『 はじめに 』『 第一章 』『 第ニ章 』『 第三章 』『 第四章 』『 第五章 』『 動物の意識 』『 意識の機能 』『 用語の説明 』『 質疑応答 』『 問い合わせ先 』
第六章では主に祖師方が著わされた語録・法語の提唱をしていきます。
今までも折に触れ、祖師方の語録や法語につて部分的に取り上げて説明をしてきましたが、第六章ではまとまりとして説明していこうと思います。
禅に於いて、何が普遍的に、或いは基本的に正しいのか。
道元禅師や祖師方が、無念や一念不生をどのように説いているのか。
このHPの読者には、明らかにし知っておいてもらいたいと願っております。
それらが、坐禅や、禅の修行や、法理や、佛性を考え理解する前提として常にあるからです。
この前提だけで禅の修行は充分にできるのです。
そして、実際には非思量の相続、一念不生の相続だけを修すれば修行者としては何ら問題はありません。
法理を先に理解しようとする前に、まず修行者として実際にやるべき事をやってしまうことが大切です。
法理は自然に後からついてきますので心配はないのです。
法理というのは佛法の理論のことです。
佛法というものを因果関係を中心として理論的に構築して説明し、他者に理解を深めていってもらう為のものです。
実修・実証の抜けた法理専門の師家となった処で虚しいだけです。
また、明治以降の老師や師家方がそれぞれにいろいろに提唱をしておられますが、私からみますとずれているように読みとれます。
それは理解を先行させるからです。
理解を先にしても、実修はついてきませんし、実修の成果もついてこないのです。
そのずれの訂正も兼ねさせていただきます。
私 大角幻了は「非思量」しか説いておりません。
そして、非思量といえば曹洞宗開祖道元禅師です。
まず最初に、
祖師方の語録・法語の中の非思量の相続について説かれている箇所の抜粋から始めます。
・語録とは、祖師方が語った言葉を第三者が筆録した文章・書籍を指します。
・法語とは、本人が自ら筆を執って書き上げた文章・書籍を指します。
2022.11.1
祖師方の語録や法語は明治以降研究が進み、戦後数多く出版され誰でもが手にすることができるようになりました。
それらの語録や法語をそらんじるまでに研究し読み解いても決して禅の修行が進展していくことはありません。
料理の本を読んでも料理が上手にならないということと一緒です。
この進展するというのは、禅者・道人としての器量が深まっていくということです。
非思量の状態に次第になっていくということです。非思量に状態が日常的になっていくことです。
語録や法語を勉強して文字による禅の知識が増えても、佛道に於ける人格的心境の進展はないのです。身心脱落するということはないのです。
語録・法語の勉強を深めていきますと、考え方の変化や気分や気持ちの変化があることはあっても、それは禅の修行には一切関係のない変化です。
禅者・道人としての器量にまで及ばない表面的な変化です。
禅の修行に資する変化を求めるならば、文字を追うことを止めて、非思量の精神状態の相続に専念するしかないのです。
語録や法語を精読して充分に理解し納得したところで、禅の修行に於ける器量は現状維持のままで何ら進展することはありません。
禅に於ける心境を少しでも進展させたければ、文字を追うことを止めて実際に非思量の状態の維持を30分でも、40分でも、1週間や2週間ぐらいは実践しなくてはなりません。
現在のところ、これ以外に方法はないのです。
禅の修行には取り敢えずは自らの分析力も理解力も判断力も必要がないのです。
観察力も、何かの変化に気が付く注意力も必要がありません。
本人の自覚も納得も必要がないのです。
身心脱落するまでは、それらを動員する必要はありませんので休息させておくことです。
身心脱落するまでは、ひたすら非思量の状態を維持することが大切なのです。
それ以外には、禅僧や道人としての器量の進展は望めないのです。
禅の修行はあきれるほど簡単明快なことです。
それには世の中で考えられているような宗教的高尚さも難解さも神秘性もありません。
現在の禅の修行に対する既成概念は、修行の未熟な者達によって間違って作られたものです。
名利の心によって意図的に作られたものですから、正しく修行する為には全て捨てていくことが必要です。
以上のことを理解してもらうために祖師方が語録や法語の中で非思量の相続についてどのように述べているのかを紹介致します。
語録・法語(太字)に引き続いて、私の現代語訳と解説を記載します。
今回、出典を省略しております。ご了承下さい。
1)「念も生死を計すれば、即ち魔道に落ち、一念も諸見を起さば、即ち外道に落つ。」
「一つの考えでも一つの思いでも生死についてはかり推測すれば、即佛道以外の道に落ち、
一つの思い考えでも諸々の考え方を起せば、即佛道以外の道に落ちる。」
−解説−
思いも、考えも、推測も、すべて言葉を頭の中で用いるのです。どれも思量の一つです。
思い、考え、推測等の思量をすれば、佛道から外れるということです。
私達の日常は佛道から外れているということです。
魔道も外道も心(思量)が作ったもので実際にはありません。ちょっと驚かしただけのことです。
・「計すれば」の「計す」は、はかる。思う。推測する。
2)「念を息め、慮を忘ずれば、自から現前す。」
「思い考えを止め、おもんばかることを忘れてしまえば、佛道(佛法)は自然に目の前に現れる。」
−解説−
念も慮も言葉を用いて行う精神行為ですから、思量なのです。
念を用いることを止め、おもんばかることを忘却すれば、佛道は自然と目の前に現れるということです。
3)「念を動ずれば、即ち乖く。」
「思い考えを動かせば、即ち佛道(佛法)にそむくことにとなる。」
−解説−
一念でも動かせば佛道から離れていくこととなるので、一念(思い)を生じさせないことです。
4)「思惟を息却せば、妄想、塵労、自然に生ぜん。」
「思い考えることを止めれば、妄想も煩悩も自然と生じないようになる。」
−解説−
「息却」の「息」も「却」も、やめるという意味。
5)「但だ如許、多種の妄想を除却せよ。」
「ただ、多数、多種の妄想を取り除きなさい。」
−解説−
出てしまった妄想は除却できません。
妄想とは思い考えのことですから、出てくる前に除却してしまうことです。
出てくる前に除却してしまうということは、一念不生の状態に在りなさいということです。
6)「諸縁を息め、妄想分別を生ずること莫れ」
「心を動かす一切の物事を思い考えることを止め、妄想したり分別の思い考えを生ずることを止めなさい。」
−解説−
諸縁の事柄をおもんばかることを止め、
妄想することも、分別することも、頭の中で言葉を用いているのです。
言葉を用いない妄想や分別はないのです。
頭の中で一切の言葉を用いることを止めなさいということです。
7)「そなた、とりあえず、しばらく思念を抑えて、善をも悪をも念頭に置かぬようにしてみよ。」
「そなた、とりあえず、しばらくの間、思量、思い考えを抑えて、善い考えも悪い考えも頭の中に置かぬようにしてみなさい。」
−解説−
思量、思い考えが動かぬように生じないように抑えて、善の分別も悪の分別も頭の中に一瞬たりとも留めないようにしてみなさい。
8)「六祖は続けて、善をも思はず悪をも思はぬ、まさにその時に、かえってそなたの父母が生まれぬ先の己の顔を見せてもらおうか。」
「六祖慧能禅師は続けて、善いことも思わず悪いことも思わない、まさにその時に、反対にそなたの父母という言葉の概念が生じる前の自己の顔はどのようなものか見せてもらおうか。」
−解説−
思量の一切存在しないところに於ける自己を見せなさい。
9)「四の五の六百万え分別を分別することを休めよ。」
「四百万の五百万の六百万の次々に出てくる分別を分別することを休止しなさい。」
−解説−
際限なく無量に生じてくる分別を言葉を用いて分別することを止めなさい。
分別には言葉を用いない分別はないのです。
10)「佛道を成ぜんと思はば、只見をやめて看よ。」
「佛道を成就しようと思うならば、ただ諸々の事に対する見方、考え方を止めてみなさい。」
−解説−
「見」というのは、様々な人の思量を一定の分類の仕方で分類した思い考えをいいます。
言ってみれば類語ということです。
一つの共通類語をひとくくりとして「〜見」というのです。
11)「一念不生なるを無念とす。」
「一つの思いも考えも生じないことを無念と言う。」
12)「心をもって無念と思はざれ。」
(この場合の“心”は文の前後から判断して“思い考え”のことです。)
「思い考えをもって無念と思ってはいけない。」
−解説−
無念は思い考えの無い精神状態を指していますから、“無念と思ってはいけない”と言っているのです。
無念という思いが精神の中に存在してしまいますから・・・。
13)「佛道修行は先ずは無念なるべし。」
「佛道の修行、先ずは念の生じないこと動かさないことです。」
−解説−
佛道の修行として先ず行うことは、頭の中で思い考えを生ぜしめないこと、動かさないということです。
思い考えを生ぜしめないということは、頭の中で言葉を用いないことを指します。
自然に出てきた思い考えでも、言葉を用いることに何ら変わりはありません。
14)「わずかに心を生ずれば、則ちそむく。」
(この場合の“心”も思い考えのことです。)
「わずかでも思い考えを起こせば、則ち正しい佛道修行にそむくことになる。」
−解説−
思い考えが無ければ、私達の精神の中に心と呼ぶべきものは何一つ存在していないのです。
私達の精神の中には、身心脱落していない限り、自己(我・意識)がただ存在しているだけなのです。
その自己(我・意識)には何の変化もなく、何の機能も見い出すことはできないのです。
15)「念を動ずれば、忽ち謬まる。」
「思い考えを動かせば、たちまち、佛道修行を謬まることとなる。」
−解説−
思い考えを動かさなければ、それだけで佛道修行は正しく行われていると信じることが大切です。
ここは祖師方を信じるのです。
近代・現代の高名な師家や老師は信じないことです。
16)「一心おこりて生死あり。
無心のとき生ずる身もなく、無念の時、滅する心もなし。
無念無心のとき全く生滅なし。」
(この場合の“一心”は“一念”と同じことです。)
「一つの思い考えが起きるので生死ということがあるのです。
一つの思い考えも生じない時、私達が自覚している身体もなく、
思い考えのない時、滅する思いも考えもないのです。
思い考えもない時、生死も身体も全く生じたり滅したりすることもないのです。」
−解説−
一念不生の状態で精神内を見ると、どこにも生死という存在(事実)はないのです。
私達の身は、思い考えることによって、精神的に作られた架空の身なのです。
精神内に作られた架空の身と、生身の肉体は、一体のものではなく別々のものです。
精神内に作られた架空の身は、一念不生の時、生じることも滅することも無いのです。
生死というのもそのようなことが存在するのではなく、一念が精神の中に作り上げたものです。
生や死という事実は眼前の何処にも存在していないのです。
17)「我が身ありと思う心を止めて、本来一物なき処に打向ひ、
生ずるとも思はず、死するとも思はず、
無心無念なれば、三世諸佛の大涅槃にひとし。・・・・・
只須らく無心を修行して、行住坐臥忘れずんば、最後の用心別にあるべからず。」
「我が身が有るという思い考えを止めて、本来何ものも生じない処に向かって、生きるとも思わず、死ぬとも思わず、
あらゆる思い考えがなければ、過去現在未来の佛様の悟りの境地と同じである。・・・・・
ただ、是非、思い考えのない状態を相続して、日常生活において、思い考えのない状態の相続を忘れなければ、それ以外に窮極の用心が特別にあるわけではありません。」
−解説−
ここの処を曹洞宗開祖道元禅師は「非思量!」といい、歴代の祖師方は、一念不生、無念無心、等々と言っているのです。
18)「坐禅の用心に、一切善悪都思量すること莫れと云うは何ぞや。
此の句は直ちに生死の根源を截断する処なり。
坐禅ばかりと思うべからず。
若し此の句に到る人は、無始無終の佛なり、行住坐臥の禅なり。」
「坐禅の用心に、一切の善い事も悪い事もすべて思量してはいけないと言うのはどういうことでしょうか?
