。そのような歴史的事実があるにも拘らず、同じ間違いを犯すようなことをいっているのです。
大悟(身心脱落)の基準は自己が有るか無いかだけで充分です。
自分の心の中を自分で点検して、自己の有る無しが判断できない事はありません。
もし、判断ができないというのであれば、佛陀の大悟(身心脱落)はなかったということです。
大悟したという満足感と自信は名利の心です。そのような満足感と自信は持つべきではありません。
よくよく肝に銘ずるべきです。
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2021.1.5
曹洞禅の非思量の相続の修行を実際にやってみると、不思量も非思量も同じことであるのが分かります。
不と非の違いはありません。
もし、その二つに違いがあると述べる師家がいるとすれば、実際にやってみた上でのことではなく、机上の理論的こだわりです。実際の修行に於いて意味のないことです。
この不思量も非思量も、曹洞宗開祖道元禅師が普勧坐禅儀の中で坐禅の具体的な要術として示したものです。
具体的な要術というのは、具体的なやり方を示したものということです。
具体的なやり方は多くはなく、たった一つです。
坐禅の要術についての言葉は祖師方によって様々です。
その内容は「非思量」或いは「一念不生」なのですが、その表現に決まった型というものがあるわけではありません。
実際に実践する修行者としては言葉尻や表現にとらわれずに、祖師方の言わんとする真意を汲み取ることが大切です。
一般的修行者は祖師方の真意を自分の意に沿うように解釈し直す傾向が強いのです。
曹洞禅の修行の仕方・方法を超理論的に説明する師家がいます。
例えば、飯田とう隠老師は「不思量のままの思量ぢゃ」と説明されていますが、これは間違いです。
公案禅に於いては許されることでしょうが、曹洞禅に於いては許されることではありません。
曹洞禅に於いては、修行の因果関係を明らかにして説明していくことが求められるのです。
公案禅は日常の心を変性意識状態に追い込んで見性させることが目的ですから、常人の質疑についてことさら意味をなさない言句を弄して理解できないようにしているのです。
公案禅の師家は超理論・没理論の乱発の癖が身に付いてしまっているのです。
その例が、飯田とう隠老師ですが、飯田とう隠老師は公案禅を20才〜60才まで修め、臨済宗師家の印可を受けているのです。60才になって曹洞宗で出家したのですが、公案禅で培った超理論を弄する癖が抜けなかったのです。
佛法をどのように超理論的に自由無礙に説いても構わないのですが、禅修行の方法である坐禅については超理論・没理論は許されないのです。
言葉をもって、修行の因果関係を明らかにして説いていくのです。
曹洞宗開祖道元禅師は中国宋朝の禅の秘密主義・密伝主義・神秘主義の悪弊を排する目的で普勧坐禅儀を著わしたのです。その故に「普勧」という言葉を冠したのです。普勧ですから、坐禅修行の因果の道理を秘密にしないで一語一語明らかに表したのです。
私も宗祖道元禅師の祖意に従って、曹洞禅の坐禅の因果関係を事細かに明らかにしているのです。特に非思量の工夫はその因果関係が曖昧ですと、道心が定まらないのです。
曹洞禅に於いては自分の修行は自分がコントロールするのが基本です。公案禅のように師家がコントロールするのではないのです。
思量(念想)の生じない状態・思量の動かな状態・頭脳の中に思量の全く存在しない状態を非思量といい、不思量というのです。
人の思量は連続して出てくるわけではなく、必ず途切れる時があります。この途切れた瞬間の状態が非思量の状態です。
この瞬間の長さは人様々で、ほんの一瞬の人もいれば、数秒の人もいるのです。
例えば、歩いていて突然、石につまずいて足指が痛かったり、柱に頭をぶつけて痛かったりした時に、一瞬思いや考えが飛んでしまっている時は非思量の状態です。
何かの拍子(痛かったりびっくりした時、突然の意外な事が起きた時等々)に一瞬にして思いや考えが飛んでしまった時が思量が止まった状態です。
これを非思量の状態と言い、日常によくあることですから、その時に思いや考えがどうなっているのかを観察して下さい。
この非思量の状態の時には思いや考えはありませんが、そのことを知っている自分(自己)はあるのです。
思量と自己は一体のものではなく、別々のものですから、思いや考えが無くなっても(途切れても)、自己は心の中にあるのです。
頭の中の思量の様子を観察すると、自己の存在はあるけれども、思量のない状態があるのです。この状態に気付く事が必要なのです。
「非思量の状態」というものを、「思量も自己も両方とも無い状態」と考えるのは間違いです。自己のあるままで非思量の状態を相続(維持・保つ)するのです。それが禅の修行です。
非思量の状態を相続していると身心脱落を体験するのです。
身心脱落するまでは、自己の有るままに於ける非思量です。
身心脱落すれば、自己の無いままの非思量です。
また、「不思量底は自己なきことぢゃ」と飯田とう隠老師は普勧坐禅儀の解説の中で述べておりましたが、それは道元禅師が不思量・非思量を坐禅の要術として説いたことを忘れているが故の言葉です。
非思量の修行の仕方の説明に於いて、自己の有無を持ち出すことは間違いです。
曹洞禅の修行に於いては、自己が有っても不思量底であり、自己が無くても不思量底です。
身心脱落して無我になると、悟後の修行として非思量があります。非思量以外に坐禅の要術があるわけではありません。
初心者から老成した道人まで、坐禅の要術は非思量なのです。終生、非思量を悟後の修行として継続するのです。
飯田とう隠老師の「不思量底は自己なきことぢゃ」という言葉は本質的に間違っています。
不思量底は自己なき時ばかりに限ったことではなく、自己の有る時も不思量底です。非思量(正念相続)の修行をしたことのない人には、このことが分からないのです。
人の思量の活動と、自己の有る無しの活動(意識の活動)は、一体としての活動ではなく、それぞれに影響し合っていますが、別々の脳組織・脳回路の活動です。
現在のところ、非思量というのは、身心脱落の為に必要な絶対唯一の方法です。
一度、思量(念想)を徹底的に用いないでいますと、意識の機能と活動が完全に停止してしまうのです。そして、意識の復活(蘇生)はないのです。
この状態を身心脱落というのです。
意識は消滅しても、無分別の分別心が機能していますので何ら問題はありません。
井上義衍老師は、「身心脱落後、死んでいた認識が再び動き出して、自己を忘却していたことを自覚した」と述べておりますが、この場合の身心脱落は悟りではなく、一時的記憶喪失状態、典型的な意識の変性状態に陥っていたのです。
意識の変性ですから、一時的記憶喪失状態に陥っても、その状態が何かの縁で解除され日常の認識が活動始めるのです。元の日常的意識に戻るのです。
これは正しい身心脱落とは異なるのです。
禅門に於ける意識というのは、医療上の「意識がある・意識がない・意識不明等々」の場合の意識とは、全く違うものです。
禅門に於ける意識は、自己のことであり、自我のことであり、自意識のことです。
身心脱落(悟り)は心の中から自己(自我・意識)が消滅してしまうことを指します。
禅門に於ける意識(自己・自我)は、自己保存本能と自己遺伝子保存本能を司るのです。その為の機能の主たるものは3つあります。
自己と他己を区別する機能と、自己の利益を最優先に追求する利己性を全うする機能と、死を最大限に恐怖する機能です。
身心脱落して意識が消滅してしまうと、以上の3つの機能が消滅してしまうのです。
身心脱落しても身体的機能には何の変化もありません。身体的反応のない前後不覚の状態に陥ることはありません。
禅門に於ける自己(意識)が消滅してしまった無我の状態は、凡人には全く経験のない精神世界ですから、イメージして描くことはできないのです。
無我に似たような心の状態も私達の人生に於いてはありませんから、言葉で説明してイメージを描いてもらうこともできないのです。
「例えば、こんなような状態」ということもできないのです。
このことを禅門に於いては「冷暖自知」というのです。
冷たい暖かいは、言葉で教えてもらうことも、言葉で教えてあげることもできないということです。
どのように冷たいのか、どの程度暖かいのかは言葉で伝えることはできないのです。自分で実際に体験しなくては分からないものだということです。
「身心」というのは自己のことであり、意識のことであり、自我のことです。
身心脱落をしても、思量の機能と活動を停止してしまうことはありません。
悟りの為の修行というのは、思量の機能・活動の停止を目的としているわけではなく、自己(意識)の機能・活動を停止することが目的です。
その為に思量の活動を一度完全に停止してしまうことが、必要なのです。
これは経験則です。
私達は直接、意志をもって自己(意識)の機能・活動を停止させることはできません。その為に間接的に一度、思量を完全に停止させるのです。そうすると自己(意識)の機能・活動が完全に復活のない停止をするのです。
この原理を発見した方が佛教の創始者である釈尊です。
「不思量底は自己なきことぢゃ」という飯田とう隠老師の見解は、坐禅の要術としての不思量・非思量の捉え方を間違えているのです。
非思量(正念)の相続の経験がない故の誤りです。
「不思量」というは、自己の有る無しについて述べた言葉ではなく、坐禅修行の時に思量を出るままにしておいてよいものか、それとも思量の出ない状態にしておくべきなのかについて述べた言葉です。
不思量・非思量ですから、この字義の通り、我々の日常生活の状態と同じように思量を出るままにしてよいということではないのです。
近代・現代の曹洞禅の師家方には、この不思量底・非思量底を素直に字義の通りに受け取らずに、様々に解釈する傾向があります。
多分、自らの心の中に不思量・非思量の経験が全く無い為、様々な解釈をするようになったのだと思います。
自らの心の整合性をとり、納得をし、自信をもって坐禅をしたいが為なのでしょう。
飯田とう隠老師は、公案禅に於いて何十年と公案を拈提して、始終思量の止むことのない精神状態をしていたのですから、日常的に不思量・非思量の様子が現実に存在するということを知らなかったものと思います。
それ故に「不思量底は自己なきことぢゃ」と見当違いの解釈をして、自らの修行の整合性をとったものと思います。
禅門の修行には、人によって向き不向きがあります。
考えることが性に合っていて、常に何かを思量して、考えや思いの止まることのない人は公案禅から始めると良いでしょう。
その反対に、日常、不思量・非思量の状態を知っていて、現実と思量のずれを知っている人は、いきなり非思量の修行を始めるのが良いのです。
これを見極めて、修行者をどう導くかを判断するのは、師家の責務です。
飯田とう隠老師は「不思量底は自己なきことぢゃ」と言っています。
この文面からいきますと、「思量底は自己あることぢゃ」ということになります。
思量は、自己ある時(身心脱落する前)も常の如く活動し、自己のない時(身心脱落した後)も常の如く生滅するのです。
ですから思量の有る無しをもって、自己の有る無しを判断するのは間違いです。
これは不思量・非思量の状態を、5秒でも、10秒でも保持して、自己の様子を見れば分かることです。
また、「不思量底は自己なきことぢゃ」という言葉は、1600年代のフランスの哲学者・数学者・物理学者であるデカルトの命題である「我思う、故に我有り」と内容的には同じことを言っているのです。
世界的大哲学者であるデカルトの「我思う、故に我有り」という言葉を知らない人は少ないと思います。
飯田とう隠老師は全部否定ですが、デカルトは全部肯定の文なのです。その違いだけで内容的には同じです。
飯田とう隠老師は不思量を坐禅の調心の仕方とは捉えないで哲学的に捉えているのです。
デカルトの言葉を裏返しにして否定文にしますと「我思わず、故に我無し」となります。
これは「我不思量、故に我無きなり」となり、「不思量底は自己なきことぢゃ」そのものです。
飯田とう隠老師はデカルトと表裏にして、全く重なることを説いているのです。
肯定文か否定文かの違いだけで言わんとしていることは全く同じです。偶然の一致なのでしょうか。
それともフランスの大哲学者デカルトの「我思う、故に我有り」の哲学的思想が根底にあったのでしょうか・・・。
宗祖道元禅師の「不思量底」は自己の有る無しを説いているわけではなく、坐禅の調心を説いているのです。坐禅の調心として思量の活動を否定したのです。
それを一言で「不思量」或いは「非思量」と説き示したのです。ただそれだけのことです。
また、飯田とう隠老師は「不思量のままの思量である」とも言っています。
「不思量のままの思量」ということは実際にはありません。
これは修行という現場を離れた、机上で考えた理屈です。
理屈で考えると、人の思量の活動の事実から離れたことを言ってしまうのです。
さらに「思量のままの不思量ぢゃ」とも言っています。
頭脳の中には、思量のままの不思量という状態は無いのです。これも机上の空論です。
自分の実際の修行経験のないことでも、自信を持って断言しているのですから、未熟な修行者や参禅者は、「飯田とう隠老師は身心脱落している正師である」と受け取ってしまうのは無理もないことです。
次に、「不思量底を不思量すれば、灰身滅知の二乗禅ぢゃ。寒厳枯木の如く進歩もない、自由もない、何の益も楽しみもない。」と。
このように述べておりますが、人というのはいくら器用な人でも不思量底を不思量することはできません。この世に有り得ないことを持ち出してきて「灰身滅知の二乗禅だ」と理論展開しているのですから、斯く言うのは無理筋の結論です。
不思量底を不思量すればというところで、既に理論的に破綻しています。
無理が通れば道理が引っ込むという勢いです。
不思量(非思量)という工夫を公案禅として扱う姿勢は間違いです。不思量(非思量)は素直に愚直に只管に相続すれば良いことです。
飯田とう隠老師の公案禅が禅のすべてという考えが間違いなのです。
公案禅は禅のすべてではなく、禅の中心でもなく、禅の一部でしかありません。公案禅は佛法の総府にはなり得ないのです。
公案禅に於ける悟りは、「大悟、小悟数を知らず」というぐらいに、公案を拈提する途中で普通に体験する公案禅に限定された大悟、小悟です。この大悟、小悟に普遍性はありません。
公案禅に於ける大悟は臨済宗各派の開祖様の体験された大悟ではありません。各派開祖様の大悟は一度きりの大悟であって、曹洞宗開祖道元禅師の体験された身心脱落(悟り)と同じ大悟です。
飯田とう隠老師は公案禅に於ける大悟しか体験がなく、佛法の総府たる不思量・非思量の修行の様子が分かっていないのです。
非思量というのは坐禅の修行の精神的在り方を示した言葉です。
曹洞禅の坐禅の仕方は、精神面に於いては非思量(不思量)の状態を保つことだと説いているのです。
曹洞禅に於いては修行の最初から非思量(不思量)の状態を保つのです。
そして、身心脱落も非思量の状態で迎え、悟後の修行も、死ぬまで非思量の相続なのです。
曹洞禅は身心脱落しても、修行として行うことは何一つ変わることはありません。
ここで自己の有る無しを論ずる必要はないのです。ずーっと非思量なのです。
非思量の坐禅は工夫して相続するのです。何も工夫せずに非思量を保つことは宗教的天才でもない限り無理なことです。
飯田とう隠老師は「古人曰く、真の工夫は工夫なき工夫というなり」と述べて、工夫のない坐禅をしなければならないと言っていますが、これは間違いです。
非思量の相続は工夫しなければできません。
工夫と忍耐を重ねて、意志を持って非思量の状態を保つのです。
このようにしていくと非思量の状態が習い性となって自然に身に付いてくるのです。非思量の状態が習い性となって自然にできるようになってくるのです。
強いて言えば、これを工夫なき工夫というのです。
自然に至るものですから、真の工夫として目指す必要はありません。
飯田とう隠老師の言うように「工夫なき工夫」が正しい工夫と思い、それを目指す必用はありません。ひたすら非思量の状態を保つことが禅の修行としては重要なのです。
非思量の状態を保っていれば、それが習い性となって、真の工夫は後から自然についてくるのです。
そのようなことは前もって修行者に言う必要のないことです。それは修行上の必要欠くべからざる工夫ではなく、単なる余計な知識でしかないのですから。
「古人曰く、真の工夫は工夫なき工夫というなり。」と飯田とう隠老師は紹介していますが、祖師のどなたが本当にそのようなことを述べたのかは疑わしいものです。
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2021.2.3
白隠禅師は日本の公案禅を完成させたということで有名な禅僧です。
一般的には白隠禅師は公案を専らにすると考えられていますが、その実は公案の修行は初期から中期ぐらいまでで、中期から大悟徹底に至るまでは非思量(正念)の相続に専念しているのです。
公案の修行は、専ら思量に思量を重ね、意識に意識を重ねていくことを主眼とした修行です。
しかし、公案の工夫だけで大悟徹底した祖師方は一人としていません。
公案の工夫を極め尽くしたところで阿頼耶識のところまでです。
“阿頼耶識の正体をしっかりと見た”というところまでしか至ることはできないのです。
公案の工夫をいくらしても阿頼耶識は残るのです。この阿頼耶識を取り切る為には、一念不生(非思量・正念)の相続をしなくてはなりません。この工夫を通らずに大悟徹底することはないのです。
ここに白隠禅師が非思量の工夫についてしっかりと述べている文章がありますので紹介致します。
更に、白隠禅師の非思量についての説明文に引き続き、飯田とう隠老師の非思量の修行についての見解を紹介致します。
ここで何故、私が明治・大正・昭和初期にかけて大いに活躍した飯田とう隠老師の非思量を斯様に取り上げるのか、それには大いに理由があるからです。
一つには、飯田とう隠老師は非思量(正念)の相続の修行経験が全く無いにも拘らず、あたかもあるが如く自分の見解で曹洞宗開祖道元禅師が著わされた坐禅の指南書である普勧坐禅儀の解説をしていることです。
二つには、飯田とう隠老師は元々は臨済禅で修行をずーっとしてこられた方で、60才で出家して曹洞宗の師家となられましたが、その出家の師は小浜の発心寺という臨済系の修行を専らにする僧堂の堂長でした。その堂長は原田祖岳老師と言って、当時、曹洞・臨済を越えて最も有名な禅の修行道場を築き上げた師家なのです。
原田祖岳老師は生粋の曹洞禅の高名な師家ですが、その著「坐禅の仕方」の中で、非思量については簡単に一行か二行程度しか触れていません。
その著の非思量の説明を見てみますと、原田祖岳老師も曹洞禅の非思量を実際に修めた経験はないのです。
飯田とう隠老師自身、更に、その師である原田祖岳老師、共に非思量を実際には修めていないのです。
それにも拘らず、飯田とう隠老師は500年来の傑出の禅僧であるという評価が、飯田とう隠老師の門下(一統)から盛んに出されて今日に至っているのです。
飯田とう隠老師は臨済宗の中原ケ州老師の印可を36才の時に受け、公案禅を長年に亘って修行してきた方です。飯田とう隠老師は曹洞宗の師家でもあり、原田祖岳老師の印可も受けているのですが、曹洞宗・臨済宗どちらからも正師としての評価はされていないのです。
飯田とう隠老師は曹洞・臨済両方の印可を受けているので、両方の修行の特徴がよく分かるとの触れ込みなのですが、両方ともに中途半端だったのです。二刀流はかなわなかったのです。
特に曹洞禅の改善に尽力できるということだったのですが、非思量の修行の経験が全く無かったので虻蜂取らずだったのです。
臨済禅に於いては公案だけはすべて通ったようですので師家分上の身分だったのですが、公案の調べをすべて終わっただけで、公案の先にある正念の相続の修行は全くの手付かずの状態だったようです。
公案をすべて通ることをもって大事了畢とし、悟ったと思い込んでしまったようです。残りの正念相続の修行が全く手付かずだったのです。
飯田とう隠老師は曹洞・臨済の両宗の師家から印可を受けていることは確かですが、その印可を受けていることが、飯田とう隠老師の大悟が祖師方のなされた身心脱落(大悟徹底)と同等であると保証するものではありません。
今日、印可を受けているということに“正しい身心脱落(大悟徹底)である”という保証は一つもないのですから注意が必要です。
500年来の傑出した禅僧(正師)という評価は公式のものではなく、飯田とう隠老師の門下の自画自賛の我田引水的評価です。
私は生粋の曹洞禅の修行者です。非思量だけで修行を推し進めてきた者です。
私の立場から見て、飯田とう隠老師は曹洞禅の修行経験が全く無いと感じます。
それは、飯田とう隠老師の、曹洞禅の修行の要は非思量(不思善不思悪・一念不生・正念等々)ですが、その非思量(不思善不思悪・一念不生・正念等々)に対する見方が間違っているからです。
曹洞禅の非思量は、臨済禅の正念のことであり、盤珪禅師の一念不生のことです。
非思量が分かっていないということは、正念相続の実際も分かっていないということであり、当然、盤珪禅師の一念不生・不生の佛心も分からないということです。
正念相続が分かっていないということは、公案の調べが書面上一通り済んだだけということです。
臨済禅では公案の調べが1,500則の規定の数だけ一通り済むと、師家は大悟と認め、印可を与えるのです。公案1,500則すべて済んだということをもって大悟というのです。
この大悟は公案の調べがすべて済んだという意味の大悟であって、祖師方のなされた正しい大悟徹底(身心脱落)ではありませんので、この処は区別して、注意が必要です。
公案の調べが一通り済む頃には正念という状態が手に入っているのが一般的です。ここから正念の修行に移って、公案の拈提は止めるのです。
公案と正念の二つは相反するものですから、公案の拈提は止めるしかないのです。公案が済んだ後の正修行が正念相続です。
臨済禅は正念相続を修めることによって大悟徹底することができるのです。
このことを飯田とう隠老師は知らないのです。
公案の調べがすべて済んだ状態(大悟)を大悟徹底と認識していたようです。
白隠禅師は22才と24才の2度にわたる大悟体験を間違いと認めて、正しく大悟したのは42才の時の大悟体験です。
原の白隠禅師は、公案を拈提していて悟ったとした2度の大悟体験は正しい悟りではないと気が付いて、正念相続に切り換え42才で悟った体験が正しい大悟徹底です。
ここで白隠禅師が正念相続(非思量)について述べている著書を紹介致します。
その本は「岸江小話」といい、以下はその抜粋です。
「坐禅を修するには、余縁を投げ捨て、一心に坐を勤むべし。
坐を習う始め、先づ心に決定の地を知るべし。
決定の地とは思う処、佛を求めず、諸法の是非を見ず、心に尋ね、見聞に拘はること本来不思量なる道理を究めて十二時中、異心を生ぜす、法の有無、浄穢を問うことなく、坐時の如く行住の時、唯、一如にして身心全く二途に行かず一切不思量なるべし。
不思量は心の全体にして我れも知らず。
知らずと云ふは、総て諸見を生ぜず、取捨する処なし。
雲行き、水流れるが如く、唯是、雲行なり。水流なり。外に道理なし。」
この文の説明をしてまいりますので、白隠禅師は公案で大悟徹底したという既成概念を捨てて読んでみて下さい。
白隠禅師は臨済宗の禅僧として、徹頭徹尾、公案だけで修行の生涯を通したわけではないのです。
禅門に於いては、公案の拈提だけで正しく佛法の総府としての大悟徹底(身心脱落)を得ることはありません。
公案を修め、そして正念相続を修め切らなければ、大悟徹底に至ることはできないのです。
公案を修め“大悟”と師家から認められても、その大悟は阿頼耶識の残っている公案の修行に於ける限定された大悟ですから注意が必要です。
公案禅の拈提で大悟して有頂天になるというのは阿頼耶識の悪戯です。白隠禅師も2度も騙されているのです。
では説明にはいります。
「余縁を投げ捨て一心に坐を勤むべし。」
というのは、普勧坐禅儀の「諸縁を放捨し」と同じ意味です。
日常生活の色々な雑事を離れて熱心(専心)に坐禅を勤めなくてはならないということです。
「坐禅を習う始め、先づ心に決定の地を知るべし。」
坐禅を習う始めに、先ず心の中で何をどのようにするかについて決まっていることがある。必ずそうしなければならないことがある。
それを「決定の地」というのです。
「決定の地」というのは普勧坐禅儀の調心のことです。
坐禅に於いて、心をどのように不思量(非思量)へと調えていくかについての注意点・助言です。
「決定の地とは思う処、佛を求めず、諸法の是非を見ず、」
「決定の地」というのは思量に於いて、
「佛を求めず」とは普勧坐禅儀の「作佛を図ること莫れ」と同じことで、悟りを得よう、佛になろうと思量すること莫れということです。
「諸法の是非を見ず」というのは普勧坐禅儀の「万事を休息して、善悪を思はず、是非を管すること莫れ」と同じことで、よろずの世俗の悩み心配事をやめて、この世の善し悪しを思うことなく、是非を分別すること莫れという意味です。
「心に尋ね、見聞に拘はること本来不思量なる道理を究めて」
この世の存在・出来事の是非を尋ね、見たり聞いたりしたことについて思量を生ぜず、不思量を究めなさい。
「十二時中、異心を生ぜず、」
というのは、四六時中一念不生、或いは非思量であれということです。
非思量以外の見解・分別を起さないということです。
「法の有無、浄穢を問うことなく、」
とは、存在・森羅万象のそれぞれの有る無し、浄い穢れているいないを問題にすることなくありなさいということです。
「坐時の如く行住の時、唯、一如にして身心全く二途に行かず一切不思量なるべし。」
坐禅の時と同じように、歩いて行く時、立ち止まる時(起居動作の時)も身心一体となって、一切の事に於いて不思量の状態でなければなりません。
不思量は心の隅々まで不思量であって、という意味です。
「総て諸見を生ぜず、取捨する処なし。」
というのは、あらゆることに於いて、諸々の見解(考え)を起こさず、もし見解が生じても分別するようなことをしてはならない。
分別というのは、自分の思い・考えをもって分析し判断・区別・選択することを指します。
「雲行き、水流れるが如く、唯是、雲行なり。水流なり。」
以上のことは雲が行くが如く、水が流れるが如く縁に任せて、思量分別することなく時を過ごし、日を送ることと言っているのです。
雲も、水も、自らの思量分別も、意志もないのです。縁のままにあるのです。
「外に道理なし。」
この外に坐禅を修する原理・原則はない。正しい道筋はない。
と最後に結論付けているのです。
白隠禅師の上記の文は、曹洞宗開祖道元禅師が著わされた坐禅の指南書である普勧坐禅儀の
「諸縁を放捨し、万事を休息して善悪を思わず、是非を管すること莫かれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて作佛を図ること莫かれ。
豈に坐臥に拘らんや。」
「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。
此れ乃ち坐禅の要術なり。」
と全く同じことを述べているのです。
白隠禅師も大悟徹底に至る禅修行の道理として、道元禅師の説いていることと同じことを示しているのです。
公案の工夫は全く別の次元のことであることに着目して下さい。
公案の工夫は正念相続の導入としての便宜的修行です。「大死一番」に至る為の修行です。
「大死一番」という言葉は、臨済禅にて用いる用語で、公案の工夫に於ける最終段階(到達点)の境涯を表した言葉です。
「大死一番」というと、とてつもなく凄い境界と思われますでしょうが、実際は阿頼耶識が残っている非思量(正念)の状態です。曹洞禅に於いては特別な状態ではないのです。
また、公案の工夫が進んでいきますと、よく「病がある」とか表現する場合がありますが、これも公案禅特有の表現で、曹洞禅では全く用いない言葉です。
曹洞禅の非思量の相続には「病」という状態はありません。非思量の相続には「病」という見解の入る余地が最初から最後までないのです。
曹洞禅に於いて、この言葉を用いている師家が居たとすると、その師家は非思量の工夫・相続が全くできていないという証拠です。
非思量の相続に於いて、重要なことは“一念不生であるか無いか”ということと、“自己(他己)が心の中にあるか無いか”ということだけです。
非思量の工夫の中に「病」の「や」の字も生じないのが非思量であり、一念不生であり、正念の相続です。正念とは非思量・不思量のことです。
臨済禅的表現を用いれば「念なき念」ということになります。
無分別の分別、自己なき自己、無念の念、等々 臨済禅の師家方はこの言い回しが好きなようです。
否定をした上にそれを肯定することをもって、全体を否定するという矛盾した表現方法が好みなのです。
つまり、掛算の (0×A)×A=0という図式の表現方法です。
端的と言えば端的です。理屈抜きと言えば理屈抜きですが、容易には理解しにくいのです。困ったものです。
ここで臨済宗東福寺派本山東福寺開祖圓爾辯圓禅師の仮名法語「坐禅の用心」の中の文を紹介致します。
圓爾辯圓禅師は聖一国師とも言います。
宋に入り、天童山、径山、で修行。
佛鑑禅師の衣鉢を受け(印可を受け)帰朝す。
弘安3年10月16日示寂。世寿79年。
「一切の悪知(悪い知識)、悪見(悪い見解)、思量(考え・思い・想像)、分別(物事を分析・判断・区別すること)、を止むることを無心の至極と云ふなり。
修行の見(見解=考え・思い)を起こさざれば成佛をも求めず、迷の見(見解=考え・思い)を起こさざれば悟をも求めず、交衆(衆生との交流)の見(見解=考え・思い)を起こさざれば尊敬(尊敬され)、名聞(名声を得ること)をも喜ばず、憎愛の見を起こさざれば自他、親疎(親しい親しくない)、差別もなし。
一切、善悪都て思量すること莫かれ(非思量・不思量)。
是れを無心(この場合、無心というのは非思量のことです)の道人と名くるなり。」
「坐禅の用心に一切善悪都て思量すること莫かれということは、直に生死の根源を截断する処なり。
坐禅の時ばかりと思うべからず。
若し此の句に到る人は無始無終の佛なり。
行住坐臥の禅なり。」
ここで飯田とう隠老師の話に戻ります。
自称か門弟一門の中から出された言葉なのかもしれませんが、「飯田とう隠老師は500年来傑出の禅僧である」と飯田とう隠老師の周辺から漏れてくることは確かです。
しかしながら、曹洞宗では、そのように評価している師家や宗教学者は一人も居りません。
臨済宗の中でも同様です。
飯田とう隠老師は二股を掛けたのが良くなかったのです。
飯田とう隠老師は私のような異端の匂いのする禅僧ではありません。
修行の内容からすると、頭の働きが過ぎる師家です。
飯田とう隠老師が非思量について説明している重要な文章がありますので、ここに紹介し、その解説をしてまいります。
( )内が私の解説です。
「ややもすれば、(とかくそうありがちであるが)
無念無心になれといふ。(無念無想と同じこと。非思量のこと。)
思うなかれ、思うなかれと思いを圧迫し死灰枯木の如くならしめんとして
(出た思いを圧迫するのではなく、思いの出る前の処に居るのです。出た思いを引っ込めることはできません。非思量の修行者は死灰枯木のようになろうと考えていることはありません。)
成り能わざることを強いて命ずるが故に、
(出来ないことを強いて命ずるような非思量というものはありません。)
無念にならんとする一念は
(無念になろうとする一念は必要ありません。)
更に二念、三念を生じて煩悶愈々加わり、
(無念になろうとする一念は必要ないのですから、二念、三念、が生じることはありません。)
遂に目的に達し得ずして終る者がある。つまり、菩提心が足らぬのぢゃ。
(菩提心というのは悟りを求める心・道心のことです。)」
「何も思わぬようにとあせる。
(非思量の状態を最初から知っていますので、思量の生ずる前の状態に居るべく忍耐するのです。)
あせればあせる程、
(あせることはありません。)
それ丈、思いが加わるに気がつかぬ。
(非思量に思いが加わることはありません。)
事実上、無念無心になれるものではない。
(無念無心は非思量のこと。無念無想のこと。一念不生のこと。
各御開山は非思量を相続しているのです。正念相続を実践しているのです。
事実上、無念無心になれるものではないということはありません。)」
公案の工夫ばかりをやり、正念の工夫をしてこなかった修行者は、無念無心(想)になれるはずはありません。
非思量の相続の工夫を十年も二十年も馬鹿のように愚直にやってきたことのない者が、「事実上、無念無心になれるものではない。」と断言すべきではありません。
浅学非才の平凡な私のような修行者でも、事実上、無念無心、非思量の相続を日常的に実践できているのです。
開祖・祖師方は自らやってみて、やれないようなことを説くはずはありません。
開祖・祖師方は決して嘘をつくようなことはしないものです。
飯田とう隠老師が非思量(無念無心・不思量・一念不生・正念工夫・念想観の測量を止める・不思善不思悪等々)が文字通りに、事実上できるものではないとするのは、飯田とう隠老師の菩提心が二十年も三十年も愚の如く魯の如く続かなかったということです。
曹洞禅は愚直が大切な道心の要素なのです。
以上の飯田とう隠老師の文から読み取れる問題点は、
飯田とう隠老師自身、非思量(不思量・一念不生・正念工夫・念想観の測量を止める・不思善不思悪等々)の実際の工夫が分かっていないということです。
頭で描いた非思量の工夫ですので斯く説くのです。非思量の実際の工夫は飯田とう隠老師が思い描くようなものではありません。
非思量の実際の工夫は、思いを圧迫するのではなく、思量の生じる(動く)前の処に居るだけのことです。
また、死灰枯木の如く五感・感情の全く動かない状態になろうとすることでもありません。
非思量の修行というのは思量の有無だけに焦点を絞って、喜怒哀楽の感情や視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の五感や性欲・食欲・睡欲の三大欲はありのままで、相手にしないで縁に任せて放っておくのです。
「死灰枯木のようになろう」なんてそのような指導をする曹洞禅の正師は一人もおりません。
これは「枯木倚寒巌三冬無暖気」の境地で、臨済系の虚堂録・密菴咸傑語録に出てくる言葉です。
心理学で上記のような人間を「ゾンビ」と言います。
一つの人間モデルとして時々登場してきますが、曹洞禅では全く縁のない境地です。
非思量という様子(状態)は一般の人の連続して生起する思量の中に、注意して見てみますと非思量の状態の時が、処々にあるのです。
そのことを師家が指摘してあげれば、誰でも気付くものです。
思量の状態の中に、非思量の状態を作り出すのではなく、連続した思量と思量の間に隙間があることに気付けばよいのです。
その隙間が、よく見ると非思量なのです。
よって、非思量の工夫には無念(非思量)にならんとする一念は生じることはないのです。
二念、三念が生じて煩悶愈々加わるようなことはありません。
非思量を相続するには並々ならぬ忍耐が必要なのです。
非思量(一念不生等々)の工夫に於いては、何も思わぬようにとあせることはありません。
あせることはありませんので、思いが、その為に加わることはないのです。
また、「事実上、無念無心(非思量)になれるものではない。」と断定しておりますが、曹洞宗開祖道元禅師も、臨済宗大徳寺派開祖大燈国師も、臨済宗東福寺派開祖聖一国師も、臨済宗中興の祖である白隠禅師も、臨済宗異端の禅師である盤珪禅師も「正念相続」「不思量」「無念無想」「一念不生」「念想観の測量の停止」「不思善不思悪」「是非を管する莫れ」等々の非思量を説いてるのです。
祖師方は、皆、修行としてやってこられたのです。
そして、身心脱落(大悟徹底)されて佛祖となられたのです。
たまたま、偶然、身心脱落してしまったわけではないのです。
非思量の相続によって自然に必然的に身心脱落に至ったのです。
飯田とう隠老師は坐禅の要術としての非思量を否定しているのです。
祖師方も、曹洞宗の一介の修行者である私も、事実上、文字通り無念無心になっているのです。非思量を日常的に相続しているのです。
江戸時代の臨済宗の盤珪禅師は誰でもが不生の佛心でいることが出来るものだということで一念不生を民衆に説きました。
一念不生というのは一念も生じないという状態を指しています。
一念も生じないのですから、その状態は無念無想・非思量の状態のことです。
不生の佛心であれと説いていますが、一念不生がそのまま佛心である。その佛心で日常生活すべての問題も悩みも調っていくものだと説いているのです。
つまり、非思量で全てのことは問題を大きくすることなく、こじらせることなく調っていくものだということです。
これは非思量という修行の特徴です。
非思量は悟後の修行としての聖胎長養の側面があると同時に、悟前の修行としての聖胎長養の側面も併せ持った修行方法です。
非思量は心の病を治癒し、人格を調へていく側面を持っているのです。
これらの側面は身心脱落という体験にあるのではなく、非思量という修行が持っている側面です。
また、飯田とう隠老師は「死灰枯木」とも述べていますが、死灰枯木にならんとして非思量の修行をする者はおりません。
飯田とう隠老師は非思量の状態(一念不生等々)に於ける無分別の分別心の作用(働き・機能)が体験的に理解できていないのです。
非思量の状態(一念不生等々)に於ける無分別の分別心の作用が分かってくると、死灰枯木という言葉の出てくる余地がないことが分かるはずです。
無分別の分別心とは、盤珪禅師説く不生の佛心の佛心のことです。
曹洞禅の正修行である非思量の相続に於いて、公案の工夫のように頭を巡らしての理屈は許されないのです。飯田とう隠老師は頭が過ぎるのです。
盤珪禅師は「一念不生」という言葉をよく用いますが、それは一念も生ぜずという意味ですから、思量が一つも生じない状態ということなのです。
一念不生という言葉は、盤珪禅師独得の造語ではなく、祖師方も一般的に用いている言葉です。
曹洞宗開祖道元禅師仮名法語の中でよく用いています。
一念不生という言葉は非思量と同じ意味です。
盤珪禅師は一念不生をどのように修行するかについて、次のように述べています。
「皆、身共がいふに打ち任かせて、先づ三十日不生で居てみさしゃれい。
三十日不生で居習はしやったらば、それから後には、おのづから居とむなうても、いやでも不生で居ねばならぬようになりまして、見事不生で居らるるものでござる。」
これは読んだ通り、一念不生の状態を三十日間保ってごらんなさい、と言っています。
一般の民衆に斯く説いているのです。
これは学問の下地のない庶民に説いているもので、江戸時代の一般の庶民にとっても不可能なことではないということです。
三十日間一念不生(非思量の状態)で居ることが出来るので斯く説いているのです。
盤珪禅師は「悟れ」とは説いていません。「悟れる」とも説いていないのです。
不生の佛心で居れば、日常生活の一切のことが調うと言っているのです。
次のようにも述べています。
「不生(非思量)で一切の事が調いまする。
その不生で調いまする証拠は、皆の衆がこちらを向いて身共の云ふことを聞いてござるうちに、後ろにて烏の声、雀の声、それぞれの声が聞こうとも、思う念を生ぜずに居るのに烏の声、雀の声が通じ別れて、聞き違はず聞かるるは、不生(非思量)で聞くというものでござる。
このごとくに皆一切の事が不生で調いまする。
これが不生の証拠でござる。」
不生で調いまする、というのは非思量の状態で何も不自由なく、間違うことなく調った生活ができますと説いているのです。
不生の時は佛心がよく働くということです。
佛心というのは無分別の分別心のことです。
不生の時は佛祖と何ら変わはないということです。
ここの処を道元禅師の「永平仮名法語」の中で
「一念不生なれば、衆生則ち、是れ佛なり。
一念生ぜば佛もまた衆生なり。」
「一念も生ぜざれば、直に如来端的の心悟るべし。」
と述べています。
臨済宗の盤珪禅師も、曹洞宗開祖道元禅師も、同じことを説いているのです。
何一つ違いはないのです。
飯田とう隠老師は
「山の中の静かな世縁を遠ざかった処で練習すれば一程度までは、
無念無想木石の如くなることもある。」
と述べています。
山中で練習すれば無念無想に一程度なれると言っていますが、この見解は曹洞禅の非思量の相続には程遠いものがあります。
また、無念無想(非思量)は心が人間味を失い、木石の如くになるように思い込んでおりますが、無念無想(非思量)の状態に於ける無分別の分別心(不生の佛心)の働きが全く理解できていないが故の思い込みです。
無念無想(非思量・一念不生)を「修行」とは言わずに、敢えて「練習すれば」と貶めた表現を用いるのは、曹洞宗開祖道元禅師に無礼であるだけでなく、祖師方に対しても非礼というものです。
また、「さりとて思量底を思量する。二重の思量ぢゃ。
思量といふ立派なものがあるのに、更らに思量するものを傭ひ来りて思量する。煩悶いよいよ加はることになる。
試みに思量の当相如何と工夫して見よ。
我が正伝の禅は思ふにあらず、思はざるにあらず。
思う時は思うばかりにして思いながらの脱落ぢゃ。
思はぬ時は思はぬばかりにして、思はぬながらの脱落ぢゃ。
思、不思を超越しておる。
ここが不思量底を思量するのぢゃ。」
と述べています。
「二重の思量」と言っていますが、
思量は常に一つです。二つ重ねの思量というものはありません。
曹洞禅に於いては、思量は禅修行の妨げとなるもので立派なものも困ったものもないのです。聖胎長養の側面に於いても、思量は不要なものです。
「思量の当相如何と工夫して見よ」と述べていますが、
これでは曹洞禅ではなく公案禅の扱いです。曹洞禅ではこれはやってはいけないことです。
公案禅の工夫は非思量(正念の相続)に至るまでの修行だからです。
公案禅と曹洞禅では本質的に立ち位置が異なりますので、この二つを混ぜてはなりません。非思量から離れてしまいます。
非思量の相続に思量を容認することはありません。
思量の生まれる前の様子(状態)だけでよいのです。
思量が生じてしまってから、さあ、思量をどうしましょうという問題ではないのです。
ここの処を間違えると、非思量の相続を主眼とする曹洞禅は一生涯、理解できないこととなります。
「我が正伝の禅は思ふにあらず、思はざるにあらず」と述べておりますが、
「我が正伝の禅」というのは何について言っているのかがよく分かりません。
正身端坐の坐禅のことか、修行全般のことなのか、身心脱落(大悟徹底)のことなのか、坐禅の要術である非思量のことなのか、どれなのでしょうか、はっきりしません。
我が正伝の坐禅ということになれば「思うにあらず、思はざるにあらず」という言葉は禅の修行としては間違いです。
非思量に、思量・非思量のどちらでもよいということはないのです。
続いて「思う時は思うばかりにして思いながらの脱落ぢゃ。
思はぬ時は思はぬばかりにして、思はぬながらの脱落ぢゃ。」
とあります。
この文は悟った状態の境界ですから、ここで何の前触れもなく、急に説明の土俵を変えられても困るのです。
少し分かり難い禅的な表現ですから、これを一般的な言い回しに変えてみますとよく理解できます。
「佛陀より正しく伝えられてきた曹洞禅の脱落身心(悟り)は思量でもなく、非思量でもない。
思量する時は思量するだけであり思量しながらの状態で脱落身心しているのだ。
非思量の時は非思量の状態で、非思量の状態に於いて脱落身心しているのだ。」
となります。これも内容に錯誤があります。
思う時は思う時、思わない時は思わない時、何れの時も脱落身心とは関係なく働きとしてあるものです。
脱落身心の状態はもともと思量・非思量とは無関係です。
自己の存在は、人の思量とは無関係な存在ですが、自己を消滅(忘却)させる為には修行という手続きが必要となるのです。
その修行というのが、非思量の状態を完璧なまでに相続していくというものです。
「思、不思を超越しておる。」としていますが、
超越しているわけではなく、思量と、不思量と、自己の有無は別々の精神的存在です。
思量と自己は一体ではないのです。
また、自我の存在は思量・不思量の機能を左右するものでもありません。
「ここが不思量底を思量するのぢゃ。」と最後に括っています。
これは非思量だと言っているのですが、曹洞禅に於いては脱落身心の境界を非思量としているわけではありません。
悟後の修行である聖胎長養は非思量を修するのです。
非思量というのは単純明快なことで、思量の動かない精神状態のことです。
脱落身心の精神状態を非思量と言っているわけではありません。
思う、思わないにこだわらない状態を非思量と言っているわけではありません。
非思量というのは佛道の修行の極意です。非思量に優る修行方法はないのです。
道元禅師や祖師方は禅の修行の要術として具体的に「非思量」を説いているのです。
最後に、飯田とう隠老師曰く
「不思量底とは自己なきことぢゃ。
即純一無雑(同じことを言葉を変えただけのこと)ぢゃ。
不思量のままの思量ぢゃ。思量のままの不思量ぢゃ。
自己を求むるに不可得ぢゃ。坐禅は坐禅なり。」
不思量底は思量が生起していない脳の状態のことです。
しかし、飯田とう隠老師は不思量底を自己なき状態と思っているのです。
つまり、脱落身心の境界(心の状態)が不思量だと思っているのです。
身心脱落しなければ非思量の状態は有り得ないと考えているのですが、実際には、身心脱落しなくても非思量の状態にはなれるのです。
これは盤珪禅師が一念不生を説く根拠です。不生の佛心で調うと説く理由です。
飯田とう隠老師は身心脱落のことを不思量と言うのだと思っているのです。
不思量のままの思量という状態は、実際には有り得ません。
思量の出し放しの不思量という精神状態は現実には無いのです。
しかし、不思量を身心脱落と入れ替えれば、それは成り立ちます。
不思量(底)とは、自己なきことではなく、思量のないことです。
思量のない状態と自己のない状態は連動しているものではないのです。
自己の無い精神に至る為に、取り敢えず非思量の状態を相続する必要があるのです。
非思量が禅修行・坐禅修行の精神的行為としての内容となるのです。
脱落身心(悟り)が日常である祖師方は、思量する時もあれば、非思量の時もあるということです。
しかし、聖胎長養の修行の為には常に非思量を相続していなければならないのです。
聖胎長養の修行をどこまで続けるかは、その祖師の志しによるのです。
500年傑出の禅僧と一部で言われている飯田とう隠老師は、臨済禅の正念の相続の修行を全く行っていないのです。
それと同時に内容的には正念相続と全く同じ曹洞禅の非思量の修行経験も全くない師家です。
禅の修行は理屈を好みません。理屈は実際の体験的裏付けがないからです。
実際の体験的裏付けのない理論を理屈というのです。
飯田とう隠老師の理屈はいくら積み重ねたところで、実際の具体論が出てくる可能性は低いのです。具体的方法論が生まれてこないので理屈というのです。
例えば、飯田とう隠老師は「単になれ」とよく言いますが、それで必然的に非思量という状態に至れる可能性は少ないのです。
「単」になる為には非思量でなければならない、という原理は明らかになっていないからです。
「単」と「非思量」に因果関係があるという道理は何一つ明らかになっていないのです。
「単」という言葉には具体性がありません。
「非思量」には具体性があります。
「一念不生」にも具体性があるのです。
祖師方は具体性のある言葉で坐禅修行の具体的方法を示しているのです。
「単」というのは具体的に、何がどのような状態にあることなのでしょうか?
その為に何をどのようにすれば良いのかが、この「単」という言葉には何一つ含まれていないのです。
それに反して、「非思量」は思い・考え・想像の生起しない状態であることは一目瞭然です。
「一念不生」も文字通り、一つの念(思い・考え・想像)も生じない状態ということが誰にでも分かります。この言葉は具体的なのです。
現代の曹洞宗の師家の使う言葉に「そのものになり切れ」「そのものと一つになれ」というものがあります。
師家御本人は分かっているつもりで説かれているのでしょうが、本当の処はまるで分かっていないのです。この言葉は具体性が全く無いからです。
なり切る為に、何をどのようにするかが全く分からないのです。
なり切る為に、心の中に存在している自己をどのようにすればよいのかがまるで分からないのです。
自分の思い考えはどうするのか、自分の感情はどうするのか、自分の五感はどうするのか?
