曹洞禅 修行僧

大角幻了おおすみげんりょう

坐禅の実践と自意識の解放 

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『 はじめに 』

-目次-

  1. 非思量こそ坐禅の要術!
  2. 私の文章の特徴
  3. 本ホームページ公開の訳

非思量ひしりょうこそ坐禅の要術ようじゅつ

2015.9.20
禅の修行について「仏道を習うことは自己を習うことなり。自己を習うということは自己を忘るるなり」と道元禅師が述べておられます。つまり、仏道の修行は自己を忘却することが目的であると述べておられるのです。人格の完成とか、人間の完全・不完全とか、人に尊敬される言動の人になることだとか、御仏に仕えるとか、仏戒を守り実践することだとか、慈善事業や社会奉仕にかかわることだとかが仏道修行の目的ではないのです。

禅宗に於いては仏道の修行は、まず自己を忘却することが目的なのです。そして自己を忘却することから禅宗はすべてが始まるのです。自己を忘却した後のことは自己を忘却してから考えることです。自己を忘却する前に考えるべきことではありません。まず自己を忘却しなさいと説かれております。
忘却する前に、これこれの事はやっておきなさいとか、忘却の為の修行と並行して、これこれの事をやらなければならないというようなことはないのです。
禅宗に於いて、修行者としては出家の時から、そして宗教者としては自己の忘却の時から、すべては始まるのです。自己の忘却というのは禅僧の命なのです。それほど何にもまして大切なことなのです。
「非思量の坐禅」は雲水うんすいの命です。そして「身心脱落しんじんだつらく脱落身心だつらくしんじん(自己の忘却)」というのは禅僧の命です。

私は道元禅師や瑩山禅師けいざんぜんじが、坐禅の要術であると説いた「非思量」のみで禅の修行を推し進めてきましたが、非思量についてきちんと説いた師家は明治時代以降は一人もおりません。曹洞宗の御開山である二人の禅師様はしっかりと非思量について懇切丁寧に説いておられるのに、その流れを汲む現代の師家方の中には一人として非思量の実践について説いた方はおりませんでした。現代の師家方が力を入れて説いたのは只管打坐しかんたざの只管ばかりです。曹洞宗の坐禅は只管であると説くのです。ひたすら坐ればよい、ただただ坐れば、それで宗祖の意に叶うというのです。非思量には一言も触れずに曹洞宗の坐禅は只管打坐であると説くばかりです。非思量はどこに行ってしまったのですかと尋ねたいくらい非思量は取り上げられないのです。

宗祖 道元禅師と瑩山禅師けいざんぜんじが坐禅の要術は非思量と説かれています。そして非思量を只管に行ぜよと説かれています。
私は普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ坐禅用心記ざぜんようじんきを読んで、そのように受け取ってひたすら非思量を実践してまいりました。「非思量は幽邃ゆうすいであるとか幽玄な世界である」となどと深読みしないで、言葉通りに受け取って、その実践にひたすら工夫してまいりました。素直に言葉通りに受け取って精進してきた結果、間違っていなかったと確信しております。

私は宗祖の説いた非思量を工夫する過程で体験に基づいて気付いたことを、その都度書き留めておきました。非思量の工夫の実際についてはどこにも書かれておりませんでしたので、随分と苦労をしました。且つ、時間もかかり過ぎました。徒に苦労をしなくてすむように、できる限りのことを書き留めてありますので、曹洞禅の修行の参考にして下されば有難いと思います。
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私の文章の特徴

2015.10.3
人は他者の言葉を自己流にかみ砕いて解釈をし直す癖があります。聞いた通り、読んだ通りに素直に受け入れる努力を避けて、自分が無理なく受け入れられるように解釈する癖があります。誰でもそうです。
説く師と、それを受け入れる自分との理解に違いがないように努力を払う修行者は多くはないような印象を持っております。このことはとても大切なことなのに、多くの雲水さんや熱心な参禅者達は、それほど気にせずに坐禅に励んでおります。
禅の道は非日常的な道ですから、師の言葉を間違いなく理解することは難しいものです。
師の説くことを素直にその通りに受け入れて、その通りに理解し、その通りに実践するには、ある程度の修行の下地がないと無理があります。
そこで、本ホームページでは閲覧者が禅を自己流に解釈できないように、また深読みしなくてよいように説くべきと考えて、一つのことを様々な観点から、或いはわずかづつ視点をずらして、或いは表現やニュアンスを変えて書いてあります。また、閲覧者は様々な環境で、様々な人間関係で、様々な生き方をし、様々な苦悩があり、一様ではありません。考え方も感じ方も理解の仕方も様々です。
私の禅の修行の説明は、最大公約数的に誰にでも当てはまるように、一つの観点から書かれた文で済ませようとは思っておりません。最大公約数的に誰にでも当てはまるように書くと、誰にでも当てはまらないという矛盾ができてきます。
私は理解しがたい禅の世界を誰でもが理解できるように、誰にでもピタリと当てはまるようにと、同じことでも少しずつ観点や表現を違えて書いてあります。内容的には重複するようでも閲覧者にとってピタリと納得できる視点、表現はそう沢山あるわけではないと思っております。力量のある人にとっては少々くどいように感じるかもしれませんが、書き手である私の意図を理解して頂きたいと思っております。
また、一つの小題には必ず他にはない事柄が書かれていますので、最後まで読んで頂ければ、禅に対する理解が深まり禅の修行にとって資することとなるはずです。
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本ホームページ公開の訳