この言葉は直ちに私達の生死の苦悩の根源を断ち切ってしまうものです。
一切の善悪すべてを思量することなかれというのは坐禅をしている時ばかりと思ってはいけない。
もし、此の句の心境(非思量の状態)に到達する人は、始めもない終わりもない窮極の佛(悟った人)であり、日常生活がすべて禅の修行となるのである。
行住坐臥に於ける坐禅ともいうべきものである。」
19)「心を以って無念と思はざれ、有念無念を離れて一念不生なるを無念とす。」
「思い考えをもって無念と思ってはいけない。
思い考えをもって念が有るとか念が無いとか思い考えることを離れて、一つの思いも考えも生じない状態を無念というのである。」
20)「心以って無相ならんとするは是れ外道の教えなり。
一切の相は有といへども、一切の相に於いて心著なくして、一念も生ぜずんば是れ無相也。」
「思い考えをもって、自己の様相(姿)、或いは自己の存在が無いようにするのは佛道の教えではない。
一切の自己の様相(眼耳鼻舌身等)が有るといっても、一切の自己の様相についての思い考えに執着なく、一つの思いも考えも生じなければ、これが無相なのです。」
−解説−
自分の姿、身体の動き、眼耳鼻舌身の存在、自己の表情等が精神の中に存在せず、観察できない状態を無相というのです。
21)法華経に云はく「是非思量分別なくして能く悟ると云へり。
此の法は思量分別のよくさとる処にあらずと説き玉へり。」
法華経に説いている「物事に対して是・非を判断し、思ったり、思量したり、分別したりすることがなければ、よく悟ることができると言へるのです。
佛法は思量や分別では悟ることはできないと説いておられるのです。」
−解説−
是非、思量、分別は言葉を用いてなされるのです。
言葉を用いて思量分別しては、悟る(身心脱落)ことはできないと述べているのです。
22)「坐禅は本是れ大安楽の法門也。片縁の起ることなく、外に万境の嫌なし。
一片にして思量を用いず悄然として終日に送る、此の心を明らめ、妄想を除かんとにはあらず。
鳥の空を行くが如し、囀る心なし。山の山に双べるが如し。前山後山の思ひなし。」
(“囀る心なし”と“後山の思ひなし”は対句ですから、“心”も“思い”も言葉を変えて同じ非思量のことを言っていることが分かります。)
「坐禅はもともと大安楽の佛法の門である。入口である。
坐禅というものは、心の中に一片の思いも考えも起こすことなく、森羅万象に於ける万の縁に好き嫌いの思いも起こさない。
一かけらも思量を用いず、ひっそりとして一日を送る。
思いや考えのメカニズムを明らかにし、生じてきた妄想を除こうとするのではない。
鳥が空を飛んで行くようなもので囀りながらも囀る思いもなく、山山が並んでいるようなもので、山山には前山であるとか後山であるとかの思いはない。」
−解説−
生じた妄想は除けるものではありません。出さないことです。封じるのです。
それが非思量であり、一念不生なのです。
鳥には思いが無いのかは、現代の脳科学では明らかにされていません。
ただ近年、鳥にもコミュニケーションの為の言葉があることが研究によって明らかになっております。
鳥に言葉があるならば、思う機能もある可能性が大きいはずです。
山には生命はありませんから、思うという機能はないのです。
当然、前山、後山の判断・分別をするはずはないのです。
23)「無念を宗と為し妄心起こらざるを旨と為す。
無念とは邪念無きなり、正念無きには非ず。
有を念じ、無を念ずるを即ち邪念と名づけ、有をも無をも念ぜざるを即正念と名づく。
善を念じ、悪を念ずるを名づけて邪念と為し、善をも悪をも念ぜざるを名づけて正念と為す。
及至、苦と楽と、生と滅と、取と捨と、怒と親と、憎と愛とを念ずるを並びに邪念と名づけ、苦と楽と等をも念ぜざるを即ち正念と名づくるなり。・・・・・
但だ一切処に無心なるを知れば、即ち無念なり。
無念を得る時は、自然に解脱す。」
ここで出てくる正念は臨済禅(公案禅)にて説かれる正念相続の正念のことです。
この正念は曹洞禅の非思量のことであり、祖師方の語録・法語に出てくる一念不生のことです。
決して特別のことではないのです。
邪念は、正念に対する念として邪念と名づけているのです。
邪は正に対する反対語だからです。
念が頭の中に有るか無いかによって正念・邪念としているのです。
念の内容によって正・邪に分けているわけではありませんので注意が必要です。
念の有る精神状態を邪念とし、念の無い状態を正念としています。
頭脳の中に念の無いこと(非思量の状態)を正念としています。
-以上 頓悟要門-
念の無いことをもって正しい念としていることは言葉上矛盾しているのですが、念の無い状態を指して正しい念と表現せざるを得なかったのです。
有念と無念という言葉を用いた方が思量の有る無しを正しく示すことができてよいのですが、この表現を用いる祖師方は少ないのです。
有念を邪念とし、無念を正念とした方が分かり易いと思います。
私には分かりませんが何か理由があってのことと思います。
「念が無い状態を宗旨とし、妄心起らない状態を宗旨とする。
宗も旨も宗旨のことです。語調を取るために宗と旨に分けたのです。
無念というのは正念のことを言います。
正念の無いことを言うのではありません。
有るということを思い考え、無いということを思い考えることを邪念と名づけ、有るとも無いとも思い考えない心の状態を正念と名づけているのです。
善を思い考え、悪を思い考えることを名づけて邪念と言い、善も悪も思い考えないことを名づけて正念と言います。
及至(あるいは、または)、苦と楽と、生と滅と、取と捨と、怒と親と、憎と愛とを思い考えることをそれぞれ邪念と名づけ、苦と楽と等々をも並びに思い考えないこと正念と名づくなり。・・・・・
ただ一切の処に於いて自らの思い考えのないことを知ることができれば、それは即ち思い考えが無いということです。
思い考えのない状態を得ることができるようになりますと自然に解脱(悟る)するのです。」
目次へ
2022.12.1
白隠禅師の正系統である 開祖大応国師→大燈国師→関山国師 の中の大燈国師の法語を紹介します。
法語(太字)に引き続いて、私の現代語訳・解説を記載します。
-大燈国師-
臨済宗京都大徳寺開山
1282年延生 1337年没 享年55年。
大燈国師は大応国師の印可を受け嗣法したのが1307年26才の年です。
23才の時 鎌倉万寿寺高峰顕日禅師について得度出家し、間をいくらも置かずに大応国師に相見。
1307年 公案 雲門の関字 を透過し、大応国師より印可証明される。
20年間後悟(聖胎長養)の修行をするように申し渡される。
この印可証明は、公案禅に於ける大悟に対する印可です。
十牛の図の第三の見牛がしっかりと手に入ったという証明です。
つまり、正念の相続ができる力量の人となったという意味です。
まだ佛道の正しい悟り(身心脱落)には至っていないということです。
これから、聖胎長養という悟後の修行が必要なのです。
印可は身心脱落でありませんので、20年間の正念(非思量)の相続をして、十牛の図の第八の人牛倶忘に至るべしとの厳命なのです。
曹洞禅の身心脱落(これは十牛の図の第八人牛倶忘の段階)に至らなければならないと大応国師から申し渡されたのです。
臨済禅と曹洞禅では、全く同じ言葉であってもその意味する内容は異なる場合が多々ありますので、注意して読み勧める必要があります。
「時々起る念を捨つべし。
古人云く、
心生すれば、種々の法生じ、心滅すれば、種々の法滅す、
と説き給ふも此の事なり。
心生ずるとは、一念の起る事なり。
彼の一念起るに依って種々の悪心、起りて色々の罪を作って、悪道に墜るなり。
心滅すとは一念は本体無し、死すれば、倶に死するものと思へば地獄も天地も無き事なり。
喩へば、白紙に地獄の絵を書き、罪人を書き、鬼神を書き、極楽浄土を書き出すが如し。
本来明白にして地獄も無く、極楽も無きを、一念を以って色々に造り出すなり。
「時々起きる思い考えを断ちなさい。
出たら断つのです。出たら即、断つのです。それを“捨つ(捨てる)”と表現しているのです。
古人が言われる、思い考えが生じると種々(色々)の教え(概念・観念・理法)が生じ、思い考えが消滅すると種々の教えが消滅すると説く処は、此の事を言っているのです。
“捨つべし”というのは、断ちなさいという意味です。
生じてしまった念を捨てることはできません。
起きたら即、断てば良いのです。思いが出ていることに気付いたら即、断つのです。
思い考えが、様々な教え・概念・観念・理法・道徳・倫理・戒律・思想・信条・宗教等々を生み出すのです。
思い考えが消滅すると、様々な教え・概念・観念・理法・道徳・倫理・戒律・思想・信条・宗教等々の迷い苦の原因が消滅してしまうのです。
思い考えが消滅すると、すべての迷い苦悩の原因である是非善悪の思想等々が消滅してしまいますので、“時々起る念を捨つべし”と説いているのです。楽になるのです。
心生ずるとは一念(一つの思い考え)の起きる事です。
例の一念(一つの思い考え)が起きることによって、種々の悪い思い、悪い考えが起きて色々の罪を作って悪い道に墜ちるのです。
“悪道(悪い道)”というのは、自他を悩ませ苦しめる道のことです。
心が消滅するというのは、一つの思い考えは実体(物理的存在)が無く、自分が死ぬと一緒に消滅(死ぬ)するものであると分かれば、地獄も天国も無いということです。
喩えば、白紙に地獄の絵を書き、罪人を書き、鬼神を書き、極楽浄土を書き出すようなものです。
禅門に於いては本来明らかなことであって、地獄も無く極楽も無いものなのに一つの思い考えによって色々に造り出すのです。
人の思い考えが、思い考えの中で創り出した絵に画いた地獄なのです。
絵に画いた餅の如きもので、実際に存在するものではないのです。
只、念を拂ひ捨てる事を専らにすべし。
念を掃へと云ふは坐禅をすべし。
念を収れば彼の本来の面目、顕はるるなり。
念は譬へば雲の如し、雲かくれれば月顕はるるなり。
真如の月と云ふのも本来の面目のことなり。
又は、念を鏡の上のくもりに喩るなり。
曇を拂へば、鏡が顕はるるなり。
念を収め未だ生ざる前の面目を見よ。
ひたすら、思い考えを拂い捨てる事に専念しなくてはなりません。
思い考えを掃えと言うは坐禅をすることです。
思い考えが消えれば、例の本来の自己(悟った自己)が顕れるのです。
思い考えは、たとえば雲のようなものです。雲がなくなれば月が顕れるのです。
真如の月(普遍的真理・あらゆる存在の真の姿)というのも本来の面目(本来の自己・身心脱落した自己)のことです。
また、思い考えを鏡の上のくもりにたとえるのです。
くもりを拂えば鏡が顕れてくるのです。
思い考えを消滅させて、未だ思い考えの生じる前の面目(自己)を見なさい。
“念を掃へと云ふは坐禅をすべし”
この“坐禅をすべし”というのは、修行をすべしということです。
坐禅という言葉は修行を表象しているのです。
修行は非思量の相続ですから、坐禅を組んでいる時だけでなく、行住坐臥すべてに於いて非思量の相続なのです。
”非思量を修している時が坐禅である”と言うと、文面上は飛躍していますが内容上は過言ではないのです。
“本来の面目”というのは、本来の自己のこと、本来のありのままの自分のすがたのことですが、この“本来”というのは本当の自分という意味ではなく、自己(自我)が消滅してしまった自己のことを指します。
我々凡人の精神から自己(自我)を脱落(消滅・忘却)させて残った精神を、本来の自己と言っているのです。
本来の自己を説ける人は身心脱落した道人のみです。
身心脱落していない師家や禅僧には本来の自己を観る力量はなく、祖師方の語録や法語で学び、知恵を付けただけです。
身心脱落していない師家や禅僧は知恵を付けただけで、本来の自己を見ることができないのにも拘わらず、自分には見えているかの如く説いているのです。
”雲”は自己(自我・意識)のことです。
“鏡の上のくもり”も自己(自我・意識)のことです。
“鏡”というのは自己の消滅した無我の自己のことです。
生まれざれ以前と死して後とは一つなり。
生まれざる以前を知らば死して後をも知るべし。
生まれざれ以前と死して後とは一つなり。
生まれざる以前を知らば死して後も知るべし。
生まれざる以前は地獄も無く極楽もなし。
念の生まれない前と念の消滅した後とは同じです。
念の生まれない前を知れば念が消滅した後も知ることができるのです。
念が生まれない以前と念が消滅した後とは同じなのです。
念が生まれない以前を知れば念が消滅した後も知ることができるのです。
念が生まれない以前は地獄も無く極楽もないのです。
“生まれざれ”と“死して”の頭に“念”を付け加えました。その方が理解し易いからです。
生も死も念が心の中に作り出すのです。
生身の肉体が生まれ、生身の肉体が死ぬことを想定して、斯く述べているわけではないのです。
ここでは生身の物理的存在の肉体を思い浮かべて読んではなりません。
現実には生も死も無いのです。
生と呼ぶべきものも、死と呼ぶべきことも無いのです。
地獄も極楽も念が作り出すのです。
只、本来の面目のみ有りて異物無し。
本来の面目と云へばとて形など有るべき物にあらず。
能々工夫して見給うべし。
一念既に起らざる時は、佛も無 法も無し。
譬へば(念が無いと云ふは)虚空に相貌無きが如し。
直に一念不生の処を知りぬれば、即ち虚空の正体を知り、
虚空の正体を知りぬれば心の正体を知り候なり。」
只、本来の面目(本来の自己・真実の自己・身心脱落した自己)のみ有って異物(それ以外のもの)は無いのです。
本来の面目(本来の自己・真実の自己・身心脱落した自己)とは言っても、形などが有るような物ではないのです。
微に入り細を穿つが如くに念(思い考え)を消滅する工夫をしてごらんなさい。
一つの念(一つの思い、一つの考え)が既に起きない時は、佛と呼ぶべきものもなく佛法と呼ばれるものも無いのです。
自らの心の中を観察してみれば、このことは分かるはずです。
たとえば、思い考えが無いというのは、虚空に形や姿が無いようなものです。
虚空という空間(存在)は誰も見たこともないので想像しようがないのです。
直に思い考えが生じない状態を知れば、即ち虚空の正体を知り、
虚空の正体を知れば、思い考えの正体を知るのであります。
虚空といのは、人の思量が作り出した架空の空間で現実にはないのです。
人の思いが作り出したものなのです。」
大燈国師仮名法語より
「或る人、達磨大師に問ふ、地獄とは何処ぞや。
笑ふて云ふ、唯、汝が心中の貪瞋痴の三毒是れなり。
貪とは貪着の念なり。
瞋とは怒る念なり。
痴とは愚痴の念なり。
只此の三毒、善悪の法を造り出すなり。
別に地獄とて世界の有るべきと思ふは迷いなり。
問云、極楽浄土と申すは、何処の境界にて候や。
答云、極楽浄土とて外に在るべからず。只汝が心中に在り。
前の三毒は汚穢不浄とて清からざる物なり。
彼の三毒の不浄を打ち払ふ処 即ち浄土なり。
種々に汚れたる妄念を拭ひ捨る処を浄土とは申すなり。
別に浄土を求むべからず。」
「或る人、達磨大師に問う。 地獄とは何処にあるのか?
