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2017.8.29
私の若き頃の修行の経験の中で、とても不満に思ったことがあります。それは師家が講義の中で、一般社会の中ではあまり使用されていない言葉を、その意味を明確に説明せずに使用しているということです。お師家さん本人にとっては、極めて初歩的な常識なこととして説明をしないのだと思います。
また、一緒に講義を受けている若き修行者も参禅者も誰も、師家の用いる言葉について質問をしないのです。
例えば「心」です。例えば「自己」です。例えば「なりきる」です。例えば「任せる」です。例えば「念」です。
今、例えで挙げましたが、これらの言葉は聞き流していい言葉ではありません。修行に於いては極めて重要な言葉なのです。これらのことが正しく理解できなければ、正しい修行は理解できないのです。講義をしている師家も、自分が用いる言葉の意味が聴き手に正しく伝わらなくては、正しい目指すべき修行の指導はできないはずです。
また、受け手の参禅者や若き修行者も、師家の話す言葉の意味を正確に受け取ることができなければ、正しく修行ができないという不安を抱くこととなるのですから大切なことなのです。その内、分かってくるだろうという態度は禅の修行に於いては許されることではないのです。禅の修行は容易なことではないからです。師家の話していることと、聴いた私が思い、理解していることが正確に一致することが大切なのです。修行者や参禅者は必ずこのことは確かめなくてはなりません。禅の修行に於いて、そのほとんどのことは、かなりのところまで言葉で説明できるのです。禅の修行は悟っていない凡情の人が、悟っていない範囲で行うことですから説明は可能なのです。但し、身心脱落することと、身心脱落した後のことは言葉では説明不可能です。私達はその世界の経験が全くないので推測すら不可能なのです。よって師家は脱落を含めて、それ以後のことについて語ることは百害あって一利もないのです。同様に修行者も参禅者も脱落を含めて、それ以後のことを聴いても全く意味がないことを自覚しなくてはなりません。自らが何れ脱落すればすべて分かることですから、前もって聴いておく必要はないのです。今の修行には何の助けにもならないのですから聞く必要もないのです。師家も悟りの内容を、右も左も分からぬ脱落をしていない修行者や参禅者に話す必要はないのです。何れ分かることですから・・・。「冷暖自知」という禅語はこのことを示している言葉です。
ここで話は最初に戻しますが、若き修行者や新しい参禅者は師家の用いている言葉の意味を正確に受け取れるように、理解するまで何度でも尋ねなくてはなりません。遠慮はいりません。きちんとした師家ならば、そのような真剣な態度に気分を害ねたり怒ったりするようなことはありません。もし、そのようなことがあるようでしたら、その師家は人を指導するのに充分な力量がないと同時に、老婆心がない人ですから離れて、より力量のある師家を捜すようにしたらよいと思います。その師家についていても、どうせ正しい修行にはなりませんから・・・。
一方、お師家さんも参禅者や若き修行者の理解が正確になるように、自らの用いる言葉の意味について、一つ一つどんな簡単な言葉でも説明していかなくてはなりません。
現実の参禅会に於いては、師家は一つ一つの言葉の意味を説明することなく曖昧のまま言葉を用いています。参禅者は言葉の意味が曖昧なまま分かったような気持ちになって、曖昧なまま済ませてしまうのです。そしてそのまま坐禅に励むのです。
これでは正しく修行や坐禅ができるはずはありません。師家は自分の用いる言葉の意味を何度でも説明していかなくてはなりません。
また、参禅者や若き修行者は意味が理解できなければ、その場で分かるまで質問していかなければなりません。この質問の応答は他の参禅者や若き修行者にとっても、とても参考になることなのです。
また、お師家さんも説明の仕方の幅ができることとなって、師家の指導力の向上にも役に立つことなのです。師家も実践で真剣に質問されないと自分の説明の仕方の不充分さ、技巧の欠点にも気が付くことがないのです。ほとんどの師家は自分の言葉の用い方や説明の仕方は充分であると思い込んでいるところがあります。身を切るような質疑がないからです。参禅者の前で恥をかくような厳しい真剣な質問を受けたことがないからです。師家と参禅者の公開での質疑、応答が盛んな方が修行は進むのです。修行についての質疑応答は、伝統的には師と弟子の二人だけで秘密裡に行なう慣習がありますが、それでは相方の力量の向上にはならないのです。公衆の面前で恥をかかないからです。恥をかきたくない心が常にあって、それが正しい修行の邪魔をすると同時に、その心がいわゆる神秘的体験である見性を望み求めるのです。
見性というのは身心脱落のすぐ手前の体験ではありません。見性してからが非思量の正しい修行が始まるのです。これからなのです。見性を求めない伝統的な曹洞禅は最初から非思量の修行に入ります。見性を求める坐禅と見性を求めない坐禅は、ここのところが大きく異なっているところです。
できるなら見性を求めずに最初から曹洞禅の非思量を只管に行ずることをお勧めします。間違いがないからです。身心脱落をしたという勘違いをすることがないからです。身心脱落の有無を師家が判定するのではなく、自然に自分で分かるからです。
次に参禅会で師家方が当然のこととして確かな説明をせずに、よく用いる言葉を挙げておきます。これらの言葉を参禅会で師家が用いたら質問をして、その意味をしっかりと理解するようにして下さい。修行が正しく進展していきます。
念、縁、縁に任せるの「任せる」、自己を捨てるの「捨てる」、只やるの「只」、なりきる、そのまま、ありのまま、本来の自己、本当の自己、忘自己、自己を忘れる、〜を認める、認識する、思量、非思量、真理、事実、三昧、集中する、分別心、分別、妄想、煩悩、意、心、道、無心、無我、悟り、等々です。
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2017.8.29
公案禅(看話禅)を完成させたのは北宋末から南宋にかけて活躍した禅僧(祖師)である大慧宗杲禅師です。この方は碧厳録を著した圓悟克勤禅師の弟子です。
大慧宗杲禅師が看話禅の修行方法を確立したことによって、志と忍耐力があれば誰でも必然的に大悟に至ることができるようになったのです。それまでの大悟は偶然の産物でしかなかったのです。大悟に至る修行方法が確立されておらず手探り的に修行をしていたからです。大慧宗杲禅師によって偶然的な大悟ではなく必然的な大悟となった意味は大きいのです。
ー大慧書ー
『期待(予期、待ち構えて)して大悟を待ってはいけない。大悟のところに意識を置いていると永遠に大悟の時はないのです。とにもかくにも妄想転倒の心や思慮分別の心や、生を好しとし死を悪とする心や、物事を認識、理解、解釈する心や、静寂を欣び喧騒を厭う心などを、一気に抑えつけなさい。その抑えつけた状態で「僧、趙州ニ問フ 狗子ニ佛性有リヤ 州云ク 無!」と。看なさい、この一字子「無」は様々な多くの知識、分別心を打ち砕く武器なのです。
禅の修行に於いて一気に抑え込んだだけでは、その状態の維持と継続はできるものではないのです。抑え込んでいても何かの縁で抑え込む心の力が緩んだり、その気力が飛んでしまうことがあるのです。
生活に於ける諸の縁は、生きている限り途切れることなく次から次へと生じるのです。それらの縁に引っ張られて抑え込む意志の力がフッと抜けてしまい縁に流されてしまうのです。これはどなたでもそうです。例外はありません。縁はそれが好ましいものでも嫌悪すべきものでも人は執着してしまうものなのです。そこで人の性を超えて諸縁を一気に抑え込んだ状態を維持する為の工夫が禅の修行に於いて必要となるのです。
それが看話禅の「無」なのです。一気の抑えが外れないように緊張感が緩まないように「無!」を用いるのです。一気に抑え込んだ緊張感を保ったままの状態で「無!」と念じ続けるのです。
ここで「無!」と念じている時に物事の有無の分別をしてはいけない。道理にかなうか、かなわないかの分別をしてはいけない。意識のもとで思量し推測してもいけない。日常的な行住坐臥すべての営みを是認してもいけない。文章、語彙の意味を考えてもいけない。ありのままの無事の状態に入り込んでしまってもいけない。現状のそのままを肯定してもいけない。祖録の中に論拠を求めてもいけないのです。ただ十二時中、行住坐臥すべての行いのなかで時々にこの公案を取り上げ念頭に置いて、常に心を覚醒(緊張した状態のこと)させなくてはならないのです。
「狗子ニ佛性 マタ有リヤ 云ク 無!」と。そして日常の生活を離れないように、その中で行うのです。』
この「無」は有る無しの「無」ではなく、文面の中で全て意味のない言葉として用いているのです。公案というのは一則の意味を解釈し理解するものではないのです。どのように解釈し、どのように理解するかという問題ではないのです。公案は道理から矛盾した問なのです。正解などというものは最初から出ないものなのです。
祖師方が公案を出した目的は、修行者に、出すことの出来ない正答を出すことを求めているのではなく、非思量の様子を体得してもらうが為なのです。
公案は一見、深い意味があるかのように装っているが、その実は無意味であり、道理とは無縁であり、矛盾に満ちており、それまでの常識や学問や経験が全く通用しないのです。この故に経験則として非思量の状態に至ることができるという効用があるのです。公案は思慮分別を抑え込み非思量を体得する為の道具として用いることを大慧宗杲禅師は説示しているのです。
曹洞禅に於いて、普勧坐禅儀(道元禅師著)の中では、非思量を体得し、その状態を相続する為の工夫や道具は、何一つ説かれていないのです。
それが大慧宗杲禅師の書翰集の中の公案工夫の具体的な手引書とも言うべき一文と違うところです。曹洞宗の坐禅の要術である「非思量」と本質的に違いはないのです。
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2017.9.1
禅の修行に於いて、様々な欲の内、最も妨げとなるのは名聞利養です。この欲は自己が確立すると、一時も離れることなく、また欲することに際限がないのです。
名聞利養の欲は意識そのものなのです。これは経験則です。
名聞利養という欲、つまり名聞利養という意識をもったまま身心は脱落しないのです。
身心のことを道元禅師は自己とも言っています。身も意識、心も意識、自己も意識なのです。他己も意識なのです。
もし、或る師家が言う通りに、意識をもって意識をすりつぶせるなら別ですが、それは無理というものです。やってみれば分かることです。
人の欲は様々にありますが、大きく分けると食欲、性欲、睡欲、名誉欲、財欲(金銭欲)、知欲(知識欲、探求心)と六つのあります。
食欲と性欲と睡欲と知欲というのは生存の為に必要な根源的な、常に一過性の欲です。満たされれば、それで一過性的に離れることが可能なのです。そして年齢が高くなり体力の衰えに応じて、それらの欲も減少してくるのです。
しかし、名誉欲と財欲は生存の為には必ずしも必要不可欠のものではないのです。そしてそれらは一過性のものではなく、また際限がなく、年齢が高くなり体力が衰えてきても減少することがないという特質を持っているのです。それは生存に必要でない証拠でもあります。
食欲も性欲も睡欲も知欲も本能的、生体的なもので意識(自己)に関係なく生滅する性質を持っています。
しかし、名誉欲と財欲は本能的なものでも生体的なものでもなく、意識によって生滅する欲なのです。意識によってある欲ですから、自己の忘却によって名誉欲も財欲も消滅するのです。
自己を忘却すること、つまり身心脱落によって、それを生み出す意識は消滅するのです。意識が消滅すると、意識によって生み出される名誉欲も財欲も消滅するのです。身心脱落(大悟)した禅僧が名聞利養から離れて生きるというのは自然なことなのです。御本人に名聞利養という人生の価値観が消滅してしまっているからです。
名聞利養以外の食欲、性欲、睡欲、知欲は意識が生み出しているわけではないので、身心脱落して自己(意識)が消滅しても、変わることはないはずです。ただ禅定力による抑制はそれほど難しいことではなく可能となりますが、抑制するかしないかは、その禅僧の人生観によるのです。その禅僧がどのように生きていきたいかによるのです。何れにしましても悟った禅僧には名聞利養の発言や行動がないのが普通です。社会的な地位や名声や資格を望み求める言動があっては、身心脱落の正師とは認められないのです。正師かどうかの見極めはここでするのが一番間違いはないと思います。
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2017.9.3
仏道の修行を始める動機は純粋に四苦・八苦の苦悩から解放されたいということが多いのです。彼らは禅のことなど全く知らないで禅寺の門を叩くのです。この四苦八苦からの解放の願望は坐禅を続けて数年を経ると自然に解決してしまうか、苦悩が軽くなってくることが多いのです。坐禅を勤める功徳によるものと思います。しかし、問題はこれからなのです。
多くの修行者や参禅者は師家の説く「悟る」とか「見性する」ということに魅力を感ずるようになるのです。自らの心の問題である四苦八苦からの完全な解放を離れて、悟りたいとか見性したいと願うようになってくるのです。
この悟りたいとか見性したいというのは苦悩の徹底的な完全な解決を求めてのことなら良いのですが、そうではないのです。
彼らが悟りとか見性を求める動機は名聞利養なのです。
名聞利養は禅の修行に限らず、一般社会でも苦しいことに忍耐し努力し、遠い先の栄光の夢を見、大志を抱く大いなる動機になるのです。
禅の修行に於いても忍耐し努力する理由は、突き詰めていくと名聞利養のことが多いのです。
名聞利養が目的なのは現代の社会全体がそうなのですから、そこにどっぷりと漬かって育った我々は、そのことに気付くことは難しいのです。名聞利養は禅の修行に於いては動機付けや励みになるという一利はありますが、修行そのものには害ばかりであって効用はないのです。
そこで、曹洞禅はこの名聞利養が根底にあっての「悟りたい」「見性したい」という修行への情熱や動機を否定をするのです。
開祖道元禅師は「無所得 無所悟」という言葉を前面に出して、名聞利養に基づく修行の動機を改めさせるのです。
そして、修行に於いては非思量をもって只管に打坐しなさいと説くのです。
名聞利養に基づく禅修行の動機付けや励みが、なぜ一利しかなく害ばかりなのかといいますと、名聞利養そのものが意識(自己)であり、意識(自己)の働きだからなのです。
意識(自己)を忘却(滅却)させるのが禅の修行ですから、意識の塊である名聞利養に執着し、用いていては意識(自己)を忘却(滅却)することが難しくなるのです。
意識(自己)を忘却するには非思量をもってするしかないのです。公案禅(看話禅)を確立した大慧宗杲ですら、公案を用いて非思量を実践する方法を説いたのです。
意識をもって意識を脱落(忘却)することはできないのが祖師方の経験則なのです。
「自己をもって自己をすりつぶすようにして、自己を忘却する」とは開祖道元禅師も瑩山禅師も説いていないのです。
自己を忘却する為に非思量をひたすら相続しなさいと説いているのです。
「自己をもって自己をすりつぶす」「意識をもって意識をすりつぶす」というのは「血をもって血を洗う」ようなものです。永遠に意識(自己)が残ってしまって、意識(自己)を脱落することはできないのです。
非思量をひたすら相続している時、自己の存在は分かっているが、それは無視して(放っておいて)非思量の状態を維持するのが曹洞禅の只管打坐なのです。
非思量に代わる便宜的方法は現在のところ開発されてもいないし、発見されてもいないのです。
戦後、非思量と異なる曹洞禅を提唱し、見性を求める師家方がおられますが、道元禅師が開祖の日本曹洞禅は、その当時から現在まで非思量であり、只管打坐なのです。
非思量の修行生活をしていると自然と身心は脱落するのですから、身心脱落する前の体験として見性などは求めていないのです。
曹洞禅を修行している方々は、ここのところを正しく理解して参禅していただきたいと思います。決して見性体験を求めて、非思量をもっての只管打坐をしてはならないのです。
無所得無所悟の心で非思量を何年にもわたって只管に打坐するのが、正しい曹洞禅なのです。見性を求める気持ちは名誉欲(名声欲、名聞)であることに気付いて、正しく非思量をもっての只管打坐を実践して下さい。
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2017.9.3
実際は見えるはずのない自分の姿・態度・姿勢・顔・顔の表情・目・耳・唇等々を、心で観ること、或いは心の眼でみることを「観」といいます。
心の眼というのは意識のことです。
実際に見るというのは肉眼で(眼球で)見ることを指しますが、我々人間は実際の肉眼だけではなく、心で観るということも行っているのです。我々は自分の顔や自分の姿などを実際には見ることはできないのですが、心の眼では見ることができるのです。
この心の眼で見ること(見えていること)を「観」というのです。
この心の眼で見ること(見えていること)「観」は、肉眼で物事を見るのとは違って、はっきりとは見えないのです。半透明な影のように見えるのです。実際に見ている事物に薄く重なって見えるのです。なんとなく見えるのです。なんとなく見えているのですが、確かに観えているのです。確かに存在があって観えているのですが、肉眼で見たり、想像するようには、はっきりとは見えないのです。
この心の眼で自分を観たり、自分を観察したりすることを意図的に行っていると癖となって抜けられなくなります。これは行ってはいけないことなのです。意識をもって意識を観察していることになりますから、意識から離れられなくなってしまいます。このようなことをしても心に害はありますが益はないのです。
心を安らかにする禅の修行、心を自由にする禅の修行とは逆行するのです。
非思量をもって只管打坐する曹洞禅の修行は、自己、つまり意識を完全に脱落(忘却、消滅、滅却)せしむるのが目的ですから、まるで正反対のことを行っていることになるのです。心に良いはずはありません。
この「観」は、意識が自己(意識)を観るのであって「念想観」の「想」とは異なるのです。
「念想観」の「想」は物事を意志をもって想像すること、思い起こすことを言います。ある程度、はきっり見えるのです。意識が自己を観察したりしている「観」とは違っていることは、お分かりのことと思います。
「念想観」の「観(自己の心で自己を観ている時)」は、想像の場合と違って、自分の意志の有る無しにかかわらず、自然に常に連続してずーっと存在が観えているのです。
想像する場合は意志が必要なのです。そして、その意志がなくなると想像していた事物は消滅してしまうのです。ただ、その事物があまりに衝撃的だったり刺激的だったりすると、人はそれに執着するので意志に関係なく何度でも繰り返して、その場面を見続けることはあります。それでも、ある事実を思い起こす「想像」と、自分で自分を観る「観」とは異なっていて、それを混同することはないはずです。
また、「想像」の特徴として、眼前の実際の事物をしっかりと確かに肉眼で見ていると”想像する”ことはできないということがあります。
一方、「観」の自己をもって自己を観る場合は、眼前の事物を肉眼でしっかりと確かに見ていても、自分や自己の顔や目や唇等は半透明な薄い影となって、実際の事物に重なって観えて存在しているのです。
心の中に自分を観るのは、かって鏡で何度も見た自分を思い出したり、想像したりしていると考える人も多いでしょう。
しかし、この時に自分の意志をもって、かって鏡で何千回何万回と見た自分を思い出したり、想像したりしている自覚はないはずです。知らぬ間にそうなっているのです。これは思い出したり、想像したりしているのとは明らかに異なっているのです。自らの心の中を注意深く観察して、鏡で見た自己を思い出したり、想像したりしているのとは異なっていることを自覚しなければなりません。そうしなければ、禅の修行として念、想、観の測量を停めることができないのです。
禅の修行に於いては心の中の自分をもって、自分を観たり観察してはいけないのです。これは自己(つまり意識)をもって自己(つまり意識)を眺め観察しているからです。これでは未来永劫、自己を忘却することはできないのです。禅の修行に於いては「念想」は当然のことで、「観」の測量も停めるのです。
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2017.9.19
-普勧坐禅儀抜粋- 解釈
直饒、会に誇り、 たとえ自らが解脱を会得したと誇り、
悟豊かにして、 悟りが充分だと信じ、
瞥地の智通を獲、 ちらりと智恵の神通力を獲得し、
道を得、 仏道を会得したと信じ、
心を明らめて、 本来の心を明らかにした(分かった)と信じ、
衝天の志気を拳し、 天を衝くほどの修行の志の気勢を挙げ、
入頭の辺量に逍遙すと雖ども、 悟りの入口の頭の周辺を気ままに歩くようになったと信じたとしても、
幾んど出身の活路を虧闕す。 彼の修行者は、ほぼ解脱した自由無碍(礙)の活動の道が欠けているのです(虧も闕も意味は”欠ける”です)。
この抜粋の文言は、道元禅師が、看話禅の修行に於ける見性(見牛)、或いは、それに類似した神秘体験、宗教体験、意識の変容状態体験を、身心脱落(悟り)ではないと否定している文言です。
※「意識の変容」とは :知覚の歪み。周囲の見え方や現実の認識の仕方が変化すること。例えば、普段よりはっきり物が見える(鮮明な視覚)。普段よりはっきり音が聞こえる(鮮明な聴覚)。何があったか思い出せない(記憶喪失)。何をしたか思い出せない(記憶の欠落)。物事が起きても無関心に眺めているだけで、何もしないし何もしようと思わない。時間の動きがゆっくり進む。一時的に身体の麻痺が生じる(動かない、動けない)。解離現象(解離感)が生じる。夢を見ているような感覚になったり、自分自身を外側から眺めているような感覚になったりする。後でハッとわれに返って夢うつつの出来事のように感じる等々の現象。
これらは戦後から近年にかけて、アメリカの兵士と警察官の現場にての経験の心理調査によるものです。一般的に現場で誰でもが体験しうる意識の変容です。
しかし、師家(臨済宗で修行し見性を認められた経験のある師家や、その系列の師家)によっては、この文言を真逆に解釈して、道元禅師は見性体験を認めているとするのです。
この文言では、これらの見性体験では、まだ不充分ですよと忠告していると受け取っているのです。
これらの文言は、道元禅師に仏法の問答をいどんだ修行者のものです。彼らの文言を取り上げて、「そのように訴えてきても、それらは身心脱落(大悟徹底・悟り・解脱)ではない」と断言しているのです。それが「幾んど出身の活路を虧闕す」という文言なのです。
この文言以降、このようなことに一切触れていないということは、道元禅師の見解として、それらは身心脱落でもなく、本性(本来の自己)をちらりと見たということでもなく、修行に於いては何の意味もなさないことなので、捨てておいた方が良いと言っているのです。
これらの文言は見性体験というのでしょうか、修行者本人の自己申告の体験の特徴を述べたものなのですが、どれをとってもとるべきものはないと述べているのです。
現代に於いて、いわゆる看話禅の見性に憧れ希求して坐禅をしている人は多いのですが、曹洞宗開祖 道元禅師は見性体験を一切是認していないのです。
曹洞宗の禅修行は見性に導くようなことは一切なく、よって見性体験をするようなことはないのです。
もし見性体験を重んじて、見性体験の有無を問うような指導をする師家が曹洞宗の中におられるとすれば、それは曹洞禅の非思量を正しく、しっかりと認識していないことからくるものと思います。
正伝の曹洞禅の修行を望むのでしたら、道元禅師の著された普勧坐禅儀か瑩山禅師の著された坐禅用心記という坐禅の手引き書を何度も読み返して頂きたいと思います。
そこに出てくる最も重要なことは「非思量」と「只管打坐」です。このことに気づけば正しい洞門の修行が行えると思います。
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2017.9.25
現代の曹洞宗の師家方の修行の問題点を取り上げてみます。
曹洞宗の師家方は、無所得無所悟の心で只管に坐禅され、とても良いと思います。
しかし、残念なことに、坐禅の要術である非思量の相続が抜け落ちているのです。
曹洞宗の師家であるならば、開祖 道元禅師が「坐禅の要術は非思量である」と説いている以上、非思量を坐禅のどこかで最も大切な方法として取り入れなければならないはずです。非思量の入らない坐禅ではそれこそ「仏作って魂入れず」ということになってしまうのです。つまり、「坐禅を修行して非思量入れず」ということになっているのが実状と思います。
洞門の師家方に言わせると、坐禅中に出てきた考えは脳の分泌物みたいなもので自然に出てくるものだから、取り合わずに放っておけばよい、その放っておくことが非思量だと主張しているようです。
本当にそうでしょうか?
日本人の共有する言葉の持つもともとの意味からは、かなり乖離しているように思います。
何を根拠にこのように解釈できるのか、そして自信を持って、このような解釈を受け入れているのかが私には分かりません。
或いは、非思量は「調身」とか「調息」とか「只」とか「無所得無所悟」の中に一体となっており、私達修行者が気づいていないだけで、自然に行っていることだと主張している方もおられるようです。
調身を正しく行えば、それが非思量の様子であり、調息を正しく行えば、それが非思量であると説くのです。
このような主張も何を根拠にしているかが私には理解できません。
非思量は普勧坐禅儀の「調心」を説いているところで出てくるのです。そこには調心が、調身や調息と密接に関連しているなどという記述は全く出てきません。やってみれば分かることですが、非思量は心の中のことです。調身と調息は生身の肉体のことについての注意なのです。これらは別々のことなのです。調身調息がしっかりとできたところで修行したことにはならないのです。これらをいくら修行したところで脱落身心が現れることはないのです。脱落身心を証することもないのです。
ここで一般の師家方が誤解しているのではないかと思い少し注意をしておきます。
禅の言葉に「身心一如」とか、「身心脱落」という言葉があります。これを根拠に身と心は一体であるから、身を修すれば心も修することとなり、一体であるから、身を正身端坐に相続すれば心は正修行となる、非思量となると理解していることもあり得ます。
これは修行未熟ゆえの解釈です。非思量をしっかりと推し進めていきますと、「身心一如」の意味が分かってまいります。
この身心一如の「身」は生身の実体のある物理的存在の身ではないのです。意識が作り出した精神上の身で実体はないのです。心は自己(自我、我、意識)のことです。
この身も心も、その実体は意識です。自己、つまり意識が脱落すれば意識の作り出したものは、すべて脱落、つまり消滅するのです。「身心一如」の証拠です。実際に脱落するまでやってみて下さい。身心一如を自ら証明することができます。
曹洞宗の若きお師家さん方には、非思量を只管打坐の中に整合性のある道理で、合理的に組み入れて下さることを同宗の田舎の小寺の住職としてお願い申し上げます。
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2017.9.28
-普勧坐禅儀(道元禅師著)抜粋 「非思量」-
「兀兀と坐定して(岩山のように堂々と安定した坐りをなし)、箇の不思量底を思量せよ。
不思量底如何が思量せん。非思量。
これ乃ち坐禅の要術なり(坐禅の要めの術なのです)。」
この一文は普勧坐禅儀という普く勧める坐禅の指南書(指導書)の一部抜粋です。普勧坐禅儀の中で最も重要な部分です。
この部分について明治以降現代まで、どの師家も実際に即して、明瞭に分かり易く説明していないようなのです。私の知る限りでは、どの師家方の説明も分かりにくく難解か、ここはあっさりと流すか、或いは触れずに次に飛んでしまうか、或いは自分の坐禅への信念や工夫の仕方を説明するかの、いずれかなのです。これでは道元禅師の説かれた純粋な曹洞禅の坐禅の仕方が伝わらないのです。
ここの「非思量」は、只管打坐をしっかりと推し進めて修行している修行者が理解できるように真正面から解説すべきだと思います。
また、多くの曹洞宗の師家方が只管打坐、只管打坐とよく言いますが、只管打坐だけでは宗祖道元禅師の説かれた坐禅にはなっていないのです。非思量に於ける只管打坐なのですから、非思量について丁寧に説いていくべきものと思います。
私は子供の頃より、頭の中に何も念想(思量)のない状態(時間的には短い数秒ですが)が日常的にありました。ただ、それを意図的にある程度の時間(10秒とか20秒とか)できたわけではありませんが、非思量の状態は知っておりました。
私が私なりに非思量を実践してきた経験から、この文について説明をしていきたいと思います。
まず、非思量と不思量の様子を知るには、自らの意志で非思量の状態を維持(相続)できなければなりません。日常の心の状態が思量する習慣の人は、そのままでは非思量の状態を作り出すことはできません。非思量の状態を作り出し、その状態を維持するには、手始めに相当の工夫とかなりの忍耐が必要となります。しかし、不可能なことではありません。きちっとした指導者がいれば出来ることですから安心して下さい。
道元禅師は「兀兀と坐定して箇の不思量底を思量せよ」と最初に述べております。これを理解するのは禅修行の初心者には無理な注文です。頭の中は四六時中、思量に思量を重ね、一時も思量のない時がないのですから・・・。
「この不思量底を思量せよ」と言われても不思量の時など、ほとんど無いのが一般の人の脳なのです。これは不思量の状態を自分でコントロールして作り出せる曹洞禅に熟達した修行僧に対しての説示なのです。
この一文は普勧坐禅儀という書の抜粋ですので、初心者、熟練者を問わずとお思いになるかもしれませんがそれは誤りです。禅修行の初心者には無理な要求なのです。不思量を思量するにも不思量という状態になることができませんし経験もありませんので、不思量について思量することは不可能です。
初心者の修行としては、まず、不思量を体験することから始めなければなりません。
まず不思量の状態を体験し、それを維持することができるようにしてみて下さい。不思量を体験しコントロールできるようになったら、初めて不思量を思量してみることができるのです。そこまでできるようになったら、次に、自らの不思量の状態を、自らの不思量の状態で、思量することができるかやってみて下さい。そうすれば、その可否は自ずから分かります。
やってみて分かったと思いますが、自らの不思量の状態を自らの不思量の状態で思量することはできないのです。
次に、道元禅師は「不思量底如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。」と述べているのです。
これは「自らの不思量の状態を自らの不思量の状態でどうして思量できようか! できない! この状態を”非思量”というのだ」と示しているのです。
つまり、自らの思量の機能が一つも働かない状態を「非思量」と言います。それが坐禅の要めとなる状態であり、それを維持(相続)することが修行であると説いているのです。
以上が私の非思量の経験からの説明です。非思量になる為の工夫の仕方は既に別稿にて詳しく書いてありますので、その稿を見て下さるようにお願い申し上げます。
次に戦前戦後の曹洞宗で活躍された高名な6名の師家方の非思量についての説明を紹介致します。現存の方は1名のみで他の5名の方々は既に他界されています。
これらの説明で坐禅の要術としての非思量が理解できるか、そして、それを修行の実際で実践できるか、或いはその工夫が分かるか、自らの目で確かめて下さい。
或る師家老師(曹洞宗 他界)(1)
「坐禅の仕方」の小冊子の中、調心の説明で「非思量」についての記述は一切ありません。
小冊子の中で、「煩悩は追うな払うな引かれるな!」として、その解説に「坐禅は只坐るもの」とあり、煩悩を追ったり払ったり引かれたりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとひ八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念起るを嫌わず、また念を愛して相続せず、只起るに任せ、滅するに任せておく。」とあるのみです。
明治、大正期の眼蔵家老師の研究のもと、研究理論を疑うことなく信奉し修行された方だからでしょうか?
曹洞禅の理論の面は眼蔵老師方に任せて、実践に徹した現場の師家老師だからでしょうか?
或る師家老師(他界)(2)
普勧坐禅儀の提唱より、「不思量底とは自己なきことです。我が正伝の禅は思うにあらず。思わざるにあらず。思う時は思うばかりにして思いながらの脱落です。思わぬ時は思わぬばかりにして思わぬながらの脱落です。思量すとは自己なきままに活動することです。非は除不の非にはあらず。非は脱落なのです。事実上無念無心(無想のことか?)になれるものではない。」とあります。
説明の飛躍の多いことに戸惑います。
臨済宗の公案で見性されてから曹洞宗に籍を移され、曹洞宗の師家となられた為に説明の展開が公案的なのでしょうか? 非思量の修行に馴染みがないので無理もありませんが・・・。
或る師家老師 (3)
普勧坐禅儀の提唱より、「不思量底というのは本当に自分のなくなった様子、純一にして雑物の混じらない状態をいいます。
思量というと何かを考えなければならないと思いがちですが、そうではなく自分のないままの働きを思量といっています。
思量のままの様子を不思量。思いのままの状態を不思量といっています。要するに自分の入る余地のない様子をいっています。非とか不とかいうことは脱落の代名詞だと心得ておいていただければ結構です。」とあります。
これで坐禅の要術になるのか疑問です。
言葉の解釈が飛躍しております。(2)の師家老師とよく似ております。(2)の老師を信奉されているのでしょうか?