2015.10.4
私は修行したての頃、師から禅は詳しく説くと、或いは懇切に説くと、人が育たないと伺ったので、あまり詳しい理を求めるような質問はしないようにして今日まで修行してきました。このことは今でも納得しておりません。
実際、師家と称される方々は詳しく説かないようにしているようです。師家の提唱録や書物もその傾向があり、一般の修行者には理解しにくいと感じられます。
しかし、そのように説く師家の方々の元で、身心脱落した禅僧は一人も育っていない現実があります。
なぜなのか? 何処に問題があるのか? 再考する必要があります。
指導する師家の力量に問題があるのか?
指導を受ける雲水の資質に問題があるのか?
指導の伝統的方法に問題があるのか?
禅理の説き方に問題があるのか?
究明する必要がある時代に至ったと思います。

私が禅僧となって修行してきた中で、修行について気が付いた事を、忘れぬように折にふれてできる限り書き留めてまいりました。私は一般大学を出て、曹洞宗の僧侶となって50年近くの歳月が経ちました。
私は修行を積んだ数多くの禅僧にお会いしましたが、残念な事に身心脱落しんじんだつらくをした正師に巡り合うことができませんでした。どの方も名聞利養を捨てきっていないように感じられました。この年になるまで正師に出会うことはありませんでしたが、開祖道元禅師、瑩山禅師けいざんぜんじが残された普勧坐禅儀ふかんざぜんぎと坐禅用心記という坐禅論、坐禅の手引き、坐禅の独習書ともいうべき著述書がありましたので、それを参考にして坐禅をしてまいりました。

普勧坐禅儀の中で私が最も重要と考えた箇所は「非思量是れ即ち坐禅の要術なり」という一文です。同様のことは坐禅用心記にも書かれております。
鎌倉時代の臨済宗の開山の語録や禅師の法話にも同様のことが書き示されております。
更に道元禅師が著された正法眼蔵しょうぼうげんぞう現成公案げんじょうこうあんの中の「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり」の一文です。
この二つが私の禅修行の基本であり、全てです。これ以外に禅の修行として念頭に置くことはありませんでした。これらの文を深読みせずに文字通りに受け留めてやり抜いてきました。

非思量ひしりょうは思量に非ずと読めます。思量を否定した状態のことです。思量を否定した状態は思量活動の行われていない脳状態です。
その通りになるように努力をしてきました。もし、この解釈が間違っていたらどうしようという不安が時々頭をもたげましたが、このことを尋ねるべき正師もなかったので、もう少し先まで、もう少し先まで行けばと思い修行をしてまいりました。
「自己を忘るるなり」も、自分という感覚や意識が兎の毛ほどもあるうちは、わずかでも動くうちは、いかなる経験をしてもすべて自己を忘るることにとって意味がないとして捨ておいてきました。
「自己」のあるうちは、まだ身心脱落には至っていないという判断基準を常に持っておりました。いかなる体験があっても有難い、素晴らしいと思うことがなかったので、そこに腰を据えてしまうことはありませんでした。このように修行を行っていくうちに、祖録に書いてあることに理解できることが多くなってまいりました。
非思量を文字通りに行ってきた修行が間違いでないことに確信が持てるようになってきました。
見性けんしょうと身心脱落の区別もできるようになってまいりましたので、話を交わしたり書いたものを見れば、どの程度の力量の人かも見分けられるようになってまいりましたことは有難いことです。

この度、私が書き留めたものをホームページにて公開して残しておきたいと思うようになりました。
その理由は、戦後から現在に至るまで、禅の修行について因果の道理に従って解き明かした書物が一冊もないからです。提唱と称して祖録を解き明かした文章の展開は皆、難解です。また各々の語句の意味もしっかりと定義されていないので、ほとんどが分からないと思います。誠に残念なことです。禅という世界に類をみない宗教が忘れ去られていく由縁です。
本ホームページは、私と同じように組織や仲間に迎合せずに真剣に修行に取り組み、私と同じように身心脱落された正師に巡り合えずに修行に苦労されている方々、また従来の伝統的な修行についての説明に納得がいかない為に修行道場になじめずに苦労している方々にとって一縷いちるの光明となればと思います。

修行が進んでいくにつれ、禅の道というのは信仰の一宗派にとどまらず、宗教を越えて広く社会に資する内容を待っていることにも気付きました。
それは禅の修行をしているうちに、心の苦悩が解消されてしまうこと、心の苦悩から生じるうつ病の進行がストップし改善されていくこと、自律神経失調症が改善されて心のバランスがよくなっていく等の経験もしております。以上のことから禅の修行は心の病の改善や回復に効果があるような気がいたしております。
それは多分「非思量」の状態を維持することによる効果ではないかと思います。また、禅の修行においては思考や想像の扱い方、処理の仕方、自己の保存と意識の存在の扱い方を経験則から体得していきますが、このことも心の病の進行の停止や改善に効果があるのではないかとも思っております。
本ホームページが脳科学や心理学、精神分析学、身心医学等の分野の先生方の研究の参考になれば幸いです。
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