笑って言う、唯、汝が思い考えの中の貪瞋痴という三毒が地獄そのものなり。
貪とは貪という欲に執着する思い考えである。
瞋(いかり)とは怒る思い考えなり。
痴とは愚痴という思い考えなり。
ただ、この三毒は善悪の法(善悪の区別・分別・認識)を造り出すのです。
別に地獄という世界が有るはずだと思うのは迷いです。
問うていわく、極楽浄土と言うのは何処にその境界があり、何処にその世界があるのでしょうか。
答えていわく、極楽浄土といって外に在るものではない。只 あなたの心の中に在るのです。
この“心中(心の中)”というのは、思い考えの中ということです。
前の三毒は汚穢・不浄とて清くない物です。
彼の三毒の不浄を打ち払った処を浄土と言うのです。
種々の汚れた妄念(やたらに生じる思い考え)を払い捨ててしまった処を浄土と言うのです。
妄念を払い捨ててしまった処というのは、“妄念を断ってしまった心” “一念不生の心”のことであり、それを浄土と言うのです。
他に浄土という世界を求むべきではないのです。
愚人(我々一般人)が想像しているような浄土という世界はないということです。
“此の三毒、善悪の法を造り出すなり” というのは、言葉を以って思い考えることによって、貪着の念が生じ、怒りの念が生じ、愚痴の念が生じるからです。
思い考えが善とよばれる道徳観・倫理観・常識観を作るのです。
また、思い考えが悪と呼ばれる道徳観・倫理観・常識観を作るのです。
貪瞋痴の思い考えが心の中に地獄を自ら作り出すのであって、他に地獄の世界があるはずだと思うのは迷いなのです。」
−解説−
この法語の中には、公案や公案らしきものは一つも入っていません。
よくよく注意して読み進めていかなくてはなりません。
これは大燈国師が自ら修めた正念の相続についての説示、三毒(貪瞋痴)についての説示です。
ここで重要なことは、
正念は非思量そのものであるということと、
臨済禅を日本に導入した臨済禅の各派の開山の禅の正統な修行は、正念の相続(非思量の相続)であるということです。
そして、「心生ずれば」の「心」の意味です。
大燈国師はここで「心生ずるとは一念の起る事なり。」と説明しております。
この説明はとても重要なことで、忘れてはならないことです。
禅門に於いて、「心」という文字が出てきたら、単に精神・心理という意味だけでなく、念(思い考え)という意味があることを知っていなくてはなりません。
文の前後で、どのような意味で用いられているのかを自分で判断できなくてはならないのです。
大燈国師は、貪瞋痴の三毒の処で、貪とは貪着の念なりと述べています。
「念」は禅門に於いては「心」と同じ意味ですから、貪着の心とも言い換えることもできるのです。
貪着の心とは、貪の欲望に執着する心ということで、貪りについての思い考えということです。
いわゆる一般的に佛教宗教者の用いる「貪りの心」というのは、曖昧模糊とし理解しているつもりになっているだけで、本当の処は分かっていないのです。
貪りの心理を形作っていくのは、貪りの思い考えです。
縁に触れた最初から貪りの心理が生じるわけではないのです。
瞋も同様です。痴も同様に最初からそのような心理が縁によって生じるわけではなく、瞋痴の思い考えが瞋痴の心理を形成していくのです。
そのことを明らかに示されていることも大きな意義があります。
大燈国師のこの文以外で貪瞋痴の心について詳しく間違うことのないように説かれている禅籍を私は知りません。
貪瞋痴の思い考えが貪瞋痴の心理を作っていくのです。
貪瞋痴という心理が精神の中にあるのではないのです。
この貪瞋痴の三毒はほとんどの宗教者は、貪瞋痴という心理であって、貪瞋痴の思い考えとは理解していないのです。
貪瞋痴の縁があっても、貪瞋痴の思い考えを一念、二念、三念と巡らせ膨らませていかなければ、貪瞋痴に基づく(を原因とする)迷い・苦悩は生じることはないということです。
自らが自らの心の中に、思い考えをもって貪瞋痴の三悪道を作るのだということです。
一念不生がいかに佛道修行の要であるかがはっきりしたと思います。
大燈国師は雲衲に示衆して
「只須く十二時中 無理会の処に向かって窮め来り究め去るべし。
光陰箭の如し。慎しんで雑用心すること勿かれ。」
と述べております。
ここでの「無理会の処に向かって」の「無理会」というのは、一念不生のことであり非思量のことであります。
この「無理会」は、公案禅には全く関係なく、公案の中で拈提するようなものではありません。
飯田とう隠老師はその著書の中で、この「無理会の処に向かって窮め来り究め去るべし。」を引用し、よく用いていました。
飯田とう隠老師はこれを公案拈提中の工夫の仕方の一環と捉えていたようです。
「無理会」を非思量そのもの、或いは一念不生そのものとは考えていなかったようです。
「無理会を窮める」ということは、冒頭の「時々起る念を捨つべし。」ということなのですが、そのことに気付いていなかったのです。
文字通りのことなのです。
「理会」というのは理論的に理解することですから、文字を必ず用いるのです。
禅の修行は頭の中で文字を用いることを否定しますから「無理会」と説いたのです。これだけのことです。
当然のことを極当たり前に言っただけのことです。
道元禅師が説かれた非思量、或いは一念不生と何ら違いはないのですが、そのことに気付くまでの器量に飯田とう隠老師は至っていなかったということです。
気付かなかったということは無理会も、非思量も、全く分かっていなかったということを意味しているのです。
無理会は窮めるべきものではなく、理会の入る隙間のない状態を忍耐をもって相続(維持)するといったところです。
無理会の状態を知ればよいのです。
無理会を知ったならば、後はひたすらその状態を相続すればよいのです。
無理会の状態は極めるのではなく相続していくだけでよいのです。
窮めると言うと、修行者に誤解を与えますので注意が必要です。
大燈国師は多分、無理会(正念)の相続は容易ではないために覚悟をもってやりなさいという意味で、肩に力の入った言い方をしたものと思います。
明治元年から150年、「非思量が最も重要である。」「一念不生が大切である。」と説かれた師家や老師方は一人もおりません。皆、只管打坐ばかりです。
飯田とう隠老師を含めて曹洞禅は只管打坐の一言が最も重要な修行の要諦と捉えたのでしょう。
ここに非思量は入っていないのです。残念なことです。
語録や法語を読んで、何処が最も重要な処なのかが分からなくてはなりません。
この見抜く目を養うのです。
文の中の何処を捨てて何処を拾うべきなのかの判断する目を養うことが修行に於いて大切なのです。
以上 「非思量 法語抜粋」と「大燈国師 非思量・三毒(貪瞋痴)・無理会 法語抜粋」の2回にわたる法語・語録の抜粋は、祖師方が禅の修行に於いて、何をすべきかを説いたものです。
法語や祖録を見ていますとここかしこに散見される言葉です。
以上の言い回しは様々ですが、共通することがあることに気付かなくてはなりません。
共通することに気付くことが禅の修行が正しく行われるか、間違った方向の修行になってしまうかの分かれ目なのです。
その共通する処に目をつける者は非思量の状態をもともと知っている者か、物事の原理・原則を明らかにしたいと常に考えている修行者です。
今日まで、このような修行者に私は出会った経験がありません。
禅の世界は表現や言葉に独特のものがあって理解し難いものですが、その中にあって言葉尻を捉えたり、表現の仕方に気を取られたりしていると、祖師方が何を伝えたいのかの真意を見失うことになります。
実際、そのようなお師家さんや老師ばかりですから、近代・現代のこの150年間に祖師方と同じように身心脱落した道人は一人も出なかったのです。
最初に掲げました文に共通することが禅の修行の要諦です。
その共通することは非思量・不思量・一念不生です。
大燈国師よく用いる無理会も同じことです。
この字義の通りの「非思量」「不思量」「一念不生」というのは無言のまま、頭の中で言葉という言葉、文字という文字を一切用いない、動かさな、思い浮かべないということです。
さらに、思量や念には想像することも含まれますから、森羅万象のあらゆる事、及び自己と他己に関わるあらゆる事、及びそれら像・色・形の動きを思い浮かべないということです。
以上の精神的行為を禅門では非思量・不思量・一念不生と言うのです。
このことに気付かなくてはなりません。
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2023.1.1
『無念と云ふは、佛祖内証(心の内面)の心性(の心理状態です)、
衆生、成佛(身心脱落)の一路(唯一の路・方法)なり。
佛祖(完璧に身心脱落した僧)は
一切の諸法(出来事・存在)において
一念(一思考)も生ぜず(生じない・動かさない)して
無念(思量の無い状態)なるが故に、
生死において自在を得たまへり
(死に直面しても一切の恐れなく、不安もない日常を得ている。
生死において自在ということは、あらゆることについて自由であり自在だということです。)。
衆生は一切の萬物において(に対して)、
念(思い考え)を生じ(起こし)、著の念(思い考えに執着する)あるがゆへに、
生死に流転して(生きること死ぬことに迷い苦悩して)、念に苦を得るなり(念によって苦を得るのです)。
六祖(慧能禅師)云く、
衆生成佛せんと思はば(人々が身心脱落・悟りを得ようと思い願うならば)、
先づ無念なるべし(一念不生・非思量でなければならない)。
無念なるが故に(一念不生・非思量の状態であるから)
成佛す(身心脱落する・悟る)と云へり(言えるのです)。
・・・・・・・・・・
無念の処をも(非思量の状態を)
心を以って無念と思はざれ(思い考えをもって無念と思ってはいけない)。
有念、無念を離れて(有念・無念の判断・認識・分別することを止めて)
一念不生なるを無念とす(一念も生じないことを無念と定義するのです)。』
この仮名法語の抜粋は短いものですが、修行の基本的なことがきちんと記されています。
重要な一文であり、これだけで禅の修行を正しく行うことができるのです。
この文の中に書かれていることは、無念の意味、一念不生の意味、悟りを開いている佛祖の心理状態、衆生の心理状態、衆生の悟る為の唯一の方法、佛祖の平常心と衆生の平常心の違いを端的に説いているのです。
この文中には、禅の修行でありながら坐禅という言葉は出てきません。
坐禅の姿勢についても一言も触れていません。
それは、身心脱落に至る為の修行に坐禅の姿勢は必ずしも必要がないからです。
非思量の相続と坐禅の姿勢には因果関係はないのです。
ここでは、佛祖と衆生の精神的立ち位置の違いを明らかにして示しているのです。
「衆生本来佛也」とよく説かれているのですが、そうは言っても悟りを開かれた佛祖と悟りを開かれていない衆生(一般の禅僧・師家・修行者・参禅者・一般人)とは、その日常の心理状態には大きな違いがあることを示しているのです。
本来、この文はうかつ読むことは許されないものです。
胆に銘じて何度も繰り返し読み、正しく理解して下さい。
このような文を身心脱落していない者が目にすることは滅多にないのです。
曹洞宗のどのお師家さんも取り上げることがないからです。
改めて全体を通して現代語に訳します。
無念、則ち頭脳の中に念(思考)のない状態というのは、身心脱落(悟る)した佛祖といわれる祖師方の心理状態(精神状態)であり、それは同時に衆生(僧俗含めて身心脱落していない人々、自我のある人々、自己のある人々)にとって身心脱落(悟る)する為の唯一の方法なのです。
完璧に身心脱落した佛陀や祖師方は一切の物事、諸事象、存在に対して、一つの思いも考え(思量)もを動かすことなく生起もしないのです。
つまり、頭脳の中に一切の思量が存在していない状態であり、人生の日常において、或いは死に直面しても、一切の迷いも不安の恐れも苦悩もなく、自由を得ることができるのです。
衆生(悟っていない僧俗の人々)は、あらゆる物事、諸事象、存在に対して、常に思い考えを動かし、思量に執着し、思量を離れることがない為に、生きること死ぬこと於いてに不安や恐れを抱き迷い苦悩する中を流転(さまよい)して、思量という人間の純粋な機能に生来のなかった苦が加わってしまうのです。
思量そのものには本来、苦悩はないものです。
この文ではそのことを言っているのです。
「念に苦を得る」というのは、「念に苦が加わる」という意味です。
その事は思い考えに執着する習慣・習い性によって自然になされてしまうのです。
いつそのようになってしまったのかは誰も知らないのです。
六祖慧能禅師が申しますには、衆生(身心脱落していない僧俗の人々)が身心脱落しようと思うならば、先づ頭の中に思いや考えの全く無い状態にならなくてはならない。
一切の思量が頭の中に存在しない、生起しな状態を維持するが故に身心脱落できるのだと言えるのです。
・・・・・・・・・・
無念の状態を、思い考え(言葉・言語)を用いて「無念である」と思ってはならない。
この「心を以って」の「心」は思い考えのことです。
無念である状態は念を用いて確認しなくても、自問自答しなくても、自ら言い聞かせなくても、人は言葉がなくても正しく自覚できるのです。
思量が一切無いと思い考えたり確認することはないのです。
それが、無分別の分別心の働きです。
頭の中に思量が有っても、思量が無くても、思量が有るとか無いとかの考え思いを止めて、一念も生じない精神状態でありさえすれば、その状態を無念というのです。
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2023.5.2
『「己れ」というものを見るから、道が得られない。
「己れ」を見なければ、道を得られる。
「己れ」とは「我」のことである。
聖人が苦に逢うて憂えず、楽に逢うて喜ばぬのは、その「己れ」というものを見ぬからである。
苦楽に陥らぬのは、「己れ」というものを忘れ去るからである。
・・・・・・「己れ」を(完全・永遠に)忘れることができれば、一切は本来 無 である。
「己れ」によってみだりに分別、はからいを生じ、それによって生老病死、憂悲、苦悩、寒熱風雨といった、あらゆる不如意の事がらを感じるのである。
これらはすべて妄想の現ずるなり。
もし、そうした虚妄(虚:なにもない。 妄:むやみ。)にして、無常なる所与の事 幻化の事象に逆らわざる者は、あらゆる物に無碍ならん。
若し能く変化に逆らわざる者は、触る事に悔いることはないであろう。』
この
『「己れ」というものを見るから、道が得られない。
「己れ」を見なければ、道を得られる。』
という前文は、
曹洞宗開祖道元禅師が著わされた「現成公案」の中の
「佛道をならうというは自己をならうなり、
自己をならうというは自己を忘るるなり、
自己を忘るるというのは万法に証せらるるなり、
万法に証せらるるというは自己の身心、及び他己の身心をして脱落せしむるなり。」
と同じことを述べているのです。
己を見ないというのは、自己を忘れること、自己を消滅せしめることを指します。
「自己をならうというは自己を忘るるなり」ということが、佛道修行に於いて最も大切なことなのです。
−解説−
『「己れ」というものを見るからというのは、自己を忘却(滅却)していないからという意味です。
己を見るのは、己が自分の精神の中に存在しているから、己を見ることとなるのです。