或る師家老師(他界)(4)
坐禅の手引きより、「「只」が禅門の坐禅の要訣なりと知るがよい。只も忘れたタダである。要するに自然は自然に任せて只数えよ、只坐れよということである。
わかる範囲で正直にいうと地球を坐蒲団にして宇宙を腹におさめたような大きなドッシリとした、そしてその中にリーンとした気分、簡単にいえば天地一杯になった様な気持ちになって只、リーンである。坐禅儀にはこれを「非思量」とある。詳しく言えば「不思量底を思量せよ」とある。これが坐禅の要訣であり急処である。」とあります。
リーンと非思量の関係がまるで理解できません。この「リーン」というのは神秘的な感覚なのでしょうか?最近はやりのスピリチュアルなのでしょうか?
或る師家老師(他界)(5)
「只「カチン」といっただけで、それも何処から出てきて何処へ行ったのか自分でも解らんのです。いいですか往来はないのです。行き来はないのです。その行き来も、往来もないことを立派な言葉で表しますというと「非思量」とか「不思量」とか、人の見解ではない本質的な大きな動き方なんだよということがあるのです。」とあります。
この説明では非思量が坐禅の要術であることがまるで分からないのです。このような説明の仕方は、悟った師家だからなのでしょうか?それとも生悟りなのだからなのでしょうか?
或る師家老師(他界)(6)
「息を吸ったり、吐いたりを心が放心しないよう、また雑念に捉われないよう、息の出入りに伴って心は息から絶対に離れないようにするを致心と申します。(これは随息観という坐禅の方法の一つで、息の出入を心で注意深く見守って集中する方法です。数息観の数字を数えることに集中する代わりに、自分の息の出入に集中するという坐禅の方法です。)
また、致心は心を息に行届かせて離れないようにすれば思量が純粋に働き、雑念の発生する余地がないから「思量箇不思量底」の坐禅の正念相続が自然にできる。息が整うよう心が看護って居さえすれば、心は必ず調うから、永平広録第5巻の念息の文に無常さとり易く調心得易しと示されております。息に心が離れなければ心に油断がなくなるから無常をさとっている。余念がなくなるから調心ができていく、そうすると坐禅の正身心は調息によるのが最も体現しやすいわけです。」と述べておられます。
非思量について一切説いておらず、致心(随息観)をしっかりと油断なくやっていけば調心乃ち非思量は必然的に自然に出来てしまうと説いています。
致心で息を常に見守るのは自己です。それで自己を離れることができるのでしょうか、多分できないと思います。いずれ随息観が邪魔になりますから、随息観を停めて、それから先はどのように修行していくかについて何も書かれておりません。その先がとても大切なのですが・・・。
「念想観の測量を停める」と普勧坐禅儀に出てきますが、この観は心で数を数えたり息の出入を観ることを指しているのです。
数息観も随息観も意識で観ることですから、これを停めなければ正しい坐禅にはならないのです。「念想観」の「観」です。呼吸の出入を心で観ることです。「心で観る」のは意識で意識を観ることですから、いつまでいっても観る心が常に残ってしまうのです。これでは正しく曹洞宗の坐禅はできないのです。高名なお師家さんなのに誠に残念です。
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2017.9.28
宗門で活躍されている60代後半の或る師家が次のように述べておられます。
「道元禅師は非思量や身心脱落などさまざまな言葉で坐禅の幽邃さを示そうとしています。坐禅は幽邃(言葉や思いではとらえきれないこと)です。」
非思量は文字通りに受け取るべきです。坐禅の仕方ですから。
心の調え方ですから、それ以上のことはないとしなければ普勧坐禅儀にならないのです。ここは素直に愚直に受け取っていくべきです。そして素直に愚直に、まず非思量をやり通してみるべきです。
身心脱落は皮膚脱落と同じことで自己の脱落(消滅)をその通りに表した言葉です。幽邃などを表現したのではなく、実体験をそのまま表現した言葉です。
身心の身を生身の肉体と思うから分からなくなるのです。この場合は念をもって身となすの身ですから生身の肉体ではないことは明らかです。身心の心は自己、つまり自己を忘るるの自己です。自己を忘るるの忘るるは脱落、忘却、消滅と同じことを指しております。
このお師家さんは高学歴の頭脳明晰な方ですから、物事をより深く洞察してしまうのでしょう。私は地方の小寺の住職ですから、深読みは苦手なのです。素直に愚直に非思量による只管打坐を推し進めて良しとしております。
ところで先に「幽邃」という言葉を、このお師家さんは「言葉や思いではとらえきれないこと」と解釈していますが、一般的常識では、奥深くてものしずかなこと(小学館国語辞典より)、景色などが物静かで奥深いこと(広辞苑より)と解釈するのが良いと思います。
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2017.10.2
道元禅師著 「普勧坐禅儀」抜粋
「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。」
これは坐禅を実際に行なうあなたに対しての、道元禅師からの問いなのです。実際に坐禅を行ない、あなたがこの文の人となって理解しないと分からないのです。
道元禅師は、これが乃ち坐禅の要めの術なのだと結論づけているのです。非思量の三文字以外に要めのものはない! ということです。
次に、上記の抜粋文の非思量についての私の説明が理解できないとう方が多いので、非思量についてニつのたとえを使って説明してみました。
これならば、難しい言葉は一つも使っていないので、現代に生きる私達でも理解できると思います。
一つは視覚をたとえとして、もう一つは思量を生み出す脳を、思量の機械にたとえて説明を展開してみました。
『不思量底を 目を閉じている状態(視覚の機能停止状態)で
思量せよ。 物を見なさい。
不思量底 目を閉じている状態(視覚の機能停止状態)で
如何思量せん。 どうして物を見ることができましょうか。
非思量。 見えない(不視覚)。』
『不思量底を 思量の機能を停止している状態で、思量の機能を停止している状態を
思量せよ。 思量してみなさい。
不思量底 思量の機能の停止している状態で
如何思量せん。 どうして思量することができましょうか。
非思量。 できない、それを非思量という。』
不思量はいってみれば、脳という思量の機械の停止した状態です。思量の機能の停止している時、脳という思量の機械は思量することはできないのです(箇の不思量底を思量せよ)。
脳という思量の機械が停止していて起動していないのに、どうして思量することができましょうか(不思量底如何が思量せん)。
この機械は思量の機能を発揮することができないのです。
この状態を非作動(不起動)といいます(非思量)。
以上です。これでどなたにでも理解して頂けるものと思います。
私は戦後の現代教育を受けて育ち、大学を卒業してから出家した者です。
禅の世界は特別として、いつまでも鎌倉時代から江戸末期までの禅理の展開手法でいいはずがありません。現代の人に説明するには現代の論理展開をもって、私 禅坊主としても説明すべきものと考えます。なぜなら、私は戦後の教育を受けて育ち、現代に生きている人間だからです。
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2017.10.4
曹洞禅の非思量と、無念無想は同じか、異なるのか?
非思量と無念無想は異なるのです。このことを理解している師家は、私の知っている限りでは一人もおりません。
非思量と無念無想はどこがどのように異なっているかと申しますと、非思量は念と想と観の測量を停止することです。それに対して無念無想は念と想のみの停止状態であって観(意識の働き)が抜けているのです。
身心脱落は念想の脱落を求めているわけではなく、観、つまり心で見ている自己(これを現代では一般的に意識といっています)を脱落することを求めているのです。
身心(自己=意識)は非思量の状態を相続すれば自然に脱落して、念想の働きはそのまま脳の機能として残るのです。「念想」は「自己つまり意識」とは全く別の機能だからです。このことは悟らずとも非思量の状態になった時に心の中をさぐってみれば誰れにでも分かることです。非思量の状態に至らない人にとっては、意識も念想も一体のものに見えると思います。
非思量というのは禅修行の経験則なのです。祖師方は皆、非思量の相続によって自然に必然的に身心脱落をしたのです。ここには人の意が介在することはできないのです。私達修行者ができることは非思量を相続することだけです。
非思量は極めて人為的な作業(工夫)なのです。かなりの意志とかなりの持続的な忍耐を必要とするのです。誰れにでも出来ることではありません。
禅修行にはそれなりの覚悟が必要です。
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2017.10.6
人は歩く時や呼吸の出入りに合わせてリズムをとったり数を数えたりする癖を持つ傾向があります。この時に人は足の一歩一歩や呼吸の出入りを心の眼で観ているのです。この習慣は意識をもって意識を観ることとなって、自己を忘じる禅修行に於いて妨げとなるのです。
数息観や随息観は、坐禅の初心者から中級者に対して勧めることが多いのですが、これは心で数を数えることに専念させたり、心の眼で息の出入りを見詰めさせたりして、思量の動くことを抑制し押さえることが目的なのです。
思量の動きをある程度、抑制できるようになってくると、数息観や随息観が邪魔になってくるものです。そうしたら、それらの観法を止めて純粋に非思量における只管打坐を推し進めていくのです。
経行に於いて、歩く時や呼吸する時の一定のリズム(調子)をとる習慣も、いってみれば随息観のように心で観て調子をとっているのですから、一つの観法でもあります。
これは調子がよいもので安定を生むものですから、習性となって自然に気づかずにやってしまうのです。
この習慣は意識によって安定をはかり意識よって一定のリズムをとっているので、数息観や随息観のように曹洞禅の修行に於いては、いずれ妨げとなるものなのです。
この、人が動作をする時の調子をとる習慣を止めないと、生活全般を非思量の生活とすることは難しいのです。
この習慣は歩く時や息の出入りの時に限らず、人の動作の中で日常的に数多く見られることです。
禅の修行をする者は日常の起居動作すべてを修行とする必要があります。そこで修行者は上記にあげた習慣を止める工夫をしなければなりませんが、その工夫には経行がとても有効なのです。
以上をふまえて経行について詳しく説明していこうと思います。
経行の基本的仕方は、実際に何度か参禅会の師家の指導に従って習い覚えて下さい。
それが充分体験できてから、私の経行の注意をよく理解して実践して下さい。
私の経行は初心者には難しいですから、初心者は曹洞禅の坐禅に熟練してから始めて下さい。それまでは従来の一般的な作法で経行を行い、数息観、随息観、非思量を推し進めていって下さい。
私の経行を始める坐禅の熟練の度合は、非思量がある程度できるようになった時からです。或いは数息観や随息観が邪魔となって、それをやめてしまって非思量に於ける只管打坐のみをするようになった時点です。
経行というのは歩く坐禅とも言われますが、その時の心はどうあるべきかについての説明や、只管打坐の経行への応用の仕方、経行中の非思量の状態を維持する工夫の仕方等々が詳しく説明されることはないまま、脚の痛みをとる為ぐらいに思って、なんとなく経行しているのが実状です。
私もこれまで一度も経行の指導を受けたことはないのです。
基本的に今日の師家方は経行の重要性が分かっていないのです。経行は坐禅で痛くなった脚休めか眠くなった時の眠気ざまし程度にしか考えていないのです。
実際に坐禅の指導書の中の経行の仕方についての項を見てみると、坐禅を長くして脚が痛くなったり眠くなったりして堪えられなくなった時などに、脚の痛みをとる為、或いは眠気をとる為に行うものとしております。経行には以上のような効用もあるのでしょうが、もともとは禅の修行の動中の工夫を身に着けさせる為のものです。経行によって動中の工夫を練るのです。
経行というのは静の坐禅に対するもので動の坐禅ともいうべきものです。静の坐禅で練った、或いは培った非思量に於ける只管打坐の工夫を、動きながら動の坐禅へ応用していくのです。難易度は静の坐禅の五倍も十倍もあると思います。五倍も十倍も静の坐禅より難しいということは、静の坐禅よりも五倍も十倍も只管打坐の心境が深まることを意味しているのです。それだけ禅定力※がつくということです。経行がしっかりとできるようになると、それは単なる日常生活すべてが修行になるということを意味しているのです。
このことを理解したら、次に経行の精神面の調心について話していきたいと思います。
経行の注意点は、坐禅中の非思量をそのまま経行にも同様に行い、維持することです。これは絶対に外してはいけません。禅の修行のベースなのです。これができましたら、次に行うべきことは複数人で経行を行う場合と個人で行う場合は異なります。
複数人で行う場合は、その会場(道場)のいつも通りのやり方に従って行って下さい。
一人で行う場合は、すべて自己流でも構わないのです。禅修行の道理がかなっていればよいのです。
一人で経行を行う場合は、経行の歩く速さは普段歩く時よりもゆっくり目です。歩幅は不安定にならない程度の小幅です。足を踏み出す時は一歩一歩しっかりと踏みしめるように歩く必要はありません。普段通りの歩き方で結構です。手の組み方は伝統的に叉手です。目は前方少し下に視線を落とすのです。姿勢は普段通りで宜しいです。
以上の要領で経行を行うのですが、常に心の中は非思量の状態を維持しながら、次に行うことが更に大切なのです。
その大切なことは、道を歩く時に誰でもが自然にやってしまっている癖を止める(取る)ことです。
人が歩く時に自然にやってしまっている癖というのは意識(自己)が作り出したものです。意識が作り出した心の様子を意識が観ているという構図になるからなのです。これは「念想観の測量」の観なのです。停めなければならないことなのです。
この癖というのは人が歩く時にとる一定の調子(リズム)のことです。
人は歩く時に必ず一定の調子を規則的にとる癖があるのです。この癖が問題なのです。足の踏み込みと身体の動きと呼吸の三つの調和をとるために調子をとるのです。リズム的な規則的な調子をとって、それに合わせて動きの拍子をとっていくと、音頭をとっているようで楽に動いていけるのです。
その習癖は自己が習い性としてやっているものですから、経行でこの癖を壊す必要があります。動く時の自己の干与を薄め、減らしていくのです。
経行の最中の非思量に於いて、足を一歩踏み出し踏みしめる感覚と、それに伴って身体の移動の感覚と、息を吐き吸う呼吸の感覚の三つのリズム的調和を断ち切ってしまうのです。
足の動きは足の動き、身体の動きは身体の動き、呼吸の動きは呼吸の動き、というようにすべて連携せずに、調和も保たずに、リズムもとらずに、それぞれに任せるのです。リズム的調子を一切止めてしまうのです。
歩く時、足でリズムをとらぬこと。身体でリズムをとらぬこと。呼吸の時、呼吸で規則的に自然にリズムをとらぬことが大切なのです。また、それらを意識せずに自然にやらせるのです。
但し、人によっては足と身体と呼吸の三つの調和でリズムをとらずに、足の動きだけでリズムをとる人、或いは身体の動きだけでリズムをとる人、或いは呼吸だけでリズムをとる人もありますが、そのような人もそのリズム感覚を止めることは同様です。
以上のことは文章にしてみると簡単なことのように思えますが、実際にやってみると要領をつかむまで、とても難しいことなのです。難しいとは言っても既にやっている人がいるのですから、できないことはないと思います。必ずできますから自分で苦労して工夫に工夫を重ねてみて下さい。
それぞれでリズム(拍子)をとらない為、バラバラの動きの感覚になりますが、そのままで問題はありませんので、非思量でもって経行をして下さい。この状態で大切なことは常に非思量を維持しているということです。
以上のことがある程度、しっかりとできるようになるまで苦労と忍耐をして下さい。そして苦労と忍耐の甲斐があって、ある程度経行が正しくできるようになると、経行の一歩一歩がとても大きな意味を持ってくるのです。
経行を行った効果は目に見える形であらわれることはないので期待しないことが大切です。曹洞禅でよく言われる無所得無所悟で経行を行うのです。
歩行禅は一歩、一歩、一歩が大切なのです。百歩、二百歩、三百歩のより大きな歩みが大切なのではないことを自覚して経行の歩を進めて下さい。
動の坐禅は静の坐禅よりもはるかに大きな禅定力を持っています。修行が急に進みます。そのことは信じて行って下さい。
※「禅定力・定力」:坐禅によって心身の深く統一された状態よりもたらされる精神的力のこと。
2017.10.24
経行の歩く速さは、普通の歩く速さよりゆっくりでよいのですが、そのゆっくりさは、不安定にならずに慎重に歩ける程のゆっくりさです。従来の師家による経行指導の動いているかいないかのゆっくりさでなくてよいのです。一歩一歩しっかりと踏みしめる歩き方、速さでなくてよいのです。一息半歩の歩き方の速さですと歩行禅や動く禅よりも立禅の傾向が強くなります。歩行禅の方が修行の効果は大きいと思います。
歩行禅は慣れで歩きがちですが、この慣れは決して修行にはなりませんので要注意です。一歩一歩、慎重に非思量を維持してリズムをとらずに歩くことが大切です。
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2017.10.9
普勧坐禅儀及び坐禅用心記は、曹洞宗の坐禅の手引き書、坐禅の仕方の案内書、坐禅入門の指南書です。
修行者は自ら坐禅儀や用心記の坐禅の手引きに従って実践を工夫し、体験し、修行して、坐禅の要術の実践を通して理解し正しく解釈できるようにならなくてはなりません。
坐禅儀も用心記も身心脱落した修行者を対象にして書かれた坐禅の手引書ではありません。これから禅修行を始め、身心脱落を目指す修行者を対象に書かれたものです。特に坐禅の要術として「非思量」と書かれた言葉は簡潔明瞭で解釈の余地は全くないのです。言葉通り、その通り、日常生活に於ける実体験通りの語を選んだ熟語なのです。
普段、思い、考えが次から次へと出る癖を持った思考過多の人は、日常的に経験がない為に非思量などということはあり得ないし、理解し難いと考えていると思います。
しかし、世間は広いのです。人は多様なものです。
一方に、思考が次から次へと矢継ぎ早に途切れることなく出てくる思考過多の人がいると思えば、他方に、思考が過剰に出てくることがなく途切れ途切れの人もいるのです。
途切れ途切れの人は、非思量を日常的に体験をしているので、坐禅に於ける非思量と同じであると説明し、指摘してあげれば、本人は思い当るので理解は早いのです。このような人は決して稀なのではなく相当程度いるはずです。私の周りにも修行に関係がない人なのですが、そういう方はおります。
しかし、非思量の状態を知っていれば、皆、修行を目指すかといえば、そういうことはないのです。非思量を知っているだけでは何の修行にもならないのです。その状態をある程度の時間、維持することが禅修行とするには必要なのです。
非思量の状態をある程度の時間、自らの意志をもって維持することを実践するのが修行なのです。ここのところは利他的な志と忍耐が必要となります。
普段の生活で思いや考えが次から次へと絶え間なく出てくるような思考過多の現代人は、非思量の状態は未経験ですので、その状態を理解するまで苦労するのです。
そして、非思量の状態が頭で理解できたところで、それを実践するとなると更に苦労するのです。普段、思考過多の癖のついた脳に、それを停止せよといったところで、そんなに簡単に止まるものではありません。脳の思考過多の癖を取る苦労は並大抵ではないと思います。ここからは忍耐力と仏道を成就しなければならないという高い志が必要となるのです。
思考過多の現代人(知識人、高学歴、頭脳労働的仕事に携わる職業人はえてして思考過多の人が多いようです。)には、どちらかというと、何十年と修行の区切りのない非思量に於ける只管打坐を行う曹洞禅よりも、見性や大悟の目標を掲げて、一つ一つの目先に公案という問題を出されて、それを考え抜いて、究極の答えを提示するという臨済禅の方が向いていると思います。
禅修行の方法は、優劣はありませんが、人によっては向き不向きがありますので注意が必要です。
この非思量という言葉は普勧坐禅儀の前文に出てくる
「須らく @言を尋ね語を遂うの解行を休すべし」
「A諸縁を放捨し、万事をを休息し B善悪を思わず、 C是非を管すること莫れ、 D心意識の運転を停め、 E念想観の測量を止めて F作佛を図ること莫れ(A〜Fの説明は第一章・坐禅の仕方の項を見て下さい)」
等々の修行としてやるべきことの一つ一つを集約して、非思量という三文字でくくったのです。
非思量の具体的内容は上記の@〜Fに七つほど挙げてあります。
実際の修行に於いては、修行者の個性によって、それぞれ引っかかるところがありますから、それから修行を始めたら宜しいのです。いっぺんに全部をやることはないのです。十重禁戒を修める場合と同じです。一つづつ自分の一番問題の戒から修めていくのです。
一つが手引書通りにできれば、それが非思量の内容ということです。
非思量という三文字の熟語はあくまでも坐禅の精神面の正しい状態を集約的に表した言葉です。実際にやってみれば分かりますが、極めて実用的なことを言っているのです。
言葉で表すことのできない深淵なことを表しているわけでもなく、諸行無常や諸法無我や縁起の法等の宇宙の真理を表した言葉でもなく、不立文字や父母未生以前や如是等の禅の一大事を表した言葉でもないのです。
坐禅の調心の方法を表した言葉なのです。心の中に思量のない状態を表した言葉で、単純明快に表現したのです。それ以上のことが暗号のように意味深く表され内包されていると洞察するのは考え過ぎです。「非思量」の三語は秘密、秘儀を伝える暗号でもなく、公案でもないのですから考え過ぎずに単純に愚直に受け取ればよいのです。
「須らく 言を尋ね語を遂うの解行を休して」みて下さい。これで非思量を推し進めることができます。
以下に上記の文の簡単な解釈を参考に挙げます。
「須らく :当然のこととして
言を尋ね語を遂う :西洋哲学的思考、概念化を重ねていくこと
解行を休すべし :いろいろな文献や法語や語録をあさり、調べ、分析して自らの仏道への理解の整合性を図ろうとすることを止めるべきです」
非思量は単純すぎるが故に公案を解くよりは、いろいろな面ではるかに取っつきにくく、やりにくく、忍耐と、その強い忍耐を生み出す利他的な志を必要とする修行なのです。
曹洞禅の非思量に於ける修行は、公案のような一つづつの階段を追って区切りをつけて修行していくわけではないのです。身心脱落までは一つも目印となるような停留所や何丁目何番地と地名を表す標識も全くないのです。行けども行けども同じ景色です。ひたすら非思量にて坐り続ける覚悟が必要なのです。地味です。修行に必要なのは忍耐心と利他的志です。名聞利養の心を帯びている修行者には普勧坐禅儀に示された修行は到底無理な修行方法です。
最後に大問題である非思量に関して下記の二つの問を実際の修行によって検討してみて下さい。
(1)「自己をはこびて万法を修証」の自己
「万法すすみて自己を修証」の自己
この二つの自己は同じ自己か 異なる自己か?
同じならどのように同じか 異なるならどのように異なるのか?
(2)「思量底を思量する」思量
「不思量底を思量する」思量
この二つの思量は同じ思量か 異なる思量か?
同じならどのように同じなのか 異なるならどのように異なるのか?
これらの答えは非思量をしっかりと相続していけば、いずれ分かってきます。それまでは考える必要はありません。
曹洞禅の質問は質問であって公案ではないのです。普通に答えて下さればよいのです。
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2017.10.9
-宗教の使命-
四苦八苦※の苦悩から解放され(解脱し)、永遠、不滅の心の安らぎと心の自由を得る為の確かな道(方法)を教え示すことです。
そして、利己的心を利他的心へと人格を向上させていく為の確かな道(方法)を教え示すことです。
尚、これは「宗教の使命」に対する私の定義です。
『宗教というのは、本来、神佛、その他諸々の対象を礼拝して自分が帰依するー。これはもちろん大事なことですけれども礼拝する佛、あるいは神なりの対象を通じて徹底してすべてのものの本質を追求し参究し、極めていくということが、「宗教本来の使命」でなければなりません』
これはある有名な曹洞宗専門僧堂の住職、堂長老師の言葉です。
宗教と科学・学問の使命を混同しているようです。というこは宗教そのものの使命が曖昧であり、科学・学問の使命も理解していないということになります。
宗教はものごとの真偽はさておき、信ずることによって心の安らぎを得る道を教え示すのです。
仏教或いは禅は地球を含めた宇宙の真理を極める道ではないのです。これは科学・学問の分野の使命です。
宗教として真理を極めたところで人の心が安らぎ、自由になるわけでもないのです。そして、それによって人格が利己的心から利他的心に変化、向上していくわけでもないのです。
例えば、宇宙の大きな謎であるダーク・マター(暗黒物質)が発見され、解明されたところで我々の心が安らぎ、自縄自縛の心が解放され自由になるのでしょうか。そんなことはないことは我々凡人であっても、誰でも分かっていることです。宗教と科学・学問の使命の違いは明らかです。
禅宗の師家方はこの宇宙の真理だとか事実とか真実とか物事の本質とかいう言葉を、禅理として事あるごとに用いるのです。その割には、それらについて明らかにする理論は全く展開することはないのです。
真理とか事実とか本質が禅修行によって本当に分かったというのであれば、それを広く説き明かすべきです。その為に言葉があり論文という形式があり、それらの成果を発表する場があるのですから・・・。
曹洞宗立大学の駒沢大学にも、そのような機会と場があります。どなたでも発表できるのです。但し、公に発表したら厳しい質疑応答があります。科学・学問の世界は曖昧さを許してくれません。高名な僧堂長と雖も例外はありませんので要注意です。
※四苦八苦
人生の苦悩の根本原因である生・老・病・死を四苦といい、これに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦を加えて八苦という。
愛別離苦は、愛する者と別れる苦しみ。
怨憎会苦は、この世の中では怨み憎しむ者とも会わなければならない苦しみ。
求不得苦は、欲しても求めても物事を得ることのできない苦しみ。
五陰盛苦は、人間の身心を形成する五つの要素から生ずる苦しみが盛んに起こることをいう。
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2017.10.12
『思い切って@従前の身心A共にほうり出して、B六根を開放して、それにC純粋に任せ切ってゆきさえすれば人の真相がわかるのです』
以上は大悟(悟りを開く)をしたとする師家の講話(提唱)の一部です。
これらの講話を聴いていた禅の修行者や参禅者達は納得したような面持ちで、質問する者は誰一人としておりませんでした。私も当然、質問致しませんでした。
私は当師家の講話会の雰囲気に常に疑問を持っていました。活発な質疑応答がないのです。
上記の講話は一例として挙げてみたのですが、私には赤く強調した所が理解できないのです。短い文なのですが四ケ所もあるのです。分からないのは私だけかと思ったりしたのです。
例えば、「従前の身心」とは、どういう身心のことなのか私には分からないのです。
次に、「共にほうり出して」とありますが、この放り出すというのは、具体的に私達凡人がどうすることなのでしょうか。身心をどうすれば、どのような状態になれば、共に放り出したと言えることになるのでしょうか。私には明確には分からないのです。
次に「六根を開放して」とあります。
根とは感覚器官のことですが、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官です。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚と認識し思考する心のことです。
私達の六根の内の意を除いた五根は、私達の意志ではどうすることもできない感覚器官です。
例えば、私達の意志で耳に入ってくる音を聞いたり聞かなかったりすることはできないのです。耳はすべての音を拾うので、選り好みはできないのです。眼、耳、鼻、舌、身の五感覚はすべてそうです。
このような状態にあって「六根を開放して」ということは、この五つの感覚器官をどのようにすることなのでしょうか。具体的に分からないのです。「六根を開放して」などと言われると、なんとなく分かったような気になってしまうのですが、その実は何も分からない一言なのです。
そもそも、六根そのものは私達が自分の意志で、どうのこうのできないのです。常に、自然のままであり、わざわざ開放してなどと言う必要があるものなのでしょうか。師家御本人が六根の機能が見えていないのではないでしょうか。
この師家はよくこの言葉を用いておりました。聴き手に師家自身の意図することが確かに伝わっていると思っての多用なのだと思います。
六根ないし五根がどのような状態にあれば、師家の説く開放していることになるのでしょうか。疑問です。師家御本人は一度たりとも、そのことについて説明はしていないのです。あまりにも当たり前のことなのでしょうか。常識なのでしょうか?
次に、六根の内の眼耳鼻舌身の五根のことは置くとして、六根目の「意」は心の機能の何を指しているかが分からないのです。このことはかなり重要なことです。
「意」は思考のことか、意識のことか、どちらなのでしょうか?
思考のことなら、思考を開放するということはどうすることなのか、思考がどうなることなのか。
意識のことなら、意識をどうすることなのか。どうなることなのか。
修行にとって大事な問題です。ゆるがせにできない事柄です。
思考のことなら、自らの意志によってある程度コントロールすることはできますが、意識は人の意志による直接の介入は一切不可能です。意を開放するというのはどういうことなのでしょうか?
次に、「六根に純粋に任せ切って」とありますが、六根を純粋に任せ切るというのは、六根をどうすることなのか、どうなることなのかについて一度も説明なしに、しばしば、この表現を使っておりました。また、この「純粋」というのも純粋な心ということなのでしょうか。汚れのない、煩悩のない心ということなのでしょうか。一般的な言葉なのですが修行となると、私には理解が困難な言葉なのです。
以上、短い文章なのですが、私には意味が理解できないことがこれだけあるのです。これは私だけでしょうか。あなたは如何ですか。
これでは私は禅の修行を正しく行えないのです。私の理解力が劣るのでしょうか。それとも考え過ぎなのでしょうか?
