曹洞禅 修行僧

大角幻了おおすみげんりょう

坐禅の実践と自意識の解放

悟りへの飽くなき挑戦を続けましょう

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『 第五章 』

非思量の相続を長年続けてきた今、私に見えている事 

非思量の相続の実践にて、修行が深まるにつれ、それまで祖師方の語録や法語の曖昧なはっきりしない点が明確になってまいりました。
今まで公開してきた内容と重なる部分が多々ありますが、時間を経るに従いながら徐々に深まった内容となっております。
時系列で公開してきましたので、それぞれがその時点での私の等身大の修行の状態です。
できるだけ読者の皆様に理解して頂けるように、くどいくらいに説明してまいりました。
既にこのHPを読み続けていられる方は、同じことを繰り返している箇所が多々あると思われているでしょうが、それは初めて読まれる方にも分かり易くということで繰り返しで記載してまいりました。
私のHPを参考に、非思量の相続を実践し、少しでも非思量の状態にいることが可能になれば、このHPの内容を理解することは容易たやすいことです。
私のHPを初めて閲覧される方は、『はじめに』から『第一章』→『第二章』→『第三章』・・・と、できれば時系列で読まれることをお勧めします。
このHPは非思量の相続ができるようにならなければ正しく理解できる内容ではありません。
近代・現代の、師家方や悟ったとする在家の方が説かれる事とは異なる内容ですのでご承知おき下さい。
残念なことですが、近代・現代を通して、正しい伝統的な禅の修行はなくなってしまいました。
その結果、底の浅い安易な悟りばかりになってしまっているのです。
禅が衰退していくのは当然のことです。
世界的な識者を納得させるだけの深い中味がなくなってしまっているからです。


‐目次‐

  1. 禅門の言葉
  2. 先ず、非思量の状態を知ることです
  3. 正しく修行している禅僧か師家かを見分ける手立ては
    非思量を問うしかありません
  4. 臨済宗正脈 愚堂東寔ぐどうとうしょく禅師
    (禅修行のマニュアル化を目的とする白隠禅師の公案禅)
  5. 【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正
    「音がすれば聞こえる。この作用体を仏性という。」
  6. 【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正
     「ただパン!(手を叩かれる) これだけです。」
  7. 【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正
     「即ち悉有しつうは佛性なり。」「六根は開放せられ・・・。」
     「間違いの根源は人間的な見解」
  8. 【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 
     「身体全体が佛性でできている」
  9. 【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 
     「自分を捨ててご覧なさい   (1)」
  10. 【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 
     「自分を捨ててご覧なさい   (2)」
  11.  佛性はいつ現前するのか
      身心脱落の前か、後か、常にか
  12. 【 原田雪渓老師著「禅に生きる」】 間違いの訂正(1) 
     「人を憎む心も、殺したくなる心もすべて佛性である」
     「どんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行です」
  13. 【 原田雪渓老師著「禅に生きる」】 間違いの訂正(2) 
     「人を憎む心も、殺したくなる心もすべて佛性である」
     「どんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行です」
  14. 佛性は成佛(身心脱落)よりさきに具足せるに非ず
  15. 非思量を否定する飯田とう隠老師
  16. 飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(1)
  17. 飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(2)
  18. 飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(3)
  19. 飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(4)
  20. 飯田とう隠老師の隠れた神経症(1)
    (アルコール依存症と不安神経症)
  21. 飯田とう隠老師の隠れた神経症(2)
    (アルコール依存症と不安神経症)
  22. 名利と利己心


禅門の言葉

2022.8.3
善悪の判断は言葉によってなされます。
言葉がなければ善悪の判断はできないのです。
頭脳の中で言葉を用いることを、“思量す”とか“念ずる”とか言います。
声帯を用いる場合を“話す”と言うのです。

快・不快は無分別心によってなされます。
無分別心の働きは、非思量の状態になって自分の起居動作を観察すると分かります。
快は好であり、不快は悪なのです。
好悪に理由はありません。理由があるとすれば、それは後付けです。

快・不快は善悪ではないのです。
善悪は人間が作り出した人間にだけ通用する価値観です。
快・不快に言葉・想像は必要がないのです。
快・不快は、思量・念が必要ない精神世界です。
初一念の動く前の心理世界です。父母未生以前の心の働きです。
縁が動くと快・不快も動き、縁が消滅すると快・不快も消滅するのです。
この関係だけで済ますことができれば、人には迷いも苦悩も生ずることがないと言えるのです。
是非も、凡聖も、佛祖も、佛法も、言葉が無ければ存在しません。

声帯を用いずに言葉を用いる場合、言葉を頭脳の中で用いているのです。
それを“思量”とか“念”と言います。
脳内で象・形・色・動きを思い描くことを“想像”と言います。
禅門に於いて思量・非思量という場合の思量は、念・想を指します。
単に思う・考えるという場合は、言葉を頭脳の中で用いて、それを音声に出さないことを指します。
思う、考える、想像が自然になされていても、意図せずになされていても、それが習慣であっても、それらは「思量である」と定義します。
思量が知らぬ間になされても、意図的であっても、そのどちらとも禅門に於いては「思量である」とするのです。
禅門に於いて、非思量という状態は厳密です。
非思量に曖昧さはないのです。



ところで禅籍(法語や語録)によく「心」という言葉が出てきます。
これは「しん」とも読み「こころ」とも読みます。
一般的に「心」というと、人間の精神作用の根本となるもの、精神そのもの、気持ち、感情、心情、本心、意志という意味でアバウトに受け取ります。
禅門に於いても、同様の意味で用いていることも多いのですが、それ以外に重要な意味で用いていることもあるのです。
それは「考え・思い・思慮」という意味です。
これは禅籍(法語や語録)を読解していく上で極めて重要なことですが、この区別をきちんとして提唱しているお師家さんは、私の知っている限りでは一人もおりません。
禅の法語や語録に於いて、「心」は念・思量という意味で用いることが多いのです。
殆どのお師家さんは「心」を曖昧なまま用いていますので、正しく読解がなされていないのです。
読者も「心」は分かり切ったこととして目にも留めずに読み流してしまっていますので、正しく曹洞禅の修行がなされず、禅の知識は増えれども、禅者としての器量が深まっていかないのです。
「心」を正しく使い分けて読み進めていくことによって、禅の修行も進展していくという関係にあるのですが、このことに気が付いているお師家さんは現代には一人としていないように思います。


それでは次の一文の「心」はどのように解釈するのか考えてみて下さい。
私が指摘しなければ、「心」の意味に、何の引っかかりもなく、何も考えずに、当然のこととして読み進めていたと思います。

ただし、生死の心有りて、造作し、趣向せば皆、是れ汚染なり。」

この「汚染おせん」は道元禅師の説く「不染汚ふぜんな」に対する「染汚ぜんな」のことです。
この前文に「道は修するを用いず、但だ汚染すること莫れ。何をか汚染となす。」とありますので、これは「汚染」の意味を説いた一文なのです。

「生死の心」を文の前後からどのように解釈するのが正しいのかを明らかにできなければ、禅の修行は暗中を模索している状態であることを自覚しなくてはなりません。

「生死の心有りて」というのは、「思量の生滅する精神(頭脳)状態に於いて」という意味です。
生死について思い考えを巡らせている精神状態で、様々なことについて思い考えて工夫を凝らすとすれば、それらは皆、汚染と言うのです。
「汚染」という熟語の意味は「よごれ」或いは「よごれる」ことなのですが、祖師方は人の思考を精神のよごれ、或いは人の思考することを精神がよごれると見なしたのです。
「非思量の状態、思量が頭の中に全く生滅しない・存在しない状態」をよごれていない状態ということで、「不汚染」或いは「不染汚」と言っているのです。

「生死」というのは、思い考えの中にのみ有って、思い考えの生滅しない非思量の精神世界には無いのです。
私達の思量の外の世界である森羅万象の何処にも生死は存在していないのです。
「生死」というのは人の精神の中から思量が消滅してしまうと同時に、精神の中から消滅してしまうのです。
ということから、繰り返しになりますが、「生死の心有りて」というのは、「思量の生滅する精神(頭脳)状態に於いて」という意味です。
生死の危険のない日常に於いて、生死を恐れるのは人間のみです。それも、自意識の立派に育った大人のみです。
十歳以下の子供には恐怖心そのものが、まだ育っていないからです。
恐怖心の育っていない十歳以下の子供本人には、死の不安・恐怖などは無いのです。
大人が死を不安に感じ恐れるのは意識の作用ですから、意識が精神の中から脱落(消滅)しない限り、死の不安や恐怖から永遠に離れることはできないのです。
死の不安や恐怖から永遠に離れる為には身心脱落しなければならないのです。
これが祖師方の教えです。
不安と恐怖は強弱の問題であって、同じ精神作用です。
不安が強くなっていくと恐怖となるのです。
死の不安や恐怖からは非思量の状態だけでは離れることはできません。消滅せしめることはできないのです。
死の不安や恐怖は、思量にあるのではなく意識の中にあるからです。
思量の生滅は、意識にある死の不安や恐怖を引き起こす縁となる存在なのです。
真に死の不安と恐怖を永遠に消滅させたければ、意識(自己)を脱落(消滅)せしむる必要があるのです。

「道は修するを用いず」というのは、「佛道は一般常識である修行ということをするわけではない。修行をして力をつけ、鍛練して技量を高めていくものではない。」と述べているのです。
曹洞禅に於ける佛道修行は、一般常識である修行ということを行うのではなく、思量か非思量かの選択をすることなのです。
私達は凡人なのですが、日常的に思量の状態、非思量の状態を生きているのです。
ただ、禅僧にそのことを指摘されることがない為に気付いていないだけのことです。
非思量を知っている禅僧から教えてもらえれば、直ぐに分かることです。
思量の状態から非思量の状態を選択して、それを相続することが修行ということになるのです。
思量の状態から非思量の状態に徐々に修行してなっていくわけではないのですから「道は修するを用いす」と述べているのです。
佛道の修行は非思量の状態を選択して、それを相続するのです。
相続する時に忍耐力が要りますので、この点で修行と言えば修行なのです。見方の違いです。
曹洞禅に於いては非思量を相続することを仮に修行と名付けているのです。
非思量の選択は「一超直入」なのです。
正に「頓漸」の「頓」なのです。
修するを用いずと説く理由です。



「不思善不思悪」という言葉が法語や語録の中によく出てきます。
「善をも思はず悪をも思はず」という意味ですが、この語には特別な深い意味があるわけではありません。
「苦しい情況にあっても善いことも悪いことも思わず、不運な情況にあっても善いことも悪いことも思わず、幸運な状況にあっても善いことも悪いことも思わず。」ということです。
これは非思量ということを言っているのです。
これが禅の修行として行うことだと祖師方全員が言っていることなのです。
常に「不思善不思悪」なのです。
心の奥底から望む善事のチャンス(機会)に恵まれても不思善なのです。
嫌悪するぐらい運のない不快な悪い事が巡ってきても不思悪なのです。
このような事は凡人にはできないことですが、禅者はやらなければならないのです。
余命が半年や3ヶ月だとしても、不思善不思悪が禅者の救われる唯一の道なのです。

人の物事に対する是非・善悪の分別は、頭の中で言葉を用いてなされるのです。
言葉を用いないで物事の是非・善悪の分別というのはないのです。
頭の中で言葉を用いなければ、是非・善悪の判断・分別はできないのです。
私達は物事の是非・善悪の判断・分別を頭の中で何を用いて行っているのか、よく観察しなければならないのです。
そうしなければ祖師方の説く「是非善悪を思はず」の意味は理解できません。
自らの頭の中の思考・想像の動く様子を観察するのです。
その時に言葉や文字が用いられているかいないかを観察するのです。
思い考えに言葉がどのように関わっているのか、色・形・姿・動きがどのように関わっているのかを観察するのです。
思考する時に言葉が必要であるか否かを観察するのです。
森羅万象の色や形や姿や動きが必要であるか否かを観察するのです。
思い考えは言葉がなければ成り立たないことを観察するのです。

以上の様子を観察して、その実際が明らかになり把握できれば、ここから非思量という曹洞禅の修行を始めることができるのです。
曹洞禅の非思量の相続という禅の修行を始めるに当って必要なことは以上のことだけです。
曹洞禅の修行に於いて、修行として行うことは非思量の相続だけです。
非思量は思量(思い・考え・想像)を全否定した状態です。
不思量と言っても同じことです。
思量のことを念とも言いますから、一念不生と言っても同じことです。
一念も生じないということですから。
非思量よりも一念不生の方が、祖師方の法語や祖録では圧倒的に多く用いられております。



私達の日常に於ける思い・考え・想像をどのようにして息めて、非思量の状態に持っていくのか、その非思量の状態をどのように一秒でも長く維持するかが修行の中味です。
その為に様々な工夫をしなければ、非思量の状態を現出することはできませんし、一分でも一秒でも長く維持することができないのです。
その工夫は自ら試行錯誤してつかんでいくしかないのです。
人の頭の中は誰でもが同じではなく、それぞれに思考・想像の仕方に個性があるからです。
師家が一つの方法を示しても、それはあくまでも参考でしかありません。
それしか無いわけでもなく、それ以上のものが無いわけでもないのです。
禅の修行は工夫に継ぐ工夫です。
非思量の相続のベターな方法を捜すこと、それを試行することを、禅門の修行に於いては「工夫する」といいます。
禅門の修行に於ける工夫だからと言って特別のことはありません。
一般社会に於ける技術の修得の場合の工夫と同じです。
工夫というのは職業・スポーツ・研究・実験・芸術等々のあらゆる分野で日常的に行われていることです。
禅だからと言って特別視してはなりません。
禅は特別だという思いの修行者や参禅者が多いのですが、それは間違った考えです。改めなくてはなりません。
禅といっても、やることは日常的な普通のことばかりなのです。
禅の修行に於いて、非思量の状態が分かれば、その状態の相続をより長時間保つためにどのようにすれば良いのかの工夫をするのです。
また、静かに坐禅をしている時ばかりではなく、喫茶喫飯、日常生活の中でより多くの時間、非思量の状態を相続(維持)できるように工夫するのです。
禅の修行は入門から身心脱落するまで、行うべき修行は非思量の状態の相続だけです。
身心脱落した後も、死ぬまで行うべきことは、非思量の相続だけです。
非思量の相続を修していけば、理論的佛法、学問的佛法、宗教的感覚、宗教的慈悲心等々は後から自然に身についてきますので心配はいりません。

禅について、或いは佛法について、何か読みたいのであれば、一念不生について説いている法語・祖録の当箇所を読んでみると宜しいでしょう。
しかしながら、自分の非思量の状態を相続した分しか理解できません。
それ以上のことについては、いくら頭を使っても理解することはできないのです。
それが禅の世界です。
禅の修行の非思量の相続をかなり専門的にやったことのない禅学の学者や、佛教学者や、宗教学者や、哲学者や、その他の分野の学者や、知識人が専門的に学んだところで理解できるものではありません。



次に、一念不生の「一念」について、少し話しておきます。
初念としての一念はよいが、二念、三念はいけないという師家が時々おられますが、それは間違いです。

初念は良いが二念三念は修行にとってはよくないという師家の意見は、実際に非思量の相続をしたことがない頭だけの見解です。
初念だけは良いといっても実際にやってみると、初念だけでは済まないのです。
実際には初念だけで終わらすことができないものを、初念だけはよいのだという見解は空虚です。
二念、三念を止められる人は、初念も止められるのです。
初念を止められない人は、二念、三念も止められないのです。
このようなことは、実際に非思量の相続をやってみて分かることです。

祖師方の一念不生の一念というのは、今、この瞬間に生じる一つの念という意味です。
「今生じた一つの念」ということです。
今という時は一つしかないのと同様に、今に生じる念はいつでも一つしか生じないのです。
ですから、実際には、常に初念ばかりで、二念、三念というのは存在しないのです。
二念、三念が存在するのは記憶の世界だけです。
実際には、念は一つしか存在しないのです。
今、この瞬間に二つも三つも生ずることは無いのが念の性質です。
自らの頭の中の念の生ずる様子を詳しく観察してみて下さい。
今、この瞬間に念は幾つ生じるのか、自分で、自分の心で、確かめてみて下さい。
最初に述べた、初念はよいが、二念、三念はダメだという師家の考えは、念に初念の念、二番目の念、三番目の念と、念に生じてくる順番があるという発想です。
記憶に於ける事実ということと、実際に於ける事実ということの区別がついていないのです。
「今、この瞬間に生じた事実としての念を一念というのだ」ということが理解できていないのです。

また、念をその内容で捉える場合も同じ理屈をたてるのです。
初念の内容と、二念の内容、三念の内容が皆、連想ゲームのように関連していることをつなげていくのはダメであるとし、内容が念ごとに異なっていれば良いのだという考えの許での初念です。
内容が関連していても異なっていても、念という観点から見れば同じことです。
一念不生の念はその内容で捉えて言っているわけではありません。
思量という頭の作用という面で捉えて、一念不生と説いているのです。
初念の内容、二念は初念と同じ関連した内容、という捉え方でも初念はダメなのです。
祖師方で初念は良いが二念三念と連想していく念はダメであると説いている方を私は一人も知りません。
非思量に於いては、初念も二念も三念も思量に違いはないのですから許されるはずはないのです。
また、師家によって普勧坐禅儀に出てくる「念想観」の想を、連想と解釈している場合が多く見られます。
想を想像ではなく連想と解釈する師家も、初念は連想ではないので出てきても修行には問題ないと説いているのです。
「念想観」の想は連想ではなく想像ですから、連想と解釈することは重大な誤りです。
このように解釈する師家は、実際に一念不生の修行をしてこなかった故の誤りです。
非思量の相続をしてこなかった師家というのは、実際にそぐわない理屈を言うものです。
実際に一念不生の相続を一か月ぐらいやってみると、初念も許されないことが分かるものです。
「念想観」の想が連想でないことも分かります。
非思量の相続をやってみることが禅の修行には大切なことです。
曹洞宗開祖道元禅師が説示しているように素直にまず非思量の相続を避けているような近代・現代のお師家さん方は、佛法も佛性も似てはいるのですが非なることを説いていることに気付いていないのです。



佛陀は宇宙の真理を発見したと主張する宗教者が多くいます。
しかし、真理には、科学的真理と宗教的真理の2つがあることを知っていなくてはなりません。
科学的真理は世界中の科学者によって実証実験がなされ、真理であると証明されているのです。
宗教的真理は科学者は相手にはしないのです。
宗教的真理は、当の宗教者によって偏向的に真理であると宣言されているだけで、客観的な実証はなされていません。
各宗教それぞれが宗教的真理を説いているのです。
どの宗教の教義が真理であるかは誰にも分かりません。
それぞれの宗教が、自分の属している宗教の説いている教義が真理だと主張しているのです。
佛陀の説いている宇宙の真理は宗教上の真理であって、科学的真理として全部が認められているわけではないのです。
例えば、諸法無我は真理であると科学的に実証されているわけではありません。
涅槃寂静もそうです。一切皆苦もそうです。
佛教上は、四法印は真理とされているのです。
科学的には諸行無常だけは真理とされているとは思います。
他の三つは、真理か否かは誰によっても実証されてはいないのです。
目次へ



先ず、非思量の状態を知ることです

2022.9.2
曹洞禅の修行を始める際に、

非思量の状態を知っている人は、非思量の状態を「点」から「線」にしていくのです。
つまり、一秒でもその状態を長くする工夫をするのです。
非思量の状態を保持することを禅門では相続すると言います。
非思量の状態を全く知らない人は、どのような時に非思量の状態があるのか自分の心の中を観察することです。
非思量(一念不生)の状態とは、言葉を頭の中(心の中)で用いていないということ。象形・色・姿・動きを想像しない、或いは想像していないこと、思い起こさないことを指します。
非思量の状態を全く知らない人であっても、非思量の状態が四六時中、全くないということはあり得ません。
日常の生活に於いて自己の頭の中(心の中)を注意深く観察することが大切です。
何処かに必ず非思量の状態があることが見い出せるものです。

また、物事の存在が思量せずに分かるということと、物事の存在が言葉を用いて思い考えて分かるということは異なりますので、この違いも自覚することが必要です。
森羅万象を五官が覚知するのが最初です。
そこには思いも、考えも、分析も、判断も要りません。
五官が覚知することで、思量せずとも充分に分かるのです。
思い考えもせずに、想像もせずに、
カラスの声は分かります。ハシブト烏とハシボソ烏の声も思量せずに分かるのです。
犬の鳴き声も分かります。
コーヒーの味も分かります。コーヒー豆の違いによる味の違いも分かるのです。
ミルクも分かります。牛のミルクか山羊のミルクかの違いも分かるのです。
この様子の違いを知ることも禅の修行に於いては大切なことです。


曹洞禅の修行に於ける心を調えることについて、

最初にすることは、自分の心の中をよく観察することです。
自分の心の中に自己があることを確認するのです。
自分の中に自己があることが確認・自覚できないと禅門の修行は難しくなります。
禅の修行の対象は、この自分の心の中にある自己だからです。
この自己は一般的に我とか自我とか意識とか自意識とか呼ばれているものです。
自己が分からなければ、「佛道を習うというは自己を習うなり」の自己が分からないということになります。
無常心はその第一に「吾我の心生ぜず」と示されているのですが、その吾我が分からないということになるのです。
無常心は禅の修行に於いて大切なものです。

次に、確認することは、思い考えが常に生滅している様子です。
思い考えは生じるばかりではなく、滅する時もあるということを観察するのです。

また、言葉を用いない思い考えはないことを確認するのです。
そして、想像という思い考えは必ず、象形・姿・形を用いてなされることを確認するのです。

次に、思い考え・想像の途切れる時があるか無いかを観察します。
思い考え・想像の途切れる瞬間は誰にでも必ずあるはずです。
思い考え・想像の途切れる瞬間は人によって様々で、一秒に満たない人もあり、一秒に満たない時もあります。二秒ある人もあり、二秒ある時もあります。
人によって、時によって、二秒のことも五秒のこともあるのです。
思量が何秒間で途切れるかは、人、様々です。
思い考え・想像がとりとめもなく自然に出てきて、知らぬ間に消えていくことが繰り返されることもよくあります。
また、しっかりと何かを思い、しっかりと何かを考える時もあります。
思い考え・想像の始まる時・止む時をしっかりと観察して下さい。
それらがどうなっているのかを観察するのです。
思い考え・想像の始まる時・止む時を自分の意志で少しはコントロールできるか、全くできないかの確認が必要なのです。
思量の途切れる時が場合によって数秒間ある人は、その時に心の中に自己が存在していることを確認して下さい。


曹洞禅の修行は、その自己の存在感を少なく小さく薄くしていくのです。
そして、最後には消滅させてしまうのです。
私達には、この自己の存在を直接消滅させることはできませんので間接的に消滅させるのです。それが非思量の相続です。
その方法を佛陀が発見し創始したのです。
自己を完全に心の中から脱落(消滅)させるのが佛道の目的です。
これを佛道に於いて「悟り」とか「解脱」と言い、禅門では「身心脱落」と言うのです。
この自己の中の自己は、自らの意志をもって直接消滅させることはできませんので、間接的に消滅させていく方法が非思量の相続なのです。
坐禅の調心の要術が非思量の相続です。
坐禅の調心は非思量の相続が大切なのです。
一瞬の非思量では何の意味もないのです。二秒や三秒の非思量では修行にならないのです。
このようなことは日常的に誰にでもあることですから、何の意味も持たないのです。
このようなことによって身心脱落することは偶然にも無いのです。

この非思量は、祖師方によって言い方はそれぞれです。
例えば、「不思善不思悪」とか、「一念不生」とか、「不汚染」とか、「不染汚」とか、「是非善悪を思わず」とか、「心に何事も思うことなく、たとひ佛法なりとも、心にかけずして御座候」とか、「心の念慮知見を一向に捨てて」とか、「意に善悪をはからず」とか、「作佛を図らず」とか、様々です。
その表現のいちいちにこだわる必要はありません。意味する処は同じだからです。
以上のことをまとめ集約して、曹洞禅では非思量と言っているのです。

非思量というのは、思量というあらゆる精神行為の全否定です。
思量という頭脳活動の全停止を求めるのです。
いわゆる一般的に言われている「無念無想」のことであり、しかも、一時的無念無想を求めているわけではなく、相続する無念無想を求めているのです。
一時的無念無想は、禅の修行に於いてはそれほどには意味を持ちません。
一時的な無念無想の状態が僅かな時間でもある人は、その状態を二秒でも三秒でも相続できるように広げていくことが修行に於いては大切なのです。
非思量の状態(無念無想の状態)をいきなり三分、五分と広げていくことはできませんので、忍耐の要る単純な修行となるのです。
ここで必要なのは、それをやり遂げる意志と忍耐力だけです。真に精神的苦行であり難行です。やり遂げる人が少ない理由です。
肉体に過酷なことを課して肉体を苦しめる人や修行者は無数と居りますが、それで悟った人はいないのです。
正統な佛教の修行に肉体を苦しめる修行というのありません。
佛陀は五年間にわたって肉体へのあらゆる苦行を成し遂げましたが、悟れなかったのです。
そこで、肉体への難行苦行を止め、非思量という精神的難行を行い、その結果、悟りに至ることができたのです。

非思量の状態が全く無い、思い考えが次から次へと途切れることなく出てくるという人でも、何かの拍子に思量の途切れる時があります。
途切れるというのは、頭の中に一切の思い考えがない瞬間ということです。
この思い考え・想像の途切れる瞬間が非思量の状態です。
普通には、この非思量の状態にあっても、心の中に自己は在り続けています。
思い考えが途切れて非思量(無念無想)の状態になったとしても、自己の中の自己は身心脱落(大悟)しない限り心の中に在り続けるのです。
思量の無い状態であっても、自己は在るのです。
自己があったままで、思量の無い時があるのです。
自己が在るといっても、それは必ずしも、思量があるということではないのです。

また、物事の存在や出来事は、思量が無くても分かるのです。
物事が分かり、出来事が分かるということ、それは思量によるものではないということを知っておいて下さい。

思い考えが途切れても自己が在るというのは、「思考想像の機能」と「自己(意識)の存在の脳の機能」は同じニューロン(神経細胞)が司るのではないからです。
これは思量のニューロンと自己(意識)の生じるニューロンは別々であることを意味していますが、何か密接な関係があることは確かです。
それぞれ別々の脳の機能ですので、非思量という修行方法が経験則として成り立ったのです。
思量を全面的に停止し続けると、なぜ身心脱落という現象が起き、悟れるかは今日でも分かっていません。
ただそのような因果関係があることが経験則で分かっているのです。
身心脱落をして自己が消滅しても、思量の機能が消滅することはないのです。
自己が消滅するまで、非思量の相続という修行の間、一時的に意志をもって思量の機能を止めていただけのことです。
身心脱落という目的を達成することができましたら、思量の機能を復活させて自由に思量の機能を用いることができるのです。



次に、非思量の状態をどのような時に体験するかについて話してまいります。

突然の予期せぬ事が目の前で起きた時、あまりの驚きの為に茫然自失の状態になることがあります。
このような茫然自失の時は、何も考えられず、暫く金縛りに遭ったように立ちすくんでしまいます。
このような時は、全く思いも考えも動かず、驚いている自分があるだけです。どうしようもできない状態です。
この時の頭の中の状態が非思量なのです。
非思量でありながら、この状況を知っている自己はあるのです。

或いは、大勢の人前で話しをしなくてはならない時に上がってしまい、何も考えられなくなり立ち往生してしまったことはありませんか。
このような時も非思量の状態にあるのです。

或いは、突然詰問された時に意外だったので動揺して応じられす、何も考えられず黙してしまったような時、心理状況は非思量であることが多いのです。

また、想定外の非日常的な出来事に遭遇してしまったような時も驚きのあまり何も考えられなくなったりするものです。
あまりの不安や恐怖に遭遇したような時も何も考えられなくなってしまうことが多いものです。
このような時も非思量の状態になっていることが多いのです。

或いは、全ての希望を失った時、奪い取られてしまったような時、死の恐怖に襲われた時、得体の知れない強い不安に襲われたような時にも、何も考えられなくなってしまうことが多いのです。うろたえてしまうだけです。
このような時も非思量の状態の時が多いのです。

もし以上のような経験があるようでしたら、その時の心の状態を思い起こしてみて下さい。
その中に非思量の状態を見出すことができると思います。


また、思い考え・想像を意図的に断つことが人生にはままあります。
思い考え・想像を意図的に断たなければならないことがあるのです。
これ以上の心への強い負担を避ける為に、意図的に思量の機能を遮断するのです。
これは実質、非思量の状態を意図的に作り出しているのです。
非思量の状態を作り出す習練を日常的にしていることになっているのです。
誰もこのようなことが禅の修行に重なっているとは考えもしないことです。
禅門の修行指導者である師家方でも、日常的に一般の人が非思量の状態を作り出す工夫をしていることに気付いていません。
ただ一般の人にとって、それが修行にならないのは、その状態の相続の価値を知らないからです。
非思量の相続の価値を知らないが為に、非思量の相続をしようとは思いもしないのです。当然のことです。

ここで一般に人が日常的に非思量の状態を作り出している例を紹介いたします。

例えば、一般に人は人生最悪な恥辱の記憶が甦ってきたような時、その記憶を振り払います。
思い出さないように抑え込むのです。その記憶を即、断つのです。
様々な方法を自ら工夫して、最悪の恥辱の記憶が出そうになった時、恥辱の記憶の再現を瞬時に封じ込むのです。断つのです。
この封じ込み、断った時の心の状態が非思量であり、非思量の状態を作り出す一つの工夫です。
他に、人生最大の後悔の記憶、人生最悪の忌避すべき出来事、最もつらい悲嘆の記憶、最も苦しい別離の記憶、等々の記憶が甦ってくるような時、人はその記憶の蘇ることに耐えられず抑え込むのです。
その記憶の蘇ることを断つのです。断ち続けるのです。精神的に沈黙するのです。
その方法は人それぞれで、その人の流儀で行っているのです。

その記憶は情景のことが多く、情景に伴って忌まわしい言葉がついてくるものです。
それらの忌まわしい記憶が蘇るのを抑え込む流儀が、非思量の状態を作り出す一つの方法です。
人はそれらの記憶を言葉と情景(想像)とで行います。
言葉と情景の想像を停止させれば、それらの記憶は瞬時に消滅してしまいます。
瞬時に消滅しますが、残影が少しあるのです。
放っておけば、直に残影は消滅してしまいますから心配はいりません。
非思量の状態になれば、忌々しい、辛い、苦しい、悲しむべき記憶は瞬時に消滅してしまうことを、非思量の相続を修めている禅僧は皆、承知していることです。

経験上、不快な思いをめられている人は非思量の状態になったということです。
それ以外に不快な思いや、それに伴う感情を止められる方法はありません。
非思量というのは、一般の人々によって、そのような場合に利用されているのです。
残念なことに、これが禅の修行の基本であるということには誰も気付いていないのです。
お師家さん方ですらそうなのです。