「己れ」を見なければ、道を得られる。
というのは、自己を忘却(滅却)していれば、それは身心が脱落しているのであり、即、道を得ているということです。
この身心というのは「己れ」のことです。身心の本性は己だからです。
身心脱落していれば、己を見ようとしても、己がどこにも存在していないのですから見ることはできません。
己を見るのは、精神の中に己が存在しているからです。
“己れを見なければ”というのは、己が精神の中に存在していなければ己を見ることはありませんので、斯く言うのです。
身心脱落していなければ、己を己の心の中に見ることとなり、身心脱落していれば、己を己の心の中に見ることはないのです。
意志をもって己を見たり、己を見なかったりすることはできないのです。
己が心の中に存在していれば、己を見ないことなどできないのであり、
己を見ることがなければ、それは身心脱落しているのであり、道を得ているのです。
「己れ」というのは「我」(自我・自己・意識)のことです。
我を張る、我が強い、という場合の“我”とは違いますので気を付けて下さい。
聖人というのは身心脱落している祖師のことです。
聖人の苦に会っても憂えず、楽に会っても喜ばざる所以(理由)は、己が脱落(消滅)していることによるのです。
聖人が苦楽しない理由は、自己を忘却(脱落)しているからなのです。
己を忘却(脱落)することができれば、苦楽は一切、無いのです。
己(自我・自己)によって分別はからいを生じ、それによって生老病死、憂悲、苦悩、寒熱風雨といったあらゆる事柄に不如意(思うようにならないこと)を感じるのです。そして、妄念・妄想が生じ、苦楽が生じることとなるのです。
感情には素のままの感情があり、苦楽を伴わない先天的に備わった感情の機能があります。
素のままの感情には喜怒哀楽はありますが、その感情は苦楽が伴わない感情なのです。
感情に苦楽を伴わせるのは己(自己・自我・我・自意識・意識等々)です。
己を用いれば用いるほど苦楽が強くなります。苦楽は己が作り出すのです。
己を用いれば用いるほどというのは、思慮分別を用いれば用いるほどという意味です。
聖人が苦に逢うても憂えず、楽に逢うても喜ばぬというのは、感情が無くなってしまう、機能しなくなる、というのではありません。
聖人の喜怒哀楽は苦楽が生じない素の感情だということです。
身心脱落すると感情の無い人間になる、悟った人というのは感情が動かない人間になるということではありません。
ここの処を多くの人は間違って理解しているのです。
苦楽と感情は別なのです。
現成公案の中で道元禅師は
「万法ともにわれにあらざる時節・・・・・・
まどひなく、さとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし、・・・・・・・・
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」
と述べておられます。
「万法ともにわれにあらざる時節」というのは、身心脱落している場合(時)ということです。
つまり、身心脱落しても喜怒哀楽の感情は常の如く変わりありませんと言っているのです。
華が散る時には愛惜の感情が生じ、雑草がおおってくると棄嫌の気持ちになりますと・・・・。
これは人として生まれもった本来の感情だからなのです。天賦のものなのです。
悟ったからと言っても感情が鈍麻したり無反応になるわけではありませんと述べ、一般の人の禅に対する先入観や誤解をといているのです。
ただ苦楽が伴わないということです。
あらゆる不如意の事柄はすべて己(自己・自我・我・自意識・意識等々)が妄想を生起させるのです。
この「妄想」というのは「みだらな、いやらしい考え」ではなく、「むやみに、やたらと」という意味であり、ここは「むやみに、やたらと想念(思い考え)を生起させる」とう意味になります。
もし、そうした空虚な妄想にして無常なる所与(与えられること、諸縁のこと)の事柄、幻化の事象、実体のない現象等を逆らわずに無条件に受け入れる者は、あらゆる事が妨げとなるようなことはない。何ものにもとらわれず自由自在である。
何ものにも阻害されることがなく、四苦八苦からも自由なのです。
もし、よく、変化に逆らわずに、素直に諸縁を受け入れ従う者は、あらゆる事に悔いることはないであろう。」』
以上に照応して達磨禅師は次のようにも述べられております。
「知者は所与の現実にしたがい、己れにはしたがわない。
さすれば、取捨の分別もなければ順境逆境の別も存在しない。
いっぽう愚者は己れにしたがって所与の現実に従がわない。
そのために、そこには取捨の分別があり、順境逆境の別が生ずる。
心を虚しくして、ゆったりと開放し天下を忘れ去ることができたなら外在の事物(森羅万象の存在)と時の流れに身を任せることができるだろう。
すべて身を任せ逆らうことがなければ、いかなる時と処においても、ありのままに逍遥自在でありえよう。」
−解説−
知者は、一般的な知恵学識のある者、悧巧な人ということではなく、解脱した人、身心脱落した人という意味です。
愚者というのは、一般の人、知恵学識のある人も無い人も、名利の価値観で生き名利の欲望を満たすことを至上の喜びとしている世俗の人のことです。
世俗の人は名利の価値観の人がほとんどです。本人は気付いていないのです。
これ以外の価値観の人は現代において極めて少ないのです。
心を虚しくしてという意味は、心に思うことも考えることもない状態のことです。
天下というのは、世俗の事ということです。
身を任せるというのは、自分の意志で身を任せるということではありません。
非思量の状態が必然的に身を任せる状態なのです。
非思量の状態でなければ、身を任せたイメージばかりで、本当に身を任せているわけではないのです。
自分が身を任せた分、身を任せていないことになるのです。
「知者は所与の現実にしたがい、己れにはしたがわない。」の「己れにはしたがわない」というのは、“己の思い考えに従わない”という意味です。
「所与の現実」というのは、諸々の縁ということです。
「取捨の分別」というのは、思い考えての取捨の分別・判断ということです。
所与の現実には、順境逆境の区別も存在しないのです。
順境逆境の区別は自然界・森羅万象に自然に必然にあるわけではなく、人の思い考えが作り出すものだからです。
「所与の現実にしたがい、己れにはしたがわない」状態というのは、非思量の状態です。
所与の現実に従がうべきだという己の思い考えに従がうことは、「己れにしたがわないこと」に反することになります。
己に従がわないことを実践するとすれば、非思量(一念不生)を相続するしか方法はないのです。
この知者は身心脱落をしている人のことを指しています。
身心脱落していなければ、「所与の現実(縁)にしたがい、己れにはしたがわない」ことは出来ないからです。
従うべき己がないから、己に従うことがないのです。
従うべき己がないから、取捨の分別をすることもなく、境に会って順境逆境の分別も心の中に存在しないのです。
人は分別の際には、必ず言葉を用いて思い考えを巡らします。
言葉を用いない分別はありません。
取捨の分別がないということは、四六時中、非思量の状態であるということです。
自己の有るままで取捨の分別がない、というのは有り得ないのです。
以上のことは身心脱落しているが故に出来ることです。
愚者というのは一般の人のことです。
知恵学識のある人も無い人も、地位の肩書のある人も無い人も、富んでいる人も富んでいない人も、名利の価値観で生きている人ことです。
名利というのは最も分かり易く言いますと、自己の虚栄心、自己の自尊心、自己の尊厳が大切であるとする価値観(思想・信条)です。
禅門の自己を忘却することに絶対の価値を置くこととは真逆のことです。
何故、他己の虚栄心、他己の自尊心、他己の尊厳という言葉が存在しないのでしょうか。それは自己中心だからです。人間の本質が利己性だからです。
道元禅師は「自己の身心及び他己の身心をして脱落せしむるなり」と自己だけのことに目を向けるのではなく、しっかりと他己の本質についても言及しているのです。
「心を虚しくして、ゆったりと開放して」というのは、心に思うこともなく心に考えることもない心の心理状態のことです。
自らの心を虚しくしたり、ゆったりと開放したりすることはできないのです。
自分の心でありながら、自分の心を自在に操作することはできないのです。
「天下を忘れ去ることができたなら」というのは、(天下というのは世間のこと、世事のこと。)
世事のことを忘れ去ることができるなら、外在の事物(自分の周りの様々な出来事や事柄)と、時の流れや変化に身を任せる(自分を任せる)ことができるだろう。
すべて身(自己)を任せ、抗し逆らうことがなければ、いかなる時も、いかなる処においても、いかなる状況においても、ありのままにそのままに、ぶらぶらと歩いて、自由自在であることが出来よう。
これは禅門の平常心のことです。
ここで、前述の道元禅師の正法眼蔵 現成公案の一部を取り上げます。
『諸法の佛法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸物あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
佛道もとより豊倹より跳出せるゆゑに生滅あり、迷悟あり、生佛あり、
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。』
−解説−
「諸法」は、森羅万象いわゆる心的現象・存在・変化、物的現象・存在・変化のすべてを指します。
「万法」も同じことです。
「時節」は、“時”ということです。
“諸法を佛法なり”と思量で捉えると、上記のようにすべて「あり、あり、あり、あり、あり、あり」なのです。
「万法ともわれにあらざる」というのは、万法はわれに存在しないということで、非思量の精神状態であるということです。
そうであれば、すべて「なく、なく、なく、なく、なく、なし」なのです。
「万法ともにわれにあらざる時節」というのは、万法に対する認識分別は存在しないので身心脱落した時ということを指しています。
「佛道はもとより(本来)豊倹より跳出せる」というのは、
「豊」は“有る”ことを意味し、「倹」は“無い”ことを意味しています。
「豊倹」は“有無”のことであり、“是非”のことです。
従来の「解釈の比較、相対の見方」の見方を意味しているわけではなく非思量を意味しているのです。
ですからここは、“仏道は有無・是非を超越しているけれども” と訳します。
「ゆゑに」は、“なのに” “にもかかわらず” “けれども”と訳します。
私の意訳ではありません。
このような意味がもともと「ゆゑに」の古語にはあるのです。
文脈からこの様に解釈するのが適切です。
“現実の世界には生と滅があり、迷と悟があり、衆生と佛があるのです”と訳します。
身心脱落した方が現実の世界を見た時に斯く有るということです。
「しかもかくのごとくなりといへども」は、「佛道はもとより豊倹より跳出せるゆゑに」に繋がるのです。
“人の感情として華は愛惜に散り、草は棄嫌に生えるのです”と訳します。
人の感情は悟っても悟っていなくても変わらないということを述べているのです。
人の感情は諸法の佛法なる時節の以前のことなのです。
父母未生以前のことなので、道元禅師はここで注意したのです。
諸法の佛法なる時節は、分別心の世界です。
万法ともにわれにあらざる時節は、無分別の分別心の世界のことを指しているのです。
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2023.6.2
渡来僧(1246年) 蘭渓道隆禅師は、来朝し博多の円覚寺に仮寓し、書を永平寺道元禅師に寄せている。
その後、京に入り、鎌倉に赴き寿福寺に止住する。
1203年頃、北条頼家の母政子が鎌倉 亀谷に寿福寺を建立し、栄西禅師を開山として招き住せしめた。
栄西禅師は建保3年7月5日 75才で寿福寺に於いて遷化(示寂)する。
その32年後、寛元4年(1246年)に中国の宋の禅僧 蘭渓道隆禅師が33才の若さで来朝し、北条時頼の帰依を受け、建長3年(1251年)に鎌倉の建長寺が落成した折、その開山に請せられた。
蘭渓道隆禅師は建長寺に住すること13年、その後、勅命により京都の建仁寺に移り、3年にしてまた鎌倉に戻り、弘安元年(1278年)7月24日、65才で遷化(示寂)せられた。
これ以降、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)、兀庵普寧、大休正念などの宋出身の僧や、元出身の僧 一山一寧を始め、多くの中国僧が来朝し、鎌倉に臨済禅を立ち上げ、鎌倉武士の間に布教し強化して浸透せしめていく。
これを鎌倉禅と称している。
蘭渓道隆禅師は臨済宗の正脈、松源派の禅を嗣いで、日本に伝えた。
蘭渓道隆禅師は、その語録から見ても分かるように、実に謹厳な人であり、鎌倉建長寺に住して間もなく、「坐禅論」を書いています。
それは坐禅の手引書として、坐禅がどういうものであるのか、初心者に懇切に説いたものです。
「坐禅論」は問答形式で書かれていますが、その問答の一つに次のようなことが説かれていますので、紹介致します。
『問うて曰く、
一切の善悪、都て思量すること勿れ云々、
善悪に付いて思量することなきを、尤も坐禅の用心となす、
小々大々の念と云ふは如何。
答へて曰く、
一切の善悪、都て思量すること莫れと云ふは、直截の語なり。
坐禅の時ばかり之れを用ふべきにあらず、
若し此の田地に到らば、行住坐臥皆禅なり。
必らずしも坐相を執せず、
祖師の云く、行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静、体安然と。・・・・・
小々の念といふは目前の境界に付いて俄に起る念なり。
大々の念といふは貪欲、瞋恚、愚痴、邪見、キョウ慢、嫉妬、名聞利養等の念なり。
坐禅の時、志し薄き人は小々の念を収むと雖も、此くの如きの悪念覚えず(自覚なく)して心中に在り。
是れを大々の念と名ずく。
此の悪念を棄捨するを直に根源を截ると名ずく。
直に根源を截るときんば、煩悩も菩提となり、愚痴も知恵となる。
・・・・・いかに況んや少々の念をや。
佛語に“若し能く物を転せば如来に同じ”といふは此の意なり。
但だ能く物を転ずべし。物に転ぜられること莫れ。』
−解説−
「善悪に付いて思量することなきを、尤も坐禅の用心となす。」
これは善悪に関する一切の事という意味ではなく、一切の思量を、「善悪を思量す」という言い方で象徴的に表しているのです。
善悪の思量だけを、次から次へと出てくる思量の中から峻別して、思量しないようにすることはできないことです。
善悪に拘らず、一切の思量を生ずる以前にとどまっているようにするのが非思量です。
あらゆる思量を善悪に分別して、善悪についてのことのみを止めよというのではありません。
人の頭脳がそのような器用なことなどできるはずはないのです。
父母未生以前の状態にとどまるのが不思善不思悪であり、非思量であり、坐禅の用心なのです。
「一切の善悪、都て思量すること莫れ」というのは、特別に深い意味があるわけではなく、そのことをズバリ述べた言葉です。
余計なうがった解釈をしないで、字義の通りにそのまま受け取るように意図して述べた言葉ということです。