これらのことが曖昧でも修行に差し障りがないのでしょうか。私には分かりません。
例えば、御料理のレシピ、一つでも理解不能の箇所があれば、その料理を正しく作り上げることは誰もできないはずです。
料理に限らず、研究の成果を、他者が正しいか否かを明らかにする為に追試する時に、実験過程の一ヶ所でも理解不能の部分があれば、その追試は成功することはないのです。
すべては正しく理解して、手順を守り、実際に指導書通りにやっていかなければならないのです。
禅の修行も同様です。修行者や参禅者にとって身心脱落までは初めてのことばかりです。修行のやり方を正しく理解して、納得しなければ、苦しい修行などできるものではないのです。私達は凡人なのです。どこかの御師家さんのように若くして大悟するような宗教的天才ではないのです。
禅の修行に於いては、どんな簡単なことでも、どんな常識的なことであっても、大事なことは繰り返し繰り返し説明しても、説明し過ぎることはないのです。
曹洞禅の修行は先へ先へと進んでいく必要はないのです。最初も最後もやることは同じなのです。師家は同じことを説き、同じことを根気よく行わせ続けるのです。
近年、臨済的に見性や大悟を求める修行を推し進める曹洞宗に籍のある師家が一部おられますが、その方は修行の一つ一つについてしっかりしたと説明をしない傾向が多いようです。
例えば、師家が「縁に任せなさい」と言うのですが、言うだけで、縁に任せる為に何をどうすればよいのかを説明しないのです。
なぜ、師家は縁に任せなさいと言いながら、縁に任せる為の説明をしないのでしょうか。修行を正しくしたい者は困惑しているのです。修行者は試行錯誤して自分なりに理解し、自分なりに納得して、自分なりに縁に任せる様子を演出するのです。そして、その任せるということが、師家の説く任せることと同じ内容なのか、ピタリと重なるのかを本人は確認しないし、師家も確認しないのです。
ここのところは師家は、特にしっかりと修行者に尋ねて、任せるという内容が一致しているかを確認するようにしなくてはなりません。
禅の修行はもともと苦しいものです。苦労が多いものです。苦しいが故に確かなものとして、修行をさせるべきです。それが師家の若き修行者や参禅者に対しる責務と思います。
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2017.10.31
曹洞禅の修行というものは、正身端坐の静の修行と同様に動の修行も同じ比重でなされなければなりません。
しかし、初心者はまず、静の修行である坐禅から入る方がよいのです。静かに坐っている方が心の整理もしやすく非思量にも集中して取り組めるからです。
但し、静の坐禅の修行から、日常の行住坐臥の動く禅の修行へのいきなりの移行は無理です。日常生活の中で非思量の状態を保つのは相当の困難を伴います。ほとんどの修行者はここで挫折するのです。動中の工夫は極めて難しいのです。
ここを乗り越えなければ、開祖道元禅師の体験された正当の身心脱落に至ることはありません。ここの処は何度でも挫折をします。いくらやっても、そのほとんどが挫折で一度だってうまくいったためしはありません。
その理由は静の坐禅からいきなり動の坐禅の工夫をしたからです。静から動へつなげる何かが必要なのです。
坐る禅の修行から、動中の禅の修行に移っていって四六時中、非思量の脳の状態を維持できるようにならなければ、曹洞禅の身心自然に脱落することはないと覚悟して下さい。
坐っている時だけ非思量ができていても、それだけでは充分な質の非思量にはなっていないのです。日常生活のすべてで非思量が維持されていることが、非思量の質を高める為に必要なのです。
日常生活に於ける動中の工夫にいきなり入る前に、曹洞禅では経行という極めてゆっくり歩きながら非思量を維持させる工夫をさせるのです。この経行が静の坐禅から動の禅修行へ移行するつなぎの修行なのです。
経行の工夫を通じて動の修行の工夫を身に着けるのです。経行の工夫がしっかりとできると動中の工夫も少しづつ楽になっていきます。
その意味で経行という歩く修行はとても大切な禅の修行なのです。
従来は、経行というと坐禅中の脚のしびれや痛みをとったり、眠気をとったりする為に行うと指導されていました。しかし、この捉え方は一面はあっていますが、もう一面の重要なところが抜け落ちていました。動中の修行にとって必要な工夫を身に着けさせるという面です。
経行は重要修行と認識してに20分でも30分でも坐禅と同じように工夫してやってみて下さい。
但し、坐禅の初心者で坐中の非思量がしっかりできない人は、坐中の非思量がしっかりできるようになるまで正身端坐の方に力点を置いた方がよいと思います。
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2017.11.12
禅では自己(意識)を滅却(忘却、消滅)した精神状態を仮に「本来(真実、本当)の自己」といいます。この「本来の自己」は一般的に求められている「本当の自分」という意味ではありませんので、勘違いなさらないようにして下さい。
「本来の自己」になると、心の中の自己の存在はなくなります。
「心の中の自己(意識)」は自己保存本能を司り利己的なのです。生存する為に最も必要な資質は利己性であり、その利己性を司るのが心の中の自己、つまり意識=自意識なのです。意識と自意識は別々のもののように感じている方が多いと思いますが、それらは同じものです。
禅の修行によって、利己性を司る「心の中の自己(意識)」が滅却されますと、必然的に利己性は消滅してしまうのです。そして、利己性が消滅すると利他性が現れてくるのです。
本来の自己は利他なのですから当然のことなのです。(詳しくは、第一章 No64 No65の本来の自己 の項を参照下さい。)
利己的だった人間が、悟った後では、心の中の自己(意識)が消滅し利他の人となってしまうのです。つまり、仏教でいうところの慈悲の人となってしまうのです。
慈悲というのは利己性(利己心)の全くない愛のことです。一般的に言うところの愛は本質的に利己なのです。擬似利他的な利己的愛なのです。利己心があるかぎり汝の敵を愛することなど本心的には不可能なことです。
仏陀をはじめとして歴代の禅の祖師方は「自己(心)の中の自己=意識」を忘却して本質的な利他の人となられたのです。
利他の人、つまり慈悲の人となられたのです。
ご本人方は他者へ慈悲を施しても、そのようにしている自覚は一切ないのです。これを真の慈悲というのです。
(慈悲については 第一章No55自我の役割 自他の区別 を参照下さい。)
人間に限らず哺乳類はこの世に生まれて、利他性のままでは自然界における生存競争を生き抜くことはできないのです。そこで、自他を区別する精神的免疫機能と自己保存本能を司る機能が必要となり、且つ利己性を司る機能が必要となるのです。
この自他を区別する精神的免疫機能と、自己保存本能を全うし利己性を司る機能を担うものが、自己の中の自己、即ち意識(=自意識)なのです。
悟り(自己の中の自己が消滅すること=意識の存在がなくなること)ますと、慈悲の人となり、死を超越(死ぬことが恐ろしくなくなる)してしまい、四苦八苦も滅却してしまうのです。死は当然のこととして、あらゆることから解放されて、真の自由を得るのです。
意識は人(哺乳類)が生まれ出た時に、その芽を出すのです。そして、歩くようになるまでは生きるというだけの必要最小限の機能を果たすのです。
身心の機能が成長していくに応じて意識も成長していくのです。意識が成長して大人となるのは人間の場合は反抗期(思春期)の頃です。
哺乳類一般は母親が自らのテリトリーから子を追いだす頃です。
反抗期(思春期)というのは意識が自己と他者をしっかりと区別し、利己性が充分育ち、他者を自らの生存にとって障害となることを認識する精神的免疫機能が大人になったことを意味しているのです。
精神的免疫機能は自己と他者をしっかりと区別し、他者を排除し自己の保存を最優先に図るのが役割なのです。意識にとって他者の存在が邪魔になるのです。理屈抜きで本能的に邪魔となるのであって、気が合わない、考えが違う、反抗したいからという理由で反抗しているのではないのです。
親や兄弟姉妹を他者と認識して、排除したい、邪魔であると感じ、自己保存並びに自己遺伝子保存にとって障害となる存在であると生物的に認識し始めた証拠なのです。
反抗期(思春期)というのは意識の機能が健全に充分に育ってきた証なのですから心配はないのです。反抗期が落ち着くまで暫らく放っておくのがよいのです。
人間は集団的、組織的利益を享受していく動物ですから、家族関係の中で、自らの反抗的な心を抑制して社会的、集団的にバランスを取ることを学んでいくのです。それを教えるのは社会の大先輩である親という大人の責任なのです。
本能的なことは学ぶ必要はないのですが、社会の規範、習慣、伝統、文化は教えなければ身に着くものではないのです。これらを教えるのは親の責任なのです。
戦後、家庭内でこれらのことを教える親が減って、自信を持って社会に参加する為に必要な社会人としての基本が子供に出来上がっていないのですから、子供はかわいそうなのです。
戦後、学業以外の社会のことを子供に教える教育者は親であるという自覚が、親になくなってしまったのです。
子供は学校や友人関係の中で、社会性が自然に身に着くと思ったら大間違いです。自然に身に着くものではないのです。親が家庭内で社会性の基礎を言葉をもって行動を伴わせて、その時々に教えていかなければ身には着かないのです。
戦後、反抗期の年令に達していながら、反抗期のないおとなしい物分かりのよい子が増えているようです。それは意識が大人になるべく、自立すべく健全に充分に成長していないことを意味しているのですから大問題なのです。
しかし、そのような子を持った親は自らの教育が正しく適正であったと思って、子供の将来に何の不安も持っていないのですから尚更問題なのです。そのような子供を素直な親の言うことを守る出来のよい子として、親は誉め自慢したりしていますが、それは誤った考えなのです。
反抗期がないということは、健全に育つべき意識が親の利己的な過剰な干渉に抑圧されて歪んで育った為なのです。大人になるべく自立性が養われるべき反抗期がないのですから、決して喜ばしいことではないのです。
反抗期は社会性を身に着ける精神の大切な成長過程なのですから、その認識が親には必要なのです。
この認識のない親は、子供の反抗期の反抗の芽を早め早めに摘み取って抑え込んでしまうのです。これでは意識が健全に育たずに歪んでしまい、意識の精神的免疫機能や自己保存本能の社会性に問題が生じてしまうのです。子供は大人としての社会的に安定した精神が構築できないまま、社会に出なくてはならなくなってしまうわけです。
意識が正しく成長していないまま大人になった子供にとって、社会を生きることは精神的負担がとても大き過ぎて耐えられないのです。それがひきこもる理由なのです。ニートの理由でもあるのです。
15年、20年と抑圧され歪んだ意識が何かのきっかけで、子供を抑圧し続けてきた強権的、利己的な親という他者の徹底排除の行動が現れ、家庭内暴力として大問題となるのです。このようなことは精神的自己免疫疾患のようなものです。親は子供にとって最大限、自分の庇護者であり味方であり理解者なのです。そして、子供はその親の分身なのです。
その親に対しての排除の行動なのです。精神的免疫機能が狂っているのです。
人間の反抗期は、精神的免疫機能や自己保存本能を司る意識が健全に育ち、大人の仲間入りをし、自立し始めるのだと、両親をはじめ周囲の者は理解して喜ばなくてはならないことなのです。
反抗期の子を両親は強権的に抑え込まないで、その反抗的態度を受け流し、時には道理を説いて聞かせ程度でよいのです。決して対抗してはならないのです。
反抗期からは子供を子供として扱わずに、徐々に大人として扱うようにしていかなくてはならないのです。いつまでも子供を扱いはやめて大人同士という関係に切り換えていく努力をする必要があるのです。親も精神的に成長していかなくてはならないのです。
この年頃から親は子供に社会のルールを教えていく責務があるのです。そして、反抗期が無事に終る頃にかけて子供は、その存在感の強くなった自分の意識をさわったりしないで放っておくこと、気にしないことを覚えていくのです。
その存在感の強くなった、はみ出た意識を私達は自意識と言っているのです。
意識(自意識も)は放っておいて、普段その存在を忘れているのが意識の正しい扱い方なのです。
意識は放っておいた状態にある時が充分に機能している時なのです。
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2017.11.25
我々、禅の修行をする者は、最初に心の中を整理する必要があります。そして、整理した心の中を眺めて、禅の修行は様々な心の働きのうち、どの心を相手(対象)として行うかを確認しなくてはいけないのです。
開祖道元禅師は「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり」と正法眼蔵の95巻の中の現成公案の巻の中で述べておられます。
つまり、仏道という禅の修行は自己が対象なのです。
この自己というのは、物事を認識する自己、見聞覚知していることを知っている自己、「痛い」という自己ではなくて痛いということを知っている自己のことです。
自己の中の自己、自己を観察している自己のことです。
禅の修行はまず第一に、普段我々の心の中にある様々な動き・変化を整理して、心の中にあるものを見定める必要があります。
心の中を整理すると、主として、自己・意識・思考・感情(喜怒哀楽・恐怖・不安等)・欲望(食・性・睡・名聞利養等)・見聞覚知の五感の6つがあることが分かります。
この6つが我々の心の中の大部分を占めておりますが、その中でも常にあるのが自己・意識・思考です。感情・欲望・見聞覚知の五感は、時に応じ、縁にふれて、状況に対応して生滅するものであって、常ではありません。
外界からの入力情報(縁)をすべて遮断すると、感情や見聞覚知の五感は機能する必要がなくなります。そして欲望も、食欲と性欲と睡欲は残りますが、それらは一時生じるだけです。名聞利養の欲望はすべて思考が作り出すものですから、思考を止めれば名誉欲も財欲も生じません。(思考停止については次に述べます。)
残るのは自己と意識と思考の3つです。これらは心の中から生じるものですから、外界を遮断しても覚醒していれば、心の中に存在し続けるのです。
心の中に残った自己と意識と思考のうち、思考を止めると、心の中に残るのは自己と意識の二つになります。
この状態になれば、我々は自己と意識を観察することが可能となります。そうなれば、自己と意識の関係、意識と意志の関係、意識そのものの機能・性質も明らかにすることができます。
禅の修行は「自己」が修行の対象ではありますが、祖師方の修行と悟りの経験により、意識と自己は一体のものであることが分かっていますので、「意識」が修行の対象といっても間違いではありません。
思考の停止は禅の修行の世界では当たり前のことなのです。実際に修行として行うことは、思考の完全停止状態を作り、それを動静、いつ、なんどきでも精神力にて維持し続けることなのです。この思考の停止を禅の専門語では「非思量」「不思量」「無念無想」「不思善不思悪」「念想観の測量を息める」「正念相続」といいます。
思考の完全停止状態を曹洞宗では主に「非思量」といい、臨済宗では主に「三昧」とか「正念相続」といいます。
禅の世界では非思量の状態をしっかりと経験し完全に実施しなければ、悟り(解脱・身心脱落・大悟徹底等々)を開くことはできません。非思量の修行から悟りに至る過程で、身心一如という禅語で表される意識と自己の身体の関係の実態を知ることができるのです。
意識を研究したいという方は、まず意識を他の精神活動から分離して、単独の状態を作り出す方法を見出す必要があります。
この方法は仏教の創始者である仏陀が二千数百年前に発見し、それが連綿と中国、日本の禅宗に伝えられて現在、日本の禅宗に残っております。
江戸時代までの禅宗の書籍・法語を読んでみると、どこにでも書かれておりますので調べてみて下さい。
意識を他の精神活動から分離する方法が分かったら、実際に自ら指導僧(師家)の指導を受けて実践してみることです。
非思量を体験し修行を積んでいくと、禅籍や法語の中に意識の機能・心の本質・人間の本来の性分等が様々な観点から様々な表現で説かれていることを理解することができるようになります。禅籍や法語の内容のほとんどがそれらのことであることも理解できます。
禅宗という宗教は、世界の一般的宗教とは根本的に異質なのです。
キリスト教やイスラム教のような神という絶対神や、宇宙を創造し支配する存在がないのです。あがめたてる対象としての神や仏はないのです。
世界の常識から外れた日本に、世界の常識から外れた禅宗という宗教が細々と残り火を燃やしているのです。
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2017.11.27
現在、意識とは何か、どのような存在か、意識に機能があるのかどうか、あるならばどんな機能があるのか、意識は脳細胞のどこから生まれるのか、等々。
分からないことだらけです。意識のことについては、みな推測ばかりで、分かっていることは一つもないのです。
なぜ、意識のことが分からないかといいますと、意識のある状態とない状態の比較が科学者自らができないということにあります。更にもう一つ、複雑な精神活動から意識だけを分離して単体で観察することができないからです。
意識について研究している科学者は、基本的には自らの心の中の現状を一工夫もせずにそのまま観察して意識を研究するからです。意識だけを他の精神活動から分離する工夫を何一つしていないからなのです。
たとえば、物質の性格や生薬の効き目を明らかにするためには、科学の世界では、その物質の不純物のない純度100%に近いものを取り出す工夫を試行錯誤するものです。生薬にしても有効成分を単体で取り出す研究を長年かけてするものです。
精神脳科学の世界では、意識を他の精神機能から分離して単体で観察する工夫がなされていないように思います。研究者自らの心の中の現状を見てみますと、意識と思考、意識と想像、意識と自意識、意識と感情、意識と記憶、意識と五感(眼耳鼻舌身)、意識と五欲(食・性・睡・名声・財金銭欲)、意識と理解力、等々の精神活動があります。つまり脳の機能です。
これらは意識と密着しており一体となって存在し機能しているように見なされ受け取られております。あたかも意識が精神活動のすべてを司っているかのように感じられるのです。実状がそのように見えても、意識をそれらの活動から分離して単体で観察すると大きく異なっているかもしれないのです。意識の正体を知るためには、意識を他の機能と密接につながったままでは不可能です。
意識を理解するためには思考や想像や感情や五欲や五感等々の精神活動(機能)と分離して、意識を単独で観察してみることが必要です。更に詳しくその正体を知りたければ、意識を意図的に心の中から消滅せしめて、意識のある時の精神活動と意識のない時の精神活動を比較すれば一目瞭然なのです。ここまでやれば意識の機能の完全な解明となります。
そして、これらのことを完全にやり遂げた方が歴史上100人や200人はいるはずです。
しかし、それらの体験を分析して書物にして残した方はそれほど沢山はおりません。それらの方々の文献を詳しく研究すれば、意識のことはかなりのことが分かります。
但し、文献の文字の意味していることを理解するには、自らの禅の修行が必要となってまいります。
禅の修行といいましても、臨済宗の公案禅ではなく、曹洞禅の非思量の修行です。
非思量の修行は思考・想像の機能を完全に停止させ、その状態をある一定時間維持するのです。このようにすると、意識と脳の他の機能(精神活動)は分離してきます。
意識と他の機能は一体となって活動していたのに思考・想像の機能が停止してしまうと、意識と他の機能の一体感はなくなり、それぞれ独立した別々の機能であることが分かってまいります。
つまり、現代の脳科学者が、意識と脳の他の機能は一体のものであり分離できないものであると、自らの心の様子を観察して判断していたものが、実際には分離できるものであるということなのです。
意識を思考や想像や感情や五欲や五感等々の脳の機能から分離させて単体で観察できるのですから、意識の存在理由・機能を明らかにすることが可能となるのです。
つまり意識の純粋な姿が明らかになるのです。
意識を脳の他の機能から分離する方法は曹洞禅の非思量という坐禅の要術です。
非思量という坐禅の方法は曹洞宗開祖道元禅師によって鎌倉時代初期に宗の時代の中国から伝えられたのです。
非思量を完全に実施できますと、意識の機能が完全に消滅します。これを一般的には悟りとか解脱といいますが、曹洞宗では身心脱落とか脱落といっております。
身心脱落しますと意識のある時の脳の状態と意識のない時の脳の状態の比較が可能となります。意識の機能のある時と機能のない時の脳の機能の比較実験が可能となるのです。
曹洞禅の「非思量」は文字通りに受け取って下さい。心の中(頭も中)に思量の存在しない状態を維持するという修行なのです。
何の考えもなく何も思わなければよいのですから子供でもできそうな、文字上はとても簡単な単純なことなのです。ほとんど説明は要しません。だまされたと思ってやってみて下さい。
人によっては精神負担は極めて大きいのですが、歴史上やり遂げられた方々は何百人もおられますから不可能なことではないことは確かです。
非思量の工夫として江戸時代以前の日本や中国の禅籍の中に様々なことが説き示されていますから、古い禅籍を詳しく調べてみるとよいと思います。
明治以降の禅籍で確かなものは一つもありませんので、分かり易いからといって飛びつくのは賢明ではありません。
また、臨済宗の公案禅やその系統を汲む禅の書籍は、古くとも非思量の修行・工夫には全く役に立ちませんので要注意です。公案禅やその系統を汲む禅の修行をする方法では見性することは多々あっても、非思量の状態に至って身心脱落する禅僧は極めて稀なので避けた方が宜しいです。公案禅の修行をした師家は非思量の工夫の実際を全く知らないからです。やっていないことは知るはずはないのが世のならいです。
非思量の工夫をして思考・想像の機能を停止できるようになったところで、そこはまだ禅の修行としては正修行の入口に立った処ですが、意識の初期的な大まかな観察はできると思います。そして、もう少し詳しく知りたければ、更に修行を重ねることです。
もしそれが叶わないのであれば、非思量の状態が日常的に有る禅僧から意識についてのアドバイスを受ければ、かなりのことまで理解は可能となります。
取りあえず、意識について正しい知識を得たかったら、非思量の状態をある程度容易に維持できるように曹洞禅の修行をしてみて下さい。
意識研究の世界的先駆者になることは間違いありません。
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2017.11.28
私達の生身の血の通った身体は、自己の中の自己(意識)がなければ統御された自己身体という感覚は生まれてきません。
たとえば今、頭を触ってみて、触られた頭が私か、触った手が私か、どちらですか?
それとも、触っている私が私か? 触られている私が私か? 私が私を触っているのか?
それとも、手や頭は私ではなく、生身の手が頭を触って、それを知っているのが私なのでしょうか?
その時、私は何処にありますか?
たとえば、右手で左手の甲をなでた時に、なでた右手が私か、なでられた左手が私か?
それとも、なでている私が私か? なでられている私が私か?
それとも、その様子を見ている私が私なのか?
私はその時、何処にあると感じられるのでしょう。
論理ではなく実感はどこなのでしょう。
この答えは今まで述べてきたことと深い関わりがありますので、一度しっかりと禅修行の課題として考えてみて下さい。
これは公案ではありません。非思量の実践で自ずと答えが出てくるものです。
私達が普段、その存在を感じている身体は、物理的に実体として存在する生身の身体ではなく、自己の中の自己(意識)が必要があって精神的に創り出した身体です。この身体は精神的な身体なので実体は全くありません。当然、触ることも見ることもできません。この精神的に創り出した身体を、私達は自分の身体と感じ思い込んで疑いを全く持っていないのです。
実体としての生身の手・足・頭・首・胴等の個々の身体を一体感をもって統御しているのは、自己の中の自己(意識)なのです。実際に統御されている身体は精神的に創り上げられた身体であって、実体としての血の通った生身の身体ではありません。
私達は実際の身体を全く覚知していないかというとそうでもありません。目に見える範囲ならば、ある程度、実体として自覚できますが、それは自覚できるだけであって、自分の身体であるという感覚は生まれてはきません。
また、目に見える範囲だけでも一体として統御できるかというとそれはできません。身体を統御しているのは意識です。そして統御されている身体は意識が創り出した精神的な身体です。それを私達は自己の身体であると思って日常生活を送り、身体を使って働き、注意を集中して精神的身体を守っているのです。
私達は生まれてから実際に一度も、自己の生きた動きのある身体を、前からも後ろからも、横からも、上からも下からも全体として見たり触ったりして観察したことはないのです。
また、観察しようとしてもできないことなのですが・・・。
生きた動きのある身体全体を見たり触ったりすることは不可能なのですから、一体感をもって自らの意志で生身の身体全体を統御することはできるはずはありません。
そこで私達に代わって、自己の中の自己(意識)が私達の身体を寸分も違わずに精神的に創り上げて、その身体を統御して、結果、実際の生身の身体を間接的に統御しているのです。私達が直接、私達の生身の身体を統御しているのではないのです。
たとえば、物事を見ているのは私ではないのです。物事を見ているのを知っているのが私なのです。物事を実際に見ている人は誰ですか?
お茶を飲んでいるのは私ではないのです。お茶を飲んでいるのを知っているのは私です。それでは実際にお茶を飲んでいるのは誰ですか?
道路を走っているのは私ではないのです。走っているのを知っているのは私です。
どのように走っているかも私は把握しているのです。全く自らの走る姿を見ることができないのに・・・。不思議なことなのです。
それでは、実際に走っている人は誰ですか?
走っているのを知っている人は私ですが、走っている人も私なのでしょうか?
走っている人は私の生身の身体であることは間違いありませんが、生身の身体が本当に私なのでしょうか?