なり切る為に、問題は山積みです。
以上の全てに充分に答えられなければ、この言葉は師家と雖も用いてはならないのです。
「なり切れ!」というたった四文字の言葉ですが、この言葉は理屈です。
「なり切れ!」という言葉には実際や具体性がないので禅の修行には役に立たない空虚な言葉です。
禅語は全般的にこのように短いものが多くあります。
これらは端的に事実・実際を示しているかのように思えますが、そうではありません。理屈が多いのです。
これを用いている師家は、そのことの理解がまるでないのです。
目次へ
2021.3.1
非思量の相続は曹洞禅の修行の根幹ですが、そのことをしっかりと受け止めて説く師家は、近代にも現代にも一人もおりません。そこはすべて軽く流してしまっているのです。
非思量の相続は精神的には難行であり苦行です。
誰でもが「やればやれる」というものではないのです。精神的修養で、坐禅でもやってみようかという程度の気持ちでは到底無理です。
只管打坐を唱える近代・現代の曹洞宗の師家方の中に、純粋に非思量の修行に挑んだ方は一人もいません。
「唯、坐る」ということで、ただ坐っていた方が容易なのです。
何の工夫もすることなく、身も心もそのままでよいとする正身端坐がやり易く理解し易すいので、只管打坐を選ぶ師家がほとんどです。
一般の人も、精神修養やリラクゼーションで坐禅をするならば、只管打坐がよいと思います。
師家の指導や、公案の工夫によって、或いは数息観によって、非思量の状態を知ることはあったとしても、非思量の相続ができるわけではありません。
原田雪渓老師の言われるように、三昧状態になったり、意識をもって意識をすりつぶすようにして、非思量の状態を知ることができたとしても、非思量の相続ができるようになるわけではありません。
非思量の状態を知るだけでは、修行に於ける価値は何もないのです。
曹洞宗宗祖道元禅師が坐禅の要術として示された非思量は、知るだけでなく相続することに修行としての意味があるのです。
一秒一秒、非思量の状態を相続することによって、一秒一秒、自我(自己)が消滅していくのです。
原田雪渓老師は自身の書籍の中で、三昧になるとか意識をもって意識をすりつぶすようにして自己を忘じていくとか、ここかしこで説かれていますが、非思量の相続の工夫については一言も触れていません。
曹洞宗公認の師家なのですが、老師本人は非思量の修行の経験がないようです。
原田雪渓老師の「不思量底、如何が思量せん 非思量。 此れ乃ち坐禅の要術なり。」の説明を見てみますと、飯田とう隠老師と全く同じような立場から同じように説いています。
非思量というのは坐禅の具体的なやり方の指南ですから、その観点から説明すべきものです。
ところが飯田とう隠老師と全く同じように、具体性のない高尚な見当はずれの理論を述べているのです。
このことから、原田雪渓老師には非思量の修行の経験がないことが明らかです。
実際の経験のない人は具体性のない理屈を展開するので、すぐ分かるのです。
禅の修行に限らず、一般の人でも体験のある人の説明と体験のない人の説明の区別は自然にできるものです。
実際にどうであるかということが、禅の修行に於いては大切なことです。
非思量の相続の工夫の説明に、公案の解答のような理解に窮する説明は不要です。
非思量の状態を知る方法は様々にありますが、非思量を相続する工夫は沢山あるわけではありません。
忍耐によって一秒一秒削り出していくしかないのです。それには便宜的方法はありませんので、直截、一秒一秒、非思量を相続していくしかありません。地味な修行です。悟ったところで表舞台はないと思って修行することが大切です。
「禅の修行をやっていないのに自然に悟ってしまった人がいないことはない。
歴史的にそのような人が何人か居ます。」
と、禅の修行を始めたばかりの人達や参禅者に話す師家が時々見受けられます。
しかし、歴史上、禅の修行をしていないのに大悟徹底した人物は一人も居りません。
また、禅の修行をしたこともないのに非思量の相続を自然に修めてしまったという人も居ないのです。
歴史的に見て、「自然に悟ってしまった」という人の場合、その殆どは意識の変性(意識変容状態)の体験者か、軽〜中程度の統合失調症の人です。
「自然に悟ってしまった」と話す師家は、禅の見性や悟りに似た心理に意識の変性(意識変容状態)という異常心理状態というものがあることを知らないのです。
また、統合失調症の軽〜中程度の人の言動は、その人に知性がある場合、禅の知識がある場合は、あたかも大悟徹底した師家のようなものです。自信を持って禅語を自由自在に操り、何の脈絡もない言葉が次々と飛び出てくるのです。
言葉のやり取りはあたかも公案禅の禅匠との禅問答のような展開となります。悟った人との区別はまずつかないでしょう。
このような軽〜中程度の統合失調症の人の見分けができる師家は、皆無です。
一般の人の場合も、軽中度の統合失調症の人を心が病んでいると思う人は殆どいないと思います。それ程、見分けは難しいのです。
「禅の修行には自然に悟ることもある」と軽く考えることは止めることです。
一般の人で自然に悟ってしまった人は一人も居りません。
もし、一般の人で自然に身心脱落(大悟)するようなことがあるのであれば、日本や中国に限らず、他の国々や地域に大悟徹底した人物や宗教者が程々に存在しているはずです。そして、そのような人物が記した宗教的教えや教義・書籍・散文詩・韻文等々が歴史上、程々に残されているはずです。
そして、身心脱落した人物が禅や佛教に似た宗教を創始し、そのような宗教が世界の何処かの国に幾つかは存在するはずです。
ですが、歴史上にもそのような宗教の痕跡は何一つ発見されていません。
日本や中国以外にも、禅僧と同様の価値観を持った人物が世界の国々に何人かは存在するのが自然の摂理です。
残念ながら、歴史的にも、地域的にも、そのような人は一人も存在していないのです。佛教に似た宗教、禅に似た宗教は世界の何処にも存在していないのです。
それに反して、悟りとは無関係なキリスト教やイスラム教では、似た宗教や宗教創始者である教祖はいくらでも存在しているのです。
禅は自然発生的体質のない宗教なのです。
あくまでも修行は自然に行なわれることはなく、意志を持って意図的に行うべきものです。このことをよくふまえて禅の修行に精進して頂きたいと思います。
禅の修行の原形であり基本形は、非思量です。
大悟徹底に至る修行は、公案ではなく非思量(不思量・一念不生・不思善不思悪等々)です。
この非思量の状態は決して自然にあるものではなく、修行しようという意志のもとにある状態です。
非思量の相続は精神的難行であり苦行なのですから、修行として意味のある非思量の相続の状態は、決して自然にはありません。
佛陀が六年間に及ぶ肉体的難行苦行を止め、非思量の相続を始めると、五人の一緒に肉体的な難行苦行を実践してきた仲間達は、佛陀は堕落したとして、佛陀の許を去ってしまいました。
佛陀は決して堕落したわけではなく、肉体的難行苦行は益がないことを悟り、精神的難行苦行を修めることにしたのです。
それが坐禅であり、非思量の相続です。
佛陀の示した坐禅というものは、その姿ではなく、非思量の相続のことです。
心は非思量の状態をもって、姿は身になすことなくただ坐るのです。
非思量の相続は精神的難行です。やってみて下さい。
非思量の状態を維持することは精神的に苦行ですから覚悟してやってみて下さい。
身になすことなく、心の思量や分別は出るに任せ、滅するに任せ、放っておいてよいのならば、こんな楽なことはありません。
一般的な精神修養やリラクゼーションにはなりますから、やりたければやってもよいのですが、禅の修行には全く益することはありませんので、そのつもりでいて下さい。
いかなる宗教も修行となると楽なことはありません。
“そこにただ坐でおりさえすればよい”という修行は世界的にみて、宗教の修行の内に入ることはないのです。静坐法という精神修養法と同類のものです。
非思量の状態は、精神的に追い詰めれれたり、どんな苦しいことが続いたとしても、自然に至り修しているようなことはないのです。修する為には諦めることのない意志が必要です。
また、過酷な修行によって疲労困憊していようと、それによって自然に非思量の状態になってしまっているようなこともないのです。
一つのことに極度に集中したとしても、或いは三昧になってしまったところで、人は自然に非思量の相続をすることはありません。
人は一つのことを集中的に徹底的に考え極めたところで、考えが尽きて何も考えられないと言ったところで、実際は、考え・思いが尽きて非思量になってしまうわけでもありません。
身体的苦痛を伴う行を続けたところで、人は非思量の状態に行き着くことはないのです。
全身全霊を傾けて何かをやり続けたところで、人は自然に非思量の状態に至ることがないのです。
それが非思量の原則です。
三昧という状態と非思量の状態には、基本的に重なる処はありません。
非思量の状態というのは五感も五欲も感情も、いつも通りに機能しています。
三昧というのは五感も五欲も感情も、いつも通りには機能していないのです。抑圧した状態です。
この点が大きく異なることです。
宗教的威儀や作法や儀式を厳密に精進して綿密に完璧にこなせるようになったところで、このようなことで非思量にはなれません。
非思量になる為の便宜的方法は一つもないのです。
数息観も随息観も公案の工夫も、いわゆる只坐るの只管打坐も、何れの方法を行じたところで非思量の状態に陥ってしまうことはありません。
非思量というのは具体的な簡明直截的な方法です。
修行として、何も足されていない、何も引かれていない方法です。
禅の修行としてこれ以上何も足すことができない、何も引くことのできない方法なのです。
純粋な素のままの方法です。
非思量の相続は、非思量の状態を知って、直接、即、手間暇かけて愚直にやるしかないのです。
「単になれ!」とか「即今!」「なり切れ!」「ただやれ!」とは全く異なります。
一見すると似ているように思えますが、やってみると全く異なります。
これらには具体性が全くありません。一見、簡明のようですが、実際にやろうとすると、決して簡明ではありません。
公案を1500則全てを通ったところで、非思量の相続が自然にできるようになっていることはありません。
公案を全て通ったところで、公案の拈提・工夫に於いて念想観を用い尽くす癖がついてしまっていますので、これから正念の相続をしようとする時に、念想観を用い尽くす癖を取るのに一苦労するのです。その癖が取れない限り正念の相続を行じることは難しいはずです。
数息観の癖を取って(止めて)非思量の相続だけにするのに何年もかかるのですから…。
公案を通るよりもその癖を取って正念の相続を専らにすることの方がはるかに難しいのです。
故に、臨済禅では大死一番まで行ったとしても、その先に進み、大悟徹底(身心脱落)に至る者が少ないのです。
人は眠る時は、非思量になっていなければ眠ることができません。非思量になっていくと、奈落の底に落ちていくようにして寝入っていきます。
その時の様子は確かに非思量ですが、それを修行に応用することは全く不可能です。非思量の様子を知る一つの手立てにはなります。
人は寝入る間際は非思量の状態になっているということ。
非思量の状態に徐々になっていかないと眠りに入ることができないということ。
眠る間際に何かについて思いを巡らし始めると眠れなくなってしまうということ。等を観察してみると非思量の様子が少しはつかめると思います。
死の間際も非思量の状態であれば、眠るが如く死ぬことができるのです。
世の中は苦しいこと、困難なことが多いものです。
そこで佛陀は、この世を娑婆といったのです。
娑婆はインドの言葉ですから、漢語に訳すと忍土・堪忍土となります。
土は世界という意味です。
この世は娑婆ですから、生き方や職業によって、精神的にも身体的にも苦しく疲労困憊して動けなくなるぐらいの状況に陥ることが少なからずあります。
そして、そのような状況に陥り易い職業もあるのです。
例えば、宗教者、探検家、登山家、物事の限界・人間の限界を研究し挑戦する職業の人、軍人、兵士、アメリカ銃社会の警察官、アスリート、等々。
私達の知らない沢山の職業があるのです。
過酷な状況に遭遇することが多い彼等は、意識の変性(意識変容状態)という異常心理現象を体験することが多いものです。このことは心理学に於いてよく知られていることで、研究もされています。この中に禅僧も宗教家として含まれているのです。
彼等は過酷な状況に遭遇し、疲労困憊した状況に何時間も何十時間も何日間もさらされたとしても、遭難したとしても、生きて還ってくるのです。
そして、その時に様々な意識の変性(意識変容状態)の体験をするのです。
つまり、特別な異常心理体験です。
このような状況に陥っても、彼等は非思量の状態を体験することありません。非思量の相続をするような人は一人もいないのです。
意識の変性を体験しても、一人として見性も大悟する人もいないのです。
それは非思量の相続が、どのような過酷な状況に於いても自然になされることがないからです。
ここが禅の修行に於いてとても大切なところです。
非思量の状態の相続は、自然には決してなされない心理(精神)状態だということです。
人間の意志に基づいた修業・信仰という高度な精神行為だからです。
意識の変性(意識変容状態)を体験すると、禅や信仰に関係のない人達は、それを単に特別な異常心理体験をした程度にしか捉えないのですが、宗教者は、一般的に神がなされた神秘体験と捉え、禅の修行者は見性或いは大悟体験と捉えるのです。
特に待悟禅の修行者は異常心理体験を間髪を入れず、即見性、即大悟と受け取り、手の舞い足の踏む処を知らぬぐらいに大喜びするのです。
大悟への期待心の秘められた大きさが歓喜の大きさを決めるのです。
大歓喜であるから、その体験は間違いなく大悟であると受け取ることは本末転倒です。
非思量の修行をしたことのない修行者は必ずといっていいほど、この間違いを犯すのです。
白隠禅師の22才と正受老人の許での24才の時の大悟の体験は、二度とも大悟徹底ではなかったのです。二度も同じ間違いをしたのです。
白隠禅師は公案の工夫三昧に於ける特別な異常心理体験をしたのです。
その体験は意識の変性(意識変容状態)だったということです。
その後、その間違えた大悟の為に心身のバランスを崩して心身の病に苦しむのです。心身症です。
病に苦しみながらも、その後、正念の工夫に打ち込み、42才の時に、それこそ静かに正しく大悟徹底をしたのです。
このような前例がありながら、飯田とう隠老師も原田祖岳老師も井上義衍老師も原田雪渓老師も非思量の相続の重要性に気付かずにおられたのです。
これは各老師方が非思量の相続についての説明を殆どされていないことからも明らかなことです。
説明をしているとしても、非思量の経験がない為に見当違いの説明をしてお茶を濁しているのです。
各老師方は非思量も、不思量も、一念不生も、正念相続も、不思善不思悪も、身心脱落に至る主たる要術として取り上げていないことからも、正しく身心脱落をしている様子はありません。
各老師方の禅的体験は身心脱落ではなく、いわゆる公案禅に於ける意識の変性(意識変容状態)の体験です。
正しく祖師方の説いている身心脱落であるならば、非思量・不思量・一念不生・正念相続・不思善不思悪について、白隠禅師のように自戒として、しっかりと説き示すはずです。
それが一言も説いていないのですから、正しく身心脱落していない証しです。
各老師方は曹洞宗で目立つ活躍をされた方々です。
「愚の如く、魯の如く。」非思量の相続に生涯をかけた禅僧には程遠い、華々しい生涯を送った方々です。
結局、最後まで非思量の相続の重要性に気付かずに、非思量の修行を手付かずのまま師家人生を終えた老師方です。
曹洞禅の立場から見れば、生粋の道人とは言いきれないものがあります。
諸老師方の行履(禅僧の日常の行為や足跡、一切の起居動作のこと。)を見てみますと、私から見ますと派手で目立ちすぎなのです。
且つ、諸老師方は非思量についてしっかりと書いた物を一つも残していないのです。
白隠禅師の在家弟子の若い女の子が禅の修行もせずに大悟していたという逸話があります。
白隠禅師没後、嗣法の弟子の東嶺が大悟者の再点検をしました。その再点検の結果“嗣法何人かの落第者がいた”と東嶺の文献に記されています。
「おさん」という娘がそこに入っていたかどうかは私は知りません。
女の子は「おさん」という名の子だと思いますが、奇行があったので親から相談を受けてみにいったところ、悟りか見性か分かりませんが禅的体験があったらしいのです。
おさんという人が年がいってから禅についての心境を書き残した物を私は見たことがありませんので何とも言えませんが、確かに大悟しているならば、在家の者でも、白隠禅師の在家弟子として、その証しとして、その心境を書き残すものと思います。
孫が亡くなった時の逸話がありますから、ある程度は長生きしたものと思います。
道鏡恵端禅師も白隠禅師の大悟の点検を間違えておりますし、白隠禅師も間違えておりますから、その「おさん」という女の子の奇行も見性や大悟によるものという確証はありません。
おさんという女性の禅の心境について書いた物があれば、それで判断は可能ですが、それを目にしたことがありませんので何とも言えません。
但し、正しく身心脱落したのであれば、奇行はありません。
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2021.4.4 (2021.4/7 ,4/10 佛性の部分加筆)
昭和58年3月2日に遷化(逝去)された有名な曹洞宗師家.井上義衍老師(享年88年)の非思量についての説明を紹介致します。
義衍老師の非思量の説明を見た時の私の率直な感想は、義衍老師は「非思量の状態」と「無分別の分別の状態」を混同してしまっていて、その区別がついていないということです。
二つの状態の区別ができていないということは、非思量の相続(非思量の状態を維持すること)をした経験がないということです。
非思量の相続をした経験がない為に、無分別の分別の状態(様子)が分からないのです。
無分別の分別の様子が分からないと「佛性」が分からないのです。
それ故に、「人の言動すべてが佛性であり、佛性の作用でないものはない」と説くようになってしまうのです。
それでは次のような事例は何と説明するのでしょうか。
幼い我が子を虐待し続けて殺害に至る父親母親のそれらの言動は佛性なのでしょうか。佛性の露われなのでしょうか。
ドイツのアドルフ・ヒトラーのユダヤ人の大量虐殺・アウシュヴィッツの毒ガスによる殺害行為も佛性なのでしょうか。
これら人間の残虐な行為は佛性ではありません。
人間の言動が如何なるものであろうと、すべて佛性であるとすることは間違いです。
師家を長年やっていれば、禅の知識が豊富ですから、佛性をそれらしく説くことはできますが、それは理屈による推測ですから、どうしても法理に綻びが出てしまいます。
それを非思量の相続のできない一般の師家や禅僧が見抜くことは難しいことです。
但し、非思量の相続ができていて無分別の分別心の作用が明らかになっている禅僧ならば、すぐに分かることです。
非思量の状態になると、無分別の分別の様子は誰にでも難なく分かります。
非思量の相続の経験なくして身心脱落(悟り・大悟)することはあり得ません。
井上義衍老師本人は悟りの体験があるということで、御自身でその時の状況を説明し分析しております。
私は、義衍老師のその時の状況と分析を読み、これは身心脱落ではなく典型的な変性意識であると判断すべきものと思います。
正しい身心脱落ではなく変性意識である為に非思量の状態が分からないのは当然のことです。
曹洞禅の坐禅の仕方である「非思量」という心の調え方は、思量に対する非思量という意味、或いは位置付けの非思量です。
思量の状態の否定の意味の非思量です。簡単明瞭なことです。小学生の子供にも分かることです。
思わない・考えない・想像しない・思い出さないという程度のことなのです。
非思量という状態は大方の人は、正しく説明されれば容易に理解できるものです。
この非思量という坐禅に於ける心の調え方には宗教的な神秘性も深遠さもありません。極めて日常的な身近なことなのです。
「こんなことで悟りに至る修行になるの?」と疑問詞的に問いたくなるようなことです。
ただし、非思量という状態が日常的に全く無い人も僅かながらいます。このような人達への説明は難儀いたします。
このような人達にとっては、自らの心の中をいくら捜しても、いくら考えても、思い当たる節がない為に、これほど分かり難いものはないのです。
一般の人にとって非思量の状態を知ることはさほど難しいことではないのですが、この非思量を修行として相続することとなると、これほど難しいことはないのです。
精神的難行・苦行です。“知る”と“やる”とは大違いです。
非思量の修行を行ったことのない師家方は、非思量の修行について、あたかも経験があるかのような文面で、立派そうな理論・説明を述べるのが常です。
その説明として、何時いかなる時も、何も思わず、何も考えず、何も想像しない、何も思い出さないというような簡明なことは言わないのです。
師家自身、そういう心の状態が思い当たらないからです
師家としてのプライドの為なのか、理解しにくい禅問答的・超理論的な言い回しをするのです。教えを受ける修行者は、分かったような、分からなかったような、理解に苦しむことになるのです。
近代・現代の師家という師家は、皆そのような傾向にあります。特に臨済系の修行をかじった師家にこの傾向が強くあります。公案禅で思量を使いまくる癖が身についてしまっているからです。
子供でも分かるような、思わない、考えない、というようなことをわざわざ難しくしてしまっているものですから、道元禅師の著わされた「普勧坐禅儀」が普く勧めることを主旨とする「普勧」でなくなってしまったのです。
近代・現代に於いて、禅の修行は身近なものでなくなり衰退していく一方となってしまいました。人の道を、禅に求めなくなってしまっているのです。
非思量という精神状態は文字通り、思量を否定した精神状態です。一念も生じない頭脳の状態です。
思い考え・想像の全く動かない状態を非思量というのです。日常的に大方の人に、この非思量の状態はあるのです。
私達曹洞禅に於いて非思量を相続している禅僧に、非思量について尋ねれば、一般の人でもすぐに日常的に非思量の状態があることに気付かせてもらえるはずです。
昭和58年3月に遷化された曹洞宗の有名な師家であり、悟りを開いているとしている井上義衍老師は非思量について以下のように説明しております。
「不思量というのはね、(手を打って)ポンと音があるのは皆さんの考えに関係がないでしょう。
ただそういうこと「ポン」(拍掌)が皆さんにあったんです。思量を越えて。」
人の考えがあるにも拘らず、ポンと拍掌すれば、そのポンという音が、それを聞いた人にある。それを非思量と義衍老師は言っているのです。
ポンという拍掌の音が、それを聞いた人に、その人の思量に拘らずあるということを非思量だと述べているのです。
「ポンという音がそれを聞いた人にある」と言っていますが、一般的な言い方にしてみますと、「ポンという音が聞こえた」ということです。
この「ある」というのは、義衍老師の禅僧的表現を工夫する癖による表現です。禅的表現・言い回しが好みなのです。
禅的言い方を色々工夫しているので、意味が伝わり難く超理論的になる傾向があり、曹洞禅としては好ましいことではありません。
義衍老師は、人の思い・考えがあっても、それに拘らず音がすれば音が聞こえること、物を目にすれば物が見えること、このことを非思量であると述べているのです。また、音が聞こえることを、思量を越えているとも言っています。
上記の義衍老師の説明は“非思量である”ということとは全く見当違いの説明です。これは正確には無分別の分別の説明です。
義衍老師の説明は森羅万象(音)とそれに対応する五感と無分別の分別の状態の説明であって、坐禅の心の調え方である非思量の説明ではありません。
義衍老師の説明は一般の人の日常のことであって、誰でもが知っていることです。日常をあたかも特別なことの様に表現しているだけです。
一般の人の日常の様子を“非思量である”ということには驚きしかありません。
この様子を非思量というのは字義からしても無理なことです。
「ポンという拍掌の音が思量を越えて皆さんにある。」と述べておりますが、ポンという音が思量を越えて聞こえるわけではなく、思量が頭の中を生滅していることと音が聞こえることは全く別の作用です。
思量があっても音がすれば、思量とは別次元で聞こえるのです。
人の五感の機能は生来のものとして、そのように作用するようにできているのです。
決して思量を越えているわけではありません。表現が深く意味ありげにわざわざしているのです。
思量があっても思量に重なって聞こえるのです。
思量があっても、それに重なってテレビが見えるのです。
思い考えが動いていても、それに重なってお香のかおりが分かるのです。
決して特別なことではなく、また非思量ということでもなく、ただの日常です。このことは禅の修行とは全く関係のないことです。
強いて「越えている」という言葉を用いてみるとして、ポンという音が思量を越えているわけではなく(聞こえるわけではなく)、思量と重なっていることが多いのです。
また、必ずしも、“音が聞こえる”ということが思量を越えているのではなく、この表現を用いて言うならば、逆に思量が“音が聞こえる”ことを越えることだってあるのです。
例えば、深く考え事をしていると他からの音が聞こえないことも日常的によくあることです。思量が音を越えてあるのです。
考え事をしていると目にしながら見えていないこともよくあることです。思量が物が見えることを越えてあるのです。
五感という感覚器官は、皆そのようにできているのです。
思量が五感を越えることがあることも気付いていなくてはなりません。
五感の機能をもって非思量と定義することは間違いです。
音がすれば聞こえるのです。
音がすれば必ず聞こえるというものでもないのです。
思量がポンという音に優先することもあるのです。
義衍老師はポンと音がすれば耳に聞こえることを「そういうことがある」と表現していますが、禅らしい表現をすることが好み故の表現であり、常識的に「聞こえた」というのと同じことです。特別な表現を用いる必要はないのです。
普段、日常的に、思量がポンという音を耳にすることを妨害することはありません。
それ故に、人は何かをしながら聞くことができますし、何かを思いつつ食べることができるのです。何かを考えつつ痒い所を掻くことができるのです。
以上のように必ずしも五感への情報の入力が思量を越えているわけではありません。
義衍老師は人の思量に関係なく「ポン」と聞こえることを非思量と言っているのです。
人は「思いつつ」でも「ポン」と聞こえるのです。思いを離れているわけではなく、思量しつつポンと聞こえて、それでいて思量がポンを邪魔にしているわけでもなく、思量がポンを忌避しているわけでもありません。
これが実際であり、事実の生活の様子です。
これは思考機能と聴覚機能は元々別の機能であることを意味しています。
ポンという音が皆さんにあったのは、音が思量を越えているわけではなく、思量が音を越えているわけでもありません。ただ、そういうことが日常的にあるということです。
これらは禅の修行や非思量とは別次元のことで、無分別の分別心の作用なのです。
思量・非思量というのは人の思量の機能や状態についての言葉です。
耳は人の思考力の機能とは関係なく働くものですから、人の非思量の説明に聴覚、或いは五感を持ち込むのは無理があります。
また、次のようにも重ねて不思量(非思量)について具体例を挙げて説明しております。
「テレビの音が聞こえる。そういうことが自分にある。
どうしたんでもないのに聞こえる。それが不思量底なんです。」
これは人に限らず、動物も天賦の生き延びる為の機能として、音がすれば聞こえるようになっているのです。すばやく危険を察知して対応する為なのです。
天賦の機能ですから、私達にはどうしようもないことです。
「どうしたんでもないのに聞こえる」のは無分別の分別心の作用です。そのように生まれついているのです。
精神的に正常であれば、五感は人の思考機能を操作することはできませんし、また思考力が五感の機能を操作することはできないのです。
五感にあるのは機能だけで意志はないのです。我(自我・意識)もないのです。
頭脳以外、身体のどこをとっても意志はありません。身体のどの部位も我(自我・意識)はないのです。
腕にも、足の親指にも自己はないのです。有るのはそれぞれの部位の機能のみです。
頭脳以外、身体の何処を捜しても自我(自我・意識)はありません。
義衍老師は「テレビの音がどうしたんでもないのに聞こえること」を不思量底であると述べていますが、テレビの音が聞こえることは思量・不思量(非思量)の思考力には関係ないことです。
耳の聴覚の機能のことであって、そこには思量・不思量(非思量)の挿し挟まる余地はありません。
不思量(非思量)の実際が分かっていないのに、理屈で不思量の整合性を取ろうとする故の無理筋の説明になってしまうのです。
曹洞禅の修行は実際が最優先なのです。
禅門の修行に於いては事実・実際をもって説明していくことが大切です。
義衍老師は心の様子(有り様)の事実・実際をしっかりと見ないままの不思量(非思量)の説明ですから、どうしても整合性が取れないのです。
整合性が取れないので、説明の言葉を飛躍させて整合性を取ることとなるのです。説明が飛躍するのです。
義衍老師は自らの心の観察に緻密さが欠けるきらいがあります。
天賦の人体の機能に於いて、思量・不思量(非思量)は埒外のことです。
天賦の五感の機能は、森羅万象という縁に感応して自己とは関係なく、また自己の思量とは関係なく自然に機能するようにできているのです。
人がどうする必要はなく感応するのです。そのように元々できているのです。
これを非思量とするのは間違いです。五感の機能に人の思量・非思量は関与できないのです。
五感からの森羅万象の情報の入力は、私達の思考の機能や思量・非思量に拘らずなされるのです。
この様子をもって非思量であると説くことは、人の思量の様子が殆ど把握できていないということです。また、思量と五感の関係性が見えていないということです。
次も、義衍老師の非思量の説明です。
「眼前の物は、考えを用いる前に、すでに眼に映じています。
車の音、人の声は如何ですか。
禅堂に入るとお香のかほりが思量にかかわらず分かるようになっています。
是の如く不思量の生活です。
不思量とは事実の生活の様子です。」と述べております。
「是の如く不思量の生活です」とするのは間違いです。
ここは「是の如く、無分別の分別の生活です」とすべき処です。
「不思量というのは事実の生活の様子」とするところは、
「不思量というのは思考の停止した状態」とすべきです。
事実の生活の様子は思量であっても、不思量であっても逸脱することはありません。どちらにしても事実の生活の様子なのです。不思量に限らないのです。
眼前の物が映じるとか、車の音、人の声が分かるとか、お香のかほりが分かるというのは無分別の分別心によるものです。人の思考力・判断力によるものではありません。
五感のそれぞれは、不思量という思量の停止した状態とは無関係な機能です。
禅門に於いては非思量の相続なくしては身心脱落することはありません。
「非思量」は別の言い方をすれば、「正念相続」「一念不生」ということです。
井上義衍老師は27才の時、新盛座での観劇中に忘我の体験をしたと述べております。
御本人はその体験を身心脱落であるとして紹介しています。
義衍老師が正しく身心脱落しているのであれば、非思量の様子が分からないことはないのです。
身心脱落した祖師方で非思量の体験のない方は一人もいないはずです。
井上義衍老師の非思量の説明を見てみますと、非思量の様子が確かではありませんので身心脱落の体験はないものと推察されます。
身心脱落を正しく体験したのであれば、日常が身心脱落でなくてはなりません。日常が非思量なのです。
井上義衍老師の忘我の体験は大悟の体験ではなく、一過性の記憶喪失体験なのです。
大悟の体験は、その体験が日常となるべきものですから一過性ではなく、元に戻ることは無いのです。
義衍老師の体験は一般社会に於いて心理学的によくある体験で、決して珍しい特別な体験ではないのです。
それは変性意識(意識の変容状態)といわれている体験です。
この体験は思量・非思量に拘らず体験するものです。
思量があっても体験するところが特徴です。
非思量の相続をしていなくても体験することがあるのが特徴です。
多くの修行者がよく間違える処です。
禅の修行をしている者が変性意識の体験をしますと、その殆どが見性、或いは大見性、或いは大悟であると受け取ります。
また師家老師も見性、或いは悟りと認めてしまうことが多いのです。公案禅ではよくある体験です。
公案禅は意識の変性を求めていることが多いのが実状です。
白隠禅師は22才の大悟体験と24才の正受老人の許での大悟体験の二度とも、大悟の体験ではなかったのです。
24才の時の大悟は正受老人も認めたものです。
しかし、後日それが大悟でなかったことに自ら気が付いて修行をやり直し、42才で本当の大悟をしたのです。
白隠禅師の22才の時の大悟も24才の時の大悟も変性意識の体験だったのです。
その区別は本人も正受老人や師家も見分けることができないぐらいのものですから、現代の師家が間違っても致し方ないのです。
変性意識(意識の変容状態)は現代に於いて心理学が進歩して明らかになった異常心理状態です。現代に於いてはしっかりと研究されて詳細が解明されつつあります。
禅門に於いては変性意識か身心脱落かの区別は、修行に於いて非思量の相続(正念相続・一念不生)を修めていたかどうかで区別するのです。
非思量の相続に於ける身心脱落の体験は間違いなく身心脱落です。
思量・非思量に拘らずの体験は変性意識の異常心理体験と受け取るべきです。偶然の体験です。
非思量の相続に於ける身心脱落は必然の体験です。
正しく身心脱落していれば非思量の状態が分からないはずはなく、非思量の相続をしていて無分別の分別の様子が分からないはずはないのです。
井上義衍老師の非思量の説明を見てみますと、非思量と無分別の分別の何れも明白ではなく混同してしまっていますので、正しく身心脱落していると認めることはできません。
義衍老師の述べている非思量の見解は老師独自のもので、祖師方や道元禅師の説かれているものとは本質で異なっているのです。
非思量というのは、それほど特別な状態ではないのです。
誰にでもある状態ですから筋道を立てて具体的に説明すれば、自らの心の中にある非思量に気付くものです。
生まれてから幼な児が言葉を覚え、話し、思うようになるまでは、誰もが非思量で生活していたのです。
大人になるまでに幼な児の頃の非思量の状態を全く失ってしまったという人は、それ程多くないと思います。
非思量の状態を失っていない人が大半のはずです。
非思量の状態は誰にでもある一般的なものです。
決して特別な心理状態ではなく、宗教的素質がなくても分かる普通のことです。
ですから、祖師方や曹洞宗開祖道元禅師は、坐禅の要となる坐禅の調心の方法として、特別な詳細な説明もなく「非思量」或いは「一念不生」とだけ述べたのです。
鎌倉時代の当時は、誰もがその一言で理解できることでしたから、事細かに説明されていないのです。
誰にとっても日常的なことですので非思量(一念不生)とだけ述べて、坐禅の要となる調心の方法を示したのです。
現代は意識・思考の煮詰まった状態です。
その中にあって、禅の修行者である私達はあまり深く考えすぎることなく、字義通りに素直に受け取るべきです。
非思量状態が日常生活の中に全く無くなってしまった意識と思考の煮詰まった状態の禅者は深読みする傾向が強いのです。
特に禅僧の中でも師家を目指すような人は禅の専門家としてのプライドが高い為、宗教的に深遠に理解しようとするのです。より難しく解釈してしまうのです。
理知の優れた人なのだと思います。理知が過剰なのかもしれませんが・・・。
開祖道元禅師が坐禅の要術として説かれているぐらいですから、非思量を誰もが知っている字義通りに受け取るようなものではないであろうと深読みをしてしまうのです。
実際のところ、非思量は大人にとってたわいないことです。
何も思わない、何も考えないという内容ですから、そんなことで修行になるのですかと問い返されるぐらいのことでしかないのです。
非思量というのは一般的な易しい言葉で言いますと、思わない、考えない、想像しない状態ということになります。
厳しい修行の中でも特に厳しい修行をすることで有名な禅宗の修行として、何も思わず、何も考えないことと紹介すると、在家の人に馬鹿にされそうなことです。
非思量の状態を知ることは容易なことですが、これを修行として行うことは極めて難しいことなのです。
非思量の状態を5分、10分と維持することを試しに行ってみれば、それが如何に難しいことであるかが分かると思います。苦痛でしかないのです。
非思量の修行は精神的難行苦行です。
日常生活で自然にやってしまうようなことではありません。自然にやってしまうことではないので非思量は宗教上の修行となるのです。
宗教的天才でない限り、偶然にやってしまうということはあり得ないことです。
思量のない世界には非思量はありません。
非思量というからには思量の存在が前提です。
非思量という言葉は単独に用いることができない用語です。非思量という言葉は思量を前提とした概念であることを理解しなくてはなりません。
いくら鎌倉時代以来の伝統的な修行をする師家・禅僧と雖も、このぐらいの理論的思考は持つべきです。
思量と五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)の関係は同時にその生滅が重なったり、どちらか一方が優位になったりすることがあります。
五感と無分別の分別は常に思量を越えているのです。
このことに気付いている人は非思量の相続ができている人です。
非思量の相続ができている禅者は、五感と無分別の分別が思量より常にも優位にあることを知っているのです。
“井上義衍老師は500年傑出の禅僧である”と井上一門から盛んに宣伝されて久しいのです。
曹洞宗全般に於いて、そのように言われているわけではありません。そのような評価があるわけでもありません。
義衍老師は大悟していると自ら述べているのですが、それにしては昭和48年、老師80才の老境に於いて、曹洞宗一般僧侶の最高位の赤紫恩衣の特許を受けているのです。
地位・名声の象徴にもなりうることは後進の為にも断るべきです。誤解を受けるからです。
江戸末期の越後在住の曹洞宗禅僧 良寛禅師は一生涯“墨染の法衣”で終えたのです。
僧侶として在籍できる必要最小限の僧位(僧侶資格)で一生涯を通したのです。
欲しいのに無理したわけではありません。名利がないのでそれで充分だったのです。
名利を嫌い、名聞利養と距離を置いた禅僧らしい生涯を送った方です。
名利を離れるべきである私達禅僧にとって見習うべき当然の在り方です。
井上義衍老師の赤紫恩衣の特許受諾の件は信じられないことかもしれませんが、義衍老師が赤紫恩衣を身に着けて、菊の御紋のお袈裟を掛け、床の間を背にした記念写真が、義衍老師提唱の「牛頭法融禅師心銘」の書籍の見開きに載っておりますのでご覧になったら宜しいです。
昔から言われていることですが、その老師・師家・禅僧・道人が本当に身心脱落(大悟徹底)しているかどうかを調べるのには、点検の為の公案は要りません。その者の実際の行履に於いて、地位・名声の外側に居るか、内側に居るかで判断すれば間違いはないと言われているのです。
地位・名声の外側に居るか、内側に居るかを判断するには、身に着ける衣とお袈裟を見ればよいのです。
地位・名声を求める老師に身心脱落(大悟徹底)した方はいないのです。
行履というのは、禅僧の日常の行為、或いは行なってきたこと。
日常の行住坐臥、または足跡のことです。
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2021.5.5
私はこのHPにて修行について述べてきた中で、近代・現代に於いては身心脱落をした正師は一人も居ないと言ってきました。
「正師」ということについては、永平寺開祖道元禅師が35才前後に書かれた「学道用心集」という書物の中に出てきます。
「永平初祖学道用心集」は佛道修行に於いての心構えを書いた書籍です。
その中で「参禅(禅の修行)は正師を求むべき事」と「正師」という言葉が出てくるのです。
「正師は正師から印可証明を受けた師」ということと述べられております。
正師は絶えて久しいのです。
印可証明を受けていることをもって正師と見なすということになっておりますが、印可証明を持っているだけでは正師とすることはできません。
実際、歴史上、室町時代に印可証明の売買が僧俗含めて行われていました。
また、白隠禅師は24才の時に正受老人の印可証明を受けて下山し、駿河の自坊(松蔭寺)に戻ってきましたが、ノイローゼとなり心身を壊して、その治療に何年もかかったのです。印可証明が間違っていたのです。
正しく普遍的な大悟徹底をしたわけではなく、公案禅に於ける限定された大悟でしたから、まだ阿頼耶識が残っていたのです。
禅理(法理)が明らかなのに阿頼耶識との狭間で、その軋轢の為に心身を壊しノイローゼとなり苦しんだのです。
それを白幽子という仙人に教えてもらった軟蘇の法で自己治療しつつ、公案の修行を正念に切り換えて10数年かかって独修し、42才で正しく大悟徹底したのです。
この42才の大悟徹底を証明した正師は居ないのです。
正念の相続(非思量の相続)は待悟禅ではありませんので、自分の身心脱落(大悟徹底)は無分別の分別心によって正しく自覚ができるのです。
これが無分別の分別心ではなく認識で自覚した場合の身心脱落(大悟徹底)であったならば、それは身心脱落(大悟徹底)ではなく、心理学で変性意識といわれる坐禅修行中に於ける特別な異常心理体験です。
浜松の井上義衍老師は自らの悟りを認識によって自覚したと言っていますから、これは佛祖の正しい悟りではなく典型的な変性意識に於ける異常心理体験です。
井上義衍老師のもとで悟ったとしている新潟長岡の故川上雪担老師も、その悟りの時の様子を自ら述べておりますが、その様子も典型的な変性意識に於ける異常心理体験です。
川上雪担老師は当然、井上義衍老師の印可を受けているはずです。
お二人とも、非思量の相続を修していないのです。
異常心理体験とは例えば、一時的な記憶喪失状態の体験とか、必要時に何の為にそこに居るのか何をすべきなのかを一切忘れ、自分のことも忘れて暫らくの時間ただ意識だけがある状態を体験することとか等々、様々な状態があります。
印可証明を受けていることだけで正師とすることは間違いです。
白隠禅師の42才に於ける大悟徹底や盤珪禅師の大悟の例を見るように、正師の印可を受けたくても正師が存在していない場合も歴史上、多いのです。
正師が居なくても型通り伝統的儀式として、正師でない正師の印可を受け継いできたのが実状です。
それは責められるべきことではなく、致し方のない苦肉の策です。
宗教は心を目に見える形・儀式で表し連綿と受け継いでいくものだからです。中味がなくても器を受け継いでいくのです。
その内、宗教的に優れた誰かが、その器に中味を注ぎ込むのです。
その時が必ず来ると信じて、型通りに幾世代にわたって何十年も何百年も器だけでも受け継いでいくことが大切なのです。
正師というのは、印可証明を受けている・いないに拘らず、公認の師家の資格がある・ないに拘らず、曹洞宗開祖道元禅師が普勧坐禅儀の中で説いている坐禅の要術である「非思量の相続」を愚の如く、魯の如く実践し、身心脱落に至った禅僧のことです。
非思量に於いて愚の如く、魯の如く、ただよく相続する坐禅を只管打坐と言うのです。
非思量の状態を保ちつつ(相続)只管に打坐するのです。
非思量の相続をしない只管打坐は私から見ると、時間の浪費で身心脱落にとっては何にもならない形だけの坐禅です。
現代の曹洞宗の師家方の坐禅は非思量のない只管打坐であり正身端坐です。坐禅レス禅ならぬ非思量レス坐禅です。
良いか悪いかは別として、それでも連綿と伝灯は受け継いでいるのです。
曹洞禅は正しくは、非思量の状態を体得して、それを相続することです。
非思量の状態を体得して、それを只管打坐に於いて相続するのです。
そして、自然に、必然的に、身心脱落の体験に至るのです。
このように修行し悟りに至った曹洞禅の禅僧を「正師」というのです。
悟りに至っていなくても正法眼蔵95巻を研究すれば、法理を説くことは難しいことではありません。
学僧として法を説くことは可能なのですが、“法の人となる”ことは難しいことです。
“法の人となる”ということは一挙手一投足が法そのものであり、法を言葉で説く必要のない人のことです。
非思量の相続は曹洞禅で説かれていることであって、このことを臨済禅では正念の相続と言っています。
盤珪禅師(臨済系)はここの処を不生禅(一念不生)と言っているのです。
修行として行っていることは、言葉は異なっていますが、皆同じことを言っているのです。
但し、公案禅はこの中には入りません。
公案禅で悟った師家は正師とは言わないのです。
待悟禅の師家も正師とは言わないのです。
只管打坐に於いて身心脱落した師家が正師です。
正念の相続・一念不生も只管打坐でなければ大悟徹底に至ることはありません。
それは修行者の意図でもなく、修行者の意志でもなく、身心が自然に脱落をするのです。
曹洞禅に於いて正統的正師というのは、非思量の相続の実修と、只管打坐に於ける身心脱落の実証を伴った修行経験のある師家(曹洞宗公認の資格を持っている・いないに拘らず)のことを指すのです。
公案禅を拈提・工夫していっても、自然に正念の相続を修めることができるようにはなりません。
正念の相続は公案を離れて、しっかりと切り替えなければならないのです。この切り替えが難しいのです。
正念の相続は最初のところに胸突き八丁があります。ここの処を乗り越えるのが非常に難しいのです。
公案を拈提し工夫して、思量を用い尽くす癖がついているのですから、この癖を離れることが大変なのです。
それに併せて、正念(非思量)の相続につきものの最初の胸突き八丁の難行苦行を成し遂げられるかが問題です。
公案禅限定で大悟した禅僧のほとんどの方は、公案の工夫から正念の相続への切り替えの処で挫折します。正念の相続に進んでいけないのです。
最初の胸突き八丁を乗り越えれば、後は忍耐力を伴う持久力の必要な平坦な道だけです。程々の忍耐力の維持が常に求められるのです。
景色の変化はありませんので、孤独感と退屈心が敵となります。
念の起こらない精神状態で黙々と寂静に只管打坐するならば、佛性が明らかになります。
戦前から戦後にかけて、一部で活躍していた臨済禅(公案禅)出身の飯田とう隠老師を曹洞宗の正師であると宣伝する曹洞宗の一部の師家や僧侶が時々おられます。
飯田とう隠老師は、曹洞宗公認の師家であります原田祖岳老師の弟子として出家し、原田祖岳老師の印可証明を受けて師家として活躍した禅僧です。
ただ、飯田とう隠老師は公案禅のみの禅修行を積んで、公案禅限定の大悟をした方です。臨済宗の印可証明を受けているのです。
このような経歴の方は曹洞禅の師家にはふさわしくありません。
飯田とう隠老師の大悟は公案禅限定の大悟なのです。
白隠禅師の述べておられます「大悟小悟、数を知らず」という中の大悟ですから、禅門の普遍的な歴史に残る大悟ではないのです。
佛祖伝来の本当の大悟ではないということです。
飯田とう隠老師がよく用いている言葉の「山上山有り」の大悟です。
つまり、「大悟上に更なる大悟有り」の大悟です。
公案禅の大悟は道元禅師の説く身心脱落ではありません。
このことは非思量の相続を修していくと分かって参ります。
曹洞禅には「脱落上に脱落有り」ということはないのです。
公案1500則を一挙に天才的に通ったところで、禅理(法理)は知識的に揺るぎない程に明らかになっていることでしょうが、それだけでは曹洞禅に於いては正師として認めることはできないのです。
飯田とう隠老師がよく言うところの、「□地一下(□の中に“力”が入る字です)の体験があり、手の舞い足の踏む処も知らぬぐらいの歓喜があった」ところで、それだけで曹洞禅に於いては正師と認めることはできないのです。
公案禅に於いては、公案1500則の通過と、□地一下(□の中に“力”が入る字です)の体験があり、手の舞い足の踏む処を知らずという体験があれば、大悟と認められ師家より印可証明が授与されます。
曹洞禅に於いては、それだけでは正師としては認められないのです。
この段階では十牛の図の第三の見牛です。
正念の状態を見たところです。正念の状態は本来の自己ではありません。
第四の得牛、第五の牧牛、第六の騎牛帰家、第七の忘牛存人、と正念の相続を進めていかなくてはなりません。
正念の相続を進めて、やっと「人牛倶忘」至って大悟徹底なのです。
「人牛倶忘」は曹洞禅の身心脱落に相当するところです。
ここで初めて、曹洞禅に於いては正師と言える心境なのです。
ここで正しく印可証明がなされるのです。
公案禅に於ける印可証明は仮のものです。
明治以降、近代・現代にわたって、十牛の図の第八の「人牛倶忘」の段階に至った正師家は、私の知っている限りでは一人も居りません。
曹洞禅のごく一部で500年来傑出の正師と宣伝されています飯田とう隠老師は、正念の相続を実際には修しておらず公案禅だけです。
これでは500年来傑出の正師となることはできません。正念の相続を修せずに正しく大悟徹底することはないからです。
飯田とう隠老師が正念の相続をしていないことは彼の書籍のその個所を見てみますと明らかです。
正念の相続を実際に修していない師家特有の言い回しをしているのです。
法理が明らかなることをもって身心脱落しているとすることは間違いです。
飯田とう隠老師のように法理の知識が豊富であると、誰もが飯田とう隠老師は悟っていると思ってしまうのは無理のないことです。
法理(禅理)は学ぶことができるものであることを知っている師家はそう多くはいないのです。
法理は1500則の公案の工夫をしながら、祖師方の法語・語録を20年30年かけてしっかりと勉強すれば明らかになります。
正念相続の実参・実究の工夫となりますと、その工夫については法語・語録には書かれていませんので、工夫を理として学ぶことはできないのです。
正念相続の工夫は法理(禅理)には入りませんので法語や祖録には説き示されていません。自分で実際に修してみるしかないのです。
人は十人十色です。工夫の仕方もその人の因縁によって十人十色ですから、これでよいという一つの模範的な工夫の仕方を提示することはできません。
「非思量」、或いは「一念不生」「正念」は坐禅の要術ですが、これらは坐禅の要術であって、工夫の仕方ではないのです。
正念を知っただけでは相続はできません。
正念(非思量)をどのように工夫すれば相続できるかということが大問題なのです。
これらの詳しい工夫は法理(禅理)ではありませんので何処にも祖師方は記していないのです。
一つ一つ自分で模索しながら工夫してみるしかないのです。
飯田とう隠老師の正念相続や非思量の相続の説明は、実際の工夫を通しての説明ではありません。理だけです。
実際の工夫の経験がないことは言葉一つ一つから明らかです。
実際の工夫を通しての工夫上の一言が何処にもないのです。
飯田とう隠老師や原田雪渓老師の著わした書物の中には、何処にも自らの体験に基づいた工夫についての一言がありません。残念です。
彼等の書籍からは実際の修行はできません。
私は元来、探求心が強く、禅の修行に於いても“なぜそうするか”について探求してしまいます。
例えば、坐禅中、なぜ半眼にするのか?
半眼にしなければ本当に坐禅ができないのか。
眼を閉じていてはいけないのか
全眼にしてはいけないのか。
実際に、様々にやってみるのです。
時間はかかりますが、やってみますと必ず結論が出ます。
答えとして、
私には半眼は向きません。眠くなってしまうのです。
目を閉じたら即! 完全に眠ってしまいます。
いつ寝入ったか私自身は気付かないのです。これでは修行になりません。
全眼では周囲の色々な事物が目に入り気が散ると説明している師家が多いのですが、私はそのようなことはありません。
例えば、部屋はほんのり暗くしなければならないのか?
ほんのり暗くするのは、明るいと気が散り易くなるということと心を落ち着かせる為とありますが、明るいと気が散るということは私にはありません。それよりも薄暗い方が眠くなって困ってしまいます。
眠気と闘う方が辛いので、薄暗くするより明るくして坐り、非思量を工夫する方がやり易いのです。
要は、覚醒した状態で非思量の状態を維持することが大切なのです。
普勧坐禅儀の言葉の一つ一つには、なぜそのように説いているのかの理由があります。
理由が分かっていれば、型通り、説かれた通り、示された通りにやる必要は必ずしもないのです。
理由から逸脱しない範囲でやり方を変えてもよいことが分かるのですから修行の自由度が広がります。
理由を考えない師家は、「黙ってやれ」と言います。
なぜそうするかの理由を知らない師家は、「言われた通り、説かれた通りにやりなさい」と言います。
師家は、なぜそのようにするかの理由を修行者に説いて聞かせるべきと思います。
なぜそうするかの理由が分かっていれば、その理由を侵さない範囲で自分に向いたやり易い方法に変えることができるからです。当然のことなのです。
人は皆同じではないからです。生きている人間は必ずしも合理的ではないのです。
禅は神秘主義の宗教ではありません。
神佛が坐禅の姿勢に降臨するようなことはありません。
只管打坐の二等辺三角形の姿勢をピラミッドパワーの依り代とするような修行観はないのです。
なぜそのようにするかについて理由があるのが禅です。
全知全能の神のような佛陀が説かれ示されたということで、そのようにする訳ではありません。
そもそも佛陀が実際にどのように調心について説き示されていたかの記録が残っていませんので、誰にも分からないことです。
中国の初祖円覚大師菩提達磨大和尚に始まって歴代の祖師方の調心について示された言葉に従って私達は禅の修行をしているのです。
それらには皆、理由があるのです。
禅の修行の一つ一つの理由を明らかに知れば、修行を間違って何十年もやるという過ちを犯すこともないのです。
また、師家も誤った指導をすることもなくなるのです。
また、未熟な師家に誤った指導をされることもなくなるのです。
師家の理由の説明が学問的に理に適っているかどうか、以前の他のことについての修行の説明との整合性があるか否か等々によって、禅の修行の説明・指導が正しいかどうかの判断をある程度することができるのです。
先にも書きましたが、元来、私はなぜそのようにするかについて理由を知りたい性格です。禅の修行を始めても、その性格は同じです。
しかし、なぜそうなのか、なぜそうするのかについて理由を明らかにする師家は一人もおりませんでした。
今思うと、彼等はなぜそうするかの理由を知らなかったのです。
理由を知らない為に彼等は似て非なる修行を、自分の思い込みで正しく修しているつもりで何十年と修行しているのです。
結局は正しく身心脱落ができずに平凡な禅僧として悔いの残る生涯を終えるのです。
以上のような状態が禅門の修行の実状です。
修行者の誰もが同じ轍を踏まないように、私は曹洞禅の修行の工夫について、事細かに詳しく説明をしているのです。
明治から戦後にかけて正師が一人も居ない為、尚更、詳しく説かざるを得ないのです。
正師でもない正師に騙されて、私のように20年30年と年月を無駄にしてしまうことは悲劇だからです。
失敗しても何事も無駄になることは無いと言う人がおりますが、禅の修行は一生涯を掛けてやるものですから、時間と命を徒に費やしてしまうのです。いつまでも生きていられるわけではありません。
寿命の長短に拘らず、一生涯は一人に一回しかありません。
二回目の一生涯を掛ける修行はできないのです。
ですから、禅の修行に於いては、間違った修行をさせることは許されないのです。
間違った修行の指導をすることは師家には許されないことです。
師家は修行者の一生涯に対して全面的な責任があるのです。
今日、この自覚を持った行解相応の正師はいません。
名利を離れられない高名な師家に間違った指導をされて、結局はやり直しができないまま寂しい生涯を迎えてしまう修行者が多勢いるのです。
身心脱落できなかった修行者本人は、自分の努力が足りない、或いは宗教的才能が全く無いと自分を責めているのですが、実際は、正師が正師でなかった為に修行が成就しなかったのです。
修行者が身心脱落できなかったのは、その師家は印可を持っているかもしれませんが正師でなかったからです。
修行者の努力・忍耐・工夫が足りなかったから身心脱落できなかった訳ではありません。
師家は自らが身心脱落をしていないことを隠して禅の修行の指導をしているのです。
非思量の相続・正念の相続の修行経験が全く無いにも拘らず、恰もあるかのように説きはぐらかしているのです。
飯田とう隠老師は公案の工夫は得意と見えて何十年もかけてやっただけのことはあり、法理は明らかで法理の知識も豊富です。
しかし、法理は理として明らかなようですが、とう隠老師の著わした書籍を見てみますと、臨済禅に於ける正念の相続も、曹洞禅に於ける非思量の相続も、一念不生も、全くの手付かずなのがよく分かります。
つまり、臨済・曹洞の両禅門の修行をしたことになっておりますが、正念も非思量も、それを離れて一念不生も工夫した経験がないのです。
公案だけはしっかりとやり印可まで受けていますので法理は明らかです。
しかし、法理は明らかでも、正念の相続の工夫や非思量の相続の工夫は法理の中には出てきませんから、その説明・解説は法理に頼った理屈になってしまいます。
理としては合ってはいますが、実際の工夫としては全く推測した説明しかできていないのです。
この軋轢に苦しみ、この軋轢から逃れようと酒で身体を壊してしまいました。
白隠禅師のように公案禅を捨てて正念相続の修行を修められなかったのです。
公案を1500則すべてを通ったところで、実際に修していない正念の相続の説明ができないのです。
曹洞禅の師家の資格を取りましたが、公案禅で限定的に大悟しただけですから、非思量の説明が当を得ないのです。
理屈になってしまって非思量の工夫の資けにならないのです。
禅理明らかな頭に頼った理屈ですから、実際となるとどうしても修行の要術の工夫の部分が不明瞭にならざるを得ません。
公案禅に於ける待悟(悟りを期待する)禅は待悟の気持ちがある内は只管打坐にならないのです。
待悟の心を離れなくてはならないのです。
待悟の気持ちがあるが故に、□地一下(□の中には“力”が入る字です)に手の舞い足の踏む処を知らぬぐらい歓喜の気持ちが動くのです。
曹洞禅の非思量の相続には待悟の気持ちは一切動きませんので、身心脱落した処で手の舞い足の踏む処を知らずという歓喜は生じません。
非思量の相続に於いて、身心脱落は当たり前の様子だからです。
待ちに待ったもの(悟り)がきたわけではないからです。
非思量の工夫に於いては、身心脱落するより以前に待悟の気持ちは既に消滅してしまっているからです。
只管打坐ですので当然のことです。
只管打坐に於ける身心脱落ですので当然のことなのです。
ここのところは公案禅しか修していない師家には分からないことです。
公案禅に於いては、1500則の公案がすべて済んでしまうか、或いは十牛の図の第三の見牛の心境に至ってから、正念の相続の工夫に入っていくのが臨済禅の正しい修行の道程です。
曹洞禅は最初から非思量の相続の工夫から入ります。
曹洞禅に於いては公案は一切不要であると同時に、公案の拈提(提揶)は思量の世界の事ですから余計なことです。
曹洞禅にとって公案の拈提(提揶)は一つの思量ですから雑念です。
「是非善悪を思わず」ということと真逆のことをしていることになります。
公案の工夫は正念相続に進むための準備的・予習的修行です。
公案禅に於いては、初心者にいきなり公案を与えることはなく、先ず、修行の準備段階として数息観や随息観をやらせるのです。
そして、それらに慣れたところで公案を与え、公案の拈提・工夫をさせるのです。
公案禅に於いては見性すれば正念の様子が手に入るので、ここから公案を離れて正念の相続に修行を移していくのです。
正念の相続に於いて大悟徹底して初めて臨済禅の正師と言えるのです。
正念相続の正念は非思量のことであり、一念不生のことです。呼び方は違いますがその内容は同じです。
正念が分かれば非思量も一念不生もよく分かるのです。
それが分かれば、飯田とう隠老師や原田雪渓老師のように非思量という坐禅の具体的要術を法理(禅理)をもって論理的・哲学的に説明するようなことはしないものです。
正念(非思量)の実際の具体的工夫の仕方の経験がなく分からない為に、法理でもって説明したことにして、その場をやり過ごすようなことをするのです。
更に、原田雪渓老師は自著で、禅の修行に於いて曹洞禅の坐禅の要術を「非思量」とは言わずに「三昧」という言葉で説明しているのですが、その三昧ということがとても曖昧です。
何をどのようにすれば、曹洞禅の非思量になるのかが、三昧との関係ではっきりしません。
工夫三昧ということも言っていますが、その内容がはっきりとしていません。
曹洞禅の修行は三昧に入る必要はありません。ただ、非思量でありさえすればよいのです。
三昧という余計なものはいらないのです。
一念不生でありさえすればよいのです。
三昧という余計なものを非思量の相続に持ち込む必要はないのです。
曹洞宗開祖道元禅師は「非思量」とだけ、ここまで坐禅の要術を単純・簡明化しているのですから、ここに何の言葉を付け加える必要があるのでしょうか・・・。
原田雪渓老師の「工夫三昧をおつとめいただきたい」の意味がまるで分かりません。
ここは曹洞宗公認の師家として、工夫三昧ではなく、「非思量の相続をおつとめいただきたい」と述べるべきところです。
私も修行未熟な頃、原田雪渓老師の著書を幾つか読んでおりますが、その中で具体的に非思量の相続に言及しているものがありません。
雪渓老師は師家として、非思量の修行の方法について具体的に体験的に説明をすべきなのですが、それは一切せずに法理的説明にすり替えてしまっているのです。
非思量の相続の経験が原田雪渓老師にはないことは明らかです。
雪渓老師は曹洞宗師家として非思量の相続を勧めるべきところを三昧に入るようにと勧めているのです。
三昧に入ったところで、それが身心脱落に至るという保証はありません。三昧という状態は禅に限った修行ではないのです。
佛教各宗派の修行に用いられる修行上の精神状態です。
ただ、意識の変性は生じ易いということは言えると思います。
しかし、意識の変性は身心脱落とは似て非なる全く異なる異常心理体験ですから注意が必要です。
実際、多くの師家や修行者は変性意識体験を身心脱落と間違って受け取ってしまうことが多いのです。
悟りを期待して坐禅修行をする人はこのような間違いを犯しやすくなります。
一日も早い悟りの誘惑に抗いきれないのです。名利の欲心に引きずられてしまうのです。
ちょとした心の変化・気分の変化に気付くことに修行の焦点を絞って、その気付きをを重要視して、その気付きをもっても皆、悟りにつなげてしまうのです。
非思量の相続の修行にはこのような間違いはありません。
自己の有る無しが身心脱落の境目であることを知っているからです。
そして、自己の有る無しを見分けるのは、認識ではなく無分別の分別心であることも知っていますので身心脱落を見間違えることはあり得ないのです。
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2021.6.4
「正師の証明なき(者の説く)佛法は天然外道である。
釈尊以来の相承の正師ありて、
証明印可(が連綿となされてきたことに)によりて、
この大法(佛法)が断絶せぬのです。
印可証明なき宗教(佛教)は宗教の価値はない。
危険なるものなりと断定するに憚らざるものである。」と
飯田とう隠老師は正師の印可証明の重要性を説いておられます。
印可証明のない各佛教宗派は宗教の価値が無いとの主張です。
印可証明は密教や禅門特有のもので佛教各宗派には元々ありません。
「印可証明なき宗教は宗教の価値がない。」というのは、独善的傾向がみられ宗教者として問題があるように思われます。
飯田とう隠老師、御本人は正師より印可証明を授与されているということですから、悟りを開かれているということです。
印可証明を受けて正しく悟りを開いていると認められている正師としての師家が、「正師の証明なき佛法は天然外道である。」とか、「印可証明なき宗教は宗教の価値がない。」などということを言うものでしょうか。
そのようなことを説いている歴史上の禅の高僧を私は知りません。
このような手前味噌的な発言を疑問に思うと同時に、飯田とう隠老師の印可証明は釈尊以来の相承の正師より授与されたものかどうかも疑わしいと感じます。
飯田とう隠老師は24才で禅の修行を佛通寺の香川寛量老師の許で始め、その年の12月8日には悟りを開いて、即、同師の印可を受けています。
その当時、飯田とう隠老師は出家していませんから、在家弟子として印可証明を受けているということです。
それから、27才で牛込の道林寺を訪ね、中川ケ州老師(南天棒)の在家弟子となりました。
そして、36才で中川ケ州老師(南天棒)の印可証明を受けたのです。
さらに、60才で曹洞宗小浜の発心寺の原田祖岳老師の許で出家し、弟子となりました。
翌年には師家の資格のないまま後堂職を勤め、65才で曹洞宗師家が認可されたのです。
師家の申請は数年前に出していたのですが、なかなか認可されませんでした。
出家してから間もないので当然のことと思われます。法齢(出家年令のこと)が3〜4年の時ですから。
師家の申請を出すに当たって、原田祖岳老師の印可証明を受け、嗣法をしています。
飯田とう隠老師の師僧は原田祖岳老師であり、正師は原田祖岳老師です。
飯田とう隠老師の年譜を見ますと、3人の正師より3回も印可証明を受けているのです。
印可証明は原則として大悟徹底と認められる時に正師である師家から授与されるものですから、飯田とう隠老師は3回も大悟徹底したということになります。
2回は臨済宗の正師から、3回目は曹洞宗の原田祖岳老師からの印可証明です。
出家してからの印可証明は原田祖岳老師からのものですから、飯田とう隠老師の正式な正師は原田祖岳老師ということになります。
だからといって在家弟子に対する臨済宗師家の印可証明が曖昧な不確かなものかというと、そのようなことはありません。
それはそれで禅門に於いては伝統的に正式なものであることに間違いはありません。
しかし、近代・現代の師家は安易に印可証明を出しているようです。乱発気味ですから、印可証明の信用や権威は低下の一方です。
禅門に於いて、正しい大悟(身心脱落)は1回限りのものです。大悟(身心脱落)を2回も3回もすることはありません。
佛祖正伝の大悟(身心脱落)は1回で充分です。
当然、正師は1人だけであり、その印可証明も正師から1回限り受けるものです。
印可証明を幾人かの師家(正師)から重ねて受けるということはしないものです。
自らの大悟(身心脱落)を個人的というよりも社会的評価を確かなものとする為に、幾人かの高名な師家(正師)から印可証明を受けるような禅僧もありますが、それはあまり誉められたものではありません。
それは、禅門に於いて最も忌み嫌うべき名利の証しとなるからです。
何人かの高位・高名な師家から印可証明を受けて、それを社会に公けにするという行為は、いわゆる箔を付けることですから、禅門に籍を置く者としては行うべきことではありません。
印可証明は室町時代、堺の商人達の間で高額で売買されたという記録が残っています。
彼らは一流の商人としての箔を付ける為に高額な寄進をして、名刹の高僧から印可証明を頂いていたのです。
印可証明を幾人かの高名な師家から頂こうとすることは慎まなくてはなりません。その行為は名利だからです。
弟子や門弟の者にも、一般社会に印可証明のことを公けにすることのないように厳に戒めておかなくてはならないことです。
正しい印可証明は一度きりのものです。
また、それは師家と修行者との間で秘密裡に授受されるもので、基本的には存命中は公表すべきものではないのです。
臨済禅に於ける正当な印可証明は、原則的には、公案1500則すべて、或いは規定の公案すべてが通ったということで授受されるものではなく、公案がすべて終了していなくとも大悟徹底したら授受されるものです。
ここの処を間違えて認識している公案禅修行者が多いのです。
基本的に臨済禅に於いては公案だけで大悟徹底することはありませんから当然のことです。
公案が了ってからの正念の相続の修行によって大悟徹底するのです。
公案禅は“公案の拈提”と“正念の相続”によって大悟徹底するのです。
ここの処をしっかりと自覚しなくてはなりません。
曹洞禅に於いては非思量の相続をするのですが、ここでは自己の有る無しが重要なのです。
自己の有る無しは、師家が判断するのではなく修行者本人が判断するのです。
非思量の修行に於いて、正しく非思量の修行がなされていれば、自己の有る無しの判断を誤ることはありません。
但し、ここに名利の心があると判断を誤ります。実際は名利の為に判断を誤っている場合が多いのです。
曹洞禅の印可証明は、既に身心脱落されている正師から授与されるものではありますが、その授与は、修行者自らが自己が全く消滅したと自覚した時に、それを正師に自己申告することでなされるものです。
それは同時に、身心脱落したと自己申告した修行者が、その正師が確かに身心脱落していることを逆に点検することでもあるのです。
禅門は師弟相互に証明し合うのです。
このことで釈尊以来、佛法は嫡嫡相承が保証されているのです。
飯田とう隠老師は36才の時に中川ケ州老師(南天棒)の許で大事了畢し、印可証明を授けられています。
ところが何年かして、飯田とう隠老師は、中川ケ州老師(南天棒)は無眼子(大悟していない人)だと判断し、見限り、縁を切ったのです。
飯田とう隠老師は自ら大悟の体験をし、□地一下(□の中に“力”が入る字です)があり、手の舞い足の踏む処を知らずというぐらいの大歓喜があったからこそ、自ら間違いなく大悟したと納得して、中川ケ州老師(南天棒)の印可を受けたはずです。
中川ケ州老師自身も飯田とう隠老師の心境を点検して大悟と認めたのです。
飯田とう隠老師が、その中川ケ州老師を無眼子と言ったことは、飯田とう隠老師自身が大悟していないことに気付いたからというのであれば、それは正しい判断ということになり問題のないことです。
飯田とう隠老師はそこから修行をやり直せばよいことです。
白隠禅師も24才の時の正受老人の許での大悟は間違いであったことに、駿河の自坊に戻って暫くしてから気が付いているのです。
師弟両方共に大悟していなかったことが、このことによって明らかになります。
印可証明の授受というのはそういうことです。
大悟の判断の間違いの責任は師の正受老人だけにあるのではなく、門弟の白隠禅師にもあるのです。
白隠禅師が真に大悟していたのであれば正受老人の力量(大悟しているか・いないか)を見誤ることはないのです。
飯田とう隠老師は中川ケ州老師を大悟している正師であると自ら証明したからこそ、中川ケ州老師の印可証明を受けたのです。
中川ケ州老師に正師として一方的に責任があるのではなく、飯田とう隠老師にも印可に於いては正師としての責任があるのです。
印可証明の授受は正師から正師への授与です。正師から未達の者への授与ではありません。
中川ケ州老師を無眼子(大悟していない人)と見限るというのは、正師としての正師への責任転嫁でよろしいことではありません。
中川ケ州老師の印可証明を受けたことの自らの修行未熟を恥ずべきです。
中川ケ州老師を正師と見立てた自分の無眼子を恥じ、このことを教訓として自らの正修行に生かすべきです。それが修行者として大切なことです。
飯田とう隠老師は、白隠禅師の24才の時の正受老人の許での印可授受と同じ轍を踏んでいるのです。老師に於いてはその教訓は生かされませんでした。
師家は、公案禅に於ける特別な異常心理体験すべてを見性・大見性・大悟と認定してしまいます。
しかし、公案禅に於ける特別な異常心理体験と非常によく似た体験が、一般の社会人の中にも時々あるのです。
これは変性意識とか意識の変容状態と言われていますが、決して珍しい特別のものではなく、職業によってはよくあることです。
公案禅に於ける見性や大見性や大悟とされる特別な異常心理体験と、一般人に於ける変性意識(意識の変容状態)とされる特別な異常心理体験は非常によく似ていて、その区別は難しいものです。私は同じものだと考えております。
師家も、変性意識という見性に似た特別な異常心理というものが一般人の中にあることを知りませんから、その区別をすることができないのです。
もしかすると、それらは同じ特別な異常心理であって、体験後の師家の指導によって単なる異常心理体験として済まされてしまうか、見性・大見性・大悟体験へと導引されるかの違いがあるのかもしれません。
ここの処は今後の師家の実体験に基づいて検討すべき課題です。
幅広い学問・知識に基づく精査・研究が必要です。
大悟、或いは身心脱落の時の祖師方の心理的状況を書き留めた文章・法語・語録はないようです。
あるとすれば、一つだけ道元禅師の普勧坐禅儀の中に出てくる「身心自然に脱落して」という部分です。
この短文が正しく身心脱落の様子を示しているとすれば、言葉通りに受け取って「身心は自然に脱落する」ということになります。
つまり、身心脱落には特別のことはなく、自然に脱落してしまうという意味です。
脱落前と脱落後の心の変化が自然だということです。
公案禅の見性のような劇的な変化がないということです。
それが非思量の相続の特徴なのです。
これは、飯田とう隠老師の言うような、「大悟は□地一下(□の中に“力”が入る字です)があって未曾有の大見性という特別な心理的異常変化があり、手の舞い足の踏む処を知らぬぐらいの大歓喜がある」というのとは大違いです。
私は道元禅師の「身心自然に脱落して」を、その字義の通りに受け取ることが正しいと考えます。
白隠禅師(3回のうちの前2回)も、飯田とう隠老師も、井上義衍老師も、それぞれの大悟体験は大悟体験ではなく、変性意識体験なのです。
三人の大悟体験はよく似ています。
白隠禅師は2度とも大悟体験ではなく見性という変性意識体験です。
白隠禅師の見性体験に照らし合わせて見ますと、飯田とう隠老師の大悟体験も、井上義衍老師の大悟体験も、見性と名付けた変性意識体験とするのが妥当なところです。
道元禅師の身心脱落とはその状況を異にしますので、三禅僧共に身心脱落でないことは確かです。
禅僧の特別な異常心理体験を即、見性、或いは大悟とすることは間違いです。
また、三禅僧共、非思量(正念)の相続の修行体験がないことも共通しています。
但し、白隠禅師の42才に於ける悟りの体験は、公案の拈提を離れて、非思量の相続を修行した上での静かな特別な驚きのない体験です。
その状況は道元禅師の身心脱落によく似ております。
この時は間違いなく身心脱落(大悟)と受け取るべきです。
飯田とう隠老師は60才の時に、曹洞宗発心寺専門僧堂・堂長師家原田祖岳老師の許で出家しました。
それから間もなく、師家となるべく師家資格申請を宗務庁に出し、65才で認可されました。
原田祖岳老師を正師として印可証明を受け、師家の資格申請を出したのです。
飯田とう隠老師は釈尊以来の嫡嫡相承の正師として、原田祖岳老師を正師と認めたのです。その故に原田祖岳老師の印可証明を受けたのです。
飯田とう隠老師は嫡嫡相承の正師の印可証明を特に重視しています。
飯田とう隠老師が正師と認めている原田祖岳老師は果たして嫡嫡相承の正師と言われるほどの師家なのでしょうか。
私はいささか疑問を感じております。
近代・現代に飯田とう隠老師の言われるような嫡嫡相承の正師が存在していたかどうか疑問です。
私から見れば、近代・現代に存在しないはずの正師から印可証明を受けていると、解釈せざるを得ない論を飯田とう隠老師は展開しているのです。
飯田とう隠老師の印可証明は、正師として原田祖岳老師より出されています。
原田祖岳老師が飯田とう隠老師の言うところの嫡嫡相承の正師に当たるかを判断するのは、それ程難しいことではありません。
原田祖岳老師が曹洞宗開祖道元禅師の示された坐禅の要術である非思量をどのように解釈し説明しているかを明らかにすればよいだけです。
そのことによって、正しく身心脱落しているかどうかも明らかになるのです。
正しく身心脱落しているのに、非思量も、不思量も、一念不生も、正念相続も、正しく説明できないということはあり得ないからです。
非思量のことが正しく説明できるのであれば、その師家は正しく身心脱落しているのであり、正しく身心脱落しているのであれば、その師家はまさに正師と認められるべき師家です。
その師家は禅の歴史に残ることとなるのです。
原田祖岳老師が飯田とう隠老師の説くところの正師に当たるかどうかを判断するには、原田祖岳老師が著わした「正しい坐禅の心得」という冊子を見ればよいのです。
この冊子の中に曹洞禅の坐禅の要術である「非思量」についての記述があります。
原田祖岳老師が飯田とう隠老師の述べている嫡嫡相承の正師と言えるかどうかの適正な判断材料になります。
原田祖岳老師が非思量について説明している部分を紹介いたします。
専門語は少ないので、それ程難しいことはありません。
この説明を見れば、実際に非思量の相続を修行したかどうかが明らかに分かります。
以下、「正しい坐禅の心得」の抜粋
原田祖岳老師曰く「非思量について」
『わかる範囲で正直にいうと、
地球を座蒲団にして、宇宙を腹におさめたような、大きなドッシリとした、
そしてその中にリーンとした気分、
簡単に言えば、天地一杯になった様な気分になって、只リーンである。
右(当HPでは“上”)の気持を尚たとえて話すと
「青山元動ぜず、白雲、自から去来す」である。
山岡鉄舟居士(臨済宗三島の龍沢寺の滴水和尚について長年修行し、印可を許された剣術家・無刀流開祖)の歌に
「晴れてよし、曇りてもよし不二の山、もとの姿は変らざりけり。」というのがあるが、
これは坐禅の歌、真の「我」の歌である。
普勧坐禅儀には、これを「非思量」とある。
詳しく言えば「不思量底を思量せよ」とある。
これが坐禅の要訣であり急処である。』
以上が原田祖岳老師の曹洞禅の坐禅の要術である「非思量」の説明です。
このような説明では要領を得ず、急処をつかめるものとはなりません。
残念なことに最初から最後まで急処が外れてしまっています。
原田祖岳老師のこの非思量の説明は「…のような気分になって」「…のような気持で」という曖昧な表現で具体的な内容がありません。
イメージばかりの言葉で、そのような気持ちになっていることが非思量だと言っているのです。
非思量は思量に対する言葉で具体的なのに、直接的に説明がなされていません。
修行者とすれば、具体的に思量がどうあるのか、非思量は思量をどうすることなのかを知りたいのです。その為の工夫の仕方を知りたいのです。
原田祖岳老師自身はどのように非思量の相続を工夫してきたかを知りたいのですが、ここには何一つ書かれていないので残念なことです。
原田祖岳老師の説明は雲をつかむような説明で、非思量という修行の方向性全体がつかめません。
非思量の相続に於いて、何かのイメージ(気分)を描いて坐るということは、忘却すべき自分のイメージを描いて坐るということと同じです。
或いは、作佛を図って悟りのイメージを抱いて坐っているのと同じで、自己(我・意識)から離れることができません。
原田雪渓老師が、「意識をもって意識を磨り潰すようにする」と指南しておりますが、これと同じことです。
現実に意識をもって意識を磨り潰すことはできませんし、自己をもって自己は磨り潰せません。
これを机上で考えると、意識をもって意識を磨り潰すことができるように思えるのです。
「意識をもって意識を磨り潰す」というのはイメージです。
イメージをもって行う非思量の坐禅では、自己を離れることはできません。
非思量にはイメージの入る余地はないのです。
原田祖岳老師の言われるように「地球を座蒲団にして」と言われると、人は地球を座蒲団にしたイメージを描くのです。
「宇宙を腹におさめてたような」と言われると、宇宙を腹におさめたようなイメージを作るのです。
「大きなドッシリとした」というと大きなドッシリとした気分を作るのです。
これでは自己とイメージ・気分と二人連れの坐禅となってしまいます。
これらのイメージや気分は意識が作り出すものです。
これでは意識(自己・我)主体の坐禅となってしまうのです。
忘れ去るべき自己を作り出す意識を際立たせることとなってしいまい、自己を忘れるべき禅の修行に於いてはマイナスです。
摩訶般若婆羅密多心経の中の「無眼耳鼻舌身意」の状態へと進んでいくのが非思量の相続です。
非思量の相続を忍耐して進めていきますと、身心脱落までいかなくても「無眼耳鼻舌身」となっていきますので間違いはありません。
私達は平素、眼のイメージを抱き、聞いている耳の存在のイメージを持ち、何かの匂いを感じている鼻のイメージを描き、舌唇で物を食べ味わっているイメージを強く感じ、皮膚全体で身体(五体)の有り様を見て取っているのです。
それらは全部意識の作用(働き・機能)です。現実の存在ではなくバーチャルなのです。虚像なのです。
身心脱落するとその虚像(イメージ)はすべて落ちて無くなってしまいます。
故に、「無眼耳鼻舌身意」なのです。
身心も、意識が必要あって作り出したイメージ(虚像)ですが、非思量の状態を保ち続けていますと自己といわれるものがすべて消滅してしまうのです。それが悟りです。
意識が脱落してしまいますから、意識の機能もすべて消滅してしまいます。
意識のすべての機能が消滅してしまった人を覚者と言います。
意識の本質は利己性ですから、意識の消滅とともに利己性もすべて消滅してしまうのです。
人の心から利己性が脱落してしまいますと、心の中に残っているのは利他性だけです。
この利他性(利他心)を佛教では慈悲心といいます。
話しを原田祖岳老師に戻します。
五感の各器官のイメージ的存在からすべて離れ、遠ざかるようになっていくのが正しい非思量の修行がなされている証しです。
「宇宙を腹におさめたような大きなドッシリとした気分」というのは、意識の作り出す身(身体・五体)のイメージで、それは虚影です。
各イメージ(虚像)を描き抱いていると、常に意識を意識している有り様となり、身心は脱落に近づいていかないのです。
「無眼耳鼻舌身意」というのは、五感の機能はそのままに、五感器官のイメージ(虚影)を離れ忘れ去った様子です。
非思量の相続を修していくと、各器官の存在感が個々に消滅していきます。
“無眼耳鼻舌身”ならば、身心脱落に至らないまでも正しく非思量の相続をすれば、すぐに至ることのできる様子(心境)です。
“ああ、この様子なんだ”と納得するだけです。驚くほどのことのない様子です。
その様はすぐに当たり前の様子となり、どうのこうの言うことではないのです。
「無眼耳鼻舌身意」の「意」まで全部の存在のイメージが完全に消滅するには、身心脱落を待つしかありません。
「意」は思量(思考)のことではなく、意識(自己)そのもののことです。これが最後まで残るのです。
眼耳鼻舌身の五つの存在感は全て実体があるわけではなく、意識が必要があって作り出した虚像です。
実体のないイメージだけの実在感ですから、非思量の相続によって消滅させることができるのです。
五つの実体としての器官と、私たちがイメージしている五感の器官とは一体のものと感じているのですが、実際は、一体のものではありません。
私達がイメージし在ると思っている五感の器官は、実体のない実在感なのですが、それは感覚的には実在するのです。
実体のないというのは、物理的な実体がないという意味です。
物理的な実体がないといっても、感覚的には実在しているのです。
感覚的には実在するというのは、錯覚ではないということです。
錯覚というのは、感覚的根拠がないということです。
感覚的には実在するというのは、その為の脳神経回路の機能が実在するということです。
脳神経回路にそのように機能するニューロン(神経細胞)が構造的に存在しているということです。
意識の精神上の存在も、自己の精神上の存在も、脳神経回路(ニューロン)が担っているのです。
禅の修行は、その脳神経回路に決定的影響を及ぼすのです。
思い込みを変える程度では済まないのです。これが修行といわれる所以です。
原田祖岳老師は
「地球を座蒲団にして、宇宙を腹におさめたような大きなドッシリとした気分、天地一杯になった様な気分になって、只リーン。」
が非思量だと説明しています。
主観的なイメージばかりで実際がありませんから、正統な曹洞禅の修行からは逆行する説明です。
祖師方は、禅の修行にイメージを描くような工夫を説示しておりません。
森羅万象の実際でなければ非思量の相続は難しいのです。
イメージばかりのバーチャルな精神空間での非思量の相続は、原田祖岳老師の独自な工夫なのかもしれませんが、それは間違いです。
主観的にイメージを羅列しての非思量の説明ですから、曹洞宗開祖道元禅師の言わんとする坐禅の要術としての非思量とは大分かけ離れているのです。
山岡鉄舟居士の「晴れてよし、曇りてもよし不二の山、もとの姿は変わらざりけり。」いう歌を非思量の歌として取り上げていますが、この歌は坐禅の要術の意味を一つも暗示しておりません。
この歌は白隠禅師の坐禅和讃の冒頭「衆生本来佛なり」ということを歌っているのであって、坐禅の調心としての非思量の要領を述べた歌ではありません。
原田祖岳老師は何を勘違いしたのでしょうか?