坐禅の時ばかりにこの注意(一切の善悪をすべて思量することなかれ)を用い実践するべきではなく、行住坐臥一切にこの教えを用い実行しなければならないということです。
一切の善悪すべて思量することのない心境に到達すれば、坐禅の姿勢をとっている時ばかりではなく、行住坐臥すべてが禅の修行となるのです。
曹洞禅の「威儀即佛法、作法是れ宗旨」と同じことを言っているのです。
坐禅の姿勢(姿)に執着することのないようにしなければならないのです。
「若し此の田地に到らば、行住坐臥皆禅なり。」
というのは、日常の生活の中で、一切の善悪すべて思量しない境地(心境)に至ればということです。
田地は境地(心境)という意味です。
このことは祖師も述べております。
行動もまた禅の修行、坐禅もまた禅の修行であり、語るも黙するも、動くも静かにするのも、体安然、安らかそのものであって非思量なのです。
行住坐臥、皆、禅であるとして坐禅の坐相(姿勢)にだけ執着してはならないとし、禅の修行を静的なものだけとせずに動的なものとしても思量を斥けて、ただちに根源を截らなくてはならないとしているのです。
小々の念というのは、目の前の状況に対して、縁に応じて即、起きる思いのことです。
深く考えた末に起きる念ではないのです。罪の浅い念です。苦悩することのない念なのです。
大々の念というのは、貪欲、瞋恚(いかり)、愚痴、邪見、キョウ慢(おごり、偉ぶって人を見下す)、嫉妬(愛や栄誉や幸福などを得た人を妬み、うらやむ気持ち)、名聞利養に関わる思い考えを指します。
深く思量した末の念で、人を苦しめ悩ます念です。
三毒(貪瞋痴)と名聞利養(名誉・名声欲、利得・金銭・財欲のこと)に関する思い考えを大々の念というのです。執着心が強く出る念なのです。
坐禅の時、道を求める志が薄い人は、小々の念を収めることができると雖も、此くの如きの貪瞋痴の三毒の念と名聞利養を欲する念は自覚せずして心中にあるのです。
これを大々の念と名づけます。
此の悪念を断絶するのを直に思量の根源を截断すると名づけるのです。
直ちに即、思量の根源を截断した時は、煩悩が即、菩提(悟り)となり、愚痴も佛知となるのです。
この煩悩も思量の中にあり、愚痴も思量の中にあるのです。
思量を離れれば煩悩も愚痴もないのです。
思量、悪念の根源は言葉なのです。
「いかに況や少々の念をや。」
まして少々の念は菩提となり、佛知となるのです。
ここの処は理屈(理論的推論)では決して理解できることではなく、思量の根源を截断する、つまり非思量の状態となると煩悩即菩提となることが実感でき、愚痴が佛知となることが実体験できるのです。
非思量の相続を推論するのではなく実際にやってみることです。
禅の世界は常識で判断することができないことも多いので、実際にやってみて確かめるしかないのです。
佛語というのは佛教という宗教に於いて用いられる言葉ということです。
佛陀(シッダールタ)が述べた言葉ということではありません。
「物を転せば如来と同じ」というのは、物を転せば佛陀(ゴータマ・シッダールタ)と同じであるということです。
佛陀の心境と同じだという意味です。
「物を転せば」というのは、悪念を截断することを指します。
何をもって悪念を截断するのか。
それは、思量を転ずることによって截断するのです。
思量を転ずる工夫をどうするか、そこが修行なのです。
悪念を非思量に切り替えてしまうこと、それが物を転ずるということです。
悪念を善念に切り替え、楽しい有意義な念に切り替えることではありません。
非思量の状態を知っていれば、そこに転じてしまうのです。転換してしまうのです。切り替えてしまうのです。
ただよく思量を非思量に転ずべし。
思量から思量に転ぜられることなかれ。
輪廻転生は思量の世界のことです。
流転三界中も同じことです。
物を転じなければ、迷える衆生ということです。
また、蘭渓道隆禅師が鎌倉建長寺に於いて定めた修行道場に於ける諸規則(清規という)の中で、
「鞭影を見てして後に行くは即ち良馬に非ず、訓辞を待ってして志を発すは実に好僧に非ず。」と述べております。
この意味は騎手の振う鞭の影に反応して走って行くのでは良馬とは言えない。
騎手の鞭を振るう前に、騎手の意志に気付いて走るのが良馬です。
同じように、師家老師の訓辞を待って、それから修行の志(発心、菩提心)を発すようでは良い僧とは言えないと述べているのです。
自ら佛道修行の志を起こし大疑団を抱えなくてはならないとしているのです。
修行の動機付けが無常心に基づき、しっかりとしていなくてはならないということです。
名利が修行の動機であってはならないのです。
「参禅弁道は只だ此の生死大事を了ぜん為なり。
豈、沐浴放暇の日、便ち恣情と懶慢すべけんや」とも述べております。
禅の修行に参加し佛道修行を努めるのは、生死という一大事(大変な出来事)を解決する為なのです。
禅では「生死事大、無常迅速」とか「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」とか、よく説かれております。
生死の問題を解決することも、様々な不安神経症を解決することも、あらゆる強迫観念症を解決することも同じことです。
この中のどれか1つを解決すれば、生死の問題も、他のすべての問題も、連鎖的に自然に解決してしまうのです。
そこで苦悩の原因を1つ1つ列挙せずに誰もが理解し易い例として「生死」と述べているのです。
生死に全く問題意識が動かない人も調査によると4割ぐらいは居るのです。
誰もが死を恐れているわけではないのですが、ただ代表的苦悩の1つとして生死を取り上げているのです。
苦悩から解放されたいが為に死を選ぶ人はいくらでもいるのです。
死が最大の悩みになるばかりではないのです。
どうして、沐浴(入浴)し放暇の日(放参で暇を頂ける日、修行・行事の休みの日、四九日の日)にほしいまま情に任せて懶慢(怠る、なまける)すべけんやと言って、参禅弁道(修行)には休息のないことを説いています。
参禅弁道の公の休みの日と言っても、日常の行住坐臥にあって、入浴中も、剃髪中も、縫い中も、不思善不思悪ぐらいのことはできるのです。
一念不生で生活しなさいと説いているのですから、休息などあるはずがないのです。
以上 「坐禅論」「清規」の説明をしてまいりました。
蘭渓道隆禅師は正脈の臨済禅の系統なのですが、これらの文の中で、一切、公案について触れていないのです。
「臨済禅 即 公案禅」と考えることは間違いなのです。
鎌倉時代に日本に入ってきた禅は、そのほとんどが正念の相続、一念不生の相続、非思量の相続を坐禅の要諦としていたのです。
公案を用いないこれらの修行は、十牛の図の第八 人牛倶忘の段階に至るをもって悟りとし、それを身心脱落というのです。
今日の臨済禅の修行は公案を用いるばかりの修行です。
公案の修行の行き着く処は、十牛の図の第四の得牛がやっとなのです。
正念にやっと手が届くというところなのです。
これから本格的な佛道修行になるのです。先はまだまだ遠いのです。
公案禅は、得牛の心境を“悟り”とか“大悟”と呼びならわしているのです。
外部の者や未熟な修行者にとっては極めて紛らわしいことですから、“佛陀の悟り”とははっきりと区別すべきです。名称を変えるべきです。
曹洞宗開祖道元禅師の身心脱落(悟り)とは、はっきりと区別できる用語とすべきです。
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2023.7.1
(一)
松源一派に僧堂の規(矩)有り。
専ら坐禅することを要す。其の余 何をか云はん。
千古に之を廃すべからず。廃すれば、則ち、禅林何くにか在らん。
宜しく守行すべし。
説明
僧堂に規矩有り。
僧堂というのは専門に僧侶(宗教者)を育成する為の禅門の修行道場を指します。
それは専ら坐禅することを要すということだけである。
坐禅は不思善不思悪であり、坐禅の姿勢に執着してはならないのです。
ここで述べている「坐禅」というのは、いわゆる坐禅の姿勢を執って坐っていることを指すのではなく、頭脳の中は、善をも思わず悪をも思わず、非思量の状態を相続することを指しています。
非思量の精神状態を相続する以外には、坐禅の修行としてやるべきことはないのです。
禅の修行は身体に於いてなすのではなく精神に於いてなすのです。
ここの処を間違える師家や雲水(修行僧)がとても多いのです。昔も現代に於いてもそうなのです。
「坐禅」という言葉の定義をすれば、坐禅は字義に全く関係がなく、非思量・一念不生・不思善不思悪であることになります。
心(精神活動・頭脳活動)が非思量・一念不生・不思善不思悪の状態を坐禅というのです。この状態でなければ、いくら姿勢が正身端坐であっても坐禅を修しているとはいえないのです。
坐禅の不思善不思悪以外の事は何をか云はんやです。
千古にわたって此の規矩は廃止してはなりません。
この規矩を廃止してしまえば、禅林(叢林とも言い、禅僧の修行道場のこと。)は何くにか在らんということになってしまうのです。
この規矩を廃止してしまえば禅林はなくなってしまうのです。有名無実ということになってしまうのです。
是非とも守行(守り抜く)しなくてはなりません。
(二)
福山の各庵は済洞を論ぜず。
和合輔弼、佛祖の本宗を昧すこと莫れ。
説明
福山とは巨福山建長寺のこと。
山号は寺名に冠する称号で、中国では寺は山に建てられ、山の名を称することで寺の所在が明示され、どの寺か分かり便利なのです。
日常の何処何処の誰誰さんと言うのと同じで、場所を言うことでその人が誰であるか明らかになり、話しの行き違いがなくなるのです。
山号の○○山というのは、その寺のある地名や地域を明らかにする意味です。
そのための山号なのです。逆のことも成り立つのです。
山号と僧名を言えば、どの寺の誰かが明らかになるのです。
日本では平地にあっても中国の禅寺の慣習にならい必ず山号をつけることとなっているのです。
福山というのは巨福山建長寺のことで、巨福山というのは山号です。建長寺というのは寺号のことです。
福山の塔頭寺院・庵寺等は、臨済・曹洞両宗派を区別し、宗派の違いを論じてはなりません。
どちらも佛祖の本宗であることに違いはないのです。
どちらも(蘭渓道隆の臨済宗も、永平寺道元の曹洞宗も)
「一切の善悪すべて思量すること勿れ。非思量!」を坐禅の用心とし、坐禅の要術としているのです。
修行の本旨に違いがなければ、その目的である悟り(身心脱落)にも違いはないのです。
ですから・・・・臨済・曹洞両宗は和合して助け合い、佛祖の本宗を昧ますような本筋を離れた論争をしてはならないのです。
(和合輔弼:和合して助け合い、力になること)
(三)
参禅学道する者は四六文章に非ず、宜しく活祖意に参ずべし。
死話頭を念う莫れ。
説明
「四六文章に非ず・・・」というのは、四六文麗体という文体であって、それらで書かれた書籍、法語、語録等を覚え、研究することをもって、実修行をしているつもりになってはならない。
法語等をいくら研究し極めたところで修行にはならないのです。
是非とも祖師の真意である不思善不思悪を参究しなくてはなりません。
不思善不思悪が祖師の意図していることに間違いはないのです。
参ずる、参究するということは、具体的には一念不生・非思量を相続することを指しています。
法語等を研究して、それをもって、不思善不思悪を実行しているつもりになってはなりません。
それを初めて用いて修行していた祖師御本人はとうに亡くなっており、公案だけが一人歩きしているのです。
それらは知識を増やすだけで禅(佛道)の修行にはならないのです。
文字を離れて実修・実証することをもって修行というのです。
それを参ずるというのです。
「死話頭を念う莫れ」死話頭というのは、千七百則の公案のことです。
頭は禅独自の接尾語です。
公案は紙に書かれた古いもの故に、死んでしまっている話頭という意味で死話頭と言っているのです。
公案は祖師方の疑問です。
初めてその公案を用いて、その公案となっている疑問を解決すべく修行して悟りを開いたのです。その方々が祖師と言われる方々です。
その事に疑問を抱いて修行し悟りを開いた祖師は既に亡くなっております。
そして、疑問の言葉だけが公案という形で残されたのです。
言葉は血がかよっているいるわけではなく、単なる文字の羅列です。
よって、死話頭なのです。
言葉に言霊などというものはないのです。
現代に言うところの死語・廃語と同じことです。
公案というのは祖師方の修行の動機となった疑問(問題)なのです。
そして、疑問視する心を疑団というのです。疑いの塊り・しこりを疑団というです。
祖師方の出家の理由であり、疑団を抱く原因(動機)となった問題を、まるで縁のない修行者が自分の疑問とすることは大いに問題があります。
自分の問題でもない事柄に祖師方と同じように疑団を抱くのは、付け焼き刃的疑団です。
他者の疑問を自分の疑問とすることは無理があるのです。
当然、公案を解こうとする修行者の疑団はそれなりに弱いものとなります。
自分の出家の動機となった疑問を自分の公案とするのが正しい修行のあり方です。
出家、修行の動機となる人生の疑問をわざわざ他から借りてくるという修行方法をとること自体が師家の力量不足なのです。
使い古した祖師の疑問を、もともと自分の窮極の問題でもないものを、まるで縁のない修行者が自分の疑問とすることは大いに無理があるのです。
公案を用いるよりも、自分の疑問に基づいて非思量を相続しなさいと述べているのです。
禅の正念の相続は、祖師の法語・祖録と雖も、古則公案と雖も、それらを読み学び思索することは話さないのです。
禅の正修行は一念不生であり、非思量なのです。
一念不生・非思量を臨済禅では正念と称しています。
それぞれの内容は全く同じなのです。異なることはないのです。
(四)
「大法は非器に授くこと莫れ、吾宗の栄衰は此に在るなり」
説明
嗣法(授印可証明。一般社会でいうところの免許皆伝のこと。)は確かに身心脱落(悟り)していない者には授与してはならないと述べております。
近代・現代の日本の師家方の一部の者は、高名な老師達からいくつもの印可を受けており、それを刊行書籍や小冊子で披露している有り様です。
この行為は名利そのものですから、このような行為をする師家は非器なのです。
名利の行為は名利が未だ充分に残っていて、一般の人と精神的に何ら変わりはないのです。
名利は自己の中の自己(我・自我・意識)が生み出し好むものです。
自己が忘却されていない証しです。
自己が完全に脱落していない者に印可を授与することから、禅宗が衰退するのです。
胆に命じなければなりません。
中国の宋の時代に於いて、禅が栄えているように見えていても、そのような禅者が多かったものと見え、蘭渓道隆禅師は敢えて、注意をしているのです。
これは師家に対しての注意です。
以上が蘭渓道隆禅師の遺誡です。
蘭渓道隆禅師の頃の禅門は臨済・曹洞が主流であり、それらの修行は一念不生、或いは非思量の相続であって、違いはほとんどなかったのです。
臨済宗だからといって公案を修行の中心に据えて、参禅弁道を推し進めていたわけではないのです。
現代の多くの禅門の師家や禅僧は認識を改める必要があります。
公案禅即臨済禅、臨済禅即公案禅となったのは、白隠禅師からです。
白隠禅師が公案を用いる修行を強力に推し進め、今日に至っているのです。
公案禅の修行は小粒ではありますが、ある程度の力量をもった禅僧が確実に多く生まれる傾向があります。