ここのところは極めて重要なところです。
自己の身体が行っていることを、私達はいつも追認して把握しているだけなのです。追認することをもって、私達は自らが行っているように感じているのです。
私達は、この自己の生身の実際の身体を、部分しか把握できないのです。自己の身体の全体像を想起して把握することはできないのです。目で見える身体の部分しか把握できないのです。それらは個々にバラバラで繋がりはないのです。手で触っても、その像形を想起することはできないのです。また、部分部分を触って繋げていっても、その身体の輪郭を把握することはできないはずです。人は触っただけでは想像することはできません。見たものは想像できますが、見たこともないものを触っただけでは想像できないのが人の能力の限界なのです。
人は自己の一部しか見ることはできないし、見たものを繋げて統一された身体とすることもできないので、自己の身体の全体を把握し統御することはできません。自らの身体が見えていないのですから、生身の身体個々の動きは統御できません。
そうすると、何か身に危険が迫った時に、自らの意志によって適切に身体の個々を動かして防御や攻撃や逃避ができません。
そこで、自己の実際の身体を正確に把握し統御するために、精神的に自己の身体を創り上げる必要があるのです。自己の身体を精神的に創り上げて縁に応じて自在に動くようにしたのです。
つまり、人の影が実際の身体の動き通りに動くように、精神的に意識が創り出した精神的な身体の動きの通りに、生身の身体が動くのです。
精神的に動きを想像し、或いは他者の動きを真似て、その動きのようになるように生身の身体を訓練していくことが可能となるのです。精神的身体の動きの訓練的想像が先で、生身の身体の動きの訓練は後からついてくるようになっているのです。
精神的身体を創ることによって、自己の身体の生存のために、身体全体を精神的に把握し統御して身体能力を高めていくことが可能となります。
そして、注意力を精神上の身体の隅々まで臨機応変に行きわたらせていくに応じて、それが生身におよび、実際の身体の能力が高まり、生存がより有利に安全になっていくのです。
精神的身体は、人の影と生身の関係との丁度逆になります。影の通りに生身を統御するのです。影は精神的身体のことです。
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2018.2.4
非思量の修行をするにあたり、念の連想はいけないが「初念」或いは「初一念」は修行の妨げにはならないと説かれる師家や、初念はよいが二念三念はよくないと説かれる師家が一般的です。私も若い頃、そのように説明されて、初念はあっても修行には問題ないのだと思い込みました。その時に初念についての説明は当然のように全くなかったのです。私はただ何となく字義から最初の念かと常識的に思い、それについて深く考えることはなかったのです。当然のことのように言われるがままに受け入れて今日に至ったということです。
しかし、今日思うに、この「初念」或いは「初一念」を修行の妨げにならないから生じても問題ないという説明や指導は、若き修行僧や参禅の初心者に大きな過ちを犯させてしまうことになるのです。それは特に非思量を行じる曹洞禅の修行には大問題なのです。
初念の「念」は心のどのような状態を指しているかを正しく理解していないと、非思量の修行をする際に正しい非思量を行えないこととなるからです。
非思量を間違って理解すると”毫里の差あれば天地はるかに隔たる”で、修行すればするほど正しい非思量から遠ざかり、年月が経てば経つほど正しい修行から離れて、終生、身心脱落に至ることはなくなるのです。
間違った修行をしていると、それが身について、習い性となって正しい修行に戻ることはなかなか難しくなってしまいます。鉄は冷えてから打っても言うことをきいてくれないのです。
最初に正しく説明や指導を受けて、正しく修行を理解することはとても大事なことなのです。取りあえず修行を始めれば、修行がすすむに従って正しい方向に納まっていくと考えることは間違いです。最初から間違いなく理解し正しく禅の修行を実践しなければ、曹洞禅の悟りである身心脱落に至ることは難しくなります。
理解できなくとも、取りあえず始めれば、そのうちに分かってくるだろうと軽く考えてはなりません。そのうちに分かってくるというのは正しく修行している場合にのみ言えることです。
禅の修行は常に正しく、常に間違いなく、ということを心掛けてやっていかなくては修行上の苦労が多くなります。それには昔から言われるように善知識、つまり正師を求めることです。一般の修行者にはそれ以外に方法はありません。自らが自らの努力で善知識となるには一生涯の時間が必要となります。
取りあえず、ほぼ生涯をかけて私が知り得た「初念」或いは「初一念」について説明してまいります。
一般的に多くの方は、念(思量)が次から次へと出ては滅し、滅しては生じるということを繰り返している状態にあります。
生まれてから気づいた時には、既にその状態でした。どこが最初の念で、どこが最後の念かも分からないというのが正直なところです。
いつどこのところを捉えて初念とするか、初一念とするかは、師家より説明を受けなければ決めかねるところです。初念があるなら最後の念があるはずです。最後の念は、初念のすぐ前の念ということになります。
一般的に初念とは最後の念の次に生ずる念をもって初念というと定義されるべきですが、本当にこれでよいのでしょうか。このように理解してよろしいのでしょうか。
初念或いは初一念は問題がない、修行の妨げにならない、と説く師家方はいつどのように生じる念なのかを明らかにしていないのですから不親切といえば不親切です。
初念或いは初一念は生じても修行に於いて問題がないと説く師家方は、当然の如くにそのような説き方をせずに、初念或いは初一念とはどのような念であり、いつどのような時に起きる念であるのか明らかにして若き修行僧や参禅の初心者に説いてあげるべきです。それは曹洞禅の修行に於ける当然の手順としてなすべきことなのです。そうしなければ初念或いは初一念を間違えて、自分の禅修行の力量のない常識の範囲内で捉えてしまい、正しい非思量が歪められてしまうことになってしまうからです。
この初念或いは初一念は非思量の修行をするに当たってとても重要なことでゆるがせにできないことなのです。
初念或いは初一念がどういう念なのかを明らかにしておかなければ、若き修行僧や参禅の初心者には曹洞禅の非思量を正しく修行することができるはずがないのです。
私達の思量、つまり念は常に一念一念生じ、一念一念滅して、絶え間なくそれらが繰り返されているのです。今の念は常に一念のみです。今の念と同時に他の念が頭の中に混在したり並存したりすることはないのです。しかも、念は次から次へと生滅しているのです。初念或いは初一念ですと明確に言うことのできる念はどれだか分からないのです。
曹洞禅では念のことを思量と言いますから、初念と言わずに初思量と言い換えても言葉上は何も問題はないと思います。初一念も初一思量と言い換えても意味するところは一緒ですから表現上は何ら支障はないはずです。
このように言い換えると初念或いは初一念には何か問題があるのではないかと気付くはずです。
非思量の修行に於いて、初思量も初一思量も出ても構わない、動いても問題はない、ということはどこの文献にも出てくることはないはずです。初思量も初一思量も何と言い表そうと思量そのものですから、非思量の工夫(修行)に於いて許しておいてよい思量ではありません。非思量の修行に於いて許される思量というものは一つもないのです。
実際の曹洞禅に於ける非思量の工夫は、今の初思量、今の初一思量を問題にしてなされるのです。今の初念、今の初一念という思量が大問題であり、決して許しておいてはいけないのです。これを問題にしないで非思量の修行は成り立たないのです。
今の思いや考えは、今の一念です。今の初念でもあるのです。人の思いや考えは今の一念の連続です。すべてが今の初念です。今の初念に二つはないのです。今の一念に二つはないのです。常に心の中で生じるのは只一つの念なのです。自らの頭の中(心)の念の出てくる様子、滅する様子を観察してみて下さい。私の今言ったことが納得できるはずです。
非思量の修行に於いては、今の思いは今の思い、今の考えは今の考えなのです。初念も初一念も、区別はないのです。そして、今の思量について修行し工夫をするのです。
一般的な師家方の言う通りに、初念とも言うべき今の念、初一念とも言うべき今の一念を出ても良いとすると、次に生じてくる二番目の念も、二番目の次に出てくる三番目の念も許さざるを得なくなってしまうものです。人の弱さです。結局、非思量の修行の入口にも入れないこととなってしまうのです。
その結果、苦しまぎれに非思量を私的に解釈し直して、自分がやり易い非思量を作り上げてしまうのです。それが通例です。
この初念とか初一念というのは曹洞禅の非思量を行じてこなかった師家や老師や禅僧方には分からないと思います。
実際、曹洞禅では初念とか初一念という言葉はあまり使われないのですが、それは曹洞禅の非思量の修行に於いては、初念という思量も、初一念という思量も、思量であることに変わりはなく、敢えて初念や初一念の言葉を使う必要はないのです。
また、非思量の状態を相続していれば、森羅万象すべてに触れて、一つ一つが初念であり、初一念ですので、敢えて言う必要はないのです。
「初念、初一念」の念と「二念、三念」の念は、その意味するところが違います。
「初念、初一念」というのは、臨済宗でいうところの「正念」のことです。この「正念」は字義通りに「正しい念」と理解してはならないのです。
「正しい念」「正しい思量」という意味ではなく森羅万象の縁に対して、一切の言葉を用いない、動かさない状態を「正念」と言い表しているのです。この念は思量(思い、考え)という意味ではないので気を付けなければなりません。
非思量の状態を知らない多くの師家や老師や禅者は念と言えば思いや考えしかないと思っている為に間違えるのです。言いにくいことですが、つまり、禅定力が不足しているのです。いってみれば初念や初一念や正念というのは理屈・知識・道理の差しはさまる前の直感の感覚(感じ)の世界に於けることなのです。
二念、三念というのは主観、客観にかかわらず、初念や初一念に基づいてなされる言葉を用いた考え・思い・感想・判断のことです。
初念の「念」と二念の「念」は、その意味するところは全く異なるのですが同じ語を用いております。力量がかなりないと間違い易いのです。禅門に於いてはこのようなことが多いので気を付けなければなりません。
もう少し詳しく言いますが、五感(眼耳鼻舌身)から入ってくる縁に反応する感じ、感じた通り、見た通り、触った通り等のこと。喜怒哀楽等の感情の様々の心の変化、快・不快の感じ、好悪の感じ、五欲つまり食欲・性欲・睡欲・財(金銭)欲・名誉(名声)欲等の欲が生じ動く感覚等を初念とか初一念とか正念とか言い表しております。
これらの感じや感覚は、自らの言葉を用いた思いや考えや感想や判断が動く前に生じるのです。これを初念とか初一念とか言うのです。また正念とも言います。
主観・客観にかかわらず思いや考えや感想や判断等は二念とか三念とか言い表しております。
初念・初一念の「念」と二念三念の「念」は明らかにその意味するところは異なるのですが、このような語の用い方は昔から中国や日本の禅門に於いてはよくあることなので注意が必要です。
西洋ではこのような場合は、新たに造語をして、その造語の定義をしてから自論を展開していくのが一般的なのですが、中国の禅門では同語或いは類似語の転用で、造語はほとんどなされないのです。
ところで初念・初一念・正念は私達の意志が動く前に瞬時になされてしまうので、私達には手の付けようがないのです。私達の意志が全く介在する余地がない世界なのです。それこそ縁に任せるしかないのです。
二念三念は慣習的に何かにふれてフッと思ったりしますが、実質的には私達の意志によってなされるのです。習い性となってしまっているのです。二念三念は実質的に私達の意志によって癖としてなされるのですから、その癖を意志によって息めることもできるのです。
この慣習的な癖を完全に停めることによって悟ることができることを、今から約2,400年前にインドのお釈迦様ことゴータマ(シッダールタ)が発見したのです。
以上のことを理解して正しく初念・初一念・正念に対処して、曹洞禅の非思量の修行を推し進めていっていただきたいと願っております。
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2018.2.5
非思量が瑕疵無く充分に相続できるようになったか、否か、の目安は一応あります。
その目安というのは、身心脱落に至る可能性(基礎)がしっかりと出来たということを意味していますので大切なものです。
その目安というのは、自分の信条・思想・常識・道徳・倫理に反する他者の言動に遭遇した時に、それに反応して非思量の相続を忘れ、すぐに思量が動いたり、動かしたりするかどうかです。
そのような時は私を含め多くの修行者は非思量の相続を忘れてしまいがちですが、道人としては非思量の相続を忘れて思いを巡らせたりしてはいけないのです。
更に、もう一つあります。
それは自らの利害得失や名聞利養にかかわる事柄が生じた時に、速やかに対処し、事が落着したにもかかわらず、いつまでも尾をひいたりと非思量の相続を忘れているようではいけません。
この二点が人の弱点で、修行における最も難しい壁なのです。ここでほとんどの修行者は落伍してしまうようです。
この壁を克服できれば非思量が自然にできるようになったということになります。それはとりもなおさず日常生活が非思量の生活になったということを意味します。また、ここまでこなければ身心が自然に脱落することは難しいということです。
身心脱落は日常が非思量の生活になっていれば、坐禅中であろうと、経行中であろうと、作務中であろうと、法要行事中であろうと、休憩中であろうと、自然に予期せず訪れてくるのです。それは、このような時、このような場所でということは一切ありませんので、そのようなことに目を向ける必要はありません。また悟りを求めることも、望むことも必要はないのです。ここまで来ると真に無所得無所悟の禅修行なのです。ただひたすら頭の中が様々な縁に触れながら非思量でありさえすればよいのです。
2018.9.14
非思量の修行の進み具合の目安について、落としていたことがありましたので追加いたします。
一、自動車の運転中でも気持ちを散らさないように用心していれば、非思量の状態を維持して運転できることです。
次に、数息観で修行してきたが、非思量の修行に移行した場合、数息観の助けを借りずに、非思量の状態を相続(維持)できるようになったこと。それに関連して数字を数える必要が全くなくなった非思量の状態を知り、その相続(維持)ができるようになったこと。
等々が非思量の修行が確かにできるようになり、その入口に立った目安です。
これらは一応の目安で、これで身心脱落(悟り、解脱、大悟)に必然的に繋がっていくわけではないのですから安心してはいけません。
ここからより一層、非思量の状態の相続に専念しなくてはならないのです。身心脱落に至る為には意図せずとも非思量の状態の生活になっていることが必要なのです。
歴代の祖師方や開祖の悟り(身心脱落)に至るには、宗教的天才でもない限り並大抵のことではないのです。途方もない忍耐力が必要であり、その忍耐力を保つには名利の心を捨てて捨てて捨てていかなくてはならないのです。名利の心は禅の修行の忍耐力を削ぐ働きがあるからです。
禅の修行は名利を離れるために、世間の日の当たらない所で一生涯をかけてやり通す覚悟が求められるのです。
そのようなことに一生涯をかけることなど誰からも共感されないし、理解されないでしょうから当然孤独にならざるを得ないのです。孤独に耐えられなかったら禅の修行はできません。最後までを目指す修行仲間などはいないと考えていたほうが良いのです。人生の仲間は大切にしなくてはなりませんが、禅の修行者は修行の仲間を求めてはならないのです。
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2018.2.7
大学で心理学や精神分析を学んだことのある人ならば意識変容状態という言葉を知っていると思います。
この意識変容状態(知覚の歪み)というのは、命がけの危険な状況に於いて仕事(任務)をするような人や、苛酷な自然環境にさらされている状況に居ざるを得ない人や、精神的に追い詰められて疲労困憊の状態の人などが体験する異常心理状態であることを知っていると思います。
一般の人には意識変容状態という言葉は聞き慣れないと思いますが、これは意識の様相が特別な状況に於いて、普段通りではなく特別(特異)な様相に変わること、つまり、知覚の歪みともいうべき状態を体験することを意味する言葉なのです。
この意識変容状態を体験するのは、命の危険のある状況とか、精神的に追い詰められた状況とか、厳しい苛酷な自然環境の中に身を置いている場合とか、厳しい規律のある組織の活動や修練の最中とかです。そして、その状態は一時的なことで、状況が変わると意識変容状態も解消されるのです。
「知覚の歪み」の知覚というのは視覚・聴覚・臭覚・触覚・意識の感覚などです。幻覚・幻聴・幻肢などとは異なるのです。
この意識変容状態(知覚の歪み)の体験を戦後のアメリカに於いて調査されたものがあります。
調査の対象はアメリカ軍の兵士と警察官です。軍の兵士は戦場で常に命の危険にさらされますが、警察官もアメリカは銃社会ですので事件現場では常に命の危険にさらされている職業なのです。その調査結果がまとめられて一般の心理を扱った書籍に掲載されております。
意識変容状態の主なものにはどのようなものがあるか次に列記してみます。
1. 針の落ちるような極く小さな音がはっきりと大きく聞こえる。
(坐禅中、線香の灰が床に落ちる音が聞こえるということがよく言われます)
2. 鼓膜が破れるような大きな音が小さく聞こえる。
3. 視野がトンネル状に狭くなり見るべきもの以外、周囲は真っ黒くなって全く見えない状態となる。
4. 例えば、人の動きとか葉や石や何かが落ちたりする様子がスローモーションで見える。
5. 普段見慣れているものが極端にはっきりと鮮明に見える(鮮やかに輝いているように感じる)。
6. 速く動いていて目にも止まらぬ速さなのに、その物がくっきりと詳細に見える。
7. 自分を幽体離脱したかのように外側から眺めたり観察しているかのような感覚になる。
8. 一時、自分が何をしていたか全く記憶がなく思い出せない空白の時間を体験する。そして、何かの拍子にハッと我に返って空白の時間のあったことを自覚する。
9. ある一定時間、自分がその場に居たのにもかかわらず、そこで何があったか全く記憶がなく思い出せない空白の時間を体験する。我に返っても空白の時間に何があったかを思い出すことができず、一時的な記憶喪失に何かの拍子に陥る。
10. 目の前で起きていることを茫然と眺めているだけで、自分が何をする為にそこに居るのか、何をしなければならないのかが分かってはいるのですが、対処をしようと或いは何かをしようという気持ちが全く動かないという体験をする。茫然自失という状態に陥るのです。
11. いろいろな感覚が夢の中で起きているような感覚になる。視覚や聴覚や身体感覚が夢の中で起きているような現実離れをした不思議な感覚を体験する。
以上11ほどの意識変容状態を列記してみましたが、それらは禅宗の師家や老師や古参の参禅者の見性体験や悟り体験と類似しております。或いは重なるものが多くあることに気付いたと思います。
これらの体験は臨済禅に限らず、臨済系の修行を主に行ってきた曹洞禅の老師や師家や古参の参禅者の人達の見性体験や悟り体験として聞かされたりしたこととよく似ております。
ここで臨済系の修行をしてきた曹洞禅の師家云々とあえて書きましたが、曹洞禅の非思量を只管に行ずる修行においては、見性を求めることはしないし悟りを求めることもしないのです。よって意識変容状態が修行中にあったとしても取り合わずに無視し放っておくのです。曹洞禅に於いては、そんなものは忘れるだけです。
曹洞禅に於いては、悟りの前段階としての見性という特別な体験や、悟る際の特別な意識変容状態というものを求めませんし認めもしないのです。ですから、それらの体験を悟りの証しとか目安にはしないのです。曹洞禅の悟りである身心脱落は自然に脱落へ移行していくという感じの体験なのですから当然のことなのです。
曹洞禅は最初から見性や身心脱落を求めずに、脇見もせずに、ただひたすらに、非思量の相続に勤めればよいのです。修行途中の影色に心を奪われたり眺めたりしていてはいけないのです。放てば手に満(充)てりです。
今日言われております見性体験や悟り体験は、その実は一般人も体験する意識変容状態であって、禅修行に於ける見性や悟りと言える尊き宗教的体験ではないと私は考えております。
ところで、禅門で言われている見性や大悟によく似た意識変容状態という心理現象が、禅門の修行以外に一般人にも条件によっては起こり得る心理現象であるということを全く知らない老師や師家があまりにも多すぎます。現代では一般人の心理に関心をもって、少しでも心理学を学べば誰でも知り得ることですから、師家も、限られた狭い視野を広げる意味で少しは心理学を学ぶとよいと思います。
この一般人にもある意識変容状態と、禅の見性や大悟体験との違いを知っている或いは区別のつく老師や師家は一人も居ないと思います。なぜなら、今日までの老師や師家方は禅門以外の一般人に宗教的体験とは無関係の見性や大悟によく似た意識変容状態のあることを全く知らないからです。坐禅をやっている修行者が意識変容状態を体験することはないとは言い切れないのです。
近年、巷の噂によりますと、見性したり大悟したりした禅僧や参禅者が多く輩出されているようです。以外に簡単だったとか、歩いている時に偶然悟ったとか、何かの作務中に見性したとか、語っているようです。また、坐禅中に悟ったり見性した方はほとんどないということのようです。
このような噂話を聞く限りでは、現代の若き禅僧や参禅者は宗教的資質に優れた方が多いようで羨ましい限りです。
曹洞禅の只管打坐を推し進める修行は意識変容状態(知覚の歪み)が生じても、そのことには取り合わず放っておくのです。そのような体験は非思量の修行にとっては害こそあれ、何の利益もないことを経験則から知っているのです。たとえ意識変容状態(知覚の歪み)が生じても、禅の指導者である師家に報告にはせ参じて、その体験が見性でないか、大悟でないかと確かめたりはしないのです。自らの心に自己があるかないかは自分が一番よく分かっているからです。いくらどんな意識変容状態(知覚の歪み)の体験があっても、非思量の修行に於いては自己の存在の有無を見間違えることは決してないのです。
自己が心の中に僅かにでも存在している以上、師家から、その体験は大悟であると言われたところで修行者本人は決して嬉しいことではないのです。修行の目的、仏道の目的が分かっているからです。師家にいちいちの意識変容状態を報告に行って、この体験は見性ではないか、大悟ではないかと確かめに行く心は厳密に言うと名利の心なのです。禅の修行に於いては戒められる心の動きです。その体験が身心脱落であるか否かは、自己の存在、自己の身体の存在が兎の毛ほどもあれば、違うということが自ら分かるのです。このようなことは外から見ている師家が分かるはずはないのです。本人の心は本人が一番よく知っているはずですというのが曹洞禅なのです。
師家の許しを受けて身心脱落となるのではないのです。師家は本人の申告を追認するだけのことです。
見性を希求したり大悟を求めて禅の修行する者は、非思量の状態となって自己の中の自己と対峙し続けることが少ないので、本当に大悟しているのかが自覚し難いのかもしれません。
また、見性や大悟を希求して禅修行する修行者は意識変容状態(知覚の歪み)が少しでもあると、この体験は見性である或いは大悟であると、ことごとく受け取りたい願望が心の中にあるので、そのように受け取ってしまうのです。見性や大悟を希求して禅修行をする者の大きな落とし穴なのです。この落とし穴は名利が作るのです。
あの原の白隠禅師も、若き頃、この穴に嵌り、今日まで自分ほど最上の悟りを開いた者はいないと思い八方破れの禅天魔となってしまった経緯があります。
嵌り込んだ穴から彼を引き出した方が飯山の正受庵の道鏡恵端老師です。白隠禅師は約1年そこに留まり道鏡恵端老師より指導を受けて正しい修行方法を身につけて静岡の正隠寺に戻りました。それから一人でコツコツと修行を続け、真に大悟徹底したのは40才を越えてからです。
修行途中で経験することの多い意識変容状態(知覚の歪み)の体験から離れるには、非思量を専一に工夫し相続することです。そうすると意識変容状態(知覚の歪み)の体験如きものは大したことではないことに気付きます。先に挙げた意識変容状態(知覚の歪み)は決して大悟徹底などではありませんので、そのような体験は体験としてあったという程度のことにしておいて非思量の相続に専念することです。
このような特別な心理体験を師家や同参の者に話したいという気持ちがあるとすれば、それはほとんどが名聞利養の心ですから気を付けなければなりません。皆、認められたくて仕様がないのです。師や同参の者から評価されたいのです。
しかし、このような名利の心が動いていると(本人は気付いていない場合が多いのですが・・・。)身心脱落に至ることはありません。名利にどっぷり浸かって成長し社会人になって働いてきたのですから、一般の人は自分の名利の臭いには気が付かないのです。自分の名利の心に動きにも気付かないのです。師家に指摘されて気付いていくしかないのです。気が付いたらその都度それから離れていく努力をしていくのです。非思量の修行はそのことに大いに助けになります。
名利は蜜の味がするのです。引き寄せられない人は少ないことでしょう。
禅僧は最後まで、そのことで苦労するのです。
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2018.2.17
高名な堂長師家が説いているような「鑑覚の病」とか「悟の病」とかいう病のつくものは曹洞禅の悟りである身心脱落にはないのです。
この「鑑覚の病」とか「悟の病」というのは新しい見解なのでしょうか?従来の禅の修行に於いてはあまり聞き慣れない言葉です。
(
戦後の誰の造語か知りませんが、古くは、このような言葉はなかったのです。)
文の前後から推察するに、この病の原因は自己の存在です。
自己の存在が消滅してしまった身心脱落に病はないのは当たり前のことです。
自己が兎の毛ほどでもあれば、曹洞禅に於いては決して身心脱落することはないのです。
もし、大悟した後に滅却すべき鑑覚の病とか悟の病というものがあるとすれば、それは身心脱落したわけでもなく、大悟したわけでもないのです。
非日常的な心理体験をした本人が、その体験を身心脱落したと思い込み、大悟したと思い込んだに過ぎず、その体験が本当に身心脱落なのか、大悟なのかの保証はないのです。
実際のところは、本人の自信のある身心脱落した或いは大悟したという思い込みと、戦後の師家の力量不足による見誤りのことが多いのです。
非日常的な心理体験は、禅修行をしているからといっても、それは身心脱落(大悟)ではなく意識変容状態の経験の場合もあるのです。
そして、そのような体験があったことは確かでしょうが、そのような体験が疑いなくあったということが、その体験が身心脱落であるとか大悟であるとかの保証にはならないのです。
その体験は現代心理学でわかっている意識変容状態である可能性もあるのです。悟ったとされる禅者の体験の内容が心理学で示されている意識変容状態と極めて類似しているからです。
身心脱落や悟りと思った体験が、意識変容状態というのであれば、当然、自己が残っていますから、鑑覚の病とか悟の病があることは当然のことでしょう。
この「鑑覚の病」或いは「悟の病」というのは字義の通り、自らが体験した覚(つまり、悟)を知っている、或いは見ている病という意味です。
つまり、知っている主や見ている己があるということです。この病があるということは、身心脱落したという実体験は、実は身心脱落ではなかったということを意味しているのです。
身心脱落した後に鑑覚の病があるとか悟の病があるというのは、曹洞宗開祖道元禅師の書き残したものには出てきませんから、現代の師家の個人的見解という可能性が大きいと思います。
このような見解は後進の修行者に大きな誤解を生むものであり、極めて不適切なものであり、戒められるべきものです。身心脱落や悟りに自己が残っているという病があることになるからです。もっと言えば、身心脱落や悟に自己がある場合もあると言っていることに等しいのです。
つまり、自己のあったままの身心脱落があり、自己のあったままの悟りがあることになります。
「無我、無心」と古くから説いてきた禅門の悟りの内容に、若き修行者は疑いを持つことになりかねないのです。
或いは修行者によっては、悟りは自己があってもよいものであり容易なことと受け取る可能性もあり、また、自己を忘ずることは目指さなくとも、このままでよいと腹を決めてしまう可能性もあります。
これは一挙に悟りのハードルを下げてしまうことになるので、正しい修行が混乱してしまうことと思われます。近年、悟ったと名乗りを挙げる者が増えている要因かもしれません。
正しい身心脱落に病とも言うべき瑕疵は一点もありません。もしあるとすれば、その身心脱落と思った体験は、曹洞宗開祖道元禅師の体験された身心脱落ではないということです。意識変容状態の体験を身心脱落の体験と思い込んだものと思います。意識変容状態の体験は禅門の修行に於いてはよくあることで、決して珍しくはありません。
この思い込みは悟りを求めて修行する方々に多いのです。宗祖道元禅師が「無所得無所悟」を説く所以でもあります。
最後にもう一度言います。
曹洞宗の身心脱落には「鑑覚の病」とか「悟の病」とかいうものはありません。そのようなものがある内は、決して身心脱落することはないのです。鑑覚の病の原因は自己の存在だからです。これを「病」と名付けること自体が間違いです。これは「病」というものではなく、まだ自己を忘却しきっていなかっただけのことです。勇み足なのです。
この状態を「病」と名付けたは誰の発案なのでしょうか。出典を知っている方がおられましたら教えてもらいたいと思っております。
また、現代の師家に身心脱落して後に、鑑覚の病とか悟の病だとかをなくすことが聖体長養(悟りの後の修行)であると説く方がおられますが、それは正しい修行を混乱させるものです。
自己が完全に脱落(忘却・消滅)してしまうことによって身心脱落するのですから、脱落後に忘却すべき自己も他己も存在していないのです。聖体長養は自己の忘却に関する修行ではないのです。
聖体長養(悟りの後の修行)はいわゆる宗教的人格者を培う修行です。
自分が生まれてから身心脱落するまでにすり込まれた利己的な名利的な癖を取り除く修行です。身に染み込んだ利己的且つ名利的癖は気が付きにくく取りにくいものです。これは身心脱落の修行よりも長くかかるもので一生涯の修行とされております。
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2018.3.23
普勧坐禅儀の中で説かれている「思量・非思量」について、曹洞宗の師家方は、あくまでも意図的に目的をもって行う思量について説いているものであって、自然に意図せずに出てきては滅していく思いや考えを対象としているのではないと考えています。坐禅の要術である非思量というものは、意図的に意志をもって思う考えることを否定しているのであって、自然に意図せずに出てくる思いや考えを否定しているわけではないとしているのです。そのような非思量の状態にあって只管打坐するのが正伝の坐禅であると考えているのです。
私は「思量・非思量」の言葉を文字通りに受け取って、私なりの解釈はいたしません。
思い考えが出てくることについて、自然に出てくるとか、こないとか思うのはその人の主観であって客観性はないからです。
思量というものは、自分が自然に出てきたと感じても、意図的と感じても、頭脳の中で思考の機能が動いたことに違いはないのです。頭脳の思考の機能が動いたことをもって思量とするのが修行として正しいと考えています。
以上のところで私と曹洞宗の師家方とは意見が大きく異なっているのです。当然、肝心の「非思量」についても意見が異なっていますので、今回は非思量についての考え方の違いについて特に説明していこうと考えています。
或る堂長師家曰く
「非思量を文字通りに受け取って、思ってはいけない、考えてはいけないなどと、思いというもの、考えというものを抑えつけてしまうのは、禅の修行としては、一番悪い状態であります。自然に流れ出てくる法そのものを抑えつけていこうとする考えを決して持ってはいけません。」
このように普勧坐禅儀の中で坐禅の要術として出てくる「非思量」を、思い、考えを抑え込むこと、出ないように抑圧することと受け取ると、それは間違ったとらえ方であると説いているのです。
「非思量」を字義通りに受け取ることは間違いであるとする師家は、修行とは関係のない一般の方々の日常の中に非思量という状態があることを全く知らないのです。
非思量という状態はどなたにでも日常的にある状態で、決して特別のことではないのです。只、一般の方々はそのことを指摘されなければ気が付かないだけのことなのです。
日常、自らの心の中を観察すると、どなたにも非思量の状態があることがわかるはずです。しかし、自らの心の中の非思量に気付かない人も居ることは確かです。
この「非思量に気付かない人」というのは、思量が途切れることなく連続して次から次へと出てくるように習慣づけてしまった方々で、その場合は非思量の状態を知ることは難しいと思われます。
自分が非思量の状態を知らないからといって、或いは非思量の状態の維持(相続)ができないからといって、開祖道元禅師が坐禅の要術として説き示している「非思量」を否定、或いは歪曲してしまうのは修行に対する愚直な忍耐力に欠けているからです。どうせ禅僧は修行の人生なのですから生涯をかけて非思量を愚直にやり抜く覚悟を持つべきと思います。
非思量を、自分が分からない、或いは出来ないからといって、その字義通りに受け取ることを否定して、自己流に解釈するのは問題だと考えます。
開祖道元禅師の説き示した非思量を自己流の解釈に流れることなく、愚直に堅固な忍耐力をもって非思量を字義通りにやっていく姿勢が修行者には必要なことです。禅の修行は利巧になってはいけないのです。人というものは利巧になると愚直に堅固な忍耐力をもって修行することが困難となる傾向があるのです。
非思量については第一章でかなり詳しく説明しましたが、その説明に不足の部分がありますので、この第ニ章で誤解のないように、もう少し詳しく説明致します。
非思量は思いや考えを抑えつけてしまうとか、出ないように心を抑圧することであると解釈することは間違っているのです。非思量というのは思いや考えを抑え込むことと思う師家は、非思量という状態を日常生活の中で、全く気付くことのない生活をしてきた為と思われます。非思量という状態を知っている師家が修行者や参禅者に丁寧に説明すれば、ほとんどの人は日常生活の中にそのような状態があることに気付くはずです。
非思量の状態が日常生活の中にあることに気付いた人は、非思量というのは思いや考えを抑え込んだり、出ないように心を抑圧することでないことを理解するはずです。非思量の状態とは思量の状態とは全く別の状態なのです。思量の状態と非思量の状態は、その状態を知って、切り替えることよって移行することができるのです。思量の状態を徐々に非思量の状態に変えていくのではないのです。思量の状態を一超直入如来地の如く、一挙に非思量の状態に切り替えるのです。そして、切り替えただけでは、すぐに元の思量の状態に戻ってしまいますので、修行として切り替えた非思量の状態を緊張感をもって相続(維持)するのです。
普段通りの思量の状態に戻りたがる脳を非思量の状態に維持することはかなりの忍耐力が必要なのです。修行の修行たる所以です。非思量は思いや考えを抑え込んだり止めたりすることではないのです。
非思量の状態に切り替えれば、そこは思量のない状態ですから、思量を抑え込む必要はないのです。しかし、これは修行として行うことですから、その非思量の状態を相続(維持)することが求められるのです。
この切り替えに於いては、思量の状態と非思量の状態の中間、移行の段階的状態というものはありません。いきなりの切り替えです。思量の状態の思いや考えを抑え込んで、徐々に思量の状態が薄く少なくなっていき、非思量の状態に移行していくのではないのです。もしそのように考えて非思量の修行をするようでしたら、それは間違であり、決して非思量の状態になることはありませんので注意が必要です。
非思量は出てくる思いや考えを抑え込んで至るのではなく、思量の状態から非思量の状態に切り替えて至るのです。しかし、その非思量の状態は気を緩めると、すぐに思量の状態に戻ってしまうので、気を緩めることなく緊張感を保って修行する必要があります。
なぜ、すぐに思量の状態に戻ってしまうのか、その理由は今の私には分かりません。
曹洞禅の修行は身心脱落に至るまでは、脳の状態を思量から非思量へ切り替え、非思量の状態に留まっている必要があるのです。その状態に留まるにはかなりの強い忍耐力が持続的に必要となりますので苦しい修行となります。覚悟が必要となるのです。
修行始めの頃は非思量の状態に切り替えてもすぐに思量の状態に戻ってしまうので、戻っていることに気が付いたらすぐに非思量の状態に戻すのです。この繰り返しを根気よく何万回も何十万回も数え切れないくらいやり続ける執着心が必要となります。
このようなことを、人によっては半年か一年以上、私の場合ですと二十年間やっていると、思量の状態から非思量の状態にその都度切り替えることは容易になってまいります。非思量の状態を容易に維持できる便宜的な良い方法は今のところ発見されていませんので、コツコツと地道にやっていくしかありません。
非思量の精神状態は一般的に誰にでもあることですから、それを教えてもらい、気付かせてもらうことが初心者にとって大切なことです。そして、非思量の状態が分かったら、日常の思量の状態を、修行としての非思量の状態に切り替えて、それをなるべく長い時間維持することを修行と心得て下さい。
非思量の状態は日常的に誰にでもあることですから、その状態に極く短い時間留まることは、それほど難しくはないのですが、それを修行として身心脱落につながるようにある程度の時間(5分、10分、15分、30分、60分・・・・と)維持するのは大変なことなのです。
「思わない考えない」ということだけで禅の修行になると思う方はほとんどいないのですが、「思う考える状態を維持すること」と、「思わない考えない状態を維持すること」と、どちらがどれほど難しいことか試しにやって見て下さい。曹洞禅の非思量の修行の難しさの一端が理解できると思います。
曹洞禅の非思量を只管(ひたすら)に行う修行は理解することが難しいことはないのですが、それを実践するのは極めて難しいものなのです。
非思量の状態を自らの日常の中から捜すこと、或いは気付かせてもらうこと、と堅固な忍耐力が修行の要なのです。道理は簡単です。
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2018.5.13
禅の修行に於いて時々「分別」とか「分別心」とか「無分別の分別」という言葉を耳にいたします。我々一般社会でも、誰々は分別があるとかないとか、思慮分別が足りる足りないなどという表現を用いたりします。
しかし、禅の修行に於ける分別と一般社会で用いられている分別は、その意味或いは用いられ方が異なっていますので注意が必要なのです。