以上のやり方で一般の人は人生の様々な場面で非思量の状態を作り出す経験を積んでいるのです。
苦しい辛い思い考えが出始めると、或いは記憶が蘇り始めると、それらの思い考え・想像を断ち切り停止させてしまうのです。
人は一生涯体験に基づく記憶を忘れ去ることはできませんから、記憶が蘇えり始めたら、なるべく速やかにその記憶を断ち切るのです。
生涯、その繰り返しを忍耐をもって根気よくやっていくしかないのです。
非思量は心の痛みをモルヒネのように取り去ります。

以上のように一般の人は様々な場面に於いて非思量の状態を作り出していますので、このことをそのまま禅の非思量の修行に応用できるのです。有り難いことです。
日常に於ける極短い時間の非思量の状態を連続して作り出すようにしていくのです。
この細切れの非思量の状態をつなげていくのです。
非思量の状態をより長く保つには工夫が要ります。
その工夫は自分で試行錯誤してつかむしかありません。
「点の非思量」の状態を「線の非思量」の状態にしていくのです。
一秒間の非思量の状態を二秒間の非思量の状態にするのです。
二秒間の非思量の状態を五秒間にしていくのです。
このように地道に一秒、一秒、非思量の状態を広げていくのが、禅の修行の中味です。
禅の修行に華やかさは無縁です。禅の修行はマラソンのようなものです。生涯マラソンです。
走り続けている間は苦しいばかりで忍耐力が支えです。
皆さんもご存知のように、毎年恒例の箱根駅伝マラソンがあります。
その駅伝のエントリー常連校に東洋大学があります。
その東洋大学の選手の標語と気力が禅の修行にとって大変参考となり励みとなります。
それは「その一秒を削り出せ!」です。有名な言葉です。
非思量の修行も東洋大学のマラソンの練習とよく似たところがあります。
練習も修行も、その間、誰もが苦しいのです。
非思量も一秒一秒削り出すが如く広げていくのです。


坐禅は安楽な法門と言われておりますが、この言葉を未熟な初心者が真に受けてはなりません。
禅の修行は今流行のスピリチュアルやヨガの冥想とは本質に異なります。
ここのところを混同してしまっている師家を時おり見かけます。
坐禅は一時の心の安らぎを求めたり癒しの為に修するものではありません。
非思量の相続に於ける坐禅は苦しいのです。忍耐が並ではないのです。
安楽の法門は非思量の相続が日常になってから言うことのできる言葉です。
非思量の状態が習い性となれば、その頃には安楽の法門となるのです。
非思量の修行は難行であり苦行ですから禅の修行には覚悟が必要です。
精神的難行苦行であっても修める価値があるのです。
世間が娑婆であることを忘れることができない者が救われる唯一の道だからです。


人はこの世に非思量の状態で生まれてきます。
赤子・幼な児は非思量の日常の故に安らかなのです。
その非思量の心は他者にも安らかさをもたらすのです。
日常的には、人は非思量の状態で眠りにつくことができ、人生の最後は非思量で安らかに永い眠りにつくことができるのです。
私達は実際のところ、一生涯、非思量から離れることはないのです。
非思量の心理状況に於いては、その状況は人の記憶に残りません。
人は時々斯く言うことがあります。
「無意識にやってしまった。」「どうやったか覚えていない。」「無心だった。」・・・・・と。
その時非思量だったのです。
人は斯くの如きに非思量の状態のまま永眠すると安楽なのです。
死ぬ時は非思量の故に安楽が約束されるのです。その時に非思量でない人は苦しむのです。
未練は思量の中から生まれます。
非思量であっても、身心脱落しない限り、自己は常にあります。
非思量は身心脱落をしている証しではありません。
非思量の状態は、無我(身心脱落している)であっても、有我(身心脱落していない)であっても、あるのです。
有我である以上、人はどんなに利他的に振る舞っても本質的には利己性なのです。
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正しく修行している禅僧か師家かを見分ける手立ては
非思量を問うしかありません

2022.10.1
禅僧や老師や師家が正しく修行し正しく身心脱落しているかを見分けるには、文字通りの非思量の相続をしているかを問えばよいのです。
それによってのみ、正しい禅僧であるか、老師であるか、師家であるかが見分けられるのです。
非思量や一念不生の説明が正しいか否かで判断するしかないのです。
禅僧や老師や師家と雖も、非思量の心理状態はその経験がなければ、全く分からないものです。
そして、“非思量の修行をせずに悟ることない。”のです。

禅の修行に全く関係のない人であっても、非思量の状態を日常的に知っている人は、或る程度、存在します。
彼らは非思量の状態を一定時間維持する経験が無いことと、非思量の状態が禅の正統な修行であるということを知らないのです。
彼らは非思量の状態の説明を受ければ理解することができます。
彼らが修行するかしないかは、非思量を理解するしないとは、別次元のことです。
“迷わねば悟りは要らぬ”と昔から言われるように、必要のない者が禅の修行をすることはないのです。

私はこのHP内で非思量(一念不生・不思善不思悪・正念等々)の状態と禅修行の関わりを詳しく説明してきました。
悟ったとしている禅僧や老師や師家から、このHPの内容に照らし合わせて、非思量(一念不生・不思善不思悪・正念等々)の説明を拝聴するとよいでしょう。
疑問があれば確かな返答があるまで、或いは自分が納得するまで質問を続けると宜しいのです。
正しく非思量の相続ができている禅僧や老師や師家ならば、質問を迷惑と思うことはありません。
その質問は一緒に聴いている他の修行者にとっても有益なものなのです。
質問・応答を何時何処で止めるかは、禅僧や老師や師家の力量にかかっているのです。
一方的に止めたり、問答無用の態度をとったり、「黙って坐れ」「理屈を言うな」「禅は理論より実践だ」「まず、坐って坐って坐り尽くせ」と言う禅僧や老師や師家は、型通りに坐禅をし、型通りに話し、型通りに質疑応答をしているだけですから、質問に答えるだけの力量が無いのです。
非思量(一念不生・不思善不思悪・正念等々)の状態は誰にでもある日常的なことですから、その説明は難しいことではなく、言葉で説明できないことではないのです。

禅門の修行に限らず、何事でも、誰でも、経験のないことを説明するのはできないものです。
多少でも自分に実経験があれば、未経験の人の話の真偽はすぐに分かるものです。
知識が豊富で言葉をよく知る禅僧や老師や師家で、しかもその様子が如何にも正しく達観しているようでありますと、説明が自在で巧みですから、禅の全体の説明だけでは、その真偽の判断は難しいものです。
しかし、重要な修行のポイントである非思量の説明の箇処を見てみますと、一転してその説明はしどろもどろであり、全く的を得ておらず、誤魔化してしまっているのです。
非思量の説明の綻びが見えてくると、次から次へと、不思議なことに他の箇処の綻びも見えてきます。
非思量の状態は禅の世界だけのことではなく、我々の日常に有る簡単な状態ですから、非思量の状態を理解する人に対して誤魔化しはきかないのです。


坐禅の修行に於いて、「思いや考えを止める必要はない。」「思量があっても修行には何の差し障りもない。」と説く禅僧や老師や師家が時々居ります。
このように説く禅僧や老師や師家は、曹洞宗開祖道元禅師の説く坐禅の要術である非思量の相続を全くといって実践したことが無いのです。
実践することができなかったのです。
非思量の相続の経験が全く無いのでは、身心脱落することはあり得無いことです。
これは佛道の原則です。

曹洞宗開祖道元禅師や祖師方が説く通りです。
それら禅僧や老師や師家のいうところの「悟った証とする禅的体験」が、非思量の相続の中に於いてなされたのであれば、それは正しい体験であって、正しい体験であればこそ、その体験は直ぐ忘れるべき体験なのです。
非思量の状態にあるのであれば、正しく体験した禅的体験も直ぐに忘れることができるのです。


曹洞宗開祖道元禅師の著わしました坐禅の手引きである「普勧坐禅儀」という書物があります。
ほんの数ページの薄い書物ですが、これは坐禅の仕方を説明したものであり、ここで坐禅の要術は非思量であると説き示しているのです。
祖師方は、この非思量を「正念」とか、「一念不生」とか、と述べております。
このことは祖録・法語等を注意深く読みますと、処々に出てまいります。
明治以降になりますと、禅僧や老師や師家方の誰一人として、開祖道元禅師や祖師方の説かれている非思量や正念や一念不生について、説くことも実践することもなくなってしまいました。
明治以降の禅僧や老師や師家は、文字通りの非思量の相続・正念相続・一念不生は必要がないと説いているのです。


「思いや考えを止める必要ない。」「思い考えはあっても構わない。」とする自己を忘じた体験があると主張する禅僧や老師や師家が度々おります。
彼らの個人的な見解ですが、彼らはおしなべて見性体験や身心脱落体験や自己を忘却する体験をしているとするのです。
彼らは縁に任せていたら何かの具合で一時的な記憶喪失体験・一時的な前後不覚体験をしたと述べております。
御本人はこの体験を“自己を忘却する体験”“自己を忘ずる体験”と思い込んでいるのです。
「佛道を習ふといふは、自己を習ふなり。自己を習ふといふは、自己を忘るるなり。」
の「自己を忘るるなり」を禅門では「自己を忘ずる」と言い習わしているので、「自己を忘ずる」というのは、一時的な記憶喪失体験や一時的な前後不覚体験とイメージし思い込んでいるのです。
禅門のお師家さん達が、身心脱落のことを「自己を忘ずる」と日常的に使って修行者を指導しておりますが、「自己を忘ずる」について一度たりとも修行者に対して説明することはないのです。
修行者は「自己を忘ずる」という言葉が出るたびに、自分勝手に、一時的な記憶喪失状態、一時的な前後不覚の状態を、ある時、突然に、縁によって体験するものと思い込まされてしまっているのです。
「自己を忘ずる」という言葉を用いている師家自身も、身心脱落の体験のないままに一時的記憶喪失状態や一時的前後不覚状態を“自己を忘ずる体験”と思い込んでいるのです。

見性や身心脱落をしたと思い込んでいる禅僧や老師や師家や修行者達は皆、一時的な記憶喪失状態や一時的な前後不覚状態の体験をしているのです。
そして、この体験を“自己を忘ずる体験”であると即、受け止めてしまうのです。
しかも、未だ自分の心の中に自己がありながらです。
自分の心の中に自己があるか無いかは、自分の心の中を点検すれば、直ぐに分かることです。
当然、自分の心の中に自己があることに気付くはずなのですが、“自己を忘ずる体験”は一時的な通過点であるとし、自分は身心脱落したと思い込んでしまうのです。
記憶喪失状態や前後不覚状態の体験を以って、身心脱落体験をしたと解釈してしまうのです。
“自己を忘ずる体験”は一時的な体験ではなく、その時から死ぬまで忘じたままを以って、正しく自己を忘じた、身心脱落をした、と言うのです。
この「自己を忘ずる」という表現が曲者なのです。
この表現は身心脱落を間違って理解してしまいますので、やめるべきです。

自己を忘ずる(身心脱落)というのは、一時な記憶喪失や一時な前後不覚を伴わない、自己の存在感の消滅を指します。
自己の存在感は意識が作り出しているのですが、意識の消滅が身心脱落なのです。
記憶の喪失は身心脱落ではないのです。
意識は記憶の入力・出力の機能とは無関係です。
喜怒哀楽の感情の生滅とも無関係です。
五欲の食欲・性欲・睡欲・名誉欲・財(金銭)欲とも無関係です。
五感の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の感応とも無関係です。
意識は上記の機能を制御することもできませんし連動もしていないのです。
ですから、身心脱落という意識の心の中からの消滅は、上記の機能の停止を伴うことはありません。
当然、身心脱落では、上記の機能が完全に停止してしまう一時的記憶喪失状態に陥ることはないのです。


非思量を相続したことのない禅僧や老師や師家や修行者の自己を忘ずる体験は、一時的な記憶喪失状態や一時的な前後不覚状態の体験です。
これらの体験が禅の修行時に於けるものだった為に、全て禅の自己を忘ずる身心脱落体験と思い込んで主張しているのです。
そう主張する方々には残念なことですが、これらの体験は、特別に禅の修行によるものではなく、一時的な特別な精神状況によるものですから、心理条件が揃えば禅の修行時でなくとも何時でも何処でも誰にでも起こり得ることなのです。
それは心理学でよく知られる意識の変容状態(変性意識)の体験です。
この体験は変性意識として心理学で研究されております。
意識の変容状態(変性意識)は、禅門の悟り(身心脱落)とは全く関連がないことを認識する必要があります。
修行者は特別な心理状態を求めることなく、それと同時に、もしも体験してしまったような時があれば、そのような心理状態に飛びつくことなく相手にせずに忘れてしまうことです。それが大切です。
そうしなければ、非思量の相続に支障をきたすことは必定です。
禅門では異常心理状態を魔境と称して、それは見性や悟りとは違うものであると、注意を喚起しているのです。
そのような超常心理状態を有り難がってはいけないのです。
白隠禅師は20才代で二度もそのような体験に騙されているのです。

私は、師家から、私の非思量の状態をずーと否定され騙されてきました。
ほぼ100%の禅僧や老師や師家方が、禅の修行に於いて「思いや考えを止める必要はない。」「思い考えはあっても構わない。」と説いております。
非思量や一念不生や正念相続を説く方は皆無でした。現在でもそうなのです。
私が非思量のことを問うと、必ず彼らは私を否定しました。悉く非思量を否定し尽くしました。
開祖道元禅師が普勧坐禅儀の中で坐禅の要術として示された非思量を否定するのです。
私一人で非思量といったところでどうしようもない状況が今日まで延々と続いているのです。

明治以降の禅僧や老師や師家方の非思量を否定する根拠は、彼らには、非思量の状態の相続の実践がないままで、一時的記憶喪失状態や一時的前後不覚状態や変性意識(意識の変容状態)の体験があるからです。
彼らには、これらの体験は禅を修行する者だけに特別にあるものだという、優越心があるのです。
菩提心が正しくなく名利の心に基づく禅の修行ですので間違いが生じることとなるのです。
意識の変容状態(変性意識)は禅の修行者に限らず、強い緊張感や強いストレスの要る仕事に就いている人によくあることです。
例えば、軍人、兵士、命の危険にさらされているアメリカの警察官、登山家、探検家、宗教修行者等々に於いてよく経験されているのですが、そのことを知らない禅僧や老師や師家や修行者がほとんどです。
自分達だけの特別な宗教体験であると歓迎する心理が濃厚にあるのです。
禅を修行する者は誰でもその傾向にあります。
禅の道は特別に優れたものであるという考えは持つものではありません。


禅の修行者や禅僧や老師や師家で、「思い考えはあってもよい。止める必要はない。」と説く者は、正しい曹洞禅の修行をしたことがないのです。
彼らは「思い考えはあったまま、縁に従って何もせずに、縁に任せきっていれば良い。」と説きます。
さらに、彼らは「思量・非思量は修行には関係ない。身心脱落には関係ない。」と説くのです。
その証拠に、自分は縁に任せきっていたので、自己を忘ずる体験、一時的記憶喪失状態、一時的前後不覚状態の体験をしたのだと述べます。
自己を忘ずる体験、一時的記憶喪失状態、一時的前後不覚状態の体験をしているので、自分達の禅修行は間違っていないと説くのです。
彼らは、一時的記憶喪失状態に於いては確かに、一時的に一切の記憶のない時を体験し、その時に自己の記憶もなかったと言います。
その時に自己はなかったので、自己はなかったという自己もなかったので、自己を忘却していたと言い、それは自己を忘じたのだからと言うのです。
これは単なる一時的な記憶喪失の何物でもなく、開祖道元禅師や祖師方の説く身心脱落とは無縁のものです。
その理由は、彼らは非思量の相続を一度も修行した体験がないからです。


「非思量(一念不生)の相続なくして身心脱落をすることは無い」
というのが佛道の原則です。
開祖道元禅師の説く「坐禅要術即ち非思量」を、禅の修行に関係ないものであるとし、思量の有る無しは気にする必要はないと説く禅僧や老師や師家は全く間違っているのですから、真に受けてはなりません。
また、何かを問われた時に、直ぐに動作で示す禅僧や老師や師家は非思量の相続の修行を経験したことはないはずです。
修行について、修行者が何かを問うた時、動作で示す老師や師家が多くおります。
例えば、湯呑を持ってみたり、扇子で座卓を叩いてみたり、拳をかかげてみたり、茶碗を打って音を出してみたり、喝!と言ってみたり、警策という棒で叩いてみたりする等の動作です。
このような動作は非思量(一念不生)には全く関係ありません。
このような動作によって非思量に気付くことは無いのです。
このような人の動作は、思量であっても、非思量であってもできることですから、思量・非思量には関係なくなされるものです。
動作で禅の何かを示す禅僧や老師や師家はこのことが見えていないのです。
見えているとすれば、禅の何かを動作で示すことの無意味さを知っているはずです。
非思量が分かっていないということです。


開祖道元禅師や祖師方の説く修行の要諦は、非思量、或いは一念不生です。
それが正しい修行の調心です。
明治以降、非思量(一念不生)を禅の修行の要諦として説かれた老師や師家は、曹洞・臨済を併せて一人もおりません。
それは非思量の相続をしなくとも体験してしまった一時的記憶喪失状態等の意識の変容状態(変性意識)の体験を、自己を忘じたもの、身心脱落した体験と信じてしまった為です。
一時的記憶喪失状態や意識の変容状態(変性意識)等は偶然性が大きいものであり、それに反して、非思量の相続や一念不生の相続は偶然性ということは全く無く、極めて人為的な精神状況であり、強い忍耐の持続が要求される精神行為です。
ですから、日常の中で自然にやってしまっていたとか、気付かずにやってしまっていたということは無いのです。
非思量(一念不生)の修行は地道に忍耐をもって持続してやるしかありません。
非思量の状態の相続が自然に知らぬ間になされることはないのですから、ましてや非思量の相続をしないのに自然に知らぬ間に身心脱落することは有り得ないのです。
正しい禅の修行及び身心脱落の為には、非思量の相続が絶対の必要条件です。
非思量の相続を自覚をもって修行しなければ、身心脱落はあり得ません。
非思量(一念不生)がなされなければ、禅の修行とは言えないのです。
曹洞宗開祖道元禅師がその著「普勧坐禅儀」の中で坐禅の要術として非思量と示されたことは当然のことです。


本題からそれますが、
公案禅(臨済禅)の修行で、1,700則(1,700の問題)を全て透過した処で、身心脱落(悟り)に至ることはありません。
公案で至ることができるのは十牛の図の第三までです。
第四からは非思量の相続という修行内容が示されているのです。
十牛の図の「牛」を、「本来の自己」と解釈している臨済宗の師家がほとんどですが、十牛の図の「牛」は、「正念」のことであり、「非思量」のこと、「一念不生」のことです。
修行として尋ねているのは「本来の自己」と考えるものですから、第二の「尋牛」の「牛」を「本来の自己」、つまり「悟った無我の自己」と思い込んだものと思います。
正しい修行者というのは、本来の自己を捜して修行しているわけではなく、正しい修行方法を探しているのです。
正しい修行方法が分かれば、それを実践すればよいのです。
修行に於いて、悟った自己を捜す必要はないのです。
正しい修行方法・実践方法が手に入れば、後は忍耐をもってひたすら、その方法を実践すればよいのです。
その結果、身心自然に脱落するのです。
本来の自己を捜す必要はないのです。自ずから現前するのです。

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臨済宗正脈 愚堂東寔ぐどうとうしょく禅師
(禅修行のマニュアル化を目的とする白隠禅師の公案禅)

2023.9.1
愚堂東寔は1577年8月8日生まれ、美濃国山県郡伊自良いじら村大森にて出生。
1611年 35才で師の庸山は愚堂に印可を与える。
妙心寺四派の内の聖沢派 庸山景庸に嗣法。
愚堂東寔の嗣法(印可授与)の弟子が江戸小石川の至道無難禅師。
その嗣法(印可授与)の弟子が飯山正受庵の道境恵端。
その印可証明を受けたのが駿河の原の白隠禅師という系譜になっております。
同系譜の傍系すぐの処に盤珪禅師がおります。
愚堂東寔禅師の大応、大燈、関山の臨済系の正脈は至道無難、道境恵端、白隠禅師に伝えられ、現在の臨済正宗の師家(老師)はことごとく白隠門下であります。
愚堂東寔禅師は臨済宗 応燈関の主流の系統ですが、当時(1611年頃)は、その修行は純粋伝統禅の一念不生(正念)の相続であって、公案禅ではなかったのです。

公案禅は、白隠禅師が修行指導を体系化し、修行教育の視点を重視し、その観点から広めていったものです。
それは、個人の修行者に箇々に対応し、一箇半箇しか育てられないそれまでの禅修行をマニュアル化することで、修行の指導教育の質と効率の向上を図ったのです。
公案を用いて修行指導教育の各師家の個性による修行指導のバラツキをなくして一本化し、全体の修行の質の向上を確かなものとしたのです。
どの師家が指導してもマニュアルに従って公案の修行・教育をしていけば、指導にバラツキがなくなり、修行指導を受ける修行者の質の向上が図られるという利点があります。
修行者本人の修行の意欲の有無、目的の有無にかかわらず、指導師家側の指導技術によって禅僧らしい禅僧を強制的に育てあげてしまうことができるのです。
公案によって、修行教育をマニュアル化することができたのです。
公案によって、師家の指導の力量に多少の差があっても、僧侶としての質の高い宗教者として整った僧侶を育てあげることができるのです。
公案というのは学校教育のカリキュラム的性質を持っているのです。
そこに在籍して公案をこなして透過し卒業すれば、社会に通用する僧侶としての質の高い能力を身につけることができるのです。
公案というのはそのような将来の住職としての充分な能力を培うような内容となっているのです。
公案の終了は大学の卒業のようなものです。公案を透過してからが本当の修行の始まりです。
大学の卒業が一流の社会人(プロ)になるためのスタートとなるのと同じことです。


愚堂東寔禅師の頃はまだ禅の修行は修行者個人の資質によるところが大きく、一念不生(正念)の相続が中心でした。

たとえば次の例によってよく分かると思います。
雲水が愚堂に問う、「 即今、草をすく底の事、如何。」
愚堂は「余想なし。」と答えた。

これは修行という面からみれば、非思量・一念不生そのものの返事です。
少し説明してみますが、
雲水が、愚堂に、今、草を抜いていますが、草を抜いていることは修行としてやっているのですか、それともそれは佛道の実践なのですかと問うたのです。
そこで愚堂は「余想なし。」と答えているのです。
「余計な想いはない。」
これは、非思量或いは一念不生と答えたのと同じです。
余想は余念や妄念と同じことです。
余想は余計な想念ということです。
余計な想念がないのですから「正念」ということを意味しているのです。

また、或る時、修行僧が愚堂老師に質問をしています。
「妄念は何れの処に向かって抛擲ほうてきし去らん。」と。
愚堂老師は答えて云く、
「妄念未起の処に抛向し去れ。」と答えています。
抛擲(投げ飛ばす、投げやる)
妄念というのは、是非の思い善悪の考えのことです。むやみに思い考えることを指します。
一般の人の頭の中の癖です。止まらないのです。
この質問は「やたらに出てくる思い考えを何処に投げ飛ばしたら良いのですか」ということになります。
次から次へと出てきてどうしようもないので、斯く質問したのです。
愚堂老師は「是非・善悪の思い考えが起きる前の処に向かってなげ捨てなさい。」と答えています。
(抛はなげる、なげうつ。)
是非・善悪の起きる前の処というのは、思い考えが動く前の心理状態、思い考えが生じる前の頭脳の状態のところということです。
そこに自分を投げ込みなさいという意味です。
非思量のまっただ中に妄念を投げ入れなさいという意味です。
これは一念不生のこと。一つの念も生じない状態のこと。非思量の状態のことです。
そこは妄念の生じる余地のない精神世界なのです。
思い考えが生じる前は、頭の中に思い考えが存在しないのです。
思い考えは必ず言葉を用います。
言葉を用いない思い考えはないのです。
また、「想」という思いがありますが、これは映像ということで、これも同じように思量の一つであり、生起させてはならないのです。
愚堂東寔禅師は非思量と言わずに、分かり易い日常の言葉で、「妄念が未だ起きない処に向かって投げ飛ばしなさい。」と答えたのです。
愚堂東寔禅師は臨済正宗の正統な系統なのですが、公案めいたことを一片たりとも用いておりません。
公案的な大疑団を抱くような言葉は用いていないのです。
その通りに答えたのです。 非思量! と。

臨済宗にはもともと「臨済禅 即 公案禅」という図式はなかったのです。
臨済禅も、もともとは公案などを介さずに直截に一念不生(正念)をもって禅の修行を指導していたのです。
一念不生の中に公案は生まれてくることはないからです。
併存する修行ではなく、一念不生か、公案か、のどちらかです。
公案禅の中に一念不生はないのです。相反する状態なのです。
公案禅をいくら修行したところで非思量に到達することはありません。
非思量に到達するためには、公案を投げ捨てて父母未生以前に安住しなくてはならないのです。
非思量は公案を放擲し去った処にあるのです。
非思量は公案禅を修した先にあるわけではなく、いつでも公案を排した「即今」にあるのです。
公案の生まれる以前にあるのです。公案をやめた以後にあるのです。
つまり、公案は禅の正統純粋な工夫の中には無いということです。
公案を拈じることが禅の修行と思うことは間違いです。

父母未生以前と、非思量・一念不生の関係は、曹洞禅を修している者にはよく分かるのですが、公案禅の修行に於いては、父母未生以前がどのように関係しているのか全く分からないのです。
曹洞禅に於いては、非思量・一念不生という言葉を用いますが、父母未生以前という一般的に謎めいた言葉は用いません。
非思量は父母未生以前そのものですから、父母未生以前という言葉を持ち出す余地はないのです。非思量だけで充分なのです。
公案禅に於いて、父母未生以前を公案とするのは全くの場違いなことです。
父母未生以前を公案とすることは全く意味がありません。
父母未生以前という公案的な謎めいた表現はいらないのです。
直截に「思量が動き生じる前の精神(心理)状態」と言えば済むことです。
このように言った方が誰にでも理解し易いはずです。
忘念未起の処、分別妄想の起こらざる以前の処、天地未分以前の処、妄想不生の処、迷悟凡聖未生以前の処 等々も皆同じことを言っているのです。
その処は、一念不生であり、非思量の状態です。
こんなにも色々に言い分ける必要はないのです。
一念不生(正念)で完全であり、充分です。非思量でも可です。
他の言葉をあえて意図的に持ち出す必要はありません。公案禅は奇を衒いすぎているのです。
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【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 
「音がすれば聞こえる。この作用体を仏性という。」

  この表題には重大な誤りがあります。

-身心脱落している佛祖の言動のすべてが佛性の顕れです-

2023.11.1
井上義衍老師が出版された著作物「仏性」は義衍老師最後のものですから、その内容は義衍老師の禅修行集大成と言うべきものです。
この仏性の提唱は、義衍老師自身、後世に残すべきものとしての自覚をもってなされたものと思います。

私はこの提唱本に目を通して、所々に間違っている箇所があることに気付きました。
老師が間違った理由は、非思量の解釈が全くの自己流で普遍性がないこと。
老師の語る悟り体験は、公案禅の見性体験であり、その内容は心理学で言うところの変性意識であり、曹洞禅の身心脱落ではなかったということです。
正しく身心脱落していないのですから、宗祖道元禅師の著わした「佛性」の巻の解説をするのには力量不足でした。
これらの間違っている箇所は訂正すべきと考えます。
義衍老師の間違った見解をそのままにしておくことは、後進の真摯な若き修行者が身心脱落に至ることなく、修行人生を無駄にしてしまうことになるからです。
若き修行者は未熟ですから、往々にして、間違っていることに気付くことが遅すぎてしまうのです。
その間違いによって、道心が失せてしまうことがあるからです。
一度失った道心を取り戻すことは難しいものです。
間違いに気が付いた者が後進の為に正しておくことが大切と考えます。

私は、老婆心をもって、義衍老師の提唱の重要な部分の間違った見解を指摘し訂正させて頂きます。
法孫として宗祖道元禅師に対する報恩の為です。

私の訂正の立脚点は「非思量」です。
別の言葉で言いますと、「無分別の分別心」ということです。
「父母未生以前の自己」ということです。


本論に入る前に言葉の定義をしておきます。

義衍老師の提唱本に「作用体」という言葉が出てまいりますが、作用体というのは機能する実物・実体のことです。
音がすれば聞こえる、これは耳に聞こえるのです。
私が何もしていなくても聞こえるのです。私の見解が生ずる前に聞こえるのです。
老若男女誰でもそうです。
これは耳の機能です。
閉じた目を開いてみれば、ものが見えます。これは目の機能です。
お香を焚けば良い香りが匂う。これは鼻の機能です。
何かを食べたり舐めたりすると味がする。これは舌の機能です。
雪や氷を触れば冷たい。これは膚の機能です。
眼耳鼻舌身の五官の機能です。五つの感覚器官の作用です。
五つの感覚それぞれを、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といいます。
これらは生まれた時から身体に備わっているのです。
器官も機能(作用)も天賦のものとして、人に限らず生きものには備わっているのです。

以上の基本的なことをふまえて、井上義衍老師の仏性論の、どこがどのように間違っているのか、どこがどのように錯誤しているのか、どのような詳細な自己点検の不足があるのかの検討をしてまいります。
身心脱落していれば、以下に私が指摘するような誤りはないのが禅門の常識です。


まず、
義衍老師自著の仏性提唱の表紙の帯に
「音がすれば聞こえる。この作用体を仏性という。」一文があります。
この帯に書かれた言葉は全体を総括した凝縮された重要な言葉です。
この帯の言葉から佛性についての誤りを指摘していきます。
これは、井上義衍老師の仏性観とも言えるものですから重要な一文です。

まず、「音がすれば聞こえる。」というのは、一般的常識ですから問題はありません。
次に続く「この作用体」ですが、これは一見しただけでは何を具体的に指しているのかが分かりません。
このような言葉を用いた祖師方・御開山方はおられませんので戸惑うところです。
作用は機能と同じ意味ですから、「作用体」は五官のことになります。
眼耳鼻舌身の五官が作用体ということです。
耳は音がすれば間髪を入れずにその音に感応します。
ここに人の思量・見解の入る余地はありません。
音に感応する作用体である耳を、井上義衍老師は仏性と述べているのです。
同様に聴覚の感覚器官を仏性と言っているのです。
問題は作用ではなく作用体と述べている点です。そこに錯誤があるのです。

佛性というのは、佛陀という悟りを開かれた(身心脱落した)釈迦牟尼佛の本性を指すのです。
精神的本性であって、生身の肉体の感覚器官を指すのではないのです。
佛性というのは、悟りを開かれ、自己(自我・意識)が消滅された佛陀の顕現されている(表出し作用している)精神(心)の本性をいうのです。
この佛性は身体それぞれ縁に感応して作用する器官(作用体)を指している言葉ではなく、自己(自我・意識)が脱落(消滅)してしまった精神(心)を言うのです。
作用体は形而下のことであり、心や作用は形而上のことですので、その言葉の示す範疇が異なるのです。
つまり、作用体と佛性は土俵が異なるのです。