続いて、「詳しく言えば、不思量底を思量せよとある。これが坐禅の要訣であり急処である。」と最後に締め括っております。
これでは、非思量の説明の振り出しに言葉を変えて戻っただけのことで、何の説明にもなっていないのです。
これは宗祖道元禅師の「非思量、即ち是れ坐禅の要術なり」と示した言葉をなぞっただけのことで、原田祖岳老師は何一つとして手が付けられなかったのです。
結局、原田祖岳老師は坐禅の要訣であり急処であるところの非思量の具体的な説明が何一つできていないのです。
非思量の説明は何も難しいことはありません。
原田祖岳老師自身、具体的にどのように工夫して、どのように身心脱落をしたかを経験的に説明していけばよいだけのことです。自分の言葉で語ればよいのです。
しかし、曹洞宗の師家でありながら原田祖岳老師は、曹洞禅の非思量の修行の経験が無い為に、その説明ができなかったのです。
原田祖岳老師は若かりし頃、臨済禅をかなり修行されたようですが、公案禅の修行までしかやらずに、重ねて正念の相続をしてこなかったようです。
正念の相続は実質、曹洞禅の非思量の相続と同じです。一念不生も同じです。
臨済宗で正しく大悟徹底していれば、曹洞禅の非思量に於ける身心脱落も手に取るように分かるはずです。
正念の相続ができていないということは曹洞禅の非思量がまるで分っていないということです。
非思量(正念)の相続なくして身心脱落することはありません。
原田祖岳老師は当時、天下の鬼僧堂と言われ、曹洞・臨済両宗から一目を置かれていた専門僧堂・小浜の発心寺の住職であり、堂長師家でありながら身心脱落はしていなかったということです。
身心脱落していなければ正師とは言えないのです。
飯田とう隠老師も曹洞宗の師家でありながら、非思量の修行経験が全くなく、正念の相続の経験も全くないので、非思量の具体的な工夫の説明ができないのです。
“正念相続の経験が全くない”と私が言いますのは、飯田とう隠老師の著書の中に、この言葉が一度も出てこないからです。
修したことがない為に出てこないのです。当然のことです。
それは、原田祖岳老師が弟子である飯田とう隠老師に非思量の相続(正念の相続)の指導ができなかったからです。
飯田とう隠老師の非思量についての説明を見てみますと、実際の非思量の相続の経験が全くないことが明らかです。
非思量の相続の経験が全くありませんので、当然、身心脱落の経験もあるはずがありません。
公案では身心脱落に至ることはできませんし、非思量の相続なしには身心脱落を体験することはないからです。
身心脱落に至っていなければ、天下の鬼僧堂・小浜の発心寺の原田祖岳老師と雖も、500年来傑出の禅僧と言われている飯田とう隠老師と雖も、正師とは言えないのです。
飯田とう隠老師は正師でない原田祖岳老師の印可証明を受けていますが、その印可証明書は内容のない単なる紙切れ、反古でしかないのです。
非思量の工夫の説明のできない原田祖岳老師から授与された印可証明書では、正師としの証しにはなりません。
飯田とう隠老師は「正師の証明のない宗教は危険だ」と断言していますが、そのようなことを言う飯田とう隠老師自身の師僧の原田祖岳老師はどうなのでしょうか?
「釈尊からの嫡嫡相承の証明の正師」の言はどうなるのでしょうか?
「宗意安心に印可証明なきほど危険なるはない」
「禅の特色は印可にあり、証明なき者の説く佛法は外道である」等々
と述べていますが、印可証明を出す正師の存在はどうなっているのでしょうか?
斯く主張する飯田とう隠老師自身も正師とは認められるものではないのです。
飯田とう隠老師の師である原田祖岳老師も私が示しました通り、正師とは認められるものではないのです。
近代・現代 嫡嫡相承の正師不在の中で、正師を求めてどうするつもりなのでしょうか?
鈴木正三禅師や白隠禅師や盤珪禅師が正師の存在によって修行が成就したわけではありません。
彼らは正師を求めたかもしれませんが、結局は正師不在の為に、自分の道心で身心脱落したのです。
原田祖岳老師も飯田とう隠老師も、公案禅1500則もやり遂げれば、いわゆる法理は充分すぎるほど明らかなはずです。
法理が充分過ぎるほど明らかでも、実経験のない正念の相続(非思量の相続)の工夫を当を得て説くことはできません。
正念の相続(非思量の相続)をすることなく大悟徹底(身心脱落)に至ることはあり得ません。
盤珪禅師は正念の相続(非思量の相続)を知らなかったと見えて、修してはいなかったのですが、ひょんなことから一念不生で全てが調うことに気が付いたと述べております。
盤珪禅師の言葉に、「従来の修行も行き詰まってしまい、その為に身心が重く患い、七日程食事も出来ず、死ぬるかと思っている折節、痰を壁に吐きかけて見ましたところに一切が一念不生で調うことに気づきました」というものがあります。
この時に正念(非思量)で全ては調うことに気付いたのです。
気付いた故に一念不生の相続を精進したということです。
「修行も心願成就いたしました」と言っておりますから、身心脱落したことは間違いありません。
身心脱落(大悟徹底)は正念(非思量・一念不生等々)の相続なしには至ることができないものです。
原田祖岳老師も飯田とう隠老師も正師と称している以上、身心脱落はしているはずですし、身心脱落の為には正念(非思量・一念不生)の相続を只管に行じた体験があるはずです。
この両老師が非思量について正しく説明ができないということは、その体験がないということに他ならないのです。
ここで法理ということについて説明しておきます。
法理という言葉は曹洞禅ではほとんど用いることはありませんが、臨済宗に於いて用いるようです。
法理は字の通り、佛法を道理として理論的にまとめ上げたものを指します。
佛法の因果関係を理論的に明らかにしたものを指すのです。
法理は道理として、そう在る・こう在るということを示したものですから、理屈として分かっただけのことです。
自分が法理で示すように“在る”ことができるかと言ったら、それは無理です。
身心が法理の通りに“在る”ことができないからです。
法理と現実の今の自分との溝を埋める為に修行が必要なのです。
法理通りの人となる為に修行し、真の慈悲の人となる為に修行を修めていくのです。
その為に非思量(正念)の相続が必要となります。
法理上、慈悲の人とはどのような人か、どのような心なのか、どのような言動の人なのかは分かるのですが、実際はその法理のようにはなれないのです。
法理を理解し法理を説くことは、ある程度は師家ならばできるのですが、法理の人となることは身心脱落しなければ無理なことです。
法理を理解し説くことは学問的に勉強すれば、それ程難しくはありませんが、身心脱落はかなり難しいことです。
先に法理があって修行するわけではなく、修行(実践)が先にあり身心脱落が先にあって、法理は後付けです。
禅門に於いて法理は後付けですから、ほとんど重要性はないのです。
非思量の相続に於ける身心脱落を法理の視点から捉える必要はありません。
しかし、非思量の相続の修行は因果の道理の視点から明らかにしていく必要があるのです。
修行の具体的やり方に偶然性があってはなりません。
こうすればこうなるという因果の道理があるのが禅の修行であり、禅の悟りに至る道なのです。悟りは体験なのです。
禅の修行には、秘密も、神秘性も、偶然性も、超理論性も、没理論も、以心伝心も、不立文字も、教外別伝もないのです。
以上のようなことを禅らしさの如く説いている師家が主流ですが、これは間違いです。
ステレオタイプの師家なのです。自分で探求しないのです。自分で実証しないのです。
ニュートンのようにリンゴの落下に疑問を持つ姿勢が近代・現代の師家には欠けているのです。
修行には不立文字も教外別伝もありません。
曹洞禅の修行は因果の道理を外れることはないのです。
公案禅の修行は因果の道理に従うことはなく偶然性の支配するところの「意識の変性」を目指しています。
意識の変性はいつ・どこで・どのような状態で・どのような人に現れるか分かりません。
ここが偶然性と言われる所以です。
飯田とう隠老師の曹洞禅に於ける思量・不思量の扱い方は、相続の実体験がない為に、どうしても公案禅の扱いになってしまっています。どうしても理屈がたってしまうのです。
例えば、「不思量底を不思量すれば…。」「思量のままの不思量ぢゃ。」「不思量のままの思量である。」「不思量底は自己なきことぢゃ。」「無我にいながら無我が分からぬ。これ我があるからぢゃ。」等々。
矛盾だらけの言葉で、公案禅として見れば奇抜で面白いかもしれませんが、実際の曹洞禅の修行に於いては、脳の働きとしてできないこと、あり得ないこと、現実にはないことばかりを言っているのです。
現実にないことは非思量の相続には何の役にも立ちません。
非思量は現実だけを相手にして非思量の状態を保つのです。
飯田とう隠老師は非思量がよく分からないと見えて公案禅的に扱う癖が抜けていません。
「正念の相続」についての公案も、「非思量の相続」についての公案もないのです。
正念も非思量も不思量も一念不生も、公案の中には納まらないのです。
人の思量を超越しているのです。
正念も、非思量も、不思量も、一念不生も公案がなじまないのは、公案の生ずる以前のことだからです。
公案になるところまでの煩悩の精神世界にまで引き下げることは無意味なのです。愚かな行為なのです。
「不思量底を思量せよ」を公案としてみたら面白いと飯田とう隠老師は述べておりますが、不思量・非思量・正念・一念不生・不思善不思悪の禅修行に於ける立ち位置が全く理解できていないが為に、斯く言ったのです。
つまり、正念の相続・非思量の相続の修行体験がない証しとしての発言です。
非思量(正念・不思量)の精神世界に於いては公案禅は排除されてしまうのです。
相反する精神世界ですから、其の時、其処に共存することはありません。
非思量は公案の枠内に納めることはできないのです。
このことが分かっていない師家は公案禅そのものも分かっていないのです。
非思量の精神世界には公案が生じる隙間が僅かもないのです。
万が一、頭を出したところで、育つ間もなく霧散してしまうのです。
公案になり得ないのです。
飯田とう隠老師はあたかも、自分はそうであるかのように正論を説く癖があります。
つまり、一般社会で言うところの、自分のことは棚に上げて、自信をもって説くものですから、周囲は騙されてしまうのです。
飯田とう隠老師は、正師の印可証明が釈尊より嫡嫡相承して今日に至っていると説いています。
今日の儂の処まで釈尊からの正師の印可証明が嫡嫡相承していると述べています。
歴史的に見て、正師が途切れることなく嫡嫡相承されていることはありません。
飯田とう隠老師に正師として印可証明を授与したの師家は原田祖岳老師です。
その原田祖岳老師の非思量の説明が極めて不充分ですので、実修の経験がないことは明らかです。
非思量の修行経験がないまま身心脱落することはあり得ません。
よって原田祖岳老師は佛法の総府としての身心脱落はしていないのです。
つまり、嫡嫡相承の正師とは言えないのです。
よって、飯田とう隠老師は正師とは言えないのです。
嫡嫡相承の印可証明について説くことのできる正師は近代・現代にはいません。
この認識が飯田とう隠老師には欠けているのです。
その師家が身心脱落しているかどうかは、非思量の工夫について聞けばよいのです。
非思量の相続なくして身心脱落はないからです。
師家の力量を知るには、自らが正しく非思量の相続を実修していなければなりません。
経験がなければ、非思量の工夫の重要なポイントが分からないからです。
正しく佛法を説いているかどうかは、修行上それほど重要なことではありません。
法理だけならば、公案1500則を通れば充分身に付きます。
法理は身心脱落しなくても充分説くことはできるようになるのです。
法を説くことができるからと身心脱落していると見ると間違いを犯すことになります。
曹洞禅に於いては正法眼蔵を暗記するぐらいまで研究すれば法理は明らかになるのですが、それだけでは身心脱落はしません。
そのよい例の師家は、昭和の名僧であります澤木興道老師です。
澤木興道老師は非常によく正法眼蔵を研究されており、老師の禅講話の中に随所に正法眼蔵の一文が、言葉が、満天の星の如くに出てまいります。
とても宗教的高尚さを感じさせるものがあります。
しかし、非思量について全く触れていなのです。当然、身心脱落はしておりません。
澤木興道老師の修行観・坐禅観が開祖道元禅師や祖師方と似て非なるものなのです。これほどの老師が残念なことです。
法理が明らかでも、実修実証には非思量の相続が必要欠くべからざる修行です。
法理は明らかでも、非思量には暗い師家ばかりです。
その師家が正しく身心脱落しているかどうかは、法理によってばかりではなく、非思量の工夫をどのようにしているかによって判断した方が間違いは少ないものです。
原田祖岳老師は身心脱落していませんし、その印可を受けている飯田とう隠老師も大悟徹底していませんから、お互いに正師と言える立場ではありません。
原田祖岳老師も飯田とう隠老師も、お互いにお互いをそこまで見抜ける修行レベルに達していなかったといういうことです。
原田祖岳老師も飯田とう隠老師も、歴代の祖師方に較べると、その力量は500年来傑出の禅僧などど言えるレベルではないことは確かです。
飯田とう隠老師は正師について言及できる程の修行レベルには達していないのです。
因みに、飯田とう隠老師は酒で身体を壊して、禅僧としては老齢にならずして遷化したのですが、医者に酒を止められても、止められなかった模様です。
今で言うアルコール依存症だったのではないかと思います。
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2021.7.7
正法眼蔵現状公案に出てくる「佛道を習ふというふは自己を忘るるなり」の自己、及び我々が日常的に自覚している自己が意識であることは、非思量の状態で自己の心の中を観察してみるとよく分かります。
非思量の状態に於いて、心(頭脳)の中に存在しているのは自己しかないのです。自己以外に何もないのです。自己以外自覚できるものは何一つ存在していないのです。
意識(我・自我)が自己とは別に存在していないのですから、自己が意識(我・自我)であることは間違いありません。
その他、心の作用である喜怒哀楽等の感情、視覚聴覚等の五感、食欲や性欲睡欲等の五大欲の精神機能は存在していませんし、機能していません。
それらはそれに対する縁が生じ来ると、間髪を入れずに起動(反応・感応)するのです。
それまでは私達が自覚できる何物も心の中には存在していません。
縁が発生しない限り、心の中に自己(意識)以外何一つ存在していないのです。
感情や欲望や五感覚等は常に自己と心の中に同居して待機しているわけではないのです。
このことを疑問に思うのでしたら、非思量の状態を保って自己の心の中を観察してみて下さい。私の述べていることに納得して頂けるものと思います。
また、その際に意識(自己)と思考は別のこと(機能・存在)であることにも気付かれるものと思います。
非思量という思い考えのない状態でも自己(意識)は厳然として心の中に存在しているのです。
思考の絡まない純粋な自己(意識)が心の中に存在しているのです。
欲望も感情も五官(感覚)の作用も絡まない純粋な自己がただ存在していることに気付くのです。
この自己は物理的存在ではなく精神的に存在しています。
禅に於ける自己は実体のあるものではなく、精神上に存在しているのです。
脳の中に自己を生み出す神経細胞(ニューロン)が実在するのです。
禅門に於いて、近代・現代の師家老師方は「本来我はない。我があると思い込んでいる。」と説いています。
しかし、私達は誰もが自己があると感じているのです。思い込んだわけではありません。
自己は思量の世界の存在ではなく、思量の動く以前の存在です。
故に、非思量の状態でも自己は存在しているのです。
自己は思量によって生まれたわけではありません。天然のものです。自分でどうのこうのできる存在ではないのです。
例外なく誰でもが自己があると自覚しているということは、それは後天的なものではなく先天的なものであるという証しです。
先天的に精神上、自己があるのは、脳の神経回路の何処かに自己を生み出す神経細胞(ニューロン)が天賦のものとして備わっているからです。
「自己(意識)」は人の思いや考えが生み出したものではなく天賦のものとして備わっているのです。
天賦のものですから何らかの精神上の機能を持っていると考えるべきです。
自己(意識)の機能にどのようなものがあるかを知る為には、自己の有る状態と自己の無い状態(身心脱落した自己)の精神を比較すればよいのです。
自己の有る時の精神と自己の無い時の精神を比較するには身心脱落しなければなりません。
或いは祖師方の悟っている立場から述べているそれに該当する人を捜して、一般の人と比較をすればよいのです。
自己(意識)の本質を明らかにするには身心脱落する必要があります。
それ以外に正確に科学的に明らかにすることはできません。
それ以外の方法はすべて推測でしかないのです。
祖師方の著書をみても自己(意識)は天賦のものであるとしか考えらません。
もし、心の中に於ける自己の存在が天賦のものではなく、育つ過程で「自己」を心に植え付けたものであるとするならば、「自己」が心の中に無い人間が全世界の何処かにでも数%は存在するのが自然界の原則です。
数%と言っても、地球上の全人口60億です。1%でも絶対数で6,000万人。0.1%でも600万人、0.01%でも60万人です。
つまり、無我無心の人間が存在しているはずです。
本来無我というのであれば、本来無我(本来覚っている)のままの人間が世界中に数%は実在しているはずです。それが自然の摂理です。
飯田とう隠老師の「自己(我・自意識)はもともと無いものである」との主張は間違いです。
人類全員が全員、一人残らず、我なきに我を作り、自我の見解を起し我を作っているとの主張は、自然の原理原則から大きくずれているのです。
我がなく生まれ出た人間が一人残らず我を心の中に作ることなどあり得ません。
もともと我がなく生まれ出たのであれば、成人するまでに我を作らない人間が数%はこの地球上に存在していると考えるのが科学的常識というものです。
このような自然の摂理に対する常識が無い人間が正しく禅の修行をし、正しく悟りを開き、正しく物事を見、判断できるはずはないのです。
この世に生まれた全人類が、100%後天的に自己(自我・意識)を習い覚えて作ったという見解は科学的原理原則から見て間違いです。何に限らず100%はあり得ません。
自己(自我・意識)は先天的なものです。
自己(自我・意識)は生きていく為に必要な機能を持っているのです。
「本来無我である」「本来そのままで悟っている」と主張すると、“我の機能”は無いとして認めていない見解となるのです。
我に機能があるが故に、悟って無我となると“我の機能”が消滅してしまい精神的に大きな変化が生ずるのです。
例えば、それが自他一如として現れ、慈悲心として現れ、利他心として現れ、生死を解脱して死の恐怖からの解放として現れるのです。
これほど大きな精神的変化となって現れるのは自己(自我・意識)に精神的に生存の為の重要な機能がある証拠なのです。
佛道に於いては「自己」が修行の中心にあります。
佛道の中心は「自己という存在」です。
曹洞宗開祖道元禅師が、その著 正法眼蔵現成公案の巻で
「佛道を習ふというは自己を習ふなり。
自己を習ふというは自己を忘るるなり。」
と述べているのは、佛道の中心にあるのは「自己」だということです。
佛法として自己以外には何も求めるものはないのです。
私達の苦悩の根源は自己にあり、その解決は自己にあるのです。
我々のすべての苦悩の中心に自己があるのです。
森羅万象に苦悩は何一つありません。
物理的実体である肉体にも迷いや煩悩はないのです。
真理・真実が分からないことが苦悩を生み出すのではなく、自己のあることが苦悩を生み出します。
天動説であっても何百年もの間、誰にも苦悩をもたらすことなく、ガリレオまできたのです。ガリレオが初めて天動説で苦悩したのです。おかしいと。
その為に地動説が生まれ実証されたのです。
「自己」に人の安らぎを奪う性質があります。
「自己」が不安や悲嘆をもたらすのです。
「自己」が心の中から消滅してしまうと四苦八苦の苦悩も消滅してしまうことから、四苦八苦のすべての苦悩の根源は自己にあることが分かります。
自己の生存の為に有用な機能が自己の中の自己(意識・我・自我)にあり、その生存の為の機能が苦悩を生み出すのです。
二律背反の関係にあるのです。
自己の生存の本能を放棄すれば苦悩は消滅します。
自己の生存の本能の放棄は身心脱落によってなされます。
自己の生存本能の放棄によって得られるものは、心の究極的安らぎと永遠の自由です。
欲望が満足されることからくる幸せとは異なりますので注意が必要です。
他者に告げる必要のない幸せ、他者と幸せを共にする必要のない幸せです。
無量無窮の幸せです。日々是れ好日といえる心境の幸せです。
自己のすべての問題の解決を自己の一心に求めるのです。
人類の苦悩の究極の解決の仕方です。
佛道に於ける自己というのは、意識・自意識・我・自我のことです。
佛教の八識までの識も意識の分類によって名付けたものです。
それぞれの機能によって分類したのです。
佛道の修行は意識を相手にしています。
「佛道を習ふは自己を習ふなり」の自己は意識のことです。
このことをしっかりと自覚していませんと佛道の修行は誤ったものとなってしまいます。
曹洞禅に於ける悟りを身心脱落と言いますが、この身心は意識そのものであり、意識が作ったものです。身心の実体は意識です。
私達が自覚している身は意識が作り出した虚構です。
物理的実体が無いということで、取り敢えず、私は「虚構」と言い表しました。
私達の自分の心も私というものではなく、意識が作り出した心であり、意識が作り出した自分です。
物理的実体のない架空の身ですから坐禅の修行によって消滅せしめることができるのです。
心も同様に架空の心ですから坐禅によって脱落せしめることができるのです。
非思量の相続によって自己というものを作り出している意識が消滅してしまいますので、意識の作り出した精神的なものはすべて同時に消滅してしまうのです。
また、意識の担っている機能も同時にすべて消滅してしまいます。
家庭の電気のブレーカーを下げてしまうようなものです。
私達は「精神上の自己」と「物理的存在の自己の身体」を重なり合わせる仕組みになっているのです。
自己内の「精神的他己」と眼前の「物理的存在の他己の身体」と重なり合わせる仕組みがあって、その2つが重なり合うことで警戒し排除すべき他己となるのです。
自己という感覚と他己という感覚は自己の精神上に現れるものです。
物理的実体のある自己の身体と他己の身体には、自己というものや自我という作用は存在していません。
肉体そのものには物事を判断し主張すべき自己は存在していないのです。
肉体には自己としての働きは何一つなく、縁に即応するだけの存在です。
肉体には自己が無くて縁に即応するような天賦の機能があるのです。
ここは自己のいらない機構となっているのです。
意識の機能にはどういうものがあるかは、正法眼蔵現成公案の巻を見てみますと、そこにきちんと記されていますので、それをしっかりと読み解くと明らかになります。
しかし、それは誰でもが読み解けるようなものではなく、非思量の相続がある程度コントロールできるようになり、無分別の分別心の働きが見えるようにならなければ難しいと思います。
意識には人間という生物にとって必要欠くべからざる機能がありますので、天賦のものと言うことができます。
身心脱落の身心は物理的実体のない架空(虚構)の身心であることは申しましたが、架空(虚構)だからといって全く私達の心の中に存在する根拠が無いというわけではありません。妄想・幻覚・幻影・想像の産物ではないということです。
精神上、私達は身心が存在する感覚があるのです。
その感覚は実在するのであって架空(虚構)ではありません。ということは脳の神経回路に身心を生み出す神経回路(核)が構築されているということを意味しています。
身心の実在感を生み出す脳の神経細胞(ニューロン)が実在するのです。
身心の実在する感覚は生きていく上で必要なのです。
生活習慣上というわけではなく、遺伝子レベルに於いて生物として生き抜いていく為の本質的機能です。
盲腸や親知らずの歯のように無くてもなんとかなるような機能ではなく、生物として必要欠くべからざる機能です。
この機能については再三述べておりますので、ここでは簡単に触れておきます。
意識(自己・我・自我・自意識)の生物として必要欠くべからざる機能というのは、「自己と他己を区別する機能」、「利己性を司る機能」、「死を最上に恐怖する機能」等々です。
上記の三つの機能によって自己保存本能と自己遺伝子保存本能が全うされるのです。
これらの機能が禅の悟りである身心脱落によって消滅してしまいます。
悟った禅僧が死を厭わないのもその為です。
悟った禅僧というのは上記の三つの機能が精神上ないのです。
しかし、三つの機能がなくても無分別の分別心に蓄積された経験が、それらに代わって充分に機能しますので問題はありません。無分別の分別心が代替するのです。
無分別の分別心というのは、それこそ本来無我であり、無自己です。
それ故に、迷い悩み苦しむことがないのです。
この形而上の自己(我・自我・意識・自意識)の存在について明治・大正・昭和に活躍した老師方の見解は基本的には皆、同じです。
この老師方の主な方は、原田祖岳・飯田とう隠・井上義衍・原田雪渓各老師です。他に曹洞宗の高名な各師家方、駒沢大の宗学の諸教授方がおられました。
実名を挙げた老師方は皆、臨済的修行を若い時から修めて大悟したとされていた方々です。
その代表的な方が飯田とう隠老師ですから、飯田とう隠老師の言葉を紹介致します。
「どこに我がある。我なきに我を立てて苦しむ。」
「元来、我のないものを自ら我をわざとたてて自ら苦しむ。」
「この身心は元来脱落の身心である。」
「いつの間にやら認識して来た自我が縛なのである。」
以上を要約すると、
「人は元々我はない。自我のない心に自ら自己を作ってしまって苦しむこととなっている。」
「生まれながらにして悟っているのである。」
「生まれ成長していく過程でいつの間にか自我を認識するようになってしまった。」
という見解です。
これはいわゆる本覚思想です。
本覚というのは、「本来衆生は悟りを得ている」「生まれながらにして悟りを得ている」という立場・見解のことです。
「元来、我(自我・自己・意識・自意識)がない」というのは、生まれながらにして悟っているという考え方に基づいています。
「元来、我(自我・自己・意識・自意識)がない」という見解は、自我は天賦のものではなく、自我には生きる為に必要不可欠な機能は元々ないものであり、自我は人を苦しませるだけのものでしかないというものです。
自我(自我・自己・意識・自意識)は人を苦しめるだけで、あっても生きることに何ら益するものはないというのが本覚思想です。
「本来悟っている」ということは、「本来、我(自我・自己・意識・自意識)はない」という意味です。
生まれながらにして身心脱落しているのであって、修行して身心脱落するわけではないとの主張です。
我々は生まれながらにして「我」がないのに、わざわざ「我」を作って苦しんでいる。
「我」は架空のもの想像のもので、生きる為に必要性のあるものではないということです。
そのような見解から、「身心脱落というのは本来身心脱落していることに気付くことを指すのです。」と述べ、「曹洞禅の修行は気付きの修行であるということができる」と説く師家が多いのです。
気付くだけですから身心脱落しても何ら変わることはないと言うのです。
法理を一つ一つ気付いていくだけのことなのです。
このような見解の老師方は、「我」は苦悩をもたらす性質があると主張していながら、その理由は何一つ明らかにしていません。
「我(自我・自己・意識・自意識)」の本質を総合的に明らかにできず、苦悩を生み出す実際の面しか見えていないのです。
多くは苦悩の生まれる理由に“執着心”を持ち出して、それで納得してしまっています。
何故、人に執着心があるのかについて言及しないのです。
私は修行に執着をするが故に忍耐をし修行を行うことができます。
幼児の頃のトラウマの記憶はありませんが、そのトラウマの為に一生涯苦しむことが多いのです。執着心をトラウマの理由にはできません。
曹洞宗師家方は斯く説く以上、「我」の本質を総合的に深く掘り下げ見極める姿勢が必要と思います。
我々は「我」の中に”自我(自己)”と“他我(他己)”を作り出すのです。
我々は眼前の物理的存在の他者に他人を感じるのではなく、自我の中の他己に他人としての存在感・圧迫感・威圧感・敵対感を感じるのです。
これは精神的免疫機能といわれるべきもので、自己の中の他己に対して精神的免疫機能が遂行されるのです。
自己の中に他己を生み出す縁は眼前への他者の出現であることは確かです。
眼前の物理的存在の他者の出す他者排除の意識を感じる機能を眼の瞳が持っているのかもしれません。
瞳の奥の網膜には機能の異なる約60種類の細胞があることが分かっていますが、その内の1種類の細胞が他者の意識を感じる機能を持っているのかもしれません。
嗅覚の器官に他者の意識の出す臭いか、臭いとして感じられないホルモンが出て、それを感じ取る部位があるのかもしれません。
私達に自覚はありませんが、相手の意識を覚知する何かの器官やシステムがあるものと思います。
道元禅師の正法眼蔵現状公案の一節
「他己の身心及び、自己の身心をして脱落せしむるなり。」
の身心は意識が作り出したものの故に斯く説いているのです。
脱落(消滅)する直接のものは意識です。
意識によって作られている身心は、意識と共に脱落してしまうのです。
私達が自覚している身も心も意識そのものだからです。
自己も他己も、意識が自己と他己を区別する為に自己の意識内に意識を素材にして作り出したものです。その目的は自己を守り他己を排除することです。
この意識の作用で自他が間違いなく区別できるのです。
自己と他己の区別はこの宇宙の原理ではありません。
宇宙の真理に自己と他己の区別があるわけではありません。
この宇宙は自己と他己の区別のない世界です。
自己と他己の区別は宇宙原理ということではなく、自己と他己を区別する機能が人の精神内にあるということです。
それを発見された方がゴータマ・佛陀なのです。
「自己(我)は本来ないものである。生まれ生長していく過程で後天的に人が間違ってわざわざ作り出したものである。」という見解の師家は、「自己(我)はもともとないものである。生まれた時は“自我”はないのである。“自我”は天賦のものではないのである。」と説いているにも拘らず、他己について何一つ説くことはないのです。。
他己は元来無いものであると説く近代・現代の師家は一人としていないのです。
他己は元来有るものであると説く師家も一人もいないのです。誰も言及しないのです。
「本来自己はない。」と説いていても、それを説く師家の中に、誰一人として他己について説く師家はいません。
「本来自己はない」ならば「本来他己は有るのでしょうか、無いのでしょうか。」どちらなのでしょうか?
禅者ならばそこまで言及すべきです。
自ら不断に非思量を相続し身心脱落しているならば、当然、他己のことも疑問になるところです。
禅者としてそこにも目が行って当然なのです。そのことにも気が付くものなのです。
道元禅師は他己のことも説いています。
「他己の身心及び、自己の身心をして脱落せしむるなり。」
と自己と他己の関係を明らかにしています。
彼らが他己のことについて説くことがないのは、自己のことを「自己はもともとないものである。」と説きなが、自己について全く明らかになっていない証しです。理屈を言っているだけです。
自己は自己(自我・我)が単独で精神的に存在するのではなく、他己との表裏の関係で存在するのです。
よって、「自己は元来ないものである。」と明白ならば、「同時に他己は元来ないものである。」と説いていなければならないのです。
他己に触れずに済ますことはできないはずです。
道元禅師の現成公案を自らの非思量の相続の体験に照らし合わせて読み解いていない為に、上記のような間違いを述べることとなってしまうのです。
祖師方の法語や公案から導き出した法理(学得底)なのです。
我(自己・意識)を後天的にいつの間にやら、わざわざ作りあげたものだというならば、なぜ全世界の何億人もの人間が同じように一人残らず我(自己)を作り上げてしまうことができるのか、全く不可思議なことです。
そして、「我」が後天的に意図的に作り上げられたものであるならば、それらを作り上げない人間が自然の摂理として一定程度、存在しているはずですが一人も居ないのです。
このようなことはあり得ないのです。
統計学的には全人類の数%は「我」を作り上げない無我の人のはずです。生まれながらの佛陀です。
我(自己)が後天的に作られたものであるというのであれば、我を作らなかった変人・奇人・非常識な人間が佛陀の如くに佛法を極め、似たような法を説いているはずです。
実際はそのような痕跡はゴータマ以後、佛教関係者以外一人も、一宗教も、一宗派も、一哲学も、一イデオロギーも存在しないのです。
「我」が後天的なもの、文化・習俗的なものであるならば、佛法によく似た宗教が佛教圏以外の国々に一つや二つ生まれていても不思議はないのですが、一つもないのです。
神を掲げる宗教は数えきれないぐらい世界中に存在し、そして、絶えず類似した宗教の生滅が繰り返されて今日に至っています。
それなのに無我を説く宗教は一つも佛教以外に存在したことがありませんし、今日でも生まれる兆しはないのです。
全人類が佛陀以来2000年以上にわたって、全員が同じように一人残らず自我を後天的に作り上げるというのは自然の摂理から言ってもあり得ません。
必ず例外が数%は存在するものです。
飯田とう隠老師は略歴の中で、東京大学医学部を2番の席次で卒業したとありました。
であれば、自然の摂理として例外が数%は生まれることぐらいの常識はあるはずです。
それなのに人類全員が一人残らず後天的に我(自己)をわざわざ心の中に作り上げるものだと説いているのです。
我(自我・自己・意識)の本質がほとんど見えていなかったものとみえます。
つまり、非思量の相続の経験はなく身心脱落はしていないということです。
公案禅を済ませただけで、正念相続まで修めずして自らの修行や心境や体験で納得してしまったということです。菩提心がそこまでしか続かなかったということです。
正しい修行を求めるならば正念の相続は行うべきでした。
そうすれば、「我」は先天的なものであり、天賦の機能があることが分かったはずです。
「我(自我・自己・自意識)」は天賦のものであり、「我」には生きる為の必要欠くべからざる機能があるのです。
「我」は感情や欲望や五感と同じように生存の為に欠くべからざる機能ですから誰にでもあるのです。
但し、必要不可欠な天賦の眼耳鼻舌身の機能や喜怒哀楽の感情や五大欲である食欲・性欲・睡欲・財欲・名誉欲等の機能も例外があるので、100%誰でも同じようにあるわけではありません。
先天的な天賦の機能にも例外は何%かは普通にあるのです。
人を苦しめるだけの機能しかない後天的な「我(自我・自己・意識)」が、生きる為に必要不可欠なものでもないのに100%の人にあるということは矛盾した原則です。道理として成り立たない理屈を説いているのです。
身心脱落(大悟)すると、自己と他己(他者)の区別が消滅し、死の不安・恐怖も消滅し、利己心も消滅して利他性の人となるのです。
そうなると動物としての人間は成長して生き延びることが難しくなります。
身心脱落によって死の恐怖が消滅してしまいますから死を忌避することがなくなりますので、死の危険性はかなり高くなります。
恐怖によって死を忌避するという生き延びる為の保障(保険)的機能が消滅してしまうからです。
このような無我の精神状態は動物としての人間本来の姿であるはずがありません。
身心脱落(大悟)すると、人間が生き延びる為の機能のうち3つの最も重要な機能が消滅してしまうからです。
これが「本来の自己」「本当の自己」であるはずがありません。
この3つの機能は生存競争に必要欠くべからざる機能だからです。
禅門の「本来の自己」は、修行によって意図的に作り上げられた宗教上の理想的自己です。
宗教的な自己であり、理想的自己であって、決して自然に存在する自己ではないのです。
そのような自己は世界広しと雖も一人として存在することのない自己です。
「身心脱落というのは本来身心脱落していることに気付くことを指す」と述べ、「曹洞禅の修行は気付きの修行である」と説き、身心脱落(大悟)した自己を、それは「本来の自己である」とする師家方は、世界の有識者が納得できるような、どのような説明ができるのでしょうか?