禅の世界に於いて「分別」という言葉を耳にした時に、注意することなく一般的な意味と思って理解すると修行に於いて大きな差し障りが出てまいります。
また、師家本人も分別という言葉を気を付けないで、一般的な場合と修行の場合とを区別しきれずに両方を混在して使っていることが多いのが実状なのです。師家本人にその自覚がないことが多く、修行者にとっての正修行を誤らせる、或いは混乱させることになるので、迷惑なことなのです。
一般的に使われている「分別」は広辞苑によりますと「理性で物事の善悪、道理を区別してわきまえること。世間的(社会的)な経験、見識などから出る考え、判断。考えること。思案をめぐらすこと等々」という意味なのです。
一般的に人はそのような意味合いで理解しているものと思います。
しかし、禅の修行に於いては、一般的な場合と異なる意味で分別を用いています。
禅の修行に於ける「分別」は五つの感覚器官、つまり眼・耳・鼻・舌・皮膚(身)等から入ってくる情報(縁、森羅万象の存在・変化)に対してあれやこれやと考えや思いや感想や判断を動かさない状態を言います。この状態は放っておいてできるものではありません。縁に任せてもできるものではありません。
人には縁に対して、すぐに考えや思いを差し挟む(動かす)癖が習い性としてあるからです。ここに修行ということが必要となる所以があるのです。「分別」だけの状態でいる為です。
ただ、私達は入力情報に対して考えや思いや感想や判断を動かさなくとも、眼で見分けることができ、耳で聴き分けることもでき、鼻で嗅ぎ分けることもでき、舌で味をみ分け、味わうこともでき、皮膚(身)で感触をみ分け、知ることもできるのです。そして、思量を一切用いることもなく、誰でもが、一つも間違えることがないのです。これを禅門に於いては「分別」とか「分別心」とか「無分別の分別」というのです。この禅門に於ける「分別」は言葉や思量は一切必要がないのです。ここが重要なところなのです。
人に限らず動物も同様に物事(森羅万象の存在や変化)を分別する機能を生き延びる為の重要な天賦の機能の一つとして持っているのです。
言葉や考え、思い、感想、判断等が起きる前(動く前)の世界を「事実」といい「真実」というのです。誰でもが分別の時は思量のない世界、つまり事実に生き、真実に触れているのです。決して特別なことではなく誰でもの日常なのです。これは知る必要のない世界であることを、非思量の状態にあれば誰にでも分かることです。時間の長短にかかわらず、非思量の状態でありさえすれば分別は理解できることです。
禅門に於ける分別は、五感への入力情報(縁)に対して、自然に必然的に即座に感応して、そこに人の意志(意図)や考えや思いや感情や判断等が入る余地は全くないのです。
その余地がない理由は、分別は極めて早く、間髪を入れないのです。人の意志や考えや思いや感想や判断は分別が既に終了してから動くようになっているのです。動くスタートが遅れるのが原則なのです。分別より早く動くことはないのです。
この分別を司る機能を持っている心を「分別心」と言います。この分別心は佛心と言われます人の心の一つの機能なのです。
分別する機能を司る心を分別心と言い、この分別心が実際の縁(入力情報)に応じて思量することなく、間髪を入れずに分別するのです。この分別心は心の中に自己(我、自我、意識)の存在の有る無しとは無関係に機能するのです。
分別心は自己(我、自我、意識)の存在の有無には影響されない性質を持っているのです。ただ、この分別心の機能は考え、思い、想像の精神活動に阻害されることはあります。これはどなたにも日常的にあることであって、決して珍しいことではありません。
例えば、どなたでも経験のあることですが、大きな心配事などがあって考え込んだりしていると、見ていても見えず、聞いていても聞こえない時があったりします。何かを食べていても味が全く分からずに食べてしまったりする時もままあるものです。これは強い考えや思い、想像の精神活動が分別心の機能を阻害しているからなのです。
曹洞禅の非思量の修行に於いては、この分別心を阻害する性質を逆に非思量の状態の維持に利用しているのです。
分別心の機能に緊張感をもたせて、それを維持することによって考えや思いや想像の機能を抑え込むのが非思量の状態を維持する一つの工夫なのです。
ここに再度、はっきりと述べておきますが分別するのは私ではありません。分別がなされたことを知るのは私です。そこに私は、私のことであっても何の影響力もないのです。分別心の本来の機能だからです。
そして、分別することと、考え思うことは別々の機能で本来は無関係なのです。そして、それらは同時ということもありません。分別の方が常に先なのです。このことを踏まえて、次の「無分別の分別」という言葉の説明を読み進めて下さい。
禅門には「分別」「分別心」の他に「無分別の分別」という言葉があります。禅門に於いてはこのような表現をよく用いるのです。よく用いるのですが、このような表現についての分かり易く明確な説明に私はあったためしがありません。例えば、工夫無き工夫とか、自己なき自己とか、無思量の思量等々あります。
その一つとして、「無分別の分別」という表現があるのです。これは、分別心に基づいてなされた分別に一切の思量を動かさない(差し挟まない)状態を言います。五感に入ってくる縁(情報)に対して自然に必然的に分別が次から次へとなされていきますが、その分別のなされる状況に於いて非思量であることをもって無分別の分別と言うのです。
無分別の分別が人のもともとの分別の正しい姿なのです。
「無分別の分別」も単なる「分別」も同じことを言っているのですが、敢えて分けて言っているのです。その理由は私には分かりません。
「分別」或いは「無分別の分別」には、言葉の介在は不要であり、言葉を伴う必要性は一切ないのです。
この機能は人間以外の動物でも皆同じで、人間のみの特別な能力ということはありません。この分別の能力(機能)によって物事、状況を一瞬にして見分け、聞き分け、安全や危険を学習して生き延びているのです。この分別する能力がなければ、人間を含めた動物は生き延びていけないのです。この分別は我々が生きている証でもあるのです。
本来、分別に言葉は不要なのですが、気付いている人は全くないわけではないのですが少ないことは確かです。
「分別」「無分別の分別」は非思量の状態を僅かでも知っている人であれば、師家が分別について、その様子を丁寧に説明してあげさえすれば、自らの日常の中に「分別」「無分別の分別」の様子があることを自覚できるはずです。身心脱落していなくても「分別」「無分別の分別」は実感として理解できるはずのものです。
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2018.5.17
禅修行を進めていきますと必ず分別心とか分別という言葉が出てきます。しかし、曹洞禅の修行に於いて分別心とか分別について、分かり易く納得のできるような説明をされている師家には会ったことは一度もありません。
実際のところ、多くの若き修行僧や参禅者は、分別心とか分別についてしっかりと納得のいくような説明を受けていないのですが、文脈からなんとなく理解しているような気持になってしまっているのです。しかし、理解しているような気持ちになっただけで実際は分かっていないことが多いのです。分別心について問われれば、返答に窮することと思います。そして言うことでしょう。
禅は解釈することではない。説明はなじまないものだ。・・・と。
私も若い頃、分別心について随分と中途半端な間違った説明をされて、なんとなく分かったような気になって、それを信じたものです。そして、よく考えもせずに信じた為に、当然、正しい曹洞禅の修行から遠のき、回り道をしてしまうことになりました。今日まで、そのお師家様から分別心についての訂正の言葉は一度もありませんから、御本人は間違ったまま多くの若き修行僧や参禅者に何十年と説き続けているものと思います。その師家からの分別心や分別についての間違った説明を真に受けて修行している若き修行僧や参禅者はお気の毒のことです。それでも”知らぬが仏”という言葉もありますから少しは救われているかもしれません。
分別心について或る著名な堂長老師の説明した一文があります。この一文を抜粋して参考例として紹介致します。
この文がどのように間違っているのかを順次説明していきますので、若き修行僧や参禅者は、自らの修行の足しになるようでしたら足して下さい。
この堂長老師が分別心について間違って解釈してしまった理由は、曹洞宗の師家でありながら開祖道元禅師の説き示された坐禅の要術である非思量の実体験がないことに由来しているのです。分別の様子、分別の生滅(分別が生じたり滅したりすること)の様子は非思量の状態にあると一目瞭然のことであり、特別に頭を悩ませるほど難しいことではないのですが・・・。
また、若き修行僧や参禅者の大方の人達は、物事の分別は考え・思い・つぶやき・判断・感想が一体としてあるように思い込んでいるので、思量によって分別しているものと思い込んでいるのです。
しかし、実際によく観察してみますと、考えや思いやつぶやきや判断や感想がなくても自然に分別していて、物事の存在がよく分かっているということに気が付くはずです。そして、物事の分別が先にあって、僅かに遅れて思い・考え・つぶやき・判断・感想が動くことも分かるはずです。
普段、非思量の状態にある人は、一切の言葉が動くことなく物事の存在・様子がよく分かっているのです。心の中に言葉が生ぜずとも見た通り、聞いた通りによく分かっているのです。
よく分かっているというこの機能が分別心の機能なのです。特別なことではありません。どなたにでもある機能なのです。
一般の大人は、分別と同時に思い・考え・つぶやき・判断・感想の言葉が生じると思っていますが、分別と言葉が生じることが同時ということはありません。分別が先で言葉が後に生じるのが実際です。このことは自らが非思量の状態でありさえすれ、容易に分かることです。その非思量の状態が十秒でも二十秒でも、自分でコントロールできる時間が僅かでもあればよいのです。
高名な堂長老師が「分別心をなくす」という小題で、本当に見る(正見)とはどういうことかを次のように説明しております。
『今、ここに綺麗な花が活けてあるとします。最初この花を見た時、ハット見た時は、おそらく、綺麗とか、自分の好み合った花だとか、何の花だというような意識はなく、ただ見れるはずです。これが正見ーいちばん正しく見ているということです』と・・・。
赤字の部分に「〜というような意識」と書かれていますが、これは正しくは”意識”ではなく、”言葉を用いた考え・思い・つぶやき・判断・感想”とすべきです。
「〜というような意識」という言い回しをするは、意識の有り様と思量の生滅の実際が分かっていないからなのです。意識の機能と思量の機能の有り様は全く異なるのですが、その区別が見えていない故の間違いなのです。
次に「ただ見れるはず」といわれていますが、非思量の状態を僅かでもコントロールできるのであれば、ただ見ることはできます。コントロールできなければ、ただ見ることはできないのです。非思量の状態をコントロールできていない一般の修行僧や参禅者の場合には、ただ見ることは難しいことと思います。
ここは正しくは思量の動く前ですから”ただ見ているはず”とすべきです。
このただ見ている状態は一瞬で、僅かな時間にすぎないので非思量の状態をつかんでいない修行僧や参禅者は気付きにくいのです。
ただ見れるとか、ただ見れないとかということではなく、物を目にした時の考えや思いの動く前の分別の様子が正見なのです。
また、「ただ見ている」の「ただ」というのは、考え思いが起きない状態をもって「ただ」といっているのであって、「ただ」という特別な状態があるわけではないのです。このことも間違いのないように受け取って下さい。
次の文に移ります。
『ところが次に綺麗だとか、あるいは私はあまり好きではないという意識が起こります。その綺麗、汚いという意識は、花そのものに全く関係ありませんので、好きだ嫌いだ、あるいは綺麗、汚いということは、私の心の中にそういうものを分別する意識が起きたわけです。私の中にある物を分別するという分別心をなくさない限りは、対象になっている花を、花そのものと見ることはできません。』
以上です。
ここに「〜という意識」という言い回しが三か所も出てきますが、ここでも意識と思量の区別ができていない様子が見受けられます。ここも「〜という意識」という言い回しは、意識ではなく、言葉を用いた考え・思い・つぶやき・判断・感想とすべきです。これが正確で正しい言い回しなのです。
意識というのは心の中に常に存在していて、時によって生じ、時によって滅するというようなことはありません。これは悟った(身心脱落した)人以外は誰でもそうです。
意識(自己)が消滅(忘却)する時が身心脱落(解脱)の時で、これは最初で最後の一回限りの体験なのです。
また、身心脱落(解脱)をして意識(自己)が消滅(忘却)してしまうと、再び意識(自己)が戻ってくるようなことはありません。意識(自己)があるということは凡人の証しであり解脱した聖人との違いなのです。
次に「そういうものを分別する意識が起きた」と出てきますが、物事を分別するのは意識でもなく私でもないのです。それは非思量の状態で分別の生滅の様子を観察すると、分別の機能と意識の機能は別で、相互に関係がないことが分かるはずです。
分別は分別心の機能で、我々の佛心といわれる様々な心の機能の一つなのです。
分別は私達の意志には関係なく、五感への入力情報(縁)に自然に自動的に間髪を入れない早さで即感応するのです。人の思量の動く前に既に分別は分別心によって正確になされるのです。
ここは「分別する意識が起きた」と言うよりも、「なされた分別に対して考えや思いやつぶやきが起きた」と言う方が正確です。分別する意識が起きたわけではなく、分別に伴って、その分別に対して言葉による考えや思いやつぶやきを用いたわけです。つまり思量を動かしたのです。
人は分別に対して、もともと考えや思いやつぶやきを起こさなくても日常生活はできるものなのです。
人は分別心によってなされた分別に対して、考えや思いやつぶやきを動かす癖が習い性として身に着いてしまっているということなのです。この癖を取り去るのが非思量を推し進める修行なのです。
禅の修行道場には「鐘が鳴れば法堂(本堂)、ほうが鳴れば斎堂(食堂)」という言葉があります。若き修行僧が禅寺に修行に入った時に最初に言われる言葉です。思量を用いずに、本来の分別、無分別の分別だけで修行生活をするようにと示された言葉なのです。鐘や太鼓の鳴らし物の音を耳にし、それが何の合図であるか聞き分けて動きなさいという意味です。その音を聞き分ける能力を分別心というのです。分別の力があるので、考えや思いを一々起こす必要がなく、非思量の状態のまま修行生活をしていくようにとの示しなのです。
次に「物を分別する分別心をなくさない限りは正見はない」という意味のことを述べていますが、人には無分別の分別があります。この場合、無分別というのは思量を伴わないという意味です。ですから思量の伴わない分別という意味になります。これは非思量の状態に於ける分別のことです。人の思量の動く前のもともとの分別する能力のことです。この物を分別する機能を司る分別心は天賦のものですから、なくすことはできません。
動物は見分けたり聞き分けたり嗅ぎ分けたり等々の分別する機能を失っては生きていくことができません。人も同様に日常生活はもとより修行生活も送ることはできないのです。
このような分別心をなくさないといけないと説くということは、意識(自己)や思量、非思量、分別、分別心の実際が分かっていない(見えていない)と同時にそれぞれの有り様の違いも道理として理解できていないということなのです。このような師家に禅修行の指導を受ける若き修行僧や参禅者は、開祖道元禅師の説かれる正しい非思量の修行からはやればやるほど空回りをし遠ざかるばかりで気の毒に思います。
開祖道元禅師の著されました坐禅の指導書である普勧坐禅儀に「分別心を停止せよ」とか「分別を息めよ」とか「分別心をなくせ」というような調心の注意は一つもありません。普勧坐禅儀の中には分別や分別心についての記述は一切ないのです。分別や分別心は思量・非思量には無関係な人の心の機能だからです。
分別や分別心は思量があってもなくても、意識(自己)があってもなくても、身心脱落(悟り・解脱)していてもしていなくても、生きる為に自律して休むことなく機能しているものだからです。
ここでもう一度、禅の修行に於ける分別と分別心について確認をしておきます。
音を聞く力(能力・機能)を聴力といい、分別心は音を聞く能力ではなく、その音が何の音なのか、何を意味しているのか、何の為の音なのかを聞き分ける能力(機能)をいうのです。
また、物を見る力は視力であって、それは分別しているわけではなく、物が目に映っているだけなのです。その物がどのようなものであるか、何を意味しているのか、危険であるか危険でないのか等々を一瞬にして見分ける能力を分別心といい、その行為を分別というのです。
この分別心は目に映るもの全てに対して一念も動かさずに一瞬にして一度になされるのです。私が入る隙間はありません。
先にも書きましたが、禅の修行道場の生活の規範として入門最初に注意されるのが、言葉で一々行動を指示することはしませんので、全ては鳴らし物に従って動きなさいということです。これを「鐘が鳴れば法堂、ほうが鳴れば斎堂」という言葉で表すのです。つまり、鐘が鳴ったら直ちに威儀を整えて法堂(本堂)へ参集しなさい。ほうという鳴らし物が鳴ったらそれは食事の合図ですから直ちに斎堂(食堂)に集まりなさいということです。鳴らし物の音に従って考え思うことなく直ちに行動しなさいということなのです。これが曹洞禅の非思量を推し進める修行の基本的在り方だからです。これは分別心がそれぞれの音を聞き分けることができるからなのです。あなたが聞き分けるのではないのです。
分別心や分別は思量ではありませんから止めることも捨てることも必要がないのです。
禅の修行道場は基本的には無言で行動し、分別心のみで修行生活をするように指導するのです。また、分別心のみで修行生活ができるように、その規範ができているのです。この規範を清規といいます。
曹洞禅の修行は分別心による分別があるからこそできるのです。そこに思量の出てくる隙間がないのが正しい非思量なのです。
「無分別の分別」は「非思量に於ける分別」と言い換えることもできます。
「花そのものと見ることはできない」ということですが、非思量の状態であれば、花そのものと見ていることなのです。花そのものと見る特別な心理状態や、深く修行した禅僧のみに身に着いた優れた見方があるわけではないのです。これは難しいことでありません。非思量でありさえすればよいことです。
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2018.6.25
盤珪永琢禅師(1622〜1693)が唱えた禅で、これを不生禅といいます。
禅門に籍を置く禅僧に限らず、禅に深く関心を寄せて坐禅をなさるような方ならば、盤珪永琢禅師の名を知らない方はいないと思います。そして、それに伴い不生禅という言葉もよくご存知のことと思います。
盤珪永琢禅師は播磨の揖西郡浜田村の儒医の三男に生まれ、師匠(僧)にもつかず、独りで禅の修行を工夫して悟りを開いた臨済系の禅僧です。禅師は公案を一切用いないで、不生ですべては調うという禅を唱えたのです。修行は勿論、悟りも一切不生でありさえすれば調うと説くのです。この禅を一般に「不生禅」と言います。
盤珪禅師の修行を指導した師僧、或いは盤珪禅師が師事した禅僧はおられず、盤珪禅師は独りで修行を模索して独りで悟りを開かれた異質の禅僧なのです。
盤珪禅師は不生禅で一念不生、つまり「一念も生じない」修行を説き、「一念も生じない」状態をもってすべてが調うとする悟りを説いているのです。
森羅万象にもとづく諸縁に対して、一切の念を動かさず(不生)、五感つまり視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚の見分ける分別の能力、聞き分ける分別心(無分別の分別)の働きに任せる禅修行の在り方、聖体長養の在り方を不生禅といいます。
不生禅に於いては悟るということは問題にせず、「30日間不生で居ますれば、それ以降何が起きようといやでも不生で居ねばならぬようになり、見亊不生で居るようになるものです」と説くのです。
これは実質、正念相続であり、非思量の相続なのです。これを不生念の禅と言っても、不生思量の禅と言っても間違いではないのです。不生の次にくる言葉が象徴的に略されているからです。不生の次にくる言葉は盤珪禅師の語録からすると念とか念慮とか、曹洞禅の道元禅師が坐禅の要術として説く「思量、非思量」の思量です。
ここで盤珪禅師の語録を読んだことのない方の為に禅師の語録の中から不生禅とはどういう禅なのかを示す最も典型的な文を紹介致します。
禅籍の原文の一読は百の解釈文(提唱文)を読むに如かずなのです。
私の経験からすると師家や禅籍専門の研究者の解釈や訳書(文)が必ずしも正しいとは限らないからです。
禅を正しく修行したかったらなるべく原文のついた読み下し文か、原文と対比した訳注文を読むとよいと思います。有名な師家ほど原文を尊重しない意訳が多い傾向にあります。
祖師方の法語・語録は何故そのように書き、表現したかの意を尊重して、なるべく原文に忠実に訳していくべきものと考えます。意味があってそのような言葉や表現を用い、そのような言い回しをしたのですから、現代師家の自由奔放な意訳は祖師に対して無礼であると感じます。師家本人は自分自身の心境が自由無礙と言いたいところなのでしょう。
[盤珪禅師語録抜粋 @]
「生まれ付いたる心が不生不滅の佛心也。其の証拠には、色を見る時に百品を一度に見分け、其の内に鳥の声、鐘の音、一切の物音、一念も動かさずして悉く聞き分ける也。惣じて朝より暮れに至るまで、一切の事、一念不生にて働けどもそれを知らず皆分別料簡(道理を思い考えわけること)にて働くと思う。大いなる錯りなり。不生の根源を知らず、只分別料簡をもって、此の道を得、成佛すると思う。わずかに佛を求め、道を得んと思えば直下に不生にそむき、生まれ付にたがう也。只この心は明なとも暗い(不明という意)ともいはず生まれ付のまま也。それを語らんと思ふは第二に落ちたる事也。本來佛なれば、今初めて佛になるにあらず、内には兎の毛ほども迷と云ふ物なし。本來内より起こるものなしといふ事、たしかに知るべし。
たしかに知るべし、手を握り、駈け歩くも皆不生也。少しにても良き者に成りたいと思ひ、少しでも急ぎ求むる心あれば、早、不生にそむく也。」
[盤珪禅師語録抜粋 A]
「皆の衆がこちらを向いて御座るうちに、後ろで鳴く雀の声を烏の声とも聞き違はず、又鐘の音を太鼓の音とも聞きたがはず、男の声を女の声とも聞き違はず、大人の声を子供の声とも聞きたがはず、皆それぞれの声を一つも違はず、明らかに通じ別れて聞きそこなはず聞かっしゃるは霊明の徳用といふものでござるわいの。我は聞こうと思う念を生じていた故に、聞いたといふ人がござらばそれは妄語の人でござる。身共がこう云ふ事を、こちらを向いて盤珪は如何ようのことを云はるると皆耳を傾けて一心に聞こうとしてこそはござれ、後ろにそれぞれの声のするを聞こうと思うている人は一人もござれぬ、然るに時ならずひょっひょっとそれぞれの声が通じ、別れて聞き違はず、聞ゆるは不生の佛心で聞くというものでござる。
我は前かたから、それぞれの声がせば、聞かうと思う念を生じて居た故に聞いたといふ人は一人もこの座にはござらぬ。それなれば不生の佛心で聞くといふものでござる。」
以上が盤珪禅師の語録の原文です。この語録は盤珪禅師が一般の民衆に説いているものなので、禅の専門語はほとんど用いない平易な文で分かり易いのです。皆様も読んでみて分かったと思いますが、不生の佛心とか不生禅というのは、人の分別心、分別する能力、分別する精神行為に着目をして禅の修行の仕方と聖体長養の在り方を平易に説いたものです。
曹洞宗開祖道元禅師が禅の修行者である宗教的専門家集団を対象にして普勧坐禅儀(坐禅の手引書)を著したのとは大きく異なるのです。
道元禅師は普勧坐禅儀の中で思量・非思量に着目をして、坐禅の仕方(調身・調息・調心)を難しい専門用語を用いて説いたのですが、盤珪禅師は公案を一切用いずに、一般民衆の日常生活に於ける分別心、分別する能力、分別する精神行為に着目をして平易に説いている点が特異なのです。そして、不生の佛心について日常生活の中にそれがあることを自覚させていくのです。この不生の佛心というのは禅の修行でよく説かれる無分別の分別のことです。盤珪禅師は一般の民衆に対して如何にも禅問答的な無分別の分別という難解な表現を用いずに、不生の佛心という言葉を用いて禅の修行を平易に身近に説いていったのです。
語録を見てお分かりのように、この不生の佛心というのは、分別心、分別する能力、分別する精神行為のことを指しているのですが、そのことを直接言わずに誰でもが日常的に思い当たる出来事を介して理解させているのです。例えば、鳥の声とか鐘の音などです。
不生禅では、分別心(無分別の分別)に任せて(従って)日々を送り、その分別したことに対して念慮(思量)を一切用いず動かさずに生活をしなさい、それが禅の修行そのものであり、それで禅の修行も日常生活(聖体長養)も全てが調い、心も安らかにあることができると説き示しています。
「不生の佛心で悉く聞き分けることができる」といっておりますが、この不生というのは念を動かさない状態、念の生じない状態のことです。この場合の佛心というのは分別心、分別する能力のことです。この分別については私の「分別」についての項で詳しく説明してありますので、理解できないようであれば、その項を参照下さい。
分別・分別心について、従来の師家方の説明や用語の用い方は私の理解とは大きく異なっていますので注意して下さい。従来の師家方は一般的に社会で用い理解されている分別・分別心と禅の修行で用いられ理解されている分別・分別心・無分別の分別を明確に区別せず混在して使用しています。一つ一つ明確に理解していないのです。
禅で用いられている分別・分別心は一般社会で用いられている分別・分別心とは異なりますので、一般社会の常識で理解すると誤りますので注意の要るところです。
一般社会で用いられている分別・分別心は思量のカテゴリーの中に入るものです。そして、従来より曹洞・臨済の師家方も分別・分別心を思量として捉えているのです。盤珪禅師のように不生の佛心としては捉えていないのです。
私の申し上げている分別・分別心は盤珪禅師の不生の佛心のことであり、天桂伝尊禅師(江戸期の曹洞宗の高僧。88才没。慶安5年〜享保20年)の説いている「本來無造作、無分別にしてよく造作、分別す、是れ佛法の定まれる正思惟也。わずかも造作、妄想せば、みずから苦しさをこしらへるものなり。」の正思惟のことです。
天桂伝尊禅師の正思惟を盤珪禅師は好んで平易な口語体を用い、「暑いことも、寒いことも、知ろうと思う念を生ぜずに居て、よう知り分け、見分けますわい。」といっておりますが、これを正思惟というのです。
正思惟は本来の分別心、分別する能力、分別する精神行為のことであり、無分別の分別のことであります。
臨済禅で説くところの正念のことです。
非思量の思量のことです。この場合の思量は分別心のことであり正念のことなのです。それは思量の上の「非思量の」という言葉で「思量」の意味が限定されているので分別心ということが分かるのです。この場合の思量を言語を用いる思量と受け取ると「非思量の思量」という表現を用いた祖師の言わんとする意味を間違うことになります。注意と力量の要るところです。
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2018.9.14
一般的に経行は、坐る坐禅を二ちゅう(一ちゅうは40分)、三ちゅうと続ける時に、脚の痛みをほぐし、しびれを取る為と緊張し続けた気持ちの気分転換を図ることを兼ねて行うことが多いのです。経行は修行の一環として正身端坐の坐禅と同等の位置付けにはされていないのです。補助的な禅の修行として行っているのです。経行をこのような位置付けとすることは間違っています。経行は経行として独立させて修行すべき価値があるのです。
正身端坐の坐る坐禅を一ちゅう(40分)するならば、経行を10分か20分は行うべきです。そうすれば、非思量の状態の相続を、日常生活の動いている中でもやっていけるようになるので修行の効果は大きいのです。
正身端坐の坐る坐禅だけを坐禅の王道と位置付けてやってきていると、坐る時以外の坐禅の工夫が身につかないので動の禅は難しくなるのです。禅の修行は祖師方の修行を見ましても坐る坐禅中だけでなく、坐っている時以外にも行っており、悟る時は、その多くは日常生活の動いている時が多いのです。それは祖師方が日常の起居動作に於いても非思量の状態の相続を行っていることを意味しているのです。
坐る時以外の様々な動作の中の非思量の状態の相続(維持)は経行で習熟していくのがよいのです。これは私の経験則です。
禅の修行には静かに坐って行なう坐禅と、立った状態で行なう立禅と、椅子様のものに坐って行なう椅子禅(腰掛け禅)と、歩いて行なう歩行禅(曹洞宗の経行)と、小走りをして行なう小走り禅(臨済宗の経行)と、日常の宗教的威儀・作法や作務や生活等の動作の中で行なう動の坐禅があります。「動の坐禅」と言うのは矛盾した言葉ですが、禅の修行は身体が行なうわけではなく、心の中で非思量の工夫(修行)をすることをもって坐禅というのです。ですから動いていても動く坐禅、佇んでいても立っている坐禅、歩いていても非思量を工夫・維持しているならば歩く坐禅、小走りしていても、その中で非思量の工夫をし、それを相続(維持)しているならば小走りの禅、椅子様のものに坐って非思量の相続の工夫をしているならば腰掛けて行なう坐禅と言うことになります。要は心の中で非思量を相続している、或いはその工夫に専念しているならば、身体が坐っているいないにかかわらず坐禅といい坐禅修行というのです。
宗祖道元禅師、その著「普勧坐禅儀」の中で示されているように「豈に坐臥に拘らんや」というのは、このことを指しているのです。坐禅というのは「坐臥にかかわらないのだ」と説いているのです。
経行はその歩行の速さに違いがあります。
曹洞宗の経行は極めてゆっくりと半歩進み、そして佇み、これを繰り返していくのです。
臨済宗の経行は速く小走りで歩く経行です。
私の示しました経行は曹洞宗と臨済宗の中間に位置します。普通にゆっくり歩く経行なのです。
曹洞禅の経行は立禅に近い歩行禅です。立禅と歩行禅の両方の良い点を兼ね備えた経行なのです。
坐った姿勢の坐禅から立った姿勢の坐禅、立った姿勢の坐禅から少しゆっくり動く経行へと徐々に移行し、動きつつ行なう非思量に慣れていくのがやり易いということから生まれ、工夫されたのが曹洞宗の経行なのです。
坐った姿勢の不動の坐禅からいきなり普通にゆっくり歩く歩行禅へと移行するのは難しいのです。私の説きました普通にゆっくり歩く経行はよほどしっかりと非思量ができるようになっていなければ、かなり難しいのです。やってみてば分かります。まず出来ないと思います。曹洞禅の経行の基本通り、最初は極めてゆっくり歩く、一息半歩の経行を行なうほうがやり易いのです。曹洞禅の経行をやっていても、それからいきなり日常の生活の動きの中で非思量の工夫をしようとしても、その相続はまずできないと考えたほうがよいのです。
その前に普通にゆっくり歩く経行に習熟してから日常生活の動きの中で非思量の工夫を行なったほうが容易であり確実性があります。
経行を行なうのは、立ち、歩く中で非思量の状態が相続できるようになるのが目的です。普通にゆっくり歩く経行に習熟してくれば、日常生活の中でも非思量の状態の相続が可能となり、それが身心脱落へと繋がっていくのです。日常生活の起居動作の中での非思量の状態の相続は身心脱落にとって極めて大切なことなのです。
静中の坐禅ばかりが禅の修行ではないのです。動中の坐禅も同じように禅の修行として大切であることを理解して実践して下さることを要望致します。
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2018.9.15
曹洞禅の経行(歩行禅)は立禅の特徴と歩行禅の特徴を兼ね備えたものです。曹洞禅の経行は一息半歩と言って、佇んでいると思うとゆっくり一歩を踏み出すのです。一歩踏み出すと一呼吸佇んでいるのです。一呼吸の間に半歩、歩くのです。いわゆる一息半歩の経行なのです。ゆっくりとした一呼吸の間に半歩動いて佇むのです。これを繰り返すのです。立禅と歩行禅の良い効果を期待したものなのです。坐った静かな禅から日常生活の動きの動の禅に移行する為の中間的な禅なのです。
立禅は不動の坐っている坐禅から立って動く準備段階にあたる禅の修行なのです。立っているのですから不安定であり視野がかなり広くなり、その分、眼から入ってくる縁が一気に増えるのです。大地にどっしりと坐っている不動の坐禅とは大きく異なって動の坐禅へ移行する為の心構えを作る為の禅なのです。動の意味を持った静かに立った禅であり、次の本格的な歩く坐禅である歩行禅への移行が容易なのです。
立禅から始めて、次に普通にゆっくり歩く歩行禅へ移行してもよいのですが、その前段階として、佇んでそして一歩進める、佇んでそして一歩を進めるという曹洞禅の経行があるのです。
歩く中でしっかりと非思量の状態に注意して動くのです。これによって歩く中での非思量の相続の感覚を身に着けることができるのです。これがある程度できるようになったら、普通にゆっくり歩く経行に移行していくと日常生活の動作の中で非思量の相続ができるようになるのです。
坐っている静の禅修行からいきなり日常生活の動の中で禅の修行をするのは私の経験上不可能です。
私は普通のゆったり歩く経行をするようになってから、日常生活の動きの中で非思量の状態の相続が可能になってきたのです。坐っている時の非思量の状態の相続はある程度できるようになっても、日常生活の動きの中での非思量の状態の相続は何千回何万回と挑戦しましたが、いつも徒労に帰しました。最初は決意してやり始めるのですが、知らぬ間に非思量はどこかにいってしまっているのです。いつもそうでした。
私に限らず大方の修行者は皆、そうだと思います。
これは静の坐禅から、極めてゆっくりとした動いているかいないかのような経行から、いきなり日常生活の緩急雑多な動きの中で動の工夫をするからなのです。赤児が這って動いていたのに、つかまり歩きもせずにいきなり二本脚で立って動くようなもので最初から無理があるのです。
私の説明した普通にゆっくり歩く経行に習熟すると動の禅はある程度できるようになっていくのです。これは私の経験則です。経行は動の禅のコツをつかむ為に必要なのです。
曹洞禅の極めてゆっくりとした、動いているか動いていないかくらいの経行から、いきなり日常生活の動の工夫をするのは、平凡な修行者にとってはハードルが高すぎるのです。ハードルが高すぎるので挫折することが多いのは当然のことなのです。
禅の修行は非日常の世界であり、反自然的精神活動であるのでもともと難しいものです。禅の修行は難しいのですから、やはり一般的な物事の手順のように軽より重へ、易より難へ、粗から密へと進むのが、宗教的天才でもない限り無理がないと思います。私達平凡な修行者にとっては、一気呵成にやり遂げてしまうほどの能力も精神力も忍耐力もないのですから、できることなら修行は軽より重へ、易より難へ、粗から密へ徐々に徐々に進んでいくのが無難なのです。
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2018.9.15
「無分別の分別(本来の分別)」 (無分別の分別機能、無分別における分別する能力)
「本来無造作、無別にしてよく造作、分別す。これ佛法の定まれる正思惟也。」
という言葉があります。
正思惟を私達が日常思い考えるように自覚することはできません。正思惟は非思量の状態における思量のことです。
曹洞禅の修行をして、ある程度、非思量の状態の相続ができるようにならないと、これらの言葉が何のことを言っているのか具体的に分からないと思います。「無分別の分別」については既に私が別の処で詳しく書いておきましたので、そこを読んでみて下さい。かなり詳しく一般の方向けに書きましたので、ある程度の理解はできるものと思います。もし全く理解できないようでしたら、直ちに、それを読むことを止め、理解しようと思量を巡らすことを止めて非思量の修行に更に精進する必要があります。実際に精進していけば、必ず理解できる時節が参りますので、心配はいりませんそれまでやれるだけやって下さい。
曹洞禅の修行は、是の様に祖師方の法語が理解できない処に突き当ったら、そこで法語を読み進めることは止めて、非思量の状態の相続に更に精進する必要があります。その法語のその箇所が分かるようになるまで非思量の状態に精進するのです。そして、その内、その箇所が理解、納得できるようになる時節が来るのです。この繰り返しで修行を深めていくのです。法語、祖録で分からない処があったら、そこで法語を読み進めることは止めて更に非思量の修行に励むことが大切なのです。
「無分別の分別」は曹洞宗的に言い表しますと「非思量の分別」或いは「非思量における分別」ということになります。
言葉、表現は異なっておりますが内容的に意味することは一緒なのです。
多くの人は言葉や表現方法にとらわれる傾向がありますが具体的な内容は一緒なのですから言葉、表現の違いは気にしないことです。
「無分別の分別」の働きについて私達は普段、当然のこととして注意しておりませんが、どなたも、日常的に「無分別の分別」の機能を基本(中心)において、そこをはずれることなく生活をしているのです。この機能は悟っていようと否かろと、自己の主体性に関係なく、自然に必然的になされているのです。このことは非思量の相続がある程度できる人は気付いておりますが、一般のほとんどの人は、生まれた時から当たり前のこととして気に留めていないのです。この機能は決して特別なことでもなく、禅的なことでもないのですから特別視してはなりません。
ただ、一般の人は「無分別の分別」を知りませんから、以上のことは自分が、或いは自己の認識が行なっていると思っているのです。
非思量の相続ができれば、或いは臨済宗で言うところの「正念相続」ができれば、「無分別の分別」は誰でも納得のいくことなのです。臨済宗的に「正念の分別」と言うこともできるのです。
「本来無造作、無分別にして、よく造作、分別す。是れ佛法の定まれる正思惟也。」と述べた江戸時代の禅師がおられますが、このことも同様のことを言い表しているのです。
「無造作、無分別」も非思量や正念に言い換えることもできるのです。
「本来非思量にしてよく造作、分別す。是れ佛法の定まれる正思惟也。」
「本来正念にしてよく造作、分別す。是れ佛法の定まれる正思惟也。」
これらは「無分別の分別」とその具体的に意味するところは同じなのです。
法語や語録の理解は言葉や表現にとらわれることなく、その言葉や表現の具体的実体験(様子)を思い起こす必要があります。自らの禅修行における具体的実際を思い起こして理解し納得すべきなのです。それができないようでしたら更に厳しく非思量(正念)の状態の相続をしなくてはならないとの自覚を持って下さい。
禅の道は言葉で理解し納得しようと努力するのではなく、修行の実際で理解し納得するように精進するのが正しいあり方なのです。
このことの理解が不足しているのが現代禅界の実状なのです。誠に残念です。外国の禅の修行を行なう人達から、日本の禅は坐禅レス(坐禅をしない)禅と揶揄される所以でもあります。
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2018.9.17
心の何が身心脱落(大悟、解脱)を覚知するのか?