義衍老師は五体を佛性と考えているようですが、生身の五体そのものは迷うことも悩むことも悲しむことも無い存在ですから、生身の五体は修行する必要もなく悟る必要も無いのです。
生身の五体は善でもなく悪の根源でもないのです。
生身の五体は自我や利己性という本性を持っているわけでもなく、利他性という本性を持っているわけでもないのです。
単に縁に感応して間髪を入れず機能するだけの存在です。良いも悪いもないのです。
生きていく為の必要な機能なのです。そこに精神性はないのです。
人の思量もさしはさまることはないのです。
道端に転がっている石ころのように良いも悪いもないのです。

人の本性は利己性です。
佛陀・祖師方の本性は利他性です。
一人の人間の本性に利己性と利他性が共存することはありません。
人は利己性の人か、利他性の人か、どちらかなのです。
この利己性と利他性は、善にも属さず、悪にも属さないものです。
人の心に善悪の生まれる以前からの本性です。通性なのです。
利己性は自我(意識)が司ると同時に自我の本性でもあります。
一般の人の本性は、自我(意識)が身心脱落によって消滅するだけで、利他性となってしまうのです。
利己性は、人が動物として自己保存本能と自己遺伝子保存本能を全うするために必要不可欠な本性なのです。
利己性と五欲(性欲・食欲・睡欲・名誉欲・財欲)があれば、結果的に自己保存本能と自己遺伝子保存本能は全うされるのです。
うまくできた自然の摂理です。
利己性というのは自己保存を最優先とする本性を指します。
生存のためのあらゆる資源を自己の生存のために最優先に占有し、他に分け与えることを拒否する性質をを利己性といいます。
利己性の脱落した本性を佛性というのです。
佛性の性は利他性です。

以上、大まかに説明致しましたが、
「音がすれば聞こえる。この作用体を仏性という。」
井上義衍老師の仏性の定義は間違っています。

佛性は精神について述べる言葉です。
作用体という生身の身体や身体の各器官について述べている言葉ではありません。
二つの相反する形而上の言葉と形而下の言葉を一つの短い文章の中で用いると意味が崩壊してしまいます。
禅問答の得意な禅僧と雖も、気を付けなくてはなりません。
何でも佛性であるという見解は間違いです。
どの様な精神(心)が佛性かというと、利己性のない精神(心)が佛性なのです。
利己性のない精神(心)は自我(意識)の脱落してしまった精神(心)を指します。
利己性は自我(意識)が司っているからです。
たとえば、殺意や憎悪や虚偽や偽善は佛性にはないのです。
佛性の人には殺意や憎悪や虚偽や偽善等々の思いや考えはもともと無いのです。もともと無いのですから実行することも無いのです。

殺意や憎悪、怒り等々も佛性だと言われると、これは反宗教的ですから、宗教者としては大いに困るのです。
(しかし、社会には邪教というのもありますから、それならば可かもしれませんが・・・。)
このような思い考えは佛性の人は決して持つことはありません。実行することもないのです。
禅門の十重禁戒という戒律は、佛性が犯すことのない戒律なのです。
つまり、佛性の人、佛陀や祖師が決して犯すことのない戒律なのです。
佛性の心からは生じることの無い思いや考えや言葉や行為というものがあります。
利己性の心から生まれる思量・言動は、利他性(佛性)の心からは生まれることはないのです。
身心脱落した佛祖のその言動は、すべて佛性の発露なのです。



禅門の十重禁戒じゅうじゅうきんかいを列記致します。

第一 不殺生戒ふせっしょうかい  命あるものを殺してはいけない。

第二 不偸盗戒ふちゅうとうかい  他者のものを盗んではいけない。

第三 不邪淫戒ふじゃいんかい  邪淫を犯してはならない。

第四 不妄語戒ふもうごかい  嘘を言ってはならない。

第五 不こ酒戒ふこしゅかい  酒を飲んではいけない。

第六 不説過戒ふせつかかい  過ちを説いてはならない。

第七 不自讃毀他戒ふじさんきたかい  自讃して、他者を悪く言ってはならない。

第八 不慳法財戒ふけんほうざいかい  佛法の教えや財物を他に施すことを惜しんではならない。

第九 不瞋恚戒ふしんいかい  いかってはならない。

第十 不謗三寶戒ふほうさんぼうかい  佛陀、佛法、佛僧の三つをそしってはならない。

これは、佛祖の定めた出家僧が犯してはならないとする戒律です。
佛性が佛性として犯すことのない戒律なのです。
具体的には佛祖の犯すことのない戒なのです。
佛性が決して戒律を受持し守っているわけではなく、佛性のなすことのないことが戒律として挙げられているのです。
なすことのないことは、守ることも保つこともないのです。
例えば、酒を飲まない人が禁酒する必要がないのと同じことです。
タバコを吸わない人が禁煙する必要がないのと同じです。
身心脱落をした佛性の人には十重禁戒という戒律は必要がないのです。
佛祖は十重禁戒という戒律を受持する必要がないのです。


佛性は、具体的に、現実的に、佛祖の一投手一投足として顕れるのです。
それは佛祖のみが知っていることです。
身心脱落している佛祖の言動のすべてが佛性の顕れなのです。
佛性の言動に特徴はありませんので、一般の人に分かることはありません。
佛性は五官で覚知することはできないのです。
見ることも、聞くことも、触ることもできないのです。
その存在を直接知ることはできないのです。
佛祖(身心脱落した人)を通して、その作用(働き)を間接的にのみ知ることができるだけです。
近代・現代に佛祖は生まれていませんから、佛性は誰にも分からないのです。

これが佛性、あれが佛性、すべてが佛性、などと指し示すことはできないのですから、一般の人には知ることはできないものです。
佛性は一般的に利他心や慈悲心として顕れることが多いものです。
しかし、利他心も慈悲心も、その人の行為・言動を見聞きしただけでは、利己心の我々が判別することは難しいものです。

道元禅師は、衆生は佛性を有していると説いていますが、どれどれが佛性であるとは示しておりません。
それは具体的に示すことができないからです。
佛性を知りたければ、自ら身心脱落をするしか方法はありません。
自ら佛祖となるのです。
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【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 
「ただパン!(手を叩かれる) これだけです。」

  これは欺瞞です。こんなことで身心脱落するはずがない!

 −我々は例外なく元々脱落などしていないのです−

2023.12.1
井上義衍老師の「仏性」提唱本の25ページに次のような一文があります。
やはり重要な誤りがありますので説明致します。

地獄のどん底におっても、菩薩の世界におっても、(この二つの世界は思量の中の存在です。)
みな同じようにただパン!(手を叩かれる)これだけです。
一遍に「そうか!」
皆脱落するように出来ている。
(これは嘘です。)
元が脱落しているんですから・・・。その上の活動なのですから・・・。
それをみんなに知ってもらったら。どんなに楽かということでしょう。
(パン 手を叩くことによって)一切の悩みがとれるのです。
(これは嘘です。有り得ません。)

義衍老師は上記のように述べております。
手を叩いたぐらいで身心脱落することはありません。
毎日毎日、手を叩くような類似したことが世界中で無限に無量に行われておりますが、人口80億の世界で誰一人として身心脱落するような人はいないのです。
脱落というのは身心が脱落(消滅)してしまうことですから、今、手を叩いて、自己の身心(意識・自我・自分)が脱落しているか、脱落していないか内観してみて下さい。
一度手を叩いたぐらいで何も変わることはありません。
一瞬たりとも脱落するようなことはないのです。
雷が落ちても誰も身心脱落するようなことはないのですから、道人は20年、30年と非思量の相続の工夫をするのです。
手をパン! と叩いたり、雷が落ちたりしても、一瞬の思いがけない大きな音に自己の存在がくらまされただけのことです。
少しすれば、衝撃は去って、再び自己の存在が明らかになるのです。
霧が晴れて周りがよく見えるようになるのと同じことです。
そのような一瞬の五官の機能の麻痺や入力刺激の遮断は生理的現象でよくあることです。
このようなことで身心脱落するようにはできていないのです。
人にはホメオパシー(恒常性)という機能があるためです。
我々は例外なく、元々脱落などしていないのです。
胎児の時から自我(意識)が天賦の性として形成されてくるのです。
生まれてから後に、自我(意識)を習い覚えて身につくと考えるのは誤りです。
元々脱落しているなどと知った処で少しも楽にはならないのです。
元々脱落などしていないのですから。
パン!と手を叩いたぐらいで悩みがとれないことは誰でもが知っていることです。
雷が足元に落ちたぐらいで佛祖にはなれないのです。

盤珪禅師が「不生の佛心(一念不生のこと)で三十日間も居れば、どうせんでも不生の佛心で居れるようになりますわいの。」と述べております。
江戸時代の名僧 盤珪禅師はためしに三十日間不生の佛心で生活してみて下さいと申しております。
これは易しそうで易しくはないのです。難行苦行に入ります。
パン!と手を叩いたぐらいで身心脱落するほど、曹洞禅の身心脱落は甘くはありません。
義衍老師は、「皆脱落するように出来ている。」と言っておりますが、これは嘘です。
「パン!」 そんなことで誰も脱落はしないのです。
脱落しないのが自然であり、普通なのです。
人は元々脱落をしていないが故に、世界人口80億もありながら、誰一人として、自然に或いは偶然に、身心脱落する者はいないのです。
例外的に身心脱落する人さえもいないのです。
現代に佛陀が出現することは全く無いのです。

義衍老師は、パン!と手を叩いた一瞬をとらえて、耳がくらまされた状態を脱落であると思い違いをしているようです。
このようなことを身心脱落と思い違いをするようでは、義衍老師の修行や脱落はまだまだということです。
内観が足りていないのです。

一般的に、パン!と手を叩いた一瞬に非思量を観ることは無理な要求です。
その時に自己の存在の途切れを覚知することはできません。
一つの感覚器官への入力情報刺激が強烈の場合、他の五官への情報の入力は遮断されてしまうのが五感の生理機能で決して珍しくいことではありません。
日常的に誰でもが経験していることです。
しかし、これは脱落とは無関係なことです。
一瞬の自覚のできない理論上の非思量では修行とは言えないのです。
非思量を修行とするには、一秒の非思量を十秒の非思量へ、十秒の非思量を一分の非思量へ、一分の非思量を十分の非思量へ、十分の非思量を三十分の非思量へ、三十分の非思量を一時間の非思量へ、一時間の非思量を半日の非思量へと延ばしていって、初めて修行となるのです。身心脱落に近づいていくのです。
このように祖師方は精進して、何年も何十年もかかって身心脱落しているのです。
普通の人は、パン!と手を叩いただけで非思量を知ることはありません。
パン!と手を叩いて「脱落するようにできている」と説いている井上義衍老師は、まさに十重禁戒(2023.11.1公開 参照)の中の不妄語戒、不説過戒を犯していることになるのです。
義衍老師は非思量の相続の大変さ苦労を知らないのでしょう。
私は、パン!と手を叩いて、非思量を実感したことは一度としてありません。
今、ここで パン!と手を叩いても、非思量の状態は実感できないぐらい一瞬なのです。
一瞬の非思量では修行にはならないのです。非思量のサンプル程度のものです。


非思量は意志をもって修しなければできない修行です。
非思量の相続については、偶然、或いは自然にできてしまっているということはありませんから、安易な考えでは到底非思量の修行はできません。
自己を忘ずるというのは、身心が精神の中から脱落してしまうことを指します。
一般的な言葉で言いますと、消滅してしまうということです。
この身心は私達がその存在を心の中で実感している身と心です。心は心の中の自己です。
「忘ずる」という言葉がありますから、一切合切を忘却してしまうように、或いは記憶に残っていない、忘れてしまっているようになるのだと想像してしまうのです。
自己もない、何もかもなくなってしまうというように想像してしまうようですが、自己を忘ずるという実際は、精神内の自己の存在が無くなってしまうだけで、他の五感(五官)が機能しなくなってしまうことを指すわけではありません。
他の身体の存在・機能はそのままで、自己だけが消滅してしまうのです。
身心の存在が心の中から消滅してしまうのです。


井上義衍老師の説かれたものに目を通していますと、
義衍老師は、身心脱落とは、一時的記憶喪失に陥り、その状態が明星とか撃竹の音とか桃の満開の花とか何かの縁で解除され、自己が息を吹き返すという構造であると考えているようです。
義衍老師の言葉に、「死んでいた認識が頭をもたげる」というのがありますが、この言葉は、記憶喪失状態が解除され、認識が頭をもたげ、自己がそのことに気が付くということを示しているのです。
脱落は自己が気付くのではなく、無分別の分別心が気付くのです。
気付く自己が消滅(脱落)してしまっているのですから当然です。
一度脱落した身心は復活することのないのが曹洞禅の悟りです。
一度脱落した自己(認識・身心)が復活するというのは、それは脱落ではなく、一時的記憶喪失であることを如実に示しているのです。
自己を忘ずる時、自己の五官の機能が一時的に停止するようなことはありません。


永平広録(鏡島天隆老師訳文 春秋社刊)の中に

『ある僧が華厳休静に尋ねるには、
「大悟(身心脱落すること。)は人が迷うこと(身心が生じることを指す。脱落した自己が再び生じることを指します。)があるでしょうか?」

休静が言うには
「一たび大悟すれば二度迷うことはない。それは一たび破れた鏡は二度照らすことがなく、一たび地に落ちた花は再び枝につけられないようなものだ。」

永平道元禅師は、「今日華厳の境界に入ったけれども、また、華厳休静の境界のはてを究めない。」と一文を書いております。』

ここで紹介致しました道元禅師の一文は、身心脱落したけれども、もっと深く究めるべき無我無心の境界があることを示しているのです。
身心脱落で修行が成就し終るわけではないのです。
ははあ! これで終りかという脱落の心境はないのです。

義衍老師の「死んでいる認識が頭をもたげる」という言葉は、脱落した身心が戻ったということを意味し、上記の文と全く違っているのです。
身心は、一度脱落したら再び元に戻ることはないということです。それが正しいのです。

人の五官の機能が一時的に完全に停止して、それがよみがえるのは、一時的記憶喪失の特徴です。
記憶が戻るまでのことを一切覚えていないのです。ですから記憶喪失と言うのです。これは禅門の魔境といわれる現象で、これに類似したことはよくあることです。
身心脱落で記憶喪失状態に陥ることはありませんので、ここの処はしっかりとふまえて修行して下さい。
魔境を身心脱落と取り違えてはなりません。

魔境というのは、心理学で研究している変性意識(意識の歪み)のことです。
これは極めて珍しいことではなく、また禅修行に特有のことでもなく、一般的に研究されるほどの普通の異常心理状態です。
正しい非思量の相続に於いて魔境はありません。
魔境に、アッと驚き、悟りへの瑞兆と思い、不思議なことが起きるものだと喜んではなりません。
相手にしないで放っておくのが正しい対処の仕方です。
そうすれば問題はほとんどありません。何れ気にならなくなります。
非思量の相続がますます深まっていきます。
義衍老師は放っておかずに相手にしてしまったのです。
自分の魔境(一時的記憶喪失)の体験を放っておかずに執着してしまったのです。
それが、その後の修行を阻害し、その結果、義衍老師は間違った「仏性論」を展開することになってしまったのです。
悟り体験を求めて禅の修行をすると、そのほとんどが同じ道にそれてしまうのです。
それは悟りを求める心が名利だからです。
悟りを求める心が名利であることを指摘する師家や老師は全くいないとは言いませんが、とても少ないのです。
悟りを目指すのは名利ですから、悟りを求めて修行してはいけないと曹洞禅は戒めるのです。
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【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 

 「即ち悉有しつうは佛性なり。」  
 「六根は開放せられ・・・。」
 「間違いの根源は人間的な見解」

−思い考えはすべて妄想です。非思量は雑念・妄想を許しません。−

2024.1.1
「即ち悉有は佛性なり。」
すべてのものは佛性でないものはないんですよ。
妄想でも出てきたものに対して、自分でいいとか悪いとか言うから妄想になるんです。
そうでなしに、ただ出てきたり、消えたりする、
ただそれがそれだけで人間的な見解を加えさえしなければ、妄想じゃないんです。
それだから坐禅の時にいろんなことが出てきても、心配せんでいいんです。

と井上義衍老師は「仏性」の提唱本の6ページで述べています。

この一文では井上義衍老師の坐禅の要術が示されています。
内容は澤木興道老師の坐禅の要術と全く同じです。
思い考えは出るに任せて相手にしなければよい。
ただ黙って坐っていれば良いという只管打坐の坐禅です。
道元禅師の非思量とは全く異なるものです。
道元禅師の説く非思量という坐禅の要術は、いろいろな雑念が出てきても、それが妄想でなければ構わないというものではなく、また、人間的な見解でなければ、それが妄想であろうと雑念であろうと出てきても構わないというものではありません。
完全な絶対的な非思量の相続を求めているのです。
人間的な見解と言っておりますが、人の思量はいかなるものも人間としての意味があり、人間の見解なのです。
あえて人間的な見解などと言う必要はないのです。
見解に人間の見解と人間的な見解の2つがあるとみているのです。
道元禅師と、澤木興道老師・井上義衍老師の両老師のどちらが正しいのかと言いますと、道元禅師の非思量の方が正しいのです。
雑念妄想はどのような雑念妄想であっても思量に違いはないのです。



「悉有は佛性なるが故に」
すべてのものが佛性でないものはないんです。
大小便に至るまでですよ。お手洗へ行ってもみなそうですよ。
「放屁正なり、芳香なり。
(道元禅師はこのことを佛性と言っているわけではありません。)」と道元禅師がいっておられる。
おならの臭いまで法じゃと言っておられるところがあるんです。
みんな奇麗な素晴らしいもんじゃなければ仏性じゃないと思う。
そういう大きな誤りがある。」

と義衍老師は説いていますが、
私の見たところ、斯く説く義衍老師自身が大きな誤りをいくつも犯しています。

義衍老師は随所で、すべてのものが佛性であって、佛性でないものは無いと述べています。
糞尿まで佛性であると言っているのです。尿や糞は佛性でもなんでもありません。
小便は小便、大便は大便です。見た通りです。
お手洗いに行くのも佛性であると言うのです。

「放屁正なり、芳香なり。」と道元禅師がいっておられる。
と義衍老師は挙げております。
義衍老師は、道元禅師が放屁を佛性と言っていると憶測しているようですが、この一文だけでは、放屁を佛性と言っていると解釈するのは拡大し過ぎです。
これだけではそのように解釈する根拠はありません。

人の行為や物の存在を佛性とするのには無理があります。
佛性は人の行為について言うのではありません。
物の存在を佛性と言うのでもありません。
「すべてのものは佛性でないものはない」と義衍老師は述べておりますが、義衍老師自身は、これまでに一度たりとも「佛性とは」と定義したことがありません。
佛性の定義をしないまま、佛性、佛性、佛性、、、、と用いているのですが、これでは誰も正しく理解することができません。
佛性に限らず、義衍老師はご自分が用いる用語の定義を一度もしたことがないのです。
いろいろと佛性について言う前に、佛性というのはどういうことかを明らかに定義しなくてはなりません。
義衍老師は常に説く者としての責任を負わずに話しを展開するのです。
一つも定義せずに用語を用いるのは無責任というものです。
近代・現代に於いては、用いる言葉を正しく意味が伝わるように定義するのは常識です。
話の理解が行違ってしまうことになるからです。
禅僧・師家を特別例外とする理由はありません。
禅門を例外扱いにすると弊害が大きすぎます。
無理会話は公案禅だけで用いて可なのです。曹洞禅に於いて用いるのは不可です。
ここの処は曹洞禅としてけじめをはっきりとしておかなくてはなりません。


ここで私が佛性について定義します。
佛性というのは、お釈迦様(佛陀・釈尊)特有の本性を言います。
「佛陀に特有の本性」を略して佛性と言っているのです。
よって人間以外の全ての存在や行為にも、人間佛陀の特有の本性が備わっている、或いは佛陀の本性であると述べるのは言い過ぎです。
佛性という言葉の乱用です。
勢いがありすぎて、口が滑ったにしても、禅僧(師家)としては好ましく感じられません。
禅者たる者、もっと慎重に言葉を選び、表現を尽くしてもらいたいものです。
尿や糞は佛性ではありません。そのように述べる根拠は何一つ示されていないのです。
それが佛陀の尿や糞であったとしても、それは佛性でもなく、佛性を有しているわけでもありません。
佛陀もトイレに行ったでしょうが、行為そのものは佛性とは言わないのです。
人の行為は、佛性であるとか、ないとか、を問うべき事柄のものではありません。

佛性というのは、自我(意識)が脱落してしまった精神(心)作用を指します。
作用のない精神(心)はないのですから、精神(心)作用を指すと言うのです。
なんでも佛性であると言うのは、なんでも佛性でないと言うのと同じです。
このことを義衍老師は理解していないのです。
義衍老師のなんでも佛性であるという論でいけば、核爆弾(弾頭)も佛性ということとなり、核爆弾を落とすことも佛性ということになってしまいます。
天から佛性が落下してくるのです。喜ぶべきか? 忌避すべきか?
そして、細菌・毒ガス兵器まで佛性ということになるのです。
コロナウイルスも佛性ということになるのです。
アウシュビッツのユダヤ民族の虐殺行為も佛性となり、ガス室も、あらゆる施設が佛性ということになるのです。
これはあまりにも思慮のない暴論になってしまいます。
世の中をもっと広い目で隅々まで見極めることが宗教者としての禅者には必要です。
義衍老師は視野が狭く片寄っているのです。
広く深く平等に見ない者は、法を説いてはならないのです。
あらゆるものを佛性とみるのは間違いです。
あらゆる人の行為を佛性とするのも間違いです。


義衍老師の印可を受けた小浜の発心寺住持師家も、
「あらゆるものは法である。法でないものはない。
あらゆるものは法であるから捨てるべきものもないし、止めるものも忌避するものもない。」と、
ここかしこで述べておりますが、義衍老師と同じ道理を説いております。
師弟です。同じ間違いを犯しています。
佛性も佛法も正しく理解できていないのです。
このような屁理屈のような論を立て、法を説く故に、禅が世間から見放されてしまうよう事態となるのです。
この法というのは佛法という意味です。佛の教えということです。
アウシュビッツに、佛法も佛心も無いのは当然です。佛陀が決して、思わない、なさらないことだからです。
これは佛陀の性格ではなく、佛陀の本性です。
佛陀を離れて佛法も佛性も佛心もないのです。
佛道の原点は佛陀です。自己が佛陀とならなくてはならないのです。
現代の老師方はこの観点が抜けていることが多いのです。

「あらゆるものは佛性であり、佛性でないものはない。」
この一文に井上義衍老師の修行の力量が表されているのです。


また、
義衍老師は坐禅の要術として以下のようにも述べております。
「六根を開放せられ、六官に任せて、
一切それがどうであろうと、こうであろうと、そういうことは問題にせず、
徹頭徹尾
(自己か?)捨ててしまっていかれ、純粋に任せ切っていく。」

この一文は曖昧で、具体的内容のないものです。これではどのように坐禅をしてよいのかが分かりません。
六根は常に既に開放されていますから、この上、更に、人の意志によって開放することはできません。
六官に任せるといっても、常に既に任せている状態が一般的ですから、今更、六官に任せることはできないのです。
人は意志をもって自己を捨てることはできません。
「捨ててしまっていかれた」と述べていますが、何をどのように捨てたのか示しておりません。
自己を捨てるには、身心脱落を待つしかないのです。
純粋に任せ切ると述べておりますが、純粋に任せ切ることなどできないのです。
純粋に任せ切ろうとすれば、純粋に任せ切ろうとする自己がどうしても働くのです。
よって、人は純粋に任せ切ることなどできないのです。
そもそも「純粋に任せ切っていく。」と述べておりますが、この純粋の定義がないのです。
義衍老師は何をもって純粋としているのかが私には分かりません。
修行として行う為の具体性がないのです。
義衍老師の坐禅の要術は曖昧で、できないことばかりで、机上の空論でしかありません。
道元禅師の説かれた坐禅の要術である非思量を意志と忍耐力をもって相続するだけでよいのです。
義衍老師のようにいろいろなことを曖昧に説くことはないのです。
ただ一言、「非思量の相続」でよいのです。


釈尊が大悟された時にいわれたように、
「一切の衆生は如来の智恵と徳と姿(相)を全部同じように備えているじゃないか」と宣言されています。
けれども悲しいことにわたしが昔迷ったように、人間的な見解がちょっと起きたためにそこからそびれただけです。
間違いの起きた根源が、そういうところあることを知っているのです。
そういうことを教える道は仏法のほかにどこにもないのです。

と井上義衍老師は「仏性」の提唱本の7ページで述べています。

自我(意識)は天賦のもので、人間的な見解によって作られたものではありません。
この「人間的な見解」が何を指しているのか説明がされていませんので分かりません。
「人間の見解」ならすぐ分かります。「人間の思量」のことです。
「間違いの起きた根源」と述べておりますが、何が間違いなのか明示されていませんので、私には理解できません。
全人類80億人の間違いとは何なのでしょうか、はっきり言ってもらいたいものです。
間違いが起きたのは天賦の自我(意識)が原因なのです。
人の苦悩の原因は自我(意識)です。
この自我の存在を間違いとするのは、それこそ間違いです。
死の恐怖も自我の働きによるものです。
他者と争うのも自我の性質です。
名利を競って苦しむのも自我の本性が原因です。
自我が自己の思い考えに執着するからです。
それは自己の思い考えの成就が、自分にとって一番都合がよく、自分の利益となるからです。
その執着が更なる思い考えを増幅し、感情も膨らみ強化され、相乗的に加速し、苦悩を増していくのです。
何処かで断ち切ればよいのです。
思量を断ち切る工夫をするのです。
断ち切る習慣を身に着けるとよいのです。
それが非思量です。曹洞禅の坐禅の要術です。
間違いが起きた根源は、人間的な見解ではなく、自我(意識)の本性によるのです。
自我の消滅は非思量であれば、自然になされるのです。
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【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正 

  憶測で佛性を説いているのです。
  故に「身体全体が佛性でできている」という
  普遍の真理に反する理を説くのです。  

「身体が佛性でできている」という基本的な間違いを間違いと思わずに説いていることが重大な間違いです。

2024.2.1
井上義衍老師の「仏性」の提唱本の19ページに以下の文があります。

この身体の中に「佛性」というようななにかがあると思っているのです。
この身体全体が佛性でできているんですけれども、どうしても身体の中に「佛性」があると思うから、その佛性を身体の中に尋ねる。
大抵の人がそうです。
学識のある人ほど余計そうなんです。
そういう大きな間違いがあるのです。


今回も間違いを訂正させていただきます。
この一文は、基本的に佛性について知らない義衍老師が憶測で述べたものです。
身心脱落をしていないのですから、義衍老師が佛性の体験がないことは明らかです。
佛性というのは、佛陀の精神上の性質ということで形而上のことです。
その形而上の性質で、形而下の物理的存在の身体全体ができているというのは破綻した論です。
学識のある理性的な人ほど、相手にしないでしょう。
「そういう大きな間違いがあるのです。」と自ら述べておりますが、大きな間違いがあるのはご自身の方です。

佛性は身心脱落と同時に現ずるのです。
義衍老師がこのような基本的なところで間違いを起こすのは、身心脱落した経験がないからです。
義衍老師は、道元禅師の「佛性の巻」の提唱をする時点で脱落身心ではなかったということです。
義衍老師は非思量の状態が分からないが為に憶測で述べるので、「非思量とは」という定義が曖昧なのです。
義衍老師の言い分は経験のない人の言い分なのですから、坐禅の要術として誰も実修することができないのです。
身心脱落という正しい結果を出せないのです。
非思量の相続をせずに身心脱落を経験することはありません。
非思量の相続をせずに身心脱落の人となることはできないのです。

義衍老師は非思量の状態も知らず、非思量の相続を修していないのですから、大正9年の市内新盛座観劇中の大悟は、公案禅に於ける単なる見性です。
一時的に記憶喪失状態に陥っただけのことで、禅僧に限らず一般人にもみられることです。取るに足らないことです。
しかし、義衍老師は悟りを求めて修行していたのですから、その体験を即座に悟りと思い込んだのです。公案禅に於いてよくあることです。
義衍老師の大悟は、大悟とはこういうものかという自己点検による単なる憶測の大悟です。
何度も申し上げますが、悟ることを求めずに、一念不生の相続、非思量の相続を愚の如く魯の如く、ただよく相続して初めて身心脱落に至るのです。
非思量の修行は特別な体験を求めるのではなく、自己の有無だけを点検するのです。
自己が今有れば、いかなる素晴らしい体験をしようとも、それは身心脱落ではないのです。


佛性は実体のない作用として、縁に応じて御本人の精神内に現れるのです。
人の五体は佛性でできているわけではありません。
人の身心全体が佛性でできているのでもありません。
人体の各機能も佛性ではないのです。
身体は実体ですが、佛性は性質です。
身体という実物が、性質という実体のないものでできているというのは、宇宙全体の原理原則を逸脱しています。
まるで身体全体が霊魂でできているというような見解です。
しかし、この宇宙の中には変則事象という科学的原理原則に外れた事もいくつかありますから、身体全体が佛性という性質でできあがっているという義衍老師の矛盾した整合性のない論も正しいのかもしれませんが・・・。

「身体全体が佛性でできている」という義衍老師の見解は、
蚯蚓みみず斬ツテ 為ス 両断ト  在ル 仏性 那頭ニカ」という公案に基づくものと思います。
「ミミズを二つに切って、仏性はどちらに在るか」という公案です。
義衍老師は若い頃、この公案を出されて拈提した結果、両方に在ると答えて透過した経験があったのでしょう。
ミミズ全体が佛性でできているという結論に至ったのでしょう。
しかし、これは公案であって、この宇宙の真理を問うたものではないのです。
「公案に賊機有り」なのです。
公案を修行者に与える目的です。賊機の無い公案は公案にならないのです。
「佛性の巻」の佛性は真理です。
公案の答えのようなものを示されても困るのです。

人に限らず、身体は縁に間髪を入れずに感応するようにできているのです。
これは赤子から老人まで誰でもそうです。
禅の修行もする必要がなく、宗教宗派を問わずにそうなんです。
無宗教の人や動物だってそうなんです。
この身体は主体もなく、見解もなく、縁を選ぶこともなく、どのような縁も受け入れ、適切に感応するのです。
これを佛性とは言わないのです。
いってみれば、万能の神が斯の様に創造したとしか言いようがないのです。
義衍老師は身体全体が佛性でできていると考えているだけでなく、身体の機能も佛性と考えているようです。
しかし、身体全体の機能は身心脱落以前から働いているのです。
身心脱落と同時に現前するわけではないのです。
身心脱落と同時に現前するもの(こと)が佛性であると道元禅師は説いておられますから、これが適正であると受け取るべきです。
無分別の分別心で捉えれば、正にその通りです。
人の身体のすべての機能は、佛性ではなく天賦の生きる為の機能です。
佛教という宗教に関わらない機能です。
これらの機能に自己や主体はありません。
自我(意識)もなく、無我なのです。善も悪もないのです。
中立的中性的な存在です。
ただ生きる為にのみ有る身体の機能です。
人の意志には関係なく縁に感応して機能するものなのです。