鈴木大拙居士もそうですが、最終的説明になってくると神秘主義的傾向を帯びて結論をまとめるようになります。
理論として整合性をとる為の狗肉の策です。
禅の修行を完成された理想的宗教者の自己が、近代・現代の師家方の説くところの「本来の自己」「本当の自己」であるというのは、どのように考えても納得できるものではありません。
ここで「本来」という言葉を字義通りに用いるのは実際と矛盾しているのです。
臨済禅の師家や臨済的修行をしてきた師家は公案を拈提してきた関係からでしょうか、特にこのような矛盾した気取りのある表現を好む傾向があるのです。
その代わりに字義からは、その真意が伝わりにくくなります。
その表現方法は宗朝禅者が盛んに強調した密語、密伝的で、部外者にその真意が伝わりにくいのです。
「一念不生」や「非思量」や「不思善不思悪」や「身心脱落」のような字義通りに受け取れるような言葉を用いるべきです。
禅者らしさを強調した気取りの表現は慎むべきと考えております。
素朴で素直な表現が好ましいものです。
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2021.8.4
私は非思量の相続を主とした日常生活を送っておりますが、何が佛法であり、何が佛道なのかの自覚はありません。何が佛法であるかの認識もありません。
ですから、私は佛法や佛道という有り難い特別なことは何一つ説いてはいないのです。
禅修行に於ける当り前のことばかりを一般の人に分かり易く説いているだけです。
特に因果関係を晦まさないように、言葉を充分に用いて説くように心掛けています。
近代・現代の悟りを開いたとされる師家は高邁な識見に支えられて説くものですから、中間の必要欠くべからざる適切な説明的言葉を省く癖があります。
中間の説明的言葉を省くと深遠な高尚な印象の文になるので、特に悟りを開いたとされるお師家さん方は好まれるのです。
その代わりに伝えようとする真意が正しく理解されずに誤って解釈されてしまうのですから、禅問答的文章の言い回しや展開は現代に於いては止めるべきです。
達観しているような思わせぶりの表現や阿吽の呼吸的態度は取るべきではありません。
修行者に達観した態度を示すことは全く必要がないのです。
禅の有意さを正しく社会に広めたいのであれば、宗教的深遠さとか高尚さとか威厳とかは犠牲にしてもよいことです。捨てたほうが宜しいのです。
私は禅の修行について事細かに説明してきましたが、読んでいただいて分かるように、皆、当り前のことばかりで特別なことは何一つないのです。
説明しても理解できないような佛法や佛道を説く気はありません。
例えば、
「初めから脱落の身心である。」とか、
「本来覚っている。」とか、
「本来無我である。」とか、
「無我にあって無我を求める。これは我があるからだ。」とか、
「人間の営みで佛性でないもの何一つない。」とか、
「森羅万象で佛性でないものはない。」とか、
宗教者である禅僧は聴聞する修行者が狐につままれるような説明はすべきではないと考えているからです。
悟りの世界や佛法について説明を受けても、非思量の相続をかなり実践していませんと、その真偽のほどは分からないからです。
例えば、霊能者から霊の世界について聞くようなものです。
霊感のない私達が霊界について聞いたところで、現実の私達の日常に何の影響もありません。
私達一般の人間が霊界について教えてもらったところで、霊が見えるわけでもなく、身近な亡き人に会えるわけでもなく、或いは話しができるわけでもないのです。
何も変わらないのです。
自分で霊的な実体験ができないのです。「そういうものか」という程度のことです。
単なる知識的話題でしかありません。一つの情報の域を出ないのです。
佛道は知識として教えてもらうものでもなく、学問として学ぶものでもありません。
佛道は知識・学問・言葉を用いないで、佛道そのものの人になることです。
佛法そのものの人になることが求められる道です。
法は説くべきものではなく、身心脱落をして六感をもって感応するものです。
法そのものが不立文字の世界です。冷暖自知と言われる所以です。
冷たい暖かいは、どのように冷たいのか、どの程度冷たいのかは言葉で説明できません。
また、どのような暖かさなのか、どの程度に暖かいのかは言葉で他者に伝えることはできないのです。
自分で手を入れて自らその冷たさを知り、その暖かさに触れて初めて自ら知ることができるということを示した禅語です。
佛法も、悟りの様子も、身心脱落ということも、無我・無心ということも、言葉では概略しか説明できないのです。
悟りそのものは自ら体験することでしか知ることはできないのです。
但し、修行の方法・坐禅の要術は「やり方」ですから、一つとして説明できないことはありません。
坐禅の要術の説明をすることはできますが、また理解することはできますが、その坐禅のやり方を自分のものとするには自分で努力するしかないのです。
修行は因果の道理に従ってなされるものですから説明は充分可能です。
因果関係のない世界というならば、禅はこの世のものではないということになります。現世に役立たない宗教ということになります。
坐禅の方法・非思量の状態・その相続の仕方は形而上のことと雖も、因果関係によって成り立っていますのでその説明は充分可能なのです。
禅の修行は佛道というジャンルに特有のものではなく、一般社会で行われている様々な分野に於ける技量・工夫と同じで、その因果関係の応用ですから説明は可能です。
禅修行で用いられる用語・言い回しは独特なものが伝統的に作られてありますが、それらは一般社会で使われている現代の言葉で言い表すことができるのです。
一般社会人が用いる平易な言葉に言い換えますと、禅らしさ・禅宗的雰囲気・禅の威厳・禅の神秘性は欠けてしまいますから禅のお師家さん方の抵抗が大きいのです。禅の権威を保てなくなってしまうと恐れるのです。
禅の修行の仕方・非思量の工夫等々は佛法と言われるものではないのですから、説明に説明を重ねて理解させることが可能です。
禅の修行については冷暖自知とは言わないのです。
言葉によって説明は充分可能ですし、言葉で理解させることも充分可能なのです。
ですから道元禅師は普勧坐禅儀を著わしたのです。
上記のような理由で私は「法」については説きません。
無我の世界がどのように見えるかは説明致しません。
自分で知って下さい。
ただ、身心脱落したところで、そこにはこれといった特別なことはないのです。
身心脱落した世界になぜ特別のことがないのかということが問題になりますが、そのことは説明が可能です。
以下で説明します。
私達の住んでいる精神世界を佛教的に言いますと「此岸」と言います。
そして悟りの精神世界を「彼岸」と言います。
「此岸」も「彼岸」も物理的に実在している世界ではなく、佛教の宗教者が作り出した精神世界なのです。
「此岸」というのは私達が立っている此の岸という意味です。
「彼岸」というのは私達が立っている処から彼方の岸という意味です。あちら側の岸ということです。
此方側の岸は私達凡人の住む世界です。迷い悩み苦しみに満ちた精神世界です。
迷い悩み苦しみに満ちたというのは、四六時中、迷い悩み苦しんでいるという意味ではありません。
人は迷う時があり、悩む時があり、苦しむ時があるのです。
迷う時は迷うことがこの世に満ちており、悩む時は悩むことがこの世に満ちていて、苦しむ時は苦しむことがこの世に満ちているという意味です。
そのように理解して下さい。迷いや悩みや苦しみが空気中に漂い満ちているわけではないのです。
此岸は縁があると迷い悩み苦しみが満ちる精神世界です。
彼岸は縁があっても迷わず悩まず苦しまない精神世界です。彼岸ではそれが当り前なのです。
此岸の世界から彼岸の世界を見ても、その違いは分かりません。
彼岸の世界を見たところで、此岸の眼で見れば全部が此岸なのです。
此岸・彼岸の違いは六神通力の天眼通で見なければ分からないことです。
此岸から彼岸を特別な眼である天眼通で見ることができるならば、その違いは一目瞭然でしょうが、そのような眼を一般の人は誰も持っていませんから、その違いを知ることはできないのです。
身心脱落したところでそのような眼を持つことはできませんので、彼岸と此岸の両側を見ることはできません。
此岸に住む人は此岸の眼しか持っていませんので、彼岸を見ることはできないのです。
彼岸に住む人は彼岸の眼しか持っていませんので、此岸を見ることはできないのです。
彼岸と此岸の両方の世界を見ることのできる眼は神通力の天眼通しかありません。
彼岸の眼で彼岸の精神世界を見ても、そこには特別のことはないのです。
それを特別と見るのは、特別でない世界を記憶で知っているからです。
特別でない精神世界を知らなければ(記憶していなければ)、当処を特別と見ることはありません。
比較できなければ特別ということはないのです。
比較しない心で物事を見ると、どこであろうと皆、当り前のことばかりです。
此岸の眼で彼岸を見ることができれば、そこには特別な精神世界が広がっているはずです。
その逆に、彼岸の眼で此岸を見ることができれば、そこには特別の精神世界があるはずです。
しかし実際は、今いる精神世界しか見ることはできませんので、そこはいつも通りの精神世界なのです。
蘇東坡の漢詩の「到り得、還り来れば別事なし」というのはこのことを述べたものです。
「廬山は煙雨浙江は潮
未だ至らざれば千般の恨み消せず
到り得、還り来れば別事なし
廬山は煙雨浙江は潮」
この七言絶句は中国北宋の詩人 蘇東坡(65才没)の漢詩です。
「到り得、還り来れば別事なし」というこの一句が蘇東坡の言わんとしていることです。
悟る前に見た廬山の煙雨は幽玄な美しいものであり、浙江の潮の流れは感嘆するような素晴らしさである。
悟ってから見た廬山の煙雨も浙江の潮も同様に素晴らしいものであった。
その感動に何も違いはなかった。
違いは無いのだけれども一度は実際に体験しなければ後悔することしきりである。
一度は必ず体得しなければならないと述べているのです。
「未だ至らざれば」というのは、「身心脱落しなければ」という意味です。「彼岸の世界に至ることができなければ」という意味です。
「到り得、還り来れば別事なし」というのは、悟ってみればそこは特別な事は何一つなかったということを述べているのです
例えば、私達大人が幼い頃の心を忘れてしまっているのと同じことが、悟ることにおいても起きるのです。
私達大人は誰でもがかって何十年か前には幼な児だったのです。
しかし、幼い頃の自分には、犬や猫がどのように見えていたのか、空の雲がどのように見え、それをどのように感じていたのか、焚火に当ってどのように思い、それをどのように感じていたのか、海岸の砂浜を歩いてどのような感じがしたのか、を覚えている人はほとんどいないのです。
つまり、森羅万象をどのように五感で体感したのか、また、どのような感想を持っていたのかを全て忘れてしまっているのです。
大人は幼い頃の眼で森羅万象を見ることができません。
大人は大人の眼でしか森羅万象を見ることができないのです。
大人の眼というのは自意識(意識・自己・我・自我)がしっかりと育った心のことです。
常に自己が有り、自己を忘れることのない心のことです。
大人は名利の心が常に動いている心を通してすべてを見ているのです。
大人は幼い頃の感覚で絵は描けないのです。
小学校一年生の頃の心で詩は書けないのです。
その頃の心はすっかり忘れてしまっているからです。
その頃の童心はすっかり大人の心に変化してしまっているのです。
幼い頃の眼で幼い頃の精神世界を見ても、それは特別なことではありません。
幼な児にとって、そこは全て当り前のことばかりで特別のことはないのです。
大人になって自分の幼い頃の精神世界を見ることはできません。
幼い頃の心を失っているからです。幼い頃の眼を失っているからです。
幼い頃の心は大人の心と違って自己(我・自我・意識)が未熟かつ希薄で、その機能がこれから育っていくところだからです。
自己(我・自我・意識)がしっかりと育って大人となると、自己(我・自我・意識)の未熟な頃の心を忘れてしまうのです。
例外はあるかもしれませんがほとんどの大人はそうなるのです。
以上のことと同じことが禅の世界にもあるのです。
禅の修行によって悟る(大悟・身心脱落)と自己を忘れ去ってしまうのです。
自己(我・自我・意識)を忘れ去ってしまうと、自己のあった時の感覚・様子・心の状態を忘れ去ってしまいます。
私達大人が幼い頃の感覚・様子・心の状態を忘れ去ってしまったように、身心脱落すると、身心脱落する前の感覚・様子・心の状態はすっかり忘れ去ってしまうのです。
そして、あるのは身心脱落した感覚・様子・心の状態ばかりです。
身心脱落すると、身心脱落した後とそれ以前の感覚・様子・心の状態の比較はできないのです。記憶として何も残っていないのですからどうしようもないことです。
身心脱落した心や眼は、彼岸の心であり眼なのです。
彼岸の心は此岸の心(精神世界)を知ることはできません。
彼岸の眼は此岸の精神世界を見ることはできないのです。
その逆も同様です。
彼岸の眼にとって彼岸の精神世界はいつも通りのことです。そこには特別なことは一つもないのです。
彼岸の世界は彼岸の眼で見て、彼岸の耳で聞いて、彼岸の鼻で嗅いで、彼岸の舌で味わい、彼岸の膚で触れて体験し、知るのです。
身心脱落(悟り)の精神世界は彼岸の五感でしか知ることはできないのです。
此岸の人が此岸の五感で窺い知ることはできないのです。
此岸(身心脱落していない心の世界)と彼岸(身心脱落している精神世界)の実際ですから、大悟した人から彼岸の精神世界について、その様子を佛法として聞いたところで全く意味がないのです。全く思い当ることがないからなのです。
また、身心脱落した人が、此岸の人にその様子を法として説いたところで、此岸の人にとっては他人事です。
幼な児は自分の様子をみて、大人は誰でもが自分と同じようであると思っているのです。
幼な児の童心は大人には無く、大人にとっては手に入れたくても手に入れることができない特別な心であるとは思っていないのです。
幼な児にとって当り前のことですから、自分の心の様子を得意気に大人に話すことはないのです。
真に悟った禅僧も幼な児と同じように、此岸の人に自分の心の様子を披露しようという気がないのです。
彼岸の禅僧にとって自らの心の様子は日常のことであって特別とは思っていないからです。誰でもがそうであると思っているのです。
此岸に居た時の自分の心の様子はすっかり忘れてしまっていて再び思い起こすことはないのです。彼岸の心の中に此岸の心は存在しないのです。
その逆に此岸の心の中に彼岸の心が存在することもないのです。
彼岸の人が此岸の人に向かって「衆生本来佛なり。」「本来我々は悟っている。」「本来自我(自己)はない。」と自分の様子を説いたところで、ほとんど意味がありません、
此岸の人にそのような心の様子はないのですから理解できないのです。
霊媒師に我々の前に霊が立っていると言われても一般の人は誰も理解できないことと同じです。
「衆生本来佛なり。」というのは彼岸の人の実感なのです。
此岸に居る者にとって「衆生本来佛なり。」という実感はありません。
「佛」というのは自己(我・自我。意識)が有るか無いかによって決まるものだからです。
自己が無い人を「佛」といい、自己の有る人を凡夫、或いは愚人というのです。
私達一般の人には実感として自己が存在しているのです。「佛」ではないのです。
そこにもってきて私達は本来佛であると言われたところで戸惑うだけです。
誰にも実感として自己が存在しているからです。
心臓の無い人がこの世に一人としていないように、自己の無い人は60億以上の人類に一人としていないのです。
それは自己の存在が脳の神経回路にしっかりと生来のものとして組み込まれているからです。
自己の脱落によって精神上の機能のいくつかが消滅してしまい、根本的に変化してしまいます。
自己は形式上に存在していたのではなく、実質的に生きていく上で必要な機能を持って天賦のものとして精神上、実在しているのです。
自己は成長過程で“人の考え”が作り出したものではありません。
“人の考え”が何の意味も目的もなく作り上げてしまったものではないのです。
身心脱落による精神上の機能(本能)の変化と消滅が、自己が天賦のものとして心の中に実在する証しなのです。
身心脱落を境に精神面で劇的に変化し消滅してしまうものがいくつかあるからです。
人は肉体(身体)の機能だけでは生存競争の世界を生きていけないのです。
生存競争の世界をより優位に生き抜いていくには精神面の機能も併せ持つ必要があります。
その中でも特に利己性が何にもまして必要不可欠なものなのです。
例えば、精神の機能の一つとして自己と他己を区別する機能があります。
肉体(身体)には自己と他己を区別する機能はありません。
切断された脚には自己と他己を区別する機能はないのです。
また、切断された下半身に死を恐怖する機能はありません。
肉体は生きている限り、何処を切断されても、それらに自他を区別する機能はないのです。
そして、それら肉体のパーツには死を恐怖する機能もないのです。
自己保存本能は精神上の機能です。
死を恐怖し、死を忌避する機能は肉体(身体)にはありません。
死を恐怖し、死を忌避する機能は精神上の機能です。
それは、なにがなんでも生き抜いていく為に必要な機能です。恐怖が生き抜く為の無条件の動機となるのです。
利他性も利己性も、肉体(身体)にあるわけではなく精神上の機能として存在しています。
快・不快と喜怒哀楽の感情は精神上の機能です。
欲望の内、食欲・性欲・睡欲は肉体(身体)の機能です。
肉体(身体)を健全に保つ為の機能です。肉体(身体)にとって必要な機能なのです。
名誉欲と財欲と知識欲は肉体(身体)の機能ではなく精神上必要な機能です。
肉体(身体)が名誉を求めることはありません。
財欲・金銭欲も肉体(身体)が求めることはありません。肉体が必要とすることのない欲望です。
肉体(身体)に苦悩が生じることはありません。
肉体(身体)は苦悩がない代わりに忍耐ということがあります。
この忍耐は縁を待つという忍耐です。機を待つ忍耐です。
この肉体(身体)の忍耐は、忍耐の原因が消滅するまでずーっと忍耐であり、忍耐はどこまでいっても忍耐であって、忍耐が苦悩に変わっていくことはありません。
動物は皆、そうです。忍耐によって生き抜いていくのです。
苦悩は心(精神)に生じるものです。
肉体(身体)はその充足を欲として求めます。
肉体(身体)は、その欲のより多くの充足を求めて迷い苦悩するということはなく、肉体(身体)には充足されるまでの忍耐のみが必要とされるのです。
肉体上の欲は忍耐で凌ぐことができるのですが、一般に動物はその忍耐を苦悩へと変化させていくことはありません。
忍耐が苦悩へと変化していく為には、言語による思考力と想像力と自我(我・自己・意識)の存在が必要です。
思量に執着する自己(我・自我・意識)の存在が重要な鍵を握るのです。
忍耐に思量が絡まなければ苦悩が生ずることはありません。
思量に執着することなく思量を容易に手放すことができれば、苦悩は生じないか、生じてもすぐに消滅してしまうのです。
思量に我(自我・自己・意識)がなければ苦悩を生じることはないのです。
我(自我・自己・意識)の有る心に於ける思量が、人に迷いや苦悩を生ぜしめるのです。
我(自我・自己・意識)は“執着する性質”を持っているからです。“執着する性質”は生き抜く為に必要なのです。
忍耐も“執着する性質”によって、より強い忍耐力を生み出します。
我(自我・自己・意識)は利己性と同時に、その利己性を維持する為に必要な“執着する性質”を持っているのです。
我(自我・自己・意識)は利己性に基づいた、生きていく為に必要な機能を天賦のものとして幾つか持っているのです。
それらのすべての機能は我(自我・自己・意識)の利己性によって、すべて利己的に働くのです。
人間の天賦の機能は、元々、中立的なもので、利己性でも利他性でもありません。
それらは心が利己性であれば利己性を帯び、利他性であれば利他性を帯びるのです。
私達の迷いや苦悩は、この利己性に基づく欲望や願望をどのように上手に達成し、どのように上手に抑制するかということから生じるのです。
つまり、欲望や願望を最大限に達成し、最小限に抑制する為にはどのようにするのが最良なのかという葛藤から迷いと苦悩が生じるのです。
これらは人の思量によってすべてなされるのです。
思量を断ち切れば、それらの迷いや苦悩は即、霧散してしまうのです。
ここの処に禅が目を付けたのが興味深いところです。経験則なのです。
思量を即、断ち切る為にはその元にある我(自我・自己・意識)の機能・性質を弱めていく必要があります。
我(自我・自己・意識)の機能・性質を弱めていかないと思量を即、断ち切ることは難しく、その思量に執着する気持ちも消滅していかないのです。
我(自我・自己・意識)の存在を希薄にしていく必要がありますが、我(自我・自己・意識)の機能・性質を弱めていくには非思量の状態を一定時間維持する訓練をするのです。
この訓練を禅では修行というのです。
無常観も心に生じます。
苦悩も無常感も思量によって生じるものです。
思量に執着することによって尽きない思量から生じてくるのです。
ここに感情も絡んで悪循環をしていくのです。
禅門の修行は苦悩の解決ですから、苦悩を生ぜしめる心をもって心に対して修行をするのです。
その心というのは自己(我・自我・意識)のことです。
自己の存在(自己の生存の為の機能)が苦悩をもたらす原因だからです。
苦悩のない平穏な生活を求めて修行をするのです。
自我(我・自己・意識)が苦悩をもたらす原因となるのですが、自我の存在そのものが苦悩をもたらすというよりも、自我の「生存の為の機能」が思量を絡ませることによって苦悩をもたらすのです。
自己の存在に苦悩を感じるのは動物の中で人間だけです。
大方の人間は自我の存在を気にしていません。
自我(我・自己・意識)には自己保存本能の為に、他己を自分の優位な生存にとって邪魔なるものとして排除する機能があります。
他己を確実に排除する為に、自己と他己の区別を確実にしなくてはなりません。
間違って自己を排除しない為に、自他の区別はしっかりなされなくてはなりません。
精神的免疫不全症が生じては困るのです。
意識に精神的免疫機能と呼ばれる機能があるのはその為です。
自己保存本能を全うする為に死を恐怖し忌避する機能が必要なのです。
そして利己性も必要となります。
利己性は他者との利害が一致していますが、一致するが故に、立場が相反して争いの原因となる機能です。
死の恐怖・忌避は、思量によってもたらされます。
「衆生本来佛なり」と禅門に於いてよく言われます。
衆生は本来佛であるけれども、今、現在は誰でもが本来の状態でありませんので、悟っていない限り自己があるのです。
勘違いしているから自己があるのではなく、身心脱落の経験がないから自己があるのです。本来の状態に至れば誰でもが佛なのです。
禅門に於いて、本来の状態というのは、身心脱落して自己の無い状態を指すのです。
佛というのは、自己(我・自我・意識)のないということを意味しています。
この「本来」という言葉に多くの禅者は容易に騙されるのです。
この「本来」という言葉に騙されてはいけません。
「本来」というのは「今」ということではないのです。
現在の事実・実際ということではないのです。
「今」に「本来」は無いのです。
「今」という時が「本来」であるならば、「今」という「即今」に「本来」という言葉は用いないのです。
今の状態が「本来」ならば、今の状態を指して「本来」の状態ということは無いのです。
「今」と「本来」の間には時間的なずれがあります。時間的ずれがあるということは概念化しているということです。
「今」と「本来」は次元が異なっていることに気が付かないと騙されるのです。
「本来」という言葉は概念です。今の事実・実際を指し示す言葉ではありません。
非思量に於いて、このことを見てみれば自ずと分かることです。
非思量の様子は「今」の様子であって、「本来」の様子ではありません。
非思量に「本来」という言葉が生ずる余地はないのです。
「今」というのは非思量の様子そのものであることに気付くことが大切です。
非思量の相続に於いては、「本来」という状態はないのです。
非思量の相続に於いては「本来」という言葉は用いられないのです。
「本来」というのは、「今」とは次元の異なった概念化した自己の脱落している状態を指しているのです。
つまり、法理です。佛法の理論上そうであるということです。
「本来」という言葉を用いる師家は本来の経験のないことが多いのです。
法理を説いて満足しているお師家さんなのです。
自己の脱落している状態は自然には存在しないのです。
心の中(頭脳)には自然には存在しない状態であるも、非思量を意図的に保つことによって初めて至ることができる心境なのです。
自然に脱落してしまうようなことがあるならば、佛陀のような人、祖師方のような人物、佛教のような宗教、禅のような法理を説く語録、等々が長い人類の歴史の中に多様な文化・習俗の中に処々に存在していなくてはならないのです。
しかし、そのような宗教・人物・書籍・文化等が存在した形跡は一つとしてないのです。
修行というのは極めて人為的な精神行為です。
自然に修行してしまっているということが無いのが非思量の相続という修行です。
非思量の状態を意志をもって相続することを禅門に於いて修行というのです。
何も意図的なことをせずに五感を開放して縁に任せている日常が禅の修行というものであるというのは、非思量の相続と身心脱落の因果関係が明らかになっていない師家の修行観です。
このような師家の身心脱落は偶然性の似て非なるもので、道元禅師や祖師方の身心脱落とは異なったものですから注意が必要です。
禅の修行で偶然に得られることは何一つありません。
自己の脱落は非思量の相続を意志をもって修めた結果、必然的にもたらされるものです。
苦しい忍耐の要る修行をした御褒美のようなものです。
身心脱落は棚からボタ餅のように偶然得てしまうということはありません。
もし、棚からボタ餅のように何かをしている時に、偶然、身心脱落を体験したと言う人があるとすれば、それは変性意識の体験です。
変性意識の体験はそれ程珍しいことではありませんし、また、珍重するべきものでもありませんので、その体験はすぐに忘れてしまうことが大切です。
しかし、その実際は、その体験を身心脱落と勘違いをして後生大事にしているお師家さんが多いのです。
禅の修行は此の世に生まれて、心の中に成長し確立した自己(我・自我・意識)を崩し、その存在感を薄くしていく作業です。
自己の存在感を希薄にして、幼ない頃のように自己の存在感のない心に戻す作業です。
自己の存在感のない心は幼な児がそうなのですが、自己の存在感がないからといって自己が完全に断ち切れたかというとそういうことはないのです。
自己の根が残っていますので縁によって自己が頭を出すのです。
禅の修行は自己の根を完全に断ち切って完結するのです。
この過程を道元禅師は普勧坐禅儀の中で「回向返照。退歩に学すべし。」と述べています。
これは自分の心を顧て、今日まで外に向かって学び、知識を得、蓄積するという姿勢を改めて、学び蓄積してきた知識を全て忘れていくあり方を学びなさいという意味です。
修行によって意識(我・自我・自己)の希薄な幼な児に退歩していくのです。
幼稚化とは違います。
幼稚化とは、意識(我・自我・自己)は希薄化されずに大人のままです。
「幼な児は自己はない、無我無心である、その心は真っさらな白紙なのです。」と説いている禅僧がありますが、それだけではいけません。
幼な児とはいっても自己は有るのです。超未熟なのです。
種子にたとえるなら、種から芽が出始めた状態です。
幼な児の我(自我・自己・意識)はこれから育っていくのです。
無邪気な幼な児といえども生まれ出た時から無我無心ということではないのです。
蝮は生まれ出たばかりの小さな子蝮でも毒はそれなりにあるのです。
幼な児もそれなりに自己(我・自我・意識)はあるのです。ただ未熟な希薄なだけなのです。
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2021.9.3
子供は不生の佛心で生まれてきます。
つまり、非思量の心で生まれてくるのです。
そして、言葉を覚え、思い考えるようになるまでは、非思量の状態の心で生活しているのです。
幼な児は盤珪禅師の説く不生の佛心で生活しているので、心がよく整っており、四苦八苦の苦悩というものがない幸せな日常を送っています。
但し、感情はあり、快不快もあるのです。
幼ない児は誰でもが不生の佛心の日常であるが故に不幸せな児はいないのです。
苦悩や迷いは人の思量が作り出します。一念が生ぜしめるのです。
一念毎に、迷いは増え、苦悩は深くなっていくのです。
人の日々が幸せであるとしたならば、それは欲望がほどほどに叶うからではなく、不生の佛心(非思量の心・一念不生の心)であるからです。不生の佛心が平常心だからなのです。
不生の佛心というのは盤珪禅師(江戸時代 臨済宗)が説いたものです。
不生の佛心の“不生”というのは一念不生の略で、一つの念(思量)も生じない心の状態を指します。
これは曹洞宗開祖道元禅師が坐禅の要術として説示した非思量のことです。
一念不生の心を佛心と言っているのです。
盤珪禅師は、不生の佛心でいれば、心はよく整ってきて、四苦八苦で心が乱れ、悩み、苦しむことはないと説いています。
不生の佛心は非思量の状態のことです。
非思量の状態の心を盤珪禅師は佛心といい、その佛心は禅語の無分別の分別心のことです。
禅の修行の基本は最初から最後まで、非思量です。
あらゆる祖師方の禅の修行も非思量に帰着するのです。
非思量は文字通り、一切の思い考えのない頭脳の状態を指します。
この非思量は思量の反対語であり、対句という位置付けです。それ以上の意味はありません。
思量・非思量は脳の機能の状態についての用語です。この言葉に神秘性も宗教的深遠さもありません。
もし“ある”という人がいるならば、それは考え過ぎであり、うがち過ぎです。
非思量というのは薬山弘道大師(黙照禅の祖 745〜828年)が説いた言葉です。
道元禅師は、黙照禅の祖である薬山惟儼大和尚の思量・非思量の質疑応答の主要な部分をほとんどそのまま普勧坐禅儀に取り入れたのです。
非思量というのは思量と同様に、決して特別の心理状態(脳の状態)ではありません。
思考の脳機能が完全に停止している状態を非思量と言っているだけのことです。
この非思量の状態というのは、非思量という脳の状態を全く知らない人にとっては想像もつきませんので、宗教上の言葉であるからと、深遠なことであり、宗教的神秘性のある状態と解釈してしまうのです。
曹洞宗開祖道元禅師が説いたことですから、非思量と雖も深い深い意味があると自発的に思い込んでしまうのです。
字義の通り、その通りに、素直に受け取らないのです。深読みをするのです。
宗教者の悪い思量癖です。
この悪い思量癖を持っている修行者には非思量という状態がない人が多いのです。
このような修行者に非思量の状態を理解させることは難しのです。
名利の強い人に菩提心を起こさせるのと同じぐらい難しいのです。
人は生まれてから言葉を覚え話すようになるまでは、誰でもが五感を主体にして生活し、思量の必要のない精神世界に生きています。
この思量の必要のない精神世界を無分別の分別心の世界といいます。
盤珪禅師の不生の佛心はこのことを言っています。
無分別の分別には言葉は一切必要ないのです。
無分別の分別によって生きていけるのです。
無分別の分別心を佛性というのです。
人は生まれてから言葉を覚え話すようになるまでは、心の中(頭脳の中)に思量は存在していません。
思量に用いる言葉がまだないので当然のことです。
思量に用いる言葉を覚えていないのですから、思量という頭脳行為はできるはずはないのです。
つまり、非思量の状態なのです。誰でもが非思量の状態を経験しているのです。
幼な児は言葉を覚え始めても、文とはならずに単語を用いる“点”としての思量形態です。
幼な児が言葉を覚え話すようになっても、頭の中で思考しているとは限りません。
私達大人が話す時の様子を観察して下さい。
私達大人は”話しをする時”と”話しを聞く時”に思考を用いていないのです。
私達は、考えつつ、思いつつ、話しをしているわけではありません。
考えることと、思うことと、話しをすることと、話しを聞くことは、それぞれ別の脳の機能です。
話すべきことは、考えたり思わなくても話しはできるのです。聞き取り理解することもできるのです。
前もって用意周到に話すことを準備しなくても、何を話すか分かっていれば何十分でも話しはできるのです。
また、話しを聞く時も同様で、考えたり思ったりしなくても話を聞いて理解できるのです。
このことに気付いている人は少なからずいると思います。
人は話しをする時に、同時並行に思い考えて話しをしているわけではありません。
自らのその時の様子を観察してみて下さい。納得できると思います。
また、話を聞く時に、話しを聞きながら思い考えて理解しているのではありません。
思い考えなくても、私が理解しているわけではなく、私の中の何かが自然に理解してしまっているのです。
どのように話すか、思い考えつつ話しをしているのではなく、相手方の話しを縁として自分の話しができるのです。
話しをしながら思い考える場合もあります。
話しをしながら思い考えない場合もあります。
話しをする脳の回路と、思考する回路は、それぞれ別の回路です。
一体のものでもなく、必然的に連動するものでもないのです。
話しをする時、話を聞く時の、その人の癖で思ったり考えたりするのです。
全く思わない考えない人もあるのです。
それは、話す時には、必ずしも思い考えたりする必要がないということを意味しているのです。
常識的な平凡な両親の元での幼な児は皆、幸せだったのです。
それは物事が分からず知恵もなく欲もなかったから幸せだったと考える人が多いと思いますが、幸せだった正しい理由は非思量の状態での生活だったからです。
盤珪禅師の不生の佛心の生活だったということです。
一般の人は考えながら思いながら話しをし、話しを聞いていると思い込んでいます。
幼な児は言葉を覚えれば話しはできますが、話しができるようになったからといって思考しているとは限らないのです。幼な児は言葉を覚えても思考していることはないと思います。
幼な児の頭の中の大半を非思量の状態が占めているはずだからです。
問われれば、それを縁として返答するというのが実際のはずです。
それは私達大人も同様です。
子供はかっては、7歳ぐらいまでは、この状態であるはずです。
いつ頃から言われ始めたのかは知りませんが、江戸時代には7歳までの童子は“佛の子”と言われているのです。
我が児は7歳までは、“佛様からの預かりの子”と考えて大事にするのです。
頭を叩いたりしてはいけないとされていたのです。佛様の頭を叩くことになるからです。
7歳までは無心なのです。非思量だからです。
非思量の心が大半を占めていたので無心なのです。天真爛漫なのです。
7歳ぐらいまでは童子は非思量の日常生活を送っていたのです。
7歳から童子は“佛の子”から“人の子”となり、人間としての躾をされ、人間社会の道徳・倫理を教えていかれるのです。
7歳の頃から非思量の状態が相対的に減ってきて、思量の状態の生活が増えてくるということです。
しかし、非思量の状態が相対的に減るからといって、誰でもが完全に非思量の状態がなくなるかというと、そうでもないのです。非思量の状態を残したまま大人になる人もあるのです。
人は思量の生活が大半になると人間の社会に入ります。
“佛の子”から“人間の子”となるのが子供によって多少の違いはあるでしょうが、7歳頃とされているのです。
人は成長過程で、思量・非思量の状態を観察(注意)するようなことはありませんので、非思量の状態があったということに気付いている人はほとんどいないのです。
人は非思量の状態で生まれ育っていくのですが、それが当り前で誰も注意していませんし、誰も気付いていないのです。
そして、知らぬ間に言葉を覚え思量するようになっていき、知らぬ間に非思量状態がどんどん減少し、思量の状態が相対的に増えていくのです。
このことに誰も注視していませんし、気付いてもいないのです。
非思量の状態の重要性に誰も気付いていないのです。
非思量の状態が心を癒すことに誰も気付いていないのです。
非思量の状態を暫く保つことによって、傷ついた心が癒されていくものだということを誰も気付いていないのです。
肝がすわるのも非思量によるものだということを知らないのです。
非思量の状態を相続することの精神的価値に気付いたのが、佛教の創始者である佛陀です。
その宗教的系譜を主として引き継いだ宗派が禅宗です。
幼な児はいつの間にか思量の日常となってしまい、非思量の状態は忘れ去られたままとなってしまうのです。
人間社会に於いては、人は思い考えることに価値があると考えています。
「人間は考える葦である。」というパスカルの言葉はそのことを表した言葉です。
非思量の状態の経験則があるのは禅宗だけになってしまった今日です。
今日の人は自分の思量に取り立てて執着するのです。
その分、事実・実際から離反し森羅万象からはみ出ていくのです。
私達が自覚している他者は森羅万象の存在である他者ではなく、自己が自己の心の中に作り出している他者です。
このことを知っている人間は、禅僧の中のほんの一部の人のみです。
非思量の相続を愚直に修めている禅者のみです。
このことは曹洞宗宗祖道元禅師が著わした正法眼蔵現成公案の中に書かれています。
幼ない頃の非思量の日常から思量の日常へと移り変わったとしても、思春期から大人になる頃までに完全に思量の日常になるかと言えば、そうばかりでもありません。
人によっては非思量の状態が縁に応じて生じたりすることがあるのです。
非思量の状態に気付く時があるのです。
現代人は幼ない頃から何も思っていない子供に、強いて言葉による返答・考えを求め、言わせるようにするものですから、早くから非思量の状態から思量の状態に移行してしまう傾向が顕著です。
その分、思考過剰的傾向の人が増えていくことになります。
思考過剰的傾向の人は、心の安らぐ非思量の状態から縁遠くなるのです。
思考過剰傾向の現代人は、非思量の状態を指摘したり説明しても理解できない人が多いのです。
自らの心の中にその状態が全くない為に思い当たらないのです。
思考過剰というのは、思い考えが次から次へと出てきて途切れることのない状態を指します。
思い考えが頭の中を絶えず巡って途切れることなく精神的に疲れてしまうということがあるのです。
自分で自分の思量をコントロールできない状態です。
心が健全から少しはみ出してきているのです。
思い考えを隙間なく続けていくことに心の落ち着きを感じる人を、思考過剰の人といいます。
思考中毒症と言えるような現代人が目に付くようになってきています。
このような人達は思い考えの中断する非思量の状態を忌避します。
それは非思量の状態は自己と対峙することになるからです。
自己と対峙した時に、自己にどのように対峙すべきかを知らないからです。
対峙した自己をどのように処置すべきかを知らないで困惑するのです。
自己に対峙している自己は意識です。
対峙されている自己も意識です。
意識は利己的で他者を排除する作用をもっています。
自己との対峙は精神的に不快であり不安であり居心地が極めて悪いのです。
この為に多くの若者は自己と対峙することを忌避するのです。
自己との対峙を忌避する為には思量という状態が手っ取り早いく、思量の世界に逃れるのです。
自己と対峙しつつ非思量の状態を維持するのが禅の修行です。
禅の修行は非思量を維持し、自己と対峙し、思量の世界に逃げないようにするのです。
自己と対峙し非思量の状態を相続することは、精神的難行・苦行です。
非思量の状態であるということは自己を直視することです。
自己が私を直視し、私が自己を直視し続ける構図になります。
それは他人の眼を直視する耐え難い状況と同じです。
他人の視線を受けたまま、それに耐えるのと同じ状態です。
私達が他者と思っている存在は、実は私達が自己の中に創り出した他者です。
その他者は意識が自他を区別する為に作り出した他者です。
他者感覚であり、実体はありません。その他者は意識の塊そのものです。
自己の精神的免疫機能の第一は「自己と他己の区別」です。
免疫機能は自己と他己を区別することから始まります。排除すべき相手を特定する為の機能です。
私達が他者と思っている他者は、自らの心の中に創った他者です。
その他者は現実の生身の人間の出現という縁によって自己の中に現れます。
自己の心の中に生じた他者は、他者であるが故に排除すべき他者です。
このように興味深い意外なメカニズムとなっているのです。
このようなことはどのように転んでも気付くことのないメカニズムです。
以上のような幾つかの理由で、自らに対峙することを、思量を絶え間なく継いでいくことによって避けているのです。
自己と対峙しなければならないこととなる非思量の空間を作らないようにして日々を送っているのが現代人なのです。
現実の実体のある物理的存在の他人との対峙も苦手なのが現代の若者です。
他人との対峙も自己との対峙と同じ理由で避けたいのです。
バーチャルの自己とバーチャルな他者の社会に生きることに平穏を感じているのです。
このような思量過剰の現代人に非思量の状態を教えても気付くことは容易ではありません。
このような修行者は曹洞禅よりも公案禅を好む傾向にあります。
しかし、公案禅は正念相続(非思量の相続)を手に入れることが真の目的であり、公案禅だけでは大悟徹底(身心脱落)することはありません。
大悟徹底には正念(非思量)の相続を修することが必要となります。
曹洞禅の修行は、最初から非思量の状態に気付いて非思量の相続をするのです。
非思量の状態に気付くことが修行の出発点となります。
ですから、非思量の状態に気付いている人や、指摘されてすぐに気付く人に向いた修行方法です。
思量というのは、頭の中だけでしゃべっていて、声に出さない状態をいいます。
また、映像を頭の中に思い描く“想像”も思量といいます。
思量の状態と、非思量の状態は、心の中(頭の中)で“言葉(文字)”と“形・姿・動きの映像”を用いているか、いないかで区別するのです。
本来の禅の修行は因果の道理に従ってなされるものです。
禅の修行は、宗教の修行にも関わらず、誓願はありますが宗教性も神秘性も祈りもありません。
悟り(解脱)に至る修行ですが、道徳観も倫理観、宗教観、哲学観も関わることはありません。
また、超心理的要素も、超常現象的要素も関わる余地は全くありません。
森羅万象の因果の道理のみが大きく関わっているのです。
諸行無常も、諸法無我も、縁起の法則も、皆、森羅万象の原理であり原則です。
森羅万象の原理から逸脱することのない修行方法です。
但し、臨済系の修行方法である公案禅は因果の道理の上に成り立っている修行体系ではありません。
公案禅は没理論・超理論を主とした超心理的要素にのっとった修行体系ですから、修行過程や修行結果の読めない修行方法です。
偶然性の支配する超心理的体験を待望して修行するのですから偶然性が大きいのです。
修行方法と修行結果の因果関係は明らかではないのです。
例えば、ビリヤードのようなきちっと計算し尽くされたような修行ではなく、屋外で行うゴルフのような不確定要素の多い修行なのです。
科学的考え方の発達した現代に於いては曹洞禅の修行のほうが世界的に受け入れられ易いものと考えます。
曖昧さがなく論理的説明が可能ですから納得してもらえるのです。
但し、曹洞禅の欠点として、悟るまでに時間がかかりすぎるのです。それに伴って忍耐力がかなり必要となるのです。
忍耐力に欠け、結果をすぐに求める現代に於いては、伝統的修行方法を改良しなければならない余地が多くあります。現代版普勧坐禅儀が必要です。
現代の万人に普く勧めることができるように、修行方法を改善していく努力が現代の師家に求められます。
現代、師家にこの自覚が求められて久しいのですが、旧態依然たる伝統的修行方法を守っているのみです。
力量不足なのです。このような場合は特別に宗教的才能が必要です。
曹洞禅はとりわけ忍耐力が必要であり、孤独に耐えなければなりませんので、一人でコツコツやるような人に向くのです。マラソン選手のタイプです。
曹洞禅の修行の原理原則は極めて簡明です。
優れた理解力は不要です。宗教的天才とは無縁です。
愚直で素直なことが大切です。
以上のことをわきまえて曹洞禅の修行に臨んで下さればよろしいのです。
曹洞禅の修行は文字通り、一念不生であり、非思量です。
何があっても、何がなくても、何も思わず、何も考えない状態にあることを非思量の相続といいます。
非思量の相続が、坐禅の要術であり、秘訣です。
それ以外に修行として行うべきことは何一つ無いのです。
現代は坐禅を始める僧俗共の初心者に最初の指導として臨済宗でも曹洞宗でも、数息観という観法を教えることが多くあります。
坐禅の姿勢を正しくとって、呼吸の吐く息・吸う息に合わせて数を数えるのです。
呼吸に合わせて「ひとーつ」「ふたーつ」と1から10まで数えて、また元に戻って1から10まで数えます。
1呼吸(吸う吐く)で「ひとーつ」と数えても、吸う時「ひとーつ」吐く時「ふたーつ」と、この逆でもよいのですが、呼吸の自然の出入の速さに合わせて数を数え続けるのです。
雑念がなるべく動かないように呼吸に気持ちを集中させて、しっかりと揺るぎなく注視して数え続けるのです。
これが数息観という観法です。
師家によっては数息三昧になるように指示しますが、数息三昧になる為の方法はありません。
また、数息三昧という状態はどのような状態であるかについての説明もないのですから問題です。
斯く説く本人も、数三昧の因果関係が明らかになっているわけではないのです。
数息観と非思量は異なるもので、数息観をいくら修しても非思量になることはありません。
また、数息観で身心脱落することはありません。
正念の相続(非思量の相続)が身心脱落に絶対的に必要なのです。
禅門の様々な修行に於いて、数息観や随息観をやったり、公案を修したり、只管打坐をやったり、三昧の状態になったりしても、自然に正念(非思量・一念不生)の相続に至ることはありません。
祖師方にこのような方法を説いている方は一人もおりません。
曹洞禅に於いては、修行を始める時に、自らの心の中に非思量の状態があることに気付くことが必要です。
誰にでも幼い頃にあった非思量の状態を気付かせるのが師家の勤めです。
師家の指導によって非思量の状態を知ることができれば、そこから禅の修行が実際に始まるのです。
何度も何度も同じことの自問自答を繰り返す。
「なぜなんだ!」「どうしてだ!」と問い続けて、これで三昧になれそうですが、なったところで禅の修行にはならないのです。
それらは単純な言葉の繰り返しですが、すべて思考の頭脳回路を用いているからです。
言葉は人工的なものであって、それを用いることは思考の頭脳回路を用いることになるのです。
人の思考には2種類あって、「言葉を用いる思考」と、「言葉を用いない無分別の分別という思考」があります。
禅の修行には言葉を用いる脳の思考回路の停止が必要なのです。
「無分別の分別という思考」は私がするわけではなく、その自覚も私達にはありませんし、自覚することはできないのです。
縁に応じて思考のない世界で自然になされているのです。
非思量の状態であれば、無分別の分別心で私達は生活そのものをすることになるのです。その自覚はしっかりとあります。困るようなことはないのです。
無分別の分別は、言葉を用いる脳の思考回路は用いずに別の回路を用いているものと思います。
数息観でなぜ身心脱落することができないかといいますと、数を数えることも思量の一つだからです。
数字は人類の作った文字ですから、それを用いることは思考の頭脳回路を用いることになるのです。
思量は文字(言葉)を頭の中で用いることを指しますから、数字を数えていることは思量となるのです。
ですから数息観をいくら極めても思量を離れることはできないのです。
決して非思量に自然に移行していくことはありません。
人の作った言葉(文字)を頭の中で用いることは、それが如何に短い言葉であっても、概念がある限り、脳の思考回路を用いるのです。
脳の思考回路を用いているうちは非思量とは言わないのです。
それは自らが、その自覚があろうとも、なかろうとも、自覚には関係がありません。
脳が自動的に思考回路を用いるようになっているということです。
お念仏やお題目を一心不乱に唱えても、それらがいくら短い言葉だからといっても、ワンフレーズだからといっても皆、人類の作った文字(言葉)ですから、思量の一つです。脳の思考回路を用いるのです。非思量ではないのです。
念仏を唱えて身心脱落することはありません。
意味の分からないお経を読み続けても、お経は文字でできていますので非思量の状態とはいえません。
意味を考えず、思わずに、ただひたすら黙読したところで、それは非思量ではありません。
文字を頭の中で用いているからです。
非思量の修行は頭の中で文字を用いることは一切認めないのです。
文字は一音であろうと(一音とは“否”とか“可”がそうですが)、言葉である以上、概念がありますので頭の思考回路を用いるのです。頭脳の思考回路を用いている以上、それは思量です。
思い考えは、それが自分の意志に関係なく自然に出てくるようでも、言葉(文字)を心の中で用いているので、それは思量です。
自然に、知らぬ間に出てくる思いは放っておいたとしても思考(思量)です。
自然に生じていると思えるのは、そのように思考する習性によるものです。癖になっているのです。
数息観の数字も習い性で数えるようになっていきますので、最初は一つ一つしっかり数えていても、その内に自覚しないまま自然に数えられるようになっていくのです。
坐禅をしていない時でも、日常生活の中でも、心で数えながら動作をするようになっていくのです。何をするにしても自然に数えているのです。
幼ない頃に数字を学んだ時のことを思い起こすと私の言ってることが分かるはずです。
しっかりと思考回路を用いて覚え数えることができるようになったのです。
他の国の数字を覚え数える練習をしてみれば分かります。
自然に数えられるか否かは問題ではありません。
自然に数えられても思考回路を用いて数えられるようになったのです。
お念仏もそうです。何をしていてもナミアムダブツと唱えているのです。
お題目もそうです。ナンミョウホウレンゲキョウと唱えつつ動作をし、ナンマイダーといって日常生活をこなしていくのです。
口癖となってしまうぐらい自然に黙念しているのです。
しかし、いくら自然に身に馴染んでしまっていても、それらは文字(言葉)を用いていますので思考の一つなのです。
思考の脳の神経回路を用いているのです。皆、思量の一形態です。
自然に生じているように感じるのは主観なのです。それには客観性はないのですから当てになりません。
人、それぞれです。
人間の創造した文字(言葉)は何であろうと、それを用いることは思考の脳神経回路を用いることになるのです。
また、想像すること、文字の形を想像することは、想像の思量に入るのです。「念想観」の想です。
人によっては文字を形で覚えている人もいるのです。文字の正誤を形で判断するのです。
これも自然であろうとなかろうと全て思量ですから、非思量の修行に於いて認めるわけにはいかないのです。
曹洞禅の修行をしていながら、非思量の状態が全く分からない師家が多くいます。
それは、師家が出家し修行を始める以前の日常生活の中に非思量の状態が全く無かったからです。
思い考えが絶え間なく次から次へと出てくる癖が身に付いている人が現代人には普通にいます。
師家になるような人にはそのような人が多いのです。
或る書籍に、不安神経症や強迫神経症の精神症を大なり小なり持っているアメリカ人は45%と書いてありました。
日本人も戦後、不安神経症や強迫神経症が確実に増えてきています。
この神経症の傾向を持っている人には非思量の状態は全くありません。
神経症の一因は、自らコントロールできない思量の過剰にあるのです。
思量の休む間のない頭の用い方をする人は気を付けると宜しいです。
この状態に意識が絶え間なく絡むと神経症になるのです。
非思量が分からない師家は日常生活の中に非思量の状態が全くなかったのです。
思量過剰の日常の為に、非思量という状態は全く考えられないことだったのです。
どこを捜しても思い当る様子がないので、全く未知の宗教的領域のことと受け取ってしまったのです。
その為に、非思量をそのまま非思量と受け取れずに、自分なりに整合性のある解釈を堂々とするのです。
原田祖岳老師・澤木興道老師・飯田とう隠老師・井上義衍老師・内山興生老師・原田雪渓老師がその例です。
非思量という状態を日常生活の中に知らないが為に、それこそ知らぬが佛を地でいっているのです。
私は出家する前から非思量の状態が日常的にありましたから、普勧坐禅儀の非思量の文字を見て、「自分のこの状態(様子)だなぁ」ということはすぐに分かりました。
「この状態を時間的により長く維持できれば良いんだなぁ」と思ったのです。
それが修行だと直観したのですが、多くの師家老師は、私のこの直観に基づく見解をことごとく否定されたのです。
誰一人として私の見解を肯定してくれた禅者はいませんでした。
今日でも誰一人として非思量を字義の通りに受け取る諸老師・師家はいないのです。
日常生活の中に非思量の様子が失われてしまった禅僧が非思量の様子を教えることは困難です。
次から次へと思い考えが動くのですから、それを止める手立てはありません。
そこで、そのような修行者の為に非思量の様子を教え手に入れる方法が考案されたのです。それが公案禅です。
公案禅の目的は正念を手に入れることです。
正念というのは曹洞禅の非思量のことです。
正念の相続によって初めて大悟徹底するのです。
公案の拈提によって手に入れるのは正念です。
手に入った正念を相続して初めて本格的修行となります。
曹洞禅は最初から非思量(正念)です。このことは事あるごとに何度も申し上げてきました。
私の申し上げていることが理解できない、納得できないようでしたら、臨済宗の何人かの師家老師に正念の相続の「正念」の中味について一点の不明もないように問い質してみたらどうでしょう?
私達はこの世に生まれてきた時は非思量の状態で生まれてくるのです。
生まれてきた時は、思量の為の言葉を全く覚えていないので当然のことです。
思量の為の言葉を一つも覚えていないので、誰でもが非思量の状態の日常だったのです。
非思量という精神状態は特別な精神状態ではなく、全人類誰でもが幼ない頃に経験していた普通のことです。
そして、言葉を覚え話すようになるまでは完全な非思量の状態で日々を送っていたのです。
非思量の心の幼な児は、脳の神経回路の基盤が4〜5歳で完成し、成長していくに従って少しづつ言葉を覚え話すようになり、思い考えるようになっていくに応じて、非思量の状態が少しづつ減っていくのです。
幼ない頃の非思量の状態に於いては、無分別の分別心が機能するので生きていくことができるのです。
生まれてくる時は誰でもが非思量で生まれてくるのです。
生まれてから言葉を覚え話し、思い考えるようになるまでは、誰でもが非思量の状態と無分別の分別心で生きているのです。
言葉を覚え話し、思い考えるようになるまでは、誰でもが非思量の状態であり無分別の分別心で生きているとはいっても、自己(我・自我・意識)は未熟で弱いながらも生き延びていく為にその機能を作用し始めているのです。
乳児の自己(我・自我・意識)は、生きていく為の最小限の機能が作用しているのです。
人がこの世に生まれてくる時には既に自己(意識)はあり、その機能は最小限の活動を始めています。
これは自己(我・意識)と思量は別々の機能であるということを示しています。
人は幼ない頃は誰でもが、言葉を覚えるようになるまでは非思量なのですが、成長するに従って思量の状態が加速的に増えていきます。
思量の状態が増えてきますと、非思量の状態の占める割合が反比例して減っていくのです。
減っていくと言っても、それが全く無くなってしまうというわけでもありません。
ある程度は残っているのです。
大人になっても非思量の状態が心の片隅に残っていますので、そのことを指摘して気付かせてあげればよいのです。
非思量という状態が心のどのような状態か、禅の修行をしたことのない人は全く分かりませんので、非思量という状態を様々に工夫して説明し、気付かせるのが師家の勤めです。
全く非思量の状態が日常生活の中にない人も多くいるのです。
このような人達に新たに非思量という状態を教えるのはかなり難しいことです。
経験のないこと、知らないことを教えるのは、禅に限らず難しいものです。
現代は思考過剰の人が多いのです。
自分で自分の食べることをコントロールできない摂食障害(過食症・拒食症)のように、自分で自分の思考力をコントロールできない人が増えているのです。
いってみれば、思考過剰障害です。
このような人は自分の思い考えに引きずられて精神的に苦しむことが多く、坐禅でもやって心の安定を図りたいと望んで禅修行を始める人が多いのです。
思考力のコントロールのできない思考過剰の人は、忘れてしまいたいことを容易に忘れることができない為に苦しい思いをします。
容易に忘れることのできない人はくよくよすることが多く苦しいはずです。
忘れることをしなくなった現代人の病と言えるものです。
忘れてしまいたいことを忘れる為には、思考の行為をコントロールできなくてはなりません。
思考の機能のコントロールができるようになる為には、非思量の状態を相続することが必要となります。
思考の機能をコントロールできるようになりますと、忘れるべきことを忘れることができるようになります。
この忘れるというのは、その記憶を喪失してしまうことではありません。
心の奥に静かにしまっておくことができるという意味です。
必要があれば、いつでも自由に思い出すことができるのです。
また、縁があると嫌な記憶が蘇ることがあります。
蘇っても、それを即、止め、忘れることができるのです。
自分の思考の機能を完全にコントロールができるようになるのが曹洞禅の非思量の相続です。
自分の思考の機能を自分でコントロールできるようになるだけでも、人生のかなりの苦悩が消滅してしまうのです。有り難いことです。
現代人は思考過剰の傾向が強い為に、思い考えが休みなく途切れることなく生滅し、自分で思考生滅のコントロールが全くできない人が多くなっています。
自分の思い考えを必要に応じて断つことができない人が増えているのです。
このような人は非思量という状態を全く考えることも想像することもできないのです。
今の自分を顧て、全く思いも考えもしない状態は有り得ないとして、文字通りの「非思量」を否定して、自分なりに独自の非思量を作り上げてしまいます。
そのような師家方は、先に挙げた諸老師方です。多いのです。
例えば、
「思い考えは人の脳の機能として自然のものであって、それを止めることはできない。頭の分泌物のようなものです。」と説き、
思い考えは止めることはできないので、それは、思い考えは出るに任せて取り合わずに放っておけばよい。
思い考えが頭脳の分泌物として、出るに任せ、それに取り合わずに放っておいて、唯だ坐禅をするのです。
その状態を非思量ととらえ、その姿を悟りの姿であると唱えているのです。
斯様な苦肉の策の見解に納得しているのです。
非思量の状態を日常生活の中に見ていれば、以上のような見解にはならなかったはずです。
「思量と非思量」「思量と不思量」はそれぞれ対句です。単なる反対語です。
それ以上のものではないのに、それ以上のものにしてしまったのです。
非思量を思量の反対語とは捉えずに、切り離して単独の語として非思量を解釈してしまったのです。それ故に間違いが生じたのです。
重大な間違いであり、宗祖道元禅師に対して重大な責任の有る間違いです。
非思量の状態は日常的に自己と対峙することを意味します。
禅の修行をしていない者は、自己との対峙に困惑します。
自己との対峙に耐えられない人は思量に逃げるのです。
或いは、五欲の快楽に逃避するのです。
自己と対峙して、自己を解決しようとする人は、この自己の存在が全ての問題の根源であることに気付きます。
自己の存在が問題であることに気付いている人は、曹洞宗開祖道元禅師が著わされた現状公案の巻の「佛道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというのは自己を忘るるなり。」の一文を初めて目にした時に、これは当然のことと思うのです。
自己を忘れることが得法なのです。
自己を忘れて、法として得ることが有るわけではないのです。
自己を忘れて、法として説くべきことがあるわけではないのです。
非思量の状態を日常生活の中に見ている者は斯く考えるのです。
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2021.10.1
近代・現代に於いて、宗祖道元禅師のように正しく身心脱落した師家は一人もいません。
とても残念なことですが、曹洞宗・臨済宗のどちらにも勝れた豁眼の師家は一人もいないのです。
名僧・高僧といわれる師家や禅僧は幾人かはおられましたが、禅の歴史に残る豁眼の師といわれるほどの禅僧ではないのです。
そのことは、それぞれの老師が著わしました語録・法語・書籍を読めば明らかです。
非思量の非の字も出てきません。一念不生の一念も出てきませんから、それだけで充分その師家の力量が知れるというものです。
非思量の眼で読み進めていけば、すぐに明らかになることです。
私に限らず、非思量の相続ができているような道人ならば、誰にでもすぐに分かることです。
近代・現代の師家方は、それぞれ個性的な方ばかりなのですが、どの方も禅修行に於いて様々な個性的な間違いをするのではなく、多くの修行者が犯すような典型的な間違いをしているのです。
そして、不思議なことに、その間違いは生涯持ち続けて決して正されることなく、修行人生を終えているのです。
どのお師家さんも皆、そうなのです。
その理由は、非思量の重要性に生涯気が付かなかったからです。
修行者はすべからく修行するときには、その初めて接する修行や結果に対して強い期待感や予測を持っているのです。
そして、起り得ること、起り得ないことに対する仮定を心の中に描いて、坐禅の修行を進めていくのです。
彼らは見たいものを見て、見たくないものを無視し、聞きたいことを聞いて、聞きたくないことを聞き流してしまう傾向に陥るのです。
澤木興道老師の言うように「ただ坐る」ということは、人にはあり得ないことであり、出来得ないことです。
澤木興道老師本人も口では「ただ坐る」と言ってはいますが、実際には「ただ坐る」などということは一度として出来たためしはないのです。
人の本質をよく知っていれば、いかなる行動も「ただ」ということはあり得ない事実なのです。
江戸時代に唯一、自分の修行の間違いに気付いて、若い時からそれまで10年以上やってきた修行を捨てて、一からやり直しをして、12〜3年かけて正しく大悟徹底した禅僧がおりました。
その方は原の白隠禅師です。
一からやり直しをした禅僧で私が知っているのは白隠禅師だけで、その他は知りません。
ほとんどのお師家さんは禅の修行に対する強い期待感と平凡な予測感を持っている為に、自分の修行の間違いに気付くことはありません。
たとえ気付いたとしても、再び修行に更なる精進をするのではなく、そのことはだれも気付くことはないだろうと、師家として表舞台で活躍する道を選ぶのです。
修行の最初が間違っているが故に、間違っている修行を土台に人生を重ね、修行を重ねても、修行が深まっていくことはないのです。
その修行が非思量でなかったが故に、自然に修正されていくということもなく、間違ったままの修行の生涯を終えるのです。
相手がお師家さんですから誰も正してくれる人もいませんし、師家本人も、自分の間違いを指摘されたくもないのです。
今まで、原田祖岳老師と飯田とう隠老師と井上義衍老師の典型的な間違いを明らかにしてまいりました。
典型的な間違いは、具体例を挙げて説明していったほうが一般の方には理解し易いものです。
理論的に間違いを示しても、具体的な事例でないと人は理解することが難しいものです。
特に禅の世界は身近ではありませんので、分かりにくいのです。
上記のような理由で、私は具体的に近代・現代で目立って活躍された身近なお師家さんを取り上げてまいりました。
近代・現代の高名なお師家さん方は、祖師方の語録・法語をよく勉強しておられ、禅の知識も経験も豊富ですから、法理の説明が巧みです。
そして、修行者を魅する話術も長けているのですから誤魔化されるのは無理もないことです。
若い雲水や未熟な禅僧や一般参禅者は高名な師家を尊敬して期待して集まっているものですから、師家老師の基本的な間違いに気付くことはないのです。
そこでこの度、未熟ながら田舎の貧乏寺の住職が、佛陀や祖師方や開祖道元禅師への報恩感謝の意を込めて、各師家老師方の決して正されることのない間違いを、これまでもこれからも具体的に指摘させて頂くことにしたのです。
これから禅の修行を目指す者にとって有意義であると信じて行うものです。
近代・現代の高名な師家老師方を批判することが目的で書き残しているわけではありません。
正しい禅の修行を求めている修行者が正しく順調に修行ができることを願ってのことです。
これは、私の長年に亘る苦い修行経験が根底にあるからです。
何人かの高名な師家について教えを受け、坐禅をしても何にもならなかったのです。
時間の無駄使いをしたということが残念です。
道元禅師は帰朝して初めての上堂で「眼横鼻直なることを認得して人に瞞せられず」と述べておられますが、私は眼横鼻直なることを認得していなかったが為に、多くの師家に瞞せられて修行人生の大半を無駄に失ったのです。
取り返しのつかないことですが、正しい修行に気が付いたら、そこから始めるしかないのです。
禅の修行は間違いに気付いたら幾つになっても、今までのものは全部捨ててそこから始め直すしかないのです。
それも最初からです。今までの修行に接いでやるようなわけにはいかないのです。
木に竹を接ぐようなものになってしまうからです。
禅の修行の間違いは、それまでの修行は無駄となるばかりで何も益することはありません。よい教訓となることはないのです。
誤った修行は佛道に於いては、益することは一つもないのです。
今までの修行は一つ残らず全部捨てるしかないのです。
誤った修行では月日を無駄にするばかりで、身心脱落い於いては何も益することはありませんから、最初に正しく基本的な修行の有り方を祖師方の語録や法話集や書籍から学ぶ必要があります。
それから正しい修行をしているとみられる禅僧を全国に探すとよいでしょう。
今回は曹洞宗の昭和の名僧で「宿なし興道」と呼ばれた澤木興道老師の修行観・坐禅観について取り上げてまいります。
澤木興道老師は行の宗教者としては禅僧らしい禅僧で、尊敬に値する人物です。陰徳を重んじる稀な方であることは確かです。
但し、歴代の祖師方が認めるであろう禅僧に、社会性・道徳・倫理性、或いは常識・陰徳・積善等々を問うことは間違いです。
祖師方が用いている「坐禅」という言葉は、「禅の修行」という意味で、表象的に用いているものです。
「坐禅」という用語は、禅の修行を表象しているのであって、必ずしも坐禅の姿勢をとることを意味しているわけではありません。
禅の修行イコール坐禅を組むこと(坐禅の姿勢をとること)と思い描くことは間違いです。
祖師方は、「坐禅」という言葉は禅の修行全般の表象として用いていることが多いので注意が必要です。
禅の修行は精神上で行うのです。
肉体に於いて行うわけではないのですから、勘違いをしないことです。
肉体への修行が精神への修行に直結し、連動しているわけではありません。
肉体を鍛えても精神を鍛えることにはならないからです。
精神を鍛えても肉体は鍛えられないのです。
相互に連係している関係は無いからです。
苦悩は肉体から生まれるわけではなく、精神から生まれます。
精神の活動はすべて脳の神経回路、精神細胞(ニューロン)の活動です。
肉体には苦悩を生み出す器官はどこにも存在していないのです。
よって、肉体をいくら鍛えたところで精神的苦悩は何一つ解決されません。
苦悩の原因だということで肉体の一部を切り取ったとしても、苦悩は解決されないのです。
禅の修行は精神上で行うのです。
坐禅の修行というのは精神上行う修行ですから、正師があなたに「坐禅をしていますか?」と問うた場合、「坐禅を組んでいますか?」という意味ではなく、「禅の修行をしていますか?」という意味です。
禅の修行の要術は非思量の相続ですから、、「非思量の相続を怠りなく工夫していますか?」という意味です。
ここの処をはき違えると坐禅の姿勢に執着するようになってしまいます。
坐禅の姿勢を保っていると修行をしたような気分になってしまうのです。
実際、そのような方が多いのです。
曹洞禅を修している禅僧や師家は、只管打坐と言って正身端坐の姿にこだわって、非思量の相続は完全に抜け落ちたまま、坐禅を組んで修行した気になってしまっているのです。
坐禅の姿勢である正身端坐に、身心脱落に至る修行の効は期待することはできません。
禅の修行は普遍的なものです。
普遍的にどのような人にも志がありさえすれば行える修行です。禅の修行は人を選びません。
曹洞禅の修行は生きていさえすれば、手や足が不自由で坐禅の姿勢を組めなくともできるのです。
迷い、悩み、苦しみを抱く人であれば、どのような人であろうと、正しい禅の修行はできるのです。
そして、迷い、悩み、苦しみを消滅せしめることができるのです。
窮極的には、生きていさえすれば禅の修行はできるのです。
人のその苦悩は精神(心)から生まれるのであり、精神(心)の活動のすべては頭脳の神経回路、神経細胞(ニューロン)から生み出されるものです。
どのような事(理由)で苦悩するかは、人それぞれですが、迷い苦悩そのものは五体満足であろうとなかろうと、縁によって誰でもが抱くものです。
禅の修行はいかなる人の苦悩も解決できるもので、人を選ぶことはありません。
例えば、目鼻がある首から上の頭だけで生きていることができる人間がいるとしたら、その人間が道を求め、苦悩から解脱することを求めたとしたら、それでも禅の修行は何ら支障なくでき、身心脱落することができるのです。
何故なら、人は心で苦悩し、その苦悩から解脱する修行は心で行うからです。
首から上が常人と同じように生きていれば、苦悩も生まれ、それからの解脱もできるのです。それが佛道です。
窮極的には禅の修行に肉体は必要ないからです。
坐禅の姿勢をとる必要もないからです。
人が悩み苦しむのは肉体ではなく心なのです。
心は肉体にあるのではなく、頭脳にあるのです。
苦悩は肉体から生じるのではなく、心から生まれてくるのです。
よって、解脱の為の修行は肉体ではなく、心に対して心でするのです。
このことを基本的前提として、禅の修行について考えていきませんと間違ってしまうことになります。
澤木興道老師はご自分の五体満足の日常しか禅の修行の前提がないのです。
禅を修行する人の窮極の状態が念頭にないのです。
あらゆる身体の状態の人が修行の対象としてあることを想定できていないのです。
それでは禅の修行を導く立場の師家としては不充分です。
禅の修行の想定に広がりと深さがなく、表面的な目につく処だけなのです。
禅の修行を求める者の窮極を想定すると、坐禅の要術である「非思量」の相続が優れたものでり、正当であることが自覚できるのです。
禅の修行にはあらゆる宗教の文言による教えを超えた普遍性があるのです。
禅の修行は人の苦悩に対応するものです。
禅の修行は人の道徳・倫理・宗教・諸価値観に具体的に対応するものではなく、人の苦悩そのものに対応するものです。
禅の修行を修める前提には、苦悩以外は全くないのです。苦悩の有無だけが修行の動機となるのです。
禅の修行は肉体に対して肉体をもって行うわけではなく、心をもって心に対して行うものです。
肉体には我がないからです。肉体が我を生み出すわけではないからです。
肉体に自己が無いが故に、肉体が迷い苦悩を生み出すのではありません。
肉体が悩み苦しむことはないのです。
眼も、耳も、舌も、ボディーも、四肢も苦しむことはないのです。
それらには自我(自己)はなく、思考力もなく、感情や欲望もないのです。
肉体は負荷をかけて鍛えるのみであり、禅の修行ということではありません。
精神は鍛えるということではなく、自己を消滅することを非思量の相続によって成し遂げるということです。
そのことに気が付いて佛陀は肉体への難行苦行を止め、心(精神)への難行苦行である非思量の修行に取り組んだのです。
非思量の修行は、見た目は肉体への難行苦行と較べて安楽な修行に見えますが、実際にやってみれば分かりますが、精神的な難行苦行なのです。
人の苦悩の全ては心から生み出されることに佛陀は気が付いたのです。
肉体から生み出されるものではないことに気が付いたのです。
佛陀の当時、天竺(インド)では、五大欲である食欲・性欲・睡欲・名誉欲・財欲(金銭欲)は皆、肉体の快・不快を直接もたらすものと考えていたと思います。
それらが満たされることで身体が快となり、その快が心の快に至ると考えていたものと思います。
しかし、これらの欲は肉体から生み出されたとしても、その欲を詳しく観察してみますと、その欲で苦しむのは肉体ではなく、心なのです。
そこで佛陀(シッダールタ)は生きる為に必要な天賦の諸々の欲の消滅を求めることを止めて、その欲の有るままで苦悩することのない心を求めたのです。
欲に引きずられ苦悩することのない寂静の心に至ることを求めたのです。
一般の宗教者のように欲そのものを絶つべく修行したのではないのです。
欲を絶つことによって苦悩から解放されることを求めたのではないのです。
佛陀の人の心の苦悩に対する洞察は深いものです。
佛陀は欲の根元であるとする肉体を極限まで抑圧し苦しめ続けるインド伝来の難行苦行を止めて、心の難行苦行である非思量の相続を試みたのです。
そして、確かに寂静無為の心に至ったのです。
佛陀はその心を得たのです。
禅佛教は四苦八苦等のどのような原因による苦悩であるか、また、その苦悩がどのような状態の苦悩であるかを問いません。
禅佛教の非思量の修行は、苦悩でありさえすれば、いかなる苦悩であろうとも、その苦悩からの解脱が可能なのです。
佛陀は一般の行者のように、欲を断つこと、欲望を消滅せしむることによって心の安らぎを求めたのではありません。
欲がなくなれば、心理学上のゾンビのように人は生きる意欲もなくなり、喜怒哀楽の感情もなくなり、無味乾燥な日常しかなくなってしまうことに気付いていたのです。
あらゆる欲望に中庸(中道)を求めたのです。
それは非思量の相続で可能となったのです。
非思量の修行は欲望・感情・五感は相手にせず放っておいたまま行うものです。
これらのことを一つもコントロールしないのです。抑制もしないのです。
佛陀は苦悩の原因を精神内の「自己」の存在と見たのです。
欲望の存在、欲望を生み出す肉体が苦悩の原因でないことに気付いての修行だったのです。
精神内の自己を消滅せしめる修行なのです。
精神内の自己から解放される修行が非思量の相続なのです。
この精神内の自己は自意識過剰という時の自己であり、それは世間一般でいう処の意識のことです。
澤木興道老師は戦前から活躍された昭和に代表される曹洞宗の師家です。
名聞利養と無縁の名師家で、行を重んじる修行観なのです。
寺も地位もないまま全国を禅の講義・提唱と坐禅の指導で訪ね歩き、「宿なし興道」と呼ばれ、尊敬されていた禅僧です。
曹洞宗開祖道元禅師の著わされた正法眼蔵をよく勉強しておられたようで、縦横無尽に引用しいて講義・提唱をしておられました。
澤木興道老師は今日までの多くの曹洞宗師家を育て上げ、興道老師一門の師家が現在の曹洞宗の主流をなしております。
今日の曹洞宗師家会の会長は興道老師の薫陶を受け師事した尼僧老師なのです。
澤木興道老師が曹洞禅の坐禅をどのように取り上げ、説き、指導していたかについて、基本的な処で問題点が大きくあるように感じております。
澤木興道老師の坐禅観・修行観は、その著「坐禅の仕方と心得(代々木書院発行)」という書籍に明らかに示されておりますので、そこから抜粋して紹介しつつ問題点を指摘してまいります。
このことは正しい禅修行を求める修行者に役に立つものと思います。
今日まで澤木興道老師の坐禅観・修行観の問題点を指摘した師家は一人もおりません、
それが、今日の何も求めることなく、悟りも求めることなく、「唯だ 坐れ」 「唯だ 坐る」 「只管打坐」という現代の曹洞禅を作り上げ、「坐禅レス禅」と揶揄される現状を導いた原因と私は考えています。
澤木興道老師の禅の坐禅観・修行観は独自のものがありまして、開祖道元禅師の著わされた「普勧坐禅儀」とは基本的な処でずれているのです。
澤木興道老師は道元禅師と同じように説いているのですが、その解釈が道元禅師の真意からずれているのです。
道元禅師が重きを置いている処と澤木興道老師の重きを置いている処が異なっているのです。
澤木興道老師は無常心から生まれた修行観ではなく、現場たたき上げの禅の職人気質から生まれたような修行観です。
他宗派のように下座行に重きを置いているのです。
陰徳を積む行に重きを置いた修行観です。
その反面、姿勢・態度に禅修行の中心を持ってきているのです。インドの難行苦行の行者のような修行観なのです。
澤木興道老師に非思量(一念不生)は無いのです。
澤木興道老師は
「禅の修行は形も内容も、佛と一つになるのが坐禅である。
そのために第一に坐禅の形を鍛練しなければ駄目だ。」と説いています。
坐禅の修行は形が大切であると述べていることは、「正身端坐」のことであり、それは道元禅師が説いた一般的な普遍的な坐禅の組んだ姿勢のことです。
これは「正身端坐」という特別の坐禅の姿勢があるわけではなく、ヨガも臨済禅も曹洞禅も、しっかりと坐禅を組めば、それをもって「正身端坐」と言うのです。
坐禅の姿勢にこだわる修行者は非思量の相続を軽視することになるのです。不思議なことに必ずそうなるのです。
「第一に坐禅の形を鍛練しなくてはならない」という見解は禅の修行の基本を誤解している言葉です。
坐禅の形は鍛練するようなものではありません。
それを鍛練するものと捉えることは坐禅に対する考え方が基本的に間違っているのです。
道元禅師は坐禅の形を鍛練するものとは捉えていません。
どこで、どう間違えたのか分かりませんが、禅の修行を坐禅という坐形をとり続ける「行」と捉えたものと思います。
このようなことを説いている祖師方は一人もおりませんから、澤木興道老師独自の修行観です。
「正身端坐」という言葉にはそれほど厳密な意味はありません。
調心である非思量の相続が妨げられない程度に坐禅の姿勢を保てればよいのです。
各人の身体の具合に合わせて、ほどほどにできていればそれで充分です。神経質になる必要はないのです。
坐禅の要術である「非思量」の相続が重要であり、そこに禅修行の視点を置かなくてはならないのです。
次に、澤木興道老師が禅の修行についてどのように述べているのか簡単に紹介致します。
「此の人間の身体という肉塊の向け方一つで此の身、此のままが佛である。」
と述べております。
ですが、禅の修行は肉塊で行うわけではなく心で行うのです。
肉塊には身心脱落の身心はないのです。
身心脱落の身心のあるところは心(精神)です。
肉塊をどのように向けようと、此の肉塊から身心は脱落しないのです。
肉塊は佛でもありませんし、凡でも聖でもなく、単なる肉塊にしかすぎないのです。
澤木興道老師は我々が身体と思っている身体に二通りの身体があることを知らないのです。
身心脱落の「身」は、肉塊の身体ではなく、精神内に作られた実体のない身体です。
佛道に於いては、この精神内に作られた実体のない身体の脱落が求められるのです。
禅の修行を肉塊に求めても無意味です。
「佛陀は端厳微妙の御姿で坐禅され、説法されたところに大きな力があったのである。」
と述べております。
ですが、佛陀の見目麗しい姿や見掛けに力があったわけでありません。
これは澤木興道老師の佛陀なら多分そうあるはずであるという佛陀に対する願望上の空想で根拠のないことです。
佛陀の力は無我によるものです。
自己の脱落した心で説いたところに大きな力があったのです。
見目麗しい御姿であるかどうかは、佛道に於いては問題ではありません。
禅者は見てきたような嘘を言ってはならないのです。
「端厳微妙の御姿であるから、大きな力があるのです。
それだから形そのものが精神であり、態度そのものが道そのものであるわけある。」
と述べております。
ですが、端厳微妙の御姿で坐禅をし説法されたから力があるという根拠は一つもないのです。
そのような因果関係も証明することは困難なはずです。
姿の美しさは佛道に於いては何の意味もないのです。
このような外見で人の心の中を判断することは大きな誤りです。
宗教者としては問題のある見解です。
外見や態度で、その人が身心脱落しているかいないかの判断はできません。
形そのものは精神を表していませんし、態度そのものが身心脱落をしているかいないかを表していることはないのです。
我々凡人が姿を佛陀に似せたところで中味の心は凡人のままです。そのようなことに何の意味があるのでしょうか?