身心脱落をすると日常的に覚知の主体であった心の中の自己(意識)が消滅してしまっているのですから、このような疑問が起きるのは当然のことです。
この疑問に答えているような法語や語録はないのではないかと思います。
昭和に活躍された今は亡き高名な曹洞宗の老師が、その著書で書かれているように、認識が身心脱落(大悟、解脱)を覚知するのでしょうか?
このことは禅門に身を置いて修行する者にとって知っておくべき重要な疑問なのです。
今、ここに「認識」という言葉が出てきましたから、「認識」という言葉の一般的な定義を紹介しておきます。ある国語辞典によりますと、「認識」とは「物事を覚知識別し、判断、記憶する意識の作用(働き)」ということになっております。
そして、一般的に認識には自己と思考が伴うのです。
無分別の分別と似ていますが、それには、一般の人から見ますと自己も思考も伴っているように見えますが、本質的には自己も思考も伴うことはないのです。無分別の分別と自己や思考は全く別の機能のものだからです。
先に挙げました老師(師家)は自らの著書の中で「その認識の存在があるために(老師は実際に“パン”と打掌して)こういうことを自覚する力もあるんです。けれども認識というものは何処までいっても役に立たんもので錯覚に錯覚を重ねていよいよ今の事実が分からんようになるのです。」と認識について説明しております。
この文から判断しますと、この老師は無分別の分別が全く分からないのか、分かったとしていても認識と無分別の分別(天賦の分別心、本来の分別)との区別が明確についていないように思われます。
掌(手)を打って、掌を打ったということが分かるのは、認識の主体である意識の作用(働き)によるのではなく、本来の分別心(無分別の分別、不生の佛心)によるものです。決して認識する力によって分かるのではないのです。掌を打ったことが分かるのは、自己の意識や思考とは無関係に分かるのです。覚知するのです。
江戸時代の高僧 盤桂禅師がこの様子を霊妙な佛心によるものと言った理由であります。
私達は認識や思考、想像の機能が動く前に、瞬時に覚知し識別して言葉を一切用いずに分かるのです。これを盤桂禅師は「不生の佛心」によるものと説きました。不生の佛心と言っても、その内容は無分別の分別(本来の分別)なのです。
これは人が森羅万象を生き抜いていくために必要不可欠な天賦の能力(機能)なのです。この能力は人間だけに限らず動物も生まれた時から天賦のものとして持っている能力(機能)なのです。これを禅門では一般社会で用いられている「分別」とは分けて無分別の分別(本来の分別)と言うのです。
無分別の分別(本来の分別)は言葉や思考が一切必要がないのです。「無分別の分別」は言葉が生じる前、思い考えが動く前に縁に応じて一瞬にして機能するのです。縁はそのすべてが一瞬一瞬だから、それに応ずる「無分別の分別」も一瞬にして応じないと役に立たないのです。
「無分別の分別」の機能する世界は言葉や思考や自己や意識の全く介入できない世界なのです。「無分別の分別」によって覚知し識別したことをもっとしっかり確認しようとしたり、この覚知、識別をもっと確実なものとしようとしても、それはできないことなのです。いくらそれを望んでも、それはできないことですので、ファジーなことと受け止めることです。それで実際は充分、ことが足りるのですから心配はいりません。
「無分別の分別」の状態にあることを禅門では事実に生きていると言い、「無分別の分別」の状態(世界、環境、五感の触れることすべて)を事実というのです。
非思量の状態において五感(視覚・臭覚・聴覚・味覚・触覚)に触れるすべての縁を事実とか真実というのです。思量の介在しない自己が生きている森羅万象がすべて事実であって、事実という特別の状況があるわけではないのです。それが分かっても分らなくても生き、生活していくことに何ら支障はありませんので、事実、事実と求めていく必要はありません。事実を求めるよりも非思量の状態を相続することに精進することです。事実は非思量の修行に後からついてきますので放っておいてよいのです。
禅の修行としてまず求めることは非思量の様子を知ることです。次に求め、なすべきことは非思量の状態を相続することです。曹洞宗の非思量における分別が「無分別の分別」そのものなのですから、常に非思量であれば、すべては整っていくのです。
盤桂禅師が「不生の佛心」でおれば、すべては整うと言っております。同じことを言っているのです。
先に挙げました老師は認識という言葉をよく用いており、認識をかなり重要視しております。その割に認識の理解や分析が充分でないところが見受けられ残念です。認識の理解がしっかりと出来ていないので無分別の分別(本来の分別)とか盤桂禅師の説く不生の佛心のことも理解が不足していると思います。
このことは曹洞宗開祖道元禅師の説く坐禅の要術である非思量の体験がないということを意味しているのです。坐禅の要術である非思量の相続(維持)が少しでもできていれば、無分別の分別も不生の佛心も、その理解は容易なのです。
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2018.9.21
このことについて述べる前に、同じ土俵で考え、理解ができるように「認識」という難解な哲学的・心理学的用語の大まかな定義をしておかなくてはなりません。
なぜかというと、言葉(用語)というのは、人によって、立場によって、経験によって、その理解が異なることが多いからです。そして、その言葉の共通の解釈のもとで話を進めていかなくては、有意義な理解に混乱が生じることとなるからです。
ここで「認識」についての大まかな定義を紹介致します。
手短にある辞典では「認識」というのは「物事を覚知し、識別し、判断し、記憶する意識の作用(働き)である」となっております。また、他の辞典では「認識」とは「知覚し、識別し、判断し、想像し、推理し、記憶するなどを含む広義の知的作用」となっております。
「意識の作用」を司る主体は一般的に自己となっております。
そして、知的作用(働き)の主体は自己というのが一般的な常識です。
これらを前提として身心脱落を知るのは認識かどうかについて明らかにしていきたいと思います。
昭和(戦後)に活躍された曹洞宗の師家で既に遷化された名僧と言われた老師は、自ら著書の中で
「道元禅師は天童山の如浄禅師の言われた通りに機能に任せられたのです。六根(眼・耳・鼻・舌・身、意=視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、思量)を開放せられたのです。六感任せにして問題にせず、徹頭徹尾、捨ててゆかれた。(―これだけでは何を捨てたか分かりません)。そしたら遂に認識そのものが死んだのです。認識そのものが死んでしまっている時に、ピシャ!と警策で打った音がした。その途端にですね、初めて、死んでしまっていた認識そのものがチラッと顔を上げた。それでこれで終わりかア!ということです。」
と述べておられます。
この文章は老師自らの身心脱落(悟り、解脱)の時の様子の説明なのです。
私はこれをそのまま身心脱落であると肯うことはできません。
なぜなら「認識が死んだのです。」と言っていながら、その死んだはずの認識が生き返って、その認識によって自らの身心脱落を自覚したというのですから。
認識が死んだということは、意識そのものが死んだということであり、身心が脱落してしまったということなのです。禅の修行に於いて、一度死んでしまった自己(意識)が蘇生するということは正しい身心脱落ならばあり得ないのです。身心が脱落したのに、その脱落した身心が復活したことを意味するからです。身心が復活したということは自己が元通りに心の中に居ることになるのです。悟った人が悟る前の状態に戻って再び凡夫になったということなのです。自我が死んでしまって無我・無心の人になったのに、何かの縁で死んでしまった自我が蘇生して再び有我・有心の人となった言っていることになるのです。その蘇生した認識が重要な役割を担うのです。その重要な役割というのは自己が身心脱落したことを自覚することなのです。この老師は蘇生した認識が自己の身心脱落を自覚するのだと説明しているのです。
蘇生したのだろうが、そうでなかろうが、認識が動いている内は、何か特別な心理体験をしたところで曹洞禅においては身心脱落とは言わないのです。
ここで観点を変えて、悟ったが意識(認識)が元に戻ったということは、それは臨済宗の見性に当たるということは言えます。
その体験は「小悟、数を知らず」の小悟の範囲のことであり、臨済禅に於ける見性の範囲のことなのです。見性では正しい身心脱落の一時的体験をすることはありません。見性程度ではそこまで見ることはできないのです。
曹洞禅の非思量の相続の修行に於いては、自己が一度死んでしまった(身心脱落した)場合、認識(意識)が再び生き返ることはないのです。認識(意識、自己)が再び生き返ることのない状態をもって曹洞禅に於いては身心脱落というのです。ここの処が理解できないのは非思量の相続の修行体験がないからです。
この老師が言っているように、道元禅師は如浄禅師が指示されたとする六根の機能に任せ、六感を徹頭徹尾、開放せられたのでしょうか?
これは自らの経験に照らしたこの老師の作文ではないかと思います。
如浄禅師は中国に於ける曹洞禅の正統な継承者です。
如浄禅師は曹洞禅の純粋な修行方法である非思量を道元禅師に示し指導したはずです。道元禅師が如浄禅師に指導され自ら行った実体験の非思量を、坐禅の要術として自らの著書「普勧坐禅儀」に書き示したと考えるほうが理に適っていますし、自然です。禅の道に限りませんが、指導者となって他者を教え導く者は自分のやっていない方法や体験していない工夫を説き示すはずはないのです。
この某老師は「六感を開放する、六根の機能に任せる」とかを、事あるごとに禅の修行方法、工夫として説いております。
ところで我々の六感は修行として意志をもって開放するもしないも、常に開放されているのです。皆、縁に応じて直に感応するようになっているのです。それが実際なのに、某老師の斯様な説明は、純粋な修行者、正しく理解して正確に修行していきたいと願っている若き雲水を混迷させるものです。
我々人間は六感(六根)の機能を意志をもって開放したり、制約したりすることはできないのです。そして、そのことは、誰でもが日常的に理解していることです。
修行に於いても六感(六根)はいつも通りに放っておけばよいのです。私達は普段、常に機能任せにしてあるのですから、そのままでそれに関しては敢えて波風を立たせる必要はないのです。
某老師のこのような工夫の仕方は何を言いたいのか何を意図しているのか、私には未だに理解ができません。某老師は臨済系の修行をしてきた方ですから、看話禅(臨済宗)のように何かの偶然性に賭けているのかもしれません。
看話禅には大悟徹底への確実な必然的な工夫の仕方はないのです。このようにすれば、必ずこのようになるという曹洞宗のような坐禅の要術とも言うべきものがないのです。最後の処は偶然が訪れるのを待つしかないのです。その偶然性の確率を高めるために公案を用いて修行をするということを臨済宗の師家は皆、理解をしています。
曹洞宗開祖道元禅師は坐禅の要術として非思量を説示しているのですから、法孫(その宗派の系譜の末裔のこと)として開祖道元禅師の説き示した坐禅の要術を愚直に受け入れて、その修行方法を踏襲するのが曹洞宗の師家の在り方と考えます。
開祖道元禅師は如浄禅師の示された非思量の修行によって身心脱落をし、印可を頂いているのです。
私達曹洞宗に属する法孫として、宗祖道元禅師の説示にない独自な坐禅をやるよりも、非思量の修行を素直に踏襲し徹底的に相続して深めるべきです。
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2018.9.22
結論から述べます。
我々は自らの身心脱落を無分別の分別(本来の分別)によって知るのです。認識の力でもなく、思考力でもないのです。
我々は、自己の心の中の自己の存在を知っています。その自己の存在を覚知しているのも無分別の分別(本来の分別)です。
誰でもがこのことが分かるわけではないのです。
無分別の分別(本来の分別)が分かる人というのは、禅僧に教えられなくても非思量の状態が日常的にあることを知っているのです。このような人は禅のことなど全く知らなくても日常生活の中で非思量の状態があることを知っているのですが、ただ、そのような状態に本人はいつもなんとなく困惑しているのです。何でそのような状態があるのか分からないし、その状態をそのままにしておいてよいとも思っていないので何とかしなければ……といつも困惑するのです。思量のない空白を何かしっかりしたもので埋めなけばならないと思っているのです。このような人は非思量について説明すれば、すぐに理解するし、無分別の分別の機能についても説明されれば、容易に納得するのです。
多くの師家はこのような人が居るとは思っていないので間違った指導して、有能な禅僧となるべき芽をつぶしてしまっていることが多いのです。このような人は決して珍しいものではなく、青少年の中にはかなり居ると思います。
但し、だからといって非思量の修行は早ければ早いほど良いということはありません。禅の修行を始めてもよいとする目安は反抗期を充分過ぎてからです。反抗期までは意識を主として精神が充分育っていないからです。意識が充分育ってからが自己(意識)を忘却する禅の修行が人生に役立つのです。それ以前に身心脱落の為の修行をすると充分に大人になっていない精神に欠落が生じてしまうのです。
禅の修行は反抗期(意識を主体とした精神組織が大人になる時)を充分に過ぎることが条件です。
これは身体が動物として成長し大人になる時とほぼ一致しているのです。
成長は精神が優先する場合と身体が優先する場合が人によってまちまちで、同時ということはありませんので注意が必要です。
身心の成長のどちらか遅い方が大人になる頃が反抗期ですので、反抗期が充分鎮まるまでは身心共に調和した大人になり切っていないと考えるべきです。
正しい禅の修行は子供(反抗期に至っていない)には有害ですのでやらせてはいけません。いい加減な禅修行は問題ありません。害はありませんが利もありません。
ところで「認識」という言葉は曹洞宗の一部の師家方がよく用いております。
そして、彼らは身心脱落に気付くのは認識であると説明しております。
そして、人が錯覚し、苦悩するのも認識としています。佛陀も認識でどうしようもなくなるまで行き詰ってしまったと説いておられます。
しかし、認識によって自らの身心脱落に気付くとしている師家方は、無分別の分別(本来の分別)が人にあることに気付いていないのです。
これは言葉、思考のない精神世界で、言葉、思考の介在のないところで機能しているのです。盤桂禅師はこれを不生の佛心と言っています。一念不生に於ける佛心ということです。心の様々な機能、活動の中のどこで自らの身心脱落を覚知するのかは、とても重要なことです。
身心脱落したら、それまですべてを自覚し、認識していた自己は消滅(滅却、脱落)してしまっているからです。
既に遷化されている某老師(No33参照)が述べられているように、死んでしまった認識が縁に触れて顔を上げて、その認識によって覚知するのか、無分別の分別(本来の分別)によって知るのか、二つのどちらかです。
また、その身心脱落を覚知するのは認識によるものか、無分別の分別によるかによって、その体験は正しい身心脱落(大悟徹底)か、それとも臨済宗で言われているところの見性であるか、それとも心理学の世界でよく知られている意識変容状態(私の別項にて詳しく書いてありますのでそこを参照して下さい)なのかのおおよその区別がつくのです。
無分別の分別によって覚知するのが正しい身心脱落(大悟徹底)であり、死んでしまった認識が顔を上げ、その認識によって覚知した身心脱落(大悟徹底)体験は心理学で取り上げられる意識変容状態であり、臨済宗で説く見性です。
正しく見性なら、その時に正念が覚知できるのです。正念を覚知するのは無分別の分別です。
私達は自己の中に自己がいることを知っていて、多くの人がそのことを自覚していますが、それは認識によって覚知するのでもなく思考力によって知るのでもないことは、非思量の状態を知っている人は皆、知っているのです。
思量や認識が動く前に、それらに関係なく自己の心の中の自己の存在を自覚するのです。自己の心の中の自己の存在を覚知するのは無分別の分別によるのですから、その逆である自己の心の中の自己の消滅も無分別の分別によって自覚できるのです。
自己(意識)の存在の有無を覚知するのは無分別の分別によるのです。
身心脱落というのは自己の心の中の自己(意識、自我)の存在が消滅したことを表わした言葉です。身心脱落の身心はその実体は意識であり、意識が心の中に作り出したものです。ですから悟ること(解脱)を身心脱落したと言うのです。身心は意識そのものでもあるからです。
自己の心の中の自己が消滅したことをもって悟った(解脱した、大悟徹底した)、身心脱落した(曹洞宗の悟りの表現)と言うのです。
私達には誰でも、生身の身体と精神的身体の二つの身体があるのです。このことは非思量の修行を進めていきますと誰でもが自然に分かることです。
精神的身体を支配し、コントロールしているのは私(意識)なのです。
生身の身体を支配し、コントロールしているのは通常、無分別の分別です。そして時に応じて私(意識)なのです。
この私が身体能力を高める役割を担うのです。
生身の身体と精神的身体の一致が自然体と言われる動きなのです。私達が自分の身体と覚知しているのは精神的身体の方なのです。
精神的身体は意識が作り出したものです。身心脱落の「身」のことです。身心の「心」は自分の心の中の自己のことであり、自己の実体である意識のことです。
精神的身体が消滅することを曹洞禅では身心脱落といい、自分の心の中の自己が消滅することを身心脱落と言うのです。どちらもその実体は意識です。
身心脱落を祖師方によっては皮膚脱落と表現する方もあります。身心脱落すると自分の身体を覆っている皮膚が消滅するのです。つまり自分の身体の輪郭がなくなるのです。よって"皮膚脱落!"と身心脱落のことを表現したのです。
自分の精神的身体のあらゆる部分のあらゆる皮膚(輪郭)が消滅し、皮膚によって分けられていた身体の内側と外側の区別が消滅してしまうのです。
だからと言って何てことはないのです。それが今の私にとって普通のことだからです。
烏が、烏にとって空を飛ぶことが普通のように、何てことはないのです。
非思量の修行を相続していけば誰でもそのようになっていくのです。曹洞禅の正しい修行というのは常にそうなのです。特別なことは何一つ起きないのです。そう言えば、そういうことがあったなアという程度なのです。
その時、その時で、その事は何てことはないのです。そうならなければ、正しい修行とは言えないのです。心境が進む毎に歓喜したり、お赤飯を炊いているようでは、それは身に付いた正しい修行となっていないのです。身に相応していない離れた体験だから歓喜するのです。
非思量の修行に於いて、すべてを普通のこととして通過していかなければ曹洞禅の正しい修行とは言えないのです。
非思量の修行に於いては、その時、その時に特別なことは何一つ起きないのが正しい在り方なのです。それがたとえ身心脱落であったとしても……。
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2018.9.22
まず最初に「分別、分別心」は一般的に、佛教的にどのような意味とされているかについて紹介いたします。
それは書き手、読み手の両方が共通の概念をもった上で説明をしていかなければ混乱を生じるからです。取り敢えず分別の意味を示します。
「分別」とは
「わきまえ。はからい。区別。見分けること。区別して考えること。あれこれ分けて考えること。物事を分析し区別すること。知識をもって理解すること。等」
以上が一般的な佛教辞典に載っている意味です。
更に極めて佛教的な意味として「眼耳鼻舌身の五識が対象を識別するはたらき」というのがあります。
この最後の意味が禅門に於いて「無分別の分別」として重要視していることです。このはたらきのもとに他の分別の意味が成り立っているからです。
一般社会で用いている「分別、分別心」という言葉は思量の中の一つとして用いています。「思量の中の一つ」という意味は、人が分別する時に必ず言葉を用いるということです。私達は分別の内容を言葉をもって表すということです。
禅門に於ける「分別、分別心」というのは思量の動く前の機能としての分別、分別心なのです。一念不生の状態に於ける分別、分別心の働きを指すのです。
決定的に一般社会と禅門とでは分別、分別心の意味・使い方が異なるのです。
そこで禅門では一般社会で用いる分別、分別心とは違うという意味で「無分別の分別」とか「本来の分別」と表しているのです。
分別、分別心という機能は本来、人の意識も、言語を用いる思考も、自己も無関係に、それらが動くより早く、間髪を入れずに諸の縁に感応するものなのです。
しかし一般の人々は分別、分別心には意識も、言語を用いる思考も、自己も関わっていると思っているのです。
そこで禅門では、ただ単に分別、或いは分別心と言うと、一般社会で用いている意味とするのです。そうしないと意味の取り違えからの混乱が生じて、禅門として一般の人に伝えたいこと、理解してもらいたいことが正しく伝わらず、理解されないこととなってしまうからです。
私もなるべく分別、分別心をそのように使い分けるようにしようと考えております。私はもともと分別とか分別心という言葉を用いたことがありません。禅門に入ってから修行の必要上、用いるようになったのです。そのような訳で私にとって分別、分別心というと、無分別の分別、本来の分別心という意味なのです。
私の文章の場合、一般の意味で分別や分別心を用いることはありませんので、その所は了解(了承)しておいて下さい。一般の意味で分別、分別心という言葉を用いる場合は「一般の意味での分別(心)」と言い表すようにいたします。
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2018.10.18
臨済宗の修行は公案という問題を提示して修行者(在家、出家)にその解答を迫るのです。公案という問題は世の常識や道理をはずれた矛盾した問題なのですから、正しい答えなどあるはずもなく、正しい答えなど出るはずもないのです。
公案を出した師家も最初から言葉や理詰めの答えなど求めていないのです。師家の意図が分かれば、自ら答えは出るのです。言葉は不要です。
臨済宗の師家は禅の修行について次のように述べております。
「坐禅をして悟りを得るのは遇然の出来事です。公案を用いて精神的な実践は、ただ、その遇然の出来事を起こり易くするためにやっているのです。」
そして、遇然的出来事を起こり易くするために禅の修行は公案という正答のない難題を修行者に与え、それを解かしむるのです。
修行者は公案を解きつつ坐禅をし、公案を解きつつ師家の許に独参に行き、そして公案を解きつつ、へとへとになるくらい作務を務め、托鉢に励むのです。そして精神的にも身体的にも疲労困憊するまで追い詰められていくのです。
修行者は師家より公案の答えを求められ、答えては否定され答えては否定され、どうしようもなくなるくらいに否定され続け、最後には独参に行くのも嫌になるくらい否定され続けるのです。独参に行くことを拒んでいると、係の古参の僧より引きずり出されて強制的に独参させられるのです。ここまで来ると精神的にも参ってしまって、強迫観念症の一歩手前の状態となるのです。
修行者は正答のない公案を考えれば考えるほど、真剣であれば真剣であるほど追い詰められていくという構図なのです。
精神的に追い詰められ、強迫観念症の一歩手前の状態に至ると遇然的出来事が生じ易くなるのです。このことを臨済宗の祖師方は経験則として知っていたのです。この状態に至らしめるのは師家の公案の扱い方の力量によるのですから、師家の責任は大きいのです。
修行者には真剣であること、求める気持ちの強いこと、忍耐力があることが求められるのです。
しかし、確実に大悟徹底に至る原理、原則や方法論があるわけではないのです。近代・現代の臨済宗の師家方によっても大悟徹底の遇然性を必然性にする修行方法は開発されていないのです。残念なことです。
そのヒントは正念の状態を体験することにあると私は考えております。正念の状態を知れば、あとは忍耐力だけが頼りであります。公案は必要がなくなるのです。曹洞禅に於いて非思量の状態が深まると数息観が必要なくなるのと同じです。
臨済禅の見性や大悟徹底を強く求めて行う修行には当事者である師家方が気付いていない大きな問題があります。それは修行者が精神的に追い詰められた時に生じる非日常的な心理的変化、或いは異常心理状態が禅の修行中に起きるものですから、禅特有の心理状態と思っている点です。
人は精神的に厳しく追い詰められた状況の時に、意識・感覚の歪みである意識変容状態が生ずることがあり、それは戦後の心理学の研究で広く知られている事です。
この意識変容状態は禅の修行に於ける特別な心理体験である見性や大悟とそのほとんどが重なるのです。このよく似た特別な心理体験を見分けることはかなり難しいようです。臨済宗、曹洞宗の師家方の中に意識変容状態という特別な異常心理状態があることを知っている師家は一人もいないからです。
近代・現代の臨済系の師家方は意識変容状態という意識の特別な歪みがあることを知らないものですから、禅の修行中の特別な心理体験は疑いもなく全て見性体験或いは大悟体験と認定してしまうのです。
正しい見性というのは十牛の図の三の見牛で示されているように正念相続の正念の状態がはっきりと分かったという体験がなければなりません。
見性したとしても正念が分からなければ、その体験は見性ではなく意識変容状態ということになります。その体験をした時に法悦の涙があふれたとか、至福の感情に満たされたとか、歓喜して手の舞い足の踏む処を知らぬ状態になったとかいうことは必ずしも見性や大悟の証しとはならないのです。そのような感情は禅の世界に限らず状況によって、世界中、何処にでも起きていることです。
そのような私的な感情の生滅を見性や大悟の根拠とすることは間違いです。
見性や大悟の証しは公案を通ることではなく、公案が必要でなくなり正念相続がしっかりと出来ているか否かです。
修行者本人の平常心が正念であればよいのです。名聞利養がなければ修行者本人がよく分かっていることで、第三者の師家云々ということではないのです。
悟っている師家と雖も他者の心の中を観ることのできる他心通という神通力が開眼する(授かる)ことはないのです。
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2018.10.18
看話禅(公案禅、臨済禅)というのは、禅の修行に公案という理解不能な非論理的な問題を師家が修行者(在家、出家)に出すのです。坐禅を組みながら公案を考え、経行しながら公案を考え、食事をしながら公案の答えを捜し、作務をしながら公案の解答を求め、托鉢をしながら公案を考え抜くのです。つまり、公案を考えながら生活をすることが、臨済禅の修行なのです。ながら族なのです。何々をしながら勉強をするようなものです。まさに現代人の日常生活のような禅修行なのです。頭の中の忙しい現代人にはとっつき易いかもしれません。
修行者の力量に応じて公案に難易度があるわけではありません。修行者の力量に応じて公案を再三出し、修行の進み具合によって公案を挿し替えるというようなことは、正しく大悟徹底している師家ならばやることはありません。
それは公案によって修行が進んでいき、公案を一つ一つ解くことに応じて修行が深まっていくという因果関係はないからです。
公案は十牛の図のように一から始まって二へと進み、二が済んだら三、四と進み、修行が進むに従ってより難しい公案へと段階を追って進むようになってはいないのです。公案に難易はないのです。見性するまでにいくつ通り、それからいくつ通ると大悟するというような昇段試験のような段階を追って公案が進み、修行が進むようにはなっていないのです。
公案を拈提して見性すると、その時に正念という状態を知ることができるのです。正念というものを知ったら、そこから先は、公案はいらないのです。正念を知ったら、ひたすら正念相続をするのです。正念に勝る公案はないのです。但し、正念の相続には余程の忍耐力が必要です。ここから先は一人で立って一人で修行していくしかないのです。
公案は見性へと導く手立てとして師家が修行者を観察しながら用いていくのです。全ては師家が生殺与奪の権利を持って公案を縦横無尽に用いて見性に至らしめるのです。
公案は精神的に修行者を追い詰めることに主眼があるのではなく、修行者の思量する習慣を奪い尽くすことに主眼があるのです。いかなる時も一片の思量も動くことがないくらいに思量の機能を奪い尽くすのです。思量の機能が完全に奪い尽くされた時が見性であり、その様子が正念なのです。この正念が手に入ることが見性なのです。
この方向性を知っていて修行させているのが師家であり、この方向性を知らずに修行しているのが公案に悪戦苦闘しているのが修行者なのです。指導者の理解と修行者の理解がまるで異なっている世界なのです。
「こうすれば、こうなる。」と教え、「こうすれば、こうなる。」と教えられて修行しているわけではないのです。同床異夢なのです。
臨済系の祖師の一言に「その一句(言)に賊機あり」と言わしめた言葉があります。この賊というのは盗む、殺すという意味です。盗賊の賊です。
それは修行者の思量、一念を奪い尽くす(殺す)という意味であり、その思量の機(働き)を奪い取る(殺す)という意味なのです。
その一句(言)によって全ての思量が停止してしまうということです。賊機は師家に求められる力量です。修行者は思量の働きを奪い取られる側なのです。臨済禅は一見すると修行者にとって能動的な修行に見えますが、実際はほとんど受動的な修行なのです。師家の掌の中で転がされているのが臨済禅の修行の特徴なのです。その分、師家の責任は重大なのです。
曹洞禅は最初から修行者に、非思量の状態が決して特別ではなく日常生活の中にあることを教え、それに気付かせることから始まるのです。公案は一切用いません。公案の修行に於ける謎解きのような禅問答的な言葉のやり取りも一切必要がないのです。非思量の状態を気付かせるための説明とそれを相続するための工夫の仕方のみの指導があるだけです。一度非思量に気付いたら、それからは修行者の堪忍(忍耐力)と願心と努力の継続が必要となる修行です。
曹洞禅の師家は修行者の菩提心を支えるのが主な勤めなのです。
曹洞禅の修行は一人でコツコツと忍耐強く行うのです。目立たない地味な修行なのです。知識も、教養も、学問も、一つも役に立たない世界なのです。
ところで近年、公に相手の力量を試す意味合いで、或いは自らの力量を誇示する含みを持たせて、公案のような質問をし解答を求めるような行為をする修行者(在家、出家)が時々見受けられます。このような方は公案の修行に於ける位置付け理解できていないのです。
公案はこれまで述べてきたように修行者を正しい修行へと導くための手段として師家が用いるものです。大悟した師家でもない修行者(在家、出家)が公案をみだりに用いることは戒めなくてはなりません。禅の修行者として、そのくらいの謙虚はあわせ持つべきです。
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2018.12.6
「三昧」
・何ものかに意識を集中することによって心が安定した状態に入ること。
・心が静かに統一されて安らかになっている状態。
・心を不動にした宗教的瞑想の境地。
・禅定と同義語。
・心をひとところに定めて動かさないから「定」という。
「禅定」
・坐禅によって身心の深く統一された状態。
・坐禅をして心を一点に専注する宗教的瞑想。
以上が佛教辞典に載っている三昧と禅定の説明です。
この場合、「心」という言葉が6ヵ所出てきますが、この「心」は何を指し示しているかが明らかにされていません。この説明では「心」がはっきりしませんので解釈の余地が多くあり曖昧さが残っています。
この「心」は意識のことか、思考想像のことか、感情のことか、五感(眼耳鼻舌身)のことか、六大欲(食・性・睡・名・財・知欲)のことか、記憶力(入力・出力)のことか、それ以外のことか、以上のこと全部まとめてか、それとも一部か、複数か、明らかにしなくてはならないところです。