ある程度の力量といっても十牛の図の第四段階の得牛のところまでです。
曹洞禅の身心脱落まではいけないのです。
身心脱落というのは十牛の図の第八の人牛倶に忘ずのことです。
格段の違いなのです。
曹洞禅の修行では、数は少ないが破格の力量を持った禅僧が時に生まれるという特徴があると言われています。
曹洞禅は素朴で伝統的な純粋禅なのです。
修行者本人の菩提心が修行の動機です。
実際の修行も本人の菩提心にそって行われていきます。
一人で最初から身心脱落まで、非思量の相続を頼りに無師独悟の修行となるので、修行者本人の発菩提心の維持と、それを支える忍耐力が重要になります。
禅の修行というのは、公案禅が出てくるまでは、それまでの修行の指導は、祖師方の力量と個性に任されて統一されたものはなかったのです。
その祖師が遷化されて(亡くなって)しまうと、修行の指導方法も一緒に無くなってしまうのです。
つまり、修行指導技術が祖師が亡くなると一緒に消滅してしまうのです。
そこで祖師方の修行指導技術の確保と伝承ということで、公案が体系付けられ修行の指導技術が確立し、後継伝承されるようになったようです。
これによって禅の修行のある程度のレベルの確保が可能となったのです。
公案禅は宗派内の修行指導のレベルの維持と指導者の育成が目的だったようです。
禅の指導技術が公案禅として体系付けられることによって、宗派内の老師或いは師家と呼ばれる修行指導僧の養成と一定人数の師家の確保が約束されたのです。
取り敢えず、日本では、江戸時代中期にかかる前に駿河の白隠禅師が公案禅を体系付けて修行の中で盛んに用いられるようになりました。
この先に、このまま順調にやっていけば必ず悟りに至るという期待心によりかかった修行なのです。
公案だけでは身心脱落に至ることはないのです。
公案を離れ、正念を相続することによって初めて禅の修行は完成されるのです。
現在の残っている臨済宗十二の各派はすべて白隠禅師の系列(法系)です。
他の系列(法系)は絶えてしまったということらしいのです。
一念不生・非思量の相続があまりに難しかったからです。忍耐力が充分に育たなかったのです。
公案禅によって、初心者の修行僧の修行もマニュアル化され、段階を追って進展することが自覚できるようになりました。
常に自分の修行がどの位置にあるのか確認できるのでやり易くなっているのです。
忍耐力が多少弱くとも修行が続けられるようになったのです。
公案禅は、従来の伝統禅の指導のマニュアル化であり、修行者の修行のマニュアル化です。
効率よく、ある程度の修行のレベルの維持が可能となった功績は大きいのです。
しかし、公案禅によってマニュアル化された修行では、修行僧の教育の一環としての修行ですから、公案が全て透過終了したところで正念の相続の入口にたどり着くのがやっとのことです。
十牛の図の第四の得牛の段階に入った処です。
ここから本当の禅の修行が始まるのです。
本当の正念の禅の修行、身心脱落に至る非思量の相続(聖胎長養と呼ばれ悟後の修行と公案禅では言われています)が始まるのです。
臨済禅では、公案が全て透過されることをもって「悟り」「大悟」としているので矛盾した表現となっています。
曹洞禅からみますと、まだ悟っていないのです。つまり、佛陀の悟りである身心脱落をしていないのです。
佛陀の悟りに至っていないのですから、悟後の修行はまやかしということとなります。
悟後の修行と呼ぶのはやめるべきということになります。紛らわしいのです。
公案禅は行き着いたところで、十牛の図の第四の得牛までです。
第八の「人牛倶に忘る(人牛倶忘)」までは、公案を手放しにしなくては至ることのできない心境なのです。
悟るために公案を用い正念を体得すると、その先は悟るために公案を捨てなくてはならないのです。
公案で身に付いてしまった思量する癖を取り去ることは容易ではありません。
公案工夫の癖が抜けないのです。
禅の修行はあらゆる欲望の苦から解放される為に、悟ることを強烈に欲望しなくてはならないのです。
それが禅の矛盾した修行なのです。
得牛に至れば、ここからは正念の相続の修行となるのです。
これは一念不生のことであり、曹洞禅の非思量の相続のことです。
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2023.10.1
至道無難禅師は愚堂東寔禅師の印可を受け、至道無難禅師は道境恵端禅師に印可を授与し、その印可を白隠彗鶴禅師へと現在の臨済宗の師家のそのほとんどがこの系譜です。
「即心記」「自性記」の抜粋をここに記載し、説明してまいります。
その内容は修行に関することのみで、宗教的処世訓や人生の指針となるような信仰についてのものは取り上げておりません。
次に紹介し、説明を付してまいります。
(1)
教えは大きに誤る。それを習うは尚誤る。
只、直に見、直に聞け。
直に見るは見る者なし。直に聞くは聞く者なし。
−説明−
佛道の教えは、佛道成就の立場から見ると大いに誤らせることとなります。
佛道の教えを学ぶと更に誤ることとなるのです。
佛道を成就したいと望み、佛道の教えを体得しようと学び極めても、佛道成就の願いは叶うことはないのです。
佛道を体得したければ、ただ直に物を見、直に音を聞くことです。
佛道は言葉をもって知ることはできません。
「直に物を見る、直に音を聞く」というのは、言葉の生じない精神状態で、見、聞きすることを言います。
盤珪禅師の不生の佛心ということです。
これは、一念不生の佛心で物を見、音を聞くことを指しているのです。
曹洞宗の表現ならば、非思量の精神状態ということになります。
直に物を見る時は、見る自己が心の中に存在していません。
直に音を聞く時は、音を聞く自己が心の中に存在していないのです。
この様子を禅門に於いては、無分別の分別と言います。
自分が見、自分が聞いているのではないのです。
見ている主体、聞いている主体がないのです。
このことは非思量の状態で自己の心の中を観察すると納得できます。
「直に」というのは直截ということです。
直截というのは、思量を一片たりとも動かさない、用いないということを指します。言葉を介在させないということです。
(2)
悟りは念を滅却するを云ふ。
念をもって身となす。
悟れば生きながら身なし。
−説明−
悟りというのは、一切の念(思い・考え・思量)をあらゆる場合に於いて滅却した心理状態を言います。
「念をもって身となす」と説いていますが、この場合の「念」は我(自我・意識・自意識・自己)のことを指しております。
私達が日常実感している身体は、我(自我・意識・自意識・自己)が作り出したものです。
実際の生身の肉体を、私達は自分の身体として実感していないのです。
私達が自分の身体と思っているのは、我(自我・意識・自意識・自己)が作り出した身体なのです。
悟れば、我(自我・意識・自意識・自己)が脱落し消滅してしまいますから、我の消滅と同時に、我によって作られた身も消滅してしまうのです。
悟ると架空の身心が消滅してしまいますが、生身の肉体が消滅するわけではなく、生身の肉体はそのままです。
我(自我・意識・自意識・自己)が作り出した、我によって構成された精神上の架空の身体は身心脱落(悟り)によって消滅してしまうのです。
よって「生きながら身なし」と摩訶不思議な表現になってしまうのです。
悟りでは「生きながら身が無い」というのは重要なことなのです。
(3)
殺せ、殺せ、我が身を殺し果て、何も無き時、人の師となれ。
−説明−
この「殺せ」というのは、私達が「我が身」と考えているその身を、自分の心の中から消滅させなさいという意味の「殺せ」です。
「我が身」は実際に存在しているわけではなく、精神上に生きている架空の身です。
「何も無き時」というのは、心の中から身と自己が消滅してしまった時ということで、これは悟った時ということです。
悟って初めて、人を導き人の迷いを解く師となることができるということを述べているのです。
我が身を殺し切っていなければ、我が身を殺すことに精進しなくてはならないと説いているのです。
我が身を殺し切らずに人の師となること勿れということを言っているのです。
(4)
常に何も思わぬは佛のけい古なり。
−説明−
常に何時いかなる時も、何も思はないでいることは佛様に成る稽古だと言っています。
禅の修行は佛陀(シッダールタ)と同じ心境になることですから、佛になる稽古だと言ったのです。
見方によってはその通りです。
「何も思はぬ」というのは、一念不生であり非思量ということですから、禅の修行の要諦です。
易しく表現しているので難しい禅の修行が身近に感じます。
至道無難禅師は、「即心記」にしても「自性記」にしても、全体として庶民のための禅という考えです。
庶民信仰という展開を推し進めるために、禅を平易に身近に説いているのです。
ここの処は盤珪禅師と同じ立ち場です。
(5)
何も思わぬ物から何もかもするがよい。
−説明−
「何も思わぬ物から」というのは、非思量の精神状態ということです。
盤珪禅師の不生の佛心ということです。
一念不生で何もかもするのが、迷いや苦悩から離れる道であると説いています。
無分別の分別心で何でもかんでもするのが間違いのないことであり、それは悟り(身心脱落)に至る道でもあります。
(6)
身をなくすなり。
身に八万四千の悪あり。身なければ大安楽なり。
直に神なり直に天なり。
−説明−
禅の修行は身をなくすことが第一義です。
「身をなくす」というのは、自己(我・自我・意識・自意識)の消滅によって達成されるのです。
この場合の「身」というのは、自己(我・自我・意識・自意識)のことを指しています。
身心脱落の身心ということです。
身を消滅せしめ、自己を消滅せしめることが、身心脱落であり、悟りを開いたということです。
「身に八万四千の悪あり」というのは、自己は八万四千の煩悩を生み出すということです。
八万四千の煩悩は、八万四千の悪なのです。
我々の自我(我・意識・自意識・自己)は、八万四千の思量を生み出します。
思量を生み出した分、悪を生み出し、煩悩を生み出すのです。
八万四千の思量は、八万四千の迷い・悩みを生み出します。
迷いや煩悩や悪は。思量から生み出された故に、斯く言うのです。
「身がなければ」、それは悟りの証しであり、大安楽の心境なのです。
「身がなければ」、そのまま神であり、そのまま天なのです。
(7)
或る人、迷の元を問う。
善し悪しを知るが元なり。
−説明−
人の迷い悩みの原因を尋ねたのです。
善し悪しを知ることが原因だと至道無難禅師は説きます。
物事の善し悪しを知ることがなければ迷い悩むことは無い、と答えています。
善し悪しを知るのは、人の思量によるのです。
人は思量によって物事の善し悪しを判断するのですが、人の物事の善し悪しの判断は往々にしてして利己的な判断であり、客観性のない判断です。正しいかどうかは分からないのです。
ここの処は、盤珪禅師が不生の佛心・一念不生を説く理由です。
善を思わなければ善を知って悩むことはなく、悪を思わなければ悪を知って迷うことはないのです。
私達は善し悪しを知っても知らなくても同じように生きているのです。
それは無分別の分別心があるからです。
無分別の分別は、人が善し悪しを知る以前に正しく判断をしているのです。
(8)
或る人、問ふ。
悟りは如何が人に示すや。
予云く。
眼を開かざれば万物は見えず。
悟らざれば佛性現われない。
−説明−
或る人が問います。
悟りをどのように人に示しますか、説明しますかと。
私は言う。
眼を開かなければ万物を見ることはできません。
それと同様に、
悟らなければ、自分の佛の本性は現われないのです。
自分に内在する佛の本性を知ることはできないのです。
悟れば、自分に内在する佛の本性が露われ、理解(納得)することができます。
悟るということはそういうことです。
内在する佛性が自ら顕現しない限り、悟りとはどういうことか、人は知ることはできません。
(9)
主なくて見聞覚知する人を生き佛とはこれを言うなり。
−説明−
「主なくて」というのは、身心脱落すると自己が消滅してしまいます。そのことを指しています。
悟ると自己の心の中から自分が滅却してしまい、主体がなくなってしまいます。
自己という主体のないまま、無分別の分別心によって見聞覚知をするのです。
自己がないということに何の影響も受けずに見聞覚知できるのです。
「主なくて見聞覚知する」ということは、悟ったということです。
悟った人は佛陀(シッダールタ)と同じように自己のない見聞覚知をするのです。
当然、生き佛ということになります。
(10)
身も消えて心も消えて渡る世は、剣の上もさわらざりけり。疑いなし。
−説明−
「身も消えて心も消えて」というのは身心脱落(消滅)してということです。
悟りを開いたということです。
身心脱落して世の中を渡ると、迷いや苦悩の娑婆ではあるけれども、心に障ることが一つもないと述べているのです。
安楽に日を送れることに疑いはないのです。
(11)
悟り、修行して、身もなく、念もなく、知る者も、知らぬ者もなくなるべし。
これ即ち悟りを元とせざればならぬ事なり。
本来、心、空にいたるべし。
−説明−
修行して悟れば、身もなく、念もなく、知る者も、知らぬ者も無くなるのです。
これらのことは悟りが元となっているのです。
悟りの心境を元としなければあるはずのない事です。
この「身」は自己(自我・意識)が作った精神上の架空の身です。
生身の肉体の身ではありませんので注意が必要です。
この「念」は単なる思量という意味だけではなく、至道無難禅師は“自己”の意味として用いています。
念を“思量と自己に”分化しないで用いているのです。一般の人がそうだからです。
欧米でも思量を自己としていますので同じ見方です。
ここは少し注意が必要な処です。
念を、道元禅師の身心脱落の心の意味に用いているのです。
悟った後、自然に生じる思い考えが無くなるのは、悟る前に何十年もの間、ずーと非思量の生活をしてきた習い性です。
また、悟後の修行として非思量を死ぬまで相続するからです。
修行を深めていくための悟後の修行なのです。人格を極まりなく深めていくためなのです。
「知る者も、知らぬ者もなくなる」というのは、身心脱落して心の中の自己が消滅してしまうからです。
無分別の分別心によって、何事も知ることはできますから問題はないのですが、知るための自己が存在しなくなるのです。
人は五官によって様々な外部入力情報を感知しますが、そこには自己が介在する必要はないのです。
五官(眼・耳・鼻・舌・身)の機能は、自己と無関係に作用し機能するのです。
このことは非思量の相続をしていくと自然に理解できるようになってきます。
無分別の分別の作用も分かってまいります。
「本来、心は空にいたるべし」というのは、「本来、心に自己は無い」ということです。
「本来」というのは、「身心脱落すれば」ということです。
自己が無い故に、それを「空」とか「無」とか、一切思量の及ばない言葉で表現するのです。
「空」も「無」も、森羅万象の中に事実として存在してはいないのです。
言葉の中に存在し、思いの中に存在するのです。
「本来」を知っている人は、間違いなく非思量の相続をし、身心脱落している人のみです。
身心脱落していなければ、誰にも「本来」は見えないのです。
「本来」という言葉を用いることが許される師家や老師は、近代・現代に亘って何人いるのでしょうか?