佛陀と同じような姿勢で坐禅をしたところで悟りの心境とは程遠いのです。
佛陀の姿を真似しても、心までは真似できないのです。
佛陀の言葉を真似しても、心までは真似できないのです。
澤木興道老師はこのことが全く理解できていないのです。
澤木興道老師の独得の修行観・坐禅観については、別の機会に詳しく、その誤りを指摘しなければならないと考えております。
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2021.11.1
現代の曹洞宗の師家方の坐禅の指導は、呼吸を整えて、姿勢を正して、只、坐っていればよい。頭の中の雑念・煩悩等の考え思いは、出るに任せ、滅するに任せて、相手にしなければそれでよい。放っておけばよいのだ。取り立てて何かをする必要はない。
大切なのは姿勢を正して、唯だ坐っていることだと説いています。
これを正身端坐と言い、只管打坐であるとして重視するのです。
このような簡単なことで悟れる(身心脱落できる)のなら有り難いことです。
このように説く師家方は、正身端坐という坐禅の姿勢に私達常人では分からない神秘的な悟りに直結する何かがあると信じているのです。
正身端坐という佛陀と同じ坐禅の姿に、佛陀の悟りに通じる何かがあると信じているのです。
実証に基づく坐禅ではなく、「信」に基づく坐禅観の坐禅です。
信に基づく坐禅観は、正身端坐を離れれば一般の人と何ら違いはないのです。
このような現代の曹洞宗の師家の説く修行の中には開祖道元禅師や他の祖師方の説く「非思量」や「一念不生」は全く除外されているのです。
なぜ、このような坐禅観になったのか、その経緯は知りませんが、この修行方法を特に強く推進したのは、昭和の名僧澤木興道老師です。
澤木興道老師は無我の精神よりも悟りの姿である坐禅の姿勢を鍛練すべしと唱えたのです。
禅の修行は何よりも形からいくものでなければならないと信じているのです。
私達の肉体を煩悩の塊と見立てて、煩悩の塊である肉体を徹底的に抑え込んで、正身端坐という姿を保つことによって、身も心も佛陀と同じ在り方になると述べています。
しかし、この考え方は間違いです。
非思量の調心(修行・相続)がなされなければ、心が迷いや煩悩から解放されることはありません。
身体への修行が心の修行になるという因果関係はないのです。
身体に於ける修行が精神に於ける修行に連動しているという因果関係はありませんので、苦悩の解決は肉体に求めても無意味です。
インドの行者の肉体への難行苦行という修行観を、佛陀(シッダールタ)は自らそれらの全ての難行苦行を完全にし終わった結果、何も解決しないことがはっきりして、間違いであることに気付いて止めたのです。
そして、精神内の自己を相手にした修行を模索し始めたのです。
そして、非思量(一念不生)の精神状態に至り身心脱落(悟り)をしたのです。
身心脱落に至るには非思量(一念不生)以外の方法は無いのです。
曹洞禅の修行をするとするならば、祖師方、或いは曹洞宗開祖道元禅師の唱えた非思量の相続を知らなくてはなりません。
曹洞宗開祖道元禅師の説いている非思量という修行の仕方は、一般の人には分かりにくいので非思量を知っている人に教えてもらわなくてはなりません。
非思量という修行の方法は実際に修している師家によって教えてもらうことができます。
但し、非思量という用語を知っていても、非思量という修行の実際を知らない禅僧や師家が多いのですから注意が必要です。
例えば、浜松市の井上義衍老師一門の師家やその印可を受けた人達は、非思量と称して机を叩いて見せたり、扇子を広げたりして見せたりしているのです。
手をたたいたりして、これが事実であって、非思量だと言っているのですが、これは全くの勘違いの思い違いです。
井上義衍老師は非思量の説明として、見当違いの「無分別の分別」の説明をしています。
井上義衍老師は「非思量の様子」と「無分別の分別の様子」の区別が分かっていないのです。
無分別の分別の様子は、非思量の状態になると自然に分かることです。
井上義衍老師は「非思量」も「無分別の分別」も法理として理解していても、実体験がない為に、「非思量」と「無分別の分別」の法理が混同してしまっているのです。
非思量が人の精神活動の何を指すのかが理解できていないのです。
法理は祖師方の法語や祖録を勉強すれば身に付くものですから、法理に詳しくても修行に於いては意味がありません。
一般の禅僧や参禅者等の修行者にはどちらをどのように説いても区別できる人はいないのですから問題はないのですが・・・。
非思量という状態は師家によって教えてもらうことはできますが、それを知っただけでは修行にはなりません。
それを禅の修行とするのは、ヨガのように手脚を組んで姿勢を正して正身端坐と称して坐っただけではダメなのです。
非思量の状態は自然にやれてしまうことはありませんし、坐禅を組んで坐っていればできてしまうということもありません。
非思量の状態を維持する為には、しっかりした意志とかなりの忍耐力が必要です。
非思量の精神状態をある一定時間維持しなければならないのです。
非思量の状態を、ある一定時間維持する為の工夫をしなければならないのです。
例えば、坐禅一ちゅう40分間、非思量の状態を維持する為に自分なりの工夫を考えてそれを試すのです。
いろいろ工夫してみた中から、非思量の状態をより長い時間維持できる方法を見出していくのです。
この積み重ねが修行です。
そして、非思量の状態を維持・相続する努力を重ねるのです。
これが禅の修行であり、佛道精進の中味です。
非思量の相続は、唯坐る坐禅の只管打坐よりもはるかに難しく苦しいものですから、余程の道を求める心がなければ全うできません。
道心は無常心から生まれるものですから、時光のはなはだ速やかになることの恐怖心が大切です。無常心を何度も何度も思い起こすのです。
そして、時間の過ぎ去ることの速やかさを恐れるのです。
禅の修行のエネルギーは無常を観ずる心から生まれるのです。
このことを忘れてはなりません。
非思量というのは難しいことではなく、ごく日常的な、思い考えや想像の精神活動・行為が一切停止した状態を指しています。
字義通りです。
思い考え、想像の停止した状態というのは頭の中で一切の言葉や物の形や姿や色や動きのない状態、生滅していない状態、存在していない空白の状態を指します。
井上義衍老師やその一門の衆は、そのような精神状態は一般の人のできることではないと考えているのです。
不可能と考えているので、非思量を無分別の分別の説明でその場をなんとか整合性をとってやり過ごそうとしたのではないかと思います。
非思量の修行をしたことがない為に説明ができないのです。
想像の停止も非思量に入ります。
頭の中で物の色・形・姿・動きが一切存在しない状態を指します。
ただ、これだけのことです。
禅と雖も、超理論的説明はいりません。煙に巻くような言い回しをする必要はないのです。
井上一門の師家のように机を叩いた処で、それは視覚と聴覚に訴えただけです。
視覚と聴覚が反応したことをもって非思量とするのは誤りです。
視覚と聴覚の反応は、身心脱落していようといなかろうと、思量があろうと無かろうと、自己があろうと無かろうと、何の問題もなく即、なされるのです。
思量の有無に拘らず、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感の反応は縁に即応するようにできているのです。
机を叩いて、是れが非思量ですと説いている井上哲玄老師や井上貫道老師や一門の禅僧方は、全くの当てずっぽうに自信ありげにやって見せただけのことです。
いわゆる非思量を超理論的に或いは、没理論的に自信ありげに演じただけのことです。
禅の不立文字を逆手にとって身体で演じて見せて整合性をとろうとしたのです。
井上老師達は実際は非思量の経験がないのです。
師僧の故井上義衍老師の非思量の説明を見ても同様のことを言っていますので、義衍老師も非思量の修行の経験が無いことは明らかです。
非思量の経験が無いということは、一念不生も分かっていないということですから、当然、曹洞禅の身心脱落の体験はないのです。
身心脱落は非思量の相続以外で至ることは無いのです。
「非思量」は坐禅の要となる方法です。身心脱落にとって要となる精神状態です。
非思量を相続するには、相続する為の工夫が必要です。
非思量が分かっても、それを維持する工夫が必要なのです。
どのようにしたら非思量を相続できるのか様々に試してみるのです。
それを工夫と言います。
唯坐っているだけでは何の工夫もいりません。
思いや考えが生滅しても、生ずるに任せ、滅するに任せていればよいとのことですから、何の工夫もせずに、唯坐っていればよいのです。
これが澤木興道老師の坐禅の要術です。
祖師方とは随分と違いがあります。
思量の不生を求める祖師と、思量は放っておけばよいとする澤木興道老師との違いは大きいのです。
祖師の坐禅の要術と、澤木興道老師の坐禅の要術とは、隔たりが大きすぎて交わることはないのです。
曹洞宗開祖道元禅師は修行の調心として次のように述べております。
ひき続いて私の訳を書きました。
・『一念不生なるを無念とす。』
一つの念も生じていない状態を無念という。
・『念を動ずればたちまち誤まる。
只一念も生ぜずんば、自然に佛祖の心に相応す。』
思量を動かすと佛道修行に於いて即座に誤ったものとなる。
只一つの思量も生じなければ自然に佛祖の心に相応したものとなる。
・『衆生、成佛せんと思はば先ず無念なるべし。
無念なるが故に成佛すと云へり。』
人々悟りを開きたいと思うならば、先ず非思量、つまり、思い・考え・想像の停止した状態にならなければならない。
念が全く生じない故に悟ることができると云へるのです。
・『一念不生なれば、衆生則ち、是れ佛なり。
一念生ぜば、佛もまた衆生なり。』
一念も生じなければ、我々一般の人々も佛と同等の人格(精神レベル)なのである。
一つの思量が動けば、佛と雖も迷い苦悩する衆と同等の人格(精神レベル)になってしまうのです。
・『一念起らざれば、生死ここに絶す。
思量分別なければ万法において明かなるべし。』
一つの思量も生じなければ、生死の概念は消滅してしまいます。
つまり、生死の恐怖・不安は消滅してしまうのです。
非思量の状態であれば、すべての妄想や概念が消滅してしまい物事の本質が明白となるのです。
・『無念の処をも、心をもって無念と思はざれ、有念、無念を離れて、一念不生なるを無念とす。』
無念の状態を思い、考え、想像をして無念と思ってはいけない。
「心をもって」の「心」は思い考えのことです。
念が有るとか、念が無いとかいう思い考えを離れた(止めた)、一つの念も生じない心の状態を無念というのです。
・『只、こいわがわく(心から望むこと)は、学道の人(佛道の修行をする人)、妄想(何を妄想とし、何を妄想としないかは人によって異なるので、その線引きはできない)の境に住して、萬想(万ずの妄想)を生ずることなかれ。
有相に著して、著に相なさざれ。
念に住して心を求めず、妄をも除かず、真をも求めず。
また一向(まったく、ひたすら)に無念になれと云ふにはあらず。
念ありとも念に著せざれ。
相ありとも相に著せざれと云ふ義なり。
此の如く会得して一念不生の処に工夫をなすを大徹の人と云ふなり。』
ただ、心から望むことには佛道の修行をする人、妄想の心境に住んでいますが、その中で諸々の妄想を生じさせてはなりません。
状況に応じた自分の様子、イメージ、姿勢、動き、表情等々を、いわゆる意識したり、気にしたり、一つ一つ自覚したり、執著(著は着に同じ)の様相を抱いてはなりません。心眼で見る自己の様子のことです。
思い考えの日常にあって、思量によって心を求めたりせず、妄想を取り除こうとしたりせず、真理も求めたりしようとせず、また、全くの念の無い心になれと言うのではありません。
思い考えがあっても、思い考えに執着してはならないのです。
様相、イメージがあっても自分の様相やイメージに執着してはならないという意味です。
このように理解して、それはそれとして、一念も生じない状態に工夫する人を大徹の人と言うのです。
以上のように工夫すれば大悟徹底することは間違いありませんから、大徹の人と述べたものと思います。
以上が道元禅師の一念不生・無念・非思量についての説示です。
すべては万の境界に於いて一念不生、即ち非思量が禅門の修行の唯一最良の方法であると説き示しているのです。
以上の文の中では非思量よりも一念不生・無念の言葉が主に用いられておりますが、非思量よりも一念不生・無念のほうが字の解釈が容易であり、言わんとすることが修行者や一般の人に伝わり易いと考えて用いていたものと思います。
これに対して昭和の曹洞宗の名僧澤木興道老師は坐禅の心の調え方について次のように説いております。
その文を紹介致します。
『坐禅をしている間に、たとひ八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。
悟りを求めず、迷いを払はず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず。
只起るに任せ、滅するに任せておく。』
そして『唯坐る。』と説いています。
これが澤木興道老師の説く只管打坐です。
『坐禅の身構えは諸佛と同体になることであり、
なんと云ってもこれが第一でなければならぬ。
身構えが正しくなければ少しも感化力のないことは前にも述べたが、
正しい坐禅によって、正しく坐ることによってのみ、
正見も得られ、正しい悟りも得られるのである。』
と述べ、これが澤木興道老師が正身端坐に重きを置く理由なのです。
澤木興道老師の禅修行の要は正身端坐に於ける只管打坐なのです。
澤木興道老師は思い考えは起滅しても取り合わなければよい、念が生滅しても相手にせずに唯坐っておればよいという考えです。
この中には、無念も一念不生も非思量も全く出てこないのです。
それらに該当する言葉も一切ないのです。
澤木興道老師の独自の坐禅観です。
澤木興道老師は宗祖道元禅師の説いている「妄想の境に住して萬想を生ずることなかれ。」と全く相反することを述べているのです。
一般の人は妄想の境の日常に於いて、雑念の起滅の生活です。
そして、それらをいちいち取り合っていないで放っておき、起滅に任せている日常なのです。
澤木興道老師の述べていることは、一般の人が雑念をどのように相手にしているか、どのように処理しているかについての生活の知恵と同じです。
澤木興道老師の調心は一般の人の日常そのままです。そこには禅としての工夫は一つもないのです。
思量の存在を容認した内容で、明らかに祖師方の一念不生とは相反する異なった内容です。
そして、禅の修行は坐禅の身構えが第一でなければならないとして、身体が正しく坐れば正しい悟りも得られるとしているのです。
身体が正しい坐禅の姿をしたところで、それによって心の中から自己が消滅し、死の苦から解放されることはありません。不安神経症が消滅してしまうことはないのです。
澤木興道老師は独自の修行観・坐禅観を具現化するものとして、正身端坐と只管打坐を打ち出しているのです。
この中には祖師方や開祖道元禅師の説く無念も一念不生も非思量も全くないのです。
最後に、京都東福寺開祖 聖一国師の坐禅論とも云うべき仮名法語の一節を紹介します。
聖一国師(圓爾辯圓禅師)
名は辯圓、字は圓爾といい、駿州の人なり。
宋に入り天童山及び径山にて修行。
佛鑑禅師の衣鉢を得て帰り、盛んに祖道を唱ふ。
弘安3年10月16日示寂す。世寿79年なり。
いつでも臨終と心得て修行すれば修行も真剣になるものです。
この法語は臨終の用心について説いたものです。
例えば、余命1年とか半年とかと医師から告げられた時に、人はなすすべもなく苦悶するだけです。
一般の人にはどにように覚悟すべきか、どのように余命を生きるべきかの手がかりが全くないのです。
その為の用心について述べたものです。
珍しいので紹介致します。
信仰の人生の指針となるべきものです。
終わり良ければ総て良しです。
以下 ( )内の言葉はその前の・・・の言葉の訳です。
問うて曰く
「若し見性成佛の宗を明らめず(身心脱落ができていないのに)
臨終におもむかん時、末期の用心いかんがすべきや。」
答えて曰く
「一心(思い考え)おこりて生死あり、
無心(思い考えの無い、生じない)のとき生ずる身もなく、無念のとき滅する心(思い考え)もなし。
無念無心のとき、全く生滅なし。
此身体はただ草葉に結ぶ露の如し、露に本より主(自己・自我)なし。
我が身ありと思ふ心を止めて、本来一物なき処(この文の場合では、無念無想・非思量・一念不生のこと)に打ち向ひ、
生ずるとも思はず、死するとも思はず、無心(思い考えの無いこと)無念(思い考えの無いこと)なれば、
三世諸佛(あらゆる佛陀)の大涅槃(悟り)にひとし。
善悪の相(様相・様子)、種々に現じて(現れて)見ゆるとも、目にかくべからず(目にかけてはいけない・気にかけてはいけない)。
髪筋程(毛一筋)も心(思い考え)をおこさば、是れ輪廻(迷い・苦悩の世界)の種(原因)なるべし。
只須らく、無心(非思量・一念不生)を修行(相続・維持)して行住坐臥忘れずんば(四六時中忘れなければ)、最後の用心あるべからず(このこと以外になすべき末期の用心はない)。」
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2021.12.2
今回は禅語である「平常心」について説明致します。
この「平常心」の読み方は「へいじょうしん」と「びょうじょうしん」の2通りあり、その読み方に拘っている師家が時々おられます。
馬祖道一禅師が当時、中国でどのように発音していたかは禅修行に於いては全く問題ではないのに、問題にしている師家が時々いるのです。
そのようなことに拘っていたり問題にする師家に限って、馬祖道一禅師が「平常心」をどのような意味で述べていたかについては無頓着です。
そして、彼らは非思量(一念不生)の相続の経験のないまま、身心脱落していない立ち位置から、一般の人と変わらない常識的感覚で字義通りに説明しているのです。
その説明は馬祖道一禅師の説明とは大きく異なっていて間違いなのです。
近代・現代の曹洞禅の師家で、馬祖道一禅師の意図に沿った説明をしている師家は一人としていないのです。
それは、宗祖道元禅師の非思量の説明が道元禅師の意図していることと大きく異なっているのと同様なのです。
祖師方の意を汲み取ることに極めて無頓着で、師家として自論を展開して良しとする傾向があるようです。
馬祖道一禅師は次の系譜の通りの歴史上の重要な位置におられる祖師です。
六祖慧能―@Aに分かれる
@青原行思―石頭希遷―雲厳曇晟―洞山良价(曹洞宗)
A南嶽懐譲―馬祖道一―百丈懐海―BCに分かれる
百丈懐海―BCに分かれる
Bい山霊祐―仰山慧寂(い仰宗)
C黄檗希運―臨済義玄(臨済宗)
これは唐末から宋代にかけて形成された禅の伝灯系譜の大枠です。
馬祖道一禅師は漢州(四川省)什ほう県の人にして、姓は馬氏といい、親は箕作りなどを業とする貧乏な家の子として生まれ、容貌が特異で、日常の言動が衆目を引くような特別の個性があったと伝えられております。
馬祖道一禅師の世寿は明らかではないのですが、90才前後の天寿を全うしたのではないかと言われております。
中国盛唐の時期を中心に活躍した祖師です。
この「平常心」は「即心即佛」と共に馬祖道一禅師の特色を端的に示す言葉です。
「平常心」は近代・現代に於いて多くの師家が提唱や講義のなかで多用する禅語の一つです。
一般の人にも身近にある言葉で、心が動揺するような時に、「平常心を心掛ける」とか、「平常心で対応していく」というように用いています。
これは、普段と変わりなく、冷静に、落ち着いた心という意味で用いているのです。
しかし、禅門に於いて師家方の「平常心」の用い方・「平常心」の説明は、馬祖道一禅師の意図していることとは随分とかけ離れたものとなっているのが現実です。
昨年(2020年)遷化されました発心寺の堂長老師 故原田雪渓老師の説明に於いても同様です。
その大きな原因は、どの師家方も、馬祖道一禅師や各祖師方の説く一念不生や道元禅師の説く非思量の相続の修行経験が無いということにあるのです。
一念不生や非思量の体験が無ければ、師家は有我有心、つまり、自己(我・自我)が心の中に有り、思い考えのある精神状態の様子から平常心を説くものですから、間違うのです。
平常心を説く立ち位置の心理が祖師方と真反対にあるのですから間違うこととなるのです。
少なくとも一念不生や非思量の相続の立場から有我無心、つまり、自己(我・自我)が未だ有っても、無心(非思量のこと)の様子で説けば間違うことはないのです。
無我無心ならば申し分が無いのですが、師家としては、せめて有我無心の様子で説いてもらいたいものです。
そうでなければ、日常、縁に応じて迷い苦悩する自己を抱えた在家の一般の参禅者の心理状態と何ら異なることはないのです。
これから「平常心」について、馬祖道一禅師はどのように説いているのかを紹介致します。
馬祖禅師曰く
『衆に示して云く。
道は修するを用いず、但だ汚染すること莫れ。
何をか汚染となす。
但そ、生死の心有りて造作し、趣向せば、皆是れ汚染なり。
若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり。
何をか「平常心」と謂う。
造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡聖無。
経に云く、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なりと。』
以上です。
このままでは雲水さんや一般の修行者には理解できませんから、解説をしてまいります。
大衆(修行僧達)に示して云うには、
佛道はいわゆる一般的に考えられている従来の修行、身体への苦痛や過酷な忍耐の要る修行をすることは必要がなく、ただ汚染してはならないということです。
「非思量」「汚染すること莫れ」「一念不生」は思い考えない状態のことですから、この精神状態に在ることを当時の祖師方は修行とは考えていなかったのです。
無念無想の精神状態に在るのは、従来の修行観からすると、修行という概念のものではなかったのです。
「道は修するを用いず」と説いている馬祖道一禅師始め祖師方は、私と同様に、非思量(一念不生)の精神状態が特別なものではなく日常的に有ったということです。
馬祖道一禅師にとっては、もともと非思量は日常的にある様子ですから、その非思量の様子を手に入れる為の特別の修行をするには及ばないのです。
例えば、公案禅のように修行をする必要はないのです。
ですから、佛道は修行する必要はなく「汚染すること莫れ」と説いているのです。
思い・考えをやめなさいと述べているのです。
馬祖道一禅師や祖師方にとっては思い・考えをやめることは修行の範疇に入っていなかったのです。
生身の身体を用いることはなく、苦痛のない行いですから、修するを用いずと述べているのです。
以下の文を見ていけば、思い考えることを心の汚染と捉えていることが分かります。
それでは何をもって汚染というのですか?
総じて生死についての思い考えが有って無用な作為をしたり、何か目的をもってそれに向かって行ったりすれば、それらは皆、思い考えを用いるので汚染なのです。
「生死の心有りて」の「心」は思い・考えのことです。
造作をする時も、趣向する時も、人は皆、必ず思慮分別をするのです。
人の思慮分別は必ず念と想を用います。
人が思慮・分別の思い考えをすることを「汚染」と言っているのです。
頭脳の中で言葉を用いること、そして、想像することを「汚染」と言っているのです。
非思量の状態の天然の脳を、煩悩の素である言葉で汚がすと見たのです。
これは道元禅師の述べておられる染汚・不染汚のことです。
歴史的にいつ、誰が言葉をひっくり返したのか知りませんが、道元禅師は、馬祖道一禅師の汚染を染汚という形で用い、その反対を不染汚という形で用いております。
どちらであれ意味する処は同じですから、このようなことは問題にすることはありません。
若し直ちに、其の道(佛道)を会得したければ「平常心」を会得しなさい。
「平常心」こそが佛道そのものです。
それでは「平常心」というのはどういうことを謂(言)うのですか?
平常心というのは造作無く、是非することも無く、取捨選択することも無く、断見・常見という思想・見解を用いることも無く、凡人という見方・区別も無く、聖人という見方・区別も無いことを言うのです。
以上のことは物事を比較し対立的に捉える・見るという意味に解釈する師家が多いのですが、そうではありません。
このように見て解釈するのは非思量(一念不生)の様子を知らないが為に斯く解釈をするのです。
非思量(一念不生)を知っていれば、物事を比較して見たり対立的に捉えるという見方をすることはなく、ただ単に、思慮分別を端から端まで網羅して捉える為に、例えば「最是から最非」、或いは「最善から最悪」に至るまですべてということで、「是非」「善悪」と言い表しているのだということが分かります。
この中に「是」に関する微妙なことから、本論的確定的なことまで全て含まれるのです。
「非」についても同様です。
人によって「是」も「非」も、随分と幅がある思慮・分別なのですから、それらを一括りにして、是非・善悪・凡聖と言い表しているのです。
佛道を会得しようとするならば、平常心を知りなさいということです。
平常心は即ち一念不生であり非思量のことです。
この馬祖道一禅師の「平常心」は馬祖道一禅師の日常の心の様子なのです。
馬祖道一禅師の日常の心が一念不生の相続ですから、身心脱落をしていない、或いは非思量の相続のできていない師家や禅僧の平常の心とは天地の開きがあるのです。
現代の師家や禅僧の日常の頭脳の中では、思量が連続して生滅しているのです。
思量ばかりの頭なのです。汚染の頭なのです。思量が輪廻転生しているのです。
祖師方の平常は非思量の頭脳状態なのです。不染汚の精神状態なのです。
「生死の心有りて」と述べておりますが、人の心に生死の心(精神・心理)というものはありません。
生死の死を恐怖する心(心理・精神・感情)は死に対する独自の恐怖ではなく、病気や事故やその他に対する恐怖と共通するものです。
恐怖心は程度差はあれ、一つしかなく対象によって異なることはないのです。
生きているという感情も心理も無いのです。
生きている時に生きているという感覚や感情や心理は不要です。
生きている時に、本人が生きていることを自覚することは生物としては不要なことです。
ですから、生きていることを自覚・覚知する器官・機能というものはないのです。
死んだ場合も同様に、死んだことを自覚・覚知する器官・機能は必要がありません。
ですからそのような器官はないのです。
死んでしまった時に、本人が死んでしまったことを自覚、或いは覚知する必要は生物としてはないのです。
それでもって本人が実質に困ることや問題になることは何一つないのです。
生命を宿す時も、この世に生まれ出る時も、死ぬ時も、生物は何一つ自覚がないようになっているのです。
生死の感情、生死を直接覚知する機能というものは人には無いのです。
人に幸せを直接感じる心(精神・心理)というものが無いのと同じです。
人は満足をもって幸せと思うのです。
ここでの「生死の心有りて」の「心」は考え・思い・思量という意味で用いております。
「心」という字にはそういう意味も有るのです。
この「心」がどのような意味で用いられているかは、文の前後で判断します。
この判断力は非思量の相続をしていますと自然についてまいります。それ以外に方法はありません。
ここでは「生死の心」となっていますので、生死の心理とか精神とかいうものはありませんから、生死の思い・考え・思量と解釈(判断)するのです。
非思量の状態にあっては人は、価値観や常識についての分析や判断や分別等をすることができないのです。
馬祖道一禅師の述べている平常心と原田雪渓老師や他の師家方の述べている平常心はその心理状態に於いて天地の隔たりがあるのです。
馬祖道一禅師の説いている平常心は非思量の状態に於ける心(精神)のことです。
原田雪渓老師はじめ他の師家方の説いている平常心は思量の状態に於ける心の平常心です。
同じ平常心という言葉でも具体的な精神状態が全く異なるのです。
それが見えないが故に、既存の師家方は極めて日常的に有心の「平常心」を使うのです。
馬祖道一禅師の意図している平常心は、資格だけの師家や凡人の思量まみれの精神行為ではなく、聖人の見識ある思量の詰まった精神行為でもなく、凡人・聖人の区別を離れた非思量の状態にある菩薩の行為です。
菩薩は身心脱落してはおりませんが、非思量の相続が日常なのです。
菩薩が身心脱落すれば、佛の位に入るのです。菩薩は佛陀の位ではないのです。
弥勒菩薩が悟るのは56億4千万年後となっております。弥勒如来となるのです。
同じ平常心でも禅門に於いて“思量の相続に於ける平常心”と“非思量の相続に於ける平常心”の2つがあることを知っておいて下さい。
2通りの平常心が在ることを知っている禅者は現代に於いては稀です。
非思量の相続が日常の人の行いを「菩薩の行」と言うのです。
現代の印可を受けている師家方も修行者も参禅者も「菩薩の行」ということのできる平常心ではないのですから注意が必要です。
「生死の心有りて」の心は精神・心理・感情という意味ではなく、この場合は思い・考え・思量であると私は述べました。
人の生きることに対して起動し作用する心とか、死に対して感応し作用する心というのは、私達の精神活動の中にはありません。
喜怒哀楽の感情の中には“死に対する感情”は元々無いのです。
喜びや悲しみや憎しみや怒りの感情はありますが、“死の感情”というのは本来無いのです。
一般の人は死の感情や心があると思い込んでいるだけなのです。実際はないのです。
よって、「生死の心」と祖師方が述べる場合は、生死の感情・精神ということではなく、生死の思い・考えという意味の場合が多いのです。
生死の思い・考えというのは、生死について言葉や姿・形・動きを用い想像を用いて、思い・考えるという意味です。
人は思い・考え・分析・判断し分別する時は必ず人類が作った言葉を用い想像するのです。
禅門の修行に於いては、死について(死に限らず)、言葉を用いる・用いないということが極めて重要です。
死について心を動かすという時、心の中をよく観察すれば、死についての言葉を動かしているということであり、それが死について思い、死について考えるということです。
このことは禅門の修行に於いて見逃してはならないことなのですが、殆どの師家方や修行者は見過ごしてしまうのです。
一般の人と変わらない常識的判断・分別の癖のまま思い考えていては、禅の修行を行うことはできないのです。
禅門の修行に於いては常識的物の見方・考えを一度止めなくてはなりません。
その為にはまず一念不生の相続を修するのです。
非思量の状態を知り、それを相続するのです。
そこから禅門の修行観・坐禅観が明らかになり身に付いてくるのです。
これは常識で考えても決して生まれてくる修行観・坐禅観ではありません。一念不生の相続から生まれてくるのです。
人の生死にまつわる感情を作り上げ、それらを動かすのは言葉です。
生死に関する言葉を用いることによって、自らが作り上げてきた生死の感情・心理が動くのです。
生死について自らの言葉を用いなければ、生死の感情は一つも動かないのです。
このことが理解できるようになる為には、非思量(一念不生)の相続を修していく必要があります。
生死の嫌悪すべき不穏な不気味な感情が動かないようにする為には、生死についての思い考えが起動しないように、思い考える癖を取らなければなりません。
この思い考えるのは癖であり習慣性ですから、その癖が鎮まるまで暫く、一念不生の相続を修める必要があります。
非思量の修行を経ずして、いきなり一超直入如来地というようなことはありませんから、そのようなことは期待せずに地道に修するのです。
非思量の状態で死者に接してみるとよく分かると思います。
思量の状態で死者に接した場合との違いに気付くものと思います。
原田雪渓老師は
普勧坐禅儀の中の「念想観の測量を停めて」の「念想」について、
「念想の念とは考え、しかし考えが一つだけあることはありません。
一念だけにとどまれば念とはいえません。
想は念を相続していってしまうことを続けて想うことをいいます。
いろいろなことを思うのを止めようとして坐ったり、一念だけにとどまるように努めようとして坐ったりすることを止めなさい、一切の働きのままに坐りなさいという意味です。」
と述べております。
念は思い・考え・思量のことであり間違いはありませんが、念が一つでも二つでも、その時その時の念です。念はいつでも念なのです。一念だけでも念なのです。
念は常に一つで、同時に二つ生じることはありません。
想は想像の想で、姿・形や色や動きを想うことです。これを一般に想像というのです。
無念無想の想です。
念を続けて思うことを想というのではありません。
原田雪渓老師は想を連想ゲームの想と捉えているのです。
人というのは最初にそのように思い込んだら、その変更訂正は難しいものです。
原田雪渓老師も井上義衍老師も飯田とう隠老師も、そのように思い込んだ師家です。
原田雪渓老師は「念想観の測量を停めて」というのは、思うことを止めようとして坐ったり、一念の状態を保とうとして坐ったりすることを止めなさい、一切の思量の働くままに坐りなさいという意味だと述べております。
しかし、大燈国師は「起る念は捨つべし。」「念を拂ひ捨てる事を専らにすべし。」と説かれていて、原田雪渓老師とは全く反対のことを説いております。
歴史上の祖師の一人であります大燈国師の言葉を私は正しいとします。
原田雪渓老師が何故このように思ってしまったのか理由が分かりません。
多分、非思量を修したことがないからだと思います。
無分別の分別の立場から非思量を見ることができないからだと思います。
原田雪渓老師云く
「皆さんは、無念無想にならなければいけないという考えは持っていらっしゃらないと思います。
思っていけない、考えてはいけないなどと、思いというもの考えていうものを抑えつけてしまう、これが一番悪い状態であります。
自然に流れ出てくる法そのものを抑えつけていこう、抑えつけていこうとする考えは決して持ってはなりません。
禅は思うことでもありませんし思わないということでもありません。
思う時は思うばかりで思いながら、脱落をしているということです。
思わない時は思わないまま脱落しているということです。」
ここで無念無想は修行に於いては最悪だと述べております。
これは非思量のことであり一念不生のことですから、曹洞禅の修行に於いて最も大切な坐禅の要術です。
原田雪渓老師は自然に生じる思量を雑念・妄想とせずに、「法」そのものと見なしているのですが、それは大いなる間違いです。
身心脱落していない人の思量には自己が必ず伴いますので雑念・妄想なのです。
自己が伴わない思量は雑念・妄想とは言いません。
身心脱落するまでは、全ての思量は雑念であり、妄想です。苦悩の原因となるのです。
祖師方の説く非思量は雑念・妄想の出てくることを認めていないのです。
出てくる思い・考えのない処を父母未生以前の処としているのです。
修行に於いて一切の思量の生ずることを許していないのが歴代の祖師方の見解です。
禅の修行に於いては“思わない・考えない”ということです。
「思う時は思うばかりで思いながら、脱落をしているということ」のできる人は、身心脱落をしている祖師方です。
自我のある我々凡人には、このような様子は実際にはありません。
「思わない時は思わないまま脱落している」のも、身心脱落をしている祖師方の精神状態です。
私達、身心脱落をせず、自我のある凡夫は、思わないままであっても自我が脱落していないのです。
原田雪渓老師は思量と非思量と身心脱落の因果関係が理解できていないのです。
それは非思量の状態が原田雪渓老師自身にないからです。
この責任は原田雪渓老師を指導した井上義衍老師にあります。
井上義衍老師の提唱録や語録を見てみれば、井上義衍老師も非思量の相続の経験が無いことが明らかです。
確かに身心脱落していないのにもかかわらず原田雪渓老師に印可を与えたことが間違いなのです。
原田雪渓老師云く
「佛教ではいわれる死は、このものの変化の様子、無常ということです。
一念が消滅することを死といい、また次の一念が生じることを生といいます。
ですから私達はいつでも生死をくり返しているということです。」
ここで、「このものの変化の様子」と述べていますが、ここで言っているところの「このもの」は自らの身を指している状況のはずです。
自らの身を指して「このもの」というのは井上義衍老師がよくやっていたことです。
師僧の真似をしているのでしょう。
「死」は身の変化の様子・無常を指しての言葉ではありません。
禅門に於ける死は眼前の生身の医学的死を指しているのではなく、人が概念で作り上げた精神上の死です。事実、実際の死ではないのです。
意識が作り出した心理内に描かれている身の死です。
一念が消滅することを「死」と言っているのではありません。
一念の消滅は一念の消滅であって、その通りの意味です。
同様に一念が生じることを「生」と言うこともありません。
生死一如と言いますが、「生」も私達の意識が精神上に作り上げた「生」なのです。
私達の事実、実際に存在している生身の「生」のことではありません。
意識が作り上げた「生死」なのです。
呼吸している自分の生身の「生」ではないのですから注意が必要です。
このことは一定時間の非思量の状態を相続できなければ、知ることはできません。
私達は、生は一回、死は一回で、くり返すことは事実上あり得ません。
精神上、何度も死ぬことはありません。
禅門に於いて概念上の身心(自己)が死ぬことは一度きりです。再び蘇生することはあり得ません。
身心脱落は一度体験してみることが目的ではなく、身心脱落の人となること、身心脱落が日常の人となることが目的です。
禅門の修行に於いて一度死んだ自己(我・自我・意識)が再び生き返ることはないのです。
それが正しい身心脱落です。
正しく身心脱落していなければ、一念が消滅しても自己は有るのです。
次の一念が生じても自己は有るのです。
それが思量と自己(我・自我・意識)の関係です。
【用語の意味】
見惑
思想的・観念的な迷い。知的な迷い。知性の迷い。理に迷う惑。道理のわからぬ惑。
造作
意識して作ること。無用な作為をすること。無駄なことに手間をかけること。造り出す意。
趣向
目的を定めてそれに向かって行くこと。実践すること。赴く。ある一定の方向に進む。
凡俗
凡人と俗人。
凡聖
凡夫と聖者。凡夫とひじり。
一向に
ひたすら。いちずに。全く。すべて。
知見
知識。見識。知ることと見ること。物事を悟り知る知恵。
染汚
煩悩のこと。染めけがす意。けがれ煩悩などで清浄の心をけがすこと。
不染汚
けがれ煩悩などで清浄の心をけがさないこと。是非、善悪等の区別をすること。
非思量、一念不生のこと。
会得
ものごとを充分のみこんで理解すること。理解してすっかり自分のものにすること。
事物のことわりを了解、体得すること。
常見
世界常住、不滅であるとともに、人は死んでも「我」が永久に不滅であると執着する誤った見解。
断見
生はこの世の限りのものとし、因果の理法を認めず、死後の運命を否定して善悪とその果報を無視する見解。
無明
因果関係が明らかでないこと。
親しむ
常に接してなじむこと。
(副詞的に) 自分から。自分で。自身で。
集約
集めて手短にまとめること。
包括
一つにまとめること。
諸法
ありとあらゆる物事。諸事象。
三昧
心を専注して無念なること。心を専注すること。
心を不動にして宗教的瞑想の境地。
心
精神。心理。情。気持ち。感情。思い。考え。思慮。趣。風情。まんなか。
目次へ
2022.1.3
原田雪渓老師は「平常心」について、次のように述べております。
「平常心というのは過去でもない未来でもない、そのこと自体―現在とも言えないそのもの、認めることのできない状態、知・不知に関係のない状態を指した言葉です。」
この見解は、中国唐に於ける禅の全盛時代の祖師の一人である馬祖道一禅師が説きました「平常心」とは随分と離れたものです。
馬祖道一禅師の説く「平常心」と比べますと、哲学的であり、因果の道理を無視した理解の難しいもので、私もどのように解釈したらよいのか困惑してしまいます。
平常心は馬祖道一禅師が用いた禅語といわれる言葉です。
当然、祖師である馬祖道一禅師の説明の方が理に適っていて正しいのです。
そして、簡潔に書かれていて分かり易いのです。
原田雪渓老師の平常心の説明で、何故、最初の処に、過去・現在・未来という時間が出てくるのかが理解できません。
平常心ですから、文字通り「今」のことです。
「今」が平常の時なのです。
平常心に「過去の平常心」というものも、「未来の平常心」というものもありませんし、そのような表現はしないものです。
平常心というのは「今の平常心」ということです。日常の「今の心」ということです。
認めることのできない状態と言っていますが、平常心は認める・認めないという範疇の言葉ではありません。
非思量の状態に於ける心を平常心というのです。
知・不知に関係のない状態と言っていますが、それはどのような状態なのかを明らかにしていないのです。
原田雪渓老師の平常心の説明は、平常心をしっかりと把握したものではなく、全体的に“しどろもどろしたもの”となっております。
何を言っているのか、何を伝えたいのか、御本人自身が分かっていないような文です。
禅は、不立文字である、以心伝心である、と言いたいのかもしれませんが、公案を修行の要と見なしていない祖師方は、言葉をもって、因果の道理にのっとって簡潔に、手を替え品を替えて説明しているのです。
ここで馬祖道一禅師が「平常心」についてどのように説明しておられるのか、前回(2021.12.2)と重なる部分もありますが、紹介致します。
『衆に示して云く。
道は修するを用いず、但だ汚染すること莫れ。
何をか汚染となす。
但そ、生死の心有りて造作し、趣向せば、皆是れ汚染なり。
若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり。
何をか「平常心」と謂う。
造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡聖無。
経に云く、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なりと。』
この「平常心」は、「即心即佛」と同様に馬祖道一禅師の特色を端的に示す言葉です。
「大衆に説示するに、佛道は修行する必要はないのです。
只だ、汚染してはいけないということです。
それではどのような事を汚染というのですか?
汚染というのは、総じて、生死について思ったり考えたりする精神状態で、心の造作をし、心の趣向をすれば、それらは皆汚染なのです。
造作も趣向も皆、自己(自我・意識)を伴って思量するものですから、自己を伴う思量を汚染と言うのです。
自己が伴っていても思量が無ければ、それは染汚しているとは言わないのです。
若し直ちに、佛道を会得しようと欲するならば、平常心を会得することです。
平常心がそのまま佛道なのです。
それでは、どのような精神(心理)状態を平常心と言うのですか?