佛性は、我々の一般の人の心(精神)から、自我(意識)が消滅してしまった心(精神)を指すのです。
自我(意識)の消滅してしまった心(精神)ということですから、自我(意識)に取って替わるものが心(精神)の中に存在しているのかといったそういうことではないのです。

現代の脳科学的に申しますと、脳の全体のニューロン(脳細胞)、或いは脳回路から自我(意識)を生ずるニューロンが、その独自の活動作用を停止してしまった状態、脳の様々な機能の中から自我(意識)の作用が消滅してしまった精神作用の性質を佛性というのです。
佛性を司るニューロンは無いのです。
自我(意識)を生ぜしめ、その機能を司るニューロンは有ります。
脳全体を統御するニューロンから、自我(意識)を司るニューロンの活動を完全に永久的に停止してしまった状態が身心脱落なのです。
自我(意識)の機能の活動が完全に永久に停止してしまった状態の脳ニューロンの活動を仮に佛性と名付けたのです。
自我(意識)のニューロンがその機能を消滅して後、その人の精神性に理想的宗教性がある為に、佛教に於いて、それを本性とし佛性と名付けたのです。
自我(意識)の本性は、そのまま一般の我々の本性を形成しているのです。
それが生き延びる為に適した最適の本性なのです。
その本性を我々は利己性と呼んでいるのです。

利己性に反して、宗教的本性として利他性というものがあります。
利他性は自己(意識)の消滅(身心脱落)してしまった状態に於いて現前するのです。
この状態はいかにも宗教性に富んだ精神活動を発現するのです。
それは佛性と名付けるにふさわしい理想的精神性です。
自己(意識)が脱落(消滅)することによって、自我(意識)の反宗教的、利己的性質が根底から消滅してしまったのです。
例えば、死の恐怖、五欲における利己的行為、他者への敵対心・排除の心・怨憎の心・別離とその苦悩、名利を貪る心、三毒、四苦八苦等が消滅してしまったのです。
理想的な宗教性に富んだ精神性とその精神行為だけが残ったのです。
これを佛性と言います。
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【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正  

  「自分を捨ててご覧なさい   (1)」

自分を捨てることなど自分の意志で出来ることではありません。
祖師方はどなたも自分を捨てることに苦労しているのです。

2024.3.1
井上義衍老師の「仏性」の提唱本の22ページに以下の文があります。
義衍老師の根本的に間違っている処です。

今、問題にしている「自分」を思い切って捨ててご覧なさい。そのままです。
(捨てる前のままです。何も変わることがないのです。)
ものは一つなんです。(存在は一つです。存在の世界に二つはないのです。)
今やっていることはみな真実なんです。真実のものに対して、なに!?と言って人間が相手になるからです。
それで間違いが起きてるだけだ、知ってもらいたい。


「捨ててご覧なさい」と言われて捨てられるものではありません。
人の意志で自分を捨てることはできないのですから、このように言われますと修行者は迷ってしまいます。
自己を自分の意志で捨てることはできないのです。
非思量の相続、或いは一念不生の相続によって、自然に自己が精神内から脱落(消滅)してしまうのです。
これを「自分を捨てる」と言っていますが、「思い切って捨てる」ということは有り得ないことですから、修行者を混乱させることとなるのです。
不適切な表現ですから改めなくてはなりません。

「自分を捨てる」という言葉は、禅門ではよく用いられる言葉ですが、一般的には用いられない特殊な言葉ですので説明が必要です。
師家方は説明せずによく用いますので、それでは聞く人は理解できないのです。
「今問題にしている問題を捨てなさい」と言う方が、分かり易くずっと親切です。
その方がずっと正しい非思量の修行に近いのです。
問題を捨てるということは非思量を修することとなるのです。
非思量の相続を修すれば、何れ結果として身心脱落に至るのです。
この時に自分が捨てられているのです。
結果を先に出されても困るのです。修行者はどうしてよいのか分からないままです。
自分を捨てなさいという言葉は、人を迷わせるだけです。一つも益のない言葉です。


我々凡人が身心脱落(消滅)して佛陀と同じ精神状態になるのですから、自分を捨てて何も変わらないということはないのです。
そのままということはない重大な変化があるのです。
身心脱落はとても大きな精神上の変化ですから、それに気付かないということはありません。
しかし、悟っても悟らなくても、身体の機能はそのままです。
五官の機能も、感情の機能も、五欲の機能もそのままで何も変わることはないのです。
森羅万象もそのままです。
義衍老師は、身心脱落を身体機能の脱落と考え違いをしているのです。
ですから、身心脱落してもそのままです。捨てる前のままです。何も変わることはないと述べているのです。
身心脱落の「身」を生身の身体と思い違いをしているのです。
正しく身心脱落すると、身心の「身」は生身の肉体ではなく、自我(意識)が精神内に創った架空の身体であることが分かるのです。
それが脱落(消滅)してしまうのです。
身心の「心」は自己のことです。
心の中に存在する実体の無い精神上の自己のことです。


自分を捨てることは、自己の精神上のことです。
義衍老師は自己の精神内のことと、森羅万象の存在とが別々の事であることが理解できていないのです。
「三界唯一心、心外無別法(華厳経の文意をまとめた言葉)」の意味が理解できていないので斯くの如く説くのです。
自分を捨てると、自分の精神内は自己が脱落するので、そのままということはないのです。
身心が脱落するという大きな変化が残るのです。
自分を取り巻く森羅万象(存在)はそのままです。
人の精神内のことと精神外のことは区別してあるのですが、義衍老師はここの処が常に錯雑して整理ができていないのです。
義衍老師がこのような精神内のことと自分の周囲の精神外のこととの区別ができないのは、非思量の精神状態を知らないからです。
非思量の精神状態を知らないと、非思量の精神状態での無分別の分別心の立場から物事を把握することができないのです。
その為に精神内のことと精神外のことが錯雑してしまい、理解できない文章となってしまうのです。
精神内という土俵と精神外の土俵とを区別せずに入り混じった状態で自分の説を展開するので、間違った分かり難いものとなってしまいます。
義衍老師御本人の頭の中で整理されていないのでしょう。
公案修行の思考の癖が取れないのです。
この思考癖が残ったままで非思量の相続は到底無理です。
非思量を知らない義衍老師は「三界唯一心、心外無別法」の世界が見えていないのです。

次回、2024年4月に続く
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【 井上義衍老師「仏性」の提唱 】 間違いの訂正  

  「自分を捨ててご覧なさい   (2)」

自分を捨てることなど自分の意志で出来ることではありません。
祖師方はどなたも自分を捨てることに苦労しているのです。

2024.4.1
井上義衍老師の「仏性」の提唱本の22ページに以下の文があります。
義衍老師の根本的に間違っている処です。

今回は、前回2024.3.1公開分の続きです。


「今やっていることはみな真実なんです。」
当然のこととして誰もが知っていることです。
今更、老師に言われなくても誰でもが常識的に知っていることです。
特別なことでも何でもありません。取り立てて述べる必要もありません。

「真実のものに対して、なに!?と言って人間が相手になるから間違いが起きる。迷う、混乱する、苦悩する。」と述べております。
これは間違った義衍老師の見解です。

人は真実のものに対して、なに!?と言って人間が相手になるから間違いが起こるのではなく、真実を相手にしないで精神上の思量を相手にするから間違いが起きるのです。
ここの処は重要なことで、ゆるがせにしてはならないところです。
人が言葉を相手にし、思量に於ける想像上の架空のことを相手にするから間違いが生じ、迷いが生じ、苦悩が生ずるのです。
義衍老師は人の苦悩・迷いの因果関係、根源が分かっていないのです。
これは思量の状態と非思量の状態が明確に区別できていないことからくる混乱です。
非思量の状態が分からなければ、或いは一念不生を修した経験がなければ、佛法を説くべきではありません。

真実のものに対して、なに!?といって人間が相手にしたところで、苦悩は生ずることはなく、間違いは生じないのです。
真実のものに対して、「何!?」といって相手にするのは、科学の世界です。
真実(眼前の事実)に疑問を持ち相手になる(する)ことによって諸科学は進歩し、医学も進歩、身心医療も進歩し、人類は老病死の苦悩から随分と救われているのです。大幅に人の苦悩を減少せしめたのです。
無明からくる不安、苦悩も随分と減少してきているのです。
眼前の事実に疑問を持ち相手にすることは、人に間違いがもたらされのではなく、間違いが正されていくのです。
事実を相手にして科学者は日夜、実験研究をし思考を重ねて工夫をしていますが、そのことで四苦八苦のような苦悩を生じることは無いのです。
四苦八苦のような苦悩が生じ、鬱病や不安神経症や強迫神経症等の神経症になるようなことはないのです。
彼等は事実を相手にしているからです。事実には人の心を浄化する力があるのです。
祖師方が「思い考え、念ずること」に、「汚染」或いは「染汚」という文字を当てたのは当然のことです。
文字・思量は人の心を汚すのです。汚れから苦悩が生ずることとなるのです。
事実は人の思量を消滅させるのです。浄化するのです。
義衍老師の「真実のものに対して、なに!?と言って人間が相手になるから間違いが起きる。迷う、混乱する、苦悩する。」というのは間違いです。
義衍老師は心の動きをしっかりと観察せずに思い込みで述べているのです。
洞察力、観察力が不充分なのです。
迷信・俗信・禁忌(タブー)・狂信的宗教等々は、真実を離れ、事実を捨てた思量から生まれてくるのです。
思量にのめり込み、益々事実から離れ、迷い、混乱し、狂信的となり、不安、苦悩をもたらすのです。
それらを解決する道は、事実に触れる生活に戻ることです。
五官が大きな役割を持つのです。

眼前の事実に対する疑問は、諸科学の進歩に貢献し人類の無明の解決をもたらすのです。
それらの解明(究明)にいくらのめり込もうとも、そこから苦悩がもたらされることはないのです。
真実(眼前の存在・事実)に対する疑問は、人に苦悩をもたらすことはないのです。
世界中の諸科学者を調べてみれば、私の言っていることが嘘かどうかが分かるでしょう。

私達は真実(眼前の事実)に対して「なに!?」といって相手をし、間違い(苦悩・迷い)を起こしているわけではありません。
私達は眼前の事実を離れた言葉の世界と想像の架空の世界に嵌まり込んで間違いを起こしているのです。
事実を離れて想像する架空の精神世界に入り込んで不安を生じ苦悩するのです。
その時に眼前の事実に戻れば、一挙に苦悩は消滅してしまうのです。
「三界唯一心、心外無別法」に気付くのです。非思量の精神世界です。
眼前の事実を相手にすることが苦悩を解決する最善の道なのです。不生の佛心はこのことです。
眼前の事実を相手にすれば間違いは生じないのです。
言葉(念・思量)を相手にし、想像という架空の精神世界を相手にするので間違いが起きるのです。苦悩が生じるだけなのです。
一般の人に対して道人が無念無想を説くのは、この道理(因果関係)を知っているからです。
義衍老師の説くところは、公案とか参学底に基づくので間違うのです。
公案や参学底は禅門の知識に通じているのですが、知識と体験は異なります。
体験は禅門の知識が一切不要の世界です。
非思量は言葉通り、一切の知識を離れた精神世界です。


今、問題にしている「自分」を思い切って捨ててご覧なさい。そのままです。
という一文は、義衍老師の修行の全てが現れたものです。
自分を思い切って捨ててしまって、その前とその後の精神状態が変わらないということはありません。
身心が脱落(消滅)してしまったのですから、そのままであるはずがないのです。
とても大きな重大な変化が生じているのです。
身心脱落する前もそのまま、身心脱落した後もそのまま。(そのままです。何も変わることがないのです。)というのが義衍老師の見解です。
ここで義衍老師は、悟った後も悟る前と何も変わらなかったという体験を述べておりますが、これが義衍老師の事実だったのだと思われます。
この「何も変わらなかった。そのまま。」というのは、結局、正しく身心脱落していなかったとうことです。
染汚から不染汚の心境に変わったのですから大きな変化なのです。
「そのまま」ということは、自己が脱落せずに、そのままだったということです。
つまり、義衍老師は悟っていなかったということです。
これは、無分別の分別心が手に入っていない人の一文です。
義衍老師の説くこの言葉を基にして修行をすると間違いが起きます。
生涯、身心脱落することはありません。影響が大きいのです。注意しておきます。
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佛性はいつ現前するのか

身心脱落の前か、後か、常にか

2024.5.10
まず始めに、道元禅師著 正法眼蔵現成公案「佛性」の巻から一部を抜粋し、紹介し、解説いたします。

P26
「佛性の義を知らんとおもはば、まさに時節因縁を観ずべし、
時節若し至れば佛性現前す。」


「佛性の義」というのは、「佛性の意味」ということです。
「時節因縁」というのは身心脱落の因縁ということです。
「時節若し至れば」というのは身心脱落するに至ればということです。
ここの部分は、文の前後の関係で何を指しているのか分かるということです。

身心脱落すれば、佛性が現前すると説いておられます。
身心脱落しなければ佛性は現前せず、佛性が現前しなければ、佛性の作用もないのです。
身心脱落すれば、佛性の作用が現前するので、佛性が現前したことが分かります。
佛性の作用は縁に感応する時々に明らかになります。
これは佛性が現前していない凡夫の時の記憶と、今の現前との比較によって、佛性の作用が明らかになるのです。

身心脱落すれば、佛性という姿・形や、得体の知れない摩訶不思議な神秘的な霊験あらたかな現象や、何かが現前するわけではありません。
佛性には実体はなく、ただ作用として現れるのです。
現れた作用によって、佛性の存在を自覚するのです。
佛性の存在は現われた作用によって間接的に知ることができるのです。
直接に知ることはできないのです。

佛性は身心脱落した人にのみ現れます。
それは、身心脱落した本人が、無分別の分別心で自覚(覚知)するのです。
私、或いは私の認識が覚知するわけではありません。
佛性の作用で重要なものは、安心や慈悲心です。
そして、利他心や、生死一如や、諸法無我や、自他一如も、佛性の作用です。
身心脱落して佛性の本性の姿や様子を見るわけではありません。作用として自覚できるだけです。

「佛性現前す」というのは、佛性が現れるというのですが、それは佛性の作用のみで、これが佛性だと他者に指し示すものはないのです。
作用として、縁に感応する姿で現れるからです。縁に感応してということです。
佛性としての作用が、単体で独立した姿で現れるわけではありません。
あれも佛性、これも佛性と他者に示すべきものではないのですから、そのように説く老師は佛性のことがまるで分かっていないのです。
憶測であたかも分かっているが如く述べているだけのことです。
見えているわけでもなく、感受しているわけでもないのです。
すべて当て推量なのです。
他者にはそのことは分かりませんから、パフォーマンスとして行っているだけのことです。
なんせ自分は悟ってるのですから、そのぐらいのことはやってみませんと・・・。


「かくの如く修行しゆくところに自然に佛性現前の時節にあふ。
時節いたらざれば、参師問法するにも、辧道功夫するにも現前せずという。」


「佛性現前の時節」というのは、身心脱落することを指します。
「かくの如く修行しゆく」というのは、「坐禅の要術である非思量の相続を只管に修していく」という意味です。
そうすれば自然に佛性が現前する時に会う。それは、自然に身心脱落する時です。
身心脱落する時に至らなければ、老師(正師)に佛性について質問し納得できる回答を得たところで、また、非思量の状態を良好に相続できるように功夫したところで、佛性は現前することは無いのです。
「現前」というのは「目の前に」ということではありません。
無分別の分別心で覚知するとうことです。心の眼で観るということです。

P56
「佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず、
成佛よりのちに具足するなり。
佛性は必ず成佛と同参するなり。
この道理、よくよく参究工夫すべし。三、二十年も功夫参学すべし。
十聖、三賢の明きらむるところにあらず。
衆生
(によっては)有佛性、衆生(によっては)無佛性で道取する。
この道理なり。
成佛以来に具足する法なりと参学する正的なり。
かくのごとく学せざるは佛法にあらざるべし。
かくの如く学せずは佛法あへて今日にいたるべからず。」


佛性の道理は、佛性は成佛以前に具足しているのではなく、成佛以後に具足するのです。
本人が自覚した時が具足した時です。本人が自覚した時は身心脱落した時です。
この成佛というのは身心脱落のことです。
身心脱落してはじめて佛性が具足するのです。
身心脱落前に我々凡人には佛性は具足していないのです。
「成佛と同参」というのは、成佛(身心脱落)と同時ということです。
佛性は必ず成佛と同時に具足し、現前するのです。。

この道理をよくよく修行して見極めることができるように功夫しなさい。
この「参究工夫」というのは、非思量をいかに工夫して相続をせしめるかということです。
雑念・妄想が生滅することを放っておいて、ただ坐っていただけでは、非思量にもなれず、非思量の状態を相続することもできないのです。
非思量の状態は厳密なのです。
かなりの道心と、その道心に基づくかなりの忍耐力を要するのです。
かなりの道心は無常心が生むのです。
無常心は初発心の時の1度だけでなく、身心脱落するまで何度も自ら起こすのです。
無常心が起きると同時に道心が更に生じるのです。
このことによって更に修行が相続し、更に忍耐力が持続するのです。
そして、いつか自然に身心脱落の時節に至るのです。
20年も30年も非思量の相続を功夫しなさい。
それだけの年限を覚悟して修行しなさいということです。
5年や10年ぐらいで容易に身心脱落すると思わないことです。
十聖三賢と言われる未だ悟りを開いていない高位の菩薩が明らかにすることができるところのものではありません。

佛性は必ず成佛と同時に現前するという道理があるのです。
ここは本人のみが自覚するところです。
この道理によって衆生によっては有佛性があり、衆生によっては無佛性があると理解するのです。
「衆生」というのは、命あるもの、生きとし生けるもののこと。
場合によっては、特に人間、人びとを指す。有情と同じこと。
衆生には悟っている人があり、悟っていない人があります。
悟っている人には佛性が現前しており、悟っていない人には佛性は現前していないのです。
佛性は必ず身心脱落(成佛、悟り)と同時に現前するという原理・原則があります。
この原理(道理)・原則によって衆生によって佛性が現前している人があり(有佛性)、衆生によっては佛性が現前していない人(無佛性)があると理解することができるのです。

佛性は、成佛(身心脱落)以降に具足する法であると参学(理解)するのが正しく的を得ているのです。
このように学ばないのは(理解しないのであれば)、佛法ではないのです。
このように学び理解しなければ、佛法はとても今日まで伝わりはしないのです。


ここでは、佛性は、生まれた時から身心脱落する以前に既に備わっているわけではなく、身心脱落によって初めて備わり、その作用が現前するということを説いています。
佛性というのは、自我(意識)が消滅した精神(心)のことです。
自我(意識)が有る精神内に佛性が同居・併存しているのではありません。
自我(意識)が消滅してしまった心の全体の個々の作用を佛性というのです。
自我(意識)の消滅は非思量の相続によってなされるのです。

身心脱落(自我・意識の消滅)により消滅する精神機能(作用)があり、その反対に得る精神機能(作用)があります。
消滅する機能(作用)の一つは、自我(意識)の機能(作用)である利己性です。
得る機能(作用)の主なものの1つは利他性です。
佛性というのは利他性のことです。
我々の社会には利他的動機、利他的行為はあることはありますが、それは真の利他性ではなく、我々の社会にあるのは互恵的利他性です。疑似的利他性です。
佛性は完全な利他性です。
現世には真の利他性は無いというのが定説です。
我々非思量の状態を相続する禅僧は、真の利他性は身心脱落した佛祖にのみあるとしております。

身心脱落する前の我々には、佛性はないのです。
「佛性は必ず成佛と同参する」のが原則なのですから当然のことです。
身心脱落をしていない我々利己の精神に、佛性はないのです。
佛性によく似た疑似的佛性は、時々見かけることがあります。
それは宗教性の道徳倫理に高く掲げられている理想のものであり、高尚なる信仰に求められるものです。
我々利己性の精神には、善と悪の別があります。
利己性の中に善悪があるからです。
利他性の中に、善と悪の別は無いのです。
利他性の精神には、善悪は無いのが原則なのです。


佛性を、現代の科学的説明に慣れ親しんでいる一般の方々に理解し易いように言いますと、
身心脱落していない私達の心(精神)から、自我(意識)を取り除いた心(精神)を言います。
自我を差し引いた残りの心の本性を、佛性と言うのです。
自我が消滅すると佛性という心が精神の中に現れる、と考えるとそれは間違いです。
佛性という何かが頭脳の中にあるのではないのです。

身体や行為は佛性ではありません。
五体の各部位・各器官は佛性ではなく、それぞれの機能も佛性ではありません。
それらは、利己でもなく利他でもなく、善でもなく悪でもないのです。
身体機能が身体機能として縁に感応するだけの存在です。
主体も意志も無い存在が、五体です。
佛性は形而上のことですので、我々の覚知器官である眼耳鼻舌身の五官で捉えることはできません。
身心脱落していない我々凡人は、佛性のあることを知的に理解できればよいのです。
悟っていない我々に佛性の存在作用の直接の実感があることはないのです。
何を佛性と説き示しているのかは、身心脱落すれば明らかになりますから修行者はまず、身心脱落の修行に専念することです。
佛性を知的に知っても、心が安らぐことはありませんし、人生の苦悩が和らぐこともないのです。



次に、身心脱落をする前の凡人と、身心脱落した佛祖と、その心は何ら違いはないのか、それとも大きな違いがあるのか明らかにしなければなりません。

曹洞宗の現代の師家 故井上義衍老師は次のように説いています。

「身心脱落する前も、身心脱落した後も何も違いはない。そのままです。
本来我々は脱落しているのだから。」
「我々は本来悟っているのですが、そのことに気付いていないだけなのです。
本来悟っていることに気付くことを悟りというのです。」


この論でいきますと身心脱落しても身心脱落しなくても、精神上、大きく異なることはないということになります。
この論は間違いです。
この論は、開祖道元禅師の説かれる「成佛以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくの如く学せずは佛法にあらざるべし。」とは、その内容において異なっているのです。
義衍老師の述べている「我々は本来悟っているのですが・・・。」というのは、「我々は本来佛性を備えている」ということになります。
ですが、開祖道元禅師は「時節若し至れば佛性現前す。」と説いてるのです。
更に、「佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず。」と説き、佛性は成佛する前には備わっていないと述べております。
現前している、現前していないということではなく、具足していないと説いているのです。
義衍老師の言うように「我々は本来悟っている。」とするならば、佛性も成佛する前に備わっているということになります。
開祖道元禅師の佛性についての言葉と矛盾してしまうのです。
我々は本来悟ってはいないのです。
そして佛性も具足しているわけではないのです。
悟るには(身心脱落するのは)非思量の状態の相続が必要なのです。
その相続の結果、自然に身心脱落するのです。
そして、その結果、佛性が現前するのです。
身心脱落と同時に佛性は我々に具足するのです。
身心脱落していないのに本来具足しているわけではないのです。
気付く気付かないという認識の問題ではありません。

この義衍老師の論は、義衍老師が佛教学的に、禅学的に、文字で学んだ知識であり、根拠とする非思量の相続や身心脱落の実体験のないものです。
故井上義衍老師を筆頭にこのように考える現在の曹洞禅の師家は、身心脱落の実際の意味が明らかでないのです。

身心脱落というのは、自己の身心が心(精神)の中から消滅してしまうことを指しています。
自己の身心というのは、生身の肉体と自己を指すのではありません。
必要があって意識が精神内に作った、実体のない精神的身体と自己のことです。
これは非思量の相続ができるようにならないと理解し難いことです。
我々の自覚しているこの身心は意識で作られていますから、身心が脱落するということは意識が脱落(消滅)してしまったことを意味しています。
身心の脱落は、意識の脱落なのです。
「佛道を習うというは自己を習うなり。」の自己の脱落なのです。消滅なのです。
私達がその存在を実感している自己は意識そのものなのですから、無我というのは自己が脱落してしまったことを意味した言葉です。
自我の脱落は、意識の脱落なのです。
近代から現代にわたって、自我(意識)に機能があると考えている師家は一人もおりません。
そもそも、自我(意識)に機能が有るか無いかなど考えたことも無いのです。このことは大して重要なこととは思っていないのです。
ですから、身心脱落しても何も変化はないであろうと軽く考えたのだと思います。
実際に身心脱落せずに、頭で考えた「無我」「身心脱落」ですので、斯様な説となるのです。
身心脱落していないために、正法眼蔵現成公案は、自我(意識)の作用について書かれているにも関わらず、その意味を汲み取れないのです。

身心脱落する前の精神(心)と身心脱落した後の精神(心)は大きく異なるところがあるのです。天地の差があるのです。
脱落する前と脱落した後では、何も変わることなくそのままということはありません。
凡夫と佛陀が同じということはないのです。
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【 原田雪渓老師著「禅に生きる」】 間違いの訂正(1)

「人を憎む心も、殺したくなる心もすべて佛性である」
「どんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行です。」

この見解は、悩める人の心を救い、人に慈悲を施す宗教者としては重大な間違いです。
このような言い分は信じてはなりません。
かってのオーム真理教という宗教団体の教祖麻原彰晃のような見解です。


2024.6.2
原田雪渓老師著「禅に生きる」のP115に、佛性について次のような言葉があります。

「人を憎む心も、殺したくなる心もすべて佛性である。
煩悩といえども佛性です。
比較するものがありませんから佛性といえども、煩悩といえども、元は空です。
ですからどんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行です。
そのことが本当に信じられませんと、自分自身の心の土台としなければならない修行の結果を自分の外に求めてしまいます。」


原田雪渓老師は印可の師である浜松の故井上義衍老師と全く同じ見解です。
この文章全体は、非思量という精神状態、つまり不生の佛心・一念不生から見て全く意味不明なのですが、宗教上、人道上、この見解が間違いであることは確かです。

井上義衍老師の見解は次の如くです。
「全て佛性でないものはない。
人の身心は全て佛性でできている。あらゆる人の営は佛性である。
大小便に至るまですべてのものは佛性でないものはないのです。
お手洗に行ってもみな佛性なのです。」


井上義衍老師のこのような見解をもとに、印可の弟子の原田雪渓老師は極悪非道な人の行為までも佛作佛行であるという極論を展開するようになってしまうのです。
井上義衍老師、原田雪渓老師ともに、以上のように説いていながら、佛性について一言も何処にも定義していないのです。
これでは誰も正しく理解できないのです。
人に説く基本的姿勢に欠けているのです。
宗教者失格となるほどの重大な誤りです。
この見解は佛教者の慈悲心との整合性が全くとれない見解です。
例えば、ユダヤ人大量殺戮ホロコーストやジェノサイトは間違いで肯定されるべきものではありません。利他性の心や慈悲心に欠けているからです。
インド独立の父マハトマ・ガンデイーの暗殺も間違いです。その実行犯の心は慈悲心ではないのです。
慈悲心でなければ、佛性は現前していないはずなのです。
これは曹洞宗開祖道元禅師の説かれた「坐禅の要術 非思量」の修行をしたことのない師家老師の意見です。

非思量の状態を充分に知っていると、無分別の分別心が佛法を説く基点(立ち位置)となります。
佛性も佛作佛行もこの基点から説くと、凡夫(悟っていない人)のいかなる言動も佛性である佛作佛行であるとすることはないのです。
無分別の分別心に於いては、そのような殺意も怨憎の心も煩悩の心も生じることはないのです。
殺意や怨憎や煩悩は、思慮分別に於いて生まれるものですから、雪渓老師の上記の見解は本質的に間違っています。
非思量、或いは一念不生という修行を一度も修したことのない人の見解です。佛道を頭で考えるからです。
これは、曹洞禅の公認の師家の見解としては聞き捨てのならない見解です。脱線し過ぎです。
このような見解は昔から公案禅の修行をしている禅僧に多く、破れ傘ならぬ「破れ大乗」と言われ、良識のある禅門に於いて非難されたものです。生悟なまざとりなのです。
昔から公案禅の修行で見性体験(異常心理体験)をしますと、優越心に基づく増上慢が生じてくる修行者がよくいました。あの白隠禅師もそうでした。


雪渓老師は「比較するものがありませんから」と述べておりますが、非思量の精神状態に於いては、比較する行為そのものが生じないのです。
非思量の相続の修行に於いては、常に、いわゆる「即今」なのですから、比較する思量は生じないのです。
この世に比較するものが無いわけではありません。
比較は思量に於いて生じるものです。
非思量を知らない師家老師は、禅門に於ける比較することの意味が分かっていないのです。
我々凡夫(悟っていない人のこと)の世界には、比較することはいくらでもあるのです。
比較することにより、物事の優劣が生まれ、善悪が生じ、聖俗が生じるのです。
比較することにより、より良い方法を選択して人類の文化・文明・科学等は進歩し向上してきたのです。
現代の我々の生活はその恩恵を受けているのです。
比較するということは、人の大切な能力であり、行為です。

佛教では、森羅万象の存在を「色即是空」の「色」と表現しています。
森羅万象の存在とは、色と形・眼で見られるもの・形をもったすべての物質的存在・視覚器官の対象である故に、単に”いろ”と表現するのではなく、いろと形を含む形質を持ち、生成変化する物質的存在として「色(しき)」と言い表します。
生成・変化・存在は唯一無二で、同じものは二つと無いのです。
比較することはできないのです。
このことは無分別の分別心で観るとよく納得ができます。

そもそも、比較する精神行為は、現在と現在、現在と過去、過去と過去に於いてなされるものです。
目を右から左へ転ずるだけで、一瞬の現在であり、一瞬の過去なのです。
目を右から左へ転ずるだけで、一瞬にして過去を忘却して、一瞬にして現在なのです。
一瞬の過去の残効(残影)が無いと、このことが理解できるのです
凡夫には、残効(残影)と現実の区別はでき難いのです。
残効と現実という事実が重なるからです。そして、思い・考えが重なり合うからです。
残効の消滅は、即ではなく徐々です。そこに思い・考えが絡むので、現実という事実が際立たなくなるのです。
残効を自覚していないからです。
残効(残影)は非思量によって徐々に即、消滅する精神構造となっているのです。


「比較するものがありませんから佛性といえども、煩悩といえども、元は空です。」
この文の意味が分かりません。
比較するものがないという意味が分かりません。
何と比較するのでしょうか。
ここの処は何を言いたいのか、私には理解できないのです。
ここは「比較するものがありませんから」ではなく、「一念不生の故に、煩悩といえども空です。」というならば理解ができるのです。



「元は空です。ですからどんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行です。」
という雪渓老師の見解は、宗教上、人道上、誰が見ても間違いです。