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2025.2.2
大珠慧海
中国唐代(西暦800年前後)
禅匠場祖道一の法嗣(印可授与の弟子)
著者自ら筆をとって撰述したもので、語録ではなく法語集である。
上巻「頓悟入道要門論」が本来の姿のもの。
古い禅書。形式が実に古いという特徴がある。素朴である。
語録というのは、本人が著したものではなく、口述を第三者が筆録した禅籍をいう。
「頓悟とは何か」
問い「何の法を修せんとせば、即ち解脱を得るや。」
答え「唯頓悟の一門のみ有りて即ち解脱を得。」
問い「云何が頓悟と為す。」
答え「頓とは頓に妄念を除き、悟とは無所得を悟るなり。」
問い「何れより修するや。」
答え「根本より修す。」
問い「云何が根本より修す。」
答え「心を根本と為す。」
問い「云何が心を根本と為すと知るや。」
答え
『楞伽経』に云く
「心生ずれば、即ち種種の法生じ、心滅すれば、即ち種種の法滅すと。」
『維摩経』に云く
「浄土を得んと欲せば、当に其の心を浄くすべし。
其の心の浄きに随って即ち佛土浄しと。」
『遺教経』に云く
「但心を一処に制すれば事として辯ぜずということ無しと。」
『経』に云く
「聖人は心を求めて佛を求めず、愚人は佛を求めて心を求めず。
智人は心を調へて身を調へず、愚人は身を調へて心を調へずと。」
『佛名経』に云く
「罪は心より生じ、還心より滅すと。
故に知る、善悪一切皆、自らの心に
所以に心を根本と為す。
若し解脱を求めんとせば、先ず、須く根本を識るべし。
若し此の理に達せずんば、虚しく功労を費やさん。
外に於いて相求めんこと、是なる処、有ること無し。」
『禅門経』に云く
「外に於いて相求むれば劫数を経と雖も、終に成すこと能わず。
内に於いて覚観せば、一念の如き頃に、即ち菩提を証すと。」
以下で説明していきます。
問い
「どのような佛法を修行すれば解脱(悟り)を得られるでしょうか。」
答え
「ただ頓悟という法門が有って、その法門が解脱を得る唯一のものである。
問い
「それでは頓悟とはどういうことですか。」
答え
「頓とは頓に妄念を除き、悟とは無所得を悟るなり。」
頓というのは、「たちまちに」「急に」「即」という意味です。
「徐々に」「段階を経て」「漸次に(だんだん、しだいに)」修行を修め、妄念を除いて進めていくということではないのです。
「妄念」というのは、念の分類の仕方で雑念といっても、同じものです。
妄念というのは全ての念ということです。
有っても良いという念はありません。
善念も悪念も、快の念も、不快の念も、利己的な念も、利他的な念も、初念も、次念も、前念も後念も全ての念ということです。
正しい念というものはないのです。
念はどのような念であっても、佛道の修行にとって妨げとなるのです。
「頓に妄念を除き」ということは、どのようにするのかということが重要なのです。
これは出てくる妄念を、出てくる最中に除くのではなく、妄念の出てくる前の非思量(一念不生)の状態を知って、その状態に目を付けるのです。
その非思量(一念不生)の状態が分かったなら、その状態を維持するのです。
非思量(一念不生)というのはどういう状態かと言うと、
頭脳(精神)の中に、一切の言葉・言語・数学・念佛・呪文・一音語 [例えば、ムー(無!)とか、単(ただ)、唯(ただ)というのも人の作った一音語の言葉です。]
これらが頭の中・精神の中に存在しないということです。
妄念と妄念、雑念と雑念、妄念と雑念の間の継ぎ目が一瞬、非思量(一念不生)の状態なのです。
その処を観察して下さい。
ここで注意をしておきますが、一瞬の非思量(一念不生)の状態にあっても自己は存在しているのです。
この自己は身心脱落するまで残っているのです。
自意識(意識・自我)は即、消滅することはありませんが、それは気にせずに、あって当たり前として非思量(一念不生)であることが修行なのです。
「悟とは無所得を悟るなり。」
悟とは悟るものは何も無いと自覚(覚知)することです。
佛門に於いては、得られる悟りは何も無いと悟ることをもって、「得た」というのです。
悟りは曹洞禅に於いては身心脱落と言い、身心脱落という大いなる心境の変化があることは確かです。
問い
「では何から修行すればいいのでしょうか。」
答え
「根本から修行しなさい。」
問い
「どのようにして根本から修行するのですか。」
答え
「心が根本です」
問い
「どのようにして根本から修行とするのですか。」
「どのようにして心が根本であるということが分かりますか。」
答え
『楞伽経』に云く
「心生ずれば、即ち種種の法生じ、心滅すれば即ち種種の法滅すと。」
ここの「心生ずれば」の「心」をどの様に解釈するかが重要なのですが、そのことに気付いている師家方は少ないのです。
「心」は「心」のままとして解釈することなく、説明することなく、スルー(透過)してしまっているのです。
「心」は、言われなくても、説明できなくても、お互いになんとなく分かっているとしているのです。
曖昧なのです。
しかし、この心は何を指しているか明らかにしなければ、正しい禅門の修行は出来るはずはないのです。
「心生ずれば、」に続く文から判断して、この場合の「心」は「人の思い考え」を指します。「思量」です。
非思量であれば、種種の法は存在しないからです。
非思量の状態にあって、自らの精神内を観察すれば、あらゆる法は生じないのです。存在しないのです。
心生じた状態から、心が滅すると、種種の法が滅するということになるのです。
この因果関係は明らかなのです。
次に、思い考えが消滅してしまえば、或いは精神内(頭脳内)に言葉が存在しなければ、種種の法は消滅し存在しないのです。
自分で自分の頭の中を観察することが修行に於いては大切なことです。
ここで言う処の「法」というのは、人の教え・佛法・法則・真理・真実・理法・社会的秩序制度・行為の規範・風習・理法としての縁起・事物・存在しているもの・存在していること・実体・具体的個別的存在・もののありのままの姿・森羅万象の全体と個別的存在・心のあらゆる思い・心が対象としてとらえるもの等々です。
人が思量想像する過去・現在・将来のあらゆるもの・ことです。
人間が作り出すあらゆる言葉(言語)、想像するあらゆる色・形が、法と言われるものであり事なのです。
法といっても、佛法に限定したものではなく、人の脳・精神の営みにより生まれる全てのことを指します。
法といっても特別な限定されたものではありません。
或るお師家さんは、全ては法であり、法でないものはないと説いていますが、この表現は法を佛法として特別視してしまいますので慎んだほうが宜しいです。
このお師家さんの述べる法は佛法という含みのある法ですから、誤解を生むようになるのです。
あらゆる物事を佛法に適った存在・事象と見立てているので、人を憎み殺すことまで戦争をすることまで、佛法としてしまうのです。
これは間違いです。
非思量に於いて、人を憎み殺し、戦争をすることはありません。
非思量に於いて、戒法は必然的に護持されるのです。
『維摩経』に云く
「浄土を得んと欲せば、当に其の心を浄くすべし。
其の心の浄きに随って即ち佛土浄しと。」
「浄土を得んと欲せば」ということは、「悟りを得んと欲せば」ということです。
悟りを得たければということです。
浄土は悟った世界のことを指します。
「其の心を浄くすべし」というのは、無染の心のこと、不染の心のことです。
けがれのないことです。
その汚れは煩悩のことであり、煩悩にけがされない心を浄い心としているのです。
煩悩というのは思量のことで、心を浄くすべしというのは非思量であれということです。
(不染・無染・無染汚:けがれのないこと。煩悩にけがされないこと。)
ここに「心を浄くすべし」と出てきますが、これは佛教の不染(無染・無染汚)のことです。
煩悩・妄念にけがされていない心のことです。
実際には、煩悩・妄念に心が染まりけがされることはないのですが、煩悩・妄念が心の中に有ることを汚されると言い表しているだけのことです。
煩悩・妄念を即、消滅せしむれば汚れは即、消滅するのです。
煩悩・妄念が心に染み着くことは無いのです。
心が浄きに随って佛土は浄土なのです。
『遣教経』に云く
「但心を一処に制すれば」というのは妄念を除くことを指すのです。
心を妄念を除くという一事に統一制御(相続すること)すれば、
「事として辯ぜずということ無し」は、事として明らかにならないことはないということです。
悟りは成就するということです。
『或る経』に云く
「聖人は心を求めて佛を求めず。愚人は佛を求めて心を求めず。
智人は心を調へて身を調へず、愚人は身を調へて心を調へずと。」
聖人は心に修行することを求め、佛に成ること、作佛を図ることを求めないのです。
愚人は佛に成ることを求め、作佛を図ることを求め、心に修行することを求めないのです。
作佛を図るというのは、悟って佛に成ることを希望し想像し努力すること。
「愚人は心を求めず」というのは、頓に妄念を除くことを求めないということです。
「智人は心を調へて身を調へず」というのは、正しく智恵を用いている人は心から妄念を除くことができるように調へるのです。
妄念を除くということは、非思量を相続するということです。
「身を調へず」というのは、身体や身のこなし、作法や肉体的修行は行わないということです。
「愚人は身を調へて心を調へず」というのは、愚人は、身体的修行の姿を整へたり、肉体的難行・苦行を行なって、心の中の妄念を除く修行はしないということです。
妄念を除く修行は一念不生(非思量)のことです。
心を非思量の状態に調へないのです。
身体に於いて身体の修行をするのです。
いわゆる心の修行をしないで、身体を鍛える修行をするのです。
身体を鍛えれば、精神も必然的に鍛えられると考えているのです。
『佛名経』に云く
「罪は心より生じ、還心より滅すと。」
罪は思量を起こすことによって、一心より生じ、罪の思い考えを停めることによって罪は一心より消滅してしまうのです。
「故に知る、善悪一切皆、自らの心に由ることを」
故に知ります。
善悪、その他一切の苦楽は皆、自分の心から生じ、心から滅することを。
罪というのは、人の思い考えの中に生じ、他に有るのではないことを知るのです。
「所以に心を根本と為す。」と言うのです。
「三界唯一心・心外無別法」ということを言っているのです。
「若し解脱を求めんとせば、先ず、須く根本を識るべし。」
修行の根本は心だということです。心は思量のことを指しているのです。
思い考えをどうするのか、それが修行の根本なのです。
「若し此の理に達せずんば、虚しく功労を費やさん。」
若しこの理(因果関係・道理)が理解できなければ虚しく功労を費やすこととなります。
「外に於いて相求めんこと、是なる処、有ること無し。」
外に向かって求めるというのは誤りである。
『禅門経』に云く
「外に於いて相求むれば劫数を経と雖も、終に成すこと能わず。
内に於いて覚観せば、一念の如き頃に、即ち菩提を証すと。」
外に向かって求めると何億年たっても結局は佛道を成ずることはできない。
解脱することはできない。
心の内に向かって、非思量の状態を覚知し、雑用心せずに観て相続していけば、一念の生ずる如きの一瞬の間に菩提を証す。
「菩提を証す」とは、身心脱落するということ。解脱をするということ。
頓悟とは、一足飛びに究極の悟りに至ることを言い、漸漸に順序次第を経て悟りに進むのを漸悟と言う。
曹洞禅の修行に於いて、妄念は漸次に消滅する、或いは消滅せしめるのではなく、頓に消滅する、或いは消滅せしめるのです。
実際に妄念や雑念や一念が消滅する様子を観察してみるとよく分かります。
妄念が心の中に充満していて、それを徐々に減らしていくのが禅の非思量の修行と思っている人がほとんどです。
妄念は常に充満して有るわけではなく、
有る時は、妄念も雑念も充満して有るのです。無い時は全く無いのです。
妄念も雑念も、そのどちらかなのです、
非思量(一念不生)は、頭の中の思量の有る時と思量の無い時を比較して、頓に非思量(一念不生)の状態を選択するだけのことなのです。
この非思量の状態を頓(たちまち)に選択し、それを頓(いきなり)に相続するのが修行なのです。
妄念・雑念を漸漸に消滅せしめていくのではないのです。
頓に非思量の状態を選択することをもって、「頓」と言い、頓に非思量の状態を選択して身心脱落(解脱)に至ることを「頓悟」というのです。