平常心というのは、造作する考えが無く、物事の是非の判断をすること無く、物事を分別して取捨選択の思い無く、断見・常見という見解を持つこと無く、凡夫であると思慮分別すること無く、聖人であると思慮分別することが無いということです
つまり、全てに於いて非思量である精神状態を平常心と言うのです。。
お経に書いてありました(お経に次のように説かれています)。
「これは凡夫の行い(凡夫の行う修行)ではなく、聖人・賢人の行い(聖人・賢人の行う修行)ではなく、是れは身心脱落してはいないが非思量の精神状態である菩薩の行ないなのである。」
以上が馬祖道一禅師の説かれた平常心の現代語訳です。
更に「平常心是道」ということについて原田雪渓老師が述べている別のものがありますので紹介致します。
「平常心、是道という言葉を知っておられると思います。
貪瞋痴、その他の不安、焦燥等、これらは全部平常心の中にあることです。
それを、平常心が、そのまま道だと言われているわけですから、そういうものを有ってはいけないと捨て去る、或いはそういうものを無くするために坐禅をするのは間違いであることに気が付いていただきたい。」
以上です。
ここで大切なことは、祖師方(佛祖)の精神状態は非思量なのです。
この非思量が、佛祖の日常の心理状態なのです。
非思量の精神状態が、佛祖の平常心です。
非思量の精神状態に於いては、貪瞋痴というものはありませんし、不安焦燥も無いのです。
佛祖の説く平常心には、原田雪渓老師の説くような貪瞋痴や不安焦燥の心理状態は無いのです。当然、それらは平常心の1つの景色ではないのです。
これは原田雪渓老師が非思量の心理に於ける平常心ではなく、一般の人の考える思量の状態に於ける平常心ですので、斯く考えるのです。
平常心には、「祖師方の平常心」と「凡夫の平常心」の2通りの平常心があることを知らなくてはなりません。
非思量の相続のできない者が、佛祖と同じ平常心であるはずはないことぐらい常識的に分かるはずです。
例えば、4〜5歳ぐらいの幼児の平常心と、30〜40歳ぐらいの大人の平常心はかなり違うことぐらいは分かるはずです。
それと同じように、悟りを開かれた佛祖の平常心と、悟りを開いていない凡夫の平常心とは天地の開きほどの違いがあることぐらい常識的に理解できることです。
それが理解できていないということは、原田雪渓老師は非思量に於ける平常心の体験はなく、凡夫の平常心しか知らないということです。
「平常心が、そのまま道だ」と言うには、この平常心は非思量の心理状態に於ける平常心ということなのです。
思量が出放題の私達凡夫の平常心は、「そのままで道である」とは言えません。
祖師方の平常心は非思量ですから、貪瞋痴や不安や焦燥は無いのが普通です。
凡夫の修行は貪瞋痴を構ってはならないのです。只、非思量であればよいのです。
原田雪渓老師の説く平常心は、佛祖の平常心ではなく、凡夫の平常心であって、整理しきれずに混乱しているのです。
馬祖道一禅師の説く平常心は、非思量の相続・一念不生の平常心ですから、そこに貪瞋痴の考えは存在しないのです。
非思量の精神状態で自らの心の中を観察すれば、貪瞋痴の思いが無いことはすぐに分かることです。
原田雪渓老師の説く平常心は、思量の伴う平常心ですから、その中に貪瞋痴等々が全部存在するのです。
原田雪渓老師は、大燈国師の「心生ずれば、種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す」という法語の意味が理解できていないのです。
一念不生を知らないからです。
「心生ずれば」というのは一念が起きればということであって、「雑念・妄想が生ずれば」ということを指しているのです。
大燈国師が「念を佛ひ、捨てる事を専らにすべし」と述べておりますが、これが正しい修行の在り方なのです。
これは貪瞋痴があってはならないと言っているのです。
原田雪渓老師は、大燈国師とは真逆のことを説いているのです。
馬祖道一禅師も大燈国師も、純粋に身心脱落した格段の力量の祖師であることは間違いありません。
原田雪渓老師のその著書や語録を見ましても、原田雪渓老師は、平常心の理解も浅く、非思量の状態の体験も無く、一念不生も修行として修したことがないことは確かですから、歴代の祖師方に比すべきものではないのです。
今からでも遅くはありません。原田雪渓老師は、大燈国師が説いているところの「一念既に起こらざる時は、佛も無く、法も無く、迷いも無く、悟も無し」という言葉を参究しなくてはなりません。
一念不生の状態を相続すれば誰にでも、直ぐに分かる簡明なことです。
「貪瞋痴」という言葉が出てまいりましたが、そのことについて原田雪渓老師が説いたものがありますから紹介致します。
原田雪渓老師は、その著 「The 禅」 の中で
「佛教では貪瞋痴を、すなわち貪りと怒りと愚かさを煩悩と呼んでいます。
煩悩というのは、私達を悩ます根源になっています。
貪りも、怒りも、愚痴も煩悩という名の佛性だということをよく理解してほしいと思います。」
「坐禅の修行力によって煩悩(貪瞋痴)を使っていくだけの力を養わないといけません。
釈迦牟尼佛も煩悩即菩提と言っています。
どんなものが出てきても、いわゆる手をつけずにおりさえすれば、必ずそれが、そのまま菩提に変わるということです。」
「いわゆる手をつけずにおりさえすれば、必ずそれが、そのまま菩提に変わる」
と述べておりますが、この「菩提に変わる」というのは、解脱(身心脱落)することを指します。
手をつけずにおりさえすれば、必ず解脱すると説かれた祖師方は一人もおりません。
「どんなものが出てきても、手をつけずに」というこの言葉の具体的意味がはっきりしません。
原田雪渓老師は「三昧になる」ことをよく説いておりますが、それと同様の言い回しです。
三昧ということを、禅の祖師方で修行の要諦として説かれた方は一人もいないのです。
何れも原田雪渓老師独自の修行方法のようです。
私は一度も試したことはありませんので、そのような方法が正しいかどうかは、私には分かりません。
また、やってみる価値があるようにも思えません。
「手をつけずにおりさえすれば」という言葉はさりげなく語られていますが、原田雪渓老師としては禅修行の要諦を示した重要な言葉なのです。
この文面からしますと、この言葉は禅修行の要術という位置付けになるのですが、曹洞宗開祖道元禅師の「非思量、即ち是れ、坐禅の要術なり」という一文ほどの明快さがないのです。
この「いわゆる手をつけずにおりさえすれば」という言葉は、一見すると非思量という意味にも受け取れるのですが、よく考えてみるとそうでもないようです。
この言葉だけでは、非思量の知識がなければ、非思量と判断はできないのです。
この表現には、どのように受け取ったらよいのかの判断ができない曖昧さがあります。
曖昧さのままの解脱(身心脱落)を説いているのです。
非思量を意味しているのならば、「いわゆる」という言葉は用いませんし、「手をつけずにおりさえすれば」という言い方もしないものです。
祖師方と同様に、ここは端的に、非思量や一念不生と言うだけで充分、事足りるのです。
原田雪渓老師はここで非思量や一念不生と言わずに「手をつけずにおりさえすれば」という言い回しをするということは、歴代の祖師方や曹洞宗開祖道元禅師とは異なった修行観を説いているのです。
原田雪渓老師が純粋な伝統的曹洞禅を説くのであれば、ここは非思量、或いは一念不生と説くべきところです。
「いわゆる手をつけずにおりさえすれば」と「非思量(一念不生)」は、修行の浅い者にとっては同じことを言っているように思えるのですが、この二つは全く異なる修行内容(工夫内容)です。
曹洞宗開祖道元禅師が坐禅の要術として説き示した「非思量(一念不生)」は念の生じることを容認しません。
一方、原田雪渓老師は、修行として念を止めることは一番悪い、念は法そのものであるから、念はいかなるものであっても、その生起を止める必要は無いとの考えで、念の生起を許容しているのです。
原田雪渓老師本人は非思量の様子が心の中に無く、非思量とは言えないのでしょう。
斯くしっかりと非思量とは言えないが故に、似たようで似ていない「手をつけずにおりさえすれば」という微妙に曖昧な表現にせざるを得なかったものと思います。
このような曖昧な表現では、人によってその受け取り方も様々になってしまいます。
十人十色の受け取り方が許されてしまうことになりますので、修行が不安定で混乱してしまう原因となります。
実際に修行として行えるか、行えないかは別として、非思量(一念不生)は文字通りに受け取ればよく、字義通りに理解すればよいのですから、人によって受け取り方・理解の仕方が異なることはないのです。
原田雪渓老師は「いわゆる手をつけずにおりさえすれば」とか「三昧」という曖昧な表現を用いずに、自らが実際に工夫し体験してきた調心の方法を正確に示すことが必要です。
それが、後進の修行者に対する老婆心というものです。
禅の修行は基本的に一人で行うものです。
孤独であり、進展の変化に乏しく、かなり忍耐力が求められるものです。
宗教的天才でもない限り修行成就するまでに長い年月を要しますので、修行の要術に曖昧さがあってはならないのは当然のことです。
先ず、歴代の祖師方が説き示すように修行することが大切です。
次に大燈国師がその法語の中で「貪瞋痴」について述べているところがありますので、併せて、紹介致します。
正しい理解について資するものがあります。
「或る人 達磨大師に問ふ。
地獄とは何処ぞや。
答えて云ふ、唯、汝が心中の貪瞋痴の三毒是れ也。
貪とは貪着の念なり。
瞋とは怒る念なり。
痴とは愚痴の念なり。
只此の三毒、善悪の法を造り出すなり。
別に地獄とて世界の有るべきと思ふは迷なり。」
以上です。
この大燈国師の一文で、貪瞋痴の意味が今日まで曖昧だったものが明瞭になったものと思います。
ほとんどのお師家さんも禅僧も曖昧なイメージで貪瞋痴という言葉を用いているのです。
本当に或る人が達磨大師に問うたかどうかは分かりませんが、このような設定で大燈国師が答えているのです。
「貪」とうのは貪着の念ということです。貪欲、欲を貪り、執着する思い考えという意味です。
「瞋」というのは怒りの思い考えのことです。
「痴」というのは愚痴を思ったり考えたりすることです。
この貪瞋痴の念は、人の善悪という原理・原則・価値観・道徳倫理観を造り出すのです。
別に地獄という実際の世界があるはずだと思うのは迷いなのです。
迷いは念が作り出すものです。
貪も、瞋も、痴も、念(思い・考え・思量)が作り出すのです。
一念不生の精神世界には、貪も、瞋も、痴も、迷いも無いのです。
大燈国師の法語の中に
「心生ずれば、種々の法生じ、心滅すれば、種々の法滅す。
心生ずるとは一念の起こる事なり。
彼の一念起こるに依って種々の悪心起こりて色々の罪を作り、悪道に墜るなり。」
とあります。
煩悩というのは一念起こることによって作り出されるものですから、一念不生ならば煩悩は生じないのです。
貪瞋痴は煩悩ではありますが、煩悩は煩悩であって、佛性ではありません。
佛性は非思量、無我の精神界ですから、そこには当然、貪瞋痴という念はありません。
佛性には貪瞋痴という実際がないのに、それを在ると想定して、その在ると想定した貪瞋痴を佛性というのは、佛性に対する誤りを導くこととなってしまいますので、やってはならないことです。
煩悩という佛性はないのです。もしあると説くならば、それは大いなる誤りです。
煩悩が私達を悩ます根源になっているのではなく、一念が私達を悩ます根源なのです。
一念が貪瞋痴の煩悩を生み出すのです。
「心生ずれば、種々の法生じ」ますので、心生ずれば煩悩が生じ、煩悩即菩提が生じるのです。
心滅すれば煩悩即菩提も滅してしまうのです。
「心生ずる」の「心」は念のことであり思量のことです。
原田雪渓老師の「坐禅の修行力(定力)によって煩悩を使っていくだけの力を養う」という考えは、凡夫、世間、浮き世(憂き世)の考え方です。
坐禅の修行力は非思量の修行力ですから、非思量によって煩悩は消滅してしまうという関係が坐禅にあるのです。
非思量という煩悩の生じない精神世界に在って、煩悩を使っていくだけの力を養うという発想はいらないのです。
原田雪渓老師の平常心・三毒についての見解が大燈国師と大きく隔たっていることに気付いて下さい。
大きな隔たりの原因が何処にあるのかをしっかりと理解して下さい。
さもなければ、佛道が成就することはありません。
原田雪渓老師は、「人の精神行為のすべては法だ」と、人の精神活動のすべてを、尊きことのように説いています。
捨てる法も、抑制する法もないと説いていますが、「法」というのは、人の認識上のことであり、思慮分別上のことです。
そこで、大燈国師は、大燈国師に限らず、
「一念既に起こらざる時は佛も無く、法も無く、迷も無く、悟も無し」と説いているのです。
一念不生ならば、原田雪渓老師の説く「すべては法だ」という「法」が既に無いのです。
そのことに気が付かなくてはならないのです。
非思量の状態を相続していれば容易に気付くことです。
原田雪渓老師は
「迷いというものは一つのものを二つに見て分け隔てをして苦しむということです。
悟りというのは別れておりながらもともと一つであったということを知ることです。」
「“紛然として心を失す。”
これは利害得失・憎愛・是非・善悪というようにひとつのものを二つのものと見て修羅の巷に陥る」
と述べて、迷いというのは、物事を二つに見て分け隔てをして、その結果、苦しむこととなるのですと分析しています。
時には、老師は一つの物事をわざわざ二つに見て比較するから苦しむのだと説いていることもあります。
禅門に於いては、確かに生死とか、自他とか、名利とか、善悪とか、是非とか、有我無我とか、有心無心とか対比した表現をしていることが多いものです。
しかし、「迷う」というのは一つのことを思いすぎ、考えすぎて、際限のない心理状態を指すものです。
思い考えは事実に基づいているものではありませんから、思考の性質上、人の思考能力の都合上、自然に止まる歯止めはありません。
自分の意志で止めるしか、思い考えることが止まることはないのです。
自分の意志で止めない心理状態を「迷い」と言うのです。
自分の意志で、そのことに関する思い考えを止められず、納得しない状態、諦め切れない状態、手放せない状態、結論を出せない状態を「迷い」というのです。
一つのものを二つに見て分け隔てをするから「迷う」わけではないのです。
迷いも、悩みも、苦しみも、すべて念によって生じるものであるということを禅門の祖師方や曹洞宗開祖道元禅師は知っているが故に、一念不生を説いているのです。非思量を坐禅の要術としているのです。
そして、禅門の修行に於いて、最も重視しているものは、「念の有る無し」なのです。
禅門に於いて、正しいとされる念の在り方は、一念不生であり非思量です。
これを正念といっているのです。
このことに気が付かなければ禅僧たる者は、生涯正しい修行はできないのです。
「悟り」というのは、「別れておりながらもともと一つであった」などという思いが生じない心境です。
禅門の対句的熟語を用いる場合は、その本質が1つであり、同じ物事の表裏関係にあり、或いは見る立ち位置の違いだけですので、自他一如や生死や名利、身心のように対句的に表現するのです。
それ以外に、善悪とか是非は人の主観によって様々ですから、絶対的善や絶対的悪はこの世に存在しないのです。
善悪・是非は全て相対的なものですから、善といっても人の数だけ善があり、悪といっても人の数だけ悪があるのです。
是非といっても同様です。
それらを総て網羅する為に、善悪・是非と両極端的言葉で表現しているのです。
善悪の善は、一つの善だけでなく、微妙にニュアンスの異なる、強弱の異なる善のすべてを網羅しているのです。
悪も同様です。
対比したり比較する意味で、善悪・是非と書き表しているわけではありません。
禅門に於いて、一つのものを二つのものとして見て、分け隔てをしている意味で、このような表し方をしているわけではありませので注意が必要です。
一つのものを二つのものと見ているのが、迷いや苦の原因であると捉えるのは間違いです。
次にその迷いの原因について説いたものが、
江戸時代の曹洞宗の傑僧
天桂傅尊禅師の著わしました「般若心経止啼銭」という法語の中にあります。
それを紹介致します。
「汝が分別で有るものと見れば有るものなり。
無きものと見れば無きものなり。
どちらへなりとも分別次第なり。
分別の影ある内は、生滅有無の間にさ迷ふ。
その分別が生死流転の根本なり。
諸人直截の根源なるべし。」 (生死流転=迷い)
ー現代語訳ー
「あなたが思慮分別(思い考えて判断)して、有るものと思えば有るのです。
無いと思えば無いのです。
有るも、無いも、事実実際から離れて、思慮分別次第で決まるのです。
思慮分別(思い考えて判断)の影響力が働いている内は、事実実際を離れて、生じたり、滅したり、有る、無しの中をさ迷うのです。
このような思慮分別(思い考えて判断)することが、生死の迷いの中を流転する根本であり原因なのです。
人の思慮分別(思い考えて判断)が生死流転する原因であるときっぱりと言い切ることができます。」
この文章では迷いの直接の原因は分別だと述べています。
分別というのは思慮分別のことであり、人の思い考え全般のことです。
言語を用いる思い考えのことです。
禅の修行は解釈に頼ると祖師方の真意から乖離してしまいます。
解釈に頼らずに、先ず、非思量の位置に立ってみることが大切です。
原田雪渓老師は非思量の立ち位置が手に入らないまま法を説くので、どうしても意訳を多用した解釈に終始してしまうのです。
こうなりますと、説けば説くほど解釈となり、祖師方の真意から離れた説となってしまうのです。
原田雪渓老師は、この自己矛盾に気が付かないのです。
思量に頼るからです。残念なことです。
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2022.2.1
原田雪渓老師は不染汚について次のように説明しております。
「不染汚ということは、本当にその色に染まりきること。
赤い色の中に入れば、赤色に染まりきる、
白いものの中に入れば白いものに染まりきることを言います。」
この説明では、漢字の字義からは真逆に離れていて、「不染汚」という三文字を用いる意味が全くありません。
それこそ「不」を取り除いて、「染汚」だけでも充分に原田雪渓老師の解釈の意味になります。
もし、完全に原田雪渓老師の説く解釈の意味としたいというのであれば、「絶対染汚」とか「無染汚の染汚」にすればよいのです。
「染汚・不染汚」は、非思量(一念不生)の状態が分かっていないと、その意味していることは分かりません。
非思量の状態が基本にあり、その基本の非思量の状態に対して、馬祖道一禅師は「汚染」、曹洞宗開祖道元禅師は「染汚・不染汚」と述べているのです
馬祖道一禅師の「汚染」と開祖道元禅師の「染汚」は同じことを指しています。
それについては、[ 2021.12.2公開 No20 馬祖道一禅師の説く「平常心」]、[ 2022.1.3公開 No21 原田雪渓老師の説く「平常心」]の中でも述べました。詳しくはそちらを参照下さい。
馬祖道一禅師や曹洞宗開祖道元禅師は、思量を「汚れ」とみなしているのです。
思量は汚れですから、思量の有る状態を「染汚」とし、思量のない精神状態を、思量という汚れが無い状態ということで「不染汚」としているのです。これだけのことです。
原田雪渓老師の説明は、まるで禅問答のようで、何を言わんとしているのかが明らかではないのです。
原田雪渓老師の解釈は、馬祖道一禅師の解釈とは全く相容れないものです。全くの的外れです。
馬祖道一禅師の説明は以下です。
「何をか、汚染となす。
但そ、生死の心、有りて造作し、趣向せば、皆是れ汚染なり。」
これを現代文に訳してみますと、次のようになります。
「総じて生死の見解(思い考え)が有って無用な作為をしたり、何か目的をもって向かって行ったりすれば、それらは皆汚染なのです。」
これだけではまだ分かり難いので、もっと分かり易く説明しますと、
「生死の思い考えが有って」というのは、思量の状態であって、一念不生の精神状態ではないということです。
雑念・妄想が頭の中を日常的に駆け巡り、真理、真実に迷っているということです。
思い考えが雑念・妄想となり得るのは、身心脱落をしていないということを意味しているのです。
身心脱落をしていない限り、自覚の有る無しに拘わらず、迷っている人生なのです。
迷っている分だけ苦悩も多いということです。
そのような心理状態では、やることなすこと、すべて思慮分別を伴うのが人なのです。
思量の心理状態を汚染というのです。
曹洞宗開祖道元禅師は非思量(一念不生)の心理状態を「不染汚」といって、この言葉を紹介しております。
思量が有ると人は我が動くのです。一般の人の思量には必ず我が伴うのです。
我の伴う思量が、真っ白な頭脳を汚染すると見たのです。
それが汚染です。
思量の生起しない精神状態が「不染汚」なのです。
(馬祖道一禅師は「汚染」という言葉を使用し、曹洞宗開祖道元禅師は「染汚・不染汚」という言葉を使いました。)
原田雪渓老師の述べている不染汚は、馬祖道一禅師の説いている不染汚とはかなりの隔たりがあって、交わる処は1つもないのです。
馬祖道一禅師は、歴史の中を今日まで生きてこられた祖師方の内の1人です。
当然、馬祖道一禅師の説いていることが、非思量の立場から見て理に適っているのです。
原田雪渓老師は大事了畢した堂長師家であり、自ら自由無碍(礙)を体現するとして真っ向から意表を突く説を展開しているのです。
常識的見解を破ることが“禅”であると考えている節があります。
このようなことは禅問答的な言葉遊びに墮することとなってしまいますから、身心脱落した余程の力量が無ければやってはならないことです。
今日(近代・現代)に於いて、このようなパフォーマンスをする師家・禅僧・印可を受けた参禅者が目立っているようです。
禅の道は素直で地味でよいのです。
「不染汚」というのは、非思量の精神状態であり、一念不生の心理状態であることが馬祖道一禅師の汚染の説明でよくお分かりになったと思います。
「不染汚の修行」は、大燈国師の次の言葉によって、決して理屈ではなく、実際に可能であることがお分かりになると思います。
大燈国師云く
「時々起こる念を捨つべし。心滅すれば種々の法滅す。
心生ずるとは一念の生ずることなり。
只念を拂ひ、捨てる事を専らにすべし。」
以上の言葉は、大燈国師が自ら実際に修した結果、身心脱落し、間違いないとして書き残したものです。実修実証したのです。
禅の修行というのは非思量の精神状態を維持することだけで、他に為すべきことは何一つありません。
一念不生も、一念が生じない状態を相続しなさいとのみ説いているだけです。
非思量という状態が事実として有り、やればできるものとして祖師方が斯く述べているのです。
ですが、私は、非思量の相続は「やれば誰にでもできる」とは申しません。
できない人もいると思います。
しかし、できるできないは、やってみる前から分かるものではありません。
それは誰にも分からないことですから、愚直にやってみるしかないのです。
身心脱落もそうです。
「やれば誰にでもできる」ものではありません。
やってもできない人の方が圧倒的に多いのです。
しかし、やってみなければ、それは分からないことです。
やればできるという信念をもってやるしかないのです。
私はそのようにして今日まで修行をしてきました。
死ぬまでこの信念を変えることはありません。それが修行というものです。
それら祖師方に対して、原田雪渓老師は真っ向から、非思量の状態を次のように否定して、原田雪渓老師独自の説を述べて多くの修行者や参禅者を指導してきたのです。
原田雪渓老師云く
「人間は考えないということは出来ません。
考えが浮かんできたら考えのままに坐っておりなさい。
いわゆる縁によって縁を忘れるということですから、
妄想が出たら妄想のままに妄想三昧になっていくという姿勢が大切だろうと思います。」
当HPの所々で私が紹介していますように、祖師方や開祖道元禅師や臨済各派開山禅師方は、禅修行の要諦として“一つも思量(念)の生じない状態”を説いているのです。
「考えない」ということは、一般的にはできないとしても、「考えない状態」は、修行として現出せしめ、相続することが可能だと説いているのです。
「考えない状態を」相続すれば、本来の面目有りて、異物無しの心境に至る(身心脱落す)と、大燈国師は説いておられるのです。
他の祖師方も同様に説いているのです。
私の場合は、縁によって、考えない状態が日常に於いて時々ありましたから、「人間は考えないということは出来ません」という原田雪渓老師の見解は違っているということがすぐに分かりました。
原田雪渓老師ご自身が出来ないということで、他の人も出来ないだろうと思い、斯く言っているのです。
原田雪渓老師自身、非思量の状態の経験がなかったが為に、非思量の修行は一切やってこられなかったことが、この一言で明らかです。
原田雪渓老師に限らず、非思量の修行をやってこられなかった近代・現代の師家方は、自分勝手な解釈をして、修行の整合性をとろうとしている姿勢が見られます。
残念なことです。
曹洞宗僧侶は菩提心を発こして出家したのですから、曹洞宗開祖道元禅師が坐禅の要術として説いた非思量の相続を素直に受け取って、先ず、やってやってやり尽くしてみることです。
発心した修行者として、そのような姿勢が大切です。
原田雪渓老師は非思量の相続を修したことがないので、法理に於いて窮すると、独自の禅問答的解釈を展開する傾向があるように感じられます。
法理というのはすべて非思量の立場から説かれているのです。そのことを知らなくてはなりません。
自らの中に非思量という土台があって、初めて法理が正しく理解できるのです。
非思量という基礎のない法理の解釈は、的外れなものであり、無理筋なのです。
せっかくのお師家さんなのですから、せめてもう少し、御開祖道元禅師に対して素直になって、愚直にやり尽くす姿勢が必要です。
原田雪渓老師の説かれるところの「縁によって縁を忘れる」という修行は、禅門では説かれていないものです。
「非思量(一念不生)によって自己を忘れる」ということは説かれていますが、この言葉を援用して「縁によって縁を忘れる」と述べても、実際にやってみると全く違うものです。
これでは決して身心脱落に至ることはないのです。
身心自然に脱落することはないのです。
「妄想が出たら妄想のままに妄想三昧になっていくという姿勢が大切」と述べていますが、そのような修行の工夫はありません。
一見すると、そのような修行が有りそうですが、妄想を三昧にやっていけば妄想が昂じてしまい、精神障害に陥ってしまうことは間違いありません。
最悪の場合は、自ら命を縮めてしまうことにもなります。
この佛教的な「三昧」という耳障りの良い素人受けする言葉に引きずられてはなりません。
人の迷いや苦悩の原因は思量です。
自らの頭の中を巡る思い考えが、人の迷いや苦悩の原因であり、ストレスの原因です。
禅門では、そのことは分かっていますので、「一念不生」「不思善不思悪」を説くのです。
妄想三昧は現代病である不安神経症を悪化させるだけです。
禅門に於いては、思量を断つことが修行の要諦であることは祖師方の語録や法語を見ても明らかなことです。
妄想三昧になって自己を忘じることはありません。
正常な自己を失って精神障害に陥ることが有り得るのです。
強迫神経症も不安神経症も考え過ぎることが原因であり、思い考えに執着して断てないことに原因があるのです。
原田雪渓老師は、「○○三昧」というように、三昧を何にでもつけてしまう傾向があります。
古いタイプの日本人で、食事の時に何にでも醤油をかける人がありますが、まるでそのようです。
原田雪渓老師は如何なることであれ、三昧とすれば、身心脱落に至るであろうと考えているとすれば、それは間違いです。
三昧で意識の変容状態に陥った人は、幾らでもいると思います。
そして、それを身心脱落と思い込んでしまった修行者も幾らでもいるのです。珍しくはありません。
しかし、意識の変容状態は意識の変容状態であって、身心脱落とは全く関係のない異常心理状態です。
意識の変容状態の度重なる経験者は、世界中にかなり居ると思いますが、何回も意識の変容状態を経験したところで、そこから身心脱落したり、新たに禅に似た宗教を創始した人は一人もいないのです。
妄想三昧を修すれば、意識の変容状態に陥って、気が異常になっていくだけです。
危険な精神行為ですから、止めたほうが宜しいです。
妄想三昧の癖がついたら、自分で妄想を断つのは至難の技です。戻れなくなります。
正常な精神世界と縁を切ることとなります。
以下、引き続いて、原田雪渓老師の説くところを幾つか紹介致します。
-曹洞宗開祖道元禅師著-
永平仮名法話 「得法」 の項
「古人云く、わずかに、心(この“心”は思い考えという意味です。)を生ずれば、則ちそむく。
念を動ずれば忽ち誤る。
只一念も生ぜされば、自然に佛祖の心に相応す。」
永平仮名法話 「無念」 の項
「六祖云く、衆生成佛せんと思はば、まず無念なるべし。
無念なるが故に成佛すと言えり。
一念不生を無念とす。」
現代語に訳します。
「古人云く、わずかでも思いを生ずれば、直ぐに得法の道(佛道)に背くことになる。
ただ一念(思い考え)も生じなければ、自然に佛祖にふさわしい心(この“心”は無分別の分別心です。)となる。」
「六祖慧能禅師云く、衆生(身心脱落していない人すべて)、成佛(身心脱落)をしようと願うならば、まず無念の精神状態(非思量)にならなけらばならない。
念の無い精神状態であるがゆえに、身心脱落(成佛)することができるのだと言える。
一念(思い考え)が生じない精神状態(非思量状態)を無念と定義する。」
とあります。
この解釈はそれほど難しいことは無いと思います。
このことを踏まえて原田雪渓老師の説くところを読んでみて下さい。
発心寺堂長師家老師である原田雪渓老師は、自らの著書の中で、
「佛教ではすべてが佛法であり、すべてが佛性ですから捨てるものは何もありません。
捨てるとしたら捨てるそのものが佛法であり、佛性なのです。
抑えたり、捨てたりするものは何も無いのです。
皆平等に佛法であり佛性なのだからです。」
更に、
「境のままに即ち流れ出る思想のまま、或いは分別、妄想、雑念のままにしておきさえすれば自我というものはないはずです。
なぜならば流れ出る諸々の思想は即ち法位そのものですから、自我の介在する余地は全く無いということです。」
と説いております。
原田雪渓老師の「すべてが佛法であり、すべてが佛性である」と言うことのできる人は、身心脱落した祖師方のような道人のみです。
このようなことを身心脱落していない人に教えても、害あって益することは一つもありません。
理屈として知り、理屈として覚えても、佛法の覚知も、佛性の覚知もできないのですから、その作用も分からず、応用もできないのです。
当然、他者を導き、他者を救う力量も生まれはしません。
非思量の修行にとって、何も益することも、必要もないのですから、このようなことを一般の人に言うべきではないのです。
更に、
「縁に応じて生じ動く、分別、妄想、雑念は出たままにしておけばよい」と述べております。
しかし、そのように説いている祖師方もいませんし、永平道元禅師も、分別・妄想・雑念が生じることを否定しています。思量の有ることを誰一人として認めていないのです。
非思量であり、一念不生の精神状態を修行として求めているのです。
分別・妄想・雑念を出るに任せ、滅するに任せて放っておいて、身心脱落は自然になされることはありませんから、「自我というものはないはずです。」ということはないのです。
分別・妄想・雑念の生滅している今の自分の心の中を、しっかりと見て下さい。
しっかり見ても自我が“無い”というのであれば、その人は妄語の人です。相手にできません。
原田雪渓老師は自我が心の何を指しているのかが分かっていないのです。
法理よりも、先ず、自分の心の中をよく点検することが修行の出発点です。
「流れ出る諸々の思想は即ち法位そのものです」というのは、何処かで学び知った理屈です。
師家たる者は、理屈でもって「自我の介在する余地は全く無い」などとうそぶいてはなりません。
精神構造上、重なって存在する余地は充分にあるのです。この宇宙空間的広さを、脳は持っているのです。
自我(自己・意識)は流れ出る思想に介在しているわけではありません。
自己保存本能と自己遺伝子保存本能にかかわる、この身心の諸機能に介在しているのです。
生まれながらに自我(自己・意識)はあるのです。天賦のものです。
本来、人がどうのこうのできる存在ではありません。
本来どうのこうのできない存在の自我(自己・意識)を、どうのこうのする方法を発見して、それを実践してしまった方がシッダールタ(佛陀)です。
この自我は容易に消滅するものではないのですから、その為に非思量の精神状態を際限なく相続(維持)して身心脱落するのです。
身心脱落するまでは、自我(自己・意識)は心の中に存在しているのです。
非思量の相続という手続きを経ないで身心脱落するということは絶対に有り得ないのです。そのようなうまい話はこの世には無いのです。
そのようなうまい話は理屈ですから、真に受けてはならないのです。
次のことも関連している展開になっていますので、取り上げて説明致します
-曹洞宗開祖道元禅師著-
普勧坐禅儀
「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作図を図ること莫れ」
について、原田雪渓老師は次のように説明しています。
「これは本来の心の働きに自分の考えで手をつけないということです。
心の本来の働きのままに任せておくということです。
すなわち自己を運ばない、自己を忘れるということです。」
この原田雪渓老師の説明は、非思量ということが全く分かっていないし、挑んだ経験もないことからくる自己流的に整合性をとる為の理論です。
普勧坐禅儀の「心意識以下 云々 」は、非思量の状態を維持しなさいという意味です。
「心意識」は思慮分別のことです。
「心意識の運転を停め」というのは、思慮分別を意志をもって停めなさいと説いているのです。
「念想観の測量を止めて」というのは、念想観について観察し、分析・研究するようなことを止めなさいという意味です。
「念」は言葉を用いる思量。
「想」は色・形・姿・動きを想像することです。
「観」は自己(意識)をもって、自己を観察することを指します。
これらのことを全て止めなさいという意味です。
「作図を図ること莫れ」というのは、修行して悟りを開くことを思い描くことを止めなさいという意味です。
ここのところは字義通りで、その通りに受け取り、解釈すればよいのです。
考え過ぎないことが大切です。
「非思量でありなさい。一念不生でありなさい。」と言っているのです。
原田雪渓老師は意訳の上に意訳を重ねて、辻褄合わせをしているので、開祖道元禅師の原文から遥かに遠く離れて着地してしまったのです。
何を言いたいのか私には分かりませんが、無理筋なのです。
原文とは全く関係のない結論で締め括っている次第となっているのです。
次に原田雪渓老師は、曹洞禅の修行観について述べておりますので、紹介致します。
「本当に悟りきった状態が修行の終着点ではありません。
ややもすると自己を忘じた悟りを開いたということが佛道修行の究極のように考えられがちですが、実は佛教の教えというのは、私達が究極点と考えているそこから初めて修行が始まるということです。
この修行がいわゆる無所悟・無所得ということです。
自分の無くなった状態、無我の状態によってすべての修行が始まるわけです。
これが実は佛道といわれているものなのです。」
「大悟なさったというのは折り返し点で、まだ途中のことなんです。
ですから折り返し点を通過して、そしてだんだん元のゴールに戻るまでの間に悟りだとか、分かったということをなくしてしまわないといけません。
要するに擦りつぶしていきませんと何もない本当の空の世界に目覚めない。」
この文を読みますと、
原田雪渓老師は、「曹洞禅の身心脱落」と「公案禅の大悟徹底」とは大きく異なることが分かっていないことが分かります。
十牛の図で言いますと、
曹洞禅の身心脱落は第八の人牛倶に忘る「人牛倶忘」に当たります。
公案禅の大悟徹底は十牛の図の第四の牛を捕まえる「得牛」に当たるのです。
見性は第三の「見牛」に当たるのです。
原田雪渓老師は、曹洞禅の師家であり、曹洞禅の修行をして師家となったにも拘わらず、ここで述べていることは、公案禅の修行過程、大悟徹底の位置付けを、曹洞禅にそのまま当て嵌めてしまっているのです。
曹洞禅の師家でありながら、臨済禅の公案の修行観で曹洞禅を語っているのは問題です。
原田雪渓老師はこのことの区別がついていないのです。それは曹洞禅が全く分かっていないということです。
禅の修行観としては曹洞禅は純粋であり、佛々祖々の伝統をしっかりと受け継いで今日に至っています。
何一つ余計なこと、便宜的なこと、人為的な工夫を加えていない修行です。
そして、曹洞禅は修行の最初から、十牛の図の第四の得牛から始めるのです。
原田雪渓老師は、十牛の図の第一の尋牛から始めて第四の得牛の大悟徹底(臨済禅)を、曹洞禅の身心脱落としてしまっているのです。
これは重大な錯誤です。
原田雪渓老師の全体の修行観・坐禅観を見ると基本的には公案禅的傾向があるのです。
「本当に悟りきった状態が修行の終着点ではありません」と述べておりますが、
これは公案禅の大悟徹底である十牛の図の第四の得牛の立ち位置です。
得牛から修行が始まって第五、第六、第七、第八と至るのです。
まさにこの道程を指摘しているのです。
「ややもすると自己を忘じた云々。」は曹洞禅の自己を忘じたことを述べているのではなく、臨済禅の十牛の図の第四の得牛の大悟徹底のことを言っているのです。
曹洞禅の身心脱落は十牛の図の第八の人牛倶忘に当たりますので、修行そのものとしては究極の位置です。
第九、第十は聖胎長養で、宗教者としての人格を調へ熟成させる修行です。
第八の人牛倶忘で人を救うには充分の力量を備え持っていますので、ここまでくれば修行としては究極の処と言ってよいのです。
「そこから初めて修行が始まる」と述べていますが、
それは原田雪渓老師の体験したとする脱落のレベルが実は、十牛の図の第四の得牛であったということです。
曹洞禅の雲水は第四の得牛からの修行を師家から指導されるのです。
私も当然、第四の得牛から曹洞禅の修行を始めました。
この「牛」である非思量も既に知っていましたし、非思量の体験もしていました。
そして、無分別の分別の生活を知っていましたし、それを自覚して生活をしていました。
ただ、修行としては本格的ではなく不充分であったということです。
原田雪渓老師は、ここを “自分の無くなった状態” “無我の状態” としていますが、これは非思量の状態を知らないが故に、斯く言うのです。
公案禅で大悟徹底だけでは自己の無くなった状態に至ることはありませんし、無我の状態になることもありません。
自己の無くなった状態(無我の状態)は、十牛の図の第八の人牛倶忘に至って初めて言えることなのです。間違った見方です。
曹洞禅と臨済禅が混雑してしまっているのです。
曹洞禅に「折り返し点」という修行観はありません。
身心脱落しても、そのままずーっと非思量なのです。
修行として何も変えることはないまま、それが身心脱落した道人の日常生活となるのです。
非思量・一念不生の生活が祖師方の日常の心であり、それが祖師方の平常心の中味なのです。
私達一般の身心脱落していない者の日常の心とは、自我(自己・意識)の有無、思量の有無、という点で全く異なっているのです。
身心脱落する以前も、身心脱落した後(悟後)も、元のゴールに戻るということはありません。
身心脱落する以前も、身心脱落した後も、分かることが多々ありますが、それを擦りつぶす、無くしてしまうという作業は必要ありません。
非思量の相続の中にそのようなことが存在することはないのです。
「心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す」
(一念生ずれば種々の法生じ、一念不生なれば、種々の法滅す)と古人が言っていますが、これが分かったことをなくす必要のない理由です。
「心滅すれば」というのは非思量のことです。
原田雪渓老師が斯く述べているのは、その修行経験が臨済禅の見性であり、大悟だからなのです。
曹洞禅は非思量の状態の相続ですから、折り返し点も、忘れてしまわなければならないような修行体験も、悟りもないのです。
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2022.3.1
曹洞宗開祖道元禅師の著わしました普勧坐禅儀の一文
「箇の不思量底を思量せよ。
不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」
を原田雪渓老師は次のように説明しております。
「不思量底というのは本当に自分の無くなった様子、
純一にして雑物の混じられない状態をいいます。
皆さんは自分が無いということを直接おわかりにならないかもしれませんが、
見聞覚知するということは、
本来、私というものがあって見聞覚知しているのではありません。
見聞覚知のまま自分が無いということです。
思量というと何かを考えなければならないと思いがちですが、
そうではなく、自分のないままの働きを思量といっています。
これは形のあるもの形のないものを問わず、
思量のままというふうに受けとめておいて下さい。
思量のままの様子を不思量、思いのままの状態を不思量と言っています。
要するに自分の入る余地のない様子を言っています。
非とか不とかいふのは脱落の代名詞だと心得ておいていただければ結構です。」
上記の文中で原田雪渓老師は
「純一にして雑物の混じられない状態」という言葉を用いていますが、原田雪渓老師はこの言葉の意味を正しく理解せずに用いています。
このことは文を読み進んでいきますと明らかになってまいります。
この一文の「状態」の意味は、「非思量」或いは「一念不生」です。
「雑物」というのは「雑念」のことです。
「念」には、雑も正もありません。
雑物(雑念)という表現は、念に対する主観的見方で、禅門の非思量の修行に於いては意味のない表現です。いわゆる「念想」のことです。
原田雪渓老師は普勧坐禅儀の坐禅の要術である非思量の説明で見当違いのことを言っていますので、非思量の修行に於ける実際が分かっていないということです。
故に、普勧坐禅儀の中の一文の理解が正しくなされていないのです。
「見聞覚知するということは、云々」とありますが、
見聞覚知は五官でするものです。
目・耳・鼻・膚・舌等は生身の肉体の部分です。
肉体の何処にも私というものはありません。
私があるのは頭脳の神経回路の中です。
意識を生み出す神経基盤に自己があるのです。
普勧坐禅儀の「箇の不思量底を思量せよ。 云々」の一文は、
曹洞禅の坐禅の時の心(頭脳の思考)の在り方を示したものです。
修行の時の心(頭脳の思考)をどのような状態にしたら良いのかを示したものです。
そのポイントは、思量、つまり、思い考え・想像をどのようにするのかということです。
−非思量とは−
「わずかに心(思い・考え)を生ずれば、則ち背く。
念を動ずれば忽ち謬まる。
只一念も生ぜずんば、自然に佛祖の心に相応す。
一念不生の処にさしむかって、心に煩ひなきを得法の人と言ふ。」
「一念不生なれば、衆生則ち是れ佛なり。
一念生ぜば佛もまた衆生なり。
我が心に自ら佛心なければ何れの処にか、初めて佛を求めんや。
自心則ち佛心なりと覚るを大悟と云ふなり。」
「一念起こらざれば、生死ここに絶す。
思量分別なければ万法において明らかなるべし。」
「是非、思量、分別なくして能く悟ると云へり。
この法は思量分別のよく悟る処にあらずと説き給へり。」
以上が非思量の内容であり、祖師による説明文です。
言葉を用いる一つの思い・考え、姿・形・色・動きを用いる一つの想像、それらすべてを含めて、「思量」とし、「念」とし、「分別」としているのです。
非思量というのはこれらを否定した精神状態であり、一念不生というのはこれらの生じない心理状態を指しているのです。
思量か、非思量か、脳の活動状態を示した言葉なのです。
これ以上の意味はありません。
「非思量」とは、法理を説いた言葉ではないのです。
法理を説いた言葉と考える師家は、非思量の精神状態が、日常生活の中に於いて全く無い人なのです。
次から次へと思い、考え、想像が巡って、一時として途切れることが無い人です。
そのような師家にとっては、自分の中に無い物(非思量の状態)を、どのような物か分からずに捜すような物なのです。
結局、分からないままなのです。
原田雪渓老師も、飯田とう隠老師も、井上義衍老師も、このタイプです。
特に飯田とう隠老師は、20才頃の禅修行の最初から公案の修行を始め、60才で出家得度するまで公案禅一本で修行してこられた師家です。
公案の修行は思量を尽くすことが主体の修行ですから、曹洞禅の非思量とは真逆なのです。
公案の拈提を通して、思い考えることを過剰に40年間もやってきたのですから、老境に入る頃になって、その癖を取り去ることは到底不可能なことです。
思量過剰が頭の芯にまでこびり付いてしまっているのですから、60才になって、その癖を取り去ることは無理なのです。
もともとの考える癖の中で公案禅の修行拈提をしてきたのですから、最初から非思量の精神状態とは無縁なのです。
飯田とう隠老師が曹洞宗開祖道元禅師の普勧坐禅儀の非思量の説明をしますと、坐禅の実践の説明、工夫の説明ではなく、公案禅的に法理の説明となってしまうのです。
そして、非思量という文字通りの頭脳の状態の有ることを否定するのです。
飯田とう隠老師には全く経験のない想像もできない精神状態なのですから、当然のことです。
20才頃から臨済禅(公案禅)で修行し、60才で曹洞禅に入ってきて出家したのです。
曹洞禅への出家は鼻から無理筋だったのです。
曹洞禅が惰性的になり疲弊しているからと、臨済禅の良い点を取り入れて改革をするとう意気込みで曹洞禅の師家になったと、飯田とう隠老師の著作物の何処かに書いてありました。
しかし、普勧坐禅儀の非思量の経験が全く無く、非思量が分からないのですから無理というものです。
更に、曹洞禅に限らない一念不生も全く分からないのですから、曹洞禅に於いての禅の指導は難しいと言わざるを得ないのです。
飯田とう隠老師は公案禅に於いてよく勉強されているようですので、法理の知識は豊富であることは確かです。
そして、大悟徹底の経験[□地一下(□の中に“力”を入れて下さい。)]があるようですが、臨済禅の大悟徹底というのは文字の表現ではいかめしいものですが、十牛の図の第四の得牛の段階です。
曹洞禅の相続の修行は十牛の図の第四の得牛から始めるのです。
飯田とう隠老師の大悟徹底の精神状態は、曹洞禅の雲水の修行の入口と同等なのです。
大きく異なる点は、曹洞禅は法理の勉強は一切しませんが、臨済宗は公案を通して法理の勉強を徹底して修めることになります。
かくして、曹洞禅の禅僧は佛門の高尚な法理や知識の目立たない田舎の百姓坊主の如くに育つのです。
臨済禅は佛門の学識も高く法理も豊かな宗教者・禅僧らしき禅僧に仕上がるのです。
飯田とう隠老師はその典型的師家ですから、曹洞禅の師家となれば、別格の禅僧らしい風格が備わっているように見えるのです。ということで洞門の僧侶は誤魔化されるのです。
非思量ぐらいは充分に分かっているであろうと・・・。
私が飯田とう隠老師のことを長々と述べましたのは、原田雪渓老師の非思量の説明が、飯田とう隠老師の非思量の説明と全く同じ観点からの展開であり、同じ言い回しだからです。
つまり、飯田とう隠老師の非思量の説明を原田雪渓老師はなぞっているのです。
このような、曹洞宗開祖道元禅師の真意から離れた説明は初めてです。
意表を突かれました。私に限らず誰でもだと思います。それも極めて分かり難いのです。
触れずに黙っていればよいものをと思います。
この度の原田雪渓老師の非思量の説明には、参得底のものが微塵もなく、学得底の説明となっています。
普勧坐禅儀の説明ですから、書き示すものはご自身の修行に基づく、参得底の非思量でなければなりません。
他者の説明文から借りてくるようでは情けない限りです。
ご自身の非思量観があるはずですから、それを示すべきと考えます。
学得底は脇に措いて、参得底を示しなさいというのが祖師方の常の言い分です。
私も未熟ながら同様に申し上げたいところです。
今から原田雪渓老師の説く非思量の説明をしてまいります。
皆さんもご存知のように、
原田雪渓老師の坐禅の要術は「三昧」と「意識の擦りつぶし」です。
しかし、普勧坐禅儀には三昧という言葉は一度も出てきませんし、三昧の内容に触れている箇所も該当する部分もありません。
また、「意識を擦りつぶす」という言葉も、それを示す内容もありません。
普勧坐禅儀の坐禅の要術は非思量であり、一念不生です。
このどちらも祖師方が禅の修行の要諦として述べられていることですから確かなことです。
原田雪渓老師の不思量も、非思量も、意識三昧や、意識を擦りつぶすという言葉は、その言葉の何処をどう捜しても、曹洞宗開祖道元禅師や祖師方の言葉の中に出てくることのない意味となっているのです。
「不思量(不思量底)というのは本当に自分の無くなった様子」と述べているのですが、
身心脱落をしていなくても、つまり、本当に自分が無くなっていなくても、不思量(不思量底)の相続はできるのです。
入門したての雲水でも不思量(不思量底)の相続を修行として修しますので、不思量底をもって、本当に自分の無くなった様子と断定はできないのです。
雲水の心はまだ、純一無雑の状態ではありません。
「見聞覚知のまま自分が無いということです」と言っていますが、
見聞覚知は自分があっても、自分が無くても、同じように見聞覚知するのです。
思量があっても、思量があるまま見聞覚知するのです。
思量が無くても、思量の無いまま見聞覚知するのです。
見聞覚知をもって、自己の有る無しは断定できないのです。
無分別の分別心の働きで、自己が有っても見聞覚知をするのです。
無分別の分別心の働きは、自己の有無に左右されませんし、妨害もされないのです。
無分別の分別心の働きは、思量にも妨害されることはありませんが、一般的には、思量がありますと無分別の分別心の働きに気付くことが難しくなります。
「自分のないままの働きを思量といっています」と述べていますが、
思量は自己の有る無しに拘わらず機能するのです。
身心脱落する以前も思量は動きますし、身心脱落した後も思量は動きますので、自分のないままの働きを思量と言うことはありません。
次の「これは形のあるもの形のないものを問わず、思量のままというふうに受けとめておいて下さい」に至っては、私には何を言っているのか理解不能です。
「思量のままの様子を不思量、思いのままの状態を不思量と言っています」と述べていますが、
そのように一念不生(非思量)のことを説いている祖師方は一人もおりません。
思量の状態は思量の状態であって、不思量の状態ではありません。
自らの頭の中をよく観察すれば分かります。その観察した通りが正しいのです。
思量の状態と、不思量の状態は、明瞭に異なるのです。
これを混同するようでは禅の修行は無理です。
「思量のまま」も「思いのまま」も言葉を換えただけで内容は同じことを言っています。
「自分の入る余地のない様子を不思量というのだ」と言っていますが、
身心脱落するまでは、自分の入る余地をもったまま不思量の相続をするのが修行です。
思量であっても、不思量であっても、一念不生であっても、身心脱落するまでは誰でも自己はあるのです。
身心脱落するまでは、自分の入る余地はいくらでもあるのです。
この原田雪渓老師の法理は、非思量の体験のない推定ですから、青二才の私にことごとく修正されてしまうのです。
師家でもない、印可の一つも受けていない田舎の小寺の骨山の住職に訂正されてしまうのです。
「非」も「不」も脱落の代名詞ではありません。
この字義の通り否定の接頭語です。
原田雪渓老師の非思量の説明は、糸の切れた風船のような意訳です。
これを禅門に於いて「自由無碍(礙)」と言うと思ったら大間違いです。
次に
原田雪渓老師の「呼吸三昧」の言葉を紹介致します。
「修行をするということで呼吸を意識していただきます。
呼吸に意識を集中することによってだんだんと呼吸三昧、意識三昧に入ることが出来ると思います。
呼吸を意識する、或いは三昧に入っている、三昧に入ろうとする自分の意識というものは当然分かる。
その分かっている意識によって擦りつぶす。
そのような状態になっていただきたいわけです。
三昧に入る、或いは意識によって意識を擦りつぶすということは根気よく自分の呼吸を意識することによって必ず三昧に入ることが可能になると思います。
一処懸命自分の呼吸を見ていくうちに三昧に入っていくということは、自分の呼吸を意識していることを忘れてくるということです。
誰もが同じ呼吸の状態で同じ生活をしていながら一人の人は呼吸を意識することによって道を歩み、必ず脱落という境地が得られる。
一方の一般のただ坐っている人は一つのことに集中しきるということ。
たとえば摂心のことで申しますと、集中しきる、一処懸命になるということは坐禅をしていることを忘れてしまうくらい一処懸命坐るということです。」
と原田雪渓老師独自の修行観・修行方法を述べています。
ここでは、修行として行うことは、非思量或いは一念不生ではなく、呼吸を意識することによって呼吸三昧、意識を意識することによって意識三昧に入るということです。
これは「呼吸の意識化」、「意識の意識化」ということになります。
実際は、「悟り」と称して、意識の変容状態(変性意識)を体験することを目指していることになっているのです。
原田雪渓老師は、自分の呼吸を意識することによって、自分の呼吸を意識していることを忘れる、そのことを三昧と定義しています。
ですから、意識によって意識を擦りつぶすというのは、意識を意識することによって、自分の意識を意識していることを忘れる、そのことを三昧と定義することとなります。
そして、それぞれ呼吸三昧、意識三昧と定義しているのです。
以上のように定義していますが、自分の呼吸を意識することによって、自分の呼吸を意識していることを忘れることはできません。
意識によって意識を忘れることができないが故に、祖師方は非思量の相続を説示しているのです。
祖師方も意識を忘却する為に禅の修行として一念不生を修したのです。
意識は自己そのものです。
意識を忘れることは、自己を忘れることです。
自己を忘却するということは、身心脱落するということです。
自分の呼吸を意識していることを忘れるということは、自分が呼吸している自己を忘れるということです。
自分を忘れるということは、呼吸したまま自己を忘却するということです。
忘却すべき意識(自己)を用いて、意識(自己)を忘却することはできないのです。
意識(自己)を忘却するならば、意識(自己)を用いずに、触らずに、相手にせずに、放っておくのが最善なのです。
原田雪渓老師は、「坐禅をしていることを忘れてしまうくらい一処懸命に坐る」
ということと、「呼吸三昧」を同じ意味としているようですから、「自分の呼吸を意識していることを忘れてくる」ということの意味が理解できていないようです。
結局、「三昧」は体験から出た修行方法ではなく、机上で考えた修行のあり方なのですから内容が混乱しているのです。
原田雪渓老師の説くところの「意識三昧」の状態となったところで、やがて脱落という境地が得られることは有り得ないのです。
意識三昧は、実際は「意識のかたまりそのもの」となってしまっているはずです。
意識を意識することによって、意識を忘却することはできないのです。
例えば、次のように言い換えてみるとよく分かると思います。
「気になることを気にすることによって、気になることを忘れる」。
このようなことなどできるはずはないのです。
それが原則です。
それが原則ですから、意識(自己・自我)を忘却するには、意識の存在は触らずに放っておいて、ひたすら非思量の状態を相続するのです。
そうすればやがて身心脱落という境地が得られるのです。
身心脱落の身心は意識のことであり、意識そのものです。
原田雪渓老師の説く「意識三昧」というのは、血で血を洗うようなものです。
意識をもって意識を忘れることはできません。
また、「坐禅をしていることを忘れてしまうくらい一処懸命坐る」と言っていますが、坐禅をしていることを忘れてしまうくらい一処懸命坐るという坐り方は祖師方の説く修行方法にはありません。
一処懸命に坐ると説いていますが、一処懸命ということがどんな状態なのか私には全く分からないのです。
また、「自分の呼吸を意識していることを忘れる」という坐禅もないのです。
これらは極めて曖昧な主観的坐禅論です。
このようなことは正しい修行をする場合は、まじめに取り合ってはいけません。
害ばかりで、益することは何もありません。百害あって一利なしです。
一般的に、意識を集中していくと、心理学で言う処の意識の変容状態(変性意識)に陥るというのが普通の人達です。
意識を集中していって、佛道の自己を忘却することにつながることはあり得ないのです。
自己の意識を、自己の意識で、意識していくのですから、この関係で意識を忘却することはあり得ないことです。
正当の禅の修行は、意識を放っておいて、相手にしないで、非思量の状態を相続することによって自己を忘却していくのです。
思量を停止して、非思量の状態を相続することによって、自己意識、或いは意識自己を忘却する方法が祖師方のなさった修行です。
原田雪渓老師は意識に集中していくことによって、意識が忘却され、その結果、自己を忘却することとなると考えているのです。
自己の忘却というのは身心脱落するということです。
祖師方の修行は、意識を放っておいて、思量(思い考え)の停止した状態を相続することによって、自己を忘却するのです。
自己というのは意識のことです。
自己を忘却するというのは、意識を忘却するということであり、それは身心脱落するということです。
原田雪渓老師は意識を集中することによって、意識していることを忘れてくるというのですが、それは自己の忘却(身心脱落)とは違うのです。
意識を集中的に意識して、意識していることを本当に正しく忘れることができるのでしょうか、疑問です。
一見すると、何となくできそうな気がするのですが、忘れる方向が真逆ではないかと思います。
精神が悪い方へ昂じて、意識に障害が生じてくるのではないかと思います。
自意識の過過剰ですから、修行とはいえ、本当にこのようなことをやってもよいものかと心配になります。
“考え過ぎ”どころではないのですから・・・。
ところで、臨済禅では、公案の拈提で師家が修行者を精神的に追い詰めていく方法を用います。
その結果、或る時に、修行者は「見性」します。
特別な尋常ではない心理体験をするのです。
それを臨済禅では「見性」とすることが多いのです。
十牛の図の第三の見牛です。人によっては第四の得牛とする場合もあります。
十牛の図の第三の見牛の心境が「見性」です。
第四の得牛が臨済禅の「大悟徹底」の心境で、大事了畢といわれ、師家分上の資格を得ることとなるのです。
これら「見性」や「大悟徹底」の特別の尋常でない心理体験があったにも拘らず、その後の修行で、十牛の図の第八の人牛倶忘に至った師家は、明治以降皆無です。
その理由は、十牛の図の第四の得牛まで修行が進めば、その後の修行では公案を捨て、正念の相続に進むのが臨済禅の正修行なのですが、その正修行がなされなかったからです。
公案を離れて正念の相続を指導できる師家が一人としていなかった為に、誰もが正念の相続に進むことができなかったのです。
十牛の図の第八の人牛倶忘は、曹洞禅の身心脱落のことです。
明治以降、誰もが身心脱落に至らないのは、見性や大悟徹底の経験が、正しい見性、正しい大悟徹底ではなかったからです。
正しい見性や正しい大悟徹底であれば、正念相続が手に入るのです。
正念相続ができないのであれば、それは変性意識の体験だったのです。
変性意識には、自己を忘却してしまうようなものがあるのです。
何かの縁で、一時的に全てを忘却してしまうのです。
自分自身も、周囲のことも一切忘却してしまうのです。空白の時間です。
そして、何かの縁でふと我に返ります。その間の記憶は一切ないのです。
忘却してしまう時間は人それぞれで、数分の時もあり、数十分の時もあり、数時間の時もあります。
このように、禅の見性や大悟徹底に似た変性意識(意識の変容状態)という特別な心理状態があるのです。
変性意識は心理学で研究されている分野です。
公案禅に於ける見性や大悟徹底が、身心脱落に至ることが近代以降全く無いのは、それらが禅に於ける正しい見性や大悟徹底ではなく、意識の変性(意識の変容状態)だからです。
変性意識という心理状態があることを知っている師家は皆無ですから、公案禅に限らず、曹洞禅においても、何か尋常でない特別な心理体験があると、師家も本人もそれらすべてを見性とし、大悟徹底であると認めてしまうのです。
心理学的には自己を忘却した状態を一時的記憶喪失といいます。
修行者本人も、見性や大悟徹底を切望して坐禅をしているのですから、如何なる体験も、それが尋常ではない特別の心理体験であるならば、すべて見性であり大悟徹底と思い込むのは致し方ないのです。
その体験を認めるか否かはすべて師家の責任です。
近代以降、正しく導ける師家が一人も存在しなかったということです。
意識というのは、それが強まり、その機能が過剰になると、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚等の五感の機能の一部、或いは全部を抑制したり、鈍麻させたり、麻痺させたり、遮断させたりすることがあります。
或いはまた、思考力を麻痺させることもあります。
記憶の入力・出力の機能も麻痺させたり、遮断したりすることもあります。
喜怒哀楽の感情を抑制したり、麻痺させたりすることもあります。
意識が急に過剰となって、全く考えられないとか、思い出せないとか、覚えられないとか、驚愕のあまり感情が全く動かないというようなことが時にあることは、多くの人が体験していることです。
意識は生存の為に五感等の機能を抑制したり、麻痺させたり、鈍麻させたり、遮断させたり、狂わせたりする性質を持っているのです。
これは意識の機能と言うべきか、性質と言うべきか、脳神経生理学の専門家ではない私には分からないことです。
公案禅の無の字の拈提や、原田雪渓老師の意識三昧の意識を集中したり凝集したりしていく修行は、精神上危険な一面を持っています。
意識が凝集したまま戻らなくなる場合があるからです。
本来、手を付けずに放っておくべき意識を、意図的に修行として、強化したり、凝集したりして、抑制したり、鈍麻させたり、麻痺させたり、遮断させたりするのですから、それが正常な精神的機能を阻害して、どこかで正常に解除できなくなり、元に戻れなくなってしまう可能性があるのです。
実際、修行中に気がふれる人が出ることがあるのです。
師家が意識三昧として、意識の意図的な教化・凝集の修行を厳しく行わしめた時に、修行者自ら解けなくなった場合にはどのように対処するのかを考えておかなくてはならないのです。
意識の集中・三昧は祖師方の修行の中にはありませんから、できればやらない方が宜しいのです。
意識の集中・強化は前頭葉(額の辺り)で行うのが常です。
意識の過剰も同じ場所です。精神的ストレス過剰を自ら招く場合も、その場所です。
考えが凝り固まっていく場合も其処です。
前頭葉は意識を集中させないでゆったりとさせておくことが、正常な精神を保つには必要なことです。
曹洞禅の修行では前頭葉に意識を集中させるようなことは一切ありません。
もし、そのようなことのある修行をやるようでしたら、その修行は曹洞禅としては間違いです。
意識を強めていって、思考力の機能を妨害し、抑圧、麻痺、遮断することは可能です。
その方法で非思量の状態になれるのですが、忘却すべき本命の意識(自己・自我)によって、その状態を維持しているので、その意識がずーと残ることとなってしまいます。
非思量の状態の相続は意識の消滅が目的ですから、意識を強化し集中し、思考力を抑圧、麻痺、遮断する方法は間違いです。
この方法ですと、思考が止まることが目的となってしまっているのです。
無念無想の心境を目的とする修行は間違いです。
修行に於いて、意識は触らずに放っておくことが大切です。
そのようにして非思量の状態を相続して、その結果、意識を自然に消滅せしめてしまうのです。
曹洞禅の従来からの一念不生や非思量の相続の修行は、意識に触れることは一切ありません。
そして、不安神経症や強迫観念症の原因である思量の絶えざる過剰状態を作り出すこともありませんので、とても精神面にとって安全な修行方法です。
意識を強化し集中し過ぎると、五感の機能や感情の機能、思考力の機能、記憶の入力・出力の機能、五欲の機能等が一時的に一部、或いは全部のものが麻痺し遮断されてしまうことがあります。
そのメカニズムは分かりませんが、意識が大きく関与していることは確かだと思います。
何故、そのような機能が意識にあるのか、今のところ明確には分かりません。
そのような機能が生きる為に、或いは死ぬ為に、何故必要なのかが分かりません。
すべての機能が遮断された時が、一時的な記憶喪失状態です。
禅的に言えば、これは一時的な自己忘却ということに当たりますが、身心脱落の自己忘却とは似て非なるものです。
公案禅ならば、これは見性或いは大悟徹底とされるものです。
一時的な記憶喪失状態を見性とみなし、或いは自己の忘却(脱落)とする師家が多いのです。
しかし、曹洞宗の非思量の修行に於ける身心脱落は一時的記憶喪失状態は伴わないのが一般的です。
曹洞禅を修する者は、見性や身心脱落を願わず、求めずして、只管に非思量の相続を修するのが修行としての正しい態度(姿勢)です。
原田雪渓老師の意識三昧や呼吸三昧は、意識の変性である一時的記憶喪失状態を見性や身心脱落として目的としてしているようです。
その師である井上義衍老師も同様に、意識の変性を常に求める指導をしておりました。
呼吸三昧の修行は非思量の修行とは本質的に異なっていて、共通する処はありません。
2021.12.2公開 No20でも触れましたが、
原田雪渓老師は
「思う時は思うばかりで思いながら、脱落をしているということです。
思わない時は思わないまま脱落しているということです。」
と述べております。
このような言い回しは、飯田とう隠老師がよく用いていました。
私は何を言いたいのかよく分かりませんでした。
如何にも禅的な表現に聞こえますから厄介なのです。
一般の僧侶や雲水、師家方は身心脱落の経験がありませんから、脱落しているということはありません。
原田雪渓老師の言われるように、どなたもが、そんなに安易に、自覚のないまま身心脱落をしているということはあり得ません。
原田雪渓老師は身心脱落とはどういうことであり、身心脱落によって何がどのように変わるかを理解できていないのです。
非思量を説くのは、非思量の状態を相続しない限り、身心脱落することはないという禅門の経験則があるからです。
これまでに非思量の相続を修したことのない修行者本人の申告の悟り(身心脱落)は、思い込みによる思い違いです。
身心脱落をしていれば、思量は自由自在で、それこそ、放っておいて良いのです。
出たら出たまま、出なかったら出ないままで気にしなくてよいのです。
「思う・思わない」ということに、「脱落している・脱落していない」ということとの相関関係はありません。
「思う・思わない」「考える・考えない」というのは、身心脱落する為の修行に於ける重要な要件です。
身心脱落する為には、非思量(一念不生)が重要な鍵を握っているのです。
禅門の悟りに至る為には非思量の状態を維持することが絶対条件です。
「思う時は思うばかりで思いながら、脱落をしている人」は、既に身心脱落している人なのです。
「思わない時は思わないまま脱落している人」も、また既に身心脱落している人なのです。
身心脱落していない修行者に、このようなことを説くのは非思量の修行を混乱させるだけですから、言うべきことではありません。
また、そのようなことを言う必然性もないのです。
多くの師家が間違って解釈している「即心即佛」について、端的に示している問答があります。
その問答は、馬祖道一禅師の允許の弟子で大珠慧海という禅僧のものです。
大珠慧海は「頓吾要門」という禅籍を著わし、禅界に大きな影響を与えております。
大珠慧海の語録「頓吾要門」の中に書かれている次に紹介する問答は、短いものですが極めて重要なものです。
近代・現代に於ける禅門の師家方は、その重要性に気付いていないのが実状です。
問答
『行者有りて問う
「即心即佛、那箇か是れ佛?」
師、云く
「汝、那箇か是れ佛であらざると疑う。指し出して看よ!」
行者対うる無し。
大珠慧海曰く
「達すれば即ちヘン(ヘンは行にんべんに扁です)境是れ、悟らざれば永えに乖疎す。」』
これを現代文に分かり易く訳してみます。
『或る 行者が問う
「即心即佛と申しますが、どのような心が佛なのでしょうか?」
大珠
「どの心が佛でないと疑問に思っているのか。それを指し示してみなさい!」
行者は無言
大珠
「悟れば、いづれの心も佛、悟らなければ永遠に佛とは離れ、遠ざかることとなる。」』
という意味になります。
那箇(どの、どれ、それ、その、あの) ヘン:行にんべんに扁です(あまねく)
乖(ことなる、はなれる) 疎(うとくなる、遠ざかる)
即(ただちに、すなわち、とりもなおさず)
ここで大事なことは、悟れば(身心脱落すれば)いづれの場合の心も佛であり、悟らなければ永遠に佛から乖離してしまうということです。
身心脱落(悟る)しなければ、自らの心が即佛であることを自覚することはないと述べているのです。
身心脱落すれば身心脱落した、その心のあらゆる働きが佛の働きであることを自覚するのです。
身心脱落した心には自己(我・自我・意識)が存在していないのです。
自己の存在していない心が佛なのです。
自己の無い心を佛と定めているのです。
自己の存在しない心のあらゆる機能(活動)を生み出すものが佛性なのです。
我々、凡人の心がそのまま、全て佛であり、佛性であると述べているわけではないのです。
自己が心の中に存在する限り、凡人であって佛ではないのです。
自己が心の中に存在している人が、自らをそのまま佛であると思うことは誤りです。
今の自分が佛である為には身心脱落が欠かせないのです。
身心脱落(悟り)して初めて、身心脱落した自分が佛であることを自覚できるのです。
学んだり、他者に教えられて自覚できることではないのです。それが佛道です。
佛の心は無我です。
心の中に自己が存在していないのです。
心の中に自己が存在していないが故に、佛の特性である佛性が顕現するのです。
無我(無自己)の心というのは、自他の区別をする作用がないのです。
それを禅門では「自他一如」と言い習わしています。
佛性で特に際立つことに慈悲心があります。
この慈悲心というのは、完全なる利他心です。
利己性が微塵も無い利他心です。
キリスト教の愛とは、そこが大きく異なっています。
キリスト教の愛は利己心の中の利他性です。
身心脱落しますと、真の自由な心となります。
あらゆる人為的な束縛のない心は、完全に自由な心なのです。
観念的な死や病への恐怖心のない心等々が佛心であり、佛なのです。
身心脱落していない人の心とは基本的に大きく異なるのです。
身心脱落をしない限り、自己は心の中に存在するのです。
身心脱落した人の心と、身心脱落していない人の心が大きく異なっているのに、このままで良いとすることは誤りであり、このままで良いということに気付けば良いとすることも誤りです。
気付いただけでは、身心脱落している人の心にはなれません。
煩悩は無くなりませんし、利己心は不意に縁に応じて顔を出します。
名聞利養を魅力的に感じ、それに引きずられる心も無くなることはありません。
脱落、或いは身心脱落は、以上のようなことなのですが、このことを原田雪渓老師は理解できていないのです。
原田雪渓老師は非思量という状態のあることを知らないが為に、正法眼蔵や祖録、法語等を無分別の分別から見ることができずに、法理だけで佛道を見ていくので間違うのです。
身心脱落して自己が心の中から消滅しない限り、心のあらゆる作用は佛性であるとは言えないのです。
心の中の自己の存在は佛心ではありませんし、自他の区別をする心も佛心ではなく、利己心も佛心ではないのです。
死や病気を恐れる心も、何かに束縛されている不自由な心も、佛心ではありません。
身心脱落をして心の中の自己(我・自我・意識・自意識)の存在がなくなった祖師方は、日常的に無分別の分別心のままの生活を送っているのです。
この時が佛であり、佛心であり、佛性そのものなのです。
ここには佛法といわれる法は存在していないのです。
「あらゆることが法である」と指し示すものは何もありません。
非思量の相続がしっかりとできるようになりますと、身心脱落に至っていなくとも、かなりの部分で無分別の分別心の生活になっています。
そして、そのことも自覚ができるのです。
また、無分別の分別の立ち位置から佛道を見ることができるようになりますので、佛道から乖離するような法理を立てるようなことがなくなるのです。