「佛作は佛陀のなさること。」「佛行は佛陀の行い。」ということです。
佛陀は釈尊であると同時に覚者ということを意味しています。歴史上、覚者は佛陀に限らないのです。
佛作佛行は、宗教として凡夫に率先して勧める善なる行為のことです。
「元は空です。云々」というのは、「生きている内に何をしようと、どうせ死んでしまえば、土になるのだから」という理由付けと一緒です。
「どうせ死ぬんだから生きている内にやりたいことをやって、人生を楽しんで生きるべきだ。」という人が今日増えています。
信仰心や菩提心が薄くなっているのです。
すべて佛作佛行だと説くならば、敢えて特別に信仰も修行もする価値がないと言っているようなものです。

「元が空だと、人の如何なる行いも佛行であり、人の如何なる働きも佛作である」という道理は違和感があります。
ここは、「元が空だと」とせずに「一念不生であれば」か「非思量であれば」とすべきです。
それならば、その通りです。

佛陀(悟った方)が決して思いもしない、行うこともない極悪非道な行為や教えを佛作佛行とする整合性は何処にもありません。
極悪非道な行為に”佛“という字を冠して佛作とし、”佛“という字を冠して佛行として装い、「修善奉行」の善にしてしまっているのです。
「諸悪莫作」の悪がこの世から消滅してしまっているのです。支離が滅裂なのです。

今、目の前に悟られた釈尊(佛陀)がおられると想像して下さい。
その佛陀が極悪非道な事件を起こすはずがないのです。
佛陀は自分の首が切られるとしても極悪非道な考えや行動をとることはないのです。
佛陀(身心脱落した佛祖)は慈悲心の人です。完全なる利他心の人です。
佛陀の重要な慈悲心や利他心がこの原田雪渓の見解からは抜け落ちてしまっているのです。
公案禅で大悟した師家老師の欠点です。
公案禅は椅上の修行なのです。畳上の水練なのです。このことは忘れてはなりません。
非思量は事実に於ける修行です。空論を遮断した修行です。
豪放磊落な態度や泰然自若や平常心、不動心などの言葉で豪気を装う臨済僧にあこがれてはなりません。禅僧の気取り虚栄心なのです。

原田雪渓老師は、「元は空です。」ということで「全部それは佛作佛行です。」と展開しております。
雪渓老師は、ここで「空」という語を持ち出しているのですから、「空」の言葉の定義をすべきです。
どのような意味で「空」を用いているのか、明らかではないのです。
どのような意味で「空」を用いたのかは説明しておくべきです。
どの場合でも、ご自分の用いた言葉の説明や定義は必ずしておくべきです。
いつでも言葉の説明や定義することがなく、悪い癖です。

非思量の精神世界には、「空」も「有」も「無」も存在していません。
公案禅で禅の修行をしてきた師家老師方は非思量の体験が無いのです。
故原田祖岳老師の小浜の発心寺は、曹洞宗の修行寺にも係わらず公案禅の修行ばかりで、曹洞禅の非思量についてはノータッチです。
このような師家老師方を含めての曹洞宗なのです。曹洞宗は懐が深いのです。
公案禅の修行の中に「非思量」は全く存在することが無い為に、公案禅で禅の修行をしてきた師家老師方は非思量の理解ができないのです。
公案の拈提は、一般の人ならばどなたにでもある僅かな非思量の精神状態を消滅させてしまうのです。
公案禅の思量過剰状態が非思量の精神状態を潰してしまうのです。
誰にでも自らの心の中にあるはずの非思量の状態に思い至らなくなってしまうのです。
ですから、公案禅で修行されてきたお師家さん方は、非思量が分からないのです。
非思量が分からなければ、正念も分からないのです。
このような老師方は例えば、曹洞宗の原田祖岳老師、澤木興道老師、飯田とう隠老師、井上義衍老師、原田雪渓老師、内山興正老師等々です。
以上のお師家さん方の非思量の説明をご覧になれば、なるほどと納得できると思います。
老師という存在に幻想を抱かずに客観的に洞察する目を養うことです。

禅の修行を公案禅から本格的に始めた者は、臨済僧、曹洞僧に拘らず、曹洞禅の非思量の状態が全く分かりません。
昭和の初期(戦前)までは、曹洞僧で、本格的に修行し悟ろうと考える雲水は、臨済宗の僧堂の門を叩いたものです。
当然、将来は曹洞宗に戻って、お師家さんとなり活躍することを志したのです。
専門僧堂の師家や堂長となることを願って、悟りを求めて公案禅を本格的に修行したのです。
臨済禅は最も厳しい最も悟りに近い修行をするものだという観念が近代に於いて出来上がっていました。
しかし、それは見掛けだけのことで、実際に厳しいのは曹洞宗の非思量の修行なのです。
曹洞禅は見掛けは静かで穏やかなのですが、難行苦行です。
実際にやり較べてみれば分かります。

公案の中には、禅についてのあらゆる修行上の知識・歴史上の知識・学問的知識・文化的知識が詰め込まれています。
禅のあらゆる知識を縦横無尽に用いて公案を拈提し、解くのです。
公案禅の修行によって、禅に関するあらゆる知識が修行の過程で身に付くようになっているのです。
臨済禅の師家老師方は、知識は非常に豊富です。
禅の知識が豊富だからといって佛道の修行が深まっている保証にはなりません。注意が必要なのです。
臨済宗は公案禅ですから、公案を解くために5年も10年も思量に思量を重ね尽くし極め尽くして修行をするのです。
場合によっては20年も30年も年月を要することがあるのです。
公案禅の修行僧は考えることばかりの修行をし、考えない思わない修行は全くないのです。そこに何の価値も置いていないのです。

本来であれば、公案禅に於いて、徹底的に思量(思い・考え・想像)を拈提し尽くし、思量(思い・考え・想像)が止まってしまったその先に、一念不生(正念)の精神状態があることに気付かなくてはならないのです。
公案禅の先に思量(思い・考え・想像)が全く動かない無分別の分別心のはたらきがあることに気付かなくてならないのです。
公案禅では、1,700則の公案が透過した証しとして印可証明を師家老師が授与することをもって「大悟徹底した」というのです。
所謂、学校の卒業証書のようなものです。形式上のものです。
公案禅の大悟徹底は佛道の悟りではないのです。
臨済宗の大悟徹底、印可証明の授与は、正しい身心脱落ではありませんから注意が必要です。
公案の課題がパスしたという証しに与えるものです。
残念なことに、公案禅の修行の結果、思量する癖が完璧に身についてしまうのです。
このような思量を尽くす修行が日常底でしたから、何も思わない、何も考えないことが全く無い精神状態が出来上がってしまうのです。
このような修行をしてきた師家や老師方は心の中に非思量の状態が全く無くなってしまっているのです。
非思量の状態が日常的にある一般の人と違って、公案禅の修行をしてきた師家や老師方は非思量の状態が全く分からないのです。
心の中の何処を捜しても非思量の状態がないからです。

本来であれば、公案禅は1,700則の公案をすべて透過すれば、自然に正念の相続の修行に移行していくことになっています。ここは師家の指導力の問題であります。
しかし、近代・現代に於いて、正念に至った臨済宗の師家や老師は一人も居なかったのです。
今日、臨済宗のお師家さんに「正念とは何ですか。どういう状態のことですか。」と問うても、「分かりません。」という返事しかありません。
正念の相続に移行しなかったということは、身心脱落(成佛・成道・悟り・解脱)をした師家老師は一人もいないということです。
正念の相続なしに身心脱落(成佛・成道・悟り・解脱)することはあり得ないことです。
それが正伝の佛法です。
公案1,700則すべてを透過し、大悟を認められておりながら、正念の相続の修行に移行できなかったということは、公案を指導する師家老師に正念相続の修行経験がなかったことを意味しているのです。
修行僧を1,700則すべて透過させておきながら、正念の相続に移行することができなかったのは、師家老師に全責任があります。
公案禅という修行は修行僧の資質を問わないのです。問われるのは師家や老師の資質の方です。
このことを理解している師家や老師方は現代に於いてはほとんどおりません。
公案禅は正念に至ることが目的であってそれ以上のことはないのです。公案で悟りに至ることはないのです。
このことを理解している師家老師は近代・現代には一人もおられないのです。
公案禅の修行が最上の禅修行と思い込んでいるのです。
公案禅よりもはるかに優れた正統の禅は、道元禅師の非思量の相続の修行です。
正念は非思量のことです。一念不生のことです。祖師方の祖録を調べれば明らかになります。
本来は、正念を知るには修行というほどのことは必要がないのです。
非思量の状態ですから説明すれば誰にでも分かるのです。

公案禅を若い時にしっかりと修行した者は、公案を徹底的に考え抜く習慣が身についているのです。
つまり、頭脳の中の隅々にまでしっかりした思考の神経回路が出来上がってしまうのです。
20年も30年も公案をやっていれば、一般の人よりも強化された公案の思考神経回路が出来上がってしまい、非思量の神経回路が消滅してしまっているのです。
公案禅の師家老師方は、自らの頭脳の中に何も考えない思わない非思量の状態が、消滅してしまっているので、曹洞禅の非思量は全く分からないのです。
ですから、若い頃、公案禅をやってきた師家老師方は、非思量の説明において、経験に基づかない自分勝手な理屈を展開させてしまうのです。
分からなければ黙っていればよいものを、公然と説いてしまうのです。
飯田とう隠老師しかり、井上義衍老師しかり、原田雪渓老師しかり、なのです。

次回、2024年7月に続く
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【 原田雪渓老師著「禅に生きる」】 間違いの訂正(2)

「人を憎む心も、殺したくなる心もすべて佛性である」
「どんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行です。」

2024.7.2
今回は、前回2024.6.2(第五章 No12)公開分の続きです。


始めに、佛性について、六祖慧能の説く処を紹介致します。

六祖示して云く
「無常は即ち佛性なり、
有常は即ち、善悪一切諸法分別心なり。」


無常と有常を対比して、
「有常」というのは「善悪一切諸法分別心なり」と示しています。
「善悪一切諸法分別心」というのは、思量の世界の生み出すものです。
思量の世界というのは、自己(自我・意識・我)の有ることを指しています。
善悪が有るのは思量の世界です。非思量の世界に善悪はありません。

是非・善悪・凡聖・生死は一つの思想であり見解です。
これらは思量が生み出すものです。
思量の消滅と伴に実際にあると思っていた是非・善悪・凡聖・生死も消滅してしまうのです。
これらは思想であって現前する事実ではないのですから当然のことなのです。
是も、非も、善悪も、凡聖も、生死も、普遍的事実ではないのです。
これらは、哲学に於ける普遍的思想であって、普遍的真理ではないのです。
言語で表現してしまうと、それらはすべて思想となり見解となるのです。
そして、それらは事実・実際から離れてしまうのです。
曹洞禅の非思量の修行は、最初から最後まで事実・実際に於いて修していくのです。
公案禅は思想の拈提であり見解の拈提です。
この二つは全く異なる修行でどこまでいっても公案禅と非思量禅は一如ということにはならないのです。

「一切諸法」というのは原理・原則・過去・未来に関するあらゆることです。
思量の世界に生まれ育ち、成長し、老いて死ぬ人生は、死ぬまで思量の世界であり、自然に思量の世界から非思量の世界に至る(移行する)ことはないのです。
非思量の世界に至るには佛道の修行という過程が必ずなければならないのです。
有常とは以上のことですから、「無常は佛性なり」なのです。

佛性は、身心脱落(悟る)して初めて、身心脱落と同時に現れるものですから、「無常は即ち佛性なり」ということは、無常は身心脱落(悟り)を表していることが分かります。
無常は、無分別心でも無我でもよいのです。
この「無常」というのは、無我ということであり、身心脱落であり、脱落した身心ということです。
この「無常」の意味は、「有常即ち、善悪一切諸法分別心なり。」という文から、「無我」ということ、「身心脱落」ということが導き出されます。
脱落した身心は精神上、消滅しています。
「有常」は有我であり、有心のことです。
善悪一切諸法分別心には自我(意識)が必ず伴うのです。
自我が有常を作り出すのです。自我は有常なのです。
自我は佛性ではないのです。無我の心が佛性なのです。

十重禁戒は自我に対する禁戒です。
無我に十重禁戒(第五章 No5 2023.11.1 公開を参照下さい。)は必要がないのです。十重禁戒を犯す心が生ずることがないからです。
自我は非人道的行為、犯罪行為、謀らいを企てる性質を持っています。
善悪の悪を行い、それらを謀らい企てる心は利己心です。
その利己心は自我の本性です。
身心脱落すると利己心を司る自我(意識)が脱落してしまいます。利己心が消滅してしまうのです。
利己心の消滅してしまった人を佛陀というのです。
この佛陀の本性を佛性と言い、利己心の無い心を佛性というのです。



前回(2024.6.2)公開(1)の冒頭で取り上げました原田雪渓老師
「人を憎む心も、殺したくなる心もすべて佛性である。煩悩といえども佛性です。
元は空であるから佛作(佛のなすこと)佛行(佛の行うこと)です。
どんな極悪非道な事件でも佛作佛行です。」

と説くところは、あまりにもひどい修行上の未熟さです。道徳倫理観に於いて、反宗教的、反社会的であり、修行以前の話です。

原田雪渓老師は若い頃、小浜の発心寺の原田祖岳老師の許で公案禅の修行をしていました。
次に浜松の井上義衍老師の許に修行の場を移した或る時、お茶を入れている時に、特別な異常心理状態に陥り、この出来事で、自ら悟ったものと思ったのです。
雪渓老師がその時の様子を義衍老師に呈すると、義衍老師から即座に悟ったと認められたのです。
雪渓老師が義衍老師から印可証明を与えられたという経緯は斯様なものです。
雪渓老師の体験は、公案禅に於ける「気が付いた」という状態であり、見性です。異常心理体験なのです。
見性は曹洞禅に於いては何の価値をもないのです。
見性を何回重ねても曹洞禅の身心脱落に至ることはありません。
井上義衍老師は異常心理体験を修行の中心に置いて、修行者の指導をしておられたのです。
この時まで、雪渓老師は非思量の相続という修行を一度もしたことはなかったのです。
雪渓老師は公案禅しか修行をしたことがなかったのです。
雪渓老師の悟りの実際は、臨済禅の平凡な見性です。
心理学的に言いますと、変性意識の体験だったのです。
ということで、斯様な破綻した佛性論を説くようになったのでしょう。

極悪非道な事件を佛陀の本性が起こすはずはありません。
佛陀の本性は利他性であり慈悲性です。
極悪非道な事件を佛作・佛行とみなすのは、非思量の体験が全くないことからくる極論です。
無分別の分別が分からないまま、頭でよくよく考え抜いたのでしょう。
非思量の相続を師家としてしっかりと修し、無分別の分別心が分かっていれば、人を憎む心も殺したくなる心もすべて佛性とは言うはずがないのです。
それらの心は自我心(意識)が生み出すもので、佛心(佛性)の生み出すものではないのです。
自我心(意識)の本質は際限のない利己性です。
この自我心(意識)は身心脱落によって、身心脱落と同時に消滅してしまうのです。
自我心(意識)の消滅してしまった人を佛心の人といい、佛性の人というのです。
その本質は、利己心が全く無い、際限のない利他性なのです。


佛性は、五官(眼耳鼻舌身)でとらえることはできません。
佛性は、悟りを開いた佛陀の本性ということです。
悟りは曹洞禅では身心脱落と言います。
佛性は身心脱落した人の共通する本性ということです。
佛性は身心脱落した本人が縁に応じ、感に赴いて、理解していくことです。
身心脱落すると、利己心は消滅し、利他心の人となります。
身心脱落していない一般の人の本性は、利己性です。
身心脱落した人の本性は、利他性です。
一般社会に於ける利他性は、互恵的利他性であって、純粋な利他性ではありません。
一般社会の利他性は、見掛けの利他性であって、純粋な利他性ではないのです。
何れ何処かで返してもらうつもりの互恵的利他行為です。
つまり、貸しを作っておく為の利他的行為なのです。
利己心の行う利己心の為の、見掛けの利他的行為です。
その本質は、利己性の行為です。
佛性というのは、今の私達の心から利己性の消滅した心(精神)を指します。
利己性は身心脱落によって消滅し、利他性の人となるのです。
佛性は利他性を指します。

身心脱落の身心は自己(我・自我・意識)のことです。
身心脱落の身心は自己(我・自我・意識)によって作られるのです。
身心の本質(性)は、自己(我・自我・意識)そのものです。
一念不生、或いは非思量という禅の修行によって身心(自己・我・自我・意識)を消滅せしむるのです。
それが佛陀の悟りです。
本性が利己性の凡庸な自己が心の中から消滅してしまうと、人は利他性の人となるのです。
佛陀は純粋に利他性の人なのです。
利他性を佛性というのです。
利他性には微塵も利己性はありません。
純粋な利他性の人である佛陀に人を憎む心が生じることはないのです。
他者を殺したくなるような利己的な心も生じることはないのです。
心を悩ます煩悩が生滅することもないのです。
佛陀が極悪非道な事件を起こすことはないのです。
佛陀の心には利他心しかないのですから、当然です。
佛陀がなさらないことは佛作・佛行ではありません。
佛作・佛行をなす心は佛性です。
その行為は純粋な利他行です。
十重禁戒が佛教の戒律として定められていますが、その十重禁戒は佛陀がなさらなかった反道徳的・反倫理的行為を、十の禁戒としてまとめたものです。
十重禁戒は佛陀にとっては守るべき戒めではなく、佛陀の生涯の日常だったのです。

佛性を原田雪渓老師のように頭の中だけで推考すると、反道徳的・反倫理的極論となってしまうこともあるのです。
事実を離れるからです。
原田雪渓老師が、殺意まで佛性と考えるに至った原因は、非思量の精神状態を全く経験したことがないからです。
非思量の相続の経験が充分にあれば、無分別の分別心の作用がよく分かるのです。
このことに宗教的天才であることは必要ありません。
無分別の分別心に殺意が生じることは全くないのです。
それが非思量の精神世界です。

この原田雪渓老師の文章全体は本質的に間違いだらけで何を説きたいのかよく分かりません。
このような見解で、後進の指導が正しく行えるのか疑問です。
まるでオーム真理教の教祖 麻原彰晃のようです。
殺人を「ポア」と称して、それを佛作と言い、佛行と言い替えても同じことですが、業を重ねないように、その人の命を絶ってあげるのも宗教的人助けであるという理論です。
原田雪渓老師の殺意や憎悪心までも佛性であるとするこのような宗教観をまともに信じてはなりません。
このような宗教観を「破れ大乗」というのです。
場合によっては狂信的宗教、邪教となっていくのです。
この理論展開では、あのオーム真理教のようになる可能性があるのです。
近代・現代に於いて、修行未熟であるにも拘らず、修行に於いて特別な心理体験をし、自分勝手を、傍若無人を、自由無碍であるとして、常軌を逸した宗教観を持つ禅僧が時々見受けられます。
そのような禅僧の宗教観を「破れ大乗」といって、禅門はかっては非難したのです。
原田雪渓老師の曹洞禅らしからぬ大胆な佛法観・佛性観・宗教観は認められるべきものではありません。

原田雪渓老師は、「人類社会のあらゆる言動はすべて佛法である。佛法でないものは無い。」と説いておりますが、それは間違いであります。
これとよく似た説法で、原田雪渓老師の印可の師である、浜松の故井上義衍老師も、「あらゆる人の行為・言動・存在で佛性でないものはない。」と説示しています。
原田雪渓老師は井上義衍老師と同じことを説いているのです


古佛曰く
「佛行とは有無憎愛等を行ぜざる是れなり。
一切の聖人(佛祖)は衆生の行を行ぜず、
衆生は是の如き聖行(佛祖方の行)を行ぜず。」


「佛行とは有無憎愛等を行ぜざる是れなり。」
と述べております。
極悪非道な事件は人の憎愛によって引き起こされるものです。
「どんな極悪非道な事件でも全部それは佛作佛行である。」
と説く原田雪渓老師の見解は古佛の説くところからは、かなり逸脱しているのです。
有無憎愛は自我(自己・我・意識)の行ずることであり、自我の利己性の本性が行ずるところなのです。
一切の祖師方は非思量の故に、有無善悪憎愛を生ずることなく、行ずることがないのです。
これを佛作佛行と言うのです。自己(自我)の無い処から生ずる行為です。
身心脱落した人の行為を佛行というのです。見た目では分かりません。
衆生は身心脱落していないが為に聖行を行ずることはできないと述べているのです。
「聖行」というのは、身心脱落した上での行為ということです。佛作佛行にあたります。
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佛性は成佛(身心脱落)よりさきに具足せるに非ず

2024.8.1
「第五章 No11 佛性はいつ現前するのか」でも触れましたが、再確認の意味も含めて繰り返します。
自我心(意識)が消滅して佛性現前するということは、
道元禅師著 正法眼蔵現成公案「佛性」の巻で、次の言葉で示されています。
自我心(意識)は身心脱落の身心のことです。
その一文を紹介致します。

「佛性の義を知らんと欲せば、正に時節因縁を観ずべし。
時節若し至れば、佛性現前す。」

この場合の「時節因縁」というのは、身心脱落することを指します。
「時節若し至れば」というのは、身心脱落すればということになります。
「時節若し至れば、佛性現前す。」というのは、
身心脱落することに至れば、佛性が現前するということです。
佛性は身心脱落して初めて現れるのです。その前に佛性が現れることはないのです。
佛性が現前しないということは、本来・・佛性が有るということを示しているわけではありません。
現実的に身心脱落の前には佛性の作用はどこにも、いつでも、現前していない・・・ということを説いているのです。
現実に作用が無いのに、“佛性が本来、有る無い”と洞察することは、哲学の問題です。
この「本来」という言葉は、師家老師が好んで用いる極めて便利な言葉です。
非思量に於いては、「本来」という言葉を用いる場面はありません。
「本来」を用いるところから、善悪一切諸法分別となり、法から離れることとなるのです。

佛教に本覚思想というものがあります。
それは「本来本法性、天然自性心」という言葉で表されています。
その意味は、「一切衆生は本来そのまま佛である」ということです。
佛というのは悟っているという意味で用いているのです。
これが本覚思想です。
「どうにもせんでも人は生まれながらにして本来、悟っているのであるが妄想の故に、それを知ることができない」という考え方(思想)です。
曹洞宗の多くの近代・現代の師家方は、この思想のもとに只管打坐をしているのです。
本来悟っているから敢えて悟る必要はないと説きます。
本来悟っているのであるから、本来悟っていることを信じて、そのまま只、坐っていれば佛祖と同じ坐禅であるという考えです。
これが曹洞禅の只管打坐を唱える理由です。
「本来」という言葉は、禅を哲学的・思想的解釈する場合に用いる言葉ですから、禅僧たる者はなるべく用いることを控えた方が宜しいのです。


同じく「佛性」の巻の中で道元禅師は次のように説かれています。
「佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず、成佛よりのちに具足するなり、
佛性かならず成佛と同参するなり。」

この言葉の意味をよく理解しなくてはなりません。
ここの「佛性」を得道に替えても、無我に替えても、佛法に替えても同じことです。
無我に替えてみますと
「無我は成佛よりさきに具足せるにあらず、成佛よりのち具足するなり。
無我はかならず成佛と同参するなり。」ということになります。
この道元禅師の一文では、本覚思想は全く無視です。
道元禅師は、事実・実際を非思量の相続の立場からそのまま説いているのです。
曹洞禅の師家方はここで必ず本覚思想を思い起こすのです。
本覚思想を思い起こすと同時に非思量の相続から離れるのです。
そのことに気付かないのです。
師家方は未だ非思量の人に成れていないのです。
「本来本法性、天然自性心」は佛教思想ですからこのようなことに左右されてはならないのです。
成佛というのは身心脱落することを指しています。

また、
「成佛以来に具足する佛法なりと参学する正的なり。」とあります。
「以来」は以後と同じことです。
「正的」というのは、「正しく的を得ている」という意味です。
成佛以前に佛性は具足するのではないのです。
師家老師がここに「本来は佛性を具足している。」と主張することは意味がありません。


次の一文は道元禅師の書かれた弁道話の中に出てくるものです。
「この法は人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし。」
>
という文は上記の佛性についての文と同じ意味のことを述べています。
つまり、「修せざるには」というのは、坐禅の要術である非思量の相続をしなければということです。
このことをひたすら、余念をまじえずに修していくのです。
悟りを求めることなく非思量の相続をひたすら修していけば、身心脱落は必然のことなのです。
求める、悟りたいという心を動かすことなく非思量の相続をすることは充分可能です。
やってみることです。
悟りたいという思いを持っている間は、悟ることは決してないのです。
一見矛盾してみえますが、禅門の修行に於いては矛盾していないのです。
自然に現前するのです。
身心脱落が自身に現前するということは、身心脱落を自身が実証したということなのです。
実証したということは、身心脱落を得たということになるのです。
修行(非思量の相続)をしないことには身心脱落(悟り・成佛)はあり得ません。
身心脱落(悟り・成佛)すれば、同時に佛法を得るのです。
佛法を得るのは身心脱落(悟り・成佛)と同時です。
身心脱落(悟り・成佛)を以って証するというのです。
証するということは身心脱落(悟り・成佛・成道)することです。
何回も繰り返しますが、非思量(一念不生)の相続を修する以外に身心脱落する方法はありません。

公案禅の大悟や見性と言うところのものは、日常的に思量のあるままで体験することがあることですが、それが身心脱落に直結することはないのです。
公案禅は過剰思考、或いは超過剰思考によって、異常心理状態を人為的に生ぜしめるのです。
これを人為的に禅の指導者のもとで行うので、頭が狂うことはないのです。
自分で自己流で過剰思考状態を続けますと、必ず頭脳の脳神経回路に異常をもたらすこととなりますので、自己流で行うことは止めた方が宜しいです。
過剰思考の延長線上に身心脱落の世界はありません。
当然、非思量(一念不生)の精神世界もないのです。

身心脱落しても森羅万象は何も変わることはありません。
一人の人間の精神に身心脱落という大きな変化があった処で、森羅万象にその変化の影響がでることはないのです。
身心脱落する前も、身心脱落した後も、森羅万象はそのままです。
人間の精神が森羅万象(の変化)を支配しているということは一つも無いのです。
佛法というのは人の心の中の問題です。
だから「三界唯一心、心外無別法」と説くのです。
人の精神のそとに佛法はないのです。
森羅万象は佛法とは無関係です。
佛法は人の心の中に作られるものです。
森羅万象の一つ一つを指して、あれも佛法、これも佛法と言うことは間違いです。
佛法は、身心脱落した人が森羅万象の一つ一つを見て、聞いて、触ってみて、これが佛法だ、それが佛法だ、と見分けることができるものではないのです。
身心脱落をした自己の中に、縁に応じた佛法の様子に一つ一つ気付くのです。
例えば、自他一如という佛法の原理は、他者の存在という縁に感応した時に 「ああ!確かに 自他が無い」と気付くのです。これを佛法と言っているのです。
この自他一如は、自己と他己が一体となり融合してしまうことを指しているのではなく、自己と他己が存在しないということを意味しているのです。
自己と他己が存在しないということは、自己の心の中に存在しないとうことを言っているのです。

自己と他己の存在を作り出したのは自我(自己・我・意識・自意識)です。
自我が自己の生存の為に作り出したのです。
自己と他己の区別を作り出し、自己の生存を最優先し、他己を排斥する為です。
自己保存本能の遂行の為に必要不可欠な機能なのです。
いわゆる精神的機能です。
自己と他己の存在を心の中に作り出したのは自我なのですが、その自己も、他己も、その作り上げた素材は自我なのです。
自我が縁に応じて自己となり、縁に応じて他己となって現れるのです。
このことが縁に感応した時に、自分の心の中の様子を観察して分かるのです。
これが佛法と言われるところの内容です。
観察の深さ・緻密さはその人その人の性格によるのです。
佛法は他者に指し示すことのできるものではないのです。
佛法は眼耳鼻舌身の五官で知ることができるものではないのです。
悟っても五官の機能に変わりはなく、感応も同じです。
あれも佛法だ、これも佛法だ、という師家が時々見受けられますが、この師家の言っていることは理屈で説いているので、御本人が佛法を実感して分かっているわけではないのです。
佛法らしいことが何か見えているわけではないのです。
佛法は身心脱落した人のみが、縁に応じて分かることです。
縁がなければ佛法は存在しませんし、縁が変化しなければ佛法は存在しないのです。
自我が有る時と自我が消滅してしまった時の違いによって、佛法の存在が分かるのです。
佛法の一つ一つの内容が、その縁に感応した時に、一つ一つゆたかに備わっていることが分かるのです。
佛法という何か得体の知れない神秘的な神聖な深遠なものが身体の中に有ると思うのは間違いです。
あれも佛性だ、これも佛性だと説く師家は、他者には佛法を説く意味のないことが分かっていないのです。
佛法は他者に説くべきものではありませんし、説くこともできないものです。
冷暖自知の精神世界です。


森羅万象は何も変わらず、佛性も、得道も、佛法も、無我も、道も、自身が得るのです。
身心を、脱落すること・消滅すること・失うことをもって、得る・・というのです。
身心脱落によって得るものは無いのです。
法も、佛道も、佛性も、無我も、一つとして得るべき対象ではなかったのです。
身心脱落をして、すっからかんになって、何もかも失って、歓ぶのを法悦というのです。
佛道は何十年と苦労して、すべてを失う道なのです。
求めていた悟りまでも失ってしまうのです。
貧になるのは当然です。
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非思量を否定する飯田とう隠老師

2024.9.1
「箇の不思量底を思量せよ。
不思量底、如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」

この一文は、曹洞宗開祖道元禅師著「普勧坐禅儀」の中の最も重要な部分です。

「普勧坐禅儀」は曹洞宗開祖道元禅師が坐禅の仕方について詳しく説いた坐禅の指南書です。
仏法を主体に説いた冊子ではありません。
この坐禅の指南書の中で「坐禅の要術は非思量である。」と示されたのです。
「非思量」は坐禅の仕方の調心の有り方を示した言葉です。
非思量は最も重要な言葉なのです。
この非思量・不思量は字義通り解釈すればよいのです。
そして、開祖道元禅師を信じてその通りにやってみるべきです。
軽い気持ちで少しやってみたけれども、とてもできるものではないと諦めてはなりません。
非思量という言葉そのものは、思わないことということですから3才の童児でも理解できることです。軽く考えてしまいがちな言葉なのです。
非思量は一般的に言い表せば「思わないこと」「考えないこと」「想像しないこと」となります。
修行者や参禅者にとっては「そんなことなら子供にだってできる」「このような簡単なことで禅の修行になるのですか?」と問い返したくなるような言葉です。

一般的に、公案の修行の方がはるかに難しく知的で高尚で修行らしい修行に思われるのです。
公案の修行は、知的活動中心の修行ですから、高学歴の修行者向きのように思えるのです。
如何にも禅的であり、雰囲気も禅的であり、修行をしている気になり好ましく感じられるのです。
特別な修行をしているという優越感さえ感じるのです。

曹洞禅はの坐禅は、非思量(不思量)です。
非思量を別の言葉で言いますと「一念不生」です。「一念(思い考え)が生じない」という意味です。
この言葉は祖録の中でよく用いられています。祖録の中では非思量はあまり用いられていません。