いきなり、何かの縁で悟るわけではないのです。
非思量の相続をして、次第に非思量ばかりの日常となって、縁に従って身心脱落するのです。
非思量ばかりの日常にならなくてはならないのです。
この道理に基づく禅の修行を「頓悟禅」というのです。
頓悟の意味を理解していない師家方や老師方ばかりです。
その理由は禅の書籍を頭で理解し、理屈で整合性をとるからです。
理と理と継ぎ足していくと、そのような間違いを犯すこととなるのです。
禅の修行は理から入らずに、先ず、非思量を教えてもらい、非思量を相続することから入らなくてはなりません。
非思量という三文字、一念不生という四文字の中に、八万四千の法門の全てが蔵されているのです。
坐禅を組むだけで、それ以外に何もせずに、老師から禅の真髄を聞いて、頓に悟るということはありません。
悟るには非思量の相続という手順を抜きにしてはあり得ないのです。
ある時、何かのきっかけで、急に悟ってしまったということはありませんから、そのような逸話は信じてはなりません。
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2025.3.15
問い
「云何なるか是れ佛の真身を見るなる。」
佛の真の身を見るとはどういうことですか。
答え
「有無を見ざる、即ち是れ佛の真身を見るなり。」
有無を見ないことが佛の真の姿を見ることである。
有無を見ないというのは、有無についての考えを生じさせない。用いないということ。
問い
「云何が、有無を見ざる、即ち是れ佛の真身を見るなる。」
どうして有無を見ないことが、佛の真身を見ることになるのでしょうか。
有無の見解を持たないことが、 〃
答え
「有は無に因って立ち、無は有に因って顕わる。
本と有を立てざれば、無も亦た存せず。
既に無を存せずんば、有は何れよりか得ん。
有と無とは相因って始めて有り。
既に相因って有らば、悉く是れ生滅なり。
但だ此の二見を離る、即ち是れ佛の真身を見るなり。」
(ここは理論的に分析してみせたのです。)
(因:による、もとずく、よって、ちなんで)
有は無を前提として成り立ち、無は有に基づいて顕れるのです。
本来、有を立てなければ無もまた存在しないのです。
現に無を前提として存しなければ、有は何れより得ることができようか。有は無から得ることができると言えるが、その無が存しない。
得ることは不可なのです。
有と無とは相因って初めて概念として存在するのです。理論的にのみ成り立つのです。
現に有と無とは相互に相因って有るならば、この有無は悉く相因って生じ、相因って滅する存在でしかない。
つまり概念だということなのです。
ただ、単に此の有見と無見という二見の物の見方を離れると、即、そのまま佛の真の姿を見ることとなるのです。
有見というのは有るという見解のこと。
有るという一念のことです。概念のことです。
概念は言葉を用いることによって生じ、言葉を用いることを停めることによって滅するのです。
無見も有見と同様です。
但し、これは物事を比較して見るという限定したことではなく、思量すべてを指していることに気が付かなくてはなりません。
即ち、思量で表される概念を離れると佛と言われることの真の姿を見ることができるのです。
‐解説‐
有も思想であり、無も思想なのです。
有無は思想であるから、人の概念の中のみに存在し、森羅万象には存在していないのです。
有無は共に人の概念なのです。
「有無を見ざる」というのは、有無を思わざるということを指しています。
有無を思慮・分別しなければ、有無は眼前の何処にも存在しないのです。
「佛の真身」というのは、佛の真の姿ということです。即心即佛のことです。
「有無を見ない」というのは、有無について思い・考えないということです。
「有無を見ない」というのは、有無の思い・考えが生じる以前の心が佛の真の姿ということです。
有無の思い・考えが生じる以前に、心の中に有無が有るか否かを観察してみることです。
自分の頭の中のことですから、詳細に観察できるものと思います。
有無はこの宇宙の一つの真理のように見えますがそうではないのです。
有は、有る・存在するという意味です。
無は、無い・存在しないという意味です。
「有る」は無いが前提の言葉で、「無い」は有るが前提の概念なのです。
有も無も相互の概念が前提でなければ成り立たないのです。
相対的な概念であって、有も無もそれぞれだけでは意味不明であり成り立たないのです。
この二つは、片方が生じると、もう片方も生じ、片方が滅すると、もう片方も滅するのです。
有無の二つは絶対的存在である森羅万象の中には何処にも存在しないのです。
この二つは概念であり、見解でしかないのです。
この「有無の二つを離れば・・・。」というのは、人の見解を止めれば、人の思量するのを停止すれば、頭の中で文字(言葉)を用いることを止めれば、という意味なのです。
これは有と無の二つの見解を停止すればというだけでなく、有無に限らず人の概念を用いることを停止すればということなのです。
相対的に見る、物事を比較する・しないことと理解すると間違います。
人の概念は全て言葉であり、文字を以って表されるのです。
文字を用いない概念はなく、言葉を用いない思量はないのです。
有も無も概念なのです。
「有無を見ざる・・・。」というのは、概念を用いない、有無で象徴される思量をしないという意味です。
この思量をしなければ、必然的に絶対的存在である佛の真の姿を見ることとなるのだということを説いているのです。
「どうして有無を見ないことが、佛の真の身(姿)を見ることになるのでしょうか」という質問がありますが、佛の真の身(姿)は思量の無い精神世界そのものだからです。
有無が無い処に佛の真の姿を見ることができるのです。
人の概念の無い精神世界が佛身が法界に充満し遍く一切群生の前に現ずという世界なのです。
有無という概念が生じなければ、無分別の分別の作用が明らかなのです。
誰でも明らかに知ることができるのです。
「有は無によって成り立ち、無は有によって顕現する」というのは、
有という概念は、無という概念が前提としてあるから生まれるのですということです。
無という概念がなければ、有という概念は存在しないのです。
有無というのは、人の思想であり概念であることを知らなくてはなりません。
事実を指し表す言葉ですが、あくまでも言葉であり言語なのです。
言葉は事実になり得ないのです。
事実は言葉を離れて初めて得ることができるのです。
「佛の真身を見ることは有無を見ないことである」というのは、このことを説いているのです。
左右というのは人の概念であり、思想であり、文化なのです。
左が無ければ右は無いのです。
右が無ければ左が無いということと同じです。
軽いが無ければ重いが無いというのも同じことです。
有と思う時に、人は瞬時に無の思いが生滅しているのです。
多くの人はこのことに気付いていないのです。
「有」のない無は、人の概念としてあり得ないのです。
佛というのは、思量分別の生じる以前の心(精神)を指します。
無分別の分別心のことです。
無分別の分別心の作用が、無分別の分別です。
それが佛性の作用と言われるものです。
佛性は、無分別の分別心のことです。
佛性の存在は誰も覚知することはできないのです。
人が事実実際を覚知するのは、必ず五官(五感覚器官)によって行ないます。
佛性は五官のどれでも覚知することはできないのです。
私達は佛性の作用は覚知できますから、佛性の存在は佛性の作用で間接的に知ることができるのです。
私達は佛性の作用を覚知することをもって、間接的に佛性の存在を証しているのです。
例えば、岐阜県神岡鉱山地下1,000mに設けられたニュートリノ観測装置カミオカンデは、陽子崩壊を実証する為のものです。
我々人間はニュートリノの存在を直接覚知できる手段を持っていませんから、間接的に陽子崩壊を実証するのです。
陽子が崩壊する際にニュートリノが放出されるのです。
ニュートリノは物を貫通する能力が高く、他の物質と反応することなく簡単に地球を抜けていってしまうのです。
しかし、稀に物質と衝突することがあるのです。
カミオカンデは稀に生ずるニュートリノの衝突を検出することで、間接的に陽子崩壊を実証するのです。
カミオカンデの内部には超純水が貯められていて、超純水の中でニュートリノが電子に衝突した後に、高速で移動する電子より放出されるチェレンコフ光は青白く発光し、壁面に設けられた光電子倍増管で検出されるのです。
青白く光るチェレンコフ光によって間接的にニュートリノの存在を感知できるのです。
それによって陽子崩壊が実証できるのです。
陽子崩壊時にニュートリノは放出されるのです。
この因果関係は実証されているのです。
佛性の存在の実証は、佛性の作用を覚知することで私達は間接的に実証するしかないのです。
佛性は利他性となって現れるのですが、その利他性を私達は直接見ることも、触れることもできないのです。
佛性は、利他心或いは利他性となって顕現するのです。
しかし、私達凡人は佛性の全部を見分けることはことはできません。
私達凡人は、佛祖の利他性の一部しか知ることはできないのです。
佛祖の利他性は宗教上の利他的行為・言動として知ることができるのです。
私達は純粋な利他性と互恵的利他性の区別をすることはできません。
純粋な利他性は、利他心に於ける利他性です。
互恵的利他性は、利己心に裏打ちされた見掛けの利他性です。
その区別は、自ら佛祖とならなければ難しいのです。
佛性の存在の実証は、陽電子崩壊の実証ニュートリノの実証とよく似ているのです。
間接的にのみ、その存在を実証できるのです。
その作用でしか実証できないのです。
利他心、利他的言動、利他的行為等々で、私達は知ることができるのです。
それらは佛性の顕現なのです。
しかし、利己心を満たす為の見掛けの互恵的利他性の行為を見抜くことは容易ではないのです。
この真身とは、佛性のことです。
佛の作用であって、私達は直接、佛及び佛の性を覚知することはできないのです。
「有無を見ざる時」は、「思量を離れた時」という意味です。
その時に人は佛の真の姿を、作用を通して知ることができるのです。
佛性の作用に直面するからです。
佛そのものを覚知するわけではありません。
有る無しというのは事実と考えている人がほとんどだと思いますが、有る無しは眼前の事実を指しているのですが、有る無しと思うことは事実から離れることなのです。
有る無しと思わず、有る無しの事実を覚知できるのです。
一般の人の有る無しは、有る無しという思想なのです。哲学思想なのです。科学思想なのです。
我々は言葉をもって事実を取り上げる以上、それは全て思想となってしまうのです。
このことが、一般人はほとんど理解できないのです。
有があるから無があるのです。
無があるから有があるのです。
これは概念であり、思想ですから、このような循環論法が成り立つのです。
以上は思想ですから、当然、その逆も循環論法として成り立つのです。
「但だこの二見を離る」というのは、有という見方、無という見方、この二つの見方・考え方を止めるということです。
見解・考え方・見方を止めると、佛の真の姿を見ることができるのです。
「即ち是れ佛の真身を見るなり」なのです。
問い
「只だ有無の如きすら尚交わるべからず、
真身を建立すること、復何れより立つるや。」
「しかし有無さえも交わることがないのでしたら、真身を立てるといっても、いったいどのようにして立てるのですか。」
有無を離れるから尚交わるべからずと訊いた。
真身を建立することは真身を見ることを指す。
答え
「問い有るが為の故なり。
若し問い無き時は、真身の名も亦立つべからず。
何を以ての故に。
譬えば明鏡の、若し物像に対する時は即ち像を現ずるも、若し像に対せざる時は、終に像を見わさざるが如し。」
あなたが質問するからだ、若し質問がなければ真身という言葉も出なかった。
何の故に問うたか。
質問がなければ、私は答えはしなかったのだ。
明鏡のように直に縁に感応しただけのことだ。
人はそのようになっているものなのだ。
明鏡は物像に対する時は、即、像を明鏡の中に現ずるも、若し、像に対峙しない時は、明鏡の中に像を見ることができないというようなものです。
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