それが非思量の相続(一念不生)の優れたところです。
原田雪渓老師の述べているところの「人の言動の如何なることでも、如何なる感情や欲望もすべて(佛)法であり、(佛)道である」というのは、宗祖道元禅師の説く正法を逸脱しているのです。
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2022.4.2
澤木興道老師は自著の「坐禅の仕方と心得」の中で、次のように述べております。
『坐禅をしている自分に全く自我というものがないから宇宙とぶっつづきだ。
宇宙とぶっつづきだから自他一枚だ。
天地と同根、万物と一体、広く大きく透明になるのが坐禅である。』
澤木興道老師という方は曹洞宗の師家であり、昭和時代の曹洞宗の中心的な師家として活躍され多くの師家を育て上げた方です。
現在の曹洞宗は澤木興道老師の一門の師家が主流をなしております。
澤木興道老師は「論」より「行」の師家、「道理」より「信念」の師家という方です。
言ってみれば、曹洞土民の家風を地でいった枯淡な禅僧で、名利を求めない禅僧らしい趣を持った方です。
冒頭に紹介した文章は短いものですが、幾つかの重要な問題を提示していますので見過ごすことのできないものです。
この文の中で最初に「自分に全く自我というものがない」と述べています。
文の最後の処で「広く大きく透明になるのが坐禅である」と言っているところを見ますと、「全く自我というものがない」と表現しながら、“自我”が心の何を指しているのかが分かっていないのではないかと思います。
「全く自我というものがない」というのは言い換えますと、「自分は悟っている」ということです。
曹洞宗的に言いますと、「自分は身心脱落をしている」ということです。
「禅の修行は何といっても坐禅の身構え第一である」、
「正しい坐禅、正身端坐によってのみ正しい悟りも得られる。」と澤木興道老師は説いていますが、身心脱落しているならば、こういうことは言わないものです。
正しい悟りは非思量の相続によって至ることができるのです。
このことは曹洞宗開祖道元禅師が自著「普勧坐禅儀」の中で示されていることです。
坐禅の要術を実践することによってのみ、身心脱落することができるのです。
坐禅の要術は「唯坐る」ではなく、「非思量」或いは「一念不生」です。
「只管打坐」は坐禅の要術ではないのです。
只、坐禅をするという意味であって、これだけでは坐禅のことについて何も触れていないのです。
坐禅の坐る時の調心が非思量であるということが重要なのです。。
「只管」というのは「ただ」とか「ひたすら」という意味の副詞です。それだけでは充分な意味をなさない副詞なのです。
「只管」自体に、坐禅の要術としての意味はありません。
「只管」に坐禅の時の心の工夫をどのようにするの意味はないのです。
「正身端坐」も坐禅をする時の身体の姿勢について述べた言葉ですから、坐禅の要術とはなり得ないのです。
「非思量(一念不生)の相続の工夫」が坐禅の内容です。
それを只管に行じ修するのが曹洞禅の修行です。
澤木興道老師の著書の中には“調心について”“非思量の相続の工夫について”触れた箇所が何処にもないのです。
自ら非思量の相続を実修した経験がない為に、自然とそこに触れることを避けてしまうことと、澤木興道老師自らが非思量ということを軽視している現れだと思います。
非思量(一念不生)の相続なしには身心脱落はあり得ませんので、「坐禅をしている自分に全く自我というものがない」ということは、“自我”が何を指しているかを理解していないのです。
身心脱落していれば、自我も、我も、自己も、意識も、何を指しているか明らかなのです。
身心脱落していないのに、「自分に自我というものが全くない」ということは言えないものです。
また、澤木興道老師は、峨山禅師の皮膚脱落が身心脱落と同じことを言っていることが理解できていないと思います。
この皮膚も身心も一如なのです。
身心脱落してれば、このことも分かっていなくてはなりません。
身心脱落していれば、それが日常ですから、「何時何処でどの様な時に自我が全くない」というような限定したことは言わないのです。
祖師方の「平常心」というのは、身心脱落の日常ということです。
身心脱落した祖師方が、自分の様子をそのまま述べた言葉であって、脱落していない他者の様子をおもんばかって述べた言葉ではないのです。
身心脱落した祖師方の日常と、身心脱落をしていない凡人の日常は、大きく異なるのです。
また、「宇宙とぶっつづきだ。宇宙とぶっつづきだから自他一枚だ。」と述べて、自他一如を強調しておりますが、「自他一如」の意味を取り違えているのです。
実体験ではなく理屈で捉えると、このような真理に合わないことを言うことになるのです。
「自他一如」の「自他」は意識が作り出したものであり、「自」も「他」も、その構成素材は意識です。その意味で一如なのです。
同じものの表と裏の関係です。同根なのです。
「宇宙(物理的存在)と我とぶっつづきだ」という真の意味は、
正法眼蔵・現成公案の
「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
「諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覚知することを用いず。」
ということでなければならないのです。
澤木興道老師はこのことが実感として分かっていないのではないかと思います。
曹洞宗開祖道元禅師のこの二つの言葉の重みが理解できていないのです。
このことが理解(実体験として)できていれば、「坐禅をしている自分に全く自我というものがない」という表現はしないものです。
身心脱落していれば、時と処をを選ばず、自我が無いことが常なのです。
「宇宙とぶっつづきだから自他一枚だ。」ということは、澤木興道老師自身、身心脱落(悟り)しているということの遠回しの表明です。
この自他一枚という言葉は、文の前後から判断すると「自他一如」のことです。
「宇宙とぶっつづきだから自他一枚だ。」とう言い回しは、自分は宇宙とぶっつづきだから自他一枚だと、自他一如の因果関係を明らかにしているつもりのようです。
これは逆に「自他一如だから宇宙とぶっつづきだ」と言っても成り立つ文で、因果関係上、問題のある言い回しです。
どちらの言い回しも根拠に欠けているのです。
これは明らかに理に走った理屈です。
「宇宙とぶっつづきだ。」ということで「自他一枚」を持ち出し、正当性を持たせるべく、それを身心脱落(悟り)に当てはめようとすることは、事実と論理の飛躍です。
根拠にならない主観的見解を根拠としている矛盾に澤木興道老師は気付いていないのです。
「宇宙とぶっつづきだ。」と言っているその宇宙とは何を指しているのか、澤木興道老師自身、明らかになっていないのです。
宇宙という漠然とした謎の多い存在を、その真理が明白に分かっているかのように持ち出す自信は何処から来るのでしょうか。
自他一如を言いたいのであれば、ここで漠然とした不可解な存在の宇宙を持ち出す必要はありません。
目の前の柏樹子でも、ゆらめく旗でも、ミミズでも、乾屎けつでも、落とし紙でもよいのです。
誰もが日常的に耳目に触れるもので充分用が足りるのです。
禅だからといって謎めいた神秘的な突拍子な大言壮語的な事を言う必要なないのです。
身心脱落(自我の脱落していること)について、そのことの経験のない他者に説明した処で伝わることはなく、理解されるものでもないことは分かっていることですから、もともと言う必要のない言葉です。
曹洞宗開祖道元禅師の説いております
『諸佛のまさに諸佛なるときは、
自己は諸佛なりと覚知することを用いず(必要としない)。
しかあれども(そうではあるが)証佛なり。
佛を証しもてゆく。』
というこの一文の意味を澤木興道老師は理解できていないのです。
この諸佛というのは、我々凡人が「佛」と聞いて即、イメージし想像する佛陀(釈尊)ではありません。
この諸佛で意味しているのは身心脱落(無我)した自己です。
脱落身心の自己なき自己のことですから、くれぐれも間違わないようにしないといけません。
この文の意味を現代文にしてみますと以下のようになります。
「脱落身心の自己がまぎれもなく脱落身心の自己であるとき、
その自己は脱落身心している自己を覚知することはできない。
脱落身心の自己を覚知することはできないが、それでも自己なき自己が脱落身心を実証しているのであり、
脱落身心を実証し続けているのです。」
一般的に佛といわれ、諸佛といわれると、佛祖方を思い浮かべてしまうものです。姿を想像してしまうのです。
悟りといわれ、道といわれ、佛道といわれても、誰でもが同じ意味を思い浮かべるわけではなく人様々なのですから、このような言葉を用いる時は注意をしなくてはなりません。
これらのような言葉を用いる師家は、イメージばかりを優先して話しを進めていくので、内容が極めて曖昧です。
結果、それらを聴聞している人達も曖昧なままであり、しかもそれが曖昧であることに気付いていないのです。
それが禅の修行が正しくなされない理由です。
「諸佛のまさに諸佛なるときは」の「諸佛」が何を意味しているのか曖昧なままになっている師家が多いのです。
このようなことで実際の講話や提唱の時に禅問答的な話となってしまうのです。
曖昧な処は、「不立文字」と言ってみたり、「教外別伝」と言ってみたり、「冷暖自知」と言って、そのままに放っておいて、確かなものにすべく追求していくことがないのです。
不立文字とか教外別伝という言葉を用いる時は、その言葉を用いている師家自身が曖昧なのです。
実際は不確かなのですが、そこはプライドが許さないが為に、分かったような、分からなかったような説明をして次に移ってしまうのが常套です。
説明が確かにできないということは、そのことを説明できる力量にはまだ達していないということですが、その自覚がないのです。
一つや二つ、分からないことがあっても問題はないと考えているのですが、その分からないことが修行が正しく進まな隘路になっていることに気が付いていないのです。
禅の修行は分からないところが出てきたら、その分からないところを考え抜かないで、また、放っておかないで、一切を捨てて、精彩をつけて、非思量に専念しなくてはならないというサインなのです。
その分からないところが自然に分かるようになるまで、緊張感をもって非思量の相続を精進することが大切なのです。
非思量の相続を緊張感を持って修していくと、分からなかったところが直に分かるようになるものです。
ここで師家、禅僧、道人の修行の差ができるのです。
祖録や法話集では、修行は斯く斯くしかじかやりなさい、と説いていますが、何故そうするかの理由は何一つ説かれていません。
理由は修行をやっていく内に分かってくるものであるという考えなのだと思います。
近代に至るまで禅の修行に限らず、各専門職の技能者(職人)は弟子に教えることはしませんでしたし、理由を説明することもしなかったものです。
時代としてそれは普通のことだったのです。
物事の改善・改良・革新は、何故そうするのか、何故そうあるのかの理由を明らかにすることによってなされていくものです。
何事も、何故そうするか、何故そうあるか、どのような事でも理由があるのです。
何故そうするのか、何故そうあるのかの理由のない事は、人の行うことの中には一つもないはずです。
何故そうするのか、何故そうあるのかの理由が明らかにできれば、その事の改善・改良・革新の可能性が出てくるのです。
禅の修行は近代・現代に至っても旧態依然のままで一つも改善されていないのです。
祖師方は修行に於いて、何故そうするのかについて一言も言及していません。
近代・現代の師家方や学僧(大学の僧籍のある研究者)方は、そのような観点から禅の修行の研究をしていないのです。残念なことです。
特に“調心”は研究の余地が多くあるのですから、その研究はなされてしかるべきことです。
例えば、曹洞禅は、何故、一念不生ではなく只管打坐でよいのか、の理由が明らかにされていないのです。
明らかに、その因果関係は究明の対象とされるべきものであるにも拘らず、何一つ手が付けられないまま今日に至っているのです。
私は出家した当初から、修行に於いて何故そうするかの理由を知りたく思っていました。今日までそれは変わりません。
それが現在の私の禅の修行の説明に反映されているのです。
私はこのHPの中で、佛法を説いているわけではなく、あくまでも“禅の修行の仕方”“坐禅の手引き”としての必要最大限の事を、事細かに、何度でも、手を変え、品を変えて、いろいろな立場の人、いろいろな経験の人、様々な精神状態の人達が理解できるように説明しているのです。
私のHPを見た人が、やる気が出るまで、やるしかないと思うまで、この道しかないと覚悟を決めるまで説明していくつもりです。
禅の修行(調心)には改善の余地があると思いますが、現在のところ、「非思量」或いは「一念不生」以上のものはありません。
現在は伝統的方法で伝統的に修行するしかありませんので、かなりの忍耐が要りますが、「非思量」か「一念不生」を実修して頂きたいと願っております。
但し、現在の曹洞宗師家会の推奨する「只管打坐の坐禅」はスピリチュアルやリラクゼーションに向いた健康禅とも言うべき坐禅です。
曹洞宗開祖道元禅師や歴代の祖師方の説く坐禅ではありませんので間違わないようにして下さい。
「自他一枚」と説く澤木興道老師の「自他一如」観について説明します。
以前に公開した文の中でも度々説明しておりますが、私自身も修行が進んでいますので、ここで更に詳しく「自他一如」について説明しておきます。
澤木興道老師は「自他一枚だ」ということで、「自分は宇宙とぶっつづきだ。」と述べています。
自他一如という意味で「自分と宇宙はぶっつづきだ。」と言っているのだとしたら、それは「自他一如」の「他」がどういう意味の「他」か分かっていないということです。
非思量の相続がある程度できるようになると、身心脱落していなくても、非思量の状態に於いて心の眼で自己と他己・身体と心(自己)を見ると、自他・身心の様子・本性が分かるのです。
「自他一如」の「自他」を、心の中に思量・分別のあるままの状態で字義から解釈すると間違ってしまいます。
「自他一如」の「自」は自己のことであり、我・自我・のことであり、意識・自意識のことです。
これは誰でも分かっていることですので間違うことはないと思います。
問題は「他」です。
「自他一如」の「他」は他己のことであり、その他己は自己の心(精神上)の中に存在する他者のことです。
この他己は、物理的存在の他己を想像した場合の他己ではありません。
物理的存在の他己を想像した場合の他己ならば、身心脱落するまでもなく、想像を止めれば消滅してしまいます。
また、「自他一如」の「他」の他己は、眼前に物理的に存在する質量のある人としての他者のことではないのです。
私達は自己の心の中に、意識が意識で他己を作り上げているのです。
この他己は、自分の意識が作り出した他己ですから、自己と他己は意識という同じ精神素材なのです。
同じものの裏表の関係です。という訳で「自他一如」なのです。
「身心一如」も同じ理由から「身心一如」なのです。
それ故に、大悟すると自己が脱落し、同時に他己も脱落してしまうのです。
身も脱落し、自分の心も脱落してしまうのです。
自他一如の故に同時成道なのです。
真の大悟というのは意識が消滅することを指すのです。
この意識はこれまでに何回か説明していますが、医学上の意識とは違うのです。
注意が必要です。
澤木興道老師は「宇宙とぶっつづき」かもしれませんが、それは自他一枚だからではなく、他の理由からだと思います。
自己と宇宙は同時に脱落することはないのです。
宇宙は自我が精神上に作り出したものではないからです。
宇宙は物理的実体のある質量のある存在です。
宇宙を想像することはありますが、宇宙を想像することを止めれば、即、宇宙は消滅してしまいます。
ここで自他一如の故に、宇宙を「他」と見なして「宇宙と一体だ」「宇宙とぶっつづきだ」と説くとすれば、それは身心一如、自他一如の意味が分かっていないということになります。
ここは自他一如とは言わずに「万法すすみて自己を修証する」とか「万物に証せられる」と説くべきところです。
宇宙は五感で覚知すべき存在で、意識で覚知すべき存在ではないのです。
心眼は意識の作用によって見えるのです。実眼とは違いますから注意が必要です。
私達に、見える筈のない自分の目とか、表情とか、姿勢とか、後ろ姿とかが見えるのは、過去に鏡等で見たことによる記憶ではなく、意識の心眼で見ているのです。
身心脱落しても、万物は脱落しませんし、万法も脱落してしまうことはないのです。
故に「万物に証せられる」ことができるのです。
身心は身心脱落によって同時に消滅(脱落)してしまいますから、身心一如の証しなのです。
自他も同様に身心脱落によって同時に消滅(脱落)してしまいますから、自他一如ということができるのです。
生死も身心(意識)脱落によって同時に消滅(脱落)してしまいますから、生死一如と言えるのです。
それらは皆、意識が作り出した人の概念ですから、意識の消滅(脱落)と同時に脱落(消滅)してしまうのです。
一如、或いは脱落してしまうものは、意識(我・自我・自己)が精神内に作り出したものに限られているのです。
よって、宇宙は意識が作り出したものではありませんから、自他一枚だという言葉は適切ではないのです。
「天地と同根、万物と一体」とよく師家が述べておりますが、それがどのような意味で述べられているのか知りません。
この言葉がどの祖師によって述べられたものなのか私は知らないのです。
この言葉がどの禅籍に於いて用いられているかが分かれば、その前後の文で、正しく解釈ができるものと思います。
「天地と同根、万物と一体」の根拠が、釈尊が大悟した時に述べたとされている
「我と大地、有情と同時成道」であるとするならば、一応、根拠はあることになります。
しかし、この「我と大地、有情と同時成道」の一文について、私には疑問があるのです。
「我と有情と同時成道」ならば理解できますが、ここに何故「大地」が入っているのかが分かりません。
大地は迷いもなく苦悩もない無機物で成り立っているのです。成道することは有り得ないことです。
迷わないものに悟りは不要です。
この「大地」は、天地全体に佛陀の悟りが及ぶのであるという偉大さを表す為に、佛弟子の誰かが創作したものではないかと思われます。
「我と有情と同時成道」とするならば、それは当然のことです。
この場合の「有情」は衆生のことであり、主に人々のことです。
生きとし生けるもの全てというのは、生きとし生けるもの全てに自己(意識)があるかどうかの充分な検証がなされていないので、ここでは人々と限定しておくべきと思います。
この言葉を分かり易く禅門らしく言い替えると、「我」は自己のことであり、「衆生」は他己のこととなります。
そして、「同時成道」は「同時身心脱落」ということになるのです。
一文にしてみますと、「自己と他己と同時身心脱落」ということになります。
このことを曹洞宗開祖道元禅師は現成公案の中で
「自己の身心および、他己の身心をして脱落せしむるなり。」と言い表しています。
道元禅師はこの文の中に「大地」も「天地」も「宇宙」も入れていないのです。
自己と他己一如ですが、自己と大地は一如ではないからです。
自己と天地も、自己と宇宙も、一如ではないからです。
「一如」というと、「一体である・一つのものである」という意味で用いている師家が多くいます。
そして、その師家方は、“自己がないその様子として一体である”と解釈しているのです。
佛教辞典を調べますと、「一如」とは「同一同体であること・全く等しくて変わりのないこと」となっています。
師家方の理解の仕方・用い方には間違いがあるのです。
禅門では、「一如」というのは、「生死一如」「身心一如」「自他一如」という表現で用いています。
澤木興道老師のように「宇宙とぶっつづきだから自他一枚だ」という用い方はしないのです。
澤木興道老師は、自分は宇宙とぶっつづきだから、「宇宙と我れと一如である」、宇宙を“他”と見て「自他一如」と言っているのです。
これは非思量の状態を知らずに理屈を言っているのです。
「生死一如」のように、生と死が一体であるのは、生も死も意識が自己の心の中に意識によって作り出されたものだから“一如”と言っているのです。
生も死も、それぞれ実態は意識ですので、同一同体なのです。
よって“一如”なのです。
宇宙は意識が作り出したものではありませんから、自己と宇宙を一如と見なすことは間違いなのです。
自我宇宙一如は成り立たないのです。
ここは「万物に証せらるるなり」という意味で「宇宙に証せらるるなり」とするのが佛法上は正しいのです。
澤木興道老師の「広く大きく透明になるのが坐禅である。」との定義付けは、極めて曖昧で主観的ですので、修行者を誤った修行へ導く可能性が大きいのです。
禅者としたら、このような曖昧な表現、解釈がいく通りにもできる表現はできるだけ避けるべきものと思います。
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2022.5.1
禅門に於ける「我」とか「自己」が心の何を指しているか分からない師家が少なからずいます。
澤木興道老師は「坐禅をしている自分に全く自我というものがない」と述べております。
自我が心の何を指しているかが分かっていないのではないかと思います。
我があっても、それを我ではないと考えているような気がします。
時々、そのような人が居ります。
非思量の相続をしていますと、思い・考え・想像が全く停止しています。
その時に心の中に残っているものは一つしかないのです。
それが自我であり、我であり、自己であり、意識です。
非思量の相続をしていれば、自我の存在の有無に気付かないことはありません。
澤木興道老師は非思量(一念不生)の経験が全く無いので、単体で我・自我・自己・意識の有り様を見たことがないのです。
その為に余計に自我のあることに気付かないのです。
自我のあることに気付かない人は曹洞禅の修行には向きませんから、公案禅を修行した方が良いと思います。
曹洞禅は基本的に独修です。
独修できるのは、曹洞禅の修行が、自我の存在の有ることを常に自覚しているということと、非思量の相続に専修することで成り立っているからです。
佛道修行者がこの二つのことを理解していれば、師家としてこの佛道修行者に指導することはありません。
曹洞禅の師家の出番は、非思量の状態を教えることと、修行者が身心脱落した時にそれを確認する時だけです。
臨済禅(公案禅)は一から十まで、修行の全てを密接に師家が指導していきます。
公案禅の師家は修行者に大疑団という風船を最大限膨らませた状態を保たせるのです。
それが師家の力量です。
“機鋒鋭い”というのは師家のこの力量の重要さを象徴的に表した言葉です。
公案禅は師家に全てまかせ、師家の指導に従って公案を解いていくことが大切なのです。
曹洞禅は師家にまかせず、師に師事していても無師独悟の気構えで独修するのです。
このことを理解して修行方法を選ぶ必要があります。
どちらでも違いがないということはありません。
正しく解脱(悟り)したければ、非思量(一念不生)の相続を最初から修行した方がベターです。
公案禅だけでは解脱(身心脱落)することはないからです。
何れ、正念相続を修しなければ公案禅に於いては解脱(身心脱落)することはないのです。
話しを元に戻します。
澤木興道老師は自分に我が有ることを気付いていないのです。
それは、非思量の相続の修行を体験していないということです。
宗教者としては、「行」の人であり、「信念」の人ですから、真に得難い存在の禅僧です。
枯淡な洞門の禅僧らしい禅僧なのですが、残念なことに修行に於ける因果の道理を無視した「行」であり、「法理」ですから、私のような未熟の者に法理の綻びを指摘されてしまうのです。残念なことです。
冒頭に掲げました一文「坐禅をしている自分に全く自我というものがない」は、三通りの意味にとれます。
どちらにしましてもこの言葉は問題があると同時に、しっかりと読むと何を言いたいのかが曖昧です。
この三通りといいますのは、
「今、坐禅をしている真最中であるから、その真最中である自分には自我というものがない。」
或いは
「長年、日常的に坐禅をしているので、その為に身心脱落の体験がなくても、自分は自我がなくなっているのである。
その自我のなくなっている自分がそのまま坐禅をしているのだから、自我がないはずである。」
或いは
「長年、坐禅をしてきた為に、身心脱落をしてしまったので自我がない。」
いうものです。
どれも「自我がない」という意味がはっきりとしていないのです。
非思量の相続と身心脱落の因果関係は明確に存在しています。
身心脱落に至れば、自我がないというのは当然のことです。
「唯 坐禅をしている。」ことと、身心脱落には因果関係はありません。
非思量の相続をせずに、唯坐禅をしていても身心脱落することはありませんし、自我が消滅することもないのです。
本当に身心脱落を体験しているのであれば、「坐禅をしている自分に全く自我というものがない。」という表現はしないものです。
また、この「自我というものがない」と言っている自我が、心の中の何を指しているのか澤木興道老師は曖昧なのです。
心の中の何を自我としているのか、何を自我としていないのか、曖昧さを感じます。
それは、ここで「自我というものがない」という根拠に、宇宙という言葉が出てくるからです(前回2022.4.2公開の冒頭参照)。
「宇宙とぶっつづきだから自我がない。」という展開をしているのです。
宇宙というのは、現代の世界三大謎の一つです。
その“謎を秘めた実体の分からない宇宙”と“自我のない自分”はぶっつづきだと言われても、どのように理解してよいのか困惑してしまいます。
禅門の自我のない自分と謎だらけの宇宙とどのような関係があるのか、世界の誰も知らないことです。
非思量(正念)の相続の経験のないお師家さん方は、曹洞・臨済を含めて、「宇宙」という壮大な感じを抱かせる謎めいた言葉がとてもお気に入りです。
自らの禅の説明が窮するような処で、必ず「宇宙」という言葉が嵌め込まれるのです。
昭和時代に世界に禅を紹介し世界的一大禅ブームを引き起こした、あの有名な鈴木大拙居士も、禅と宇宙に因果関係があるかのように、禅の説明に時々宇宙を引っ張り出してきていました。
例えば、宇宙的意識とか、宇宙的自己とか…。
禅の修行は非思量に尽きますので、宇宙よりも脳神経生理学を持ち出す方が適切です。
近世の学者が説明不能な時に必ず“神”を持ち出して説明していましたが、それと同じなのです。
禅門に宇宙を持ち出すことは論外です。
お師家さん方は分からないことがあったなら、知ったかぶらないで、そのことには触れないことです。
出鱈目を言うことの悪影響を考えて、体得していないことについて説くのをやめるべきです。
それを信じた若き佛道修行者は、一生涯の修行を無駄なものとしてしまうことになるのですから、その責任は重大なのです。
その罪と責任を師家方は自覚をしなくてはならないと思います。
普段は自我があるのに、坐禅をしている時の自分には自我が全くないということはあり得ません。
正しい坐禅の姿勢になって、雑念は相手にしないで、唯 坐っているだけで、自我(佛道を習うというは自己を忘るるなりの自己のこと)が脱落してしまうことはないはずです。
また、坐禅を解いて元の生活に戻ると、再び自我が現れるというようなことは、禅の悟りにはありません。
身心脱落している正師ならば、坐禅をしている自分には自我が全くないという表現は用いないものです。
“坐禅をしているから全く自我がない”という因果関係はありません。
“身心脱落しているから全く自我がない”というのなら、理としては正しいのですが、脱落した道人は、自らそのようなことは言わないものです。
そのようなことを述べた処で、誰もそのことを判断できませんし理解もできないのですから、言っても仕方のないことです。
頭の中の思量は、出たら出たまま、滅したら滅したまま、相手にしないで、唯、坐禅の姿勢を保ち続けたところで身心脱落することはありません。
非思量の相続のない、只だ、坐禅している最中の頭脳の中は、一般の人と全く変わりがないことに気付いていないのです。
一般の人の日常の頭の中は、思いや考えが出たら出たままにして一々相手にしないで放っておいているのです。
滅したら滅したまま気にも留めずに流してしまっているのです。
一般の大人なら誰でもが、出てくる思いや考えを一々取り合っても仕方ないことを皆知っているのです。
このような思いや考えを相手にしない日常の中で、一般の人が自然に身心脱落してしまったということは、歴史上、一度もないのです。
欲望は肉体にあるものである、迷いや苦悩は肉の塊である肉にあるのであるからといって、肉体を正身端坐という坐禅の姿勢に押し込んで制圧したところで、それは一時的なものであり、その姿勢を取り続けたところで、身心脱落をして迷いや苦悩から解放されることはありません。
欲望や欲望が起因する苦悩は一体のように見えますが、一体ではないことに気付かなければ、禅の正しい修行はできないのです。
佛道は欲望を消滅せしむることが目的ではありません。
欲望はそのままで、欲望に起因する苦悩を消滅せしむるのです。
これは、欲望と欲望に起因する苦悩が一体でないということによって可能なのです。
欲望の消滅した人間は死んだ人のみです。
いくら佛道修行だからといって、選択して特定の欲望を消滅させることはできないのです。
身心脱落は肉体とは無関係で、精神上の出来事です。
肉体を佛陀と同じ坐禅の姿勢である正身端坐に押し込め続けても身心脱落することはありません。心は肉体に連動して肉体に支配されて変化していくものではありませんから、正身端坐を続けたところで、決して、迷いや苦悩から解放されることはないということを澤木興道老師は理解できていないのです。
心と肉体は別々で身心一如ではないのです。
この肉体は生身の物理的存在である質量のある身です。
正身端坐はこの身で行うものです。身心一如の身ではないのです。
澤木興道老師は非思量の相続をしていないので、このことに気付かないのです。
身心一如という意味での正身端坐であるならば、澤木興道老師の坐禅観は全くの誤りです。
一般的常識として身心一如ならば、身を制すれば心も連動して制することになります。
身体を鍛練すれば、心も鍛練されて不動な堅固な心になれると多くの人が考えており、その身を制して佛陀と同じ姿勢になることによって、心も佛陀と同じになると考えても不思議はありません。
しかし、身心一如の身は「我(意識)」が心の中に創り出した身であり、実体はないのです。精神上の身なのです。
正身端坐の姿勢を保っている物理的存在の質量のある身ではないのです。
澤木興道老師は身に二つあることを知らないのです。
身は一つしかないという常識で正身端坐を説いても、宗祖道元禅師の説かれた曹洞禅の修行とは異なった正身端坐となってしまいます。
見かけは同じ正身端坐でも、その内容は異なるものです。
澤木興道老師がこのような誤った修行を唱えたのは、非思量の相続を避けて、より容易に“ただ坐ると解釈した只管打坐”を選択した為です。
非思量の相続のない只管打坐は修行としての意味は全くありません。
魚のいない処に釣り糸をひたすら垂らし続けているようなものです。
自然に出てくるようになっている「思い・考え・想像」を相手にせず、出るに任せ、滅するに任せて放っておく精神状態を保って、肉体は正身端坐の姿勢を維持しても、それだけで自我が脱落することはありません。
頭脳の中は日常のまま、姿勢を正身端坐とするだけで、物理的存在である肉体に精神上の自我を脱落せしめる作用はないのです。
そのような因果関係はありませんので、そのようなことを修行の要術として説く祖師方は一人もいないのです。
自我を脱落せしめる為には、坐禅の要術として祖師方によって示された精神上の非思量の相続という修行をしなくてはならないのです。
非思量の相続をしたら、即、身心脱落するわけではありません。
「一超直入如来地」という禅語を知っている人は、その言葉は、今、即、忘れなけらばなりません。
知っていても何にもなりませんから…。
非思量の相続をして身心脱落するには、非思量の相続の精度・熟練度を高めていく必要があります。
身心脱落の機縁が熟するまで、非思量をひたすら相続する必要があります。頓悟ではないのです。
それは脳内の自我(意識)を生み出すニューロン(神経細胞)の恒常性(ホメオスタシス)を破って、自我(意識)が消滅するように脳のニューロンの神経回路を変化させるのに時間がかかるからです。
脳内の急激な神経回路の変化は脳の組織のバランスを壊すことになりますので、自然の摂理として、少しずつ変化させるしか方法がないのです。
その為に、禅の修行は時間がかかるのです。
若い頃より年をとっていると、頭脳が変化を望まなくなり柔軟性がなくなってきますから、より時間がかかります。
身心脱落は人の天賦の本質を変えてしまう重大な変化なのです。
思想信条のように考え方一つで、感情一つで、変えられるような簡単なことではありません。
曹洞宗開祖道元禅師が坐禅の要術として示した非思量の状態を維持すれば、普段、禅の修行として正身端坐の姿勢をとらなくても、身心脱落に至るのです。
身心脱落していれば、自我は脱落してしまっているのです。自我のないままの日常なのです。
脱落身心の日常底は非思量ですから、既に、そこには修行も悟りも、その概念のない精神世界です。
澤木興道老師は非思量の日常底を知らないまま
「修行が悟りで、悟りが修行だ。修行がそのまま悟りの姿だ。」
と如何にも禅僧らしい、分かったような分からないような超理論を述べております。
これは正法眼蔵から学び得た理論を継ぎはぎしているので自由が利かないのです。
法理として綻びが出てしまっていることに気付いていないのです。
非思量の相続がそのまま身心脱落ではありません。自己が残っているからです。
修行の心の状態には、自己があり利己心があるのです。
悟りの心の状態には、自己はなく利他心だけなのです。
修行の心には、時光のはなはだ速やかなることを恐怖する心があるのです。
悟りの心には、時光の速やかなることに恐怖する心が生じることはないのです。
これ程、“修行の心”と“悟りの心”には隔たりがありながら、修行が悟りで悟りが修行であるとよく言えたものです。
坐禅している時でも、坐禅していない時でも、修行の心は修行の心であり、悟りの心は悟りの心であって、この心が異なることはないのです。
何処を見て、修行がそのまま悟りの姿であると言ったのでしょうか。
この一文を見て私が感じるのは、澤木興道老師は禅僧らしい勢いばかりだ、ということです。
勢いで押しまくっているだけという内容のない一文です。
澤木興道老師の修行には、宗祖道元禅師が普勧坐禅儀の中で坐禅の要術であると説くところの「非思量」は何処にもないのです。
そして、「坐禅の姿がそのまま悟りの姿である。」という信念を持っているのです。
「悟り」は正身端坐という姿勢に現れるものであり、その姿勢は心を即、悟りに導いているとの自論です。
禅に於いては、「悟りの姿」という誰が見ても分かるような決まった姿というものは一つもありません。
眼で見て判断し耳で聞いて判別できるような、外見に現れる悟りの姿・悟りの様子というものはないのです。
ですから、師家たる者は「悟りの姿」などという表現は用いるべきではないのです
悟った禅僧らしい立ち居振る舞いというものもないのです。
このような表現は身心脱落や正身端坐について誤解を生む要因となりますので注意が必要です。
「修行が悟りで、悟りが修行だ。修行がそのまま悟りの姿だ。」
という一文の誤りを明らかにするために、悟りの処を同じ意味の身心脱落を入れて書き直してみます。
「修行が身心脱落で、身心脱落が修行だ。修行がそのまま身心脱落の姿だ。」
となります。
「修行が非思量の相続で、非思量の相続が修行だ。
修行がそのまま非思量の相続の姿だ。」というのであれば問題はないのです。
修行の時は誰も、身心脱落という体験はしていないのです。
自分に正直である佛道の修行者ならば、自分が身心脱落をしているかいないかの区別ぐらいは分かるものです。
修行の身の自分に自我(自己)が厳然として有ることの自覚があるのです。
修行している自分に自我(自己)が無いと言う人は一人もいないはずです。
身心脱落していれば、自己(自我)は心の中から消滅しているのです。
同時に他己も消滅しているのです。
生死も消滅してしまっているのです。
精神的に束縛するものが一切ない完全に自由な心境なのです。
“修行者の心境”と“覚者の心境”にはこれ程の明確な違いがあるのに「修行が悟りだ」という理屈は成り立ちません。
但し、私の述べることを素直に受け取らずに理屈を捏ねれば、澤木興道老師の理屈も成り立つことはあり得ます。
しかし、禅門は理屈を捏ねないのが原則です。
心の中に自己の存在していない道元禅師が、自己なき自己の心理的様子を観察して著わしました「正法眼蔵」を、澤木興道老師自身は自己が心の中に存在している状態で、非思量の相続をせぬままに理解し解釈していますので間違うのです。
「正法眼蔵」は道元禅師自らの精神的内容を書き記したものです。
後進の佛道修行者の身心脱落に於ける自己点検の是非の目安になるようにと考えて残したものと私は考えております。
正法眼蔵の内容は身心脱落する前に読んだ処で、内容を正しく理解することはできませんので、修行にも信仰にも役立つことはないのです。
身心脱落に至る修行の段階で必要なのは「普勧坐禅儀」です。
これ一つに、修行には充分な内容が記されているのです。
正法眼蔵は身心脱落していない修行者や信仰者の修行や信仰の資けとなるようにと著わされたものではないのです。
身心脱落していない佛道修行者や学僧が正法眼蔵の各巻に進んで読むことは許されてはいないのです。
明治時代に入るまで、大本山や他の限られた一部の寺に秘蔵され、門外不出だったのです。
修行者が正法眼蔵を読み進めますと、却って要らぬ知識が頭に入って正修行(非思量)を邪魔するのです。
師家と雖も非思量の相続が充分にできるようになっていない限り、修行の為として正法眼蔵95巻を読み解く必要はありません。
身心脱落の為に必要なことは普勧坐禅儀の中に全て記されているのです。
正法眼蔵を先に進んでも、修行についてのことは普勧坐禅儀以上のものはありませんから、普勧坐禅儀をしっかりと理解して、非思量の相続に精進することが大切です。
非思量の相続という前提条件の無い只管打坐では、決して身心脱落することはありません。
坐禅するその姿は佛陀や祖師方と全く同じものであろうとも、脱落身心の精神状態で坐禅している祖師方の人格と、脱落身心していない精神状態で只管打坐している曹洞宗の師家方、或いは禅僧方の人格とは、天地の開きがあるのです。
その差はいくら只管打坐や正身端坐を修しているといっても、非思量の前提条件がないのであれば、決して縮まることはありません。
身心脱落している祖師方は、全く自己が無い人格なのです。
それにひきかえ、正身端坐で只管打坐を何十年と修し続けたところで自己が脱落することはありませんので、いつまでたっても自己の有る人格なのです。
自己の有る・無いという違いは、極めて大きな違いです。
自己の無い人格は、人の苦悩を救うことができます。
自己の有る人格は、自ら迷い・苦悩するのです。その心で他者の迷い・苦悩を救うことはできないのです。
澤木興道老師がいくら「修行がそのまま悟りの姿だ」と言ったところで、自己は脱落しませんし、無我の人格になるわけではありませんから、迷いの元である自己を抱えたまま、迷える他者を救うことはできないのです。
同病相憐れむ程度のことしかできないのです。
このくらいのことなら世間一般誰でもがやっていることです。
只だ坐っているだけで、人の迷いや苦悩を救う完全な慈悲の人・完全な自由な人である人格が醸成されると考えているのであれば、それは大いなる誤りです。
禅僧は実際に迷える人・苦悩する人を救う人格に至ることが目的であり使命なのです。
身心脱落しない限り、非思量の相続が充分にできるようにならない限り、いくら出家し、正身端坐で只管打坐したところで、人格的には心理的には一般の在家の人と変わりないのです。
非思量を相続し、身心脱落しない限り、修行していない在家の一般の人々と同じように縁によって迷い、縁によって四苦八苦し、心を乱され煩悶するのです。
禅門に籍を置いているからといって、それだけで特別意識をもってはならないのです。
「衆生無辺誓願度」など夢のまた夢です。
「煩悩無尽誓願断」など夢のまた夢なのです。
生死の苦悩を滅していない者が、他者の生死の苦悩を救うことはできないのが原則です。
煩悩を生む自我のあるままで、無常心を救うことはできないのです。
以上のことを踏まえていれば、
「修行が悟りで、悟りが修行だ。修行がそのまま悟りの姿だ。」
などと無責任な理屈は宗教者として言うことはできないのです。
自己が存在する心(自我)で、自分の迷いや煩悩を断つことはできません。
自己が心の中に有る限り、命の尽きるまで縁に応じて、自己が迷いや煩悩を生むからです。
また、自己が存在する心で、迷い・苦悩する人の心を救うことはできないのです。
救おうとする自己の心が迷い救われていないからです。
この二つを成就する為には、自己を忘却(消滅)せしめるしか方法はないのです。
つまり、非思量の相続をひたすら修して身心脱落するのです。
それが佛祖の教えです。
目次へ
2022.6.1
澤木興道老師の念頭には苦悩の原因と言えば、肉体(身体)に起因する欲しかないのでしょう。
人は肉体(身体)に起因する欲ばかりで迷い苦悩するのではなく、精神的に、名声・地位を求め、さらに多くの際限のない金銭・財を欲して、迷い苦悩するのです。
どんなことでも精神上の迷い悩みの原因となるのです。そして、全く悩みが無いことまでも迷い悩みの種となるのです。
何れも煩悩の生まれるところは心です。迷い苦悩するの処は頭脳であって肉体(身体)ではないのです。
我々の身体は、澤木興道老師の説くような迷い苦悩の塊ではなく、清浄なものなのです。
澤木興道老師は「迷へる身体」とか「迷へる肉体」とか「身体という肉塊」とか、修行の主体を生身の肉体に置いています。
ここには、「心」とか「精神」とかは出てきません。
生身の肉体を、迷い煩悩の塊と見立てているのです。
ここの処は、宗祖道元禅師は「身心脱落」という言葉を用いて「身」と「心」の両方を取り上げているのです。
この「身心」は精神上に存在する身心で、実際の生身の肉体のことではありませんから注意が必要です。
宗祖道元禅師は修行の主体を精神上の身心として、精神活動の非思量を修行の要諦としたのです。
修行に於いては、「身体という肉塊」の位置付けは全く無いのです。
澤木興道老師は宗祖道元禅師の著わされた坐禅の指南書である普勧坐禅儀から逸脱した理論を展開しているのです。
煩悩は肉体にあり、迷いは肉体から生まれるという思い込みに支配されているのです。
澤木興道老師の出家は、無常心に基づく深い苦悩があってのものではなかったように思います。
人の苦悩の洞察が浅く一面的なのです。
無常心から生まれた求道心でない為に、「迷へる肉体」とか「煩悩を生み出す肉体」というように、苦悩を表面的・一面的に捉えてしまいがちになるのです。
佛道修行に於いては、八万四千の煩悩の根源をしっかりと探らないと、正しい修行に行き着かないのです。
多種多様な佛教の修行を集約すると「非思量の相続」ということになります。
佛道修行の要術は非思量であると説いた宗祖道元禅師が、自らの佛道の実践・修行する集団・組織を曹洞宗とは言わずに、「佛道の総府」と称したのは当然のことなのです。
これから澤木興道老師の禅修行の理論的展開を具体的にみていきます。
澤木興道老師は、
「宗祖道元禅師の説く“行を迷中に立て”の“迷中”というのは、我々の肉体である。」と解釈しています。
修行者として肉体に起因している迷い煩悩は性欲が主で、食欲の迷い悩みは無いとはいいませんが、それ程大きくはありません。
名利は精神上の欲望ですから、心のあり方が原因であり、心が迷うのです。
続けて、「迷へばいくらでも迷へる身体である。
この迷へばいくらでも迷へる肉体を運んで坐禅に持っていく。
この迷いの固りで坐禅をするのである。」と述べております。
「迷うのは心ではなく、生身の肉体である。」と考えている所に澤木興道老師の修行観・坐禅観の特徴があります。
この佛道の修行観はシッダールタ・ゴータマ(佛陀)の修行観とは大きく異なっています。
シッダールタ・ゴータマ(佛陀)は29歳で出家をし、当時の修行観に習い、最初の6年間は迷い・苦悩の根源は肉体であると見て、肉体への苦行を実践したのです。
当時考えられていた肉体へのあらゆる苦行を全て達成したのですが、心の迷いも晴れず、生老病死の苦悩からの解脱もなされずにいたのです。
これらの苦行は、解脱に導き、苦悩を消滅せしめ、浄い智恵に達せしめることができるものではないことを悟ったのです。
いたずらに肉体を苦しめるよりも、心の上から解脱を得ようと考えられたのです。
そして、肉体への苦行を止め、精神の苦行に移行されたのです。
肉体への苦行によって解脱を得るというのは、当時の主要な宗教観であり修行観だったのです。
当時のインドの宗教界では、迷いや苦悩の原因は肉体(身体)であると考えられており、肉体への苦行が修行の中心でした。
心は心臓辺りの胸に有ると考えていたのですから、医学の発達していない紀元前のインドでは無理からぬことです。
心は左胸にあると考えており、まさか頭脳の中にあるとは思ってもいなかったということです。
現代でもインドには同様の肉体への苦行の修行観の宗教が残っており、その行をしている行者が普通に見掛けられます。素朴な宗教観なのです。
澤木興道老師の修行観は、「迷へばいくらでも迷へる肉体である。よってこの迷へる身を坐禅の姿に押し込んで修行をする」というものです。
佛陀の当時のインドの肉体への修行観と基本的にほとんど同じです。
佛陀は迷いや苦悩の原因は肉体にあるのではなく、心(精神)にあることに気が付いて、肉体への苦行を止め、直接、心の苦行に移ったのです。
精神内の自己の存在が原因とみて、自己の消滅の為に非思量の修行を試みたのです。
非思量の相続は偶然に自然にできるものではなく、深い洞察のもと、ある一定期間の強い意志による相続が必要なのです。
シッダールタ・ゴータマ(佛陀)の宗教的洞察力に並外れた天才的なものがあった為の気付きと思われます。
坐禅の姿勢は、佛教の創始したものではなく、また禅宗の創始したものでもなく、当時のインドに幾つかあった既成宗教の行者の行う一般的な瞑想の姿勢です。
佛教独自の修行に於ける姿勢ではありませんので、誤解のないようにして下さい。
アジアの遺跡に残されている佛・菩薩の坐禅の姿勢は端正な整ったものです。
信仰上の均整のとれた美的に完成された坐禅の姿です。
曹洞禅に於いては、美的に完成された坐禅の姿を目指す必要はないのです。
日本の曹洞宗の正身端坐の姿だけが、特別に優れた完成された坐禅の姿であると特別視することは間違いです。それと同時に、特別視することは優越心の現れであり宜しいことではありません。
優越心というのは、意識の欲する名利ですから良いわけはありません。
シッダールタ・ゴータマ(佛陀)は、当時の修行者の一般的瞑想の姿勢である坐禅の姿勢を用いただけのことです。
それ以上の意味は、この姿勢にはないのです。
それを道元禅師が正身端坐と称したのです。
道元禅師は、正身端坐という言葉に特別な宗教的神秘的なことを持ち込んだわけではなく、坐禅の姿勢をとる時の心持を表したのです。
坐っている本人には、自分の坐禅の姿を直接見ることは一生涯できません。
また、坐禅中、自分の坐相を念頭に持っていては正しい調心から外れてしまいます。自分の坐相を念頭に置いてはいけません。坐相を意識してはならないのです。
坐相を心に抱えての正身端坐では一つも修行にならないのです。
坐相というのは、自分が想像しイメージした坐禅の姿のことです。
坐禅の姿勢は、入門時、古参の指導僧の指導のもとに身につけていくのです。難しいものではありません。
それ以降は自分一人で修行していくのですから、教えられた要領を忘れずに坐禅を組むのです。
自分の坐禅の姿は自分で点検できませんし、他者に点検してもらうようなものでもありません。それほど厳密なものではないのです。
鏡を見て自分の姿勢を神経質に修正するような必要性もないのです。
正身端坐の心持ちで坐禅をするというだけのことで、それ以上の何かを姿勢に求める必要はないのです。
坐禅の姿勢は肉体が行うことです。肉体には心は無いのです。肉体には眼は無いのです。
正身端坐に拘ることはことは愚かなことです。
正身端坐の姿勢に拘り、より完成度の高い理想的坐相をイメージして鍛練しようとすると、非思量の相続が疎かになるのです。
澤木興道老師はそのことが理解できていないのです。非思量の経験がないからです。
澤木興道老師は「“行を迷中に立て”の“迷中”というのは、我々の肉体である。」と述べております。
“迷中”というのは我々の肉体であると言っておりますが、首から下の肉体は迷うことも苦悩することもありません。
肉体には思考力もなく我もありませんから迷うことも悩むこともないのです。
“迷中”というのは心です。精神のことです。
迷いや苦悩は、思考力の機能を持たない肉体からではなく、思考力や我を持っている精神から生まれるのです。
たとえ肉欲が原因の苦悩や迷いであっても、その迷いや苦悩は心から生まれるのです。
性欲が下半身の局部から生まれると考えるのは、下半身に人格は無いと表層的に物事を捉える世の男の下種の根性です。
性欲はそれを司る脳のニューロンから生じるのです。
性欲を生み出す脳のニューロン・部位は今ではある程度特定されているのです。
澤木興道老師の「迷へばいくらでも迷へる肉体」という考え方は、脳神経生理学的にも、医学的にも、脳科学的にも、経験的にも、間違っているのです。
禅の修行に於いても、佛道の修行観に於いても、重大な間違いなのです。
澤木興道老師の「迷へばいくらでも迷へる肉体」という考え方は、佛陀(シッダールタ)が肉体への苦行を止めた理由に逆行する修行観です。
以上のことは、非思量の相続を少しでもやってみると誰にでも分かることです。
中国の去勢した宦官の歴史をみても、性欲は下半身の局部から生まれるものではないことは確かです。
切断し欠落した上下肢の幻肢という身体の特異な現象があることから、局部を去勢しても同様な身体現象があるということです。
局部を全て切り取っても、性欲は厳然として残り、迷い苦悩するのです。
性欲の迷いや苦悩から解放されようとして去勢しても意味がなく、性欲の心根を断たなければ性の迷いや苦悩から解放されはしないと佛陀(シッダールタ)は修行者に注意をしているのです。
当時インドでも去勢が行われていましたから、宮廷内に宦官がいて、佛陀も日常的に目にしていたと思います。
去勢している宦官でも性に苦しんでいたことを耳にしていたでしょうから。
性の迷いや苦悩は脳の性欲を司る心から生まれるというのは、佛陀も分かっていたものと思います。
肉欲と表現しますから誤解しますが、肉体は迷いの根元ではないのです。
肉欲を生み出すのは脳の肉欲を司るニューロンです。一般的には性欲の心です。
澤木興道老師の「迷へばいくらでも迷へる肉体」という考え方は間違いです。
自らの欲望の生滅の深い洞察が足りないのです。
「この迷いの固り(肉体)で坐禅をする」という考え方も、禅の修行が全く別のものになってしまっているということです。
坐禅の姿は一緒でも、その坐禅の中味の心の在り方、向かう方向が宗祖道元禅師が説いた曹洞禅の正しい修行と全く別の方向に向いてしまっているということです。
坐禅そのものの捉え方が宗祖道元禅師の坐禅観とは異なっていて重なる処が無いのです。
「形造って魂入らず」ということになってしまっているということです。
禅の修行は精神上で非思量の相続を行うのです。
人は、首から上が生きていれば、首一つでも迷い悩むのです。
首から上が生きていれば、非思量の相続は何ら不自由なくできるのです。そして解脱もできるのです。
生身の肉体が切断されてしまい、仮に、現代医学の力で首から上だけでも生きていることができるとするならば、五体満足の人と同じように迷い悩み苦しむのです。
迷い悩み苦しむことに何ら変わることはないのです。
首から上しかなく、無いはずの肉体でも禅の修行(非思量の相続)によって、身心脱落は可能なのです。
身心脱落の“身心”は頭脳の中に存在しているからです。
幻肢という現象がありますが、切断された四肢が頭脳の中に存在していることの証明になるのです。
禅僧たる者、自己の心の中を観察して、迷い・苦悩が肉の塊である身体からではなく精神の中から生じてくるくらいのことが分からなければ、正しい禅の修行は覚束ないのです。
例えば、肉の塊の一部である眼は迷い・苦悩することはありません。
眼が目に映る物に対して、快不快・是非・好悪の分別をするわけではありません。
眼には感情の機能はないのです。危険・安全を判断する機能はないのです。
眼には鏡のように物事を映すだけの機能しかないのです。
目に映った物事に対して危険・安全・快不快・是非・好悪の分析判断をするのは、脳のニューロン(神経細胞)です。
他の五感である耳の機能にも、鼻の機能にも、舌の機能にも、皮膚の機能にも分別する機能はありません。
外からの刺激情報を単なる縁として、その通りに感受するだけの機能しかないのです。
五感に自我(自己)はないのです。五感に意志はないのです。
五感の眼耳鼻舌身(膚)と同様に、頭脳以外の五体の何処にも自我(自己)は存在していないのです。
頭脳以外の五体の何処にも自己も意識もないのですから、頭脳以外が迷い苦悩することはないのです。
禅の修行をする者は、自らの全てを能く観察し直すことが大切です。
分かり切ったつもりでいる修行者が、自分のやっている修行に疑問を持つことなく安住してしまっていることが多いのです。
澤木興道老師は禅修行に於いて、精神(心)の在り方よりも、姿勢(肉体)の在り方を重要視しています。
見掛けの坐禅の姿の教化力、他者への感化力も重要視しているのです。
肉体の姿勢が端正に整へば、それは心に及ぶものであると考えているのですから、坐禅の修行のその主たる事は、姿勢を修め、鍛練するものと考えているのです。
澤木興道老師は肉体が精神を支配しているとの信念を持っているものですから、精神内の非思量の相続よりも、生身の肉体上の正身端坐の相続が重要なのです。
禅修行として鍛練するのは正身端坐という坐禅の姿勢なのです。
澤木興道老師は、身心脱落は肉体に於いてなされるのではなく、精神(心)上に於いてなされることが理解できていないのです。
曹洞禅の修行は道元禅師が「豈、坐臥に拘らん也」と示されておりますように、必ずしも正身端坐でなくてよいのです。
心の中で非思量の状態を相続していさえすれば、修行としては充分です。
これは歴代の祖師方も説かれていることです。
坐禅の姿勢について、非思量の相続と同等の重要性があるなどと説かれている祖師方は一人もいないのです。
禅の修行に於いて鍛練することは一つもなく、非思量の状態を忍耐をもって相続していくことだけです。
それ以外に修行として行うことはないのです。陰徳を行として積む必要もないのです。
澤木興道老師は「坐禅の仕方と心得」の中で
「此の人間の身体と云ふ肉塊一つの向け方一つで此の身、此の儘が佛なのである。
たった今、佛になる方法である。
お釈迦様が端厳微妙の御姿で坐禅され、説法されたところに大きな力があったのである。
それだから形、其の物が、精神其の物であり、態度、そのものが道そのものであるわけである。
唯坐るところに道は現われているわけである。」
と述べています。
「端厳微妙の御姿で坐禅され、説法する」というのは、当時のインドで盛んであった幾つかの既成宗教に於ける瞑想の姿勢です。
佛陀はそれにならっただけのことです。佛陀だけが特別であったわけではないのです。
既成宗教の各教主方も同様の御姿で坐禅の姿勢をとり、その姿勢のまま説法されたことは想像にかたくありません。
このような手前味噌的に偏った展開は、禅僧、師家としての冷静な客観性に欠けるのです。
「形、其の物が、精神其の物である」「態度、そのものが道そのものである」
という外見に現われた見掛けで判断する考え方は、人を見、判断する姿勢として根本的に偏っています。
非思量の相続が心の中でしっかりとなされていれば、見掛上の姿・形(姿勢、態度)は、どうであろうとも修行の上では全く問題ないのです。
非思量の相続をしているか、いないかは、外見上では全く分からないことです。
それは本人以外、誰にも分からないことです。
宗祖道元禅師と雖も知ることはできません。
正身端坐の姿勢を鍛錬し極めることよりも、非思量の精神状態を相続することの方が何十倍も何百倍も難行であり忍耐の要る修行です。
非思量の相続は精神的難行であり、精神的苦行です。
もし嘘だと思われるのであれば、肉体に課する正身端坐の相続と、精神に課する非思量の相続を実際に行い、比較してみて下さい。
結論は直ぐに出るものと思います。
禅の修行に於いて、身体の何処かに障害があって、身体で正身端坐の姿勢をとることができなくても、精神上の非思量の相続はできますし、その結果である身心脱落も可能です。
そして、身心脱落が可能なのは、身心脱落は肉体(身体)ではなく、精神上の自己に於いてなされるものだからです。他の影響は受けないのです。
それ故に、宗祖道元禅師は「豈、坐臥に拘らん也」と述べているのです。
坐禅の要術は、行住坐臥にかかわらず“非思量”であると述べているのです。
「正身端坐 正身端坐 正身端坐」と言って、坐禅の正しい姿勢を求め鍛練するのは、自己への執着につながり、自我(自己)の解放から見れば逆効果となります。
良いことであっても、そのことこだわり執着することは、自我(自己)への執着となります。
悪いことでも、そのことを正そうとしてこだわることは執着であり、自我(自己)への執着となってしまい、非思量の相続が疎かになってしまうのです。
こだわる場合でも執着する場合でも、人は必ず何かを思い、何かを考え、何かを想像し続けているのです。
それだけ非思量の相続から離れているということです。
非思量の相続はこだわりや執着から乖離させる効果があるのです。両立はありません。
自らの心を能く観察してみて下さい。
正身端坐が修行の基本であるとしても、身体の姿勢にいつまでも固執していてはなりません。
ゆったりと正身端坐の姿勢をとれば良いのです。
一般の基礎練習と同じで、基礎が出来上がったら、基礎を離れて何時でも何処でも臨機応変に修行の日常にならなくてはならないのです。
基本に執着せずに、基本を忘れずに、基本を離れていかなくてはならないのです。
修行が正しく進展していくに従って、坐っていない時の禅の修行が大切になってきます。
誰でも、坐っていない日常生活の方が圧倒的に時間的には多いのです。
その圧倒的時間に於ける修行が重要なのです。
寝ている時以外の時間を修行とする為の工夫が必要なのです。
正身端坐は、正身端坐の時間だけに於ける修行となってしまいます。
正身端坐すれば、それで安心という坐禅となってしまい、一つも自由な心が養われないのです。
正身端坐時以外の圧倒的時間をどのように禅修行の時間とするかの視点がか欠落しているのが澤木興道老師の坐禅観であり、また、非思量の相続が抜けているという点で祖師方や宗祖道元禅師の坐禅観とは異なるのです。
坐禅を組んでいない時の日常生活に於ける禅の修行をどうするのかの方向付けを示す必要があります。
宗祖道元禅師は非思量と示しています。
非思量の相続は正身端坐であってもなくても行うことができます。
歩いていても、作務中であっても、行事儀式中であっても、食事中でも、修することができます。
正身端坐は一定の条件の整った時にしか行えない、一時的な修行姿勢です。
正身端坐を主張しても、正身端坐には非思量のような自由度がないのです。
正身端坐に固執していれば、「起居動作がすべて修行である」という禅門の修行理念に反します。
澤木興道老師のような坐禅修行観では日常生活に支障がでて、それを職とする師家以外、誰もやれない修行となってしまうのです。
それでは、普く勧められない坐禅です。
非思量の相続ならば、何時でも、何処でも、誰にでも行える禅修行です。
正身端坐という姿勢の具体的説明は、普勧坐禅儀をみれば分かることですが、言葉で大まかに書かれているだけで厳密なものはないのです。
普勧坐禅儀に説かれた言葉だけで充分です。
それ以上に厳格を求めなくても宜しいのです。意味がありません。苦しくなるだけです。
曹洞禅に於いては、ほどほどに正しい坐禅の姿勢を正身端坐といいます。
これは特別の理論や技術の要る姿勢ではなく、背筋を伸ばして規定通りに手脚を組んで坐るという程度のもので、最初は難しく感じますが、やっていく内に慣れてきますので心配はいりません。
初心者は専門の禅僧の指導を受けた方がよいでしょう。
組んだ脚の痛さは人それぞれですから、痛みの少ないように工夫して我慢するしかありません。
痛みの少ないように自ら工夫すればよいのです。
痛みに耐えられても、それが禅の修行に資することは一つもありません。
痛みに耐え抜くことが修行になると考えて、気絶するぐらいまで耐え続ける修行者が時たまいますが愚かしいことです。
オーム真理教の幹部達が修行として熱い湯の中に浸かる様子の映像がありましたが、それと全く同じで愚かなことです。
幹部本人は超人のようになった気分なのでしょうが、名利そのもののパフォーマンスです。
何にもなりません。すごいところを見せたかったのでしょう。
接心中に於ける衆人環視の中でのそのような行為は単なる自己満足でしかありません。
非思量(正念)の精神世界に入れるわけでもなく、何にもなりません。
そのような行為は非思量(正念)には無縁のことです。
正身端坐は自ら視ることはできません。
私達が自覚している正身端坐は、物理的存在の生身の肉体ではなく、意識が作り出した精神上の身体の正身端坐です。
この精神上の身体が、精神上の正身端坐の姿を作るのです。
私達が正身端坐の姿として自覚しているのは、実際の物理的存在の肉体が行っている正身端坐ではく、意識が作り出した、精神的な存在の身体の行っている正身端坐です。
私達の頭の中に描かれた正身端坐です。
このことを自覚して正身端坐の姿勢をとっている禅僧は、かなりしっかりと非思量の相続が実践できている方のみです。
非思量を相続していくと坐相が消滅するというのは、その坐相が、精神上に作られた身体の正身端坐の姿であって、実体のない身体の正身端坐の姿だからです。
私達が自覚している正身端坐(精神的な身体の正身端坐)と、実際に坐禅を組んでいる生身の肉体の正身端坐の自覚は全く異なるものです。
生身の肉体には坐相は存在していません。
身心脱落すると正身端坐も脱落してしまうのです。無相なのです。
身心脱落の「身」が、正身端坐の“正身”であり、身心脱落の「心」が“端坐”の相(姿)なのです。
このことは非思量の相続を修行(精進)してこなかった禅僧や師家方には到底理解できないことです。
師家と雖も資格があるだけでは理解できないのです。
坐禅の要術である非思量(正念)の相続を修めていない師家は、身心脱落すると正身端坐も脱落してしまうことが分からないのです。
澤木興道老師は「正身端坐をしている自分には全く自我というものはない。」と述べておりますが、これは理屈です。
正身端坐が残っているから自我も有るのです。
理屈で自我が無いと思い込んでいるだけです。
師家方が実際に心の中の何を自我(自己・意識)としているのかが分かっていないのではないかと思います。
正法眼蔵を学び研究した結果の道理(法理)として、そのように信じている様子がうかがえます。
身心脱落すると正身端坐も脱落してしまうことは、非思量のない正身端坐を生涯し続けたところで分かることはありません。
また、非思量のない只管打坐を生涯修めても、分かることはないのです。
坐相の無いことが実感として分かるまでは、自己(自我)は落ちていないからです。
宗祖道元禅師が只管打坐を唱えたのは、坐禅の要術である非思量の相続ができているという前提のもとなのです。
確かに非思量の相続ができていれば、その状態に於いて只管打坐なのです。
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2022.7.1
澤木興道老師は、その著「坐禅の仕方と心得」の中で若い修行時代の体験談を次のように紹介しております。
「私は小僧時代に坐禅というものは非常に神秘的なものだということを感得して益々坐禅に精進するようになったのだが、それは或る時、越前の山中の寺で朝早く起きて自分の前に線香を立てて坐禅をしていた。
すると飯炊きの婆さんが私の前を通って、私のこの姿を見るや、いきなり、頭を畳にすりつけて礼拝した。
この坐禅の姿が神々しく見えたのであろう。
その外にも、本堂で坐禅をしていると、お詣りに来た婆さんが本尊様を拝むよりも丁寧にお辞儀をして帰ったことがあった。
それから私は坐禅は覚触である。即ち何よりも形の上から行くものでなければならないという確信を強くしている。
形というものは人間にどんな影響を与へるか、先づはこのことに深く徹して、しっかりした坐禅を始めなければならない。」
上記の文の中に「坐禅は非常に神秘的なものだということを感得した。」とあります。
さらに続けて「神秘的なものだということを感得したので益々坐禅に精進するようになった。」と述べているのです。
澤木興道老師は坐禅について基本的に誤った考えと誤ったイメージを持っています。
それは坐禅が神秘的なものであるという考えとイメージです。
一般の婆さんが坐禅の姿を神秘的と感じ、神々しく有り難く見るのは当然のことです。
毎日拝んでいる御本尊と同じ姿をして坐っているのですから生き佛のように感じたのでしょう。
田舎の婆さんは信仰心が篤く素朴なものですから当然のことです。それだけのことです。
佛様の像は皆、神々しい姿をしているのです。
その佛様の姿を有り難く思い、合掌礼拝するのは常のことです。
だからといって、禅の修行をしている禅僧や師家が、坐禅の姿を神秘的と感得するのは誤った考え方です。
禅の修行は、純粋に因果の道理に従った修行方法であり、その坐禅の姿には神秘的な側面はないのです。
一時期、坐禅の姿勢は、未知の神秘的な力であるピラミッドパワーが得られる二等辺三角形であり、坐禅の姿勢をとることでピラミッドパワーが得られると盛んに宣伝されたことがありました。
その時に坐禅が広く推奨されました。
しかし、ピラミッドパワーは禅門の修行には一切関係のないことです。
禅門の坐禅には神秘的な作用も、超能力のパワーのようなものも、人智の計り知れない何かが介入する余地は全く無いのです。
禅門の坐禅は、その姿に修行としての意味があるのではなく、非思量の相続に於ける坐禅という点に修行としての意味があるのです。
澤木興道老師は、坐禅をしている自分の姿が第三者には神々しく見えるらしいことから、他者への影響力は坐禅の姿が他の何よりも一番大きいという考えに至ったのです。
そして、坐禅は何よりも形の上から行くものでなければならないと考えたのです。
禅の修行者は坐禅の姿・形に深く徹して、しっかりした姿勢の坐禅を始めなければならないと説くのです。
坐禅の姿勢の宗教感化力・教化力・影響力を確信したと述べているのです。
坐禅の姿を他人がどう見るかを考慮して坐禅の姿勢をしっかりとしなくてはならないと力説しているのです。
坐禅の姿をこのような観点から捉えるのは間違いですし、若き修行僧をそのように指導することも坐禅の本筋からそれることとなるのです。
若き修行僧に坐禅に間違ったイメージを抱かせることとなります。
自分の坐禅の姿を他者が注目しているという思いを持たせるような指導はしてはならないのです。
他者の評価を気にした坐禅の姿に励むこととなり、正修行を妨げることになるのです。
坐禅中、他人の視線を気にするような坐禅は邪道です。名利の心が落ちていかないのです。
澤木興道老師は、坐禅は人に見せるようなものではないと言いつつ、斯のようなことを言っているのです。
吾我を忘れて潜かに修するものと説きつつ、上記のような体験話を披露しているのです。その矛盾には困ったものです。
御本人の潜在心理に隠された本音なのでしょう。
他者の評価を期待しての言です。
他者がどう見ているかを念頭に置いて坐禅の姿をしっかりしなさいというのは、禅の修行からすると論外です。
非思量の相続にはそのように考える余地は全くありません。
坐禅の姿勢に対しての整った神々しい姿勢という評価は、非思量の相続にとって何の意味もないのです。
それら整った坐相でもって、非思量の心理状態に進んでいき、身心脱落に至るという保証はないのです。
禅の修行は見た目の姿や態度よりも、心の中で非思量の相続がしっかり行えているかいないかが大切なことです。
心の中の非思量の相続がしっかりとなされいるかいないかは、見た目では決して分かるものではありません。正師と雖も同様です。
身体には自我(自己)は無いのです。思量も無いのです。
もし、自分の坐禅の姿勢が、他人ではなく自分自身の修行に大きく影響を与えると考えたとしたら、それは正しい坐禅の修行から見た場合、大きな間違いです。
坐禅に於いて、非思量の相続が正しくなされているならば、自分の姿勢は存在していないというのが正しいところです。
もし、自分が正身端坐の姿勢でしっかりと坐禅をしていることが自覚できているとしたら、それは自分の坐禅をしている姿のイメージを抱いての坐禅ですから、正しい坐禅ができていない証しです。
非思量の相続がしっかりとできるようになると、自己の坐禅をしている姿、つまり坐相はなくなってしまうのです。
自分の身がなくなりますから、自分がどのような姿勢で坐っているのか、皆目分からないのです。このことを坐相がないというのです。
これが正しい正身端坐の坐禅です。
同行二人(一人旅の巡礼の頭にかぶる傘に書きつける言葉、佛と二人という意味)連れがあってはならないのです。
このことに澤木興道老師は気が付いていないのです。
澤木興道老師は坐禅に於ける心をどのように調えるかについて次のように述べています。
「坐禅をしている自分に全く自我といふものが無いから宇宙とぶっつづきだ。」
「坐禅をしている間にたとひ八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。
悟りを求めず、迷いを払はず、念を起こるを嫌はず、また念を愛して相続せず。
只起こるに任せ滅するに任せておく。」
「坐禅は吾我を忘れて潜かに修するものである。」
(吾我を忘れて―これは身心脱落しない限り有り得ない状態です。)
「修行が悟りで、悟りが修行だ。修行がそのまま悟りの姿だ。」
この文中の何処にも、曹洞宗開祖道元禅師の説かれました坐禅の要術は出てこないのです。
坐禅の要術というのは、普勧坐禅儀の中に曹洞宗開祖道元禅師が書き示したもので「非思量」という言葉で説かれています。
この非思量は不思量とも言い、一念不生とも言います。
澤木興道老師は非思量(不思量)についても、一念不生についても一言も触れていないのです。
澤木興道老師は、その著「坐禅の仕方と心得」の中でも、非思量も不思量も一念不生も取り上げていないのです。
何の説明もしていないのでは「坐禅の仕方と心得」にはならないのです。
肝心要の非思量の説明が全くなされていないのですから、曹洞禅の坐禅の仕方と心得の本としては意味のないものとなっています。
坐禅をしても身心脱落しない限り、自我が脱落(消滅)することはありません。
身心脱落は、正身端坐の姿でただ坐っていては経験することはないのです。
身心脱落に至るには日常生活が全て非思量にならなくてはならないのです。
日常生活に於いて非思量の相続が油断なくなされなければ身心脱落(悟り)に至ることはないのです。
澤木興道老師の言う処の、「坐禅をしている自分には全く自我が無い」ということはあり得ません。
坐禅をしている時に自我が無いのであれば、それは坐禅中に限らず、行住坐臥すべての状態に於いて自我は無いのです。
澤木興道老師のこのような言い回しでは何を言いたいのかはっきりしないのです。
修行は修行です。
修行は決して悟りではありません。
身心脱落は身心脱落です。
修行が身心脱落であると捉えるのは行き過ぎです。
道元禅師の「佛道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。」の言葉を思い起こすことが大切です。
修行がそのまま悟りであるというのは、修行者誰でもということではなく、身心脱落した道人の様子です。
修行者は身心脱落していないのですから、自己を心の中に抱えているのです。
自己を心の中に抱えているのですから、身心脱落する必要があるのです。
佛道に於いては自己を抱えたままで良いということはありません。
修行がそのまま悟りであるというのは、過去にどこかで他者に聞いたか書物で読んだかして学んだ学得底に基づく理屈です。
佛道に於いては身心脱落の実体験が常に求められるのです。
澤木興道老師は「坐禅をしている間に雑念が起滅してもとりあわねばよい。起るに任せ滅するに任せておく」と述べていますが、この頭脳の状態は思量に当たるのです。
雑念の生滅は思量の生滅そのものです。
一般の人の日常は、まさに雑念の生滅を取り合わずに、起こるに任せ滅するに任せた状態です。
澤木興道老師の述べていることは、一般の人の日常の頭の中と何ら変わることはないのです。
これで祖師方の説く一念不生との整合性がとれると考えているのでしょうか?