今日、曹洞禅は一般的には「只管打坐」という坐禅であるとお師家さん方が説明しております。
一般の人に分かり易く言いますと「ただ坐る」ということです。何もしないで「ただ坐っている」ということになります。
この「ただ坐る」という言葉の中には非思量の内容が全く含まれていません。
曹洞宗のお師家方の解釈は間違っているのです。
禅の修行は只管打坐に間違いはありませんが、この只管打坐から重要な一言が抜け落ちてしまっているのです。
その重要な一言というのは、坐禅の要術である「非思量」です。
「非思量の相続に於ける只管打坐」というのが正しいあり方です。
「非思量の状態でただ坐る」のです。
「只管打坐」や「ただ坐る」だけで修行になるというなら楽な修行なのですが、ここに非思量を加えると精神的な難行となり、精神的な苦行となり、その修行は余程の覚悟と忍耐が必要となります。
試しにやってみて下さい。

飯田とう隠老師は、「非思量」についてかなり多くの言葉を使って説いています。
飯田とう隠老師の非思量についての基本的姿勢は、「事実上、無念、無心になれるものではない。」ということです。
飯田とう隠老師は、開祖道元禅師が我々に説かれた「坐禅の要術 非思量」を否定しているのです。
私は曹洞禅に入門し雲水となった頃から「非思量」は字義通り素直に受け取るものと考えておりました。
できるできないは自分の菩提心一つだと考えておりましたので、道元禅師の示された非思量を疑ったことは一度たりともありません。
近代・現代の高名なお師家さんで悟っていると評判の飯田とう隠老師と浜松の井上義衍老師は、字義通りの解釈をせずに独自の非思量論を展開しております。
悟ったとされている高名な老師方の解釈・説明ですから信じている方がほとんどです。
今日の令和でも、両老師の非思量の説明の信用は大なるものがあります。
それは両老師の非思量の説明に間違いがあることを指摘する禅僧が1人もいなかったからです。
非思量の相続をしっかりやっていなければ、多分、歯が立たないことでしょう。
そこで私は、若き修行僧が曹洞禅の正しい非思量の修行を精進することができるように、取り敢えず、飯田とう隠老師の非思量の間違いを老師の説明の中から取り上げ、訂正してまいります。


その前に、飯田とう隠老師の行履を全く知らない人の為に、飯田とう隠老師の経歴とその周辺について少しばかり説明致します。

飯田とう隠老師は、公案禅(臨済禅)に於いて20才代と30才代に印可を受けて、在家のまま40才代後半から、師家として居士大姉の参禅者の指導をしています。
勿論、公案禅の指導です。
大正11年 60才で原田祖岳老師の許で曹洞宗に出家し得度しております。
飯田とう隠老師本人、臨済宗の公案禅の宗風を曹洞宗に取り入れて、曹洞・臨済の禅を融合した新たな禅宗を作り上げたかったということです。
昭和6年に天下の模範道場を作る為に、大阪府高槻に少林窟道場を開設。
翌年、飯田とう隠老師は病に倒れ、以後療養生活となり、昭和12年に再起不能のまま逝去されました。


近代・現代に於いては志のある洞門の禅僧は、悟りを求めて臨済の僧堂に修行に出たものです。
その一人に原田祖岳老師がおり、祖岳老師は臨済で印可を受け、大事了畢。
曹洞宗に戻り、小浜の発心寺にて臨済風の厳しい修行を展開したのです。
当時、臨済宗の僧堂に修行に入って箔を付けることが流行っていたのです。
曹洞宗の僧侶でありながら、臨済宗の公案禅の方が修行という点では優れ、上位にあると考えていたものと思われます。
実際は逆で、曹洞禅の非思量の相続の修行の方が優れ、上位にあるのです。
多くの洞門の禅僧は、このことに気付いていないのです。
それは洞門の修行の要術である非思量の相続の理解が不充分だからです。
洞門の非思量の相続が不充分である理由は、文字としての理解は容易なのですが、実際にやってみるとこれほど精神的難行苦行はないからです。
ほとんどの修行者にとって実修不能と思わせるぐらいの難行苦行なのです。
それに耐え切れずに諦めてしまうのです。
結果、非思量の相続の無い「只管打坐」を以って曹洞宗の正修行としてしまったのです。
見掛けだけの中味のない只管打坐なのです。中味は本人以外誰にも分からないのです。
曹洞宗開祖道元禅師の説かれた非思量をやらないことにしてしまったのです。

飯田とう隠老師は臨済宗で約35年公案禅を修してきたのですから、公案禅の真逆の修行である非思量の相続はできるはずもないのです。
公案を拈弄する癖が身にしみ付いてしまっているので、その癖を60才になってから取ろうとしても無理にきまっているのです。
拈弄ねんろう:古則公案を取り上げ、さまざまに解釈、判断、応用することを言います。)
35年も頭をひねり回してやってきたのですから、足の先から頭のテッペンまで、公案禅の人です。
その人が60才の還暦を機に曹洞禅に出家して、曹洞禅にその体質を切り替えることは無理です。
何か禅門に対する野望がない限り、このようなことはしないのが伝統を重んじる宗教者の在り方です。
飯田とう隠老師のなされたことは、生粋の筋金入りの共産党員が自民党を改革しようと、急きょ自民党員になるようなもので無理筋なのです。
飯田とう隠老師は曹洞禅の非思量の修行が公案禅よりも易しく、下位にあると思われたのでしょう。曹洞禅を甘くみていたものと思います。
只管打坐ですから、じっと坐っていれば良いと思われたのでしょう。
曹洞禅の禅者の理想的姿は「愚の如く魯の如く ただよく相続するを主中の主と名づく」なのです。
大人しいのです。地味なのです。派手さがないのです。
自ら世間にアピールすることもないのです。田舎の百姓坊主なのです。
曹洞土民と言われる由縁です。
悟りを求める若き修行者にとって、このような冴えないイメージの曹洞禅は魅力が少ないのです。
臨済将軍という臨済禅の家風に魅力を感じるので、優秀な若者は公案禅を選ぶ傾向にあります。

飯田とう隠老師は曹洞禅の修行を公案禅よりも下位にみて、曹洞宗の宗風を臨済風に改革するつもりで、組易しと判断し敢えて曹洞宗にて出家得度したものと思われます。
曹洞宗に入門し、普勧坐禅儀を目にして、曹洞禅の坐禅は非思量であることが分かった飯田とう隠老師は、非思量を少しはやってみたことでしょう。
しかし、公案で頭を使い尽くす癖がついていますから、非思量が全くできなかったものと思います。
頭を使う癖は、そう簡単に取れることはないのです。
60才を越えた飯田とう隠老師には尚更、無理難題です。
そこで飯田とう隠老師は「事実上、無念、無心になれるものではない。」と述べるに至ったのです。
この一文が、飯田とう隠老師の非思量(一念不生)という修行に対する結論です。

盤珪禅師は、一念不生(非思量)を修行し、公案を排して、「不生の佛心」という民衆にも理解し易い表現を使用して禅の真髄を示しました。
この「不生の佛心」というのは、不生は一念不生のことです。
佛心は無分別の分別心のことです。
無分別の分別心の作用は、一念不生の状態にあるとよく分かります。
これで修行としては充分ですし、身心脱落をした悟後も充分なのです。
私は飯田とう隠老師とは違い、学歴も普通ですし、社会的評価の高い医者でもなく、高名な師家・老師方との縁も無く、印可証明を受けたこともない凡庸な修行者あり、何ら取り柄のない住職です。
片田舎の小寺で長年、諦めずに、非思量の相続を無師で修してまいりました。
私は「只管打坐」よりも「非思量の相続」を第一義としていますから、曹洞宗では異端です。残念なことです。
現代の曹洞宗の師家集団は「非思量のない・・只管打坐」が主流です。
澤木興道老師の系列のお師家さん方です。
普勧坐禅儀に書かれていない独自の坐禅修行をしているのです。
曹洞禅の修行は坐禅の姿勢に限ったことではありません。
非思量は行住坐臥何れの姿勢でも相続できるのです。
坐禅の姿勢がベストであるというものでもないのです。
何れの時でも、何れの処でも非思量を修することはできるのです。
姿勢は問いませんから、目が覚めているならば、全ての時間が修行となるということです。
非思量は字義通りに解釈すれば、思量の全く無い精神(頭脳)の状態です。
一念不生も字義通りに解釈すれば、「一念も生ぜず」ということですから、一念も頭の中に生じない状態となり、非思量と全く同じです。


念も、思量も、思いも、考えも、頭の中で言葉を用います。
頭の中に言葉が生じていれば、それは思量を用いたこととなり、念が生じたこととなるのです。
頭の中に言葉が存在していれば、それは思量です。
頭の中に言葉が存在していなければ、それは非思量であり、一念不生なのです。
思量・非思量は、言葉が頭の中に生じている(存在している)か、生じていない(存在していない)かの違いです。
無念・無想は、念(思い・考え)も想像(姿・形・色・像)もない状態ですから同じ意味です、
それぞれ簡単な漢字を並べた熟語ですから、字義通りに解釈すれば一つも難しいことはないのです。
何故このような簡単な熟語が正しく字義通りに解釈できないのかということが問題です。
その理由は、非思量・一念不生をやってみたところ、全くできなかったということなのです。
特に公案禅をやってきた人達は、人一倍思量する癖がついてしまっていますから、その癖を止めるのは大変なことです。
人は思量を止めるよりも動かす方が簡単なのです。
それは幼い頃から大人になるまで思量する癖を意図的につけてきたからです。

昭和の高僧・名師家は揃いも揃って皆、公案禅を若い頃にしっかりと修行してきた方ばかりです。
その方々の非思量の解釈は意味不明の難しい解釈であり、その解釈では実際の修行の方法を知ろうとしても、何一つ役に立たないのです。
具体的にどのように修行すればよいのか全く分からないのです。
そのように難しく解釈する老師方は、自分には非思量・一念不生ができなかったということを、自分に責任があるのではなく、そのように説いた祖師方に責任があるかのようにしておきたかったのでしょう。
自分の師家としての面子を優先したのです。
できないのは当然のことであるとしておきたかったものと思われます。
そして、当然の如くに「事実上、無念、無心になれるものではない。」と非思量の否定をしているのです。
飯田とう隠老師は「私に出来なければ、それは誰れにも出来るものではない」という思い上がった優越心があったものと思われます。
私は田舎の凡庸な一修行者ですが、私は無念、無心になっております。
私はたまたま運よく忍耐心が人一倍あったが為に、非思量の状態は日常的にあります。
飯田とう隠老師は、非思量の修行する者を「菩提心がでたらめなのぢゃ」と宣告していますが、それは増上慢というものです。
飯田とう隠老師の大悟というのは、公案1,700則全て透過し合格したという証しの狭い意味の大悟です。
公案禅に限定された大悟ですから、佛門・禅門に於いて通用する正しい悟り(身心脱落)ではないのです。注意が必要です。
印可証明を受けても、それは真の悟りの証明ではなく、公案禅の外では通用しないのです。
そもそも印可証明を出す師家・老師が身心脱落しているという保証はないのです。
飯田とう隠老師は公案禅では大悟したのでしょうが、それで佛門の真の悟りを得たと考えるのは間違いです。
飯田とう隠老師が非思量の相続をする修行者は菩提心がでたらめであると非難するのは、自らの宗教的才能の過信です。
自分の修行に「山上尚山有り」と心得て謙虚さを持って正念の相続を修行すべきです。
私程度の凡才の修行者から見ても、未だ開祖道元禅師を越えていないのですから・・・。
飯田とう隠老師は公案禅だけの禅僧で一念不生(非思量)の禅僧ではないのです。
公案禅の限界を知り、上位の一念不生(非思量)の修行を修め、佛門の正しい悟りに至るべきであると考えます。
公案禅での大悟は、佛門に於ける悟には対抗できませんし、通用しないのです。
臨済禅では、公案禅を終了し大悟したならば、引き続いて正念の相続の正修行を修めなくてはなりません。
高僧より印可証明を二つも三つも授与されたところで、それを以って悟ったと思うのは愚かなことです。
自己の有無を自己点検すれば、自身が身心脱落しているかいないかは簡単に分かることです。
自己の中に自己があれば、まだ悟っていないのです。
正念は非思量のことであり、祖録の中に正念についてここかしこに記されていますから、祖録を読めば、誰にでも分かることです。
但し、悟ることを目的として禅の修行をする者は、自己の有無を問題にしていませんし、自己の有無に全ての四苦八苦の苦悩の原因があることに気付いていないので、自己の中の自己の有る無しは、分からないかもしれません。
佛道の修行は自己の中の自己の存在の消滅だけが主眼です。
悟りを開くことを目的とする場合、その潜在意識に名利の心が隠れていることが多くあります。
そのような人は非思量の相続に於ける身心脱落に至ることはないようです。名利が引っかかるためです。
それは曹洞宗開祖道元禅師も注意をしております。
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飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い (1)

 出鱈目な飯田とう隠老師の非思量(不思量)の定義

2024.10.1
前回、飯田とう隠老師の経緯とその周辺について少しばかり説明致しました。
今回は、本題(飯田とう隠老師の非思量の解釈の間違いの指摘)に入ります。

飯田とう隠老師著「禅学読本」の中から非思量について述べている処を抜粋し、順次、その間違いを指摘し説明してまいります。


@「不思量底とは自己無きことぢゃ。思量とは自己無きままに活動することぢゃ。」
不思量底というのは、思い考え想像することが無い頭脳の状態を指すのであって、自己の有ることと無いこととは無関係です。
思量とは頭の中で言葉を用いることを指し、自己無きままの活動とは無関係です。

飯田とう隠老師は、ここで不思量と思量を定義していますが、この定義は全くの出鱈目です。
人の「思量の有無」と「自己の有無」は全く別の脳の作用であり、相関関係は全くありません。
それを一つにまとめ上げるというのは、思量の因果関係と自己の心の中の自己の存在の因果関係を混乱させるだけで、何の意味もなさないのです。
全くの無理会話を作り上げています。
何れにしても間違っていますので、御自身では自らを正師と宣伝していますが、飯田とう隠老師が身心脱落していないことは明らかです。正師ではないのです。
師家として立派そうなことを自信をもって説いていますが、一字一句が混乱しており、整合性がありません。
まさに無理会話となっているのです。
これでは、読者が正しく理解することは無理な話です。

曹洞禅には公案の入る余地は全くないのです。
曹洞禅は非思量の相続ですから、当然のことです。
「三界唯一心、心外無別法」という佛語がありますが、公案も「公案唯一心、心外無別法」なのです。
「非思量唯一心」はあり得ないのです。
「一心」が非思量を生むわけはありません。この一心は一念のことです。

不思量底は、頭の中、精神の中、心の中に思量(思い・考え・想像)が生じていない状態を指しています。
思量という作用が停止した頭脳の状態のことです。
自己無きことというのは、身心脱落した状態を指すのです。
自己の存在が消滅した精神状態です。
自己が有っても、自己が無くても、どちらにしても不思量の状態はありますので、不思量の精神状態をもって自己が無いとは言えないのです。
飯田とう隠老師が「不思量底とは自己無きことぢゃ。」と述べたということは、自己の無い精神状態が体験できていないということなのです。
身心脱落していれば、「不思量底とは自己無きことぢゃ」とは言わないのです。
思量の時、不思量の時、それぞれは、自己の有無と関係がないことが分かるからです。
このことは身心脱落していなくとも、不思量に於ける無分別の分別心で分かります。


A「不思量のままの思量である。
思量のままの不思量ぢゃ。」

不思量のままの思量というのはあり得ないことです。
頭脳の中では、不思量の中に思量は存在しないからです。
また、思量の中に不思量は存在しません。
このような矛盾した頭の状態はないのです。
自分の頭の中の作用を綿密に観察してみれば誰にでも分かることです。
飯田とう隠老師は非思量・思量の状態の頭脳の観察をせずに、理屈だけで推論しているのです。
何れにしても、この二つのどちらの言い分も脳の機能として存在しないことです。
これらは口に任せた出鱈目なのですが、公案修行の世界では、口に任せた出鱈目が通用するのです。
出鱈目な矛盾に満ちた公案は、優れた公案なのです。
飯田とう隠老師はこの癖が抜けずに曹洞禅の非思量も公案化してしまったのです。
この表現は、「梵鐘の鳴ったまま止めて見よ!」という公案そのものの援用です。
何の新味もない公案めいた表現です。
「息を吸いながら、息を吐いてみよ!」というようなものです。
しかし、曹洞禅に於いては正念(非思量)を求めますので、口に任せた出鱈目は許されないのです。
飯田とう隠老師は、曹洞宗にて出家し、曹洞宗に僧籍を置きながら、このことが理解できていないのです。
臨済禅から曹洞禅への切り替えが出来ていないのです。残念なことです。
このような理屈は坐禅の要術には不要なことです。


B「不思量底を不思量すれば灰身滅智の二乗禅ぢゃ。寒厳枯木の如く進歩もない。」
頭の中で理屈を考えると、このような立派そうな屁理屈が言えるのです。
不思量を不思量することはできません。実際にやってみるとよいのです。
不思量は状態を表わす言葉ですから、「不思量すると」と動詞として用いるような行為はあり得ないのです。
人は、不思量という状態を不思量することはできません。
それは人の脳の機能を越えているのです。
脳を不思量することはできないのですから、二乗禅でも何でもないのです。
二乗禅は自己の救済だけを目的とする小乗禅のことです。

寒厳枯木の如く人の感情や感覚や欲望等々が消滅することはありません。
思量・不思量は頭の中で言葉を用いるか、言葉を用いないか、ということを問うているだけです。
飯田とう隠老師は言葉や思量が、人の感情や五官の感覚や欲望を生み出していると考えているようです。
人の感情や五官の感覚や欲望は、諸縁に対して、人の言葉・思量を介せずに直接感応するのです。
「不思量底を不思量すれば」と言っていますが、これは机上の理屈、頭の中の空想で、実際にはあり得ないし、成し得ないことです。
あり得ない、成し得ないことをもって灰身滅智の二乗禅だとか、寒厳枯木の如く進歩もないということは全く意味のないことです。
何の為にこのような全く無意味の論を展開するのか、その意図が分かりません。
何れにしても難しいことを言うものです。
公案の修行で理屈だけの空論禅です。地に足が着いていないのです。


C「事実上、無念、無心になれるものではない。」
この念も心も、言葉を用いての思い考えのことです。
事実上、誰でも忍耐力をもってやれば、無念無心になれるものです。
飯田とう隠老師は見掛けほど菩提心が強くないのです。
口ほどにもない菩提心なのです。
不安神経症の克服が発心の潜在的動機ですからこの程度なのでしょう。
実際に私はやってみてできています。
「実際にやっている人間はいるはずはない。やったってできるはずはない。」と思い、頭の中で考えた理屈です。
世間は広いのです。人間は多種多様です。
隠れた処で愚の如く目立たずに非思量の修行を実際に修している者もいるのです。
盤珪禅師も不生の佛心と名付けて一念不生を説いているのです。やれたのです。
道元禅師の祖師方も実際にやって身心脱落しているのですから、やれたのです。


D「山の中の静かな世縁を遠ざかった処で練習すれば一程度まで、無念、無想、木石の如くなることもある。」
私は山奥で非思量の修行、相続をしたことはありませんので、この言葉が本当かどうか分かりません。
多分、理屈で考えたものと思います。
飯田とう隠老師は、無念無想の精神状態を、木や石の如く無反応・無欲・無感情・無感覚の精神状態になることと思っているのです。
これは頭で考えた理屈で、やってみたことがないのですから変な理屈となってしまうのです。
自分だけの未経験の了見で、分かったようなことを言うべきではありません。

この一文は非思量のについての全く間違った見解で、一つも拾うべきところがありません。
飯田とう隠老師は非思量の修行が余程、性に合わなかったとみえて、経験に基づかない支離滅裂な見解を述べております。
無い経験を想像したのでしょう。
非思量の相続の修行環境は、飯田とう隠老師が言うような山の中の特別な場所は必要ありません。一般的な修行の場で充分です。
無念無想の精神状態を木石の如くになると思うことも間違いです。
無念無想・非思量というのは思い考え想像の機能のみを停止するだけで、他の感覚・感情・欲望・記憶等々や無分別の分別心は正常に機能していますので、木石の如くなるというのは間違いです。
非思量・一念不生・無念無想・無心というのは、思考想像の機能のみを停止するだけです。
無分別の分別心はそのまま、喜怒哀楽の感情もそのまま、眼耳鼻舌身の五官の機能もそのまま、五欲の食欲も性欲も睡欲も名聞の欲も利養の欲もそのままで、何一つ手を加えることをせずに、もともとの機能はそのままに放っておくのが非思量の修行です。

「不生の佛心」も同様です。
不生は一念不生のこと。佛心は無分別の分別心のことです。
飯田とう隠老師の「木石の如く」なるというのは間違った考えです。
飯田とう隠老師は、正念相続・非思量の相続の経験が全く無く、日常的に非思量という状態が1秒たりとも無い体質なのでしょう。
頭の中が白紙、或いは真空真黒の状態がなく貪瞋痴が巡って、走馬燈の早駆けのように思い考えが巡り続けているのです。
おおかたの一般の人で、非思量の状態が全く無いという人は少ないと思います。
ですから、盤珪禅師は庶民に一念不生を説くことができたのです。
私達は幼年の頃、言葉をある程度覚える前は、誰でもが父母未生以前の自己(我れ)であったのです。
父母未生以前というのは思量分別が生じる前ということを指します。
誰もが通った路なのです。
その非思量(一念不生)の精神状態を大人になる頃までに全て失ってしまう人は少ないと思います。
不安神経症の人は非思量の状態を失ってしまうのです。
一般的におおかたの大人は、非思量の状態が残っているものですから、説明してあげれば分かるものです。
至道無難禅師は「何も思わぬは佛のけいこなり」と述べていますが、庶民が理解できることなのでそのまま説いているのです。
「何も思はぬ」というのは非思量のことです。
但し、非思量の状態があることが分かっただけでは禅の修行にはなりません。
非思量を修行とするには、一瞬に近い非思量の状態を一瞬から3秒へ、3秒から10秒へ、10秒から30秒へ、30秒から1分へと時間的に広げていくのです。
一瞬に近い僅かな時間の非思量は、修行とは言えないのです。

次回に続く。

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飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(2)

 非思量の公案化は場違いなだけです。

2024.11.1
前回(2024.10.1公開 第五章No16)の続きです。

E「試みに思量の当相、如何と工夫してみよ。何物か恁麼に思量する。何物といふものがあるか。」

この一文は、如何にも禅匠としての自信を持った言いようです。
大悟しているという自負が滲み出ています。
この一文では、非思量を自分の得意分野の公案として扱っているのです。愚かなことです。
全くの見当違いのことをやっているのです。
非思量は、公案には全くなじまないものです。
非思量を公案化することは、非思量の意味・様子が全く分かっていないということです。
非思量は、公案の上位に位置する正修行です。公案で扱えるものではありません。
非思量の精神世界には、公案はいかなるものでも存在しないのです。

飯田とう隠老師は、ここで思量の実相が分からなければ、「思量の実相、如何」と工夫してみよと示しています。
思量は不思量に対応するものですから、如何というほどのことはないのです。
思量も非思量もいつも通りのことですから、実相などと余計な思いを持ち出すことは必要がないのです。
こんな疑団を抱かせるような余計なことはしないことです。
疑団も工夫も思量から生まれるもので、非思量から生まれることはありません。
何者かと尋ねることもいらないのです。
本人に決まっているのですから、余計な思量を巡らすように持っていくことは曹洞禅からすれば許されることではありません。
非思量の状態は、非思量の相続の修行をしている禅僧に尋ねてみることです。
すぐに分かります。難しいことではありません。
「思量」を公案化して、工夫しなさいとは場違いなだけです。

曹洞禅に於いては、「ただ非思量」だけですが、非思量の相続の工夫は必要です。
どのようにすれば、相続が長い時間できるようになるかの工夫は、それぞれが経験を重ねて実際にやっていくしかありません。
飯田とう隠老師は非思量の状態が全く見当もつきませんので、公案化する必要のない単純なことでも、公案を拈弄するように理屈っぽく言っているのです。
曹洞宗の師家であるのに自分の立ち位置を忘れているのです。
不思量の修行は公案よりも上位の修行です。本流の素朴な修行です。
正念の修行を、妄念の修行に落とすようなものです。
そして、必要のない疑団をわざわざ起こさせてしまうのです。
迷ってもいないのに疑団を起こさせて迷わせることになるのです。
「知らぬが佛」ということが分かっていないのです。
立派そうな余計な知恵をつかせることは、曹洞禅ではご法度です。

ここで妄想とか妄念の説明をしておきます。
妄念の妄は「みだりに、むやみに」という意味です。
でたらめな思い考えということであり、みだりに思い考えることを指します。
妄想はみだりに想像、むやみに想像することを指します。
「淫ら」これも「みだら」と読みます。
これは「性的なことにだらしない」ことを意味します。
妄と淫は読みは同じですが意味は異なりますので、重ねてしまわないように注意が必要です。

公案というと知的水準が高く高尚にみえますが、思量を用い尽くすのですから、その実際は妄想・妄念なのです。
思量の実相を知らなくても、非思量の実相を知らなくても、非思量の相続の修行を只管に修することは充分にできるのです。
非思量の修行に知恵と知識は必要がないのです。
必要なのは素直さと忍耐力だけです。それで充分です。



F「思量底を思量する。これ二重の思量ぢゃ。
思量といふ立派なものがあるのに、更に思量する。煩悶いよいよ加わることになる。」


「思量底を思量する。これ二重の思量ぢゃ」
と述べていますが、二重の思量というのはあり得ません。
二重の思量というのは、同時に二つの思量をするということになり、これはあり得ないことです。
一つの思量が起き、滅し、その思量について更に思量することは、日常的に誰でもが行っていることです。
一つの思量を縁として、更にその思量について思量が生起していくということで、重ねていくということになります。
この様子は、誰でもの日常です。
思量は常に初念であり、即、一念です。
二念、三念というものはなく、二重の念というものもないのです。
これは非思量の相続をやってみれば誰にでも容易に分かることです。

「思量といふ立派なものがあるのに・・・。」と述べていますが、これはいってみれば「初念はよい」と説く臨済系の師家の言い分です。
「思量といふ立派なもの」というのは初念のことです。
「初念という立派なものがあるのに・・・。」というのが彼の真意です。
曹洞禅にとっては、初念も二念も三念も皆同じ念であり、思量です。
それらに実質的に本質的区別はありません。
非思量にとって、初念であっても念ですから許されることではないのです。
念は、常に一念しか存在しないのです。
今の念は一念しかなく、常に初念です。
飯田とう隠老師に言わせれば、常に念は立派なものなのでしょうから、敢えて立派なものと言う必要はないのです。
思量は誰でも次から次へと連続して生滅し、途切れる時は少ないのです。
このような状態ですから、何時が初念で、何時が次念かは、分からないのです。
連続して生滅している念の何処に線を引くかによって、何処にでも初念が生まれるのです。
初念初念と騒いでも、その程度のことで重要でも何でもないのです。

曹洞禅の非思量の観察は、自らの頭脳の活動の観察によって行います。
自己の存在の有無も、自己の心の中の観察によって知るのです。
他者の頭脳も心も、私が知ることはできないのが原則ですから当然のことです。
他者の心の中のことは他人通という神通力がない限り知ることはできません。
身心脱落した人でも、他人の心の中を覗くことはできないのが原則です。
佛陀も、曹洞宗開祖道元禅師も、歴代の祖師方も、すべて自らの頭脳の思量、不思量、自我(意識)、感情、欲望、五感等々の作用を綿密に観察しつつ修行しているのです。
臨済禅と異なって、曹洞禅の修行の基本は自分の頭脳(心・精神)の作用の観察にあります。
修行にとって観察力が必要なのです。
心の修行とは言っても、それは全く頭脳の思量や作用のことなのです。

公案禅は他者(師家)から与えられた問題を解くので、自分の心の中の観察は二の次です。
心の中の自己の存在は、ほぼ無視、無関心の中で、他者(師家)から与えられた公案の拈提に集中していくのです。
同じ禅の修行なのですが、曹洞禅と公案禅の修行はほとんど重なることがありません。
飯田とう隠老師は公案禅だけしか修行していませんから、頭脳の中に非思量の状態は全く無いのです。
ですから、思量・非思量の生滅の状態が全く分からなのです。
飯田とう隠老師は非思量の修行の経験がないのですから、非思量の修行を説いてはならないのです。
当て推量でしか説くことができないのですから・・・。
慢心(増上慢)なのでしょう。



G「我が正伝の禅は思ふにあらず、思わざるにあらず。
思ふ時は思ふばかりにして、思いながらの脱落ぢゃ。
思はぬ時は思はぬばかり。思はぬながらの脱落ぢゃ。
思、不思を超越しておる。ここが不思量底を思量するのぢゃ。
思量とは思ふことが迷いの本となるのぢゃから用い出された文字であながち有形のことばかりでない。
佛法の上には有形も無形もない。佛法を論ずれば一切現成である。」


我が正伝の禅は曹洞禅であり、それは入門から脱落まで非思量です。
脱落から悟後の修行も死ぬまで非思量です。
非思量以外に修行としてやるべきことはありません。
曹洞禅は思量を否定し、不(非)思量を相続するのみです。
脱落は非思量の相続に於いてのみ至ることができるのです。
「思、不思を超越しておる。」というのは、思量の中の思、不思だから当然のことです。
しかし、飯田とう隠老師は非思量が分かっていないのですから、思量の中の思、不思ということが分かったうえで斯く述べているようには思えません。
禅を公案で学んだ理屈でしょう。
「不思量底を思量する」
これはできることではありませんので、不思量なのです。
不思量の状態で思量することはできません。
実際にやってみて、自己の思量を観察してみることです。
また、「あながち有形云々」とありますが、佛法は精神上のことですから、無形のことばかりです。

「我が正伝の禅(の修行は非思量とは雖も)は思ふにあらず、
思わざるにあらず。
思ふ(思量)時は思ふ(思量)ばかりにして、
思い(思量)ながらの(身心)脱落ぢゃ。」
と言っておりますが、思量の状態で身心脱落することは決してありませんから、この言は成り立ちません。
身心脱落には非思量の相続が必要なのです。

次に、
「思はぬ(非思量)時は思はぬ(非思量)ばかり。
思はぬ(非思量)ながらの(身心)脱落ぢゃ。
思量、不思量を超越しておる。」
とあります。
非思量ながらの身心脱落は当然のことです。
身心脱落は思量・不思量を超越してはいません。
思量・不思量を超越して特別な世界があるかのような言い分ですが、そのようなことはないのです。
正に不思量の相続の時に、身心脱落が相応して有るのです。
思量・不思量を超越しているのは、飯田とう隠老師のこの文面の展開です。
非思量の実際が分かっていないが故の論理の展開です。
飯田とう隠老師本人は、非思量という結論に至るということが理解できずに斯く述べたものと思います。
公案を修して一流の老師になられた方は、公案を扱うように思量・不思量を扱うので、綻びが出てしまうのです。
老師御本人は誰も気付かないと思っているのでしょう。
私は最初から、思量を捨てて非思量の立ち位置で飯田とう隠老師の見解を読んでいますので、その不充分さ、欠陥がよく見えるのです。