明らかにしないと禅の修行に於いては、心の何を修行するかがはっきりせず混乱してしまうからです。修行のターゲットを絞る必要があるのです。このような宗教的な説明をする場合、様々な精神の機能・作用を「心」という一語で括ってしまう傾向が多いのです。禅の修行の実践に於いて精神の様々な機能・作用を「心」の一語で括ってしまうと修行の正しいターゲットをつかむまで、一苦労することとなりますから「心」の一語で済ましてはいけないのです。
禅の修行に於いて「心」についての曖昧さは、修行そのものの曖昧さになって現れてくるものですから問題なのです。今の自分にとって本当のところ心の何が問題なのか、修行のターゲットとして心の何をとらえるべきかがはっきりしていないと正しく禅の修行はできないものなのです。
曹洞禅の修行に於いては、三昧ということはあまり言いませんが、時々用いて禅の指導をしている師家がおられます。
曹洞禅に於ける三昧と臨済禅に於ける三昧とは、その内容に於いてかなりの隔たりがありますので注意が必要です。
佛教の修行全般では三昧はよく言われる言葉です。一般の方々も佛道修行が深まっていくと、いずれ三昧の境地になるものと思っています。三昧という言葉は我々にとって身近な言葉なのですが、その中味について知っている人は少ないのです。そのような現状なのですが、お師家さんも三昧についての説明を一切しないまま、三昧になりなさいと指導するのです。私も三昧という状態を知りもしないのに三昧になることを願って坐禅をしておりました。私が若い頃にイメージした三昧の状態と、非思量の状態を相続できるようになっている現在の三昧の状態とは天地の隔たりがあります。
一般的にイメージしている三昧は、実際の正しい修行に於ける三昧とは全く違いますので、これから曹洞禅の修行をする人は三昧のことは念頭に置かないで、非思量のみの修行に専念して頂きたいと思います。
曹洞禅の修行は、非思量の状態を三昧にもっていくようなことはせず、非思量の状態のまま、それを相続し、身心脱落に至るのです。非思量の相続を明確に行っていくだけで、三昧の状態になる必要はないのです。
曹洞禅に於いては三昧という概念は無用であり、修行に持ち込むことはしないのです。
若い修行僧や熱心な参禅者の中に、三昧の境地に入ることを願い求めている方を見掛けます。禅の修行のイメージとして三昧に入ると修行のステージがワンランク上がり、誰でもが求める本格的な修行に臨むことができるようになるのだという思いがあるのです。三昧の境地は見性や大悟が確実に視界に入ってきたと期待させるのです。禅の修行に於いて坐禅三昧の境地に入らなければ見性や悟りを得ることはできないと思っている人が多いのです。二兎追っていることに気付かなければいけません。
一般的に、三昧という状態は意識を継続的に強めていく、或いは過剰になっていくと生じる意識変容状態のことを指しています。
一般の人や禅の修行者が三昧に抱くイメージは、一時的な記憶喪失状態、前後不覚で何をやっていたか全く覚えていない状態、茫然自失の無反応の状態、何事にも無反応で五感の機能が完全に停止している状態、痛みや冷たさも感じないほど何かに集中している状態。意識はあるのですが、すべてを自覚しているのですが、全く思考が働かず、身体を動かすことも忘れて茫然と眺めているような状態等々です。
師家によっては、この状態の体験をもって見性や大悟とし、身心脱落としていることも多いのです。この状態は意識変容状態なのですが、臨済宗では重視しているようです。曹洞宗にあっては全く相手にしないのです。
曹洞禅のしっかりした師家ならば「そのような体験は益することは何もない、忘れなさい。」「そのような体験を他者に話したい気持ちは名聞利養であるから修行に益することは一つもない。黙って非思量に専念しなさい。」と言うでしょう。そのような体験を決して是として認めることはないのです。
ここで見性について少し注意しておくことがあります。
見性とは自己の本性・本来の自己というその実態を観たり体験すること、と説く師家が多いのです。
しかし自己の本性、つまり身心脱落した様子を、悟る以前に観ることはあり得ません。もし観たとすれば、非思量の状態を見たのであって、自己の本性である無我の様子を見たのではないのです。
非思量の状態を観たのであれば、それは正しい見性であり、正しい本格的な修行の入口に立ったということなのですから喜ばしいことです。
非日常的な特別な心理体験はその多くは意識変容状態であって、見性や、大悟、身心脱落ではないことが多いのです。
私の知っている限りでは、何人もの師家や師家級の禅僧が非日常的な特別な心理体験をしているのですが、その方々は、修行の進化は、そこ止まりで正しく身心脱落に至ることはなかったのです。いつまでも非日常的な特別な心理体験を語っているようでは結局、その体験を捨てきれていないのです。それが正しく身心脱落であるならば、即忘れていくはずのものです。いつまでも抱えていてはいけないものなのです。また、その体験が正しく見性であるならば、非思量の状態がわかったはずですし、正念の状態が体得できたはずですから、死ぬまでには完全に悟っていたことと思います。彼らは既に亡くなっている方々ですが、生前、自他共に認めた悟った禅僧として活躍しておりました。
彼らは曹洞宗の師家や師家級の名の知られた禅僧なのですが、生涯、開祖の説く非思量を前面に出して禅の修行を指導することはなかったのです。この一点をとっても、身心脱落をしていないことは確かです。宗祖の説き示した非思量なくして身心脱落はあり得ないからです。坐禅の要術を示す言葉として「非思量」以上の適切な言葉はありません。曹洞宗の法孫として宗祖を尊崇するならば、「非思量」の一語は必ず主軸に置いて修行の指導をすべきです。修行の指導に於いてはこのような処に自分のカラーを出す必要はないのです。
一般的に三昧というのは宗教的修行に於いて、そのことに精神的に極度に集中して他事に心を動かさない不動の瞑想状態を言います。
臨済禅に於いても上記と同様で、公案三昧の時は、音がしても聞こえず、何かを目にしても見えず、叩かれても痛みに気付かず、思考も動かず、感情も動かず、心が凝結した不動の心理状態を指しております。白隠禅師が飯山の正受庵で修行している時がまさにこの状態であったと書かれております。
曹洞禅の非思量の修行に於ける三昧というのは、臨済宗の場合とは明らかに異なるのです。
もし敢えて言うならば、曹洞宗の三昧は非思量の状態の相続を指します。心理的には非思量の状態なのですが、意識はそのことに凝集しているわけではないのです。瞑想状態でもないのです。非思量という状態なのです。非思量の状態に於いては、音がすれば聞こえるし、物が目に映れば見えるし、叩かれれば痛いし、心の何かが凝り固まるようなことはないのです。無分別の分別心が常の如く働いているのです。三昧の時に於いても五感はいつも通りによく機能するのです。ところが記憶の入力機能は滞りがちで充分な従前の機能でなくなるので少し困ることがありますが、すぐに慣れてきますから心配はいりません。無分別の分別心を意識でもって抑圧して、その機能が充分に働かないようになることはないのです。つまり、意識変容状態に陥ることはないのが曹洞禅の非思量に於ける三昧の在り方なのです。曹洞禅の悟りである身心脱落を意識変容状態と間違うことはないのです。非思量は意識をさわることなく放っておくのが特徴なのです。この点、臨済宗の公案を三昧に拈提して意識を凝集する修行とは真逆なのです。
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2018.12.6
以前に「経行について」の中で少し触れましたが、身体で拍子をとったり、歩みや走りや手脚等の動きで調子をとったり、リズミカルに動作をしたりすることは、普勧坐禅儀の中で「念想観の測量を停めて作佛を図ること勿れ。」と説かれている「観」に当たるので止めなくてはいけません。この「観」は自己をもって自己を観察することを指しているのです。意識という心眼をもって自己という意識を観ていることを示しているのです。
身体で調子やリズムをとったりするのを自覚していることは、意識という心眼をもって自己という意識を観ていることになるのです。
自分の身体の動きは実際の身体の(生身の肉体)の動きではなく、意識が生きる為に必要があって創り出した精神的身体(架空の身体)の動きなのです。その精神的身体の動きを私達は自分の生身の肉体の動きだと錯覚しているのです。その自分の身体の動きを自覚しているということは、意識の創り出した身体を自己という意識の眼で精神的に観ていることなのです。
つまり意識をもって意識を覚知しているのですから、いつまでいっても意識がついてまわり、意識(自己)を忘却することはないのです。
曹洞禅では「観」を停めなくてはならないと普勧坐禅儀の中で示されていますので、意識をもって意識を観る行為から離れなくてはなりません。経行の時、作務の時、日常の起居動作の時に調子や拍子やリズムよとる癖を外すことが必要なのです。これができないと正しい非思量の状態が進化(次第によくなること)していかないのです。ここのところを気付かずに「念・想」だけを相手に修行をしている方が多いのですが、それでは不充分なのです。「観」も併せて非思量の修行をしていく必要があるのです。
自分の身体の動きをリズミカルにしたり、拍子をとったり、調子をとったりしているのは意識なのです。そしてリズミカルに動いている身体は実際の物理的存在である生身の肉体ではなく、意識が創り出した架空の精神的身体なのです。
拍子をとって動いている自分の身体を自覚しているということは、意識をもって意識を観察していることになるのですから、そのような精神的行為は止めなくては曹洞禅の修行にとっては障害となるのです。
禅の修行は自己を忘却する、或いは意識の存在を心の中から消滅せしめることが主眼なのです。ですから自己の意識は用いたり、意識の存在感を強めたりしないで放っておくのが正しい在り方なのです。身体で拍子をとったり、手脚で調子をとったり、リズミカルに動作することは念想観の観に当る精神行為ですから、止めるべきです。それらの行為を続けることは意識をいつまでも用い続けることになりますので、自己を忘れることはできないのです。
意識の存在や動きを相手にしないで、実際の眼(耳)で実際の物事を見る(聞く)ことによって思量(念想観)の働き、活動を抑制して非思量の状態を保つのが曹洞禅の修行方法なのです。
ところで「佛道を習うというは自己を忘るるなり」と道元禅師は説いております。
「自己を忘れる」或いは「自己を忘ずる」という表現を聞きますと、意識を喪失する状態、或いは記憶を失う状態があるかのようなイメージを抱くのが一般的です。
曹洞禅の修行に於いて「自己を忘れる」「自己を忘ずる」「自己を忘却する」というのは悟りのことです。身心脱落と同じことです。心の中の自己の存在が消滅することを「忘ずる」とか「忘れる」とか「忘却する」言い表しています。
これは一時的な記憶喪失とか意識を失うということを意味しているわけではないので誤解しないようにして下さい。誤解したイメージを抱くと正しい曹洞禅の修行から遠ざかることになるので注意が必要です。ここは多くの修行者が必ず間違うところです。
曹洞禅で用いる「意識」と医学的に用いる「意識」とはその意味は異なっているので注意が必要です。混同しないように使い分けに注意ください。
一般ではもう少し広い意味で用いているので、尚更、注意と使い分けが必要です。
曹洞禅の「自己を忘ずる」ことと医学に於ける「意識喪失」とは全く異なる心理状況です。曹洞禅の「自己を忘ずる」ことに医学的、一般的な記憶喪失状態、意識喪失状態は入りません。そのような状態は伴わないのです。誤解してイメージしている修行者が多いので問題です。
曹洞禅の非思量の修行に於いて、自己を忘却する時(身心脱落する時)に視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の機能が一時的にも停止することはありません。完全なる非思量の状態の時に、その時のその事はすべていつも通り分かっているのです。いつも通りですから何ら変わった心理体験ではないのです。
その時にその事は、五感の機能もいつも通りに働いていて、いつも通りに自覚しているのですが、その自覚の記憶がなされないということなのです。
身心が完全に非思量状態になると、その時その事の自覚はいつも通りなのですが、その事が記憶されないので、一時的記憶喪失、一時的な意識の喪失があったかのように錯覚しているのです。
これは医学的に脳の回路に問題が生じた病的な一時的な記憶喪失や意識喪失とは異なるのです。ただ記憶されていないということなのです。完全なる非思量の状態に於いて、その時その事の自覚は、そのままでは記憶されることはありません。その時に思考をして言葉を用いると記憶はなされるのです。前もって完全なる非思量の状態が訪れることを予期して、その時は思考によって言葉を用いると決めておけば、思考の言葉は動きますし動いた言葉を縁として記憶はなされるのです。ここは極めて大切な点です。ここのところを古人は「滞こをらざれば記憶すべきなし」と述べておられるのです。
曹洞禅に於ける身心脱落とか、自己を忘るる、自己を忘ずるというのは心の中にあるもう一人の自己の存在が無くなるということなのです。私達が自己と思っている自己が消滅してしまうことを指しているのです。
この心の中の自己、つまり意識は記憶の機能や五感の機能に関与していませんので誤解のないようにしなくてはなりません。身心脱落しても思考力も、記憶の入力出力も、五感の機能も、それ以前と何ら変わることはありません。
悟っても、隠れていた特別な才能(能力)が現れるわけではないのです。悟ったからといって、それまで悪筆だった書が急に上手くなるわけでもなく、音痴が直って急に歌が上手くなるわけでもないのです。大きく変わることと言えば、死の恐怖・不安がなくなるということ、老と病の不安と恐れが消滅するということ、孤独が苦でなくなるということ、精神的外傷(トラウマ)が癒えるということ、強迫観念から解放されるということ、他人の存在・視線が全く気にならなくなり自由になるということでしょうか・・・・・。
悟っても特別な人になれるわけではないのです。特別な人になりたいのであれば禅の修行は割に合いませんので止めたほうが宜しいです。
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2019.1.24
禅修行を始める前には、一般的に我々凡人は思量(思い、考え、想像)が次から次へと休むことなく動き、生滅している状態にあります。
そして、その思量の生滅にもいくつかの型があり、思量が全く途切れることなく連続して生滅する人、思量が時と場合によってわずかに途切れる(2〜3秒か4〜5秒位)人があります。
また、思量のあり方は、言語による思量が主だったり、象形色による思量が主だったり、言葉と象形色が混在したり、意識を主(中心)とした思量だったり、五感を主とした思量だったり、その逆だったりと、人によって様々です。
一般の人でも日常で途切れることを経験することが時々あります。
その一つは頭の中が真っ白になってしまったという時の思量の途切れ方です。
この途切れ方は曹洞宗の修行の非思量の状態ではなく、修行として意志をもって再現できない状態ですから修行にならないのです。
これは意識の出が強すぎる為に、意識が思量、その他の五感等の正常な働きを抑制してしまったことによるものです。一種の意識変容状態とも言うべきものです。意識変容状態による思量の働きの抑制は修行にはよくないのです。よくない理由の一つは、思量を止めるだけでなく正常な五感の働きを抑制して歪めてしまうからです。
この状態を歓迎するのは公案を用いて意識変容状態(臨済禅ではこれを見性、或いは大悟としています。)を作り出すことに主眼を置いている現代の臨済禅です。公案の本来の正しい目的は、特別な心境に至るのではなく正念を体得することにあります。正しい禅の修行への影響が大きいので間違わぬようにしていただきたいと願っております。
更に日常的に思量が止まってしまう場合があります。
それは極度の緊張によって人前で上がる場合です。
この場合、思量は全く動きませんが自意識のみが異常に強まっているのです。当然、思量の機能以外に感情や、五感やその他の精神機能も極度に抑制されてしまい、修行にはならない状態です。
茫然自失の場合も思量は全く動きません。身体も動かない状態です。何も判断はできずに眼前の出来事を目にしているだけの状態です。これも思量は停止しています。状態とすれば非思量ですが、これも修行としての意志をもっての再現性はなく修行にはなりません。
最もよいのは非思量の状態をわずかな時間(ほんの数秒)、日常的に経験している場合です。
このような人は時々いますので珍しくはないのですが、本人にとっては子供の時からですから当たり前のことなのです。禅の師家から指摘をされない限り、その価値には全く気付くことはないのです。
このわずかな非思量の状態があるというのは、まだ言葉を知る以前の乳飲み児・幼児の思量のない状態が残っているということなのです。人の原点が残っている心を持っている人ということになります。このような人の方が曹洞禅の理解が早いことは確かです。しかし、これだけでは何の役にも立ちません。このことに無常心が生じなければ修行のエネルギーは生み出されないのです。無常心が曹洞禅の修行のエネルギー(動機)を生み出すのです。修行中、縁に触れて無常心を自ら思い起こす作業は必要です。このことを止めてしまうと修行も停滞して止めてしまうことになるのです。私に限らず諦めずにひたすら修行する禅僧は常に無常心と対峙するように心掛けているはずです。年齢に関係はないのです。
道心(佛道修行をする心、求める気持)があるとか、道心が堅固であるというのは、縁に触れて、折に触れて、無常心が生じた思いや出来事を思い起こしているです。そうすることで道心が保たれているのです。この修行の動機を時折り思い起こして道心を保っているのです。道心堅固の気質というものがあるわけではなく、無常心の起きた時の心や思いや出来事を風化させないように縁に触れて折に触れて思い起こすことで、結果、道心堅固となるのです。決して自然に道心堅固となっているわけではないのです。道心を生涯保つのにも努力が要るのです。
「求心止む時即ち大安」という禅語がありますが、この「求心止む時」というのは「身心脱落の時」という意味です。身心脱落もしていないのに、気持ちが楽になったとか、安らかな心境になったとか、問題がなくなったとかいうのは、それこそ無常心が年月と共に風化してしまっただけのことです。修行の動機である何かを年月が解決してしまったということです。
このことを勘違いして晩年(50歳以降)を送っている疑似身心脱落をしている禅僧が多いのです。ここのところは自らの心の中を点検する必要があります。他人を誤魔化さず、自分を誤魔化さない禅の修行に対する真摯な姿勢は生涯必要なことです。
ところで、禅の修行のヒントは日常生活の中にありますが、このことは一般的には知られていません。
一般の人達は禅の修行が生活の延長線上にあるとは及びもつかないで、禅という特別の世界の中にあると思っているのです。ここの処は先入観を変える必要があります。
禅の修行というのは、普段、思量のある人は思量のある状態から始めるのです。思量のある状態から思量のない状態を知ることから始めるのです。
普段、思量のない状態を知っている人は、まず、本人にその思量のない状態というのが曹洞禅の非思量の状態と同じかどうかを確認する必要があります。この確認は師家、或いは指導して下さっている禅僧にやってもらうしかありません。修行者が自己判断で一方的に判定すると間違うことが多いので慎重さが必要です。多くの修行者は、ここの処をしっかりと確認し、すり合わせていないのが実状です。最初の時点で正しく修行に入っていかないと後々に苦労をすることとなりますので注意しなくてはなりません。
私は最初に"非思量の状態の日常的体験"と"無分別の分別の状態の日常的体験"を師家やその随身の人達より否定されて随分と遠回りをしてしまいました。結局、自分で実修し、自分で実証するしかなかったのです。余分な年月と余分な苦労をすることとなったのは誠に残念です。
また、その師家は曹洞宗の公認の師家でありながら非思量という言葉を一度も用いたことがなかったのです。このことも私の修行を大いに混乱させる原因になったのです。私の非思量が道元禅師の説いた非思量であることを確信するまで随分と年月がかかりました。
非思量によって明らかになった無分別の分別の様子も、私が最初から知っていた無分別の分別と同じであることがはっきりしました。最初から私は曹洞禅開祖道元禅師の説かれていた坐禅の要術通りだったのです。
非思量の状態をわずかでも知っている人は、そこから非思量の修行に直接入るのです。他の便宜的方法を用いることは間違いのもととなりますし、二度手間となってしまいます。最初の便宜的方法の癖がつきますので、それを捨てるのに一苦労することとなります。慣れたところに安住してしまうのが人の性なのです。
曹洞禅では非思量の修行に入る前の初心者向けの便宜的方法というのはありません。多少、禅について知っている人は数息観という観法や随息観という観法があるではないかと言うと思います。
曹洞禅では非思量の修行に資するということで数息観や随息観を用いることはないのです。
数息観も随息観もいくら習熟したところで、非思量に自然に必然的に移行していくことはないのです。数息観の観法の延長線上に非思量はないのですから数息観をする必要はありません。これは私の経験則です。30年以上も数息観をやってみて最後は数息観の癖が邪魔になり、それを跡形もなく取り去るのに数年を要しました。
近年、曹洞宗の老高僧が、”修行が数息観に始まって、この年になって再び数息観に戻って、禅の修行の真髄は数息観にある”と感慨を語り、”日々是れ好日の心境”と述べておられました。
非思量の修行にこのようなことはないのですが、どのようなことなのでしょうか、一度伺ってみたいものです。
曹洞禅に於ける非思量の修行は、非思量に始まってずーと非思量で、身心脱落も非思量で、聖胎長養も非思量で、死ぬ時も非思量なのです。
私達は誰でも、この世に生まれてから言葉を覚え発するようになるまでは非思量の状態なのです。非思量の状態というのは、私達の生まれて間もない頃の状態なのです。曹洞禅の修行は最初から乳飲み児の非思量状態に戻ってしまっているのですから、そこから戻る処は既にないのです。そこでよいのです。
よく世間で、魚釣りは「鮒釣りに始まって鮒釣りに戻る」とか椿園芸は「藪椿に始まって藪椿に戻る」とか言われますが、曹洞禅の修行は最初から戻るべき処に戻っての修行なのですから、長年修行を重ねた暁に戻るようなことはないのです。数息観が曹洞禅の修行の原点ではなく、非思量が曹洞禅の修行の原点なのです。勘違いをしていては正しい曹洞禅の修行はできないのです。
曹洞禅はいきなり非思量の修行に入るのです。初心者向けの修行方法があれば、禅の修行もいくらかやり易いのですが、そのような方法は開発されていないのです。
曹洞禅の修行は最初、非思量について道理(理論)を学ぶのです。
そして、次に非思量の実際の様子を体験的に知っていかなくてはなりません。
非思量の状態が分かったら、その非思量の状態を3秒でも5秒でも相続するように努力するのです。相続するための工夫を重ねていくこととなるのです。ここからは忍耐しかないのです。忍耐のエネルギーは無常心からもらうのです。修行が滞ったら無常心を思い起こすのです。
また、睡魔との強烈な戦いが始まります。眠気は非思量の修行にとって大敵です。眠気にずーと苦労させられます。
忍耐と努力と工夫のかいあって非思量の状態をある程度(10秒でも20秒でも)相続できるようになったら、併せて経行もやっていかれるとよいです。経行での非思量の状態の相続ができないと動中の禅の修行ができませんから大切な欠くべからざる過程なのです。
坐っている静中の坐禅修行からいきなり動中の日常生活に於ける禅修行(非思量の状態の相続)は極めて難しいのです。私は全くできず、すぐに日常の様々な縁に流されてしまって非思量どころではありませんでした。私の経験上、静中の坐禅中の非思量の工夫から経行中の非思量の工夫に移り、そして、日常生活の動中の工夫に徐々に移行していくと順調に非思量の状態の相続ができるようになります。
この行程をしっかりと踏んだ方が修行は確実に進展していくことを感じました。
経行中の非思量の相続ができるようになると禅修行は一挙に進んでいくのです。
1年365日、いくら毎日坐禅をしているといっても、動いて日常生活をしている時間の方が遥かに多くの時間を費やしているのですから動中の工夫をすべきなのです。その為には経行(歩行禅)がしっかりとできる必要があります。
ここまでは修行者は意志をもって非思量の状態の相続をするのですが、意志をもって非思量の状態を維持している間は身心脱落をすることはありません。
身心脱落に至るには非思量の状態の相続から無思量の状態にならなければならないのです。
無思量の状態というのは意志を働かさなくても自然に非思量の状態になっていることをもって無思量というのです。
日常生活そのものが自然に非思量の状態になっていることをもって無思量といい、無思量の状態に知らぬ間になっていて初めて身心脱落の条件が揃うのです。
無思量の状態に至って初めて臨界点に達して、何かの縁に触れて身心脱落するのです。無思量の飽和状態に至ると何かの縁によって、その飽和状態が崩れるのです。無思量の飽和状態が崩れる時が身心脱落なのです。飽和状態を崩す縁が何であるかは、人様々で、誰にも分かりません。
これを禅の世界では「機が熟した」「縁が熟した」と表現するのです。
思量を知っているのは認識の私です。
非思量を知るのは無分別の分別です。
無思量を知るものはありません。
身心脱落を知るのは無分別の分別心です。
禅の世界では悟った時は、手の舞い足の踏むところを知らずというぐらい歓喜すると述べている師家がよくおります。特に臨済系の修行をやってきた師家は必ず斯く言います。
ですから修行者も皆そのように思っているのです。間違った概念を植え込んで困ったものです。発言はもっと慎重であるべきです。
この歓喜というのは、人の悟りに対する根元的な法悦というものではなく、悟りへの期待心の大きさに並々ならぬものがあるからです。大きな期待心をもっての身心脱落はあり得ないのです。
非思量の修行は身心脱落への期待心を抱えたままの身心脱落はありえません。この期待心は名聞利養の心から生まれるものだから尚更です。
手の舞い足の踏むところを知らずという歓喜は、悟りへの大きな期待心を抱いて修行していた結果ですから、その体験は正しく身心脱落ではなく、意識変容状態の体験なのです。意識変容状態の体験であるならば、大きな期待心をもっていてもあり得ることです。ここの処は期待心が大きい為に、天才的なよほどの修行者でない限り間違えるところです。
曹洞禅の非思量の修行に於いては、期待心も待望心も自然に消滅していかなくては無思量に至ることもありませんし身心脱落に至るということもないのです。
期待心も待望心も、その本質は名利なのです。期待心が大きいが故に手の舞い足の踏む処を知らずという歓喜があるのです。道元禅師の述べている無所得・無所悟の非思量でなくてはならないのです。正しく非思量を相続していけば必ず無所得・無所悟の非思量になっていくものです。ここに至って初めて只管打坐となるのであって、初心者や非思量を相続できない修行者に只管打坐は無理なのです。
無所得・無所悟の身心脱落に先のような歓喜はありません。自然と必然があるだけの当然の身心脱落なのです。
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2019.2.17
非思量の工夫の最初の頃は、精神的におぼつかない、どっちつかずの、宙ぶらりんの不安定な状態であって、出来ても出来なくても、そのまま非思量の状態を推し進めいくのです。
非思量の工夫をしている時は、藁をもつかみたくなるような、不安定なおぼつかない精神状態にあるのが普通です。最初の頃から暫くの間、中途半端な感じであって、心を安定させることが出来る処はないのです。そのうち不安定なままが安定していることになっていくのですから妙なものです。
常に不安定のまま、つかまる処がないのが、正しく非思量が行われている証しなのです。
確かにという「事」も、確かにという「処」もないのです。確かにという「時」もないのが正しく非思量が修行されている証しなのです。
非思量を推し進めている時は、その状況に慣れるまで、自分にも、自分の正身端坐の姿勢にも、意識にも、見るものにも、耳にする音にも、自己の呼吸にも、数を数えることにも、丹田にも、法界定印やその掌にも、しっかり結んだ唇にも、額やこめかみにも、何処にでも、心を置いたり、心を集中させたり、意識を集中させたり、三昧となったりと、どこも依るべき処を作ってはならないのです。心が不安定なままの拠り処のない状態が正しく非思量が行われている状態なのです。
非思量の状態を工夫し、相続(維持し続ける)している時は自己の依るべき処が欲しいのですが、依るべき処がないのが正しく非思量の状態が保たれていると心得て下さい。坐禅中に自己の依るべき処があってはいけないのです。
この状態を維持していますと、段々と慣れてきます。そして、この状態が当たり前となって何の問題も、不安定さもなくなってまいりますので心配はいりません。暫くの辛抱です。
非思量である為には、耳にする音と、目にする物事と、自己に対峙している自己(心の中にいる自己)の三つの感覚の均衡を上手にとる必要があります。
この三つの感覚を宙ぶらりんのまま、どれにも極端に片寄ることなく均衡を上手にとると思量の起きる余地が少なくなって非思量の状態の相続ができるようになってまいります。
この三つの均衡の調整を上手にとらないで目と耳だけ、或いは目と自己の中の自己、或いは耳と自己の中の自己の存在の二つだけの均衡にすると思量が起き易くなってしまうのです。
非思量の為には聴覚と視覚と自己の中の自己(意識)の三つの均衡の調整が必要なのです。
この三つの感覚は必ずしも耳や目でなく臭覚でも触覚にしても構わないのです。ただ三つの感覚が必要で、一つは必ず自己の中の自己(意識)であることが必要なのです。
この非思量の相続に慣れて、出来るようになってきたら、聴覚と視覚の機能に比重を移していき自己の中の自己とそのまま対峙しながら、自己の感覚の薄い(弱い)処に居るようにするのです。その内に自己の感覚の薄い処(弱い処)があることが分かってまいります。
このようにして非思量を相続していくと顔のそれぞれのパーツ(頬・目・鼻・耳・額・唇等々)の存在感が一つずつ消えていくのです。パーツが一つ一つ消滅していって、最後に残るのは一般的に唇や眼や自己の中の自己(意識)などです。どれが一番最後になるかは人それぞれだと思います。身心脱落していなくても、般若心経の中の無眼耳鼻舌身意の意味が実感できるようになるのです。
私の場合は、どちらかというと眼の辺りに自己が一番残っておりました。二番目が唇の存在感です。その存在感も非思量を推し進めていきますと、段々と知らぬ間に薄く(弱く)なってまいります。そして、消滅してしまいます。時間の問題です。
眼の視覚、耳の聴覚と自己の中の自己(意識)の存在感覚の三つの均衡は完全な均等ではなく、それぞれへの比重のかけ方の工夫が必要なのです。いわゆるアンバランスのバランスを上手にとって非思量の状態を相続していくのです。
視覚と聴覚と自己のどれにより多くの比重を置くかは、その人の思量・想像の癖によって異なるのです。但し、自己への比重のかけ方は一番弱い方がベターです。
縁(出来事)に触れた時に、言葉による思考が起きる(動く)人の場合は耳にする音に注意して比重を置くのです。その物事の音を確かに耳にしつつ他の二つも覚知してバランスを取ると思量が出てくる隙間がないのです。
縁(物事)に触れた時に即、像・形・色に於ける想像が動く人の場合は眼前の目にする物に比重を置いて、確かに目にしつつ、三つのバランスを上手に取ると思量が動きにくいはずです。思量の動く人はそのバランスの取り方が悪いのですから、バランス・比重のかけ方を少しずつ移行させて微調整するのです。思量の動きにくいバランスの処を捜すのです。注意深く捜していけば、必ず見つかるので諦めないことです。このような心の行為を禅の修行に於いては「工夫」というのです禅の修行は工夫につぐ工夫なのです。
非思量という不安定な中で適切なバランスを捜して、そしてより良いバランスを取るのは楽ではありません。そのような工夫の中で、心(頭脳)の中の力を抜いていては日常の習癖となっている思量の生起を抑制することはできません。心にかなりの力を入れることが必要です。
三河足助の鈴木正三禅師の説く不動明王の憤怒の様相で心に力を入れるのは、一つの工夫で有効と思います。やってみる価値はあります。