雑念は出てくるに任せていてはならないのです。
非思量の相続に雑念妄想が生ずる余地はないのです。
一念不生とはそのことを言っているのです。
曹洞禅に於いて、雑念が生滅してもとりあわないのは、非思量の相続の為です。
このことの自覚がないのに雑念が生滅してもとりあわねば良いと心得えるのは間違いです。
非思量の相続の時、雑念が生じてもとりあわなければ、雑念は即、自然に滅してしまうのです。
というよりも非思量の相続の時、もともと雑念の生滅にとりあうことはないのです。
非思量の相続の状態にない時、雑念にとりあうと、二念・三念…と滅することがないのです。
永遠に思量の中から出られないのです。染汚の世界です。
澤木興道老師はこのことに気が付いていないのです。
非思量の相続にない時、
悟りを求める人は必ず思量を動かすのです。
思い考えるから、「悟りを求めず」というのです。
「迷いを払はず、念を起こるを嫌はず、また念を愛して相続せず。」
これらは何れも思量を動かすことになりますので、すべて否定しているのです。
この言葉は佛祖の法語の中に出てくる言葉であって、それをそのままそっくり自分の言葉として使用しているのです。
払おうとすると人は必ず思考を用いるのです。思い考えのない「払い」は存在しないのです。
嫌うことも、愛して相続することも、すべて思い考えを用いてなされるのです。
坐禅の要術である非思量の相続に反しますので、これらを否定することは当然のことです。
「起こるに任せ滅するに任せておく。」
というのは、念の生滅は放っておいて、非思量の相続に精進しなさいという意味で斯く言っているのです。
「念の起こるに任せ滅するに任せることに専念する」という意味ではありませんので注意が必要です。
ここの処は、思量を動かすことなく、常に非思量の相続の状態を保ちなさいということです。
以上のことは、佛祖方が法語の中で説かれた非思量の状態を維持する為の工夫です。
曹洞禅の修行に於ける工夫はすべて非思量の相続の為のものです。
念を起こることを嫌わずに、同時並行して非思量の相続をしているのです。
このことに澤木興道老師は気が付いていないのです。
何をしても、曹洞禅は常に非思量の相続なのですが、澤木興道老師は常に非思量の相続が抜け落ちてしまっているのです。
このことを澤木興道老師は気が付いていないのか避けているのです。
澤木興道老師の「八万四千の雑念が起滅しても取り合う必要がない、放っておきなさい」という理由は、正身端坐と称する坐禅の姿を相続することが曹洞禅の修行の主眼だと考えているからです。
祖師方とはその意図するところに格段の開きがあるのです。
坐禅の姿勢を調へること、つまり調身が禅の修行だと思っているのです。
禅の修行は身体(肉体)で行うものであり、精神で(心)で行うものではないと考えているのです。
迷い苦悩するのは心ではなく、生身の肉体だと考えているために、当然そのような考えになるのです。
このように迷うのは肉体だと考える宗教者は、インドの難行苦行の行者か澤木興道老師及びその一統ぐらいのものではないかと思います。
一般的に多くの現代人は、迷い悩み苦しむのは心だと考えているのです。
澤木興道老師の禅修行は身体(肉体)上の正身端坐ばかりで、精神(心)上の非思量の相続という重要な要素が全く欠けてしまっているのです。
正身端坐の姿は、身心脱落していてもしていなくても、見掛け上に違いはありません。
正身端坐を悟りの姿として修したところで、坐を離れた途端に、普通の凡夫に戻るのです。
自由無礙の心を得られるわけでもなく、そのような活動もできないのです。
坐を離れたら、自他一如らしい様子も失せるのです。
生死の解脱も、真の自由も、坐禅中の夢だったのです。坐を解いて、現実の自分に戻るのです。
正身端坐を解き、坐より立てば、大地と有情と同時成道の心も何処かにいってしまうのです。
自我の脱落していない凡夫の日常に一瞬にして戻るのです。
これが正身端坐を唱え、唯坐る坐禅修行の現実です。
かなりの忍耐の必要とする非思量の修行もせずに、正身端坐という坐形を整えて坐っているだけで、身心脱落をするはずはありません。
身心脱落をしない限り、大慈悲心の働きは生まれてこないのです。
利他心をもって他者を救う力量など生まれてくるはずもないのです。
このような人は禅僧といえども、自らの生死に直面すると迷い苦しむのです。
自らも救われていないのに、目を外に向けて誤魔化しているだけです。
口上ばかりの坐禅であり、口上ばかりの悟りだからです。
最後に「修行が悟りで、悟りが修行だ。」と突っぱねるような、禅僧らしい言い方をしています。
禅修行は基本的に非思量(一念不生)ですが、非思量は即、悟りではありません。
なぜなら、非思量であっても即、身心脱落するわけではないのです。
ですから、修行は即、悟りではないのです。
悟りは身心脱落のことですから、身心脱落は身心脱落であって、修行ではないのです。
非思量は必ずしも身心脱落ではありません。
但し、非思量が身心脱落と一致する時はあります。それは身心脱落した時のみです。
言ってみればこの時のみ、修行が悟りで、身心脱落が非思量という修行と一致するのです。
このことに気が付いて澤木興道老師が斯く言っているとは、この文脈からは考えらえないのです。
非思量の相続を実際にやってみれば、以上のことは私だけでなく、誰にでも分かることです。
また、非思量の相続に特徴的な姿・形という目に見えるものはありませんから、「修行(非思量の相続)がそのまま悟り、即、身心脱落の姿だ」と言うこともできないのです。
身心脱落の体験も、外見にその徴候が現れることはありません。
非思量の相続を修していることも、身心脱落の人となっていることも、本人以外、誰にも分からないことなのです。
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2023. 2.1
「欲望は肉体にあるものであり、迷いや苦悩は肉の塊である肉体にあるのである。
その迷いや苦悩の解決の為に正身端坐の坐禅をただするのである。
正身端坐の姿が悟りを開かれた姿であり、正身端坐の姿が、そのまま悟りの姿である。
佛陀と波長を合わせる為に正身端坐の姿勢で唯坐るのです。
迷いの塊である肉体を正身端坐の姿勢をすることによって悟の塊である肉体に即変えるのです。
悟られた佛陀と同じ姿になることによって、自らもたった今、そのまま悟りの姿になるのです。
これをもって佛陀と同じ波長となるのです。
他に求めることはないし、他に求めるものもないのです。」
以上は澤木興道老師の言葉です。
これは根本的に間違いです。
「欲望は肉体にあるものであり、迷いや苦悩は肉の塊である肉体にあるのである。」という件について、
この考えは古く天竺の行者の修行観です。
この修行観から天竺の行者の肉体への難行苦行が考えられ、いくつかの宗教が生まれました。
釈尊も出家をして、当時考えられ行われていた全ての難行苦行を肉体に課したと述べています。
肉体への難行苦行の全てを完全に成し遂げても、生老病死のもたらす苦悩は解決しなかったのです。
そして、肉体への難行苦行を止め、菩提樹の下で瞑想を始めたのです。
どの様な瞑想をしたのか分かりませんが、多分、冥想中に、盤珪禅師のように、一念不生で苦悩から解放されることに気が付いたものと思います。
そして、一念不生をますます深めていき、或る時、明けの明星を目にした時に、自己が消滅していることに気が付いたのです。
佛陀は欲望は肉体にあるものであり、迷いや苦悩は肉の塊である肉体にあるという考えは誤りであることに気が付いた為に、肉体への難行苦行を止めて、精神の修行に迷いや苦悩の解決を求めたのは確かです。
それが佛陀の修行観です。
現代では、あらゆる人の欲望を生み出すのは、肉体ではなく頭脳であることが科学的に実証的に明らかになっているのです。
心も心臓の辺りにあるのではなく、頭脳の中にあることは現代に於いては常識です。
そして、身心脱落する自己(我・自我・意識)は、肉体にあるのではなく、精神、つまり頭脳のニューロンにあるのです。
修行し始めた頃の私でも、肉体に自己があるとは思ってもいませんでしたし、肉体が迷い苦悩するなどと一度として思いついたこともありません。
私は肉体が迷い苦悩するのではなく、精神、つまり頭脳が迷い苦悩し、頭脳に自己があると考えておりました。
意識の存在に問題があると考えていたのです。
自分の迷いや苦悩の解決の為に、六祖慧能のように腕の一本でも切り取ってしまうとか、肉体をどうのこうのしようとは一度も考えたことはないのです。
そのような行いは修行といえども愚かなことと考えておりました。今でもそうです。
私は澤木興道老師のように、欲望は肉体にあると考えたことがないのです。
迷いや苦悩は肉体にあるということも考えたことがありません。
科学的物の見方が進んだ近代・現代に生きた澤木老師が何故、このように考えるようになったのか不思議でなりません。
澤木興道老師の説く通りに、肉の塊である肉体に欲望があり、肉体にある迷いや苦悩の解決の為に、正身端坐の坐禅を “ただ” した処で、欲望の根源が肉体にあり、迷いや苦悩も肉体がもたらすという考えそのものが間違っていますから、何にもならないのです。無駄なことです。
一般の修行僧は「ただ」をいとも簡単にできると思っていますが、それは間違いです。
多くの修行僧が自ら作った「ただ」という思い込みの「ただ」という様子に浸かっているだけなのです。
澤木興道老師は、この「ただ」が大好きなようですが、坐禅や禅の修行は、曹洞宗開祖道元禅師が示されているように、「ただ」するのではなく、非思量の相続のもとで正身端坐にて只管打坐するのが正しい禅の修行なのです。
「ただ」だけでは何にもならないのです。
或いは、坐臥に拘らず、非思量の相続を日常の起居動作の中で修していくのです。
「ただする」ということは実際にはできないことですから、もしやるとなれば、ただする為の修行が必要となるのです。
人の活動行為は、目的もなく欲望もなく、精神的にニュートラル状態で「だだする」というのは有り得ないことです。
人の行為には全て何らかの欲望が、その元にあります。
何らかの目的にしても、欲望があっての目的なのです。
欲望が元にない目的というものは、人間の行為の中には無いというのが、現代の心理学上の一般論です。
このような中にあって「坐禅をただする」ということは有り得ないことです。
目的もなく、欲もなく、求めることもなく、「坐禅をただする」と説いている御本人は、自分の欲望に気付いていないのではないかと思います。
ただ坐禅をしたいのですから、ただ坐禅をすると説くのです。
頭の中に雑念が次から次へと湧き、動き続けているのです。その状態は「ただ」とは言わないのです。
自己の中の自己がその動きを冷静に見ている様子というのは、意識を用いることによってできるのです。
それは「ただ」ではなく、意識における自己を見据えたあり方であって、「ただ」ではないのです。
雑念が出てくるには出てくる心理的背景があるのです。
理由のないところに雑念は出てこないのです。
自己を構えて雑念の滅起のままにしているのです。
自己を構えているので、「ただ」ではないのです。
これは一般の人もよくやっている日常的なことですから修行にはならないのです。
何れにしましても、「坐禅をただする」ということは、身心脱落していない人間にはあり得ませんし、できてもいないこと、或いはできもしないことをあたかもできるかのように説くことは、禅門に身を置く者としては慎まなければなりません。
実際このような説き方をしている師家や禅僧は多いものですから、修行未熟な者は騙されてしまうのです。
騙されて無駄な修行を一生涯することとなってしまうのです。
私も騙された方です。私のような者は少なくないのが現実です。罪なことです。
澤木興道老師は、「迷いや苦悩の解決の為に」と言いながら、「正身端坐の坐禅をただする」と述べているのです。
「迷いや苦悩の解決の為に」と正身端坐の坐禅をする目的と理由をはっきりと述べているのですから、「坐禅をただする」ことなどできるはずはないのです。
澤木興道老師は、自己矛盾している自己の発言に気付いていないのでしょう。
「ただする」ことに「何々をする為に」という目的と理由があってはならないのです。
澤木興道老師の是の論は、二律背反の関係となっているのですが、御本人は気付いていないのです。
「ただする」場合、目的と理由があっては「ただする」ことはできないのが原則です。
さらに、「佛陀と(精神上の)波長を合わせる為」という目的と理由があるのですから、その目的と理由がある以上、「唯坐る」ことなどできないのです。
「唯坐る」ということに目的と理由があっては「唯坐る」ことにはならないのです。
目的と理由を忘れて修行するという意味を知っていればよろしいのですが・・・。
「唯」に目的と理由はないのです。
非思量(一念不生)の状態において「唯」を見てみれば自ずと分かります。
非思量(一念不生)の状態がただの状態なのです。思量の精神世界には「ただ」はないのです。
澤木興道老師は正身端坐の姿勢にこだわりを持っておりますが、均整のとれた正身端坐の姿は、佛陀が創始した姿勢ではなく、当時のいくつかの既成宗教の冥想する時の姿勢です。
その伝統はインドやその周辺のアジアの国々で現在でも佛教に限らず行われ伝わっているのです。
「正身端坐の姿が、そのまま悟りの姿である」という根拠はないのです。
アジアでは佛教に限らず他宗教でも均整のとれた美しい正身端坐の坐禅の姿勢は行われているのです。
私達の身近なところでは、ヨガという宗教でも行われていることは周知のことです。
彼らもその姿勢にはかなりのこだわりがあり、美しく整った姿です。
実際に正身端坐の姿が悟りを開かれた姿であるという祖師方の法語文献は残っていないのです。
「正身端坐の姿がそのまま悟りの姿である」というならば、
佛陀の歩かれている姿は? 食事をしている姿は? トイレを使っている姿は?
悟られた佛陀のこれらの行為は、悟りとは無関係なのでしょうか?
この間、悟りはなくなっているのですか?
しっかりと道理として考えてみて下さい。
佛陀が横臥している姿は、悟りが無くなっているのですか?
それとも悟りの状態なのですか?
小用中も悟りの状態なのですか?
正身端坐の姿は悟りの姿であるという保証は全く無いのです。
正身端坐の姿は正身端坐の姿であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもないのです。
そのような姿勢をとっているというだけのことです。深読みは思量だからです。
眼に映じた通りです。
それ以上の深読みを禅者はしてはならないのです。
澤木興道老師は、
「佛陀と(精神上の)波長を合わせる為に正身端坐の姿勢で唯坐るのです。
・・・・・正身端坐の姿勢をすることによって悟の塊の肉体に即変えるのです。
・・・・・悟りの姿になるのです。
これをもって佛陀と同じ(精神上の)波長となるのです。」と決め込んでいます。
このように説く祖師方は一人もおりません。
曹洞宗開祖道元禅師でもそのような法理を説いてはおりません。
この法理は澤木興道老師の独創(オリジナル)ですが祖師方とは本質的に異なるのです。
我々凡夫が佛陀と同じ正身端坐の姿勢をとることによって、佛陀と同じ無我の心(悟った心)になると言っているのです。
こんなうまい話が曹洞禅にあるのでしょうか。疑わしいものです。
うまい話には用心しなくてはならないのが世の常識です。
佛陀の坐禅の姿勢を真似ただけで悟れると述べているのです。
佛陀の姿を真似ただけで、その人になれると言っているのです。
化けの皮が剥がれるという言葉がありますが、この場合はどうなのでしょうか?
また、「正身端坐の姿が悟りを開かれた姿であり、正身端坐の姿が、そのまま悟りの姿である。」と説いていますが、佛陀が正身端坐の姿で悟りを開かれたかどうかは文献に残っていませんので、誰にもそれは分かりません。
悟りを開かれたのであれば、その時の姿がどうであっても問題はないのです。
また、悟りの姿というものはありません。姿によって悟るということはないのですから・・・。
外見で分かるような悟りの姿というものはないのです。
外見だけでは、どなたが悟っているか、どなたが悟っていないかを判断できるようなものは何一つないのです。
その故に、
曹洞宗開祖道元禅師は正法眼蔵の中で
「無上菩提を演説する師に値わんには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行ないを考えること莫れ。」と注意しているのです。
-訳-
「佛法を説く師に会う時には、その師の血筋・家柄を考えてはいけない、その師の顔つき・顔立ち・容貌で判断してはいけない、道徳・倫理・常識的に非とされることをしてもその師の非を問題にしてはならない、その師の行いを批判してはならない。」
人は多くは外見で判断することが多いからです。
そして、それは往々にして間違っていることが多いからです。
その人の説いている内容で判断しないことが多いからです。
話す内容で判断せずに、その肩書・地位・評判等で判断することが多いのです。
外面菩薩、内面夜叉、ということがいくらでもあるのです。
正身端坐の姿であっても、それは悟りの姿ではありません。
佛祖の坐禅の姿によく似ていても、心の中に自己が存在していれば、その正身端坐は悟りの姿ではなく、迷いの姿ということになるです。
いくら外見だけを装い、佛祖の真似事の正身端坐をした処で、それは脱落した正身端坐にはならないのです。
脱落した正身端坐には、正身端坐という容姿は無いのです。脱落というのは無相だからです。
容姿のことを禅門に於いては「相」と言います。
自分の姿・形を私達は常に自覚し、見えていますが、それを「相」というのです。
正身端坐と雖も身心脱落した本人にとっては無相なのです。
身心脱落した人の正身端坐に有相・無相の区別はないのです。
師家や禅僧の正身端坐だからといって、心の中が無相であるという保証はありません。
無相であっても正身端坐はできますし、有相であっても正身端坐ができるのです。
自分で自分の正身端坐の姿を自覚しているようでは、真の修行ができていない証拠です。
次に「佛陀と波長を合わせる為に正身端坐の姿勢で唯坐るのです。」と述べていますが、
正身端坐で坐っていても、佛祖は無相であるのに、澤木興道老師は有相です。
片や無相、片や有相で、何処で波長が合うと言うのでしょうか? 真逆の立場なのです。
どうやって無相という波長と有相という合わない波長を合わせるのでしょうか?
片や無我、片や有我 波長など合うはずがないのです。
有我の僧がいくら正身端坐の姿勢が上手にできていても、佛祖が半坐を分かつはずはないのです。これぐらいのこと気付かなくてはなりません。
佛陀と波長を合わせるならば、心の中を無相無我にしなくてはなりません。
つまり、具体的に実際に身心脱落するしか方法はないのです。
これ以外に方法があるというのであれば、澤木興道老師の一門にお示しして頂きたいと思います。
次に「迷いの塊である肉体を正身端坐の姿勢をすることによって悟の塊である肉体に即変えるのです。」について、
肉体は迷うこともなく、苦悩することもなく、また迷いや苦悩を生み出す何かの機能があるわけでもありません。
肉体には決まりきった形や姿はなく自由です。縁に常に応じて自由なのです。
縁は無限に自由なのです。その自由な縁に肉体は自由に即応ずるのです。
それは肉体に自己主張する自我がないからできることなのです。
肉体は、自我が有るか無いかという存在でも組織でもありません。
ですから肉体には、悟りの姿、つまり、脱落身心した姿、無我の姿というものはないのです。
肉体に、迷いの肉体とか、悟りの肉体とか、そういうものは本来ないものです。
肉体の姿勢を変えても、肉体そのものは何も変わることはありませんから、“迷いの肉体を悟りの肉体に変える”という考えは思い込みであり妄想でしかありません。
肉体は何処を切っても、そこに自己はないのです。自我が出てくることはないのです。
「悟られた佛陀と同じ姿になることによって、自らもたった今、そのまま悟りの姿になるのです。」と言っていますが、
悟られた佛陀は、悟られた人格で起居するのです。喫茶喫飯するのです。
一挙手一投足すべてが悟られた姿なので、これといって悟りを象徴するような決まりきった姿というものはないのです。
「そのまま悟りの姿になる」と佛陀と悟りを入れ替えているのです。
ここは「たった今、そのまま佛陀と同じ姿になる。」とすべきです。
“佛陀” からいきなり “悟り” に飛躍してしまっているのです。
悟りを現わしている特徴的な姿というものは何一つありませんから、佛陀の一挙手一投足を真似し、再現したところで心は身心脱落をすることもありませんし、無我の人となることもないのです。
これを軽蔑の心を込めて“鵜の真似をする烏”と昔からいうのです。
「佛陀と同じ波長となるのです。」と言っていますが、
形や姿を真似たところで、脱落身心の佛陀と、脱落していない修行者と、同じ波長の人格になれるはずはありません。
利他心(慈悲心)ばかりの佛陀と、利己心ばかりの修行者と、同じ波長になるはずはないのです。
“利己心ばかり”とここで書きましたが、自我(自己・我・意識)の本質は利己性です。
片時も利己性を離れる時がないのが我々凡人です。
片時も利己性を離れることが無いが故に、縁に応じて即、利己心が動くのです。
この利己心は生き抜いていく為に動物には無くてはならない重要な性質です。
良い悪いではないのです。生きていく為に必要欠くべからざる天賦の性質なのです。
ただ、この利己心がある内は心が安らかになることはありません。形を真似ても駄目です。
真似るなら佛心しかありません。しかし、佛心は真似ることのできる心ではありません。
佛陀とチャンネルを合わせたかったら、非思量の相続に精進することです。
そして、身心脱落することです。
そうすれば、自然に必然的に佛陀の波長そのものになるのです。
合わせる必要はなくなるのです。
「他に求めることはないし、他に求めるものもないのです。」と澤木興道老師は申しておりますが、
曹洞宗開祖道元禅師は、佛家は生を明らめ死を明むることが使命ですと説いているのです。そして、生死を離るることです。
このことを求めないでどうするのですか。
出家をした者がただ坐っていただけで、このことを成就したという実証はないのです。
このことが成らずして衆生を救うことはできないのです。
澤木興道老師の修行観・坐禅観は、佛祖正伝の修行観・坐禅観からかなりずれてしまっているのです。
澤木興道老師の修行観・坐禅観は実質は大乗禅ではなく小乗禅なのです。これでは、他者を救う心は養えないのです。
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2023.3.1
澤木興道老師は昭和に活躍した曹洞宗の名僧であり、高名な師家でした。
澤木興道老師の門下の師家方が、現在の曹洞宗の師家の主流を構成しております。
当然、現代に於ける曹洞禅の修行観・坐禅観は、澤木興道老師の説く「非思量の無い只管打坐」であり、「正身端坐という坐禅の姿勢にこだわり、坐禅の姿勢を鍛えていく」というものです。
正身端坐の外観的端正さの、他者に対する神秘的影響力を重視して、坐禅を修すると説いているのです。
前回(2023.2.1)、それ以前にも触れましたが、
澤木興道老師は、禅の修行は、生身の肉体で生身の肉体に対して行なうものと考えているのです。
生身の肉体が迷い悩むと考え、生身の肉体が迷い悩み苦しむ原因を作り出していると考えているからです。
宗祖道元禅師の説かれた非思量を坐禅の要術とはせず、雑念妄想がいくら生滅しようと、そのままにし、出るに任せ滅するに任せて放っておくと主張しているのです。
これでは非思量の対極である思量の状態です。大胆な発想であり主張です。
そして、正しい端正な姿の坐禅をして、ひたすらその状態を維持するというのが澤木興道老師の修行観・坐禅観です。
澤木興道老師は坐禅の姿を鍛錬し、極め、ひたすら坐るというのが正しい修行であると説きます。
曹洞宗開祖道元禅師は、「正法眼蔵 随聞記 三」 の最後の部分で、
「道を得ることは正しく身を以って得る也。」と説いています。
この一文から、澤木興道老師は、「身を以って得る」ための「身を以って」を、正身端坐という坐禅の姿勢をとる生身の肉体としているのです。
この姿勢をとる肉体を修行の要としているのです。
「道を得ることは正しく身を以って得る也。」の「道を得る」というのは、身心脱落するということを指しています。
身心脱落というのは、身と心が精神上(心)から消滅してしまうことを指しているのです。
身心脱落というのは、心の中から身と心が脱落(消滅)してしまいますから、生身の身が道を得ると考えるのは間違いです。
「身を以って得る」というのは、生身の肉体が得るという意味ではありません。
この生身の肉体は迷い悩むことはないのです。
悩み苦しまない肉体は脱落させる必要はないのです。
悩み迷うのは精神上の意識の作った自己なのです。
「道を得る」というのは、精神上に意識が作った架空の身と架空の自己が消滅(脱落)することを指すのです。
消滅することを「道を得る」と言い表しているのです。
つまり、「消滅する体験を得る」と受け取って下さればよいのです。
消滅する体験を得るのは、自己ではなく無分別の分別心です。
澤木興道老師の根底にある考えは、「私達の肉体は “迷いの塊の肉体” である」というものです。
その考えが根本的な誤りなのです。
「道を得ることは正しく身を以って得る也。」の「身」の解釈が全く違っていたということです。
「道を得ることは正しく身を以って得る也。」の「身」は澤木興道老師の説くところの生身の肉体の「身」ではなく、般若心経に出てくる「無眼耳鼻舌身意」の「身」なのです。
この「眼耳鼻舌身意」は実在のものではなく、意識が意識をもって作り出した処の架空の「眼耳鼻舌身意」なのです。
森羅万象には実在してはいない架空の存在(精神上の存在)なのです。
この「身意」は、身心脱落の「身心」のことです。
私達が自覚している眼や耳や鼻や舌や身や意(心)は実在しているわけではなく、私達の意識が意識をもって作り出した架空の存在なのです。
但し、思考力の一つである想像力によって想像した存在ではありません。ここの処は注意が必要です。
意識の作り出した架空のものと、想像力の作り出した架空のものと、二つの実体のない架空のものがあり、その二つは全く本質的に異なるのです。
「身を以って得る也。」というのは、身が脱落(消滅)することを以って「得る」と表現しているのです。
道を得る時、実際に架空の身が脱落してしまうので、得るべき身が消滅してしまっているのです。
眼も、耳も、鼻も、舌も、身も、機能だけ残して脱落してしまうのです。
「身が脱落(消滅)する体験を得た。」という意味で「得る」とう言葉を用いているのです。
開祖道元禅師は「身を以って得る也。」と述べておりますが、ここは身でなくてもよいのです。
六根を代表して象徴的に身と言ったのです。
眼なら眼だけ、一つだけ脱落して他は残ったままということはないのですが、非思量の相続をしていきますと、身心脱落していなくとも、自分が気にしないものから消滅していきます。
最後まで残るのは眼と唇です。
※「六根」というのは六つの人体の感覚器官のこと。
六つの認識能力、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つの感覚器官と、認識し思考する意(心)のこと。
眼耳鼻舌身意のこと。
「根」は認識器官を意味します。
六根を代表して象徴的に「身」を用いたまでのことです。
香巌禅師は竹に当る石の音で悟ったのです。
眼も耳も脱落してしまいますから、霊雲禅師は桃花を見て悟りましたが、「眼をもって得る也」でも「耳をもって得る也」でも構わないのです。
六根の内、どれを縁として身心脱落するかは、人それぞれで、その時まで誰にも分からないことです。
五官の内、どれによって脱落するかは因果関係(法則)がないのです。
意をもって得るのか、身をもって得るのか、舌をもって得るのか、鼻をもって得るのか、耳をもって得るのか、五官の何れかによって道を得ることは確かなのです。
しかも、六根全部が同時に脱落し同時に得るのです。
「身を以って得る。」というのは、澤木興道老師の説く「生身の肉の塊」が得るのではないことは確かです。
他にも、澤木興道老師は道元禅師が説かれる
「知見解会を捨てる時、道を得る也」や
「佛法を計校する間は得べからず」
という非思量の相続を具体的に説き示された一文を無視し、スルーしてしまい
「只管打坐すれば、道は親しみ得る也」や
「道を得ることは正しく身を以って得る也」だけが目に留まってしまったのです。
それは最初から修行観・坐禅観が偏向していたからです。
強い先入観があったのでしょう。
随聞記の中で道元禅師が述べられた
「得道の事は心を以って得るか、身を以って得るか。」
の一文ですが、これは字数も少なく簡素なものですから理解が容易であろうと考える方が多いのです。
ですが私の見る限りでは、皆さんは表面的に常識的に解釈しております。
この一文の真意は常識的な考え方では容易に理解できないことばかりで構成されていますので、この文の解釈を試みる師家や禅学者の力量が容易に判断できるようになっているのです。
この一文を正しく理解するには、非思量(一念不生)の相続を不断に修めていなくてはなりません。
私は何人かの師家方や禅学者方の解釈を見てみましたが、非思量の相続の経験が無いために、一般人の常識的見解ばかりで不充分なものと言うしかありません。
道元禅師や祖師方の説かれることは、非思量の立ち位置で理解しなければ間違うこととなってしまいます。
また、同じく曹洞宗開祖道元禅師の著書 「随聞記」中に
「心の念慮知見を一向に捨てて、只管打坐すれば、道は親しみ得る也。」
という言葉があります。
この一文で最も重要なのは「心の念慮知見を一向に捨てて」という処です。
これは内容的には非思量のことです。
澤木興道老師はこの前半の重要な箇所を全く無視して、後半の「只管打坐すれば、道は親しみ得る也。」を重視しているのです。
この文の構成から見て「只管打坐すれば、道は親しみ得る也。」は必然的結果を述べているのですが、そのことに気が付いていないようです。
「心の念慮知見を一向に捨て」さえすれば、その必然的結果として、どうせずとも「道は自ずから得る也。」ということなのです。
只管打坐という言葉は必ずしも必要がないのです。起居動作、何でもよいのです。
道元禅師の言わんとしていることが師家の思考習慣によって、理解されずに、このように歪曲されてしまうのです。
この一文は「非思量の精神状態で、たとえば、ただ坐禅を組んで坐れば、佛道は自ずから得るものである。」と述べているのです。
非思量の相続に於いて、私はこのような解釈が文の構成からして妥当であると考えますが、
澤木興道老師は「念慮知見を一向に捨てて」の処を無視して、「求めることもなく唯坐っていれば、佛道の悟りを得るものである」と解釈しているのです。
澤木興道老師が私と何故こうも異なるのかの理由は、澤木興道老師が非思量を知らないからです。非思量の相続を一度たりとも修したことがないからです。
澤木興道老師は「非思量」を全く理解できていないということなのでしょうか。
「非思量」を全く理解できない人にとっては、「非思量」は無いも同然です。
非思量を全く理解できない人というものは、非思量という言葉を無きものとして飛ばしてしまうのです。
置き字扱いをして非思量を飛ばして辻褄合わせをするのです。
人というのは、なかなか頑固なもので、自分の思いや考えが強くある場合、そのことにそぐわないことは、見ていても見えず、聞こえていても聞こえないという習性を持っているものです。
澤木興道老師にとって非思量はその典型的事例なのです。
そのような師家は、非思量を除いた分だけ辻褄合わせの為に、祖師方の法語・語録の見方、解釈の仕方が、その師家独自のものとなり、偏らざるを得ないのです。
澤木興道老師は思量の対応については、雑念・妄想がいくら起滅しても相手せず、出るに任せ滅するに任せれば何も問題ないと説き、非思量とは言わないのです。不思量とも、一念不生とも言わないのです。。
そのような状態で正身端坐して唯坐われば、それが祖意であると説いております。
宗祖道元禅師の著わしました坐禅の指南書(手引書)である普勧坐禅儀に示されています「非思量、此れ乃ち、坐禅の要術なり」とは隔たりがありすぎるのです。
さらに、澤木興道老師は、
大智禅師 「十二時法話」を抜粋して
「諷経の用心と申すは、坐禅の事も、粥の事も少しも心にかけず、ただ手に経を持ち読みて外の用心候はず。
是れを諷経をさとりあきらむると申すにて候。
此の時、生死の業つきて佛祖の位に登るなり。
休む時の用心は、世間の徒ら事を思はず、言はず候なり。
坐禅の用心は、佛祖をも、世間の善悪をもなげすてて、心に思ふことなく、為すことなきを坐禅と申すなり。」
と紹介し、以下のように説明しております。
「私はこれを坐禅は坐禅になり切り、お経はお経になり切り、休みは休みになり切ることだと云っているのです。」と。
「心に思ふことなく」という非思量については、一言も触れていないのです。
また、澤木興道老師は、
「佛祖の正伝は、ただ坐にて候。
坐禅と申すは、手を組み足をも組み、身をもゆがめず、正しく持せたまひて、
心に何事も思ふことなく、たとひ佛法なりとも、心をかけずして御座候べし。」
という大智禅師の言葉を紹介しているのですが、それにも拘らず、修行というのは佛のなされた通りの姿勢をとることと考えているのです。
雑念は相手にせず放っておけばよいとして、大智禅師の「心に思ふことなく」の部分や「心に何事も思ふことなく」の部分は目に入らず、常に無視したままなのです。
この傾向は、澤木興道老師に限らず、近代・現代の師家方や眼蔵家といわれる師家学僧方も皆、同様です。
曹洞宗開祖道元禅師が著わし残された普勧坐禅儀の坐禅修行の根幹である非思量の解釈が全くなされていないか、全くの曲解になってしまっているのです。
その理由は、非思量という精神状態について日常的に思い当ることがないからだと思います。
つまり、日常的に頭の中は思いや考えが一杯で、途切れることがない状態だからだと思います。
私は修行に入る以前から、日常的に非思量の状態がありましたので、何ら問題なく非思量の状態が理解できたのです。
大智禅師「十二時法話」を分かり易く説明しておきます。
−現代語訳−
「読経する時の修行について注意すべきことは、坐禅の工夫のことも、食事の粥のことも少しも心にかけず、
ただ手に経本を持ち、読んで、それ以外の修行として注意すべきことはありません。
是れを曹洞禅の正しい修行としての読経をさとり明らかにすることと申し候なり。
此の時、生死の迷い苦しみが尽きて佛祖の位に登るのです。
休む時の心得は、佛祖のことも、世間の善し悪しの認識・判断することも放棄して、心に思うことなく、為すことなきを坐禅と申すなり。」
−解説−
諷経というのは読経のことです。
「粥のことを少しも心にかけず」と述べておりますが、この「心にかけず」というのは、「少しも思わず考えず」ということです。
「佛祖の位」というのは身心脱落するということです。
「為すことなき」というのは、坐禅の姿勢を取って、それ以外のことを「為すことなき」ということを意味しています。
「坐禅と申すなり」の「坐禅」は「坐禅の用心」ということです。
用心が繰り返しになるので省いたのです。よくあることです。
澤木興道老師は十二時法話の意味を「坐禅は坐禅になり切り、お経はお経になり切り、休みは休みになり切りることだ」と云っているのですが、澤木興道老師御本人は、なり切ることはどういうことかについて一言も説明をしていないのです。
読む人の主観に任せているのです。
人は十人十色ですから、「なり切る」ことを十の解釈、十のイメージを抱くのです。
これでは大智禅師の「心に思ふことなく、為すことを坐禅と申すなり」と説いた真意から大分かけ離れたこととなってしまうのです。
澤木興道老師は「なり切る」と述べたのですから、何をどのようにしたらなり切る状態になるのかを説くべきです。
人は意志をもって坐禅になり切ることはできないのです。
なり切る自己があり、なり切る思い考えがあるからです。
お経になり切るにしても、なり切ろうとする思い考えがあり、なり切ろうとする自己があるのです。
この思い考えと自己があったら、なり切ったことにはならないのですが、ここの処はどのように指南するのか大切なことです。
基本的に身心脱落していなければ、なり切った自分はまやかしです。
なり切る工夫を説き示さなければならないのです。
「非思量!」
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2023.4.1
前回(2023.3.1 第四章)触れました
「得道の事は身を以って得る」と主張する澤木興道老師の修行観の根拠となっている「正法眼蔵 随聞記 三」の原文を紹介し、且つ参考に、現代の師家の代表的禅者である石川県加賀の大乗寺住職 東隆眞老師の訳文を併せて掲載致します。
その後に私が一語一語詳しく不明な点が無いように説明をしていきますので、正しく理解できるものと思います。
−原文−
「云、得道の事は、心をもて得るか、身ヲ以テ得るか。
教家等々にも、身心一如と云て、身ヲ以テ得るとは云へども、猶、一如の故にと云。
正く、身の得る事は、たしかならず。
今、我が家は、身心倶に得る也。
其中に心をもて、仏法を教校する間は、万却千生にも不可得、
心ヲ放下シテ、捨知見解会時、得る也。
見色明心、聞声悟道ごときも、猶、身を得る也。
然れば、心の念慮知見を、一向すてて、只管打坐すれば、今少し、道は親しみ得る也。
然ば、道を得ことは、正しく身を以て得也。
是によりて、坐を専にすべしと覚也。」
−東隆眞老師の現代語訳−
道元禅師全集(第十六巻正法眼蔵随聞記)訳注東隆眞老師 春秋社 より
「云われた、道を得ることは、心でえるのか、からだでえるのか。
教家などでも、からだと心は一つだと云って、からだでえるとは云うものの、それは一つだからという。
まさしくからだでえるということが確かではない。
いま、わが家では、からだと心とともにえるのである。
そのなかで、心で佛の教えをおしはかっている間は、永い永い時間をかけてもえることは出来ない。
心を放って、知的見解や解釈を捨てたとき、えるのである。
桃の花の色を見て心を明らかにし、小石の竹にあたる音を聞いて道を得るというのも、からだで得たのである。
だから日常的な思慮と見解をすべて捨てて、ただひたすら坐禅だけを修行すれば、いま少しは道に親しむことができる。
だから道をえることは、まさしくからだでえるのである。
このようなわけで坐禅をもっぱらにしなければならないと思うのである。」
−私 大角幻了の解説−
「道を得ること」というのは解脱すること(悟ること、身心脱落すること、自己を忘却すること)を指します。
身心脱落は心でするのか、身でするのかという問いなのです。
心に於いてなされるのか、身に於いてなされるのかという質問なのです。
「教家等」というのは他の宗教・宗派という意味です。
身心一如と言って身を以って得るとは言っていますが、その理由は身と心は一体のものであるからということなのです。
この理由だけではまさしく(間違いなく)身で得るということがはっきりしていないのです。
身心一如の真の意味を、実際では正しく理解しているかいないかが明らかではないからです。
身心一如という法理(佛法理論)を述べているだけだからです。
今、我が禅門では身と心と共に得るのです。
我が禅門では身と心と共に得るというのは、身と心が共に同時に脱落(消滅)することをもって得るというのです。
佛道を得るというのは、身と心が共に同時に脱落(消滅)することをもって佛道を得る(成道する、得道する、解脱する、身心脱落する)と言うのです。
道を得るというのは、「身心脱落の体験」を得るということです。
この時、身心脱落の体験を得る主体は存在していないのです。
それは無分別の分別心の体験だからです。
自己の忘却(自己の消滅)の体験を得たということなのです。
自己の忘却は無分別の分別心が分かるのです。
身心脱落というのは一時的な体験ではなく、一度身心脱落した精神状態(心境)は元の脱落する前に戻ることはありません。
もし身心がもとに戻り、自我意識が戻るようなことがあれば、それは正しい身心脱落ではなく、まさに変性意識(意識の変容)の体験であって、一般の人にもある異常心理の体験です。
この変性意識を身心脱落の体験と思い違いしている師家が多いのが実際です。
このような真意の中で思量をもって仏教を推し量っている(教校:推し量る)間は、何万年、何千回生まれてきても得ることはできない。
心を放下してという意味は、思量を投げ捨ててという意味です。
この「心」は一般的に言うところの精神という意味ではありません。
「心」をこのように思い・考え・思量という意味で用いているのです。
「心」をこのように用いることが多いので、よくよく気を付けなければなりません。
この「心」の解釈を疎かにすると、意味が曖昧なものとなって祖意を正しく理解することができません。
その結果、間違った修行となってしまうのです。
知見解会を捨てる時というのは、知的見解や解釈を捨てたとき道を得るのであると述べているのです。
知的見解や解釈する時、人は必ず言葉を用いるのです。
つまり、思量をするということです。
思量を捨てるというのは非思量ということです。
これらをまとめて集約して表現しますと「非思量の相続に於いて道を得るのである」ということになるのです。
思い考えることをやめた時というのは、非思量の時ということです。
「見色明心」というのは、中国の霊雲という修行僧が桃の花を見た時に、その視覚への機縁で身心脱落したという故事逸話を例として示したのです。
この見色明心の「見色」は、桃の花を見たこと。
明心の「心」は、この場合は思い考えのことではなく、「佛道を習うというは自己を習うなり」の自己のことです。
心を明らかにするというのは、自己を明らかにするという意味です。
「聞声悟道」というのは、中国の香厳という修行僧が、自ら植えた竹に、道路を掃除していた時に小石が飛んで当たった音を聞いて、それを縁として道を得たという故事を指しています。
耳で音を聞いて、その縁によって身心脱落を得たのです。
耳という身で音を聞いたのです。
耳が身なのであって、生身の肉体が身ではないのです。
この時在るのは、耳からの音だけで、身体は既に存在していないのです。
この様子を禅門では、全身耳であるとか、全身音だけであると表現しているのです。
「身をもって道を得た」といっている身というのは、般若心経に出てくる無眼耳鼻舌身意の五官の眼耳鼻舌身の内のどれか一つです。
この身は五官のことなのです。
五官は身体の一部でありながら全体なのですから、身と表わして可なのです。
五感の感覚器官は全てその縁(外部からの入力刺激)に応じて、全身がその感覚器官として機能するのです。
痛みが生じると全身が痛みなのです。全身のない痛みなのです。
冷たい水に手を入れると、手だけが冷たいのではなく全身が冷たいのです。
花を見ると全身が花なのです。花を見ると眼の存在のない花なのです。
全身が花なのですというのは、全身が無いという意味です。
身体の存在感が全く無いという意味です。
この時、身心脱落したということになるのです。
香厳が箒で掃いた時、小石が竹に当る音を耳にした時に香厳は身心脱落したのです。
音を耳にした時、全身が耳のない音だけなのです。
全身に音しかなかったのです。
全身が音だということは、身体の存在感が消滅してしまっていたということです。
身体が消滅してしまうと因縁生として音だけがあるのです。
その音を耳にしている自分は存在していないし、その音を聞いた耳も存在していないし、その時の自分の身体も存在していないのです。
故に、「全身が音である」と表現しているのです。
音が因縁生として厳然たる事実として在るのです。
身心脱落の時、自己と自己の依り処である身体が完全に存在しないのです。
身体が完全に存在しないというのは、身体が透明になってしまい、姿・形がないのです。
自己と自己の身体が存在しない時、縁に感応するだけの存在となるのです。
五官は自己の存在とは無関係に感応する機能なのです。
これは理屈ではなく、実感としてそうなのです。
そこで生身の肉体の五官一つで身心脱落するので、身をもて得る也と言うのです。
身心の脱落は身と心の脱落であり、精神上の身体と精神上の自己の脱落です。
そして、般若心経で無眼耳鼻舌身意と言われるように、精神上の眼と耳と鼻と舌と身と意(自己)が脱落(消滅)してしまうのです。
五官という身をもって得る也というのは、五官の存在の消滅を、禅門では“得る” と言い表しているのです。
禅門に於いて、身心共に得るというのは、身心共に同時に脱落(消滅)してしまうことを指しています。
道として得ることがあったということではないのです。
禅門の修行に於いて“得る” といっても、実質得るものはないのです。
得た主体は自己ではなく無分別の分別心なのです。
無分別の分別心には自己はなく機能だけがあるのです。
「然れば」は「だから」、「心の念慮知見を」の「心」は思い考え、思量のことです。
日常的な思慮や知識・見解を「一向すてて」の「一向」は、全てという意味です。
これは一言で言いますと非思量ということになります。
非思量の状態を相続してということになります。
「心の念慮知見を、一向に捨てて」 これが只管打坐という坐禅の前提であり全体なのです。
現代の曹洞宗の歴代の師家方は、只管打坐の前提条件である「心の念慮知見を、一向に捨てて」が抜け落ちてしまっているのです。
非思量の状態をもって只管打坐するのですという必須条件を落としてしまっているのです。
苦手な処は避けて、いいとこ取りをしているのです。
いいとこ取りというより、楽なとこ取りといった方が合っているような気がします。
「今少し、道は親しみ得る也」
ここの「親しみ」は、おのずから(自然に・ひとりでに・みずから)得るのであるという意味になります。
曹洞宗の師家方は、この「親しみ」を文字通り「親しむ」と解釈しておりますが、曹洞禅の修行に「親しむ」という感覚は、非思量の相続という前提条件のない只管打坐というだけの修行をしている方々にはあるのかもしれません。
「待ちぼうけ」という歌のような修行方法です。棚からぼた餅のような修行観ですから親しめるのでしょう。
非思量の相続は極めて苦しく辛いものです。
非思量の相続を主として修行をしている場合にはそぐわない感覚です。
普勧坐禅儀の中に「身心自然に脱落して本来の面目現前せん」とありますが、この「身心自然に脱落して」の「自然」が「親しみ」の意味なのです。
この「本来の面目現前せん」というのは、道を得ることを指します。
前文をふまえて「道はおのずから得るなり」と訳すのが違和感がありません。
次に「だから道を得ることは、まさしく身を以って得るなり」
この身は前に説明した通りの、五官の感応をもって得るなりという意味となります。
釈尊は明けの明星を目にした時に(視覚に明星が触れた時に)、それを縁として身心脱落(自己を完全に忘却する)したのです。
眼という身を以って得たのです。
この時は全身が眼だったのです。肉体の一部としての眼ではないのです。
釈尊が明けの明星を目にして身心脱落した時、身は存在していないのです。
生身の肉体は身心脱落をしても存在し、その身が道を得たのではないのです。
「是のようなわけで、坐禅を専一にしなければならない」と説かれているのです。
この曹洞宗開祖道元禅師が説かれた坐禅というのは、非思量の状態を相続するという前提条件のもとの只管打坐ですから間違えてはなりません。
「非思量」抜きの只管打坐ではありませんからくれぐれも用心して下さい。
多少の繰り返しになりますが、
「得道は身心倶に得る也」のこの「身心」は精神内に意識をもって意識によって作られた身心です。
この「身」は架空の身であって、実際に物理的に存在する生身の身ではないのですから、注意が必要です。
禅門に於いては、「身」は生身の身と精神内に作られた架空の身の二つがありますので、区別して祖師方の文章を読まなくては意味が正しく解釈できなくなります。
「身をもって得るのか、心をもって得るのか」の問いは、文中で「身心倶に得る也」と述べていますから、問いの身と心は、意識が意識によって作り出した身と心ですとうことになります。
故に身心共に同時に脱落することとなるのです。
我々凡人が考える生身の肉体と精神という意味で道元禅師が述べたのではないのです。
道元禅師の述べている「身心」の「心」は精神内の実体のない自己のことであり、意識・自我のことです。
般若心経の「無眼耳鼻舌身意」の「意」のことです。
身心の「身」は般若心経の「無眼耳鼻舌身意」の「身」のことで、身心脱落によって意(自己・意識・自我)と共に消滅してしまうのです。
眼耳鼻舌身の五根の何れかの縁(外部からの入力刺激情報)で六根すべてが同時に脱落(消滅)してしまうのです。
「得道は身をもって得るか、心を以って得るか」の身は、無眼耳鼻舌身意の身であって、意識によって意識が作り出した身です。
澤木興道老師の考えるように「生の肉の塊」である身ではないのです。
六根を代表し、総称して、身と述べただけです。
六根を象徴的に身と言い表したのです。
五根の内、何れか一つの縁によって、六根すべてが同時に脱落してしまうのです。
このことを霊雲禅師の桃花を目にした時の身心脱落の因縁話(逸話)と、香厳禅師が竹に小石が当った音を因縁として身心脱落をした逸話で紹介しているのです。
「身」としただけでは誤解するであろうと、五根への縁で身心脱落する逸話を例として出したのです。
霊雲禅師は若き頃、眼の縁で脱落し、香厳禅師は耳の縁で脱落したのです。
眼耳鼻舌身の五根の何れかでも脱落するのです。
よって身心脱落だけでなく、眼心脱落も、耳心脱落も、あり得るのです。
眼唇脱落もあり得るのです。
身心脱落とは言わずに皮膚脱落と言い表わしている祖師もおられるのです。
この皮膚というのは「身」のことであり、身の実感なのです。
私も同じ感覚が身としてあります。
私の場合は、姿勢・態度の輪郭(線)感がありますので、私が脱落したら身輪郭脱落となるのでしょう。
人は眼・視線の感覚と唇の感覚が強いので、眼唇脱落でも、視線脱落ということでも有り得るのです。
自己の存在を眼とか視線とか唇とかが強く感じていることが一般的に多いからです。
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