次に
「佛法の上には有形も無形もない。」とありますが、
思量も不思量も禅の修行の精神(頭脳)の状態を述べているものですから無形のことばかりです。すべて形而上のことなのです。
思量・不思量は佛法上のことではなく、坐禅の調心についての指南なのです。



多少の繰り返しも含めながら、更なる説明をいたします。

我が正伝の曹洞禅は臨済禅(公案禅)とは違い、非思量(一念不生)にして「思うにあらず」が正しいのです。
「思わざるにあらず」は思量ということですから、間違いです。
「思ふ時は思ふばかりにして」「思はぬ時は思はぬばかり」
これは、誰でもその通りのことで、正伝の禅に限らず当たり前のことです。

「思いながらの脱落ぢゃ」と悟ったような口振りですが、思いながらの身心脱落はあり得ません。
これは非思量が坐禅の要術であることを知らぬ者の言い分であり、全くの出鱈目です。
非思量の相続が正伝の禅です。
この言い回しは、公案禅の近代・現代に流行ったものです。
煙に巻いて相反することを述べて禅らしさを演出しているのです。
内容的には砂糖と塩を足して、「甘くないと同時に塩辛くない」と言っているのです。
御本人は達観していると言いたいのでしょうが、全くの意味不明の言い回しです。
これらの言葉の中には正伝の禅といわれることは何一つないのです。
何を説きたいのか意味不明です。

「思はぬ時は思はぬばかり。思はぬながらの脱落ぢゃ。」
これはその通りで、特に問題はありません。
但し、この表現は気取りがあって飯田とう隠老師に病があるのです。
この病というのは、禅の専門家の言う処の禅病というのとは違いますので御注意下さい。
この「病」は道元禅師が述べているものです。
正法眼蔵の中に出てきますので調べると宜しいでしょう。

我が正伝の曹洞禅は思、不思を超越してはいません。
思を断ち、不思を相続するのです。
飯田とう隠老師は、「超越しておる。ここが不思量底を思量するのぢゃ。」と述べていますが、不思量底を思量することはできませんので、非思量なのです。
道元禅師著 「普勧坐禅儀」
「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。
これ乃ち坐禅の要術なり。」
という一文は、
非思量底を思量することはできませんが、そのことを自らやってみて自覚してもらいたいが為の言葉です。
その様子が「非思量」であると定義しているのです。
それが結論なのです。坐禅の要術なのです。
非思量の重要性を自覚してもらいたいが為の手の込んだ言い回しなのです。
思量・非思量を導き出す為に用い出された言葉なのです。

また、飯田とう隠老師は、「思量とは思ふことが迷いの本となるのぢゃから用い出された文字」と述べていますが、
「思量」とは、身心脱落を阻害する元であるから用い出された文字なのです。

「あながち有形のことばかりでない。
佛法の上には有形も無形もない。佛法を論ずれば一切現成である。」
とあります。
ここの一文は飯田とう隠老師が何を言いたいのか分かりません。
佛法は形而上のことです。
佛法は論ずれば論ずるほど、佛法から離れていくばかりです。
「論ずれば一切現成」ということは有り得ないのです。
論ずれば、それは思量の世界ですから当然です。
非思量であれば、佛法は一切現成であるとするのが正しいのです。

次回に続く。

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飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(3)

 公案の先にある非思量を全く知らない飯田とう隠老師。

2024.12.2
前回(2024.11.1公開  第五章No17)の続きです。

H「所詮、坐禅中、いかに、心念粉飛すとも関する処にあらず、
只思ふに任せて可なりである。」


「心念粉飛すとも関する処にあらず」と述べておりますが、実際は気が付かないまま我れ・・が関しているのです。
我れ・・が関しているので、心念紛飛する思考習慣が出来上がってしまっているのです。
頭脳の思考回路がどうもしなくても、心念紛飛するように出来上がってしまっているので、自動的に心念紛飛しているのです。
この状態を良しとすれば、非思量の修行は全く出来ないことになります。
「思ふに任せて可なり」として坐禅をしていては、非思量に至ることはありません。
曹洞禅に於いては、思うことは絶対的に不可です。
思量のまま何十年も修した処で思量のままです。
修行と無縁の一般の人達と何ら変わることはありません。
これは、全くもって曹洞禅の非思量の相続に逆行した考え方です。
公案禅は思量そのものですから、心念紛飛しても公案の拈提には邪魔にならないのです。
公案禅では「思ふに任せて可なり」なのです。
坐禅中、非思量ですから思うに任せていたら修行にはなりません。
心念粉飛は相手にせずして、非思量を忍耐をもって相続するのです。

ここでの「思ふに任せて可なり」という一文は、坐禅の要術である非思量を無視したものです。
この見解は、非思量(正念の相続・一念不生)を唱えた道元禅師の坐禅の要術とは相容れないものです。
飯田とう隠老師のこの一文は、実際に非思量の状態の有る人が存在するはずはなく、事実、実修している修行者はいるはずはないという考えから生まれたのです。
確かに、そのような人は少ないのですが、捜せばいないことはないのです。
空虚な自信のある言葉です。
断言しているのですから、この言葉によって真摯な若き修行者は、生涯身心脱落に至ることは不可能となるのです。
ここは澤木興道老師と全く同じです。
今日の曹洞禅の主流の師家方の説く只管打坐そのものです。
間違いであり不充分です。



I「坐禅して怠らざれば、坐禅が坐禅をして純一無雑むそうたらしむ。
純一無雑ぢゃ。」


「坐禅して怠らざれば、坐禅が坐禅をして」と述べておりますが、
この坐禅が「思ふに任せて可なり」ならば、公案を拈弄している坐禅です。
公案は思量の中に在るのです。非思量の中にはないのです。
これは純一無雑ではなく純一有雑となり、純一と有雑は同居できないのです。矛盾した理屈です。
純一も、無雑も、非思量のことです。
公案禅に於いて「坐禅が坐禅をして純一無雑たらしむ」ことはありません。
ここの処は「非思量が非思量をして純一無雑たらしむ」が正しいのです。

「坐禅をして怠らざれば・・・。」と述べていますが、
正しくは「非思量を相続して怠らざれば・・・。」としなくてはならないのです。
曹洞禅は坐禅に限らず起居動作いずれの場合でも、「非思量の相続」が修行です。
「坐禅をして怠らざれば・・・。」という表現は曖昧です。
「坐禅」と一言でいっても、坐禅にはおよそ五つ六つぐらいの種類があり、それらはどれも正しいというわけではないのです。

正しい坐禅は一念不生を相続する坐禅、或いは非思量を相続する坐禅です。
それ以外の坐禅は曹洞宗開祖道元禅師や歴代の祖師方は認めておりません。
現代の曹洞宗の師家方の説く「只管打坐」は非思量がありませんので間違っているのです。
「坐禅」と言っても、どのような坐禅か分からないので「坐禅をして怠らざれば・・・。」というだけでは言葉足らずで不充分です。
この言葉だけでは純一無雑に至る保証はありません。
また、公案禅の坐禅では「坐禅が坐禅をして純一無雑たらしむ」ということはありません。
言葉は厳密に用いなくては正しく修行が出来ないのです。
純一無雑は正念のことであり、一念不生のことであり、非思量のことです。不染汚のことなのです。
また、「公案が公案を純一無雑たらしむる」ことはないのです。

禅の修行者といっても様々です。
一日中坐禅をしているといっても、正しく非思量を修している者は少ないのです。
正しい姿勢で一日中坐禅をしていても、心の中はどのような状態なのかは誰にも分かりません。
どの修行者も皆、坐禅の姿勢を保っていても、心の中は数息観であったり、随息観であったり、非思量のない只管打坐であったり、非思量の状態に於ける只管打坐であったり、公案を拈提していたり、心の中でムームーと唱えていたり、三昧になろうとして意識を集中するだけ集中しようと精進しているかもしれないし、なんとなくただ坐っているだけかもしれないし、どのような坐禅をしているか誰にも分からないことです。
ですから、「坐禅をして怠らざれば、坐禅が坐禅をして・・・。」という言い方をしてはならないのです。
このような言い回しをすることは、禅の指導者として許されないことです。
「坐禅」という言葉で、禅の行為の根幹である坐禅を一括りにして説いてはならないのです。
言葉は定義をして用いるべきものです。


この飯田とう隠老師の一文から、私は飯田とう隠老師の坐禅がどのようなものであるのかを知ることはできません。
何故なら、飯田とう隠老師は非思量を知りませんし、そのようなことは不可能と考えているのですから。
飯田とう隠老師に非思量の坐禅はあり得ませんから、
この一文は「非思量のない坐禅をして怠らざれば、非思量のない坐禅が非思量のない坐禅をして純一無雑たらしむる」となります。
この論はあり得ません。
非思量のない坐禅が純一無雑に至らしむることはあり得ないのです。
この純一無雑を飯田とう隠老師はどのような精神状態か理解できていないようです。
純一無雑を祖師方は一念不生(正念・非思量)という意味で用いています。当然のことです。
非思量を知らない飯田とう隠老師は純一無雑をどのような意味で用いているのか知りたいものです。
因みに無雑の雑は雑念のことです。



J「どこまでも純一無雑を以って修養の第一義とするのである。」

「どこまでも純一無雑を以って云々」は、
曹洞禅として正しくは、「どこまでも非思量を以って修養の第一義とする」のが宜しいのです。

「純一無雑」は、字義通りに受取ることが出来ない言葉です。
解説が必要な言葉です。
それに引き替え、一念不生、或いは非思量は、字義通りに受取ればよい言葉です。
修行する場合、「純一無雑」と「非思量」では、どちらが間違えずに行えるかは明白です。
非思量という表現の方が優れているのです。
「純一無雑の相続」や「正念の相続」よりも、「非思量の相続」或いは「一念不生の相続」の方が、誰でも正しく理解し易く間違いが生じにくいのです。
誰でもが容易に解釈できる言葉を用いるべきです。

飯田とう隠老師は公案しか修行経験がありませんから、純一無雑が非思量であることが分からないのです。
純一無雑の意味を正しく受取っていないのです。
公案修行に於ける自己独自の解釈をしているものと思います。
公案の修行をもって、禅の修行が完成すると考えていると、正念の相続も、純一無雑も、非思量も、一念不生も、理解できないのです。
これらは何れも公案の中には存在しない修行です。
飯田とう隠老師は公案までの修行者なのです。
公案の枠を超越できていないのです。
公案の枠というのは、思量の世界に留まっているということです。
此岸ということです。

「郷に入れば郷に従え」「曹洞禅に入れば曹洞禅に従う」のが柔軟心であり穏当です。
飯田とう隠老師は“純一無雑”という言葉を用いていますが、曹洞禅の公認の師家なのですから、ここの処は臨済禅の言葉を用いずに曹洞宗開祖道元禅師の言葉である“非思量”を用いるべきです。
非思量を用いても、その意味が異なってしまうことはありません。
飯田とう隠老師にとっては、純一無雑と非思量の意味が異なっているので、次のように言えないのです。
「どこまでも非思量を以って修養の第一とするのである。」
これはどうですか、異論のある曹洞宗のお師家さんはいますか?

次回に続く。

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飯田とう隠老師著 「禅学読本」の間違い(4)

 非思量とは死灰・枯れ木の如くなることではありません。

2025.1.5
前回(2024.12.2公開  第五章No18)の続きです。

K「ややもすれば、無念、無想となれといふ。
思ふなかれ、思ふなかれと思いを圧迫して、
死灰、枯木の如くならんとして、
成り能はざることを強いて命ずるが故に、
無念にならんとする一念は更に二念、三念を生じて煩悶いよいよ加わり、
遂に目的を達し得ずして終るものがある。
気の毒の到りである。
つまり菩提心がでたらめなのぢゃ。」


曹洞禅の修行の要術は非思量ですから、無念・無想は当然のことです。
非思量の相続は、非思量か思量の選択ですから、「思ふなかれと思ふ」ことはないのです。
無念無想になろうとするのではなく、自らの心の中にある無念無想の状態に気付くことなのです。
この一文は、非思量の状態が分かっていない人の弁です。
このようなお粗末な指導をしてはなりません。
非思量を選択するのですから、思いを圧迫することはないのです。
非思量に於いては、死灰(火の消えた灰)と枯れ木の如くならんとすることはありません。
非思量にそのような思いはないのです。
無念ならんとする一念はないのです。無念を選択しているだけですから。
無念にならんとする一念はないので、更に二念、三念を生じることはなく、煩悶も加わることはないのです。
飯田とう隠老師の理屈ばかりの無理解は気の毒の到りです。
理屈で禅を見ることは間違いを生むので注意しなくてはなりません。

「無念、無想となれといふ」のは「非思量になれ」ということです。
飯田とう隠老師は「思ふなかれ、思ふなかれと思いを圧迫して」と述べていますが、非思量の相続というのは「思う勿れ、思う勿れと思いを圧迫する」のではなく、自分の心の中の非思量の精神状態を見つけ出し、その状態を忍耐をもって維持するのです。
その維持することが修行といわれる内容です。
非思量の相続する修行は、思う勿れ、思う勿れと思いを圧迫するのではなく、誰にでもある非思量の状態を頭脳の中に見い出し、それを相続(維持し続ける)するのです。
人には思量の状態と非思量の状態の二つの状態がありますから、修行として非思量の状態を選択して、それを維持し続けるのです。
修行として非思量の状態を頭の中に作り出すわけではなく、元々ある非思量の状態を維持し続ける努力を忍耐をもって行なうのです。
その非思量の状態を教えるのは師家の責任です。
修行者の頭の中にある非思量の状態を指摘し教えてあげるのが師家たる者の責任です。
非思量の頭脳状態を知ることは修行ではないのです。
知るには何の努力も忍耐も必要としませんから修行とは言えないのです。

一般の人の非思量の状態はほんの数秒ですから、この僅かな数秒の時間を少しづつ、より長い時間に延ばしていくのです。
最初の数秒の時間から30分、1時間へと延ばし、最終的には日常生活の中で常に非思量の状態であるようにもっていくのです。
その内に縁によって身心脱落するのです。
これが曹洞禅の非思量の修行です。
飯田とう隠老師は非思量そのものの経験がない為に、頭で考えて適当なことを述べたのです。
非思量の修行は、思量の無い状態を維持するだけで、人としての他の機能には一切手を付けずに今まで通りに縁に任せておくのです。
「死灰枯枝の如くならんとする」ことは全くありません。
頭で想像すると斯様なことになるのです。
火の消えた灰や生命のない枯枝のように、諸縁に無反応で、生きている感情や五官の感覚や五欲の欲望や諸縁に対する感応等が消滅してしまうようにもっていくと考えたのでしょう。
これは全くの素人的発想です。
身心脱落を何が阻害しているのか分かっていないのです。
阻害しているものを消滅せしめるために非思量の状態の相続(維持)が経験則から必要なのです。
このような無生命、無欲、無感情、無感覚、無反応になろうとすることは、非思量の状態を維持する修行にはないのです。
これではまるで心理学に出てくるゾンビです。よく考えたものです。

非思量の修行は無分別の分別心だけで生活していくのです。幼児みたいなものです。
飯田とう隠老師の言う無念にならんとする一念の生ずることは無いのです。
一念がありませんから、二念、三念は当然ありません。
大きな誤りです。
非思量の相続は身心脱落に通ずるのですから、気の毒の到りになることはないのです。
飯田とう隠老師が述べているような、念には一念も二念も三念も無いのです。
念は常に一念なのです。
念に、初念とか一念とか二念、三念とあると思うのは間違いです。
非思量の修行は出た念をどうのこうのするのではないのです。
出た念をどうのこうのすることはできないのが念の原則です。
これは誰でもが知っていることです。

最後の処で「菩提心がでたらめなのぢゃ」と述べていますが、これは非思量の修行を分からないまま説いている飯田とう隠老師自身のことです。



L「ここに於いて緊急の問題起る。
如何にせば脱落真の境界に体達し得べきやである。
只管打坐の只管の二字に参ずる最も大切ぢゃ。
只管打坐が現成すれば、只管公案も現成せざるを得ぬぢゃ。
只管公案が現成を得れば従って只管活動となりて頭正尾正であらねばならぬ。
只管打坐して身心脱落なるべしと。
只管とはタダぢゃ。タダとは余物を交えざるの義ぢゃ。」


「現成」とは、「現行成就」。
はたらきの現れることと身に具えていること。
ありありと現前すること。完全に実現すること。

Lは飯田とう隠老師の、どうすれば身心脱落に至ることができるかということについての見解です。
ここでは「只管」ということが最も大切であると述べています。
「只管」というのはタダということであり、余物(余念)を混えずという意味としています。
只管打坐が完全に実現すると、只管公案もありありと現前せざるを得ぬとしております。
身心脱落に至るには只管に坐禅することができねばならない、只管に坐禅することができると、只管公案も完全に現前せざるえを得ないと述べているのです。

飯田とう隠老師は曹洞宗の坐禅と臨済宗の公案を同等のものと見ています。
そして、曹洞禅の悟りである身心脱落と公案禅(臨済宗)の見性を同じものとしているのです。
曹洞禅で身心脱落に至っても、手の舞い足の踏む処を知らずという歓喜はありません。
公案禅の見性は、手の舞い足の踏む処を知らずというぐらいの歓喜があるのです。
この違いに飯田とう隠老師は気付いていないのです。
何故、公案禅の見性体験は手の舞い足の踏む処を知らずという程の歓喜があるのか。
何故、曹洞禅の身心脱落には手の舞い足の踏む処を知らずという程の歓喜がないのか。
このことに疑問を持たない者は修行者としては失格です。
正しく禅を修行する者は、このことに大いに疑問を持って然るべきなのです。

端的に言いますと、曹洞禅の身心脱落と、臨済禅(公案禅)の見性(臨済禅の大悟)では、その心境の内容に於いて天地の差があるのです。
公案禅の見性は大悟として評価されていますが、十牛の図で示しますと「第三の見牛」の段階です。
「大悟」などと、表現は大袈裟ですが、それが公案禅の特徴でもあります。
曹洞禅に於いては身心脱落を悟りとしていますが、十牛の図で示しますと、身心脱落は「第八 人牛ともに忘る」の段階なのです。
公案禅に於ける正念相続は、十牛の図の「第四の得牛」の段階です。
公案禅では、ここから公案を離れて、公案という便宜的な道具を使わずに、素手で禅の修行に入っていくのです。
「公案」の代わりに「正念」を用いるのです。
この場合の「牛」は正念を指すのです。
見牛の場合の「牛」も正念を指すのです。
「人牛」の「人」は自己であり、「牛」は正念であり非思量なのです。
曹洞禅の非思量の相続、は知らぬ間に自然に修しているものではなく、常に非思量を自覚して修しているのです。
そして、身心脱落(悟り)の時に、非思量を修している自己も、修している非思量も、倶に忘れてしまうのです。
身心脱落という表現は、自己の身体と自己の心という意味です。
身体も心もそれらは自己が創り出しているものであり、その自己は我(自我・意識)のことです。
その二つが消滅してしまうのです。
無我であり無心なのです。

飯田とう隠老師は以上のことが全く理解できていないのです。
公案禅(臨済禅)の悟りと、曹洞禅の悟りは、全く異なっているのですが、それを理解できていなかったのは、公案を用いる修行と非思量を相続する修行の力量の違いが見えていなかったからです。
それは修行の難しさの違いを表しているのですが、それにも気付いていなかったのです。

飯田とう隠老師は、曹洞土民と揶揄されている曹洞宗の非思量の修行を何も修行らしきことをせずに、ただ坐っているだけと思っていたのでしょう。
曹洞禅は只管打坐である。
ただ坐禅するだけであって、その内容に非思量ということが現実にあるとは考えていなかったのです。
飯田とう隠老師は「非思量ということは到底できるものではない」と宣言しているのです。
非思量は空理・空論であって、実際にはそのような精神状態はないと言っているのです。
その理由は、公案禅の第一人者と言われている自分が出来なかったからということです。
このような人を佛教では、増上慢の人と言うのです。
禅の修行者は自らのプライドに気を付けることです。
曹洞宗の坐禅の要術である非思量の否定は、曹洞宗開祖道元禅師の否定でもあります。
飯田とう隠老師は非思量に全く触れることなく、非思量のない只管打坐なのです。
飯田とう隠老師の只管打坐は非思量のない只管打坐なのですから、それを真に受けてはならないのです。
非思量のない只管打坐ですから、只管公案もそのように表現しても、大した違いはないと見立てているのです。

曹洞禅の「只管」は、非思量に於ける只管なのです。
曹洞禅に於いては、「只管公案」という言葉は成り立ちません。
非思量に於ける公案は存在しないのです。
非思量で公案を拈提するというような矛盾すること、相反することはできないのです。
右を向いて、右を向いたまま左を向くということになってしまうのです。
「只管公案は現成せざるを得ない」と考えるのは無理筋です。
曹洞禅の只管は余念をまじえずという意味です。
余念をまじえずというのは非思量ということなのです。
曹洞宗開祖道元禅師の只管は「余念をまじえず」という意味合いが濃い只管なのです。
このことを考慮に入れずに単という意味の「ただ」という意味にしてしまっているのが飯田とう隠老師であり、曹洞宗の主流の師家方です。
澤木興道老師の系統の師家方なのです。
彼らの唱える只管打坐には非思量が無いのです。

飯田とう隠老師の説く脱落は、公案禅の見性なのです。
公案禅の大悟は見性のことです。
公案禅の見性は、十牛の図の「第三の見牛」にあたります。
手の舞い足の踏む処を知らずという特別な心理体験の生ずる立ち位置です。
公案禅を修している人は特別な心理体験を求めています。
そして、師家もそのように話をしていますし、そのように導いてもいるのです。
見性体験で大歓喜の心境に至るのは見性体験を願望しているからです。
大いなる期待心があるために大歓喜するのです。
この大いなる期待心というものは名利の欲そのものです。
名利のあるまま身心脱落することはありません。
名利があるというのは、まだ自己が有るということを表していますので、悟ることは有り得ないのです。
飯田とう隠老師は曹洞禅の身心脱落を随分と低く見ているのです。
十牛の図の見牛程度と考えているのです。
この程度の内容ならば、緊急の問題が起るというほどのことはないのです。
曹洞禅の正しい身心脱落まで何十年もずーっと先のことです。緊急性はありません。

「只管とはタダぢゃ。タダとは余物を交えざるの義ぢゃ。」と述べていますが、ここは正確には、「余念をまじえず」とすべき処です。
道元禅師の説く只管は「余念をまじえず」の意味のある只管であり、「ただ」とか「単に」という意味合いの只管ではないのです。
「余念をまじえず」の意味の只管で非思量の意を汲み取ってもらう意図があったのです。
飯田とう隠老師は曹洞禅の身心脱落の四字も、只管の二字も、用いるにはまだ早すぎるのです。
公案禅に於いては、「正念の二字に参ずる最も大切です。」と、
曹洞禅に於いては、「非思量の三字に参ずる最も大切です。」と言っておきます。
正念にも非思量にも「ただ」も「単」もないのです」。
なぜか?  「ただ」も「単」も思量であり、念だからです。
なぜ「非思量」と言えないのか、なぜ「タダ」にこだわるのか、ここが問題なのです。
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飯田とう隠老師の隠れた神経症(1)
(アルコール依存症と不安神経症)

公案に窮する処に非思量(正念)がある。
十牛図の「牛」は「本来の自己」ではありません。

2025.3.1
飯田とう隠老師は、火の消えた灰を「死灰」と言い、生命の無い木を「枯木」と述べて、非思量の状態を相続することを、死灰枯木の如くに喜怒哀楽の感情や、眼耳鼻舌身の五官の感覚や、食欲・性欲・睡欲・名誉欲・財欲の五大欲等々が諸縁に感応することが全く無いように抑圧することに努力していることと思っているようです。
飯田とう隠老師がこのように考えているということは、非思量の状態を全く経験していないということです。
曹洞禅の公認の師家なのに困ったことです。
不安神経症や強迫神経症の人は非思量の状態が極めて少ないのです。
飯田とう隠老師は、誰にでも有る非思量の状態が全く無い人と思われます。

非思量の状態が全く無い人というのは、不安神経症的気質の人です。
不安神経症的気質の人は非思量の状態を知りませんから、そのような人をいきなり曹洞禅の正修行に導くことはできません。
曹洞禅の正修行は非思量の相続ですから、非思量の状態の無い人に非思量を教えることはできないのです。
そのような人は、まず最初に非思量の精神状態を知ることが必要です。
その為に禅の入門的予習的修行を修しなければなりません。
非思量の相続という禅の本格的修行に入る前の入門的修行(予習的修行)というのは、公案禅のことです。
公案禅を修行していく中で、非思量の状態を知るのです。
この非思量を公案禅では「正念しょうねん」といいます。
公案を与えられて透過していくだけでは、正念に気付くことはありません。
1,700則の公案を通っただけでは正念が自然に手に入ることはないのです。
これは経験則ですから間違いありません。

公案禅を修していく中で思量の全く無い状態がありますから、そのことに自ら気付くことが大切です。
悟りたい、見性体験をしたいと、それらを求めて公案禅の修行していると、そのことに気付くことはありません。
十牛の図の第三の見牛の境地に至ることを目指して修行していても非思量に気付くことはまずありません。
修行中に気を付けている方向が、臨済宗の公案禅と曹洞禅の非思量とでは全く異なるからです。
修行者自ら非思量に気付くしかありませんので、余程の注意が必要なのです。
公案修行中に非思量に気付くにはどこを見ればよいのかを知っていなくてはならないのです。
それは、公案の解答に窮する処に非思量(正念)がありますから、窮した処をよくよく注意することです。
公案の拈提ばかりに気持ちが向いていると、正念に気付くのは難しいのです。
公案の解答に窮することは、公案禅としては肯定されるべきことではないからです。

人は本当に窮すると思量が動かないのです。
そこが非思量(正念)です。そこで正念に気付くのです。
但し、正念に気付いただけでは修行にはなりません。
その気付いた正念(非思量)を相続することによって初めて曹洞禅の本格的修行となるのです。
正念(非思量)の相続は、公案禅の修行と較べて格段に苦しい(難しい)ので覚悟が必要です。
最初の手始めが死にもの狂いの苦しさですから、曹洞宗開祖道元禅師が述べているところの「頭燃を救うが如く」やってみるしかないのです。
頭髪に火が付くと夢中になって火をふり払う気持ちになるのですが、そのような気持ちになって非思量の相続を修しなさいという意味です。
是非やってみて下さい。

非思量の状態が全く無い人、極めて少ない人は、一般社会にある程度の割合でいることはいますから珍しいことではありません。
非思量の状態の無い人は、非思量の状態を坐禅の要術とする曹洞禅から入るのは難しく、思量をフル活用する公案禅を修する臨済禅から修行を始めて、正念を得て、正念の相続に入っていくとよいのです。
正念は、一念不生のことであり、非思量のことです。

飯田とう隠老師は非思量の状態が全く無い人ですから、頭の中は常に様々な思量が巡り、思量で埋め尽くされて、さぞかし苦しいことと思います。
公案禅を透過して大悟しても、非思量でなければ行解相応しませんので、そのギャップでストレスがさらに溜まるようになるのです。
公案禅は、公案1,700則を透過すると大悟したということになるのです。
担当の師家老師が大悟したと宣言し、その証として印可証明を授与するのです。
大悟したとされた修行者は、心境が一段と進み、何事に対しても自由無礙に不動心で対応できると期待をするのです。
しかし、実際は、悟ったとされる自信ばかりで、自信の裏付けとなるものが何一つないのです。
悟ったとされる内容が何一つと伴っていないのです。
禅の知識、佛教の知識、思想も充分豊富となり、悟りの内容も知識として明らかになっているのですが、悟ったとされる内容が実際の日常生活には一つも見い出せないのです。
大悟する前のままだったのです。
これを行解が相応していないというのです。
行ないと理解が乖離しているのです。一致しないのです。
相応しないギャップで自分の悟りに疑問を持ち、不安を生じるのです。
それは大きなストレス(不安)をもたらします。
自分の悟りが「空念佛ならぬ“空悟り”」に気付くのです。
公案はすべて透過してしまっているので、今後、どのように修行したらよいのか分からず不安になるのです。
ここでそのストレスをまぎらわす為に、酒を呑むようになるのです。
公案禅を修行する者に大酒飲みが多い理由です。
公案禅は、修行者自身が自ら求め考える修行ではなく、公案禅の権威者である師家から一方的に与えられる修行です。
公案というレールに乗って修行しているので自主性の無い修行です。
学校のカリキュラムのような修行なのです。
行解が相応しないのは当たり前のことです。

非思量の相続ができないと行解相応しませんので、潜在する不安神経症がストレスを生みます。
自分を誤魔化しきれない為に、悟っているはずの自分が苦しむのです。
人は考える葦ですから、生きている限り、次から次へと思量は休む暇もなく縁に感応して、気になることの思量、心配ごとに対する思量、慚愧に堪えないことについての思量、良心の苛借についての思量、恥ずかしい事をしたことについての思量等々に苦しむのです。
公案で悟ったとは言っても、思量は縁にふれて生じ、思い起こされて、安楽な時がありません。
思量はそのほとんどが思い出であり、記憶です。過去の体験なのです。
それら全てが思量の素材なのです。
思い出したくないことも沢山あるのです。
忘れてしまいたい記憶も沢山あるのです。
それらは縁に触れておかまいなしに生じ続けるのです。

飯田とう隠老師が日常的に昼間から酒を手放さないのは、酒が好きだからなのではなく、潜在的不安神経症や強迫神経症から生ずるストレスを緩和する為だからです。
酒には抗不安作用・鎮静作用があり、飲酒をするとストレスが緩和されるからです。
アルコール依存症になっているのです。
今日では、休みなく毎日飲酒すると、数年でアルコール依存症になることは常識として知られています。
飯田とう隠老師が日常的に酒を手放せなかったのは、非思量の状態が全く無い事に起因しているのです。
非思量というのは、不安・心配・恐怖・懺悔・悔恨・四苦八苦等々の苦悩のもとなる否定的感情・記憶・見解等を断ち切る力を養うことができる功徳があります。
人を苦しめるのは、そのほとんどが記憶にあります。
記憶は思量です。記憶は思量となって現出するのです。
このことを飯田とう隠老師は全く理解していないのです。
その理解が及ばないのは非思量の状態が全く無いからです。
盤珪禅師の「不生の佛心でおれば済むわいのう!」という意味が分からないのです。
不安神経症も「不生の佛心でおれば済むわいのう」ということなのです。
盤珪禅師は不安神経症の起る理由を知っているから斯く説くのです。
過度の思量と無明が原因なのです。
非思量は、飯田とう隠老師にとっては、無明なのです。
公案の拈弄の為に考え思う精神回路を強化し過ぎたのです。
公案禅の権威者となった代りに、安楽の法門である非思量という心を完全に失ってしまったのです。
安楽の功徳の大きい非思量を失った為に、心の安らぐ時が無くなってしまっているのです。