以上のような工夫をしても、容易に思量の動かない状態になるわけではないのです。少しずつ、少しずつ正しく非思量の状態になって身心に馴染んでいくのです。
このような工夫をしていても安定して非思量の状態になっていることはないのですが、それをより安定させようとか、確認するようなことはしてはなりません。不安定なおぼつかない状態に於ける非思量ですが、それでも確実に非思量の修行になっていますので、ここは忍耐です。
非思量の修行の効果の自覚はありませんが、それは当たり前のことですから、気にせずに非思量の修行を推し進めていけばよいのです。
このように非思量の状態を相続していけば、自己の身心の存在感は、それほど気にならない処(身体・顔・頭等のパーツ)から消滅していきます。そのことに気付く時はありますが、気付いた処で何てことはありません。安定した非思量の状態になっていなくても、非思量の状態の相続に努力しているだけでも、自己の存在感は全体に一様に減少しているのです。
非思量の状態を安定して相続できなくても、まだら状態の非思量でも、非思量の状態を努力しているだけで、その効果は表面に出ていなくても、心の中に蓄積され、身心に馴染んでいくのですから安心して下さい。
非思量を上手にできなくても、その努力と忍耐する期間が曹洞禅の修行にとって大切なことなのです。
以上のことは、現代の脳科学的に言えば、
既に出来上がっている大人としての神経回路が意図的に非思量の状態を維持することによって、確実に変化して無我の新たな脳回路が出来上がっていくのです。
既に大人の脳回路として出来上がり、安定して毎日機能している脳神経回路を、禅修行によって作り変えるのですから、容易なことではありません。脳神経回路を反自然的に作り変える精神行為が禅の修行という形をとって行われるのです。
禅の修行は生体の脳内の重大な変化を伴うものですから、容易な急激な変化は成し得ないのです。徐々に変化がなされるのです。脳の回路の変化は一挙になされることはないので、修行として時間がかかるのは当然なことです。
非思量の状態を相続していない修行者が祖師方の言下で大悟するようなことはありません。身心脱落(大悟、解脱)に到るには正念の相続や非思量の相続を欠くことは出来ないのです。脱落(大悟)に公案や数息観や随息観や三昧等の補助的な方法はいらないのです。非思量か正念があればよいのです。非思量も正念も内容は同じです。非思量は曹洞禅で用いる言葉であり、正念は臨済禅で用いる言葉であるという違いだけです。
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2019.4.17
曹洞禅の修行である非思量の状態を相続(維持)していきますと、修行の機縁が熟して(臨界点に達して)、身心脱落(悟ること。解脱すること。)に至ります。
身心脱落に至ると次に掲げることが心の中から消滅してしまいます。
消滅するというと不利益なこと、マイナスの効果しかないと思いがちです。
しかし、一面、不利益なことしかないように見えても、それは他の面から見ると大きな効果、メリットがある場合も多いのです。物事の一面を見ただけで否定したりせずに、よく考えることです。
禅の修行の場合、身心脱落によって人間の本質的な多くのことが消滅します。それらは森羅万象の中で生きていく上に必要不可欠なものとして天賦の機能(能力)として授けられたものです。脱落によって本質的なものが消滅してしまう代わりに、より大きな願いが達成されるのです。それらは真の自由と平安と退屈のない心です。
これから一つ一つ脱落によって失う機能(能力)について説明してまいります。
1〉 自己(自分)と他己(他者、相手)の存在が消滅します。その結果、自分と他己の区別が消滅します。自他の区別が消滅しても無分別の分別心(本来の分別心)によって、その区別はできますから日常生活は問題ありません。
2〉 平素、誰でもが自覚(覚知)している自分と自分の身体が消滅してしまうのです。それと同時に他者の存在も心の中から消滅してしまうのです。
私達は自分の心の中に他者の存在を作るのです。眼の前に居る他者の身体を見ただけでは、他者という感覚は生まれません。私達が自らの心の中に他者の存在を作って初めて他者が自覚できるのです。このようにして眼前の他者の身体を見て他者と認識できるのです。他者を認識するのは意識なのです。他者を心の中に作り上げるのも意識なのです。自分の心の外に他者という存在があるのではないのです。
3〉 死ぬことの不安・恐怖の感情が消滅してしまいます。
4〉 誰でもが持っている利己性(利己心)が消滅します。それと同時に潜在していた利他性(利他心)が顕現化します。これは仏教で説く慈悲心です。
5〉 名誉・名声欲(虚栄心、自尊心)が消滅します。
6〉 財欲(物欲、金銭欲)が消滅します。
7〉 他者の言葉に動かされない人となります。他者の言葉にいちいち動かされることがなくなります。
8〉 孤独感が消滅します。
9〉 以上の結果、様々な人の心を縛るもの(形而上)、抑制するもの、阻害するものが消滅してしまうので真に自由な人となります。
曹洞禅に於いては悟り(解脱)を身心脱落と言います。
身心脱落は文字通り、私達が有ると思っている(感じている)「私の身体全体及び身体の各部分(眼・耳・鼻・口・唇・舌・顔・手足・背中・等々)」と「自分という自己」が心の中(精神)から抜け落ち、その存在が形而上なくなってしまうことです。
この身体というのは物理的実体としての生身の肉体ではなく、私達の意識が創り出した、心の中に存在している身体なのです。この身体は実体がない影だけの存在です。
私達が自分の身体としているのは、この心の中に存在する実体のない身体であって、これは感覚だけで思い起こしている身体なのですが、それはかって見た実際の記憶の身体ではないのです。
その身体を観ているのは意識という心眼、或いは、意識の作り出している心眼です。実体のない心眼で、実体のない身体を観ているのです。
身心脱落の心は、この場合は自己のことです。この自己は今でいう意識、自意識のことです。自分を見ている心の中のもう一人の自己のことです。
悟る(身心脱落)ことによって、以上の身と心が精神(心)の中から抜け落ちてしまうと、人間という動物の天賦の機能(能力)の重要なもののいくつかが消滅してしまいます。この身心脱落(身と心の消滅)は森羅万象の中を生き抜いていく為に必要欠くべからざる機能(能力)に対して生ずるのです。
これは脳の神経回路に重大な変化が生じた結果であることが容易に推測できます。単なる見解・思想の変化ではないからです。
禅の修行というのは一般的な宗教の祈り、瞑想や、欲望を断ち克服する修行のような人間的な形而上のことだけでは済まないのです。すばらしい人生訓や処世訓を生み出すような修行ではないのです。万能の神の存在を揺るぎなく信じ切る修行でもなく、神の御心に沿うような宗教的道徳、倫理観を培う為の修行でもなく、社会的に尊ばれる人格者を創る為の修行でもないのです。
真の自由と安心と満足を得る為の修行であり、自らを自らの手で真に救う為の修行なのです。
そのような素晴らしい境涯を心底から得る代りに失ういくつかのことがあります。その失う大きなものの一つに利己性(利己心)があります。この利己性は自己保存本能と自己遺伝子保存本能を全うする為になくてはならない重要な性(機能)なのです。この利己性がなくなると自己保存本能と自己遺伝子保存本能が保障されないこととなるのです。
禅の修行に於ける悟りは、動物としての人間の天賦の本能や機能(能力)を変えてしまうほどの結果をもたらのです。それは修行者が望むと望まないとに拘わらず生じてしまうのです。そこには修行者本人の選択の余地ありません。
修行者本人が決めることができるのは、非思量の修行をするかしないかの選択のみです。非思量の修行の結果に選択の余地はなく、それは必然の結果です。
そして、いかなる必然の結果も、満足はあっても一切の不足も不満も生じないのです。それはとても有難いことであり、素晴らしいことです。絶対的安らぎと満足と自由が保障されるからなのです。それらは死をも越える安らぎなのです。満足と自由なのです。この死をも越えるというのは、死が訪れてきても、その死によって自らの安らぎと満足と自由が揺らぐことがないということです。満足して平常心のまま死を迎え、自由の中に死を迎えるということです。
禅の悟り(身心脱落)によって人間の天賦の機能(能力)のうち、どのようなものが消滅してしまうのか上記 1〉 2〉 3〉 4〉 5〉 6〉について、更に詳しく説明してまいります。
1〉 「自己と他己(他者)を区別する機能が消滅してしまいます。」
このことは意識が自己と他己(他者)を区別する機能をもっていることを意味しています。
我々人間に限らず、いかなる生き物も必ず自己と他己を区別する機能を持っているのです。いかなる生物もすべて自己と他己を区別して生きているのです。
生物を定義するとすれば、「自己と他己を区別する機能を持っている存在」ということになるのです。
その区別する方法と手段は、その生物によって様々なものがあると思います。五感の何れかを用いて区別をすることと思います。
人間のように意志を持った人間そっくりのロボットを作りたければ、まず自己と他己を区別する機能を作り上げなければならないのです。それには人の意識(動物の意識も同様です)はどのように自己と他己を区別しているかのメカニズムを調べ上げる必要があります。このメカニズムが明らかにならなければ、ネコらしいロボットネコを作ることは不可能です。
自己と他己の区別ができないと自己保存本能を全うする為の排斥・攻撃相手を間違えてしまうことがあり得るからです。
生体の自己免疫不全と同様の事態が生じ自己破壊に至ってしまう可能性があるからです。また利己性が正しく機能しなくなる可能性も大きくなるのです。
禅の悟りに至ると自己と他己が消滅してしまいます。自己と他己が心の中から消滅してしまうことは、自己と他己を区別する動物本来の機能が消滅してしまうことを意味しているのです。
自己と他己の区別が消滅して自己と他己のない精神世界に生きることとなるのです。
この状態を禅門に於いては「自他一如」と言うのです。
この自他一如という言葉を師家は「自己と他己が一体となってしまうのだ」と説明しています。自己と他己が一体となって、それがどのようなものとなり、そして、それがどのような働きをするのかを説くことはないのです。よく見えていないのでしょう。
実際は、自己と他己が融合して、或いは、どちらかがどちらかを吸収して一体(一つ)になってしまうわけではなく、自己と他己が心の中から消滅してしまった状態を自他一如と言うのです。
ある高名な師家は「悟ると自己と他己が一体となって大我とも言うべき宇宙的な自我になるのだ」と説明しております。
悟ると大我とも言うべき「自我」が従前の自己に代わって生まれるわけはないのです。自己なき「自己」が新たに生まれるわけでもなく、他己なき「他己」が従前の他己に替わって生まれるわけでもないのです。自己も他己も意識が自らの心の中に創り出した精神的な存在です。物理的な自己と他己の生身の肉体・身体には自己という感覚も他己という感覚もありません。
自他一如の精神世界は身心脱落をした祖師方以外の全く知らない感覚なのです。一般の人には想定もできないのです。ここの処は禅語で説く「冷暖自知」であり、「不立文字」の世界なのです。
2〉 「自分の自覚(認識)している自己の身体と自分の中の自己が消滅してしまうのです。そして、自分の認識している他己(他者)の存在が心の中から消滅してしまうのです。」
見ている自分も見られている自己も消滅してしまうのです。当然、他人から見られている視線も他人を見ている視線も消滅してしまうのです。
これを曹洞禅では身心脱落(悟り)と言い表しています。また更に、自己の身心脱落に続いて、「他己の身心及び自己の身心をして脱落せしむるなり。」と道元禅師は説いています。
悟ると心の中の精神上の身体と心の中の自己が同時に消滅してしまうのです。それは身体と心(この場合、自己の中の自己)が一如だからです。つまり、身体と自己は意識そのもの、或いは意識が作り出しているからです。
身と心(自己)が意識によって作り出されたもの、或いは意識そのものの故に、身心脱落(悟り)によって意識の存在感が消滅すると、それと共に意識そのもの、或いは意識が作り出した身体と名付けるべきものと心(自己)と名付けられるべきものが消滅してしまうのです。
私達が普段自覚している身体があるという感覚や、なんとなく心に見えている身体を自分の実際の身体と思っているのです。実生活の上では、このなんとなく見えている精神上の身体と生身の身体の区別はありません。また、その必要もないのです。ただ、禅の修行をしていくと、その区別が明らかとなるのです。そして身心脱落という表現に矛盾のないことも明らかになるのです。
「身心脱落」の心は、この場合は自己のことです。私達の心の中にいるもう一人の自己のことです。この身は私が認識している身体のことですが、生身の肉体のことではありませんので注意が必要です。この身と心の正体は意識なのです。常識では考えられないことなのですが、この意識が私達の自覚(認識)している身体と自己を精神内に創り出しているのです。更に言いますと、他者も自らの心の中に意識が作り出した存在なのです。
「身心脱落」の「心」は「佛道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり」の自己のことです。
禅門では、言葉の用い方は一つの意味だけでなく、いくつかの用い方をしているのが普通です。祖師方が自ら用いる言葉の用い方も、定義も説明もしていないのが一般的なのですがら注意が必要です。
・「自己を忘るるなり」というのは身心脱落のことであり、悟りのことです。
・「万法に証せらるるといふは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
「万法に証せらるる」というのは身心脱落した状態の様子を言い表した言葉です。この様子は自ら脱落してみなければ分からない様子です。
身心脱落というのは自己の身心の脱落であり、それと同時に並行して自己の心の中に創った他己の存在感(身心)の脱落なのです。
「他己の身心をして脱落せしむる」というのは、私達の意識が他己の存在を私達の意識の中に創り上げることを意味しているのです。
ゴータマ(シッダールタ)が悟られた時に「我と大地と有情と同時成道」と述べられたということでありますが、これは「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と同じ意味です。ゴータマ(シッダールタ)の心の中から我れと大地と有情が同時に脱落したという意味です。
「我れが悟り大地と有情も同時に悟った」と解釈してしまうのが一般的なのですが、それは身心脱落の様子が分からないために斯く解釈をしてしまうのです。
身心脱落の様子に少しでも近づきたかったら非思量の状態の相続に精進するのが一番の近道です。
禅の悟りというのは、具体的に実際的に心の中(頭の中)から自己の存在を完全に忘れてしまうことであり、身心が心の中(頭の中)から脱落(消滅)してしまうことなのです。脱落してしまうとそれを知る自己も脱落してしまうのです。脱落したことを知るのは無分別の分別心によるのです。ここの様子を道元禅師は「万法に証せらるるなり」と表現しているのです。無分別の分別が働くことを森羅万象の側から見ると、万法に証せらるるという表現になるのです。
身心脱落すると自己の蘇生はないのです。これは自己(意識)を生み出す脳の神経回路に重大な変化が生じたことを意味しているのです。
身心脱落した禅僧の脳を最新の脳科学の技術によって調べ、そのデータを残しておくべきと考えております。30〜40年前の脳波を調べたような観点から禅の悟りを調べても意識の脱落と脳の神経回路の変化の解明はできないと考えます。
当時、この研究・調査をされた先生は身心脱落の原理が全く理解できていなかったのか、脳科学の研究が遅れていたのかのどちらかだと思います。
3〉 「死の不安・恐怖が消滅してしまうのです。」
禅僧の死に方に坐脱立亡という特殊な死に方があります。
禅宗の歴代の祖師方や禅師方に多く見られる特別な死に方で、それは禅僧自らが死をある程度コントロールしていることを示しているのです。これは死の不安や恐怖を解決しているからこそできることなのです。
禅の修行は生死の本質を明らかにし、その不安・恐怖から解放されることが究極の目的とされているのです。
毎晩の坐禅の最後に木版を叩いて「生死事大無常迅速、各々宜シク醒覚スベシ、謹シンデ放逸ナルコト勿れ」と担当の僧が唱えるのです。
「生死は最大事であり、無常は迅速に移り去る。修行者各自、覚醒して坐禅に励み、謹しんで勝手気ままににすることなかれ」という意味です。
祖師方、禅師方は身心脱落をして生死の本質を明らかにし、死の不安や恐怖を解決したのです。
坐禅の修行によって人間の最大の恐怖と不安をもたらす死を解決してしまったのですから、それが安楽の法門といわれる所なのです。
死の恐怖・不安は人間だけに限らず、特に哺乳類には人間同様にあるのです。それは哺乳動物に親しく接して観察していると推察できるようになるものです。
生死の生も、死も、生きているということ死ぬということも、その本質は同じなのです。同じことの裏表の関係なのです。その為に生だけとか、死だけとか別々に捉えずに生死という言葉で一つのこととして取り上げるのです。
生死という概念(認識)を司る心が縁によって生となり縁によって死となるのです。
生死を創り出すのは意識です。生死の不安や恐怖を作り出すのも意識なのです。
身心脱落して自己(我、意識)が脱落してしまうと、生死の概念も、生死の不安や恐怖も同時に消滅してしまうのです。
坐脱立亡というのは禅僧特有の死に方で、普段通りの日常生活の中で動作の最中のまま、その状態で亡くなり硬直してしまうのです。立っていたら立ったまま、歩いていたら歩いているまま、坐禅をしていたら坐禅をしたまま、自らのコントロールで死を迎えるのです。それを坐脱立亡というのです。
鎌倉時代の京都の臨済宗東福寺派本山開山の聖一國師は生死について次のように説いております。
「一心本より不生不滅なる処を悟りぬれば(身心脱落をすれば)、自他の差別もなく(自己と他己の区別もなく)、善悪憎愛もなく(是非善悪、分別もなく)、・・・
2019.4.22
ー4/17記載の続きですー
全く無念無心なり(完全な非思量です)。是れを生死即ち涅槃と云へり(是れを生死がそのまま安らぎへと転換したということです)。」
これは生死の問題が究極的に解決することを説いた一文です。
また次のような一文もあります。
「佛祖は一切の諸法において(佛祖は一切の出来事、一切の諸縁に対して)、一念も生ぜずして無念なるが故に(是非善悪を思わず分別することなきが故に)、生死において自在を得たまへり(生死の中にあって自由自在の心を得たのです)。
衆生は一切の萬物において念を生じ著の念があるがゆへに(一般の人々は森羅万象、一切の諸縁に対して、是非善悪の分別をし、それに執着するが故に)、生死に流転して(生死、因果の中を流転し)、念に苦を得るなり(苦しい思いをするのです)。
永平寺開山曹洞宗門祖道元禅師は生死について次のように説いております。
「一念起こらざれば(いついかなる時も一念も起こらなければ) 生死ここに絶す(生死ということが消滅してしまいます。念頭になくなってしまうのです。)。
思量分別なければ(身心脱落すれば)、萬法において明らかなるべし(事にあたり物に応じて生死が消滅してしまうことは明らかです)。」
以上、祖師、御開山方の言葉から分かるように、禅の修行を全うして身心脱落すれば生死の問題は解決し、生死の苦悩、生死の不安、恐怖から解放されるのです。
人類の念願である、死の恐怖、苦悩から解放される道が今から二千数百年前にゴータマ(シッダールタ・佛陀)によって発見されたのです。その方法の実践の道が、佛教各宗派の中の禅宗に現代まで、その姿を変えずに連綿として受け継がれてきているのです。
身心脱落ということが現代でも実際にあるということ。無我(無心)という精神状態があるということ。生死の苦悩・恐怖・不安が消滅してしまうということ等々があるということを実証(検証)する禅僧が激減しているのです。
以上のようなことが実際にあるということを知っている人は、日本人の中でも極く僅かなのです。その実践の道を修している禅僧は更に少ないのが現実なのです。残念なことです。
4〉 「身心脱落すると利己性(利己心)が消滅してしまうのです。その結果、利他性が顕現化してくるのです。」
利己性というのは自らの欲望の充足を最優先して、それらを満たすことのできる価値のある有形・無形の資源(利益)を他者に分け与えるのを拒否する性分をいいます。その利己性の行動を生み出す心を利己心といいます。
身心脱落すると利己心がなくなってしまいますので自己保存本能も自己遺伝子保存本能も消滅してしまいます。この二つの本能は意識の働きの結果、必然的に全うされという因果関係にあるのです。
意識の機能の重要な一つは利己性です。
この利己性は曇り空の雲のように人の佛性の全般を覆っている機能なのです。太陽の存在を隠してしまうのです。つまり、佛性、利他心、慈悲心の活動を抑制してしまうのです。この利己性の故に人の本性は悪であるという哲学的性悪説が成り立つのです。
この利己心は意識が天賦の機能として備え持っているものなのです。
利己性は精神的免疫機能というべき機能を意識が担っているが故の機能です。他己を非自己として排除する精神的免疫機能ともいうべき機能を全うする為には利己性が必要欠くべからざる機能なのです。
自己保存本能を全うする為に他己(他者)を非自己として排除するのは利己性だからこそできることです。
精神的免疫機能は自己保存本能と自己遺伝子保存本能を全うする為の機能なのです。
利己性が消滅すると抑制されていた利他性が顕現化してきます。それは人間の本性は利他性だからです。これは性善説を裏付ける隠された本性なのです。
人の本性である利他性に意識が介在すると、利己性が心全体を優勢して支配するようになるのです。動物としての至上命題である自己保存本能と自己遺伝子保存本能を全うする機能を意識が天賦の性として持っているからです。
自己保存、しいては種の保存を最優先課題とした神は人間に限らず動物に利己性を賦与したのです。
人間の性が利己性に覆われ支配されているからといって利他性が全く表面に出る余地がないかというと、そういうことはないのです。縁に応じて利己性を抑制して利他性が現れることも多々あるのが人間の人間たる所以なのです。そこには信仰(宗教)の理想が大きく関与しているのです。
人の全ての精神機能が大人となって、充分に成長した意識の介在によって利己性になっていますが、身心脱落(悟り)による意識の消滅に伴って利己性も消滅してしまうのです。そして、人という動物の本性である利他性が顕現化してくるのです。
これが佛の慈悲といわれる普遍的な愛なのです。慈悲というのは利己性のない愛のことです。
「慈悲するうちは(意図的に慈悲的言動をする内は)、慈悲に心あり(自己即ち意識がある)。慈悲熟する時(身心脱落して慈悲的言動をする時は)、慈悲しらず(本人に慈悲を施している自覚はない)、慈悲して慈悲知らぬ時佛といふなり(慈悲を施していながら自らの慈悲に気づかない人となった時佛(脱落している)というのです)。」という一文があります。
至動無難禅師の言葉です。身心脱落した禅師の言葉ですから間違いはありません。
利己性というのは社会環境や生活環境の条件によっては際限なく成長する性質を持っています。
佛性というのは利己性(意識と一体)が脱落した残りの身心の活動の全てです。自己(意識・我・自我)の脱落は即、利己心の脱落(消滅)なのです。佛性はアウシュビッツ収容所のような発想を生みません。ユダヤ人の虐殺・殺戮のような発想は利己心がもたらすのです。人間の全ての身心の活動が佛性によってもたらされるわけではないのです。利己心(意識)によってもたらされるものも多いのです。利己心は佛性ではないのです。注意が必要です。
人間の全ての活動は佛性の発露であって、制御することも、抑制することも、捨てるものもない、そのままでよいのだ。抑えるものはない、ありのままでよいのだと説く師家がありますが、ヒットラーの言動・命令やオーム真理教の教祖麻原彰晃の言動・命令を佛性とどのように整合性を持たせるのでしょうか? 甚だ疑問です。狂っているの一言で済ませることは許せません。それらは佛性の発露ではないのです。利己心の際限なく増大した結果のものなのです。
2019.4.27
5〉 「名誉(名声)欲が消滅するのです(名利が消滅する)。」
社会的に肩書きや地位や名声を求め、世間の賞賛を受けることを望み、不特定多数の他者から羨望されることを願い求める心が消滅します。また、それらを快として喜ぶ気持ちも消滅するのです。それに伴って自尊心も虚栄心も消滅してしまいます。
その反対に、汚名をかけられたり、自尊心を傷つけられても、屈辱的な言動を受けても、心がさほど騒ぐこともなく、気にせずにすむのです。侮辱だとして瞋恚(怒り、うらみ)の心も動くことがないのです。平常心でいられるのです。
名誉を求めるのも、汚名や恥辱を忌避するのも自己の中の自己なのです。その自己が脱落してしまうのですから、基本的に何を言われても、されても、気にならずに聞き流せられるのです。
そして、他人の視線というものも、自分の他者への視線というものもなくなっているので、他人の言動が何であれ、それほど気にならないのです。
視線を作るのは自己の中の自己、つまり意識なのです。
身心脱落すると、自己の視線も他己の視線も、視線というものがなくなるので、実に気持ちが楽になります。衆人の中でも、衆人の視線が全く感じられないのですから有難いことです。
身心脱落すると、賞賛を受ける自己も羨望する他己も、その存在が心の中から消滅してしまうので、名誉欲(心)そのものが成り立たないのです。名誉欲には自己と他己の存在が必要で、どちらか一方が欠けても成り立ちません。自己、他己の両方が欠けたら尚更成り立ちません。
名誉(名声)欲や自尊心、虚栄心は自らの心の中に他人が存在していても、自分が存在しなければ成り立たない性質を持っているのです。名誉(名声)欲、自尊心、虚栄心は、自らの心の中に自己も他己も存在するから成り立つ欲望なのです。
身心脱落すると、賞賛され評価され羨望を受けるべき心の中の自己も、賞賛し評価し羨望してくれる他己も、心の中から消滅してしまうので、名誉欲は何ら価値がなくなるのです。単なる雑音(ノイズ)でしかないのです。
自己と他己の存在は、各自一人一人の意識が自らの心の中に創り出す精神世界なのです。
物理的に存在する自己の生身の身体は、精神世界では自己ではないのです。同様に、物理的に実体のある存在である生身の眼前の他己(他者)は、精神世界では他己(他者)ではないのです。
ここのところは身心脱落するか、ある程度、非思量の状態が日常的になっていないと分かりにくいのです。
2019.5.14
6〉 「利欲(財欲、物欲、金銭欲)も消滅してしまいます。」
禅門では利欲も単独で言うことはなく、名利と二つ合わせて表現することが多いのです。名聞の欲(名誉欲)も利養の欲(利欲)も根が同じで表裏の関係にあるのです。利欲もつまるところは他者の存在が必要なのです。
大金持ちになってプール付きの豪邸に住むのも、最高級車を何台も乗り回すのも、高級腕時計を腕にはめるのも、大粒のダイヤモンドのネクタイピンを着けるのも、それを自慢する為なのです。そして、それを羨ましがらせて羨望の的となりたいのです。利欲の目的は名誉欲なのです。
しかし、身心脱落をして自己と他己の存在が心の中からなくなってしまうと、それを自慢したいと思う自己も、それを見せびらかして自慢し羨ましがらせる他者も精神世界に存在しなくなってしまうので、利欲は無意味となるのです。自己も他己も存在しないので利欲達成の喜びもないのです。
人にとって生活し生きていく為に必要な資財・物資があればよいのですから、それ以上を求める利欲は意味がないのです。いわゆる小欲知足の人となるのです。他人の視線もないし、自己の視線もないし、失う富もないし、守るべき財もないし、獲得しなければならない金銭もないので、心が安らかな日常であることは確かです。当然、人生の成功者になることはありませんが名利に動じない人となることはできます。
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2019.4.28
身心脱落をして、心の中から自己と他己が脱落、つまり消滅すると、名聞利養の欲(心)も消滅してしまいます。
佛教では名聞利養の欲(心)を名利と短くして言っております。
名聞というのは名誉欲(名声欲)のことであり、利養は財欲・金銭欲のことです。この二つの欲は一般的には別々の欲として五大欲の中では取り上げられていますが、佛教では別々の欲としては扱わずに名利として一体の欲として扱っています。その理由は名聞も利養も同じ心から生じるからです。
利養を求める心も、自らの財・富を他者から誉められたい、他者に自慢したい、世の中の人々から羨望の気持ちで見られたいということが本音だからです。つまり利養を求める気持ちは名誉欲そのものですから、そこに観点を置いて名利と言いならわしているのです。
身心脱落をして名誉欲(名声欲)が消滅してしまいますと自尊心や虚栄心を問題にする心も消滅してしまいます。名誉(名声)を求める(欲する)ということは、汚名、恥辱を敏感に嫌うことを意味しているのです。名誉を欲する心も汚名を忌避する心も同じ心だからです。同じ心が、ある時は名誉を求め、ある時は汚名を嫌うのです。その心というのは心の中にいる自己なのです。
心の中の自己の存在が強ければ強いほど、心の中の自己にしがみつけばしがみつくほど、名誉(名声)を求める心が強くなるのです。そして、心の中の自己の存在が強い方向に動いていると汚名には敏感に反応して嫌悪し、心の中の自己を守ろうとすればするほど、恥辱には過敏に反応して瞋恚の心が動くのです。
身心脱落して自己が消滅してしまうと、恥を恥と思う自己が存在しなくなってしまうのです。恥をかく顔が無くなってしまうのです。顔から火の出る、その顔がないのです。楽なのです。泰然自若としていられるのです。
恥をかくべき顔がないのですから、そうなったら何処で恥をかくのでしょうか、人は自らの顔がないと恥をかけないのです。
人の顔というのは肉体の生身の顔ではなく心の中にある顔なのです。心の中の自己の顔で人は恥をかくのです。人はその顔がなくなれば、恥をかけない人、恥をかかない人となるのです。自分の顔は心の中にしか存在しないのです。実際の肉体の生身の顔を、自分の顔と自覚することはないのです。私達が自覚している顔は心の中に意識が本物のように作った架空の顔なのです。この架空の顔を実体のある実際の顔と思って生きているのです。だからといって、それで何の問題も生じませんし、何の支障もありませんので、それを気にすることはないのです。ただ、それを限度を越えて過剰に気にする場合に問題が生じるのです。
それほど大した理由もないのに、世の中の他人の視線が自分の顔に集中していると感じていることがある場合に問題が生じるのです。
しかし、この他人の視線の過剰な視線というものも、その実際は自らが自らの心の中に作っているもので、実際はそのような他人の視線というものは存在していないのです。自意識が自らの心の中に作り出したものです。幼ない児を見てごらんなさい。彼らは他人の視線など感じないのです。それは他人の視線も、自分の他者への視線も、元々この地上に客観的には存在していないからです。
幼児は意識の生長、発達が未熟で、心の中に未だ自己を作りきっていないのです。他己も作りきっていないのです。自己も、他己も作りきっていないので当然、他人の視線も、自己の他者への視線も、あやふやなままなのです。それはまだ存在していないと言っていい状態です。その状態を天真爛漫というのです。心の中に、自己の視線も他己の視線もない心を指すのです。当然、自己の中の自己も、自己の中の他己も、その存在が充分確かなものとなっていない心の状態、幼ない児の様子のことです。
無心というのは或る一面から観ますと、他人の視線も、自己の自己を観る視線も、自己の他己を見る視線も存在しない心(精神、心理)を言うのです。
一般の大人が天真爛漫ということはあり得ません。自己の視線も、他己の視線もないということはあり得ないからです。
ただ、大人によっては天真爛漫の風を装うことはいくらでもあります。このようなことは大した価値はありません。中味は名利のある普通の人なのですから・・・。
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