飯田とう隠老師が酒を手放せずに、遂にアルコール依存症になった理由は非思量が手にはいらなかった為です。
医者に酒を止められていながらやめられずに、69才で倒れて再起できずに、再び、二度、三度と倒れて75才で没してしまったのです。
アルコール依存症を治すには、ストレスの原因を解決するしか方法がありません。
飯田とう隠老師の最大のストレスの原因は身心脱落していないことです。
公案禅の大悟が曹洞禅の身心脱落でないことに気が付いても、それではどうすれば良いかを教え示すことのできる師家がいなかったのです。
身心脱落に至る正しい修行は、正念の相続・一念不生・不生の佛心・非思量・不思量・無念無想等々です。
これら言葉は異なりますが、内容は同じです。
明治・大正・昭和・戦前・戦後、臨済宗曹洞宗の師家方で正念の相続の修行をした経験のある方は一人もいなかったのです。
正念の相続の指導を教え示すことのできる師家方は一人もいなかったのです。

公案禅はどんなにこねくり回した処で、辿り着くところは「悟り」ではなく「正念」です。そこが目的です。
それ以上の禅の心境に至ることはないのです。
十牛の図の第三の見牛に行き着けば良いのですが、そこまでいく修行者も現実は少ないのです。
十牛の図の「牛」は、「本来の自己」と解釈している臨済宗の高僧・師家・老師がほとんどなのですが、それらの方々は無分別の分別心で十牛の図の牛をみることができないので、凡人の理屈で推測して本来の自己としたのです。
本来の自己も、何らかの自己も、自己らしい自己も、実際は何も見てはいないのです。
見ていない師家老師同士が見た見たと口を合わせているだけのことです。
この十牛の図の「牛」は「正念」であり、曹洞禅の非思量であり、盤珪禅師の説かれている不生の佛心のことです。
「本来の自己」というのは、無我の自己であり、無心の自己のことなのですが、身心脱落する以前に、脱落していない自分が脱落した自己を見ることはあり得ないのです。
本来の自己は脱落をした自己ですから、脱落しない限り何処にも存在しないのです。
一度身心脱落をしたら、元の有我の自己に戻ることは決してないのです。
「本来〜」という本来は、思量の中に存在しているのであって、事実・実際には存在していないのです。
それは非思量になってみれば誰にでも分かることです。
「本来」ということは、どこにも存在していないのです。
脱落しない限り、常に有我の自己だけです。
「本来の自己」が有るというのは理屈です。
よく師家方が用いる常套語なのです。
これは、本人は真理を説いていると思っていますが、根拠のない下手な理屈を説いているのです。
非思量であれば、私の言っていることはよく理解できるものと思います。

十牛の図の第三見牛の心境はまだ自己の塊です。
有我の自己ですから、これから自己を脱落せしめていくのです。
自己を脱落せしむる心の状態が、非思量であり正念なのです。
「牛」は「正念」のことです。
正念が手に入れば後は、忍耐力が持続できれば、身心脱落に間違いなく至ることができるのです。
その修行を臨済宗では、悟ってもいないのに「悟後の修行」とか、悟った身心であるかのような「聖胎長養」と気取った表現をしているのです。紛らわしいことです。

2025年4月公開分へ続く
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飯田とう隠老師の隠れた神経症(2)
(アルコール依存症と不安神経症)

公案禅の見性は悟りではありません。
禅の修行上における精神上の異常心理体験です。

2025.3.1公開分の続きです。

2025.4.2
江戸時代の駿河の名僧中の名僧である原の白隠禅師は、長野県飯山の臨済宗の正受老人の許で大悟をし、正受老人より印可を受けて駿河の原の自坊(自分の寺)に意気揚々と戻られたのです。
その大悟は、白隠禅師にとっては3回目なのです。白隠禅師は公案の修行をしていたのです。
臨済宗の悟りは、公案を透過することです。
自分の心の中に自己が有るか無いかを悟りの基本にしていなかったのです。
曹洞禅の悟りは身心脱落と言って、心の中に自己が有るか、自己が無いかを基準にしているのです。
自分の心の中の自己の有る無しならば、ご本人であれば、誰も分からないことはないのです。子供だって分かることです。
心の中に自己が有れば悟っていないということです。
簡明なことです。誰も間違わないのです。

白隠禅師御自身、今度こそ間違いなく正真正銘の悟りを開いたと確信したので、飯山を辞して自坊に戻られたのです。
その証明として正受老人は印可を渡したのです。
しかし、自坊に戻られて悟後の修行をしているうちに、修行して理解し、納得したことと日常の現実が乖離していて心が安まらないことに気付いたのです。
白隠禅師も、もともと不安神経症を抱えているが故に出家した人です。
行解相応していないことが分かってきたものと思います。
悟ったはずなのに大安楽ではないのです。
縁に応じて自己の悟りに疑問が生じ、持病の不安神経症が再発し悪化し、強度の不安神経症に陥り、身体までも極度の自律神経失調症となってしまったのです。
そこで名医を求めて京に行き、病気回復の仙術の教えを受け、それを行なって徐々に回復していきました。
昭和の書籍では、強度の神経衰弱とありますが、それは今日の自律神経失調症や不安神経症のことです。
また、本によっては禅病としていますが、禅病という禅に特有な精神病も神経症もありません。
禅に傾倒している禅の専門家は、禅を特別視する傾向が非常に強いのです。
禅は因果の道理を晦まさず、特別なことは何一つないのです。当然のことばかりです。
それから、白隠禅師は公案の修行を止めて正念の修行に専念したようです。
公案修行の限界を知ったのです。
公案の修行で3回も大悟したのに真の悟に至っていなかったことに気付いたのです。
そして、未だやったことのなかった正念の相続を十年間ひたすら、愚の如く魯の如くただよく相続し、42才で初めて身心脱落をしたのです。
十年間、正念の相続を修したのです。

白隠禅師の20代の3回の大悟は正しい悟りではなく、現代の心理学で明らかになっている変性意識(意識の変容・知覚の歪み)です。
異常心理を体験しただけのことで、一般的によくあることで決して珍しいことではないのです。
心理学の異常心理の項を見れば、恰も禅の見性や悟り体験のような異常心理体験がいくらでも出てきます。
関心のある人は調べて見て下さい。
たまたま、坐禅修行中に異常心理を体験したということです。
そのような異常心理体験は即、忘れてしまうことが大切です。とりあってはいけません。
それをとりあって悟りと錯覚したのです。
公案禅の見性は悟りではないことを知らないのです。
単なる禅の修行上における精神上の異常心理体験です。
それは正受老人の力量不足の為です。
正受老人(道鏡恵端禅師)は、まだ身心脱落していなかったのです。そのことに気付いていなかったのです。
白隠禅師は自己の中の自己の存在を知っていたとは思いますが、それは悟りには関係ないと考えて無視していたものと思います。
公案禅を修行する者は公案を解くことに専念し、自己の中の自己には目もくれない悪い癖があるのです。
3回目の大悟の後に強度の不安神経症に陥ったことから、何が問題なのかが明らかになり、自己の中の自己の存在に気付いたものと思います。
自己の中の自己が存在することが、悟りに至らない原因と気付いたと思います。当然のことです。

曹洞禅は修行に於いて、特別な異常心理体験を求めることはありません。
また、そのような体験をした処で、その体験を有難がることも、喜ぶこともありません。
放っておき、忘れてしまうだけのことです。
それらの体験は何の意味もないからです。
公案禅のような見性体験もありません。
見性体験もありませんから、悟後の修行というものもありません。
曹洞禅の修行は最初から非思量であり、身心脱落後も非思量なのです。
曹洞禅は最初から死ぬまで非思量だけなのです。
公案禅のような指導を逐一行なう師家は存在しないのです。
修行者一人で根気よく忍耐をして、非思量の相続を日常生活に於いて修していくのです。

強度の不安神経症は、それが禅の修行に向かうと強い求道心として現われます。
堅固な菩提心として現われのです。
動機のない求道心というのはありません。
曹洞宗開祖道元禅師のような純粋な深い宗教心、真摯な信仰心に基づく求道心というものはほとんどありません。
ほとんどは不安神経症や強迫神経症の解決を求めての修行なのです。
パラノイア気質による求道心は、宗教の世界には多くあります。
但し、パラノイアに基づく宗教心・信仰心・求道心では、佛陀のような世界宗教的な宗教家(者)となることはないのです。
普遍性がないからです。一事に凝り、一事に偏って拘る気質だからです。
強度の不安神経症は禅の修行に向かう場合、強い求道心として現われますが、それは公案禅に向かうことが多いのです。
夢中になって修行らしい修行に我を忘れて打ち込みたいからです。
強度の不安神経症の人には非思量の状態が全く無いので、公案に打ち込むと修行した気になれるからです。
頭の中に思量を次から次へと巡らす気質だから不安神経症となるのですが、そのことを自覚していないのです。
その気質のまま、公案の修行に入るのは容易なのですから公案禅に入るのです。
そのような人にいきなり非思量をやらせるのは無理なことです。
公案禅は頭の回転がよく学業も優秀な人が好む傾向にあります。名利を目指す人生を歩んでいる人が多いのです。
公案禅の大悟は、自己の中の自己(自我)には全く手付かずで、すっかりそのまま残っているのです。
悟ったという自信と、印可証明を受けた自信と、自分の悟りを広く認知されたという満足感のみで、非思量と身心脱落と無眼耳舌身意という中味は無いのです。
公案禅は身心脱落には全く無関与です。
身心脱落に関与するのは正念(非思量)の相続です。
公案禅は一微塵も身心脱落せしむることができないのです。
但し、佛門や禅門の修行の知識・思想・経験は曹洞禅よりもはるかに豊かであり、しっかりと身につくようです。
しかも禅僧らしい風格も出てくるのです。薫習という作用があるためです。
ということで、公案禅では禅門の威風堂々として禅僧らしい風格の伴った禅知識の豊富な識者的禅僧が育つのです。
曹洞禅は悟っても「愚の如く魯の如し」で、禅僧としての風格は何一つないのです。

白隠禅師はノイローゼになってから初めて正念の相続に専念したのでしょう。42才で身心脱落をしているのです。
白隠禅師に比して飯田とう隠老師は明治・大正・昭和初期の公案禅の権威的存在の禅僧です。名声も充分に得ているのです。
しかし、飯田とう隠老師は公案止まりの師家老師なのです。
正念の相続は一切手付かずなのですから、非思量が全く分からないのは当然のことです。
飯田とう隠老師は大見性を経験し、1,700則の公案も透過し、印可証明も幾人かの高名な老師方から頂いているのですから、自信を持って名師家として早くから活躍していました。
しかし、酒を飲み始め、いつしか大酒飲みの老師として宗教新聞にも取り上げられ、医者からも再三にわたって酒を止めるように注意されても止められず、69才で酒が原因の病に倒れ半身不随となり再起不能のまま75才で没しているのです。
医者より再三にわたって酒を止めるように注意されているのですから、大法の布教・強化・指導の為に我が身を我が身と思わずに、大法の為の身と考えて酒は止めるべきものです。
結局、一箇半箇も残すことができずに遷化してしまったのです。
飯田とう隠老師は公案禅に限定した部分的大悟をしているのですが、行解相応していないことに気付いて元来の不安神経症がぶり返したのです。
この公案禅の大悟は、曹洞宗に於いては修行中の一景色・一変化であって、身心脱落するまではさとりのサの字も無いのです。
頭の良い人でしたから、説くことは自由無礙ですが、心境は不自由極まりなかったと思います。


ここが白隠禅師と異なる処です。
白隠禅師のように大器ではなかったのです。小器だったのです。菩提心に問題があたのです。
行解相応しない不安を紛らわす為に酒に頼ったのです。
酒には抗不安作用・鎮静作用があるが為です。
また習慣性がある為にアルコール依存症となるのは当然のことです。
アルコール依存症となったが為に余計に酒が止められなくなってしまいました。
アルコール依存症は潜在的な原因を解決しなければ治らないのです。
潜在的原因によるストレスが苦しいので、酒でその苦しみを緩和せざるを得なかった為の飲酒ですから困ることとなるのです。
酒があれば安楽でいられたはずです。
飯田とう隠老師は知的水準がかなり高かったのですが、小器の故に正念の相続に気持ちが向かなかったのでしょう。
正念の相続は、知恵も知識も要らず学歴がなくても、地位・名誉とは無縁の人にでもできる修行ですから鼻から相手にしなかったのでしょう。
最後まで、非思量は修行にならない、やれるものでもないし、やっても仕方のないものと考えていたものと思います。
当時、臨済禅は、臨済将軍と言われ、将軍として権威のある社会的支配者の行なう禅であるという風潮があったのです。
飯田とう隠老師には、曹洞禅の非思量・只管打坐の修行は臨済将軍の老師がやるものではないとのプライドがあったのでしょう。

飯田とう隠老師は求道心が強いように見えますが、若い頃の行履を見てみますと不安神経症からくる求道心です。
不安神経症からくる求道心は、自己の心の中の自己の存在を問題にしての求道心ではありませんので、不安神経症の者は、地位・名声を得ると、神経症がある程度緩和してしまい身心脱落まで道心が続かないことが多いのです。
特に公案禅を好む性格の修行者はこの傾向が強いのです。
悟りを求めるのも不安神経症を解消するためですから、無常心を解決するための求道心とは結果が異なります。
飯田とう隠老師は不安神経症の解消の為ですから、地位名声を得ると神経症が緩和してしまい、求道心もそこまでということになってしまったのです。
正念の相続の修行に進む必要がなくなって満足してしまったのです。
実際のところ、公案を1,700則全部済ませたかどうかは知りませんが、明治・大正・昭和と公案禅を修する臨済宗の中では抜群の評価・名声を得たようです。

求道心が正しければ、公案が済んだところで満足はしませんから。必ず正念の相続の正修行に進んでいくものです。
よって公案が済んでから10年、20年、30年かかってやっと曹洞禅の身心脱落に至るのです。
佛道に於ける正しい悟りです。
これが悟後の修行の聖胎長養といわれる由縁です。
この10年、20年、30年というのは乞食桃水の在り方でなくてはなりません。
飯田とう隠老師は、在家のまま40才半ばより師家然として禅会の指導をしている場合ではなかったのです。
自分自身の修行が未だ不充分なのですから・・・。
これは名利の欲心のなせるわざなのです。
このような姿勢では、身心脱落に至ることもありませんし、その為の要術の非思量すらほとんど修することもなかったのです。
飯田とう隠老師自身は公案を縦横無尽にこなせるのですから悟ったと思ったのでしょう。
しかし、自らの心の中の自己の存在を問題にしないで無視したことに飯田とう隠老師の求道心・菩提心の正しからざるものを感じるのです。
公案禅を正しく修すれば、正しく正念に至るのですが、飯田とう隠老師の著作物に、正念の相続について自己の見解を著わした処が一つもありませんから、正念の相続は全く修していないと思われます。
この正念は、一念不生のことであり、非思量のことです。
正念を修していれば非思量についても正しく理解できるはずなのです。
飯田とう隠老師は「事実上、無念、無心になれるものではない。」としっかりと述べておりますので、正念の相続は全く修していないことが分かるのです。
公案禅に於いて、公案1,700則全て透過し、大悟を師家から認められて印可証明を許されても、それは十牛の図の第三の見牛なのです。
それから先、第四の得牛からが悟後の修行といわれる本格的な正修行となるのです。
第八の「人牛倶に忘る」に至って、初めて本当の曹洞禅の身心脱落なのです。
飯田とう隠老師は第三の見牛の牛を見誤った為に正念の修行に入れなかったものと思います。
功を焦ったのです。出山の釈迦のように一日も早い出山を願ったからです。
これでは乞食桃水のように「橋の下で黙々と愚の如く魯の如くただよく相続する」ことはできないのです。
飯田とう隠老師は橋の下を選ばずに橋の上を選択したのです。橋の上の賑わいが好ましかったのでしょう。
身心脱落していなければ名利は充分に残っているのですから橋の下を選ばなかったのは当然です。
飯田とう隠老師は公案禅の宗匠なのです。
曹洞禅には歯がたたかったのです。
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名利と利己性

2025.5.2
近代現代の曹洞宗・臨済宗の師家老師禅僧方は、全員、名利の象徴である、地位(僧位)・肩書・資格・身分等をより上位・上級のものを取るだけ取っております。
僧として生きていく為に必要な最低限度の地位・資格だけで生涯を通した師家老師禅僧方は全くいないのです。
名僧といわれる名僧は、皆、より高位の僧位を得て活躍しています。
私達が知っている中で、墨染の法衣で一生涯を通した名僧は、一休禅師と白隠禅師と良寛禅師ぐらいではないでしょうか。
以上の方々以外に私達一般に知られていない禅師(僧)は、宗派の御開山・開祖以外に何人かはおられます。
近代現代の名僧の中で、無資格・無位の方は一人もいないのです。
地位(僧位)・肩書・資格・身分等をより上位・上級のものを得ていますので、それは彼らに名利の欲心が有る証拠なのです。
名利が有るということは身心脱落していないことの証拠です。
悟っていない証拠です。

臨済禅の見性や大悟は、名利があっても体験することは出来るのです。
それらは、佛陀や祖師方や各宗派の御開山方の正しい悟りではありませんから、名利が有っても体験出来るのですが、それらは限りなく真の悟りに近いものではありませんので、その自覚が必要です。
名利の欲心が芥子粒ほどでも有ると悟れないのです。
このことの自覚のある師家や老師や禅僧は、近代現代にはほとんどいないのです。
心が乱されな程度の名利の欲心は有っても良しとしているのです。
身心脱落を阻害することは無いと考えているのです。
これは大いなる間違いです。
名利の有る師家や老師や禅僧の自らの体験した悟りや身心脱落は皆、間違いです。
それら体験した悟りや身心脱落は、かなり程度の低いものです。
まだまだ、佛法を説ける心境に至っていないはずです。
そのことに自覚のないことは、誠に残念です。
無常心に間違いがあるのです。
私が申し上げていることは、曹洞宗開祖道元禅師の著書「永平広録」の中で説示されております。


名利について、道元禅師著「永平広録」の中に次のような一文があります。
(元駒澤大学総長 鏡島元隆老師 現代語訳)

「出家入道して世間の諸縁をすべて捨てたのに、ただ名利のみがあって、まだ捨てることができないのは象の全身はすでに窓から出ているのに、象の尾が窓から出ることができないようなものです。
この名利という尾が引っかかって窓から出ることが出来ないのです。
悟ることが出来ずに、三界六道に輪廻し生死の世界に流転し、苦しむのです。」


これは名利の欲心が有ると人は悟ることが出来ないと述べております。
悟ることが出来ないが故にこの俗界に輪廻し、生死の世界に流転し、苦しむのです。と説いているのです。
名利の有無は、悟っているかいないかの明確な判断の指標となるのです。

上記の文を少し説明しておきます。
この文は、全身は既に此岸の窓の枠を出て彼岸に入っているのに、象の尾が窓枠に引っ掛かって彼岸に出ることができないようなものです。と例えています。
此岸の窓枠に名利という尾が引っ掛かって、全身が此岸から彼岸に出ることが出来ないのです。
此岸というのは俗界・欲界のことです。我々凡人が住んでいる世俗のことです。
彼岸というのは悟った世界、俗界の煩悩・苦悩のない世界のことです。
名利が有るために悟ることが出来ないのです。
名利が残っている為に、一般の人と同様に三界・六道に輪廻し、生死の世界に流転して苦しむと述べているのです。

(三界・六道というのは、娑婆のこと、世間のことです。
生死の世界は、人間界のことです。
輪廻・流転は、この世を迷い悩み苦しみ、もがき生きることです。)

いくら佛法らしき事を説き、見性や悟り体験を立派そうに語っても、名利が脱落していない限りは一般の人と変わりなく迷い悩み苦しむのです。
と説いています。

名利の尾が此岸の窓枠に引っかかっている限り、全身は悟ることができないのです。
尾だけが悟れないだけでなく全身が悟れないのです。
名利があるだけで、限りなく悟りに近いのかというと、そのようなことはありません。
心境面では一般の人とほとんど変わりはありません。
名利は身心脱落の身心そのものが欲するものなのです。
名利が消滅するということは、自己の身心が消滅することであり、自己の身心が脱落することなのです。
名利の脱落は象の全身の脱落、透過に匹敵するほどの重大事なのです。
小さな尾が全身を制しているのです。



上記に続いて次のような一文がありますので紹介致します。

「仏道参究に尻尾である名聞利養を離れなければ、全身がいつ窓の格子を脱け出ることが出来よう。」

この「窓の格子を脱け出る」というのは身心脱落のことです。
ここでも宗祖道元禅師は、名聞利養の欲心を離れなければ悟る(身心脱落する)ことは出来ないと述べています。

近代・現代の老師方・お師家さん方は、名聞利養の欲心が少しぐらい有っても悟れると考えているようです。
自らの出家者の名聞利養の欲心は、世俗の欲心ほど強くはなく別であると考えて黙認しているのが実状です。
自らの少しぐらいの名利があった処で悟りには影響が無いと考えているのです。
多少の名利が有りながらも、今の自分は悟っていると考えているのです。
その証拠に名利がありながら、そのことに気付いていながら、老師から印可証明をいただいていると述べているのです。
曹洞宗開祖道元禅師の名利と悟りの関係について説く処を、近代から現代にわたって無視している姿勢をずーと揺らぎなく貫いているのです。
にも拘らず、老師方やお師家さん方、自分たちは佛法を説いているとしているのですから、その自信は立派と言えば立派なものです。
菩提心が鈍麻しているかと言えば鈍麻しているのです。
私には到底出来ないことです。
身心脱落しなければ佛法は説くことが出来ないのが佛門の原則であり、出家者の原則です。
三界を流転し生死を輪廻したまま佛法らしきことを説いている老師方やお師家さんばかりで、誠に残念なことです。
「佛法」を説いているのではなく、「佛法らしきこと」を説いているのです。
禅が衰退していくのも当然のことです。


ここで名聞利養と身心脱落の関係について、その道理(原理)を明らかにしておきます。
少し難しいのですが、意味不明な処が無いように注意して因果関係を一つ一つ明らかに説明して参ります。

名利の欲望は、意識(自意識・自己・我・自我等)が生む欲望であり、意識が欲する欲望です。
欲望は、ただ単独に欲望だけが縁に感応して起きるわけではなく、必ず、その欲望を必要性があって欲する主体があるのです。
例えば、食欲は、肉体が健康を保ち活動のエネルギーを得る為に(カロリーを求める為に)生ずるのです。
生身の肉体が、食欲が生じて食物を食べてカロリーを補給するのです。
食欲を充たすと脳内は脳内麻薬が分泌され快感を得るのです。
「ああ! おいしい。」「ああ! おいしかった。」というのが、脳内に分泌された快楽物質(脳内麻薬)のエンドルフィン・セロトニン・ドーパミン等による快感なのです。
快楽物質の分泌が「おいしい」を生み出すのです。
「おいしい」という快楽が食物を食べる動機であり原動力です。
肉体の欲するカロリー(エネルギー)が補給されるのは、「おいしい!」という快楽があるが為なのです。
「おいしい」という快感がない飲食は、栄養を摂るのが目的としても苦しいものです。
これは一般的には、病人や味覚を失った人や食欲の失せた人が経験することです。
食欲のない飲食、おいしいという快感のない飲食は、苦痛なのです。

欲望の目的は、その当事者が知る必要はなく、知っている必要はありません。
欲望の目的は、欲望を充足すると必然的に達成されるシステムになっているのです。
おいしいから食べるのです。
性欲にしても、睡欲にしても、名誉欲にしても、財欲(金銭欲)にしてもシステム的には食欲と同じです。
各欲望は、それが達成されると快感を生じるために、欲望を充たす行動がとられるのです。
快感を得るために欲望を充たすのです。
その結果、欲望の目的が自然に達せられるのです。
その食べ物を食べたらおいしかったのです。
体内のエネルギーが消費されていくと、再び補給する必要があるのです。
補給する動機は「おいしい!」という快感を再び求めるのです。
「おいしい!」という快感は、補給の御褒美なのです。
「おいしい!」という快感を得られるので、再び食べるのです。
欲望の快感は、食物を探し獲得し食べる労苦に対する御褒美なのです。
欲望の充足によって、脳内に脳内麻薬のエンドルフィン・・セロトニン・ドーパミン等が分泌されるのです。
快という御褒美がなければ、各欲望を充たす行為が保障されないからです。
快感という御褒美がなければ、行為の動機とならないからです。
一般的に各欲望は、それが充たされずに、忍耐していると苦痛が生じ、その欲望の不充足の苦痛は臨界点に達するのです。
それでも忍耐していると、忍耐したまま放っておくと、その欲望は徐々に減退し、遂には欲望が消滅していくシステムになっているのです。
例えば、五官の刺激でも同じ刺激が一時的なものでなく、継続して有る場合に、その刺激に対する感応の能力は低下していって、遂にはその外部刺激を外部刺激と感じなくなってしまうことと同じです。
一定の外部刺激が変わらずに継続して有っても、五官にとっては外部刺激の無い状態となってしまうのです。
五官への強い継続刺激を感応し続けると、五官の器官を疲弊させ、麻痺させて遂には機能を狂わせてしまい、元に戻らなくなってしまうのです。
このような事は誰にでも有ることですから理解できることと思います。

名利の欲望も五官の刺激入力と同様のシステムで機能するのです。
名利も充たされることが困難な場合には減退していきます。
名利の欲望心を煽り強めていくのは人の思考力と想像力です。
その名利についての思量・想像を断つと、その名利の欲心は、即、鎮静化していきます。
多少余韻のくすぶりは残りますが、それは精神的残影ですから、放っておけば自然に消滅してしまうのです。
名利はそのまま、思量せずに忍耐していきますと、いったん強くなり膨らんだ名利の欲心は鎮静化し減退し、消滅して日常に戻るのです。
名利はそのことを思量すれば思量するほど膨らんでいく性質を持っています。
名利は膨らめば膨らむほど、満たされることを渇望し、苦痛は増していくのです。

再度申し上げますが、名利の欲望は意識(自意識・自己・我・自我等)がその満足を求める欲望です。
この名利の欲望と意識(自意識・自己・我・自我等)の関係は、
現成公案の一節「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」の「自己の身心」と「他己の身心」の関係と同じです。
自己の身心があるから、他己の身心があるのです。
他己の身心があるから、自己の身心があるのです。
意識が脱落(消滅)すると、名利の欲心も消滅(脱落)してしまうのです。
同じ心の作用だからです。
縁に応じる役割りの違いなのです。
意識が名利の満足を求めるには理由があります。
それは名利の欲望の満足はこの上ない快感だからです。
至福の高揚感という快感を得るのです。その快感は一度体験すると忘れ難く、病み付きになるのです。
あの栄冠を再びこの手にという気持ちになるのです。
大舞台で拍手喝采を浴びる快感は何ものにも替え難いものです。
カーテンコールはその快感を二度も三度も四度もということです。
主役も会場の人々もその快感を歓喜するのです。共感するのです。
授賞式はその為にするのです。
授賞式は名利の快感をより高め強くし、その余韻に浸る時を延ばすのです。人間の知恵です。
栄誉は意識(自意識・自己・我・自我等)が最も欲望することなのです。
エンドルフィン・セロトニン・ドーパミン等の分泌を促すのです。
より多くの分泌が、より多くの快感をもたらします。
名利はより多くの他者の存在が必要です。
より多くの他者の存在は、自己の中の佗己のより多くの存在感をもたらすのです。
その自己の中の多数の佗己の中の頂点に立つ快感は、脳内麻薬がより多く分泌されることとなるのです。
人が名利を求める理由です。
名利が充たされることは快感がもたらされることとなるのです。
意識の快感を多く得ることを生存にとって有利になるのです。栄誉の場面が増えるのです。
栄誉を得る機会が多いということは栄誉に伴う利益を手にすることが多くできるのです。
人間社会は長い歴史の中で「栄誉を手にする者に、より多くの利益を」というシステムに作り上げてきたのです。勝者です。
「勝者は頂点を制する」というシステムです。
それは当然、自己保存本能と自己遺伝子保存本能を成就するのに有利なのです。



人の原点としての本性は、快・不快によって行動の選択をすることと、
利己性と利他性の内の利己性で行動の判断をすることです。
この二つの本性で自己の生存が保障されるようになっているのです。
本性の一つに利己性と利他性がありますが、生き物は基本的には利己性です。
時に応じて利己性と利他性を使い分けるわけではなく、生物・人間は常に利己性なのです。
或る時は利己性の本性となり、或る時は利他性の本性となって行動するわけではないのです。常に利己性なのです。
人間は利他性が現われた行動をする時がありますが、それは純粋な利他性ではなく、互恵的利他性です。
「やってくれるからやってあげる」「やってあげたからやってくれよ」という互恵的な利他的行為なのです。
一方的な利他性はないのです。
「お互い様なのです。」という社会通念が社会に出来上がっているのです。
純粋な利他性は理論的に存在するだけで、現実には存在しないのです。
お互い様でなければ互恵的利他性は崩壊してしまいます。
互恵的ということが利他的な行動を保障するのです。
この互恵的利他性は利己性の妥算に基づく利他的行為なのです。
全く利他的行為に擬装した利己的行為なのです。
先を読んで、損して得を得る行為です。
倍返し、半返しの習慣が出来上がるのです。
人は利己性でありながらも社会全体の現実は互助会の精神で円滑に動いているのです。
冠婚葬祭にその互恵的利他性の精神が典型的に現われています。
利他的行為に迂回した利己的行為です。

名利の満足は利己性の最も欲求することです。意識の最優先に欲望するところです。
利己性にとって最も必要とする欲望です。利己性は意識の本性です。
利己性は善であろうと悪であろうと問題にしないのです。
利己性にとって、社会道徳・倫理的に善も悪もないのです。
利己性にとって普遍的善は自分の自己保存本能と自己遺伝子保存本能が全うされることです。
あらゆることを徹底的に利用し尽くすのが利己性の本性なのです。
利己性はあらゆる生物の共通する普遍的性質です。
利己性の弱い生物は淘汰され絶滅していくこととなるのです。

人の本性は善であるか悪であるか、性善説と性悪説が社会的に度々問題になりますが、人の本性はどちらでもなく、利己性だということです。
利己性がなければ、五欲は自己保存本能・自己遺伝子保存本能を全うすることができません。
五欲が利己性に支配されることによって、自己保存本能と自己遺伝子保存本能は全うされるのです。
本能が本能を全うするには、利己性が必要不可欠な本性なのです。
その利己性は自我(意識)が司るのです。
自我の本性が利己なのです。
生物にとって、生き延びることが善であり、死すること絶えることが悪なのです。
利他性の動物は絶えてしまうのです。
利他性の生き物は生き残ることはできないのです。
よって、この地球上に利他性の生物は、既に絶えてしまって生き残っていないのです。
利他性の生物を絶滅せしめたのは、利己性の同種の生物です。
利己性には、個の利己と、集団の利己があります。
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